Sep. 28 |
”要観察”
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
」エペソ人への手紙2章8-10節
今日は、マンモグラフィ(乳がん検査)で精密にとるというので朝早く行くと、たくさんレントゲン技師がいる中でちょうど2週間前に私を担当した人が、また担当。「私のこと覚えている?」と。いや覚えていますよ、なんだか撮り方がいいかげんで、なぜ医療従事者なのに長いつめとマニキュアしてんだろう、とちょっと信頼できず、あなたの撮り方が悪いから再検査になったんじゃないのと、疑っていました。(前の日記参照)
そこでなぜまた撮るのかと聞くと「右胸に何かあるからドクターは精密に見たいというのよ」と、前回とは別の器具をつかって右だけ撮影。こんどは挟み込み方も痛く感じるほど、ちゃんと撮っている様子。ごめんなさい、あなたの撮り方が悪いから画像取り直しと疑いました〜、私の方に疑わしいものがあるからだったんですね。そういえば、昨年も右だけ取り直したっけ。
今回は更にエコーにても詳細を検査され、一瞬、え?今度は乳がん?と思いがよぎり、待っている間神様に祈りました。どんな結果でも、あなたに信頼できるようにと。幸い、Biopsy(組織検査)をとるまでのものではないらしく「ただの細胞みたい、要観察」といわれ、ほっとして帰宅。昨年胃のときは、小さな残胃にポリープができていて、組織検査をしてもらい大丈夫でしたが、まあ神様にお祈りしたから大丈夫でしょう。
自分の寿命はいかばかりかはわかりませんが、神様の恵みによって、平安にすごせるよう信仰をプレゼントで頂いています。だから、私なりの神様の目における「よい行い」が生きている間できればいいなあと、それだけを願おうと思います。その行い自体も自分の力でやらなくていいから気負いがないです。みな神様が助けてくれるので☆ |
Sep. 27 |
"指摘されてむっとして"
「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」ガラテヤ人のへの手紙 6章1-3節
私がづっとまえ、信仰がないのに、とりあえず習慣で教会かよっていた時期がありました。その時は聖書の教えは知識としてある程度知っていても、生活の中では自分の意思でそれができなくて、実践を諦めていました。ある時、信じて洗礼を受けらたばかりの女性と話を交わしていて、つい私は自分の私生活のことをぽろっとこぼしました。すると、その女性に「それはいけないでしょう!」とストレートに言われ、その場は適当に穏便にごまかしましたが、内心「うるさいなあ、あなたみたいに信仰深くないんだよ!」とむっとしました。わかっているけど、仕方ないんだよと開き直り。その直後、彼女が指摘したことに関して、ものすごい人生で痛い目にあい、あの時彼女のまっすぐな忠告を受け取っていたら。。と思う程深刻なことがおこりました。
教会に行っていても(行かなくなった人も)、以前の私のようによくわからないけどなんとなく神を信じているが、イエス様を個人的に自分の救い主と信じていないので、キリストに従おうという気がない段階や、また信じた後でもその人の成長の度合いも異なります。そういう相手がもし罪を犯していた場合、他の信者が柔和な心で相手の過ちを指摘しましょうというのが、今日の箇所です。
しかし、相手が他者からの指摘を跳ね返してしまう心の状態であれば、黙って相手の心が開かれるまで、聖霊が本人に気がつかせるまで待って祈る時期なのかもしれません。実際、その時期に指摘して、ある人々から思いっきり、「あんたみたいに信仰深くないんだよ、ほっといてよ!」「あなたは、私の話をただ受け止めて聞いててくれればいいんだよ!」等々いわれました(涙)。私は相手の重荷をともに負いたかったのですが、タイミング悪し。以前の自分が内心思っていたことをよくもはっきり言ってくださいました! 気持ちはわかりますが、そのままでは辛い状態が続いてしまうのです。
ここでの”互いの重荷を負いあう”とは、言いにくいことでも互いの問題を分かち合い、その解決を共に神様に祈り、相手の悩みも自分のことのように祈りあうことではないでしょうか。決して腫れ物にさわるように傷つけまいと何もしないのではなく。私は以前の自分が、どんなに神様に反抗し離れていたどん底状態より、憐れんで、助けられたかを経験しているので、決して信仰深くなんかありえない。神様の一方的な憐れみと恵みで、今の自分があるだけ。そして人の事だけでなく、自分も日々反省しつつ。 |
Sep. 26 |
"避難"
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」ガラテヤ人のへの手紙 5章19-24節
