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信条・Statement of Faith

フィラデルフィア近郊 スワスモア, Apr. 2010
♪Today's Sharing♪

Apr. 2011

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



March 2011
February 2011 January 2011 December 2010 November 2010
October 2010 September 2010 August 2010
ちびのザアカイ 光の及ぼす影響 貧しい未亡人
2千年前のコミュニティ 遺産相続 グッド・フライデー 3つのRe-
暴言の人、都知事選4選 エクササイズ よくある占い、実は。。。

自慢話しと反面教師

”出来ません”と断った
10代の頃
日本の政治家を責めるより 迷子の羊 日本にとっての隣り人
家の土台 部下思いの上司 借金帳消し 「〜しかない」と「〜もある」の違い

4/30/11 ”貧しい未亡人”
「イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。ルカによる福音書21章1-4節

 現代、未亡人、やもめという言葉を知らない人がいるかもしれない。夫に先立たれた妻のことです。男性の場合は男やもめといったり。昔は、現代のように再婚がよくされる社会ではなかったし、女性が仕事を自由に持って稼げる時代でなかったので、だいたい夫に先立たれた妻は生活に困った人が多かったようです。ですから聖書のなかに、”孤児とやもめの世話をしなさい”という神様からの困った人への配慮が戒めとしてかかれています。
 イエス様は、ある貧しいやもめが小額の小銭を神殿にそなえてあった賽銭箱(献金箱)へささげていたところに目を止め、”彼女がたくさんささげた”といわれました。その横で金持ちが、人が見ているのを意識し高額のコインをジャラジャラと投げ入れていて、一般の人はそれを見て、”ああ、あの人はたくさん神様にお金を捧げられるから、神様の目から見て報酬があるだろう、天国へいけるだろう”と思われていた時代です。しかし、神様は金額に目をとめられるのではなく、その人の心の態度、信仰を見られます。やもめは、金額は少なくても、手持ちを全てささげられたのは、きっと明日以降は神様がなんとか養ってくれるだろうという信仰があったのでしょう。イエス様はその信仰を見られたのだと。献金額や慈善の行いではなくて。
 今日の下記の聖書の箇所を読み、このやもめのように、神様に経済的にも先のことを任せる信仰を頂きたいと思わされました。なぜなら正直ふと収入のことでため息をついてしまうことがあるから。足りなくなったら、その時点で必ず神様が養ってくれると思い煩わず信頼できるように祈り、しかもこの不況でアメリカで仕事があるだけでも、どんなに恵まれていることかを感謝しつつ。
4/28/11 ”光の及ぼす影響”
「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」ヨハネによる福音書1章4-5節(この言とは=イエス・キリストを指します)

「皆さんの生活のなかで、光の効用、光は私たちの生活にどんな影響を及ぼすと思いますか?」と、私が開いているある聖書の学びの中で、この質問をオープニングに投げかけ、皆さんから色々意見を頂きました。当たり前のようにある光、太陽の光/人口的な光でも、私たちはどんなにか日常生活で恩恵を受けているか、私がこの質問をした理由は、聖書ではイエス・キリストを”人の光”と表現しているからです。イエス・キリストは世の中の暗闇において、また一人一人の心の暗闇さえも、それを照らす光としてこの世に来られました。光はいいものです。そして暗闇は一般的に光にかてません。どんな小さなあかりでも、その周りを照らすように、ましてやイエス様の存在は光であって、この世の暗闇のなかで人々の希望の光となり、一方で物理的に照らすだけでなく、精神的な心の深い魂の部分まで照らして下さる方としても皆さんに、学びでもイエス様を紹介。
 一方、悪は暗闇を好みますし、暗闇のもとに行われることが多いです。彼らにとって暗闇や隠しておきたいところ照らされると嫌ですし、まぶしいから避けようとしてしまいがちです。光は都合の悪いところも明るみにだします。(例えばお肌のしみも大きいライトだと隠せませんね。。。)しかし、まぶしさは一度目がなれるればよく見えるようになります。心の部分でいえば、暗闇を一度光の前にてらし出されると、実は楽になるのです。なぜなら自分のうちにもはや暗闇を持つ必要がないからです。
 犯罪とはいえないレベルであっても、隠し事を持つこと、人に言えないでいることを抱えているほど実は自分のなかで辛い事はないです。イエス様にはなんでも相談可能です。それを光にだすことと同じです、そうすると、イエス様はその暗闇の部分をどうしたらいいかの解決方法に導いてくれますし、また自分の内側の赦されていない罪があれば、どんな罪でも赦してくれて、自分を責める思い(罪責感)から開放して下さるのです。キリストはそのために代わりに十字架にかかって死んでくださいました。そして3日後によみがえり、天国戻られ、今一人一人のために24時間365日、時空を越えて、ケアし、祈りを聞かれてくださる方なのです。
 祈りは直接、一人で部屋でイエス様を通して神様にお祈りできますし、もしくは”二人または三人、私の名前:イエス様の名で神様に祈るときには、私もそこに(目に見えないけど)いる”といっていますので、信頼できる人とコンフィデンシャルに自分の暗闇を共に祈ってもらうことも可能です。祈りはコミュニケーションです、懺悔というイメージがありますが、それは部分的であって、それ以上にもっと神様に信頼し親しく相談し、助けてください!といえるすばらしいコミュニケーションの手段です。私はこれをもっともっと、活用していきたいなと感謝しつつ思わされました。私の暗闇はすぐに小さいことですが、心のなからわいてきますから、それを小さいうちに、イエス様の光で照らしていただいています。信じていないかたでも、神様をまずは信頼し、祈り求めることから、お勧めします。
4/26/11 ちびのザアカイ
「イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。 19:6そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。」ルカによる福音書19章5-6節 

