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信条・Statement of Faith

Watkins Glen State Park, NY Sep. 2007
♪Today's Sharing♪

Oct. 2011

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



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October 2010 September 2010 August 2010
ユニクロNY34丁目店オープン 私の保険 人のために泣くこと 初雪@Philly
同じ木での利用 AS(脊椎炎)の女性 病院の待合室 握りしめるもの
学歴社会 ラブ・しゃけ! Prince of Egypt(ディズニー映画) あなたは高価で尊い
西海岸の友人との会話 歯のかみ合わせ おばけはいるんでしょうか? 病室の友
Oct. 29 初雪@Philly

「主は言われる、
さあ、われわれは互に論じよう。
たといあなたがたの罪は緋のようであっても、
雪のように白くなるのだ。
紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」イザヤ書1章18節

今年のPhillyでは10月末に早くも初雪。雪ははたで見ていると白くて美しいですが、現実、通勤にはやっかいですし、ここより北のほうのコネチカット州では、停電になっている地域もあり大変だそうです。紅葉もまだ終わっていないので、葉がまだたくさん残っていて、そこへ雪の重みで枝がおれ電線にダメージを与えるという情況なのでしょう。
 雪の白さは、雪のように白く as white as snow とよく表現されますが、聖書にもいくつか出てきます。今日の箇所は古代イスラエル王国時代に、神からことばをあずかった預言者イザヤによる、このフレーズが入った箇所です。
 洗濯でも真っ赤もしくは真っ黒になったものを漂白しても、もとの白さに戻すのはなかなか難しいです。そのように、私の心も、”あ〜どーせ私の内側の心、罪(してきたこと)は汚いし、こんな私の状態を変えようがない、神様も無理だ”とあきらめがちです。今日も家主の飼い犬の振る舞いに我慢ができず(家主が旅行中なので寂しいらしく、色々やっかいなことをするわけで)、その後始末と、それでまた眠れなくていらいらしてしまう自分が嫌になります。犬好きの人には、理解できないかもしれませんが、こんな狭い家に、大型犬3−4匹は、猫派の私にはほんときついです。
 でも、神は「論じてみよと。私にできないことはない。もしお前が助けを求めて信頼すれば。」と今日の箇所を通して示されているようです。とにかく、犬に対しての怒りをやめ、この状態をなんとかしてくれるよう、あきらめずに神様に祈ろうと思います。私に忍耐が与えられるか、もしくは新しいすむ場所が与えられるか、どういう展開で解決されるかはわかりませんが。レベルの低いお祈りで、神様すいません。
Oct. 27 "人のために泣く"

「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。」エレミヤ書9章1節

私はよく自分のことで悔しいとき、悲しいとき泣くことが多いです。ドラマや映画を見ても。しかし現実に人のため、たとえば身内のため、友人のために泣くことって数少ないかもしれません。いかに自己中心かがばれます。
 そんな私でも最近、人のために涙が止まらなかったことがあったのは、3月11日の大震災時。自分の国民があっという間に波にさらわれていく映像を見て、本当に激しく心が痛み慟哭しました。
 今日読んだ箇所は古代イスラエル王国の時代で、預言者エレミヤが、神に逆い続ける王とその民のために、涙を流し、嘆き、叫びながら預言している様子です。彼は「嘆きの預言者」「悲しみの預言者」と呼ばれます。神様は何度もエレミヤを通して、”立ち返れ”と訴えられていました。結局、王も民も神様のことばを無視し、紀元前586年にエルサレムがバビロニア帝国により破壊されます。神様はいったんは悪・罪に対してはおしおきはされますが、この国を見捨てません。後でペルシャ帝国の時代に捕囚から帰還できるように計画されていたのです。
 神様はエレミヤを通してご自分の悲しみ・嘆きを表現されていたように、現代でも神様は一人でも多くの人が、滅びるほうではなく、神と共に永遠に生きることを選び取ってほしいと願い、キリストを私たちにプレゼントして下さった。それほど人間を愛し、神様に背を向けている状態の人間を悲しまれている。プレゼントを受け取ってほしいと願われる。私にもそういう神様の愛の心を与えてほしいと祈ります。
Oct. 26 ”私の保険”