昨日の夜、家主がちょっと不在の間(約2時間)、飼い犬の大型犬が、家主がいないので不安になり、ほえ続けていました。誰もかまってくれないので、裏庭で走り回り、うなりと、もう私はそれが気に障り家にいられなくなり、車でファーストフードまで走らせ避難しました。そこで本を読んで、少しいらいらを収まらせ、帰宅すると家主が帰ってきていたので、犬は落ち着いていました。
この犬は夜、彼女がいないと不安になり、前回も夜中12−1時の間、家主が帰るまでほえ続けることもあります。私はそのたびに眠れません。家主も四六時中犬と一緒にいられないわけだから、仕方がないことなのです。もちろんこれはいつも起こるわけでなく、私が一番疲労がたまって寝る必要があるときに限って、犬がほえ続けるのです。家主は私が犬が苦手なのを知っていて、普段気は使ってくれているので感謝です。が、辛い。。。
昨晩も、必死に祈っていました。神様私に忍耐を与えてくださいと。もし機会があれば、犬がいない家に引っ越せるようにとも。というのは神様は耐えられないような試練に会わせず、脱出の道を備えるとも聖書には書いてあるので。
今日の箇所にあるように、キリストを信じて、心の内側が神様によって愛、慶び、平和、寛容。。。と変えられるとの約束があっても、それは一晩では起こりません。このプロセスは死ぬまでの現在進行形で、下記の内容もキリストの使徒パウロが、クリスチャンに向けて書いている手紙です。信じたといっても、依然として神様が悲しむことを今まで気にしないでやってきた習慣・気質でしてしまうことがあります。私の犬に対するいらいらの心は神様は喜ばれない、というのはそれが犬ではなく、飼い主に対する不満につながってしまうからです。キリストの愛を注いで、心の態度が変えられるよう祈り続けたいと思います。そのうち、犬の吠え続けるなかでも熟睡できること期待して。 |
Sep. 25 |
"家族内の対立"
「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、
また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。ルカによる福音書
12章51-53節
私の祖母とは母それぞれ、彼女たちの姑と一緒に住んだことがないそうです。ですから嫁姑の苦労がありません。どちらの立場になっても、一緒に住めば他人同士多少は対立はおこるでしょう。血がつながっていても、小さいことでけんか、ひどい場合は断絶になる場合も。
今日の箇所は、イエス様が耳障りの悪いことをはっきり言われます。普通の家族間における対立とは別に、イエス様が地上に来たことで、分裂が生まれると。それはイエス・キリストを信じる人と信じない人との間の分裂です。私みたいな意思の弱いものは、もし宗教上の迫害がおこったら貫き通す自信がないです。しかし、まことの神様は、私を愛して下さり、私が永遠に生きるために、わざわざ自分の子を十字架で苦しませ死なせたことを思うと、こんな自分のためにキリストの命がかかっていることを有難く思うのです。だから信じています。そして自分の力や意思では無理でも、必ず守れるように神様がなんとか助けてくれるという確信はあります。
信仰は個人のもの。真剣に信じていたら家族がこうだからと、それを変えるわけにはいかないものです。家族の誰が、相手の信仰を捨てることに責任を取れるのでしょうか?人の命が、この世限りで終わるのであれば、家族を悲しませてまで信仰貫き通す価値はない。しかし私は命はこの体が死んだ後へもつながる、永遠のことだと信じます。分裂があっても、私のなすべきことは、家族をとりなす:例えば100歳の祖母がイエス様を最後に信じてほしいとあきらめずに、毎日祈っています。
聖書は、うまいはなし、耳障りのいい、ありがたい説法ばかり書いてありません。神様は愛であり、また正義でもあるので、キリストを通して示される神様の人間への愛(福音:GoodNews)と、またそれを受け入れない人への最後の裁きのこと(BadNews)も、両方が情報開示されています。愛だけ、もしくは裁きばかり強調する宗教は正確なメッセージではないと思います。究極的には一人でも多くの人が、この愛をうけとってほしいと神様は願われて待っていることに、希望があると思うのです。 |
Sep. 23 |
”高校の恩師の還暦”
「ただ彼らは、「かつて自分たちを迫害した者が、以前には撲滅しようとしていたその信仰を、今は宣べ伝えている」と聞き、わたしのことで、神をほめたたえた。
」ガラテヤ人への手紙1章23-24節
昨日、同級生からメイルにて、私たちが高校三年時の(小中高一貫教育でした)担任の先生が、還暦を迎えるので皆でお祝いで集まるという知らせを受けました。時の過ぎるの感じつつ、私はその先生の専門、世界史の授業を思い出しました。彼の教え方のおかげで、私は中学の頃から非常に世界の歴史・文化・政治にとても興味を持ったのです。その後アメリカに留学して、それが紆余曲折、今もアメリカに住んでいることは多少影響があると思います。教師の影響というのは大きいとつくづく感謝です。
