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Aug. 31 |
食べて思い出すこと
「・・・すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」
第一コリント人への手紙11章23-26節
今日は私の教会のお友達が、私の職場に寄ってお弁当を差し入れて下さいました。おにぎりや、玉子焼き等、一口羊羹までついてバラエティに富んだ盛り付け・内容で”自分用”にお弁当として人さまに作って頂いてものを食べたのは何十年ふりでしょうか。見て感動、食べておいしい!私が10代のとき、母がよく作ってくれたお弁当を思い出しました。感謝で涙が。。。
何かを食べるとき、ある思い出が伴うことがありませんか?食べることは日常茶飯事のことですが、ふと、特別なこと、特定の機会、旅行等で食べたものは感慨深いものがあります。
キリストを信じる人たちは、食べて飲んであることを思い出します。2千年前今のように教会という建物がなく、誰かの家にて集会が行われていた時代もあり、そこで、イエス様の教えを弟子たちから聞き、祈り、フェローシップ(交流)をし、そして必ずパンとぶどう酒をある意味を持って分かち合っていました。これは、今日の箇所のように、このパンとぶどう酒をいただく度に、イエス・キリストの十字架での死を思い出し、記念するのです。またこれを告げ知らせるために、皆でパンをとって食べ、ぶどう酒を飲む、それが現代では聖餐式・ミサとして継承されています。
私にとっては本当に感慨深いものです。これを受ける度に、このパンはイエス様が十字架上で裂かれた体、ぶどう酒は流された血なんだと。この十字架上の死、その犠牲は、私の現在過去未来のすべての罪が赦されるためで、イエス様が変わりにその罰をみんな負ってくださったこと、そのことを信じて、感謝して思い出します。そして死から3日後に復活されて、今も天国にて私たちのために働かれておられる、イエス・キリストを自分の生活のなかでリアルに感じるために。 |
Aug. 28 |
”ハリケーンの猛威”
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」
第一コリント人への手紙10章13節
27日土曜からアメリカの東海岸エリアはハリケーンの襲来に厳戒態勢。私は今回在米で始めての経験です。土曜の仕事も休みとなり、ハリケーン到来時刻の直前、暇なのでスーパーに午前中お買い物に行きました。すると、皆ものすごい勢いで水、乳製品、卵、電池やチャッカマン、ろうそく等と買いあさってレジは長蛇の列。私は牛乳だけ買いに来たのにもう売り切れ。このあたりは森、大木が多いので、通常の嵐でもすぐ木が倒れ、停電、信号もあちこちで止まるため、ましてやハリケーンだとかなりダメージが予想されていてのことです。
私のエリア(フィラデルフィアの西)は、昨夜からものすごい雨と、そして日曜はかぜがびゅーびゅーふいていますが、今のところ電気はついていて感謝!ネットも使えます。しかしニュースで見ると、この近郊もかなりダメージを受け、浸水や停電がかなり発生、またお気の毒に亡くなられた方もいて、被害は大きかったようです。このエリアに長年住んでいる方から聞くと、冬の大雪で厳戒態勢、外出を控えろ勧告が出ることはありますが、ハリケーンでここまでなったのは珍しいそうです。道路には、木の大きな枝がごろごろ転がっていて、運転も危険。早速この近所でも車の事故が起こっているとのことです。自然の猛威の前には人は何もできないなあと。
今朝、教会でこのハリケーンで被害にあわれて困っている方々、また家族を亡くされた方々に慰めと助けが与えられるようお祈りしました。今日読んだ箇所のように、試練からの脱出の道は必ず神様により与えられるという約束を信じつつ、また今渦中にある人々にその信仰と希望が与えられますように。 |
Aug. 27 |
”知ってるも〜ん”
「しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。」
第一コリント人への手紙8章1-3節
「それ、もう知っている。聞いたことあるから」という態度はその人にとって損だと思います。子供がよく「そんなの知ってるよ!」といいます。すべての分野において、日々発展・進歩・開発は進み、何にしても学び続ける姿勢は重要ではないかと。「学ぶことをやめると、その人の成長は止まる。」と東京の牧師がよく言っていました。もちろん、これが強迫観念のように勉強しろ勉強しろと追い立てられるのは、つらいと思います。健全に必要なこと、興味があることを学び続けられる環境は、ある意味、非常に恵まれていると思うのです。