 「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」 第一テモテへの手紙6章7-8節

 金銭感覚って、個人差がありますね。私は貯金が出来ないタイプで、いつも右から左へと稼いだ分だけ支出へ飛んでいきます。女性の割には、あまり洋服・バック・靴等に興味がなく、少ない給料のほとんどは家賃と車の維持費。あとは食費に費やされているので、何も形に残らないのです。こちらで医療保険も入る余裕がなく、何か重篤な病気・怪我の場合は日本へ帰国するしかない。
 いつも、”あともう少しお金があれば”と、つい思ってしまいがちです。しかし今は、まだフルタイムで働けるほど体力がない。たとえば、少しでもたくさん予定をいれこむと、翌週は体調が悪くなり、回復に3−4日かかってしまいます。今週前半がそうで、そういうときに限って仕事は忙しく、今晩あたりようやく持ち直しました。明日はお休み、一息つけます。人生の今の時期、欲張らず、省エネモードでいこうと。
 今日の箇所を読むと、欲はきりがないし、たとえ目に見えるものを残しても、一時的。衣食住があればそれで十分。現状を感謝して、欲言わないようにしようと気がつかされます。今までも神様はいつも必要を満たしてくださってきたことを忘れずに、その恵みを感謝したいと思います。そして、私の保険は天のお父さんである神様、必ず守ってくださると信じているので、安心です。
Oct. 22 "ユニクロNY34丁目店オープン"

「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」第一テモテの手紙 1章13-15節

 先日、用事があってニューヨークへ行くと、たまたま「ユニクロ ニューヨーク34丁目店」オープンの日でした。野次馬根性で店の前まで行こうとすると、なんと長蛇の列と歩道が人でごったがえしていて前に進めない。とりあえず、ユニクロさんNYでがんばってねと日本人として、エールを送りつつ退散。
 私にとってNYというのは、以前仕事で30歳前半に3年ほど住んでいましたが、まさに人生の暗黒時代。この過去を消しゴムで消せたら消したい。信仰もなく、孤独で、辛く、仕事も恋愛もうまくいかず、虚無的に娯楽で紛らわし、頭のねじがとれているような精神的にも不安定な時期、そして自分の中で取り返しのつかないことをしてしまった場所。日本に帰国後、トラウマ的に”2度と近よりたくないと”しばらく暗い思い出の場所でした。
 今日読んだ箇所は、イエス・キリストの弟子パウロが、自分が信じる前は、クリスチャン迫害のリーダーで、暴力的にクリスチャンを見つけては牢にいれ、当時のユダヤ教徒としてこの新興宗教を抹殺しなければという熱情をもっていた者と告白。ところが、彼は奇跡的にクリスチャンになり、逆にユダヤ人以外の世界への大伝道者へと変えられたのです。彼は過去に引きずられず、そのことは神様から赦された者として、はばからず宣教しました。一方自分が以前迫害者だったことを忘れず、すべて神の憐れみと恵みで救われて今の自分があると。パウロを通して、イエス様を信じる信仰が与えられるとどんな人でも救われる、またトラウマやどんな過去でも取り除かれ、神様の力で新しく生きれる、と読むものに励ましが与えられます。
 次元は異なりますが、私にとってトラウマだったNYの過去は、今では新しいことを始める機会が与えられ、期待の街、見る目が変えられました。これも、すべて神様の憐みと恵みだと感謝です。以前自分がどんな状態から救われたか、その神の大きな愛も忘れずにいたいと。
Oct. 20 ”握りしめるもの”