人に何かを教える・説明というのは重要な役目。学校で生徒を教える、会社で商品・サービスを説明する、そして教会では牧師だけでなく、普通の信徒も聖書を小さい子供から大人にいたるまで教えるという役割が与えられることがあります。何にしても人に何かを教えるとは訓練も必要ですし、また個々人の才能・資質もありますが、それ以上に重要なことは、その内容を相手に伝えたいという熱意・ビジョンだと思います。技量は後からついてくるものでしょう。
今日の箇所は、2千年前パウロというキリストの弟子が、自分が伝道した町の人にフォローアップの手紙を書いた内容で、それが聖書として残されています。パウロはイエスを伝えたいという熱意にあふれ、また彼の才能(当時のユダヤ人で最高の教育を受けていたこと、バイリンガル:アラム語・ギリシャ語堪能)が生かされ、キリスト教が世界に広まっていく上で非常に大きな働きを神様から与えられました。一方、彼は実は以前はクリスチャンをカルトとして迫害していたリーダーでもあったのですが、突然、クリスチャンへ回心。彼は以前の自分を知っているので非常に謙遜で、自分の才能を誇ることなく、すべて神の恵みだと繰り返し手紙に書いています。
私は今小さい聖書の学びを大人と子供向けに神様から任されていますが、本当に私の資質は貧しく・経験も足りないです。しかし神様からビジョンとイエス・キリストのことを聖書を通して伝えたいという熱意が与えられているのが、感謝です。そして私の思いを超えたところで神様が助けてくれます。今はこれが一番楽しいです。1年半前そんなことを自分がするとは全く想像もしなかったことです。よって自分の中にはなかったもの、すべて神様から今の自分が与えられています、だから神の恵みというんだと、少しづつその意味を実感しているこの頃です。 |
Sep. 22 |
”20代パワー炸裂”
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。」
伝道の書12章1-2節
私はここ数日で多くの新しい出会いに、非常にエキサイトし、また励まされています。
アメリカ人のなかで多くの方が(もちろん一部の方は異なりますが)あまり海外に出かけないと聞きますし、東京が日本なのか中国なのかも知らない人と以前話したこともあります。そんな中で、なぜか他国に興味をもち、わざわざそこへ行って宣教師になろうというアメリカ人と話す機会がありました。何が彼らのその勇気を駆り立てるのか!
昨日はクロアチアという国に宣教師として本日、旅立つという若いカップルと話せました。クロアチアは20年前から、そのエリアは世界の火薬庫とよばれた程民族紛争が激しく、戦争終了後も国は貧しいまま、16歳からアル中の子も、人々の心は傷ついています。そして2週間前にあった青年は、今回の大震災を被った日本へ、この夏、東北の石巻に2週間教会のボランティアで行ってきた方です。彼は自分のフルタイムの仕事を辞めて、石巻に行き、(アメリカは2Wも休んだら不況ですからすぐ首切られます)そこで更に長期的にここに住んで、宣教したいという思いが神様から与えられたというのです。彼はとても静かな青年ですが、その心の深い所に一本筋の通った強さを感じさせられます。
その方は別に神学校へ行ったわけでもなく、ただ小さい頃から教会に行き、信仰を持ち続け普通に社会人をやっていて、また、彼の彼女はU-Pen(ペンシルバニア大学)の医学生。彼氏が今回の件で、日本を勧めたわけでもないのに、教会で牧師の話を聞いていて、個人的に示され、自分もやはり日本へ行きたいという思いが自然と与えられたそうです。それはつまり、医学生を辞めて、彼と一緒に日本に宣教師としていくという大きな進路変更と犠牲を払う覚悟。誰からか頼まれたわけでもなく、呼ばれたわけでもなく。神様からのCalling(呼ばれる)をキャッチすると、知識・経験はなくても、神様に従って任せる思いで、信仰で一歩踏み出そうと決めれば、導きならば道が開かれる。二人は今それが神様からなのか、はっきりされるため祈り始めたそうです。
私は日本人として、そこまで日本のことを思ってくれる人に本当に感謝します。そして、何か私で手伝えることがあればできないかと。クロアチアの人も彼らはみな20代。その大胆さとパワーを感じました。そして、今日の箇所のように「あなたの若い日に、あなたの造り主:神を覚えよ」ということばが、まさに若いときに信仰を持つと大きなことで、神様に用いられるチャンスでもあると。もちろん、わたしのような年齢の者も、それなりに、小さいことでも、楽しめるので感謝です! |
Sep. 20 |
”動物は天国へ行くんでしょうか?”