 私が子供の頃、サンデースクール(教会学校)で”ちびのザアカイ”という話を聞きました。背が低いので、イエス様を見ようと木の上に上っていると、イエス様に声をかけられたという話。木に登るなんて、おサルのようでおもしろいと子供ながらにその光景を思い浮かべたものです。彼は取税人のかしらで、金持。取税人とは、当時ユダヤ人はローマ帝国の属国となって支配されていたので、この敵国ローマにいやいや税金を納める、その取り立てやのことをいい、同胞のユダヤ人が任されていました。さらに、取税人は不正な高額の手数料をとっていたので、人々から非常に嫌われていたのです。まあ今で言うと、サラ金のようなものでしょうか。
 ザアカイはどうして、”イエス様を見たい”と思っていたのかなと。彼は他の大勢の人のように何か病気を治してもらいたかったわけでもなく、悪霊にとりつかれて苦しんでいたわけでもないのです。ただ社会から嫌われていた。イエス様は、当時社会的に疎外されていた、見下されていた人々に接し、一緒に食事をされていることが記録されています。彼は、元仲間のマタイがイエス様の弟子になったことを知っていたはずです。12弟子の一人、マタイは元取税人でしたが、ある日突然イエス様から”私についてきなさい”とスカウトされ、全てを捨ててそのままイエス様に従ったのです。”なぜそんなことをしたんだろう?イエスという男の何がそうさせたのか?”と、きっと彼も何か心の深いところでの、何か自分に欠けているものを求めていたから、わざわざ、いちじく桑の木に登ったのでしょう。するとなんとイエスさまは、その場所を通るとき、上を見あげて「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。(5節)といったのです。
 ザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れ、盛大なもてなしをし、おのずと悔い改めたのです。今まで不正にとりたてた人には4倍にしてかえすし、自分の財産の半分を貧しい人にあげるとまで。ものすごい悔い改めです。イエス様は「今日、救いがこの家にきた」9節といわれました。イエス様はたとえ社会からみて、やくざみたいな人でも、求めている人には必ず声をかけてくださる方なんだと。現代では、イエス様は直接現れないけれども、誰か、心の奥底に満たされない思い、深い悲しみ、苦しみ、切なさ等を抱えている人で、それを解決し満たしてくれるものを求めている人がいると、イエス様を信じる人を使って、また聖書のことばを通して、「〜さん、降りてきなさい。あなたのところへ寄るから!」といってイエス様のほうから尋ね、救いにきてくれるのです。その招きをシンプルに受け取るところから、始まります。そうすると、ザアカイさんのように人生が180度変えられるというすばらしさ。私も、種類は異なるけど、以前心の深いところの満たされないものをづっと、うめてほしいと求めていて、ようやくイエス様が尋ねてくれて、心を満たしてくださり、暗い罪にはまった状態から救ってくれました。本当にうれしかったです。今日も、世界のどこかで誰かがイエス様と出会えますように祈りつつ。
4/24/11 ”3つのRe-”

今日はイースター、キリストの復活をお祝いする日ですが、多くの人にとっては、歴史上の人物、イエス・キリストが十字架で死んで、三日後によみがえった(復活:Resurrection)と信じている宗教の行事と思われるかもしれません。私は個人的にキリストを信じることはNot Religion, But Relationship with God, 宗教ではなく、神様との愛の関係だと信じています。なぜならそのキリストの十字架と復活のおかげで、3つのRE−が与えられているからです。それを少しご紹介。
@Re-Born (Born again) 新しく生まれる
ARestoration of Relationship 回復関係
BRe-creation 新しくつくりかえられる
そして最終的には→Resurrection (いつの日か自分もよみがえる)
 @私はイエス・キリストが私の罪(主に心の内側の苦い思い、人を赦せない心や、神様を無視して自己中心に生きていきたこと)に気づき、あるとき”神の前に悪かった”と認め、赦される必要があると思いました。どこも悪いと思わなければ赦される必要がないわけで、キリストは必要ないのです。でも私は必要だったので、キリストがこの私のために十字架で罪を負って死なれたことを信じました。すると感覚では何もおこりませんでしたが、霊的に新しく生まれたのです。神様の霊(聖霊)が内側に与えられて住み始めたから。洗礼式というのがありますが、これはようは古い自分へのお葬式と新しく生まれたことの象徴で、みなの前での良心の誓いです。
 A新しく生まれると、今まで神様と断絶していた状態がキリストのおかげで回復されます。最初の人間のアダムとエバが、神様に従わないで、自分の欲求にしたがい善悪の木の実を食べたときから、人間は死んでしましました。肉体が即死んだのではなく、霊的な死のことで、そしてそれ以来DNAに神様に従わない・神様の存在を否定という根本的な罪が入り込み、この罪のせいで神様と人間の間に大きな断絶が生じました。キリストは十字架と復活により、その断絶を回復してくれました。キリストのおかげで、この罪が赦されたため、神様との愛の関係、信頼関係が与えられました。子が完全な親(人間にはいませんが、もしいたとしたら)の愛をうけ、信頼して何でも話し、安心して信じて任せるような関係。天の父が私に良くしてくださるという安心と、また人間関係のこじれに対しても、助けを与えてくれるという希望。それまでは、全部自分人生全て自分でがんばる。疲れました。だから、ほっとしたのです。もう一人で人生の重荷をしょわなくていいんだと。
 B この三つのRe−によって、さらに二つの希望のRE−が与えられました。ひとつは、信じたら終わりではなく、この肉体で生きている間も、キリストを復活させたと同じ神様の力で、私の内側もキリストのような愛の性質に作り変えられるということ(Re-creation)。古い自分のままでなく、態度・姿勢・言動が少しづつ、時間がかかるけれども一生かけて変えられていくという希望。二つ目の希望は自分自身の復活(Resurrection)。いつかイエス・キリストが再び来られるとき、魂のままではなく、復活して新しいからだが与えられ、天国で永遠に神様・イエス様と生きれるという希望。(永遠というと退屈?と思う方、イエス様によると天国でも何かそれぞれに応じて任されるそうです)この復活の体は不滅ですし、もう痛みや苦しみ、悲しみも天国にはなくて、結婚もなく、天使のようだとイエス様はいっています。(羽ははえてないと思うけど)
 とってもいいニュースだと思うので、体験していいものは人に分かち合いたいものです。(まだ復活は将来のことで体験してませんが)イースターが単なる、慣習的宗教行事として祝われるのではなく、本当の復活の意味と意義を一人でも多くの方が知って、キリストを通しての神様の愛を受け取れますように。これは神様からの,全ての人に差し出されているプレゼント。これを受け取ってほしいなというのが神様の願いです。Happy Easter!
4/22/11 ”グッド・フライデー Good Friday”
 「・・・キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」ルカによる福音書24:46-47

