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信条・Statement of Faith

ギリシャのコリント運河 Nov. 2006
♪Today's Sharing♪

July 2011

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



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いくら暑いからといって 谷川の鹿 3歳児:2年半の闘病 何もしなくてももらえた、おこずかい
本物の歯の移植が可能?! 友達の定義 迷子 必死の祈り
知人の孤独死 良い方を選ぶ 喜び:Joy また次回会えると思ったら
善きサマリア人の法 カザフスタンという国 神を拝む心 都合の悪いこと
July31 ”何もしなくてももらえた、おこずかい” 
「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。・・・・天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
ルカによる福音書11章9-13節

 小さい頃、私の父はいつも「こずかいやるからな」と子供が何もしなくても、小銭をじゃらじゃら私と妹に与えたものです。それが私の父にとって、子への愛情表現なのでしょう。問題は小学生の低学年の頃から、そのお金で近所の駄菓子やに行っていつもお菓子を好きなだけ日中買って食べていたので、夕飯が食べれなかったのです。もちろん子供時代のしつけがどうであれ、大人になったら自制するのは自分の責任ですね。
 通常(個人差はありますが)親は子供の成長の段階で、子供が何か願うとき、今与えていいか悪いかを判断して与えたり、また与えずに我慢させることでしつけます。もし親が子供の望むまま好きなだけ、なんでも与えていたら、その子は大人になったとき社会で他者と共存していけません。ものすごくわがままな子となります。
 イエス様は神様と私たち人間の関係を親子関係として今日の箇所で説明されています。私たちを創った神様は、個々人にとって何がベストか、何が体に・心によくないかをご存知です。なぜなら人のメーカーだから。世界で一番立派な父親がいたとしたら、その数億万倍すばらしい父が神様ではないでしょうか。神様というと、天地を創造できる全能の非常に恐れ多い、Holyで近寄りがたい存在でありますが、私たちは小さい子が親に呼びかけるよう、”天のお父さん(アバ:パパ、みたいな子供の呼び方)”と呼べる親子関係になれて、いつでももっと大胆に安心して求められると。
 祈りがこんなに気軽にできるのはイエス様のおかげです。イエス様が十字架で代わりに罪を負ってくれたので、私は自分の罪があって祈れる筋合いのない者ですが、イエス様を信じることで神様との回線がつながります*。「もしもし陽子です、イエス様の名前でお話が、お願いがあります」と24時間365日聞いてもらえる。そして、神様は私たちの祈りを聞き、ベストのものを、ベストのタイミングで与えてくださり、今必要のないものは下さらない。私が信じているのは宗教(Religion)ではなく、神様との親しい愛の関係(Relationship)なんだなあと安心。
 何が言いか悪いかわからないこともあります。それでもとりあえずお祈りしてみると、知らないうちに、私の祈りのお願い内容や動機が神様がいいと思うほうに変わっていくこともあります。それは、私の心に与えられている聖霊が教えてくれるみたいです。求めれば与えられるという聖霊をもっと求めようと牧師のメッセージより気づかされました。

*(ヨハネ14:14)「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
July28 ”3歳児:2年半の闘病”
「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」
第一コリント人への手紙15章55-57節