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」伝道の書3章11節
私は猫が大好きです。猫を見ているだけで心が和らぎます。その大切な飼い猫が死んだときは家族を失ったようで悲しくて悲しくておいおい泣き、会社の上司に、「猫が死んでしまったので明日は休みます」としゃーしゃーと言ってのけたほど。一方人間の死と異なり、動物は動物、とどこかで割り切れるところがあります。
人間と動物の違いは色々あると思いますが、犬や猫は神という存在を求めないこと、また、死んだ後どうなるのか、という疑問を持てないことだと思います。文化人類学的・社会学的・考古学的にも動物がお互いを埋葬したり、何かを拝んだ形跡がないのが、これらの根拠でもあります。
神様は人間を神のかたちに造られて、人に動物の名前をつけさせ、それらを治めるようにしじされたと聖書にかいてあります。が、人に罪が入った後、自然・生き物に対して、人は己の欲望の追求のため、その与えられた役割を乱用してきたのが、人類の歴史ではないでしょうか。(ある方は動物も天国へ行くと信じている方も・・・まあ、それはいってからのお楽しみでいいでしょう、動物や人のことより自身のことを考えたほうがと私は議論しません。)
今日の箇所のように、人だけが永遠を思う心を与えられた。それは造り主である、神様を求める心と、生きているだけのことでなく死んだ後のことも探り求める心を。その答えが人にわかるように、神様はイエス・キリストをこの地上に送ってくれました。私たちはキリストを通して、神とは、永遠とは、死後は?と、日常生活では考えないようにしている心の奥の深い部分の問題に光を当てられます。それを暗闇にして、ふたをして忙しく過ごすか、もしくはキリストを求め、信じて光にだし、この世のことにばかり執着せずに、永遠に向かって神様のために生きるか。二つに一つだと思います。神様は人にとってベストなほうを個々人が選んでほしいと。そしてそれを忍耐強くまっていらっしゃる方であり、感謝です。 |
Sep. 18 |
”パワフルな母”
「だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。
その夫の心は彼女を信頼して、収益に欠けることはない。
彼女は家の事をよくかえりみ、怠りのかてを食べることをしない。
あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。」 箴言31章10,11,27,30節
私の母は私が物心ついた頃から、いつ寝ているんだろう?と思うほど、いつも家族のために、教会のために働いていました。(実際、後からその頃のことを本人に聞くと、平均睡眠時間は3時間だったと!?)そして家族の中で色々ありましたが決して子供の前で弱音を言いませんでした。家事もこなし、月〜土曜までフルタイムで働き、そしてどんなに疲れていても、日曜は車で2時間かけて東京の中野の教会へ喜んで通っていました。
あのパワーはいったいどこから来るのか?と自分が母のその当時の年代になって、ますます自分にはないので不思議です。普通は自分が親になって苦労していくと、自分の親の苦労がわかるものですが、その点私は独身なので、いつまでも精神的に娘みたいな幼さ・弱さあります。もちろん神様は独身ならではの、フットワークの軽さを私に与えて下さり、それなりのやること・役割を与えてくださっているので感謝です。
最近わかってきたこと 母のパワーの秘訣は、今日の箇所にあるように、母は主(神様)を恐れる女性なのです。つまり神様を信じ、どんなに大変なことが家族におこっても、神様に任せつつ、自分もやることはやるという姿勢。妻として母として、会社員として、そして信仰を堅持する女性として。
現代は、男性と女性の家庭での役割はこの箴言が書かれた時代とは多少異なってきていますが、基本的なところは変わらないと思います。神様は男と女に人間を創造されて、それぞれに男性・女性ならではの役割を与えて、夫婦としてひとつになって家族を支えあうようになさっているんだなと。もちろん、このような理想的な家族を持つことが様々な事情で困難な場合もあります。私も独身という事情でできません。少なくとも、”今のままで”どう神様を恐れるのか、その姿勢を学んでいきたいと思わされました。 |
Sep. 17 |
心の中の戦い