今日、ある患者さんが予約より少し遅れてきて、「ごめんなさい、今日はGood Friday(グッド・フライデー)で礼拝があったので、遅れてしまったわ」と。彼女は80歳近いですが福祉分野の事務所で働いているそうで、とても素敵な女性です。たまたま今日の患者さんのうち、話しているうちに二人がクリスチャンだとわかり、帰り際に"Happy Easter!"イースターおめでとう!とその言葉の意味を理解しつつ挨拶を交わせました。
 グッド・フライデーとはイースター(イエス・キリストの復活祭)の3日前の金曜日のことで、意味をよく知らなくてもアメリカでは文化として浸透していますが、日本ではなんのことだろう?と思われるかもしれません。イースターとは、イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、3日目によみがえったのがちょうど日曜だったので、それ以来、クリスチャンの間では日曜に礼拝に集まるようになっていったのですが、(本当は毎週祝ってもいいくらい重要なのですが)特に年に一回その復活を覚えて特別に礼拝をし、お祝いする日です。(イースター・エッグとかウサギは他宗教の春祭りからきていて、だからこの時期になったそうです)
 金曜日の日、イエス様は十字架にかけられて苦しまれて死なれました。復活は@神様との関係の回復がキリストを通して与えられます。つまり、キリストの福音を聞いて信じる者に、悔い改めが与えられ、その罪が赦され、神様から断絶していた状態が回復されます。A復活は新生が与えられます。たんに、あの世のことを考え、現世を刹那的に生きるのとは異なり、この世の生活も永遠へと続いています。なぜなら、キリストが死に打ち勝ち復活されたと同じ神様の力で、そのことを信じる人がこの世に生きている間も、新しく歩もうと決めると、キリストのような性質に変えられていくとという約束が聖書に書いてあるからです。Bそして復活は将来への希望を与えてくれます。その希望とは私たちもいつかこの体は生物学的に死んでも、魂は生き続け、イエス様がまた将来戻ってくるとき(再臨,Second Comingといいます)に、キリストが復活されたように私たちも不死の天使のような新しいからだが与えられ、天国で永遠に行き続けられるという、希望があります。
 今日の箇所のように上記のグッドニュース(福音)がエルサレムから始まって2千年たち、全世界へ述べ伝えられつつあります。このイースターの週末、キリストの福音を多くの人にわかちあいたいと願います。
4/20/11 ”遺産相続”
「ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」ルカによる福音書15章12-13節

 4月3日づけニュースで世界的アクションスター、ジャッキー・チェンが全財産(約260億円)を日本の震災を含むチャリティーに寄付することを宣言したとのこと。彼は中国で最近おきた地震の時も、かなりのお金を寄付しており、このような慈善行為は誰でもできることではないし日本人としても本当に感謝です。興味深いことは、同時にジャッキーは長男で俳優のジェイシー・チャン(28)には全く遺産を残さないとも発表。全く??なぜ?息子はすでに金持ちだからですかね(笑)普通は親は自分の子供がいれば遺産として残すし、民法の親族法でも特に遺言の指示がなければ、親族への財産分与比率が定められているからです。
 今日の箇所は、イエス様のたとえ話(放蕩息子)です。ある人の二人の息子がいて、弟のほうがいきなり、父に、生前に財産分与を求めてゲットし、間もなくそれを全部放蕩で使い尽くしてしまった。弟はひもじくなり、金の切れ目は縁の切れ目でだれも助けてくれない、どん底状態になって、ふっと”われに返り”、「そうだ、父に謝ろう、"神様に対しても父に対して罪を犯しました、もう息子の資格はないけど、使用人扱いでもいいから"と言おう!」と思いました。家に帰ると、父は遠くのほうから、息子がとぼとぼと歩いてくるのを見つけ(つまり毎日、遠くをみて息子が帰ってこないかなと待っていたわけです)、走りよってハグし、大喜びで、息子が帰った〜と大パーティを開き、もちろん息子として再び迎えたという話しです。
 このたとえからわかることは、私たちを愛してくださる神様=天のお父さんは想像を絶するほど、寛容、子供である私たちを愛してくださっているのです。私たちが生きている間どんな状態でも、何を世間に対して、人に対してしてしまったとしても、このように、ある時点で自分から自発的に”悪かった”と認め、”父のもとへ帰ろう”というのを人間一人一人に対して神様は毎日待っているのです。しかし、神様の子供という特権を受け取るかどうかは、人に強制はしませんし、私たちの意志は尊重されます。また、自分が完全で、悪くないと思われるのであれば、神様に赦される必要はないし、イエス・キリストの十字架の犠牲とは関係がないのです。しかし、われに返って自分が悪かったと気がつくこと、これが神様に対しての悔い改めです。今までは自分を創って、愛してくれている神の存在を無視し、”自分の人生自分で生きるのが何が悪い、神は時々困ったときだけ自分の思うとおりに助けてくれる存在であれば、あとは不用”という自分中心の生き方、神様を無視していた心から、180度ユーターンすることです。
 この箇所を読むたびに、私も、放蕩息子だったと思い出します。それもU−ターンをしたつもりでも、その新しい方向へと確実に歩みだすまで時間がかかりましたし、その道のりにおいてもジグザグ、スムーズにいかないものです。それでも、神様はいつも軌道修正してくれたのです。そしてこれからも。復活されたイエス・キリストが天にいて今でも私たちと神様の間をとりなしてくれると同時に、私の心の中に聖霊(神の霊)を与えてくれて、助けてくれます。本当に今生きている自分は全てのことにおいて、自分で獲得してものでなく、神様から与えられいること、それを放蕩で使い尽くさず、失敗しつつもイエス様に従っていきたいと思います。
4/18/11 ”2千年前のコミュニティ”
「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。 」使徒行伝2章42節