「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」詩篇37章23-24節

 小さい頃、本棚にたくさんの両親の本が置いてあり、そのなかで意味不明でも、ひらがなだったので覚えているタイトルがあります。「たといそうでなくても」という本でした。
 私はづっと神様におねがいしていることがあり、これだけはどうしてもかなえてくださいと、10年前は必死になって、自分の祈りを神様にかなえさえるぞ!の勢いだったことがありました。牧師の奥さんより「自分が握りしめているものを手放して、神に任せてごらんなさい」と言われました。その時は本のタイトルと一緒で、意味不明。あきらめろってこと?
 大分後になって、わかってきたことです。何かこれが自分の人生で必須だと、しがみついているものがあるとしたら、たとえば結婚、家族、健康、お金、仕事、プライド等、もしもそれらが与えられなくても、失われたとしても、それを握りしめようとせず、なくてもなんとかなると神に信頼することだと。今日の箇所はまさにそれで、倒れてもまっさかさに落ちてしまうような絶望でなく(”倒れる”ことは何度もあるわけで)、背後で神様の手が支えてくださるということなのかなあと。もちろん、100%の会得はまだですが、少しづつ贅肉がそぎおとされていくように(本当のお肉は増える一方ですが)握り締めるものが減っていく一方、神様への信頼、神様にゆだねる、任せるという部分が増加し、自分の心の態度が変えられているようです。
 自分の努力したことに対しては、成果、報酬が与えられますし、勤勉さはもちろん大事です。しかし、自分の努力とか、がんばれないところで、道が開ける、何か与えられるという経験をすればするほど、ああこれが、神様の恵みなんだなあと味わえることが感謝です。真の神様は魔法使いのジニーのように単に私の欲望をかなえてくださる方ではないが、必要は必ず満たす、思い煩うなと約束が聖書に書いてあります。自分の思いがかなわなくても、神様の計画に任せること、手放すことが、”たといそうでなくても”なのかもしれません。
Oct. 19 "病院の待合室"

「そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。 」第2テサロニケ人への手紙2章15-17節

私の勤めている歯医者さんの待合室には、歯科関連のパンフレットと、一般の雑誌そして、隅の目立たないところですが聖書がおいてあります。アメリカの病院の待合室やホテルの各部屋にはたいがい、聖書がおいてあります。時々患者さんが読んでいるのを見かけます。私は各国のホテルにコーランやお経の本がおいているのは聞いたことがないのですが、アジアのホテルでは仏教関連の本がおいてあるでしょうか?そうだとしても私には理解できないことばで書いてあります。聖書はそれを信じる信じないは別として、意外と私たちの公共の場所にアクセスでき、また一般の人が読んでわかる言語で書いてあります。
 聖書という現在の形に編集されるまでは、かなりの時間と労力が費やされています。私には理解できないところはまだまだたくさんありますが、全体を最初から最後まで何度も読み、牧師達からその解説を聞いていると、これだけ一貫したテーマで、何千年にもわたって書かれた個々の書簡が聖書として編集されて、全世界の言語に翻訳されているということは、人の域を超えた、神技としか思えません。神様はご自分のことばとして、目には見えなくても編集者として背後で働かれ、そしてテーマは神の愛と、イエス・キリストによる人間の救いとされています。
 この神様のことばとして、信じて受け取ると、そこには、たくさんの、慰め、確かな望みを発見でき、また聖書のことばを通して、私は心が励まされ、強められます。有る意味、体の食べ物のように、心の、魂の栄養として非常に必須です。今日もそのことばから力を与えられ、一日をはじめられることを感謝しつつ。
Oct. 17 ”AS(脊椎炎)の女性”

「そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。 」ルカによる福音書13章11-13節

 以前日本で病院に勤めていたとき、患者さんで体が極端に折り曲がってしまっている状態の方がいました。その時は、病名まで考えたことがなかったのですが、これは関節(脊椎も関節の集まり)を構成する骨と骨がくっついてしまって動かなくなる病気で、体をもはやまっすぐにできない症状を呈する、強直性脊椎炎(Ankylosing Spondylitis、AS)という病名と後から調べてわかりました。痛みも常時あり、本当にお気の毒です。現代でも根本的治療方法がないそうです。
 先日の牧師のメッセージは、2千年前、イエス・キリストが地上にいたとき、この病気(おそらくこの病気であろうと)を18年も患っていた女性をイエス様が見つけ、即座に癒し、まっすぐ立てるようになったという奇跡の箇所でした。イエス様は当時医療が発達していない、薬もない時代に、大勢のさまざまの病気の人を癒されました。彼らの苦しみをかわいそうに思われ、本当にやさしい方です。
 彼らは病気で苦しんでいただけでなく、社会から烙印(スティグマ)を押されていて、2重の苦しみ、”こんな病気になったのは、本人が罪深いか、先祖の罪のせいだ”と。この考えは日本にも昔からあったと思いますし、今でも悪徳宗教が、先祖の罪をはらうために壺を買えと、病気で苦しんでいる人につけこみ、お金を搾り取りさらに苦しめます。イエス様の弟子が「障がいがあるのはこの人の罪なのか、親の罪なのか?」と聞いたとき、彼は「その人の罪でもなく、親のでもなく、神の栄光が現れるためだ」と弟子にいわれました。人が苦しみから解放されると、それをしてくださった神様がすばらしい!となるのが、つまり神の栄光の現れです。
 18年間の苦しみから開放されたこの女性の喜び、神様のしてくださったことをほめたたえた様子、またそれを見ていたほかの人もどんなに喜んだことか!イエス様は、現代でも、肉体的な病気だけでなく、心の病のかた、何かの中毒や、悪いグループから脱出できない、縛られている状態から、その人を解放したいと思っています。本人がイエス様の情報を知って、あきらめず、すがりついてキリストになら可能だと信じた時、現代でも奇跡が起こると。そして、病気が治るという奇跡でとどまらず、その人の魂が救われることにつながることを願いつつ。
Oct. 15 ”同じ木での利用”
「それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。イザヤ書44章15-18節

 アジアには仏像が、ヨーロッパの寺院にはマリア像、キリスト像、聖人の像等、拝む対象となりうる像がたくさんあります。これらは自ずと出来たのでなく、人間が形作ります。それらを芸術作品としてはすばらしいと思いますが、聖書で神様は像を作るな拝むなとはっきり命令されています。しかしクリスチャンと自称する人たちがその命令を無視し、中世から像をたくさん作ってきています。人はどうしても目に見える像のほうが拝みやすい、人間の弱さでしょう。
 今日の箇所は、一つの木のかたまりを、食べ物の為のたきぎと、拝むための像とに同時利用できるという、なんともおかしな情景です。人間が彫刻刀で彫って作る像、焼いてしまえば灰になる像を作って神として「救ってください」と祈祷することのおろかさを、この宇宙と人とすべてを創造した神様が、預言者イザヤを通して伝えています。
 一方、目に見えない神を信じられるよう、非常に助けとなるものが聖書です。その聖書を神のことばとして、信じられる信仰も、やはり求めれば与えられるんですね。また、信じると心に与えられる聖霊(神の霊)が、あらゆる面で私の生活での指針、祈りを助けてくれる存在です。これも目に見えないし、私は感覚では感じられませんが、心に住んでいると信じています。
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」*。

アジアは仏像が、ヨーロッパの寺院にはマリア像、キリストの像、聖人の像等、拝む対象となりうる像がたくさんあります。これらは自ずと出来たのでなく、人間が形作ります。それらを芸術作品としてはすばらしいと思いますが、聖書で神様は像を作るな拝むなとはっきり命令されています。しかしクリスチャンと自称する人たちがその命令を無視し、中世から像をたくさん作ってきています。人はどうしても目に見える像のほうが拝みやすい、人間の弱さでしょう。
 今日の箇所は、一つの木のかたまりを、食べ物の為のたきぎと、拝むための像とに同時利用できるという、なんともおかしな情景です。人間が彫刻刀で彫って作る像、焼いてしまえば灰になる像を作って神として「救ってください」と祈祷することのおろかさを、この宇宙と人とすべてを創造した神様が、預言者イザヤを通して伝えています。
 一方、目に見えない神を信じられるよう、非常に助けとなるものが聖書です。その聖書を神のことばとして、信じられる信仰も、やはり求めれば与えられるんですね。また、信じると心に与えられる聖霊(神の霊)が、あらゆる面で私の生活での指針、祈りを助けてくれる存在です。これも目に見えないし、私は感覚では感じられませんが、心に住んでいると信じています。
 「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」*私の信仰は正直、アップダウンはあります。だからこそ、神様により信仰を強められて、キリストにある希望を堅く持ち、前進したいと願いつつ。
 *へブル人の手紙11章1,3節
Oct. 14 "あなたは高価で尊い"