「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。」 第2コリント人への手紙 10章3-6節
私はキリストを信じてから、今までになかった葛藤を経験するようになりました。また、聖書の学びに出ている方や、興味があって学んでいる人からも、「かえって知らないほうが、楽だったかも。この良い教えがいいとわかっていてもできないから。知らなければ、できなくて心が責められることないから」とのコメントも何度かいただいたことも。
イエス様は私たちに出来ない高い基準を提示して、”これを自分の力で守れ、従え”とはいわれません。また出来なくて責める方ではないのです。確かに心の中の戦いはあります。イエス様のことを知れば知るほど、これは武器をもってする一般の戦いではなく、心の深い部分の、霊の戦い、葛藤が日々あるわけです。
私の心にある要塞とは、いろんな言い訳、神に対する文句、反論、すべてのネガティブな不信仰な思いです。正直、信仰を持ってからも、ふつふつとでてきます。しかし、これは神様の力で打ち壊されるというのが今日の箇所の約束です、もし私が助けて〜ともとめれば。そして、心の葛藤、良いこととわかっててできない、したくないのにしてしまうということを、神の愛が注がれて、できるようになる。神様は、”お前でやれ”という方ではなく、”私が助けるから、やろうと一歩踏み出してごらん”と、やさしく、かつ罪・悪には妥協を決してなさらない方です。ここに神様の、深い愛を感じ、今日も感謝の思いです。 |
Sep. 15 |
more than 同類相憐れむ 「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。 」第2コリントの手紙1章4節
”ギリシャ語で”慰め”ということばは、”その人を助けるために、その傍らに呼ばれる”という意味があるそうです。聖書の後半部分:新約はギリシャ語で書かれましたので、よく日本語で訳された意味以上の味わいが原語から与えられることがあります。実際、相手を助けたいとして傍にいてくれるのは、実は本人にとってはことば以上に大きな慰めになると、おそらく経験された方は察することができると思います。私も本当に何度も慰めが与えられました。
先日、アメリカ人の教会の女性のための聖書の学びに出ました。今年のテーマは下記の箇所が引用され、この慰めの意味の説明をうけたのです。私はこの聖書の学びが非常に楽しみです。集まって学ぶだけでなく、そこに参加している人とのフェローシップ(交流)が楽しみだからです。
日本語で、同類相憐れむということわざがありますが、つまりある同じ体験をした人どうし互いの辛いところ、気持ちがわかり同情できるということです。聖書はそれより、さらにもっと深い良いことがあると。人の共感や慰めには、どうしても限界があります。しかし、病気や失業、災害、家族を失う等に会った人が、いったん神様から心の深いところで慰めをいただくと、今度は、同じように苦しんでいる人たちに、人の慰めを超えた、神から与えられる励ましをもって傍にいることができるようにしてくださると、キリストの弟子パウロが書いています。それはもう、その人を通して示される”神様”の慰め。
”受けるより与えるほうが幸いである”とイエス様は言われました。自分のキャラでは無理なので、機会があるごとに求めて、そういう相手を助けたいという心を与えられたいと思わされました。 |
Sep. 13 |
”距離を置く or 和解” 「コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。 」第2コリント人への手紙6章11-13節
日ごろ、相手とどうしたら、分かり合えるか、また和解できるかという問題があらゆる場面で生じます。家族の中にも、職場、学校、教会でも。よく、相手が自分の思うように変わってほしいとか、相手が悪い、自分は別に悪くないと、一歩もひけない、お金やプライド(これが実は曲者)が絡むともっと引けなくなります。すると和解をあきらめ、関らない距離を置くのが一番いいと投げがちです。しかし、状況によっては距離をおけないこともありますし、関わらないようにしたとしても、むかつく思いは残ったりもします。それぞれ生きてきた環境、年代、価値基準も立場も異なるから違いは当たりまえ。ある牧師から、「神様はその違いを愛され、その違いさえも良い方に働かせる」といっていました。どうしてそんなことが可能なのか?