今日の箇所の背景は、イエス・キリストの使徒パウロが2千年前、教会が始まったばかりの頃、新しく信じたコリント町の人々へ、信仰の実生活への応用面での指示を書いているところです。ある人たちは、自分たちは知識があるから、これこれしたって別にかまわないでしょ?と、他の人のことを配慮せず、結果的にある人たちを傷つけてしまっている状態がおこっている。
いくら聖書の内容を”知っている”と主張し、教会に通い続けて何年であろうと、もし私がその知識で他者を傷つけたら意味がないのです。私は、時々これをやってしまいます。相手のことをよく知りもしないで、クリスチャンという勝手な基準で、聖書のことばや正論をぶつけ、相手をつまずかせる。私の動機は相手にイエス様の愛をもっと知ってほしい、また相手の苦しんでいる状態を神様のことばで助けたいと思ってのことですが、かえって相手をつまずかせることもあり、その場合赦してもらうしかないですが。私はつまづきの基、害となる、もう何もしないほうがいいと落ち込むことが多々あります。
しかしながら、一方で聖書のことばは生きているので、私の狙いや意図をこえたところで、聖霊が一人一人の心にそのことばを響かせる、ヒットさせるという、非常にうれしいことも、幸いに経験できるのです。私という媒介は消えて、聖書のことばだけが折りにかなって、相手に伝わってほしいです。また知識よりも大切なのは、愛、つまりここでは相手をもっと知ることなんだと。失敗から学び、神様に助けを祈りつつ、人と関わる場合、知恵をくださいと求め、聖書の言葉のわかちあいを止めずにいたいなと思わされました。 |
Aug. 26 |
Acrostic Poem:語呂合わせの詩
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを
学ぶことができました。」 詩篇119編72節
詩篇という本の119編は、語呂合わせの詩です。22のパートに分かれ、各パートの詩の一行一行がへブル語の22のアルファベットから始まります。たとえば日本語でいうと、あいうえおかき。。とすると、最初のパートの詩はたとえば”あなたは〜”のように、”あ”から始まる行で、次のパートは”い”から始まる詩の行で構成。日本語に訳された聖書ではそのAcrostic
Poem の語呂合わせが味わえませんが、内容が生活のなかでとても励まされるもの、教えられるもの、心に響くものばかりです。
今日の箇所は、経験しないと限りすっとはいってこない箇所だと思います。誰も苦しみ、困難、艱難を望みませんし、できることなら苦しみは避けたい、平穏に過ごしたいものです。
私は振り返ると、苦しみ(たとえば病気)の最中はそんな余裕はなく、後になってから「苦しみにあったことはわたしによいことだった」といえて、逆にそこを通して与えられた大きな恵みに感謝できるようになり、すべてが意外な展開、益に変えられた事があります。そして、これによって"あなたのおきて"(神様のおきて:神を愛し、人間どうしで互いに愛し合うが中心)を学ばざるをえない状況になると。しかし、私の場合は”喉もとすぎると暑さ忘れる”で、すぐ忘れてしまうのが難点です。ですから、日々聖書の箇所を順々に読んでいくと、いろんな箇所で思い起こされ、いつかは心にそのことばやおきてが身についていくよう、神様の力でそう変えられたいと願います。聖書のことばは日々のごはんです。毎日食べて養われます。
では、神さまはどのように私を愛してくれたか? それは、イエス・キリストの十字架での犠牲、私の罪のために罰をすべて受けてくれたことで表わせれていて、今も復活されて天においても、私のケアをし、祈りを聞いてくれています。この十字架の死は、神様がそこまでして私を愛しているのかが示されています。そしてこの愛は、いっぺんにわからないものかと。生活しているなかで、小さいことでも神様とコミュニケーションをとり、もっと神様・イエス様を知る。知れば知るほど、自分がどんなに良くしてもらっているか、守られているか、失敗しても見捨てられず、赦され、いつでも助けが与えられていることを通して、どのように愛されているかを味わえるようです。更に、苦しみを通しても、神様が私をどんなに愛してくれているかを体験できるというのは不思議です。
この神様の愛を一人でも多くの方が、知って、味わっていただきたい、と願いつつ。
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Aug. 25 |
”反発” 「わたしをあなたの戒めの道に導いてください。
わたしはそれを喜ぶからです。