 今日ニュースで、釜石市にある教会が、先週日曜に震災後初めて礼拝堂を使って礼拝を行えたという記事を読みました。幸いこの教会はまだ建物が残っていたそうで、また礼拝とは別に教会の敷地内にテントを張り、全国から送られてきた物資を地域の人に配っているそうです。政府からの支援金が分配されるのにまだまだ時間がかかる一方、このように教会やNGO等の小さいグループが個別に物質的支援の提供や肉体労働を伴う清掃等を地域ごとに行っているのはすばらしいなあと思います。
 約2千年前、初代の教会はイエス様が復活されて天国へ行かれた後、イエス様を信じた人々のコミュニティから始まっています。最初は誰かの家に集まり、次第に教会という大きな集まりになっていく。このコミュニティではイエス・キリストが言われたことを忠実に守ろうと、使徒たちの教え(つまりイエス様が弟子たちに教えたこと)を信者に教えてそれを守り、フェローシップ(キリストを中心とした信徒の交流)、聖餐式(パンをさく)、そして祈っていたというのが今日の箇所です。彼らの生活態度は、信者内だけでなく、その当時の”すべての人に好意を持たれていた”(47節)と書かれています。
 教会とは建物でなくて、キリストを信じる人の集まりをさし、聖書では教会とはキリストの体であるとも書かれています(体はたくさんの器官から構成されるように、教会も個々人がその集まりのなかでキリストのために様々な役割で器官として働くから)。たとえ、災害等で教会堂がなくなっても、信じる人が集まり、この初代教会のようにこつこつと、イエス・キリストが言われたとおりのことやっていけば、教会は健全に成長し、この東北地区でも教会というコミュニティが、周りの人々へも希望をもたらす光となってほしいと願いつつ。
4/17/11 "自慢話と反面教師"
私は子供ながらに、自分の自慢話をとうとうとするある大人の姿と、回りの人も仕方なく聴いている様子を見て、こうはなりたくないと思ったものです。そういうのを見て、自分は絶対自分の自慢話しはするまいと。たまにならまだしも、いつも自慢話ばかりする人は他者を遠ざけます。自分が大人になってみると、自慢とまでいかなくても、おのずと社会的にも、教会のなかでさえも自分のことを認めてもらいたい、見下されたくないという思いが自身の心の中にうまくプライドとくっついて潜んでいることに気がつきます。また、アメリカに住んでいるとハウスメートにも英語で自分の表現したいことがうまくできなくてもどかしくなったり、また仕事上でも自分の英語が通じなくて相手からばかにされる態度をとられることもあります。そして後で心のなかで、”今度相手にこういおう”;とリハーサルしますが、それを言い出せたことがありません。そんな自分をなんとも情けなく思うのです。
 今日の箇所はイエス・キリストが宴会に招かれた場合自ら上席に座らないこと、なぜなら、後で別の人を上席へ座らせたいので譲って下さいとホストから言われる可能性もあるので、最初から末席についておけば、後で上席にお進みくださいといわれたら座るほうが恥をかかなくていいでしょ、という文脈です。席の話はたとえで言わんとすることは、自分を偉いと思う人、自分はこういう役職だから、家柄だからほめられるにふさわしいんだと自分で誇る人やプライドが高い人は低くされ、逆に自分はふさわしくないと謙遜になる人は、その人がアピールしなくても、周りがその人を認めて高めてくれるということでしょう。会社でもそういうことってありませんか?
 イエス様ご自身も、神の子であるのに本当に自分を低くして、人々に仕えるために人間として生まれてきてくれました。”人の子(ご自身のこと)は仕えられるためではなく、仕えるためにきたのだ”と、弟子にも言われ、神様からのミッション(十字架で全人類の罪に対する罰を代わりに負って死なれる)に従い通しました”おれは神の子なんだぞ!”という態度は一度もとられずに。ですから、神様はイエス・キリストを死んで3日後によみがえらせて、天国に引き上げられて、高められたのです。自意識が高くなり、認められたいという思いが少しでも心の中にわいてきたら、いつもキリストの謙遜な姿勢:自分はどうであれ、低くなって仕えるとは具体的にどういうことかを生活のなかで学ばさせてくださいと祈る必要が毎日あるなあと。
4/15/11 ”よくある占い、実は。。。”
 日本で多くの人々は占いを真剣に信じなくても、雑誌にそのコーナーがあれば興味を示し一応見てチェックする方も多いと。真剣な人は特定の占い師に通っていたり。実は、占いがなぜ当たることがあるかというと、これも実は霊がついていてある程度のことを教えるからです。一方、易は統計学であり、霊とは関係ないとの見方もあり、いずれにしても占いを見てしまうことで、自分に”そうなるかもしれない”と暗示をかけて、将来のことへの判断に影響をもたらす可能性があるでしょう。
 私が子供の頃、”こっくりさん”や”キューピット様”という十円玉に指をのせて動かすという、変な遊びがはやったことがあります。私は友達とそのキューピット様を試し、だれも力を入れて動かしていなくても十円玉が動き、示された数字へ霊が答えて進んでいくので(例えば何歳で結婚するかとか)面白半分で試していたのです。子供ながらにちょっと怖くなって1−2度やってやめました。霊を信じない方が多いかもしれませんが、神様も霊(聖霊)でもあり、一方悪霊といわれる、聖霊の側にいない霊が存在し、ハリウッドのオカルト映画に出てくるような現象も、私はあったことはないですがありうるのです。また占い、キューピット様も悪霊の側で、絶対やらない、また占いは見ないことを強くお勧めします。必ず心に悪い影響があります。もちろん信仰を持ってから、子供時代知らなかったとはいえ関わったことを神様の前に悔い改めました。聖書でははっきり、悪霊のプラクティスである占い、霊媒(いたこ)等は神様が禁止しています。
 今日の箇所は古代ユダヤの王が、神様に従わずどんどん悪い状況になり、違法とされていた霊媒者(いたこ)を使って、死んだ預言者サムエルを呼び出して助けを求めたという、聖書のなかでも興味深い箇所です。もちろんサムエルは神の預言者ですから、悪霊の側ではないですが、なぜか霊媒に呼び出されることが許可されて登場、”なぜ、呼んだんだ!”とサウル王を叱責します。とにかくサウル王は神様に従わず、己のプライドと王としての面目、欲求、権力をふりかざし、時期の王として神様から任命されたダビデを殺そうと執拗に追跡し、最後まで神様に逆らい、とうとう霊媒まで使って、自分の将来がどうなるか聴く。結局、自分がこのあと敵軍(ペリシテ人)との戦いで死ぬことを言われてしまいます。
 4月24日はイースターの日です。イエス・キリストが十字架で死なれ3日目によみがえられたことを記念して全世界で礼拝が持たれます。クリスチャンでなくても慣習として、子供達がエッグハンティングといって御菓子のはいった卵を探し集める行事が行われます。(卵とイースターは実は全然関係なく他の宗教行事とキリスト教がくっついたもの)今も復活されて天国で生きておられるキリストを信じると聖霊が心に与えられます。その聖霊はその人の毎日の生活を導き、守り、罪があれば示してくださり、心をキリストのような愛の性質へと変えてくれるヘルパー(助け主)です。またこの聖霊の力により、イエス・キリストのことを証しし、伝えていけるのです。神様との良い関係を阻み心を破壊へと導く悪霊的なもの(占い、オカルト映画も含み)とは一切関わらず、平安と希望・愛をもたらす、この聖霊により頼んで日々を過ごしていきたいと思います。
4/13/11 ”エクササイズ”
「何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。」「ただ、御国(神の国)を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。」ルカによる福音書12章22, 31節