 小児白血病、それはあまりにも突然に発症し、診断されると小さな子供の体への抗がん剤治療が始まるという、本人はもちろん、親御さんにとっても想像を絶する病気との戦いだと思います。今日は女性の聖書の学びがあり、それに来ているお母さんから、そのお子さん(5歳)が先日ようやく、2年半にもわたる白血病の治療を終えたという、喜びのお知らせをわかちあってくれました。本当に、本当に本人も家族もまさに闘病。悲しく苦しかった時期、入退院を繰り返しと、教会のみんなでもいつもお祈りしてきましたので、共にこの病気に打ち勝ったことを祝いました。「神様にお祈りするから大丈夫」と副作用でパンパンに膨れたお腹をみても、本人がさらっという姿に母親はどんなに励まされたかと。神様に守られた2年半だったと。
 今日の学びのテーマがちょうど、勝利者:Victorとしてのイエス・キリストでしたのでタイムリーでした。キリストは何に勝利したのか?それは、死への勝利です。つまり十字架で私たちの罪のために死なれ、葬られ、3日後によみがえられる:復活されたことです。
 キリスト教のお葬式が明るいのは、亡くなった方が今、天国にいるという希望があるからです。(もちろん、感情的にはもう地上では会えないという悲しみがあるのが普通ですが)私たち人間を創造された神様のもと天国へ行けるということがはっきりわかっていたら、もはや死への恐れは去ります。死んだら終わり、どこへ行くのかわからない、だからこそ誰だって死ぬのは怖い、あえて考えないように今を楽しく生きるというのが多くの人の考え方ではないでしょうか。しかし死は平等にやってきます。
 福音(Good News)は、キリストがちょうど死に打ち勝ち復活されたように、イエス・キリストを信じることで、私たちの体が死んだ後も、魂・霊は残っていて、いつか新しいからだが与えられ、天国にて永遠に生きるという約束が聖書に書いてあります。この信仰は、単純にイエス・キリストを信じるだけです。私があれこれしたから、〜をしなかったからではなく単に信じるだけ。キリストを自分の罪からの救い主として信じると、生きている間もキリストのような愛の性質に内側が徐々に変えられていくこと、更に死への恐怖へに打ち勝てること、キリストの恩恵でこんな弱っちょろい私にも勝利が与えられると励まされました。
July26 ”谷川の鹿”

 今日読んだ箇所は、有名な賛美歌にもなっている詩で、鹿が川の水を慕い求めるよう自分の魂も神様を求める様子を歌った箇所です。そして自分で自分の魂に向かって、「神を待ち望め」と励ましています。落ち込んだとき、祈ることも出来ないとき、この詩を思い出したいと思います。

神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。

わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。
いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。
人々がひねもすわたしにむかって
「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は
わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

わたしはかつて祭を守る多くの人と共に群れをなして行き、
喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。
今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。

わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。
何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
神を待ち望め。
わたしは なおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
詩篇41章1-5節
July24 ”いくら暑いからといって”
「弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。マタイによる福音書19章25−26節

 このところの猛暑は凄過ぎる(38-40℃)。この週末はマンハッタンの友人のところに避難していた。とういのは仕事が休みだったのと、マンハッタンの方がフィラデルフィアより、多少暑さはましだったのです(場所にもよりますが)。セントラルパークの中は、木陰であればまだ座っていられる温度でした。ちょうど芝生でスプリンクラーが水をまいていて、そのおかげでちょっと涼しく、マイナスイオン効果。暑い中でもお金もかけず、とてもゆっくりした時間を友人と過ごせたのが感謝でした。
 ところがその後フィリーに戻り、たまたま別の友人の車でフィリーの北エリアを走っていると、なんと通りの消火栓を破壊して、水を噴水のようにだしっぱなしにしてその横に座っている人々がいた。それも一か所ではなく、何か所も消火栓が壊されて水が垂れ流し。エアコンが家にないのか、いくら暑いからといって、通りでそこまでして涼もうとしなくてもと、私にとっては衝撃の光景。火事の時使えなくなるではないか!”そんなの珍しくない光景だよ”といわれるかもしれませんが、私はフィリーに住んで一年半、このエリアを通ったことがないので、知らなかったのです。
 同じスプリンクラー効果でもあまりにもギャップが激しい。車の中でこの近辺の治安の悪さの話になり、”なぜ、彼らはここまで悪いこと、ひどいことをできるのか?”と答えの出ない質問をなげかけられる。
 日本にもやくざの人生を送っていた人がどん底まで経験し、しかしクリスチャンになって人生が変えられた人がたくさんいる。彼らにはこのノース・フィリーのギャングの人たちの気持ちがわかるのではないか。消火栓破壊、車上荒らし、窃盗、殺人、強姦・麻薬販売が横行する私の想像のつかない世界に生きている人たちにも、やりなおしのチャンスはあるはず。その救いを引き起こすのは人には不可能だけど、神様には可能だという聖書の箇所を思いだしました。

*ちなみに、後で友人の情報によると、フィラデルフィア市は異常な猛暑のため、消防署が消火栓にスプリンクラーのように水がまけるような特別のキャップ(装置)をつけることを許可したとのことです。さすが臨機応変ですね。ですから、ちゃんと消防署に申し出て、装置をつけてもらってから、涼んでいただきたいですね。勝手に壊すと、修復が大変ですから。
July20 ”必死の祈り”