初代教会の頃すでに、分裂がおこっていました。クリスチャンの集まりなはずですが、信じた後すぐに品性が変わらないので、教会のなかで争い、ねたみ、不品行、使徒の権威への反抗等がありました。そこでキリストの弟子、使徒パウロはコリント人へ手紙によってフォローし、自分の子供のために親がケアするように、祈って彼らのために心を配っていたようすが、今新約聖書として残っています。彼の手紙を読むたび、その彼らへの愛が伝わりますし、また現代に生きる私へ、まったく同様に適用でき、励まし、慰め、戒め、教訓となるのがありがたいです。
私の信仰は弱いです。だからこそ、相手を愛せない弱さを認め、神の力で愛せるように私の心を変えてくださいと祈る必要が常時あります。すると、不思議と自分の心が開かれていくということを過去経験しています。その後で相手の心が広く開かれることも(そうならない場合もありますが)。相手がどうであれ、自分と神様との間に和解が与えられていると、どんな状況にも希望があります。それは私が以前心を閉じていて、神様から離れていた状態だったのに、神様はイエス・キリストの十字架によって、神様と和解できるようにしてくれたからです*。この神様との和解の状態がベースであれば、それを横の人間関係に適用できるよう、神の愛が注がれて助けてもらえるという希望・信頼です。これは、すべて神様の恵み、プレゼント。そしてこれからもこの恵みを求め、不可能が可能に神様によってなることを経験したいと思わされました。 *第2コリント5:18 |
Sep. 11 |
"ナイン・イレブン 9/11 10周年"
「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」ルカによる福音書12章25-28節。
本日は、あのNYで起きた9/11よりちょうど10年。多くのアメリカの教会でも今日の日曜礼拝ではそのための特別の祈りを捧げています。あのような惨事がおこると、自然災害も同様、いつ何時何がおこるかわからないと、必要以上に思い煩ったり、メディアも煽るので(テロの報復等)恐れを感じざるを得ないと思います。「この時期に絶対NYにいかない、用事があってもずらしていく」という人も。しかしそこに住んでいる人はどうしたらいいでしょう?テロや災害はいつも思いがけない時に起こるものです。思い煩いはきりがないのです。
私の行っているアメリカ人の教会は、聖書を最初から順々に牧師が解説していきますが、今日は図らずもこの箇所、イエス様が”思い煩うな”と教えたところです。不思議なのは、別に牧師がトピックを狙ってわざと選んだ箇所を説教をしなくても、ちゃんとその時期にかなった聖書の箇所にあたるので、聖書は神のことばで生きていて、現代に生きる私たちの生活に適用できる希望と励ましが与えられるメッセージだとつくづく思います。
キリストを信じると与えられる平安、希望があれば、この不公平な・先行き不透明の世の中においても、思い煩うことよりもっと良いことが心の中を占めているのが感謝です。神様は一人一人に良くしてくださるという信頼。結局人はいつか死にます。しかし、死んだら終わりとこの世のことばかりにしがみつかず、天での新しい生活のことを思うと、思い煩いが減ります。私もすぐこのことを忘れがちな信仰の薄いものです。そんな時、天では「・・・神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」*
もう、戦争もテロも、障がいもないことを思い出したいと。
9/11における遺族の方、また多量の粉塵をすったことにより癌等で苦しんでいる警察官・消防士・ボランティアの方々に、癒しと慰め、そしてキリストにある希望が与えられますように祈りつつ。
*黙示録21章3-4節 |
Sep. 10 |
”腰痛”
「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 」第2コリント人への手紙3章16-18節
先週からとうとう腰を痛めてしまって非常に不自由です。おそらく職業病と思えるが(いつも無理な姿勢で患者さんの口のなか見ているからだろう)車の運転、座るのも立つのも、パンツをはくのも何をするにも痛い。恥ずかしいですが、仕事中は白衣の下に、コルセットをあてて、腰に負担をかけないようポジションに気をつけています。腰の痛い方々の日常生活での辛さ、不自由さを初めて身にしみてきました。
生きているとどうしたって体の故障は避けられない。どんなにお金かけたって、多少の運動等の努力をもっても、それは進行を遅らせるだけで、細胞は10歳代のときのように再生しない。そんな私に今日の箇所は、励ましです。逆に新しく変えられていく、成長していく部分があると!