 私は若いころから、よくフィットネスジムへ行ってエクササイズをしたものです。多い時は週に3−4回、プログラムをある程度決めて、目標体重、体脂肪に向かってこつこつとひたすら運動するのです。すると、大体成果がでて、もっと頑張ろうという気になる。ふと、シャカシャカ、トレッドミルで走っている自分を鏡で見て、”何が自分をこの行動に駆り立てるのか?”と。後年はダイエットというより、病気にならない体づくり、脱メタボを目指そうと思って食べ物も気をつけて運動したつもりですが、努力もむなしく思いがけない病気になりました。今となってはジムへいくこと、食べ物に拘ることへの興味は消えました。
 ”からすや、野のゆりをみてごらん、からすは蒔いたりしなくても、食べて生きていけるし、ゆりは自分で何もおしゃれしなくたって、美しい、ましてや神様は人間にはそれ以上によくしてくれるんだよ、だから体の事、命の事で思い煩わないこと。それより、神の国を求めなさい、そうすればこれらのものはすべてそえて与えられるよ”とイエス様はこの前の箇所で話されています。神の国を求めるとは、ようは神様、キリストを信じる人の心のこともさします。イエス様は「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われたからです。つまり心の中にあるということ。
 ”国”というのは領域・統治を含みます。つまり、神様を信じる人の心の領域、神様が治める領域が神の国。神の国を心に持つとどうなるかというと、例えば、神様に信頼して生きていける、そして罪が赦され、何度も失敗しても自己嫌悪にとどまらず、神様の霊(聖霊)が心に与えられ、だんだんキリストのような愛のある性質に変えられると希望がもてる。また困難が起こって絶望しそうになる時、神様が導いてくれてなんとかなると将来への希望が持てる。こういう心が私にも、そして他の人にも広がっていくことを第一に求めれば、自分に必要なことは与えられるから思い煩うなと。
 私は、生活・人生のことでよく落ち込みそうになるとき、タイムリーにいつもこの聖書の箇所が与えられ、励まされるものです。時には牧師の説教から、ある時は毎日順々に聖書を読んでいるだけなのに、まるで計画されたようにちょうど”今”私に必要なことばにあたるのです。神様のことばは生きているんだなあと、そのたびに感動し、やっぱカラス以上に自分のことをケアされていると気付き感謝です。。
4/12/11 ”暴言の人都知事選4選”
「ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。 」ルカによる福音書11章32節 (イエス・キリストの言葉)


 新宿区の都庁の外壁など計10カ所に、都知事選で4選を果たしたばかりのI氏を中傷する内容の落書きがされていたとニュースでみました。黒や赤のスプレーで「津波は天罰 石原慎太郎」「我欲」などと記されていたそうです。これは、津波直後にI氏がした”津波は天罰”という発言に対してで、もちろん撤回謝罪はしていますが、I氏の暴言は今回に限ったことでない、にも関わらず都知事に再選が現実です。(しかし落書きをすることは良くないと思います。)
 災害や病気等の艱難が起こると、それをすぐに天罰だとか、行いが悪かったからだと責めるのは古今東西ありがちな心理的現象ですが、被害にあった人々にとってこの言葉は2重3重の苦しみなのです。それでなくても、目の前の状況に絶望してい、また自分自身でも”きっと〜だったから、自分はこうだったからこういう目に。。”と責めがちで、精神的に苦しんでいるのに、さらに他者からの”おまえが悪い、罰だ”みたいな言い方ほど、追い詰める言葉はないです。
 これに対し、キリスト教のコアのメッセージ(福音)は、私が何をしようとも、罰を受けなくてすむということ、それはイエス・キリストが、私の全ての罪のために十字架で代わりに罰せられ、死んでくれたからです。この福音をシンプルに信じると救われ、死んで天国で永遠に生きれる、一方、かたくなに信じない人は裁きのとき、自分のしたことをすべて自分で弁明し責任をとることになります。イエス様は教えのなかで、愛の教え、福音を話しますが、同時にはっきり裁きがある(この世の終わりのとき、神様が全ての人を裁くときがあること)も話しています。ある教会は、罪からの悔い改めとか、裁きがあることは牧師が恣意的に話さないところがあるそうです。それは耳障りが悪いし、聞く人に恐れを起こし、離れてしまうのではないか、神は愛だといっておけば無難とするからでしょう。 それでは本当の福音ではないのです。
 今日の箇所は、古代の中東、アッシリア帝国の人々が、ユダヤ人のヨナという預言者が宣教にいって、たった一言「悔い改めなければ滅びる」と言われ、王様から庶民までが皆悔い改めました。当時アッシリア帝国というのは武力で近隣国を征服し、捕虜の人たちの鼻や耳、指をそぎ落とすという残虐さが考古学の遺跡にも残っている、そういう人たちでしたが、イエス・キリストが地上にくる前であっても、このシンプルなメッセージで自分達の行いを悔い改めたのです。悔い改めのコアとは神様に背を向けていたの姿勢を、神様に180度向き、その生きる姿勢が変わること、つまり神様・イエス・キリストを信じて歩むことです。神様はすべての人が救われてほしいと願っている、最後まで。この愛のメッセージに応答すると、この”耳障りの悪い”とされる聖書のことば、恐れとはなりません。逆に、本当にほっとします。”天罰”という考えは恐怖と強制をもたらします、それに対し、その神様の大きな愛は、平安と信じて任せていこうという心が与えられます。恐れで”信じろ〜”と脅すのでなく、何が何でも神様の人に対する姿勢は愛なのです。
4/10/11 ”日本にとっての隣り人”
「・・・『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。 ・・・「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。 」ルカによる福音書10章27-29節