あなたにです、主よ、私は呼ばわっています、
私の岩よ、私に対して耳を閉じないでください、
もし私に対して黙っておられるなら、
そうしたら私は穴に下る者たちと同じになってしまいます。
詩篇28章1節  (”私の岩”→神、 ”穴”→死、墓穴をさす)

 私は神様を信頼しよう、任せよう、と頭ではわかっていても 日々心が揺れ、不信仰になることがあります。特に、長年祈っていることがいっこうに聞かれないと、もうだめなのかなと。祈りの答えは、Yes, No or Waitのうちどれなのかわからない部類のものもあります。そしてあきらめて、落ち込む方向へいきがちです。聖書のなかの詩篇を読んでいると、ああ、こういう祈りもありなのかと思わされることがあります。
 詩が「あなたにです」強く始まり、「耳を閉じないで下さい」と必死の呼び掛け。 この詩篇の作者のダビデのように波乱万丈の人生で、王になるまでいつもサウル王から命を狙われ、何年も逃げていた状態。こういう人なら神様に必死な祈りをせざるを得ない状況ですが、私のような凡人の小さな願いは逆にこんなふうに祈ってもいいのかな?と恐縮してしまいがち。
 取り繕って、きれいごとを祈るのではなく、心の状態をそのまま注ぎだしていいのかもしれません。神さまはありのままの祈りを受け入れて下さる。懐の広い、愛の方であることを信じ、今日も感謝です。そしてこの願いについてはたといそうでなくても、神様は自分に良くしてくださることは変わらないという信頼する心が持ち続けられるよう、求めようと思います。
July18 ”迷子”

主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
詩篇23章1-4節  (主:神、イエス・キリスト)

 私は小さいとき、よく迷子になったそうです。デパートでも、近所でも。自分でもかすかに記憶がありますが、じっと待っているのが苦手で、一人でどんどん遠くへ歩いていってしまうそうです。私としては、知らない道・場所を探検するのが好きなのです。小学生のときは一人で散歩して歩いていました。でも不思議と怖いと思った記憶はないのは幸いです。
 大人になっても、そう変わりないかもしれません。ふりかえってみると、何度人生のなかで右往左往しているか、よくふらふら動くのです。転職もそう、引越しの数も数え切れないほどです。独身で何もしばりがないから悪いのか、直感で即行動に移してしまうこの性格はいつもよくない人生の方向へ進んでいきました。しかしキリストを信じる信仰が与えられてからは、自分の直感ではなく、祈って神様の導きを求め、答えがでるまで待つという姿勢に少しずつ変えられてきたのは、奇跡です。
 それでも、小さい事柄で日々迷います。そんな私に今日読んだ箇所は、何度よんでも励まされます。イエス様はご自身と私たちを羊飼いと羊の関係にたとえられました。羊は羊飼いのもとに群れと一緒に居れば安心です。羊のなかでも群れを離れてどんどこ一人で遠くへ行って帰れなくなる羊もいるようです。すると必ず羊飼いは、迷った一匹のために探しにきてくれる。助けにきてくれる。私が変な方向へいくと、最終的にイエス様が不思議な方法・機会を与え、安心できる場所にもどされる、そういう経験が何度もあります。そしてこれからも導いてもらいたいです。
July16 ”友達の定義”
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」ヨハネによる福音書15章12-15節