そもそも、クリスチャンとは”Christ Like”からきており、2千年前アンテオケという町で、人々が”あの人たちは何か違う!”と彼らの品性とか生活態度をみて、あっ、そういえばあの人たちが信じているイエス・キリストのようだ、ということでクリスチャンと呼ばれ始めたと聖書に書いてあります。そういう文脈ですと、私は今でも自分をクリスチャンと恥ずかしくて言えない状態。キリスト信者と自称したほうがいいかな、なんて、言い訳ですね。
信じる前がどんなに悪い人間:自己中心で陰険な、気分のいいとき、余裕があるときだけ他者のことを配慮するくらいしかできない者であっても、そのままでキリストを信じれる、そして信じれば、徐々に神の霊によって、主(キリスト)と同じ姿に変えられていく(Transformed)という約束があり、ここに希望があります。もし信じても、自身の内側が何も変わらなければ、意味がないというか、希望がないです。キリスト信仰をもつことは、単なる道徳を守っていい人間になろうと努力することとは異なるからです。信仰は神様との愛の関係で、一時の感情ではなく、現在進行形で信じ続けること。そのプロセスで、神様をより信頼できるように変えられ、またキリストのような品性(神の愛)に変えられ、周りに毒をまくのでなく(たとえばゴシップ、批判等の苦い思い)、キリストの香りを放つものへ変えられたいと日々、願いつつ。 |
Sep. 9 |
”停電と小さな光”
「そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」ヨハネによる福音書
1章4-5節 (この命→イエス・キリストを指す)
昨日は明け方から大雨が降り続け、まるでバケツをひっくりかえしたように降っていました。ちょうど早朝に遠くまで車を運転していた私は、道路がみな行くところ行くところ、車が走れないほど水びたしで封鎖、カーナビがあったから、なんとか迂回迂回で目的地まで着けましたが、なかったら私はもうあきらめていました。怖かったです。
そして日本人教会の建物のエリアは、この大雨で一日中停電。それにもかかわらず、曇り空の中、カーテンを全開に開けかすかな光をなるべく取り入れて、祈り会と、バイブルスタディを数人で開けました。フィラデルフィアは古い町なので、すぐ水、電気が止まったり、大雨で屋根が壊れ雨漏りと修繕が大変です。
こういうとき、光のありがたさを痛感します。真っ暗のなか、かすかな、ちょっとの光があれば、そのまわりを照らします。どんな小さな懐中電灯のあかりやろうそくの火でも、暗闇がもみ消すことができないのは不思議です。
今日の箇所では、イエス様は命であり、人の光であるといっています。暗闇とはいろんな意味があると思いますが、ひとつには心の中にある、人に知られたくない暗闇も指すと。これって実は誰にでもあるのではないでしょうか。そのことを他人にぐちって言うことができたとしても、その苦い思いはいつまでもなくならない状態も暗闇。暗いところから急に明るいところにでると目が眩しいように、暗闇が光に照らされると痛い、できれば隠しておきたいし、触れないでほしいこともあると思います。
しかし、あえてキリストの光の前にだすと、解放されます。私はそれをイエス様の前に出したとき、自由になれました。自分の孤独感、罪責感、恥などが照らされて、ああ、このためにイエス様は十字架にかかってくれたんだ、こんな私のために、命を捨ててくれたと信じると、すっとその暗闇が消えていくかんじでした。そして、これからも、すぐ心に暗闇を作りがちな私を、その光で照らし、罪を赦し、清め、正しい方向に導いてくださると信じ、感謝です。 |
Sep. 7 |
”通り魔殺人”
あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。
これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。
彼は正しい人のために、確かな知恵をたくわえ、誠実に歩む者の盾となって、
公正の道を保ち、その聖徒たちの道筋を守られる。
そのとき、あなたは、ついに正義と公正、公平とすべての良い道を悟る。
箴言2章5-9節 (主=神)
先週、日本人教会の数件先の家で(私の家からも近い)、殺人が起こりました。その家の住人で精神疾患を持つ男性が、家で誰も彼を見ている人がいなくなった隙に、家の前にでて、ちょうどそこを歩いていた人を刃物で殺してしまったそうです。おそらくその殺人を犯した人は弁護側の”精神疾患のゆえ”とされ、無罪になる可能性は高いのが、被害者の家族にとってフェアでないと、悲しみと悔んでも悔やみきれない想像を絶する思いと察し、彼らに慰めが与えられますよう祈ります。