わたしの心をあなたのあかしに傾けさせ、
不正な利得に傾けさせないでください。
わたしの目をほかにむけて、むなしいものを見させず、
あなたの道をもって、わたしを生かしてください。
あなたを恐れる者にかかわる約束を
あなたのしもべに堅くしてください。」 119章35-38節
あるとき気がついたのですが、私は、上におかれた権威(親、教師、上司、牧師等)に反発しがちで、従いたくないという気持ちがむくむくとわいてくることです。自分のことを棚にあげて批判したり、従順じゃない面があるのです。もちろん、横暴な上司、不正なことをする上司にはNoとはっきり言いたいと思いますが。さらに、聖書によくでてくる”教え、戒め、教訓”という言葉自体、大体、それにしばられたくない、従いたくないと思う人は多いのではないでしょうか。
神様の教え、戒め中心はものすごくシンプルです。神を愛し、人を愛す。具体的に見えない神を愛することとは?「神を愛するとは 神の戒めを守ることです。それは重荷になりません」*1とあり、結局また神の戒めにもどる→その戒めとは:神を愛し、隣人を愛する。互いに愛し合う。つまりすべて愛なのです。それなら、いい教え・いい命令だなあと。ただ神の基準での愛するとは、素の自分では実行不可能というのが問題です。
それでも「重荷にならない」のはなぜ? できないと開き直るのではなく、できなくても、できないなりに、神の愛の戒めをやろうと心にとめ、神様の力で可能だから助けてくださいと神様に祈り続ける。あきらめないで。すべての人間関係において、たとえ上におかれた権威であっても、神様が助けてくれるという約束を信じてTryしてみようと思います。 *1 第一ヨハネ5章3節 |
Aug. 23 |
”珍しい地震@北米東海岸”
「神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
このゆえに、たとい地は変り、
山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
そのさわぎによって山は震え動くとも、
われらは恐れない。」 詩篇46篇2-3節
本日、いつものように仕事をしていると、「さっきの地震感じた?M5・9もあったんだってよ!」と興奮してアメリカ人の患者さん達が話していました。東海岸はめったに地震というような地震はおこらないと、地元住人から聞いていたので意外でした。アメリカではカリフォルニアは地震、中西部は竜巻、南部はハリケーンがあるが、東海岸は安泰!という神話が崩れ、「Who
Knows?」と皆さん口をそろえて言っていました。
私とドクターはぜんぜん揺れに気がつかなかったので、あきれられました。ちなみに東海岸での最大記録は1886年 Charleston(S.C.)でおきた、M7.3だそうで、M5くらいは東海岸でも時々おきているようです。20世紀にはいってから、世界的に、巨大地震の数が有史以来急増という話を以前聞きました。地殻変動が激しくなっているのでしょうか。
地震は正直怖いです。しかし、今日の箇所のように 神様が逃げ場、また力であると、天災時も恐れない、とこの詩篇の作者は神様に賛美を歌っています。このような確固とした信仰を与えられ、次々と報道されるニュースで思い煩わずに、神様に信頼していきたいと思わされました。 |
Aug. 18 |
”砂浜の足跡”
「・・・こうして主はかれらの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみとによって主は彼らを贖い、昔からづっと、彼らを背負い、抱いてこられた。」イザヤ書63章8-9節 (主:神様、イエス様)
ある人が砂浜をイエス様と歩いていました。人生のさまざまな場面で、砂浜には自分の足跡とイエス様の足跡が並んでありました。しかし、よく見てみると、なんと自分が人生で辛い悲しい時期に足跡は一つしかないのです。そこで、その人は質問「イエス様、私があなたについていくと決めた時、あなたはづっと一緒に歩むと言ったのに、どうして私が一番辛い時に、一緒に歩いてくれなかったんですか?私が一番あなたを必要だった時に、あなたは私を置き去りにしたんですか?」。するとイエス様はこう答えました。「私の大事な子よ、私はあなたを愛しているし、決して見捨てないよ。あなたの試練・艱難の時に、足跡が一つしかないのは、私があなたを背負ってたんだよ。」 (Footprint
of Jesus より要約)