友達とは?と聞かれたらなんと答えますか?最近、イギリスのある出版社が”友達”の定義を懸賞つきで募集すると、たくさんの応募の中からグランプリに輝いたのは "The one who comes in when the whole world has gone away"だそうです。全世界が去ったときに現れる人 みたいな感じでしょうか。なるほどと思いました。これは、イエス様が十字架にかかる前にその弟子達に、”わたしはあなたがたを友と呼んだ”といわれた箇所の牧師のメッセージで話された内容の一部です。
 私の友のイメージはもっと気軽でイコールな関係だから、イエス様:神の子、偉大なお方、救い主の友といわれてもちょっと気が引けます。しかし、更にメッセージを聞いていて、ああ、イエス様は私の友だと思い出したのは、賛美歌312番の歌詞にあるように”世の友 われらを 捨て去るときも、祈りに答えて 労わりたまわん”(What a friend we have in Jesus)からでした。
 皆から見捨てられたと思ったことがありますか?私はあります。家族、教会の人、友人からも。実際、私が見捨てられたと感じていただけで、皆私の周りの人たちは私をケアしてくれる、すばらしい人々です。しかし、いつも一緒にいるわけではないし、お互いに相手がいつ孤独を感じているかを知る由もないから、仕方がないことなのですが、その時期はあまりにも病後で苦しかったため、誰からもコンタクトなく、独りで家で過ごしていたとき、そう感じてしまったのです。そんな時、私を支えてくれたのはイエス様でした。イエス様を通して神様に祈ると慰められ励まされ、信仰がなんとか保たれ、その後しばらくして心の回復が与えられたのです。今思えば、神様にのみ頼る、イエス様が結局、真の友だと体験でき、私にとってよかったと。
 もちろん、私がイエス様の友となる側面(15:14)の方が重要です。今日わかちあったことは、私にとってイエス様はいつでも四六時中祈ると、慰め・労りを与えてくださる友だと。イエス様は”人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 ”と言われたように、私の罪のために十字架で死んでくださった友であると、ありがたいです。
July15 ”本物の歯の移植が可能?!”

「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互にいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりびとりは各器官なのです。」第一コリントの手紙12章25-27節

 私は歯医者に勤めて9ヶ月。日々、患者さんの歯に関わっていて、歯・歯列・噛合せ・顎等これらがどんなに体全体に影響するかを以前より考えるようになりました。ニュースで”「本物の歯の入れ歯」の移植を受け、自分の歯が再生―。夢の治療の実現をマウスで初めて開発”を見て、人口歯のインプラント(移植)があまり成功せず、後から支障がでてくるケースを見ていると、自身の細胞である歯が移植可能で、歯茎にくっつき、神経とつながる、これが人でもうまくいけば、理想だなと思いました。
 人間の体は精巧に出来ていて、各器官・臓器・細胞が役割を持って体全体を機能させています。また、体は病気にならないようなシステムがあり、体の中にウイルス等危険なものが入ってきたらそれを殺し、ダメージを受けた細胞を回復すせる能力があります。一方、自分の体の必要な器官なのに、それを異物と認識し、攻撃してしまうという免疫不全という病気もおこります。
 昨日の女性の聖書の学びの箇所では、キリストの弟子パウロが、教会という人間の集合体を人の体にたとえ、つまり教会はキリストの体であって、キリストが頭、そして体の各部分が一人一人。よって、それぞれが神様から役割、頂いたギフト・賜物を生かして、キリストの体を機能し、仕え、調和するという健全な体・教会のことを学びました。皆で話しあったのは、お互いの違いを批判、裁きあうばかりだと教会はどんどこ分裂してしまうよねと。免疫不全も起きる。もちろん、異物(別の教え)が入ってきたら体から除かないと、他の器官がダメージを受けて、大切なキリストの愛にとどまれなくなる。それは痛みを伴います。しかし何を解決するのにも、神様の愛(Iコリント13章)が重要ですが、やっかいなのは、私は自己中心でこういう神様の愛をもって他者に接するのが困難。というか私には無理。
 2千年前の初代教会も今の私も同じ問題を抱える、だからこそ「愛を求めなさいと」(Iコリント14章1節)と教えられました。自分の素の性格で作り出せないから、愛は求めれば、与えられ、すこしずつ内側が変えられていくと信じつつ。”相手が変われ”ではなくまずは自分自身が変えられる必要があると。
July14 ”また次回会えると思ったら”