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」イザヤ書43章4節

 今日は美容院にいってきました。スタイリストは一生懸命、ヘアスタイルについて”いいかんじ、素敵!”とカットしながら連発。もちろんこれらのサービスがチップにつながるからだと承知ですが、言われて嫌な気はしません。私はおだてられやすいほうですから、もし”あなたの存在は貴重なんだ!”と誰かがいってくれたら、ころっと落ちますね。(笑)
 ヒューマニズム(人道主義)の考え方は、”人間の命は尊い”といいますが、ではなぜなのか?という明確な理由を聞いたことがないです。ただ人間だから?動物愛護家にとっては動物も人と同じほど尊いと。人のバリューの見方は相対的。たとえば、戦時であれば相手が敵なら尊くないのか?また凶悪犯罪を犯した人は、人間としてもはや価値がないのでしょうか。善良な人だけ価値があるのでしょうか?
 今日の聖書の箇所は、古代イスラエル王国の時代、神からの預言者、イザヤが神様から預かったイスラエルの人々へのメッセージですが、今に生きる私たちへも適応され、なぜ人が尊いかの理由です。つまり、私たち一人一人の存在は、人である限り誰でも、神の一人子であるイエス・キリストの命がかかっているほど、神様にとって高価で尊いのです。そこまで犠牲にしてまで人間を大切に思い、救いたい、この体が死んだあとも天国で復活して天にいるキリストと一緒に永遠に生きてほしいというのが、神様の願いです。(例えると、自分の子供をある人の刑罰のために、代わりに死刑にかかってもらう、自分の子を犠牲にしてまで、その人に価値があると)
  単に、”あなたは高価で尊い”、というこの聖書のことばが独り歩きする前に、なぜ尊いのか、その根本的な理由を忘れず、その大きな犠牲に感謝をいつもしたいと思います。
Oct. 12 "Prince of Egypt(ディズニー映画)"

「・・・イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。 神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。 」出エジプト記2章23-25節

 私は日曜に子供向けに聖書の話をする担当をしており、幼児が多いので、なるべく視聴覚教材を使います。先日、ちょうど出エジプト記の話だったので、ディズニーの映画”エジプトとの王子(Prince of Egypt)”を用いました。エジプトに寄留していたイスラエル人は、ピラミッド等を造るための奴隷として酷使されていて、更にエジプト王は、イスラエル人の生まれた男の子を皆殺しにするようにも命じます。そんな中で、殺されるべく赤ちゃんのモーセが、エジプトの王女に拾われて、エジプトの王子の一人として育てられる様子と、また神様が人々のうめきを聞き、かわいそうに思い、成人したモーセを使って、イスラエルの人々をエジプトから脱出させるという内容です。
 現代でも、神様は私たちの様々な状況下での苦しみ、嘆き、うめきの声を聞かれ、かわいそうに思って、その状態からなんとか助けたいと思われています。なぜならご自分が造った人間を大切に思っていて、滅びてほしくないから。
 モーセの時はイスラエル人が救出されるため子羊が犠牲になりましたが、今回はイエス・キリストが全人類のための犠牲となったのです。それが十字架です。そのイエス・キリストを信じることで、私たちの心の内側が罪の奴隷状態だったのが、自由人へと、神の子として買い戻され脱出できるようにしてくれました。
 神様は決して見捨てられません。最後まで手を伸ばして、私たち人間を助けたいと。私は憐れみと恵みにより、その差し出された手を握ったものです。今は復活されて天にて、私たちの祈りを365日聞いてくださる、そのキリストの愛に今日も感謝を覚えます。
Oct. 10 ”ラブ・しゃけ!”