 今日は午後、プロのカントリーミュージックのミュージシャンで、日本のためにチャリティーコンサートを開き、その募金を私の通う日本人教会を通して日本に送りたいといってくださるグループのコンサートに行ってきました。そのミュージシャンはアメリカ人で、奥様が福島出身の日本人、私はその奥さまとは教会を通しての友人です。とても明るい、楽しい音楽と、支援してくれる人々の暖かい心が伝わってきて、本当によいコンサートでした。
 今日の箇所は、イエス様がある人より、「何をしたら永遠の命が受けられますか?」と質問されたのに対し、「ユダヤの法律(律法)になんて書いてあるとあなたは読むか?」と逆にイエス様がその人に聞いたとき、彼が『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」と答えた様子です。そして、さらに「私の隣り人とは誰ですか?」と質問を続けたのたいして、イエス様はあるたとえ話をしました。(下記はこの話をレゴで作成したYou−Tubeです、なかなかかわいいです。)http://www.youtube.com/watch?v=JYV69rWkOfI&feature=fvwrel
 あるユダヤ人が旅をしていて強盗にあい、傷を負って身包みはがされ山道に倒れていた。するとそこにユダヤの祭司と他のユダヤ人(レビ人)が通りかかりますが、無視して通りすぎたのに対し、サマリヤ人(当時ユダヤ人とは付合わないほど仲がわるい民族の人)が通りかかると、彼を気の毒に思って介抱して助け、宿屋まで運んで宿屋の代金や他の費用まで払ってくれたという話です。イエス様はこの話を終えると、「この中で誰が、この強盗に襲われた人の隣り人か?」と再び、その質問してきた人に聞きました。結局、ユダヤ人だけでなく、すべての人間にとって、”隣り人”が嫌いな人、敵だったりすると、なかなか親切にできないのものです。
 イエス・キリストは神様を信じていない人も、自分に敵対する人も、自分を十字架につけた人のことも愛されました。その愛とは、罪によって神様から離れてしまった全ての人間に、神様との関係の回復をもたらすために、イエス様は私たちの罪を負って十字架にかかってくださったことに現れます。そして、天の父である神様の子供として、私たちが永遠に天国で生きれるようにと。イエス様こそ、”あなたの隣り人を愛せよ”という律法を実践し、モデルを示された方です。
 今日のコンサートに来てくれた、またミュージシャンのアメリカ人の方々は、地震・津波・原発で被害にあった日本人を心から気の毒に思って、助けたいという心を音楽という形で示して支援してくれました。かれらは私たち日本人の隣り人だなあと感謝の気持ちでいっぱいです。彼らは日本人を好意的に思ってくれているのです。しかし、困っている相手がもし嫌いな人、敵であったとしたら、それでも相手に良くしようとすると、自分の持ち前の心では難しいのではないでしょうか、いや私にとっては不可能です。しかし、キリストを信じる信仰が与えられるとき、神様の力で不可能が可能になる、求めればキリストのような心が与えられると希望を持ちたいと思いました。
4/9/11 「イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。」ルカによる福音書6章4-6節