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」 ローマ人への手紙12章15節

 この一週間で悲しい知らせが二つも続き、一つは”知人の孤独死”で前回書きましたが、先日、再び東京で働いていた時の同僚(40代前半女性)が肺がん末期で亡くなったという知らせを他の同僚だった人からメイルで受け、朝から自分の部屋で号泣。もちろん、その後仕事に行きましたが、ちょうど患者さんのキャンセルがあって時間があったとき、このショックをドクターに聞いてもらったり、患者さんの唾液吸引をしながら(私、歯医者で助手をしております)、ぼーっと、亡くなった彼女のことを思い出していたり、その日はあまり仕事に集中できませんでした。
 彼女とはよく意見が合って、独身同士だったし、ご飯を食べに行ったり、私が会社を辞めた後も、時折会ったりしていました。最近は、年賀状のやりとりくらいになっていましたが、2年前彼女が私のHPを見てびっくりして、家の近所まで会いにきてくれて、それから再び連絡が再開。私はイエス様を彼女に伝えたいと祈っていました。HPを読んで、少しでも私が病のなかで支えられたのはイエス・キリストを信じる信仰であったことに彼女が目をとめてくれたらと。今度はその彼女が病気で休職していると聞きました。病名を教えてくれなかったし、お見舞いを申し出てもあまり会える状態でなかったようで結局会えずじまい、アメリカに来てしまって機会を失いました。
 私は一週間で2人でしたが、よく考えられば今回の震災で、一日の内にどれほど多くの人が身内や友人、同僚、たくさんの人を失い悲しい思いをされているのかとは、とても想像がつきません。しかし、悲しみのなかでも、今生かされている者は生活を続けなければなりません。私はイエス様にあって、人と出会う機会・コンタクトをまた会えるからと先延ばしにしないで、もっと大切にする必要があると、せめてメイルで、もっとまめに日本の友人・元同僚たちともとろうと思わされました。
 彼女のご家族に慰めが与えられるよう祈りつつ、全てを神さまに委ねようと思います。 先日からこの悲しみに関しては、みことばが思い浮かばないです。もちろん、キリストにある喜びはあります。でも今は、悲しいです。
July12 "喜び:Joy"

「あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした。わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」詩篇4章7-8節

 私が幸せHappyだな〜と感じられるのは、おいしいものを食べたり飲んだりするとき。楽しく友人と会話しているとき。うれしいニュースがきたとき。体重が減ったとき。でもこれらは一時的で、すぐにそのいい気分は、続く嫌なことに消されてしまいます。職場での失敗、路駐していて車がへこまされる、自分の心にわいてくる苦い思いや悔しい思いが膨れると、すぐに車と同じく心もへこみます。
 一方、神様から私の心に与えられる喜びJoyはこれらと関係なく、よって安らかに眠られると、今日の箇所にありました。これを信じようと、ここに立とうとは励まされました。
 環境や自分の状態によって左右されないものは、イエス・キリストを信じることによって与えられる喜び、神様との信頼関係です。宗教儀式・行いでなく、関係なのです。また神様から与えられる喜びは具体的に人間関係に現れることが多いです。そういうとき、非常に喜びが与えられ、励まされ、力が与えられることが私の生活の支えです。これは何によっても取り去ることができない。私自身以外は。環境や私の暗い心によって、私の信仰が弱くなってしまうのは事実です。非常に未熟な信仰です。つまり私自身がキリストから自分を離そうとしてしまうのが問題です。
 しかし、それでも神様は助けてくださる、引き上げてくださる方だと、私は何度も経験。たいがいはみことば(聖書のことば)によって、弱った信仰がまたリバイブ、リフレッシュされます。みことばは本当に日々私の心に必要な糧、今日も与えられて感謝です。
July10 "良い方を選ぶ"

「ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。 ルカによる福音書10章40−42節

 現代は忙しい世の中である。「お忙しいでしょ?」と挨拶するのが当たり前。何か予定をつめこまないとまるで生活に価値がないかのような雰囲気を感じるのは、私だけであろうか。何に忙しいかというと、仕事、子育て、介護、趣味・レジャーそして奉仕活動等。
 奉仕活動といえば、日本で社会福祉の歴史を学んだとき、それは中世の歴史にさかのぼりアメリカで学問・実践として発達してきて、もともとは教会・クリスチャンが主体になって地域の困った人の為に仕えてきたのがわかる。しかし過去2千年間を振り返ると、活動・サービスだけが発展していき、そもそもの基本である神のことば・キリストの教えはそれらの施設のなかでは形骸化していると今朝牧師が話していた。そして、現代ではクリスチャンでなくても、多くの立派な方々が寄付をしたり、NGOを創設して困った人のために活動している。
 今日の箇所で、忙しい世界に生きる私に語られたことは、”良い方を選ぶ”でした。良いことはたくさんある。人の為に忙しく働くこと、仕えることは大切。仕事もして生活の糧をえなくちゃ。しかし、自分の基準もしくは人と比較してここまでやらないと気が済まない状態に陥り、「あの人は何もやっていないじゃないか」、もしくは「あの人と比べると自分は何もしてない」と批判的になりがちです。
 何かやるやらないにしてもその心の態度が問われる、と教えられました。やることが一杯で、神様のためにといいつつ、人からのプレッシャーで奉仕疲れ、バーンアウトしてしまうこと、私にも以前ありました。しかしイエス様は「なくてはならない物は一つ」と言われ良い方を選ぶことを勧められる、つまりイエス様の話しを聞き、従うことだと学びました。神様との時間:デボ−ション(静まって、聖書を読み、祈る、静かに神様から聞く)をまず優先順位にすることが大切なんだと。実際、地域または海外での奉仕活動がたくさん行われている教会の牧師からこの話しを聞くと、納得がいきます。なぜなら、人が何をしたかでなく、聖霊の働きにより、神様の力でミニストリーの拡大がされ、一方個々人の神様とのデボーションも両立というのが、結果として見えているからです。私自身の生活においても、そうなりたいなと。求めていこうと思います。
July 9 ”知人の孤独死”
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 」
マタイによる福音書25章42-45節

 ショックである。昨年一緒にアメリカ人の教会のバイブル・スタディ(聖書の学び)に数回一緒に行っていたアメリカ人女性が、先週家で亡くなっているのが連休あけに発見されたと、共通の知人から連絡がきた。その人がもともと彼女を私に紹介し、聖書の学びにいくのに彼女を一緒に車で連れて行ってほしいと依頼されたのが知り合ったきっかけ。彼女は失業中で聖書の学びに行くのを楽しみにしていたが、私も日本に帰国していたり仕事があったりでいけなくなり、最後に一緒にいったのは一年ほど前。
 孤独死。彼女は身寄りのない50歳代の女性で一人暮らし。昨年秋脳梗塞を発症し、糖尿病の持病もあり、お金もなく、教会が長いこと家賃を出したり、福祉サービスにつなげるようサポートしていたとのこと。もっと、連絡をしておけばよかったと、思うのは今になって遅すぎる。
 日本にもある配食サービスは一人暮らしの人の安否確認もかねるが、彼女の利用していたサービスは連休はお休みだった。金曜日に運んで本人の安否を確認後、休みあけの火曜に行くともう亡くなっていたという。孤独死問題は日本もあるが、アメリカはもっと家族のつながりが薄い人も多く、彼女自身が元気なときに「先日、隣がおかしいと思ったら、その住人が家で亡くなっていたのよ」といっていたほど多いのだろう。
 独立記念日の連休、日曜礼拝で、牧師が善きサマリア人の話のなかで、「もっと積極的に隣人になっていこう」というメッセージを聞いて、ふとしばらく連絡をとっていない彼女に電話をかけないと、という思いにかられた。かけると留守電だったので、メッセージを残した。今おもうとその時にはすでになくなっていたのかもしれない。みんなが友達や家族と集まって楽しく花火を見ている時、彼女が一人で孤独に、おそらく脳梗塞の再発で家でなくなっていたのかと思うと、本当に本当に心が痛む。痛む。涙が止まらない。結局私は自分に余裕がなくて彼女に何もできなかった。この私の冷たい心を神様は知っている。正直に神様に告白し、赦しをこうしかない。私は分かち合いを書くにふさわしくない者。それでも、神様にこの罪を赦してもらって、書き続け、次回そういう助けるよう示された人がいたら、していくしかない。
 彼女が今天国で、神様と共に、安らかにいることを信じています。それだけが希望と慰めです。
July 8 "都合の悪いこと"
「そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。 激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。 そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。 …確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。 使徒の働き15章6−11節