この話は今日の聖書の箇所に基づいた話です。古代ユダヤ王国時代の預言者イザヤを通して、神様が語られたことばで、今に生きる私たちへの約束でもあります。神様は決して見捨てない、私が独りで歩けない時、背負ってくれて代わりに歩いてくれる方だと、今日の聖書の学び(創世記のヨセフの話)から学びました。特に、神の子イエスが人となって生まれてきて、人の体の痛み・試み・十字架刑における拷問・あざけりを体験されているから、神であっても人が経験しうるすべての苦しみに同情できる、そして実際一緒に苦しんでくれて、天使を送って脱出の道も備えてくれるのです。
しかしながら、”自分の人生、好きなように自分で歩きたい、神様なんていらない”と、神様を拒否することも可能です。神様は個々人に強制されない方だから。でもすべての人に、この愛を受け取ってほしいと願われていると聖書に書かれています。私は、たまたま憐れみで、信仰を与えられたものとして、この神様の大きな愛を一人でも多くの人が知り、キリストと共に歩むことを選んでほしいと願い祈りつつ。 |
Aug. 17 |
”キルトでハグ@石巻”
「しかし今の場合、聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こうとしている。
なぜなら、マケドニヤとアカヤとの人々は、エルサレムにおる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからである。」ローマ人への手紙15章25-26節
東京の母教会の友人がメイルで、先日、東北の石巻に言ったときの話をメイルで分かち合ってくれました。彼女は暑い中の労働作業と、もうひとつ興味深い活動は、仮設住宅の人たち1軒1軒にキルトを配ったということです。
このキルトはアメリカ人のクリスチャンのグループが千枚のキルトを作って、東北の人へ配ってほしいと送ってきたもの。アメリカ人は相手が悲しみにある時、ハグ(抱擁)でもってその思いの共感を示す文化ですから、彼らとしては直接は遠く離れた日本人をハグできないけれど、そのキルトでアメリカから東北の人たちをハグして包みたいという気持ちを込めて作ったそうです。手作りのパッチワークにみな非常に喜んで受け取ってくれたそうです。仮設住宅はフローリングなので、テーブルの下に敷くのにちょうどいいと。そしてこれらのアメリカ人および自分達の活動の動機が、艱難の中において、失意の中にある人々に神様の愛を伝えたいということで、聖書も一緒に配ったそうです。また彼女は、1軒1軒訪問すると、その場で彼らの話:震災のこと、家族を失った悲しみ、またその人の生活暦を聞くことができ、非常によかったと、喜びにあふれて現地での奉仕の様子を話してくれました。
今日読んだ箇所は、2千年前、初代のクリスチャン、教会が出来上がったばかりの頃、エルサレムで人々が物質的に困っている時に、海外に伝道中の使徒パウロが、異国のクリスチャンが彼らをサポートしたいという気持ちがあることを手紙に書いた部分です。神様は人間を創られて、その創られたものをケアし、愛していることを知らせたいと、キリストをこの地上に送ってくれました。そして我々人間が真の神を無視して自分勝手に生きてきて、羊飼いのいない羊のように右往左往しているのを救いたいと思って、神の子:キリストを送ってくれました。
この神様の愛を、聖書を通して、また信じている人々の活動を(金銭的援助・キルト等なんでも)通して示そうとされているにあたり、キルトを見て、ふと、これは何だったっけ?と思い出してほしいなあと祈りつつ。
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Aug. 16 |
”滑って転んでも。。。”
「もしも主がわたしを助けられなかったならば、
わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、
主よ、あなたのいつくしみはわたしをささえられました。
わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、
あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。」 詩篇 94編17-19節
私はよく転びます。大人になってからですが風呂場で滑って転んで頭をうち、一瞬気を失ったり、ヘルメットなしでローラーブレードをやっていて、よそ見して転倒しまた気を失い、公園にいた周りの人があわてて救急車を呼んで大騒ぎになったり。3年前は、教会で寸劇の練習をしていて、劇の中でもみあうシーンがあり、演技だけど相手の力がはいりすぎ、はずみで突き飛ばされてよろけて植木鉢に肋骨をうち、もう少しで骨が折れるところでした。(しばらく動けなくて仕事も休みと悲惨な目に、もちろん劇は代役が。。)。小さい頃も、2階の階段からよく転げ落ちていました。こうして何度も頭を打つたびに、ちょっとねじが足りない状態になり、今があるのかもしれません。