「・・・イスラエルの神、万軍の主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。 主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて見てください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉を聞いてください。主よ、まことにアッスリヤの王たちは、もろもろの民とその国々を滅ぼし、またその神々を火に投げ入れました。それらは神ではなく、人の手の造ったもので、木や石だから滅ぼされたのです。 今われわれの神、主よ、どうぞ、われわれを彼の手から救い出してください。そうすれば地の国々は皆あなただけが主でいらせられることを知るようになるでしょう」イザヤ書37章16-20節

 10月に入り、あたりは紅葉が始まりました。私は通勤上、山道を通っていくのですが、とても見事な紅葉をエンジョイできます。そして、先日ある牧場の横を通ると、たくさんのハロウィーン用の巨大かぼちゃが売られていました。私はかぼちゃが大好き!かぼちゃのパイ、クッキー、スコーン、パンプキン・スパイス・ラテ、かぼちゃの煮物も。かぼちゃ色に囲まれて幸せなひと時。
 私は食に関してはかなりアメリカナイズされて、日本食を食べなくても生きていけるのですが、時折、焼いたシャケが食べたくなります!ここでは日本にあるようなシャケの切り身が手に入らない、そう思うとよりいっそうアイ・ラブ・しゃけ!特に毎年しゃけが食べたいと思う時期は、あほみたいですが、聖書の箇所で”ラブシャケ”という名の将軍がでてくるところを読む時なのです。
 このラブシャケという人は、古代のユダヤ王国を征服しようとしてやってきた、当時の世界を武力でどんどこ支配していったアッシリア帝国の将軍。どこで覚えたのか、ユダヤの人々の言語で大声で城壁の外で「降伏しろ〜おまえらの信じている神なんて頼んだって無駄だ〜!」と民衆に向かって叫び、真の神をそしった人です。そこで、その当時のユダヤの王が、預言者イザヤに神様にお祈りして、この危機を助けてもらうように頼み、また王自らも祈った箇所です。すると、なんと、神様は祈りを聞かれ、アッシリアの大軍十八万五千人を天使によって一晩で撃ち殺し、結局アッシリアは撤退、その王も自分の国に帰って自分の息子に殺されてしまうという始末。
 聖書を読むと、映画になりそうな劇的なストーリーもたくさん出てきますが、それをただの物語・歴史書として読むより、現代の私たちの生活にどう適用できるかを考えて読むとより、神様が身近に感じられます。もうだめだ!という危機一髪のとき(大げさかも知れませんが、どんな小さいことにも)、天と地を造られた真の神様へ必死で祈ることほど、頼もしいことはない、必ずその状況から救い出してくださると期待して。
Oct. 7 "学歴社会"

「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。」ピリピ人への手紙3章7-8節

 昨日、友人との会話より、日本もすごいですが、アメリカはもっともっと学歴社会であることを、こちらで生活し、勉強したり就職活動している人々の話を聞き驚きです。成果主義で、次から次へと学歴をつんで、キャリアを積まないと仕事はない、卒業したら多額の学生ローンを返すために、高収入の仕事を見つけなければならないと自転車操業状態。何かいつも駆り立てられている感じで、仕方なく皆がやっているからと。実は多くの人が資本主義のシステムにすっかりはめられていることを意識してないのではと思わされました。私もこの年でアメリカに越してきて、当初散々”学校へ行きなおせ、そうしないと仕事ない”と周りからせかされました。しかし自分は世の中の風潮に流されない、という確固としたものを持って、シンプルに仕事をし生活している人も一方でいます。
 聖書の中で、神様は学歴のない普通の庶民を用いられたり(イエスの弟子達は漁師のおじさんとかで、別に神学校いってない)、一方でこの手紙を書いているパウロのように超エリートだった人と両方用いられることに気がつきます。神様が用いられる人の共通点はキリストを信じて従う、低い人。普通の人だと、自分が”できる”という自負心がなく、逆に神様を頼るので、その人を通して神様の力が働かれます。一方で、それぞれの分野で一流を獲得した人でも、キリストのすばらしさを味わってしまうと、今日の箇所のように、自分の誇っていたものが、ちっぽけに感じ、謙遜にならざるをえず、そして、その低くなった状態で、神様はもともとその人に与えていた才能・技量を用いて、大きな働きをさせる場合もあり。プライドを持て!との世の中と逆ですが、そのプライドが一番、神に近づくことを妨げると思います。
 結局、全ての人は平等に、生まれつきの才能や環境に関係なく、人生のなかでいつか神の前に自身の存在を見つめるときが来るのではないかと。私は、恵みによって、イエス・キリストを通しての神様の愛の大きさを受け取れると、今まで自分がこだわっていたもの、プライド、世の中のトレンドがどうでもよくなり、小さいことシンプルなことに感謝できるように変えられつつあるのは不思議です。(まだまだしがみついているものはありますが。。)神業ですね。
Oct. 6 ”病室の友”
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 」ピリピ人への手紙2章6-8節