世の中は公平・正義が事実上不在の世界だと、ニュースや職場や学校の出来事を見ても思うし、それをいつも考えていたら腹が立ってきりがない、逆に、よくあること、とあきらめの境地で無関心にもなりかねません。
こういう不公平、正義はどこに?という世界に生きていても、イエス・キリストを信じると、神様の正義・公平に目をとめ、必ずいつか神様が帳尻を合わせてくださるときがくると、信頼しようと思えるのは感謝です。イエス様は復讐するなと、それは神様がなさるからとおっしゃいました。人にはすべての人が納得できる正義とか平和、公平の実現は不可能だと、過去の歴史を見ても明瞭。ますます戦争・犯罪は高度化。一方でどんな殺人者でも悔い改めてキリストを信じれば、神に赦されます、しかし悔い改めなければ裁かれるとはっきり聖書にはかいてあります。その裁きとは、人間の法制度の裁きではなく、死んだ後もつづく、魂にとっての永遠の裁きです。
私にはわからないことばかりですが、わかることに目を留めようと思います。神様が人間をいつまでも不公平なままにしておかないこと。いつか帳尻を合わせる時がくる。なぜなら、神様は人間を創ったかただから、創った人を大切に思っていて、なんとかこのような人の欲・罪が生み出す不公平な世界から救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくれたから。そのすべての罪が赦される為に。ここに、神様の公平、誠実・正義を信じる根拠があると私は信じます。 |
Sep. 4 |
”あなたはどこにいるのか?”
「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。」創世記3章8-9節
先日、三浦綾子著「旧約聖書入門」(光文社文庫)を読んでいたら、ある箇所で、急に心にぐさっと問いかけられた。「あなたはどこにいるのか?」
ここでの文脈は、聖書の最初の書簡”創世記”にて、神様が天と地を創造し、人間を創られた時、神様がエデンの園のなかでこれだけは食べてはいけないという木から、蛇に誘惑されたエバ(妻)が最初にとって食べ、そして夫(アダム)にも食べるよう勧めたところです。食べた後、二人は目が開けて自分たちが裸であったことに気がついて、二人が神の顔を避けて隠れていたところ、神様が二人に呼びかけて言われたことばです。人は神様が”するな”ということを犯しても、謝らず、かえって責任転嫁をし、自分が悪くないと言い訳をする。悪かったことを認めず謝らない、隠れるというのは罪の根っこのように思えます。
元来人は、自分は悪くない、正しいと程度の差はあれ主張することで自分自身を保つ、一種のプライドが、生れつき、子供に教えなくてもおのずと身についているようです。しかし、きちんと自分の非を認め謝ってしまうと、非常に楽なものです。そのプロセスを通ると、次回同じ過ちの防止にもなれる。一方、”謝ればすむってもんではない!”といって決して相手を赦さない人もいますが、そういう当人も、謝ってもらわないともっと腹がたつでしょうし、いつまでも相手を赦せない状態というのは、この苦い思いがその人の心に平安を与えず、根に持って、いらいらしてしまいがちです。双方とも苦い心が生まれがち。
私は最近、正直あまり心に平安がなく、いらいらしてしまい、いくら祈っても祈っても、苦い思いがわいてきたり、自分がもういやになることが続きました。そんなとき、神様は”あなたはどこにいるのか?”と私にこの本を通して問いかけられたのです。神様はあたかも”おまえはいるべきところに、とどまらず、自分の思いに振り回されふらふらしているから、平安がないんだよ。なぜ、私を見ないのか?なぜ私の恵みに目を留めず、キリストを通して私が与えた愛にフォーカスしないのか?”と私に言っているようでした。
私は相手が悪い、相手が変わるべきだという思いにはまり、自分の苦い心の罪を認められなかったことに気がつきました。気が付かないと、赦しはえられず、平安がないのです。相手のことは神様と相手のとの問題で、神様に任せる。自分自身の心の立ち居地は自分が神様と向き合っているかで決まると。そのためにキリストの十字架があるんだと、自分がどこから救われたかの原点にまた戻ろうと思いました。 |