 以前、ある方がこうを言いました。「結局、神様は、迷子の一匹を探しにいくために、残された99匹をほったらかしてしまうってことよね」”と。これは100匹の羊を羊飼いが飼っていて、そのうち一匹が迷子になったら、99匹をおいてその一匹を探しに行く”という話しが聖書のなかに書かれていて、それを否定的にとったのです。確かに羊飼いが人間だったら、一匹を探しに行っている間に物理的に同時平行で99匹の世話はできません。しかし、神様は人間を創造した方、被造物のレベルに神様を落として不完全であるかのように考えるのは誤解です。神様は24時間365日、一度に世界の人のことを見ることができるし、祈りを聞くことができるスーパーパワーなわけです。その中で、一人でも人生の道に迷って、苦悩していたら神の子であるイエス様は助けに行ける羊飼いのようにやさしい方なのです。
 今日の箇所はイエス様が自分の生まれ故郷の町に行ったとき、人々がイエス様を信じず、”あれは大工の息子だったのに。。。”と疑心暗鬼になったことが記録されています。確かにイエス様は30歳までは普通の人として生活されていて、宣教活動と力ある技、奇跡を行われたのは30歳から3年半でした。一方他の町での人々は、イエス様の権威ある教えと奇跡の力に驚き、神様をあがめ、病人をイエス様のもとへ大勢つれてきたり、話を聞きに集まっていましたが、故郷では全く人々の態度が違ったのです。
 イエス様はりっぱな信仰のある人にも驚かれますが、このような不信仰にも驚き怪しまれたのです。イエス様を信じる信仰がいつも鍵。イエス様は病気の人みんなを助けてあげたいと思っていても、つれてこられなければ治しようがない。せっかくイエス様は助けの手を伸ばそうとしても、それを無視する場合は、奇跡もおこらないし、神様の恵みを引き出せないのは残念なことです。
 神様の力には限界がないのに、私の不信仰が限界を設けてしまうのだなあと。この羊飼いの話のように、人間のレベルで神様の力を推し量ると不信仰に陥ります。私もよく、イエス様に目を向けず、自分に目を向け、自分の知る限りの能力・推測で神様の力を決めてしまい、「もうだめだ〜」と落ち込んだり、いらいらしがちです。すると、神様が与えようと用意している恵みやよいことが、わたしが背を向けてしまえばブロックされてしまうのです。不信仰に陥らならないよう、日々、聖書のことばを学び、共に集まって祈り、わかちあうことが必要だなと思わされました。
4/8/11  ”日本の政治家を責めるより”
「また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。わたしはまた良い、正しい道を、あなたがたに教えるであろう。」第一サムエル記12章23節(預言者サムエルの言葉) 主=神様のこと
 首相がころころ変わるような日本の政治を批判することはたやすいですが、実際国を治めるのは至難の業です。どんな政治制度がベストなんでしょうか?独裁政治より民主主義のほうがいいように思いますが、しかしどんな制度であれ、政治と権力・お金は切っても切り離せないものです。民主主義の国でも裏で誰かが牛耳っていて、某国は大儀名文をかかげ戦争をおこす、しかし実は兵器産業をもうけさせるために戦争をわざと起こすよううまく操作していることを、あまり皆さん意識しないかもしれません。ニュースは大衆を操作する格好の手段です。
 王国制度をとる前の古代ユダヤ人(イスラエル人)は、神様が直に選んだ預言者や裁き司がが神様から言葉を預かって民に伝え、民を治めるという神政政治の形式がとられていたと聖書に書かれています。ある日、不信仰に陥った民は”私たちにも他の国のように王様をください!”と目に見える支配者を求め、サムエルはその民の要求に失望しました。しかし、神様がサムエルに”民の言うことをとりあえず聞こう、だけどそれなりの悪い面はあるよと”と要求を受け、そしてサウルという人を王に任命するよう指示しました。神様は人の希望も好ましくないとわかっていても、聞かれる方なんですね。もちろん、蒔いた種は刈り取るというプロセスはこの先イスラエルの民は経験しますが。そして王が任命されたあと、サムエルは政治から一線を退く前に、民に神からの預かった言葉を語ったところが今日の箇所です。
 サムエルはこれからも”イスラエルの民のために、祈ることはやめない”と。逆に祈ることをやめることが神様に対する罪であるかのように言っています。それほど、預言者サムエルは民のために仕える思いが神様から与えられて、国民のために仕えていたのではないでしょうか。そんな政治家がいたらいいですね。もし政治家が権力ではなく、国民に仕えるためという志を持ち続けられたら、理想。
 このことを自分の平凡な生活に適応すると、私のような普通の人、そして日本人の場合。今、私は日本人のために祈らずにはいられません。だから日々、世界で起きていることにアンテナを張り、メディアに操作されず見極めつつ、日本のために祈ろうと、決してやめることなく。祈りは目に見えない行為ですが、祈りを答えてくれる神様の力がすごいと期待します。また、目に見えるものは過ぎ去りますが、目に見えないこと(愛、希望、信仰、そして神、神のことば、神の人間対する愛)は永遠に続きくと信じつつ。
4/7/11 ”出来ません”と断った10代の頃
「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」ルカによる福音書9章23-24節(イエス・キリストのことば)
 私は十代のとき、教会のユースのサマーキャンプに行きました。よく覚えていないのですが、自分は小さいときから教会に行ってサンデースクール(教会学校)で聖書のことを学んできましたが、神様の存在はわかっていても、実はいまいちキリストを信じきれなかったので、あるときそのキャンプの先生から、「明日、あなたの信仰の証:(はなし)をみなの前でしてくれませんか?」といわれて、「できません」と断ったことがあります。出来なかったのです。その先生は悲しそうな顔をしましたが、それ以上私になぜ?とつっこんでフォローすることもなく終わりました。信じていないものを人の前で話しようがないのです。
 子供ながらに何にひっかかったかというこ、今日の箇所です。”自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従う???そんなことできないし、なんでそこまでしなくてはいけないのか?神様をただ信じているだけじゃだめなのか?”と思ったからです。今は、いつでも逆に積極的になぜ信じているかを証ししたい、説明したいくらいです、なぜなら本当にキリストを自分の罪からの救い主として信じる信仰が与えられ、キリストを通して信じる神様を信じているからです。
 先日ラジオを聞いていて、ある牧師がこういっていました。この箇所の現代に生きる私たちへの適応は(本当に十字架を背負うわけでなく。。)”日々の生活の何かをする上で、「自分のしたいこと」を欲求や感情のままに選び取るのでなく、”キリストがしたいこと、キリストだったらどうするか”を、キリストの愛に応答して喜んで選び取ること、そしてキリストに従うことだ”といっていました。子供のときとそして大人になっても長い間は、キリストとの個人的な信頼関係がなかった時代は、神様という漠然とした存在は信じていたつもりで、”従う”なんてとても重荷に感じたし、そうしたくないと正直思いました。しかし今は幸いにも、自分の力量とか性格ではキリストに従えなくても、祈って求めれば助けてくれるという約束が聖書に書いてあり、強いられてでもなく、喜んでそうしていきたいなあと、だって、私の罪のためにキリストが代わりに死んでくれた、その犠牲・愛を本当だと信じられて、その愛に自発的に少しでも応答できたらと思うからです。
4/6/11 ”「〜しかない」と「〜もある」の違い”
「しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。というのは、男が五千人ばかりもいたからである。・・・イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。 みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。」ルカによる福音書9章13-17節

 今日は仕事が休みなので、久しぶりに東京の母教会の友人と牧師とスカイプで話しができました。その友人によると、今までがこうこうとすべて明るすぎたし今の節電での暗さにも慣れ、これでも暮らしていける、あるもので満足できると話していました。確かに日本の照明は明るかったです。昔私がアメリカに来て最初に思ったことは、アメリカの住宅は間接照明が多く、家の中やレストランが暗い、でもすぐになれます。多くのレストランでは、周りが間接照明でこうこうとしていないから、テーブルごとの小さなろうそくの明かりがはえるわけです。日本の被災地の方々にとって今大変物がなくてご苦労されていると察しますが、ある意味考え方が変わるのではないでしょうか。同じ量であっても”これしかない”、ではなく、”こんなにもある、ありがたい”と感謝する心へ。
 今日の箇所は約2千年前コンビニがない時代に、大勢の群集がイエス様の話を聞きに集まり、気がつくと夕暮れ。そこにいた男の数だけで5千人ということは、女性と子供も合わせればかなりの数で、急に「君たちで彼らに給食をしなさい」とイエス様に言われて、弟子たちは常識で考えて戸惑ったと思います。”手元には5つのパンと2匹の魚しかない”と。しかし、イエス様は病人を癒し、悪霊につかれた人から悪霊を追い出し、つまり人々が”もう無理だと当時あきらめていたこと”から神の力で解放し、また神の国の福音を伝えました。イエス様には力と権威があるのを噂で、みな遠くの町から歩いてイエス様のところに集まっていた状況で、人々に食べ物がなく、困っていたらイエス様は奇跡をおこして給食されるやさしい方です。イエス様が祈ってパンと魚を割いて分けていくと、なぜかどんどこ増えて、全員が満腹し、12かごにあまるほどまで増えたのです。
 ”〜しか”ではなく、”〜もある”として感謝すること、また現状に絶望したりあきらめたりしないで、イエス様ならなんとかしてくれるという信仰が与えられたいと思いました。今東京の母教会の牧師はチームを作って実際、石巻という街に物資を配給に行って3週間目になるそうです。その具体的なかれらの活動を通して東北の方々にも、キリストの愛と希望、信仰が伝わりますように祈りつつ。
 →カルバリ東北救済リリーフの活動の様子 http://calvarytohokurelief.blogspot.com/
4/3/11 ”借金帳消し”
「イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。 」ルカによる福音書7章41-43節
(1デナリ=ローマ帝国の通貨で、約5千円相当)