 私は元来健康ですが、たった2度だけ長期入院の経験があります。中学生のとき、もう一回は3年前。そこで2回とも友達ができました。彼女とは退院してからも今でも時々会ったり、メイルのやり取りをしています。一方、中学の時の子は、私が退院した後もづっと腸の病気(腸に穴があいてしまうという難病)で入院が続き、手紙のやり取りをしばらくしていましたが、ある日手紙が来なくなり、子供心に悲しい思いが残ったものです。
 入院というのは楽しい経験ではないので、そこで友となった人とは、その時の辛い思い、痛みをある程度共感できる間柄。お互い体調が良くなると、それが自分のことのように喜べ、一方どこか悪くなると自分のことのように心配となります。また病気ねたが話しやすい仲です(笑)
 ”共感”について思いおこすことは、イエス様は神なのに、なぜわざわざ人となって2千年前に生まれてきたのかと。ある人は、”わざわざそんなことしてくれなくても、全知全能の神ならばそのままで、人の弱さや気持ちに同情してくれればいいだろう”と言います。私はそうは思いません。神として、上から目線で人間に「神だ〜私は全てわかっているんだ〜信じろ〜拝め〜」という神には畏れ多い気持ちはわくけど、愛が感じられません。キリストのように人と同じ立場・人としての限界弱さをともに経験してくれて、私たちの目線にたって、痛みや悲しみまた喜びもともにしてくれた神のほうが、私にとって頼りがいのある、信頼できる神だからです。そしてその父なる神が計画したミッションを、その子であるイエスが従順に遂行したこと、同じ神どうしでもその親子関係がすごいと感動です。
 そして、私の神を信じられず反抗していた罪、その他のもろもろの神様の目から正しくないことをし続けてきた私の罪のために、代わりに十字架上で罰を神からうけて、私が裁かれないようにイエス様がしてくれた事、これほど大きな愛を示してくれる神は、本物だなと、そのように信じる心さえも与えられたことに感謝です。
Oct. 4 "おばけはいるんでしょうか?"

 「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」エペソ人への手紙6章10-12節

アメリカではハロウィーンという行事が近い。するとラジオで、ある人が牧師にこんな質問をしていました。「おばけはいるんでしょか?死んだ人の霊が生きている人を脅かしたり、映画のように家に住み着いたりとか?」牧師は「聖書的には、死んだ人の霊がうろうろして、生きている人に危害を加えることが書いていないので私は信じない。一方、悪霊というのは存在し、人にとり付いたり危害を加える。」と答えていました。確かにイエス様は悪霊にとりつかれて苦しんでいた人から、悪霊を追い出して助けていました。
 日本でもどこでも、死んだ人の霊がたたるとか、また死んだご先祖様が守ってくれるとか、死んだ人の霊にあたかも超自然的な力があるような信仰が存在します。この牧師の答えのように、私も人は死んだら、霊として存続することは信じますが、その人の霊自体に何か力があるとは思いません、また目に見えない悪霊はいると信じます。悪霊の主な仕事は、オカルト映画のイメージではなく、その親分(悪魔)に従って、人間がなんとかキリストを通しての神を信じないよう、様々なこの世的な方法を使って策略している存在だと。
 彼らの活動は決して表面的にはわからないこと、たとえば、小さい子供が暴力的なゲーム漬けになったり、大人が薬物・アルコール中毒に、また人を憎たらしくて、妬ましくて仕方がないように状況を密かにセットアップし、なるべく大事(犯罪にまで)に持っていくこと等。人間の生まれつきの内側にある闘争心、欲、苦い思いを増長させて、神に目をむけさせず、逆に己の欲の追及を助長させる。彼らはいつも実行犯というより、幇助犯のことが多いのではないでしょうか。クリスチャンにはその悪霊とその子分たちとの見えない戦いがあると、今日の箇所ははっきりいっています。
 とにかく、私はイエス様を信じる信仰がなければ、すぐその戦いに負け、敵の思う壺です。戦いのときに戦士が武具を身に着けるよう、神の武具を着けて戦いなさいと、使徒パウロは書いています。神の武具とは要はイエス・キリストによる救いを信じ、神のことば(聖書)を信じること。これさえあれば、私に力がなくても、またどんな大きな力を悪霊がもってしても、そのバックにいるキリストにパワーがあるから、怖くない。ですから、ぼーっとして、武具をつけず敵の火矢が飛んできて頭で燃えているのに気がつかないということがないよう、絶えず祈って、神のことばを信じることを、日常生活でも意識したいと思いました。
Oct. 2 "歯のかみ合わせ"