私は聖書が信用に値すると思う一つの理由は、人間のえぐい部分、愛憎ドラマが隠さずに書かれているところです。聖書がもし人間によってのみ編集されていたら、聖:Holyの書だから、都合の悪いことは除く、聖人の成功話し・偉人談にまとめることも可能。しかし聖書にはきれいごとだけでなく人間の失敗談もたくさんあり、そしてそれに対する神様の忍耐、憐れみ深く情け深い愛が盛り込まれています。数千年前の話しでも、人間の性質は現代の抱えている問題と変わらないんだなと思えるところがたくさんあり、それが包み隠さずオープンに書かれているので、逆にうさんくさくない、本当だと思うからです。
 今日の箇所は、初代のイエス・キリストの弟子達が、福音がユダヤ人だけでなく外人(ユダヤ人以外を異邦人と呼ぶ)にも広がっていき、彼らとの慣習の違い、文化の違いが存在するなかで、具体的な信仰生活をどうしていくかが弟子達の間で議論されたところです。キリストを信じた後も、ユダヤ人だけという選民的考え、長い間守って来た法律・習慣・偏見は、すぐには消えない。人はすぐには変わらないという例が示されているのが、現代の生きる、なかなか変わらない私には慰め、励ましです。
 しかし、喧嘩別れて終わらない会議がここに書かれていました。大論争の後結局、聖霊(神の霊)によって導かれ、ユダヤ人のリーダーであるペテロやヤコブ達が話しを収束。イエス・キリストは全ての人の救い主、神様はすべての民族の神で、また恵みによって救われることで一致。人間の議論では無理ですが神様が人を通して介入されると、一致は可能なんだと。
 教会といえでも、人の集まり、必ず問題・議論は起こります。しかし、その時こそ、神様に祈って、聖霊にその話しあいを導いてもらう必要があると思います。現実はそれを無視し、結局教会外の組織と同じ分裂が過去にも起こり続けてきたのは悲しいことです。やはり、初代教会から初心を学びたいと思いました。
July 6 ”神を拝む心”
 「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。使徒の働き14章15-17節

子供の頃ギリシャ神話をもとにした少女漫画(私は本が苦手だったのでいつも漫画)を読んだとき、ギリシャの神々は、人間のように気まぐれで、ちょっといやらしくて、でも人間以上の力があって何かをコントロールできる存在なんだなと思ったものです。あまり人と変わらないし頼りないというか、こんな神々ならお願い事をしたいとは思えませんでした。ましてや木や石で作ったものを神として拝むというのは、人間に作ってもらわないと形ができない神、下級のものを拝むという感覚があり、とても神とは思えなかったものです。
 今日の箇所は、イエス・キリストの弟子のバルナバとパウロがギリシャ地方に福音を伝道に行ったときの話しです。二人が生まれつき足が悪くて歩けない人を真の神の力で癒すのをみて、その土地の人々はびっくりし、二人をギリシャ神話の”ゼウス、ヘルメスだ!”と大騒ぎして拝もうと集まったのです。そこで二人は叫んで、”そうじゃない、我々はただの人間だ!皆さんに、本当の天地のすべてを作った神の福音を伝えにきたものだ!”と群集の騒動をやめさせたところです。
 人は誰が教えるわけでもなく、神という存在を拝もうという心が、古今東西どの地域の歴史をみてもあるようです。動物には見られません。いろんな神々が人間によって作られます。太陽や月という自然を拝んだり、人間の想像内で創る神なので、結局人間とそう変わらない神だったり、人間に形を作ってもらっわないと立ってられないのです。しかし、実はすべてを創られた、超パワフルな全能の神様がいること、人間を愛するために創られたことを、私たちに神様は知ってもらいたいと、今までも自然の恵みを通して証しされていたんだなと。今日の箇所を読み気がつきました。そしてはっきり、本当の神様が人間にわかるように、最終的にイエス・キリストをこの世に送ってくださったんだと。感謝!
July 4 "カザフスタンという国"
「人は暗やみを破り、
いやはてまでも尋ねきわめて、
暗やみおよび暗黒の中から鉱石を取る」
「しかし知恵はどこに見いだされるか。
悟りのある所はどこか。
人はそこに至る道を知らない」
「神はこれに至る道を悟っておられる、
彼はそのある所を知っておられる。」
「そして人に言われた、
『見よ、主を恐れることは知恵である、
悪を離れることは悟りである』と。」 ヨブ記28章3節、12-13節、23節、28節