しかし、いつも思うのは今日の箇所のように、どんなに転んでもいつも私は神様に不思議と支えられ、大事故に至らないことを改めて感謝するとともに、いい加減もっと慎重に行動しようとも反省します。そして、病気・怪我だけでなく、普段の生活の中で私のうちに思い煩いがわくことがあります。
普段は神様がよくしてくれるからなんとかなると信じているのですが、時々なかなか変わらない自分のよくない心や現状・不意に起こる予想しないことに、落ち込むことが多々あります。そういうとき、神様の慰めが私の魂、心の深いところで、別のことを通してキリストにある喜びが与えられ、また聖書のことばがタイムリーに与えられて立ち直れる力がいつも与えられるのです。本当にこの聖書のことばのとおりだなと、感謝しつつ今朝も一日を始めようと思わされました。 |
Aug. 15 |
”ソマリア” 「貧しい者をかえりみる人はさいわいである。
主はそのような人を悩みの日に救い出される。
主は彼を守って、生きながらえさせられる。
彼はこの地にあって、さいわいな者と呼ばれる。
あなたは彼をその敵の欲望にわたされない。
主は彼をその病の床でささえられる。
あなたは彼の病む時、その病をことごとくいやされる。」 詩篇41章1-3節
内戦が続き、さらに干ばつも発生と多くの人々が生命の危機に瀕しているアフリカ、ソマリア国では過去20年間で最悪と、現地で働く医療系NGOが報告。それなのに、日本・米政府からの援助食糧が飢えている人々に届かず、なんと首都のモガディシュの市場で売られているという記事(日経WEB版8/16)を読んで怒りと悲しみがわいてきました。とにかく、無政府状態のため、すべてが無法状態。インドでも、海外からの食料支援(穀類等)が大量に倉庫で腐っていたことも聞いたことがありますが、ようはきちんと分配されないのです。我々の税金から、もしくは個人的な寄付が時々こうして現地の飢えている人に届かず、無駄になってしまうことは、悲しいことです。
遠いアメリカに住んでいると、どうすることもできない。私は以前より、アフリカの政治的な問題、民族紛争に興味があり、そのためいつになっても普通の生活ができない人々に対して心が動きます。現地には行けないかわりに、支援団体をよく吟味してサポート、そして祈りを続けていますが(「困った人への支援の動機と・・・」という題でHPに詳細)、こういうニュースにまたかと正直落胆します。
神様は人の欲が富の分配を妨げていることはご存知で、だからこそ、聖書での教えは”貧しいものを顧みなさい、やもめと孤児の世話をしなさい”と、薦めています。不完全な人間を用いて、微力ながらも出来ることを神様から示されて一歩踏み出すと、神様の不思議な導きで大きな働きとなったりすることを、他のミッショナリー・NGOの開発途上国での活動を聞く時、励ましが与えられます。また今日読んだ箇所からも、たとえ悪行が横行する中でも落胆せず、理不尽なことは神様に任せ、祈っていこうと思わされました。 |
Aug. 11 |
"復興を願う花火 8月11日夜"
「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。」エレミヤ書29章11-12節 (主:神様のこと)
今日でちょうど、あの未曾有の東日本大震災から5か月。ニュースによると11日夜、岩手、宮城、福島の3県の沿岸部10か所で犠牲者の追悼と震災からの復興を願う花火が一斉に打ち上げられたそうです。昨晩たまたま、教会(アメリカ人の教会:Calvary
Chapel Phila.)においてあった世界の宣教状況を伝える雑誌に、日本の記事がのっていたのを寝る前に読んでいました。
この5ヶ月、多くの人が海外からボランティアで支援にかけつけてきてくれましたが、特にクリスチャンの人達はその動機が、物質的支援だけでなく、心・魂の支援:キリストを通してつまり絶望から希望をもってほしいという、そのために現地の人々に仕えることで、その様子が記事を通して伝わってきました。写真とともにある解説を読み、ああこの牧師も、この人も仕えてくれているんだと、日本にいたときから知っている、自分が所属していた東京の教会の牧師・アメリカからの宣教師やその教会のメンバーの人々の名前や写真を見つけてうれしく思いました。
今日の箇所は、約2500年前、古代ユダヤ人の王国がバビロニア帝国に国を徹底的に破壊され、人々はみな捕囚として他の国へ移されたという絶望的な状況において、神様が預言者エレミヤにより、ユダヤの人々に手紙を通して語られた言葉です。