 私は車をローンで購入しましたが、よく帳消しになってくれたらなあと空想します。例えば誰かが代わりに全部払ってくれるとか(ありえない)、宝くじにあたるとか(これも無理)。人生はそんな甘くない、こつこつと働いて返すしかないのです。その車が中古であちこち壊れ、先日も突然、電動の窓が開かなくなりと非常に不便、修理代のことを考えると超ブルー入り、ローン払っていても悲しいです。。。
 今日の箇所は、イエス様がたとえで250万円借金のある人と25万円借金ある人とでは、もし帳消しにしてもらったとしたら、どちらがより貸主を愛するかという質問を、当時のユダヤの宗教家シモンに尋ねました。そして、彼は多く免除してもらったほうですと答えます。たしかに、250万をちゃらにしてもらったほうが貸主に大いに感謝します。ここでのたとえのポイントは、借金を罪に対する罰金・罰にたとえています。このシモンという人は、自分は法律守っているし、神の前に正しいとし自負し、イエス様を神の子として信じていませんでした。別に赦してもらうことはないと。そして、側にいた罪人の女性(なんの罪なのかわかりませんが、世間で前科者として見られていたのでしょう)を見下していたのです。イエス様はこの二人を借主にたとえたのです。
 私はこの箇所を読むたび、この女性と自分がオーバーラップします。私もそもそも、たくさん罪を赦してもらった者だったと。生まれてからこの方、心の罪を換算するとものすごい罰金で払いきれない罪過です。それを、イエス様が十字架で処刑されて代わりに罰を受けてくれたおかげで、私は帳消し、すべて赦されて平安に今生きていられるのです。これが罪からの救いです。その大きな犠牲に対して、私は何もお返しはできないけど、神様を、また今はよみがえって天にいるイエス様を愛することで少しでも応答したいと。
 見えない神を愛するとは、神の命令(神を愛し、隣人を愛しなさい、互いに愛し合いなさい)に従うことだと弟子ヨハネは書いています。この命令はハードルが高い。しかし、信じたあと与えられる聖霊(神の霊)が出来るように助けてくれて、これからも罪を犯さないように変え続けてくれるとの約束が聖書に書いてあるので助かります。そして、この箇所を読むたびに、(忘れていたけど)私は多く赦されたんだから、もっと感謝して、多く愛そう=従っていこうと、りマインドされるのです。
4/2/11 ”部下思いの上司”
「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。 。」ルカによる福音書6章6-7節

 私はよく転職をしてきましたが、いつも良い上司と良い同僚に恵まれて幸いです。今もやさしいドクターが上司ですが、私がよくうっかり大事なものを捨ててしまったりミスをしても(私は片付け魔のところがあり)いつも笑って赦してくれます。最近は必ず確認してから捨てるようにしています。。
 今日の箇所は、ローマ軍の隊長が自分の部下の病気を治してくださいと、イエス様にお願いした場面です。彼は病気を治してもらうのに、家にわざわざお越しいただかなくても、イエス様の言葉で部下の病気は治せるという信仰を持っていました。人づてに聞いてイエス様に力と権威があることを確信していたからです。彼は、当時ユダヤ人の慣習(外人と、ましてや占領しているローマの軍人と一緒食事したり、家に入れたりしない)を知っていたので、家に来ていただく資格が自分にはない、だから”ただお言葉をください”とお願いしたのです。その態度にイエス様は、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」とほめられました。
 イエス様が信仰をはっきりほめた人は聖書に二人記録されています。一人はこのローマの100人隊長で、もう一人は外人の女性でしつこく娘を癒してほしいとお願いにきた人です。二人に共通しているのは、イエス様には治す力があるという信仰と、自分は治してもらえる資格がないものですけど、ぜひお願いしますという低い姿勢です。バイブルスタディで、ある学生がこんな質問をなげかけました。「聖書には記録されていないけど、もし”イエス、俺の病気を治せ!”という態度の人には、イエスは治さなかったんじゃないかな?」と。そういう記事は書いてないのでわかりませんが、どうも奇跡が起こるときその人の(もしくはその友人や上司、家族の)信仰と関係あるようですし、また、頼まれなくてもイエス様はかわいそうと、同情される場合も奇跡(5千人の給食、やもめの一人息子を生き返らせる等)を起こされていることを説明しました。
 自身の日常生活の中でも、イエス様になら可能であるという信仰を強めてもらいたいし、そしてすぐ傲慢になりがちな自分なので、低い姿勢を学んでいきたいと思いました。また、イエス様ご自身が低い姿勢のモデルです。神の子であるのに、人となって生まれてこられ、多くの人に仕えるために、また全人類を救うため十字架で苦しんで死ぬために来てくださった方だから
4/1/11
 ”家の土台”
「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。」ルカによる福音書6章46-48節

 私の日本での教会の東北救済チームが、石巻という地域にて救済物資を人々に配っている様子をBlogで見ました。これらの大量の物資はみな企業等からの寄付で、今回多くの国内外から援助を受けていますが、災害時に物資・お金を惜しみなく”与える”ことができる企業・個人はすばらしいと思い、同じ日本人として感謝です。トラックの横で賛美歌がギターで歌われていました。
 今日の箇所は”なぜ聞くだけで行わないのか”は耳が痛い言葉です。この箇所の直前でイエス様はこういう教えを人々に言われているからです「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。」(6章36-38節)自分に余裕がないときでも、これらのことが他者に対して出来る人は立派だと思います。私個人としては、余裕ないときは自分が優先だし、いやいつでも自分の気質や性格、経済的余裕で、できないので耳が痛いのです。
 しかし励ましは、ここでの”土台をすえる”の意味とは神様・イエス様との愛の信頼関係のことだからです。自分の力では出来なくても、祈って助けを求めれば、なんとかしてくれる、できない心の狭い自分でも何かしら変えられてやさしい心になれたり、相手が憎たらしくても赦せるように徐々に変えられたりして、それが行動となって現れていく。全部自分でやらなくても、みえない神様が聖霊(神の霊)を通して助け導いてくれるから、私の責任は神様に従おう、委ねようという意思を持つ、こういう信頼関係があるので、こんな自分でも励まされるのです。心配はきりがない、人の力だけではコントロールできないところも、日本のこれからのことも委ねて、神様に地道に日々祈っていこうと思います。
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