カザフスタンという国がどこにあるかご存知ですか?場所はおろか、私はよく発音できないほど、この国について知らなかったのですが、先日この国の留学生と話す機会がありました。カザフスタンは中央アジア、それもほぼど真ん中に位置する国で、大使館のページをみると日本とも経済的・文化的交流が意外にあり、震災時も義捐金や物資を送ってくれたそうです。
 「僕は独学で日本語を学んでいます。日本語のヒアリングによいと思って、Webで調べて日本人教会にきました。」大学の授業で日本語をとっているわけでもなく日本語に興味があり、ひょっこり日本人教会に現れ、毎週きています。彼は、今アメリカの大学院で人類学を学んでいるそうです。
 彼の研究はシベリヤの天然資源。天然資源というと、鉱石とか石油と思い、”どんな鉱石が取れるの?”と聞くと、シベリヤには地下資源でなく巨大な針葉樹林(松の木等)があるそうです。なかなか日本語で会話をするのは難しいようですが、彼は漢字で”松”と書いて説明してくれました。
 今日読んだヨブ記28章では、地下の天然資源について言及されていました。人はどんどん地下を発って、開拓していくが、「しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。人はそこに至る道を知らない」という文脈で詩は続きます。
 いろんな意味で知恵は知識とは異なります。知識・技術があっても人は地球の資源を賢く活用できない、利益追及が優先だからです。知恵は結局、人間を創られた神様がよくご存知だと思わされました。日々の生活で上からの知恵(ヤコブの手紙3:17)を頂きたいと思います。
July 3 ”善きサマリア人の法”

「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。 」ルカによる福音書10章36-37節

今週はJuly 4th Holidayで連休。連休というとアメリカ人たちは家族で集まる人が多いので、実家に帰る人もいれば、子供のところへいく親もいる。日曜の教会の出席者もいつもより少ないような気がしました。
 今日の牧師の話は善きサマリア人の話。この聖書の箇所は、カナダ・アメリカ合衆国の多くの州で”善きサマリア人の法”として導入されいている起源で、事故や急病の窮地の人を、通りがかりの人が救えるように、善意の行動をとった場合、救助の結果につき重過失がなければ責任を問われないという趣旨の法です。日本でも法律として以前導入を検討されたことがあるそうです。
 ある人が、山道を旅行中、強盗に半殺しの目にあって倒れていた。そこへ祭司やレビ人が通りかかるも見てみぬ振り、次にあるサマリヤ人(ユダヤ人に嫌われていて口も利かない仲)が通りかかり、その人をかわいそうに思い、手当てし宿屋まで連れて行って介抱しただけでなく、その費用までだした、というたとえ話を「あなたも行って(このサマリヤ人と)同じようにしなさい」というおちで、イエス様がユダヤ人の法律学者にされました。
 私は自分の生活の中で、自分の知り合いには良くしようとか、手助けをしようと思うが苦手な人にはしたくないし、ましてや全くの他人に直接何かしようという勇気は難しい。やっかいなことに巻き込まれたくない、これが恥かしながら素の自分です。一度、スーパーの駐車場で女性が、車をロックアウトされて、車の中に赤ん坊がおきざりで非常に困っていた時、家に合鍵をとりに車を出してあげたことありました。この場合相手が女性で、赤ん坊がいて緊急だったからであり、これがもし、ロックアウトしているのが男性だけだったら、何もしないと思います。もし犯罪に巻き込まれたらと。。
 イエス・キリストはたとえ話しでされたように、ご自身がこの善いサマリヤ人のように、相手が誰であろうと、助け、手当てし、費用まで払ってくれる方。それが身体的傷・精神的傷・なんの病気であれ、誰も助けようがない窮地の人を助けられる方。こんな無償の愛は神様の愛しかないと思います。私はせめて、窮地の人がいたら911(110番)くらい呼べる勇気や、問題を抱えていて話を聞いてほしい人がいたら話をとにかく聞き、そしてイエス・キリストのことを紹介するという心が与えられたいです。
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