このことばは今の日本への神様からのメッセージでもあると信じ、必ず復興してほしい、そして何よりも傷ついた心が神様の愛、キリストの愛によって癒されてほしいと今朝も祈りつつ。そして私たちが唯一の真の神に祈る時、神様は祈りを聞くという約束を信じたいと思います。 |
Aug. 8 |
”弱さを誇る” 「・・・わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」第2コリント人への手紙12章9-10節
先日、私の日本人の知人が、アメリカでの試合に来ているK1(格闘技)選手の通訳の仕事を頼まれたと、少し興奮きみに話していました。日本は小さな国だけど、野球では一郎選手、サッカーでは今回なでしこジャパンは優勝したし、世界的にある分野で強い人々・チームが頭角を表し結果をだす、それが同じ日本人だったりすると、同胞としてその強さ、勝利を誇れるものがありますね。
「人は共通して古今東西、”これだけは弱い”部分とはなんだと思いますか?」と先週金曜の、聖書の学びで私が質問しました。その方は「う〜ん、そうだなあ死かな、死ばっかりには誰も勝てないし」と答えました。確かに。そして私は「人はたとえどんなにある分野で才能・能力・気質が優れていても、共通して弱いことは”人を赦すこと、人を(神の基準で*1)愛すること、あとキリストを信じた後、自分の力で従うことに弱い”かな」と以前教えられたことをわかちあいました。多くの人が、何かでもってプライドを持ち、それで自分を立たせているところがあり、決して弱いと認めたくないのではないでしょうか。
”宗教は弱い者が信じるもの”と一般に言われますが、ある意味そのとおりだと思います。人は問題をかかえ自分の力ではどうしようもないとき、神頼みに走ります。しかし、それがおおよそ”のどもと過ぎれば暑さ忘れる”で一時的だったりします。キリストを信じる信仰はある意味逆説的なところがあって、その弱さのゆえに神に助けを求めたとき、神の強さがその人の弱いところに現れる、つまり不思議な方法・展開で助けが与えられる、だから「喜んで自分の弱さを誇ろう」と、キリストの弟子パウロが説明しています。これは弱さを開き直って、自己憐憫にひたる(どーせ自分はだめなんだ)のとは異なります。
昨日牧師が「どんなにビジネスで成功していて裕福な人でも、また社会の底辺で貧困と犯罪のなかに生活している人でも、神の愛をしらなければ結局のところ彼らは同じ問題を抱えている。何かが心の中で欠けていて、心理カウンセリング・お金・宗教・人の愛Etc.何をもってしても埋められない」と。キリストを通しての神の愛には可能。
キリストが私のこの弱さゆえに犯す罪のために、何をしてくださったかが個人的に分かれば分かるほど、その十字架上の犠牲の愛と赦しを受け取り、感謝し、その愛に自発的に応答していきたくなる。いっぺんには変わりませんが、その弱い人を通して、神様の光が輝くようになる。その人自身がすごい・偉いのでなく、月が太陽の光を反射して光るように、神様の力がその人を通して輝く。また、神のSpirit(聖霊)が心に信じると与えられるので、その聖霊が内側に住むとそれが内の光となる。イエス様は「あなたのうちの光が、暗闇にならないように、気をつけなさい」*2とも言われました。私はすぐに自分のうちに与えられているキリストの光におおいをかけて暗くして、自分の力でがんばろうとして、うまくいかず空回りしてしまう者です。生活のなかでどうその光に応答するかが大事なんだなと、もっと助けを求めようと思わされました。
*1 「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
」Iコリント13章6-7節
*2 ルカによる福音書11章35節 |
Aug. 4 |
”荷物の係り?” 「レビ人のつかさケナヌヤは荷物の係りで、荷物のことを指図した。彼はそれに通じていたからである。」(第一歴代誌15章22節)
「Kenaniah the head Levite was in charge of the singing; that was his responsibility because he was skillful at it. 」 (I Chronicles 15:22) NIV訳
私にとって喜びのひと時はミュージシャン(ボーカル、ギター、ベース、キーボード、パーカッション等)たちの上手な演奏とリードに合わせて、礼拝のなかで賛美を歌う時、また車の中でラジオにあわせて一人で同じ賛美を歌っている時です。
賛美について、先日、新たに教えられたことがありました。私が持っている聖書は英語と日本語の対訳ですが、昨日読んでいてあまりにもその訳が異なるのでびっくりしました。それは、ある人のことを英語訳では”歌の担当”と訳してあるのに、日本語訳では”荷物の係り”となっているのです。前後の文脈でいくと、礼拝での賛美の話、音楽・楽器の話なので、歌の担当のなのですが、そこだけの日本語訳だとまるで楽器の機材の荷物担当のこと?と誤解していまう表現なのです。(上記対訳参照)
さすがグーグル!調べてみると、このなぞが判明。旧約聖書はヘブル語で書かれているので、原語からすると両方とも訳の通りだそうです。ヘブル語での「歌」という言葉はここでヘブル語のマサ massa、ハマサ hammasaで、また”預言の重荷”という意味もあり、単なる荷物を負うのでなく、預言者が預言の重荷を負うという意味がある。つまり預言の担当でもあり、そして歌の担当で、その面で非常に優れていた人だそうです。
古代ユダヤのダビデ王の時代、神様を礼拝する人たちは音楽の才能に優れているだけでなく、神様からことばを預かって(預言)それが歌で表現されていて、聖書のなかで詩篇としても記録されています。古代からレベルの高いシンガー・ソング(預言)ライターが聖書の世界にもたくさんいて、彼らは神様への礼拝賛美を担い、そこにいる会衆が賛美に集中できるようリードし、歌と預言で礼拝していたことを学ばされました。教会は説教やメッセージを聴くだけの場所ではなく、中心は神への礼拝、もっと心を込めて賛美したいと思いました。 |
Aug. 2 |
"通訳としてのiPadの効用" 「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。 だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもお赦し下さい。
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」
マタイによる福音書6章8-13節
先月から英語の通じないメキシコ人の患者さんが歯医者に通っています。娘さんが一緒にきて、英語からスペイン語の通訳をしてくれます。ところが、歯科・医療用語となると、中学生のお嬢さんにはまだわからない部分があり、正確に本人に伝わりません。(私は多少スペイン語をかじったことがあり、通訳されているかどうかくらいは多少分かるので)そこで、ドクターにiPadを使って、通訳のWebページにて本人に説明をするのはどうかと提案しました。これですと治療中、椅子に座ったまま顔の前まで持ってきて、通訳の内容をスペイン語で見せることができます。私が英語の文章をタイプし、変換キーを押すだけでスペイン語の文章が表示されます。時代はどんどん進化、そのうちiPad等を使って簡単に音声で認識し、自動で話してくれる通訳ソフトの普及の日も近いでしょう。
天国では何語が話されるのかな?このところ”祈り”についてのメッセージを幾つか聞く機会があり、ふと思ったのですが、神様というのはすべての言語を理解できるから、通訳はいらないんだと。逆に天国にいったら共通の天国語があるのかなと想像したりします。
イエス様は今日の箇所で、神様は私たちが祈る前から、必要を知っていると。では、なぜ分かっているのにあえて祈るんですか?それは祈りは単にお願いをするだけのツールでなく、神様とのコミュニケーションだからです。親としてはすでに内容が分かっていても、子供のほうからあえて相談してほしいのです。親子のコミュニケーションに形式があるでしょうか?もし「お父様、第一にこのことを今日はお願い致したく」なんて、格式ばって自分の父親に話すのであれば、ちょっと窮屈な関係ではないでしょうか。
イエス・キリストを信じ、”天のお父さん”(アバ)と神様に向かってする祈りは、宗教儀式ではなく、いわば親子のコミュニケーションのようなもの。飾らず、等身大の自分で話かけるといいと、今日も別の牧師が話していました。イエス・キリストのおかげで、iPadも使わず、仲介者(例えば、他者や神父とか)をいれずに、なんでも直接祈れるのは本当にありがたいです。キリストご自身が神様と私たちの仲介者ですから、キリストの名前で祈りますと神様に伝えれば、会話が通じ祈りが聞かれるわけです。
不思議ですが、そう聖書に書いてあるので素直に信じ、今日も寝る前にベッドの中で(だらしなくてすいません、でも子供が親に話かけると想定すると有りでしょう)天のお父さんに話してから睡眠にはいろうと思います。 |
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