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 」 ピリピ人への手紙4章4-7節
 私は歯医者に勤めるまで、自分の歯並びや歯の噛み合わせを気にしたことはありませんでした。かみ合わせが正しくないと歯だけでなく、中年以降脊髄・腰にも影響したり、また偏頭痛、顎関節症になるそうです。単なる審美歯科の世界ではなく、体全体に影響があると学びました。日本でも最近は保険外治療でもかなり値段もリーズナブルになってきているようです。
 毎日患者さんの歯にかかわり、歯の模型等に囲まれているとなんだか不思議です。自分が歯医者で、しかもアメリカで勤めるとは夢にも思いませんでした。私は神様が仕事をくれると完全にあてにして思い切ってアメリカに来ましたが、そのとおりに人の紹介で歯医者の助手の仕事が与えられました。未経験分野でしたが、とにかく食べていかなければならないので働き始めて約一年。あっという間でしたが、この仕事を与えられて本当に感謝で、エンジョイしています。私のように変化を好む性格において、仕事を変えるたびに世界が広がるのも楽しいものです。ただ1つの事を極められないという弱点もありますが。。。神様は私の性格にあわせ必要を満たし、導いてくださるんだなあと、ふりかえるとたくさんの感謝です。
 今日も教会にいけて、楽しく礼拝し、お昼をみんなで一緒に食べたりと、ちょっとしたことですが、喜びです。私はアメリカでは家族がいませんし、色々ブルーになることもよくおきます。すると、私はすでに神様がキリストを通してしてくださったこと、またその他たくさんの与えられた恵みを感謝することを忘れ、思い煩って、願い事ばかりまくしたてがちです。しかし祈ると必ず、道が開ける、状況が変わる、ぎくしゃくしていたお互いの心が通い合うという不思議な体験を与えられ、それで助けられます。一方、長い間祈っても答えられないこともありますが、それは”たとえそうでなくても”任せようと。
 今日の箇所を思い出し、まずどんな状況でもキリストが私のために十字架でしてくださった大きな愛を思い出し、感謝を忘れないようにと思い起こされます。また、キリストがまた戻ってこられる日が近いことを忘れずに。
Oct. 1 ”西海岸の友人との会話”
「今の時を生かして用い、そとの人に対して賢く行動しなさい。 いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。」コロサイ人への手紙4章5-6節

 先ほど、この夏からご主人の駐在を機にカリフォルニアに住み始めた、大学の時の友達と電話で話していました。いつも会うのが日本だったので、今お互いがアメリカの西と東に住み、こうして国内電話で話せるのが不思議な感じがすると共に、とてもうれしかった!アメリカの東と西はちょっと遊びに行くという距離ではないけれども、近々に会えそうで楽しみです。
 私は大学時代の親友に非常に恵まれていて、卒業後何年経っても、定期的に集まることがあり、お互い学生の時と変わらないのりで、気兼ねなく話ができるのが有難いです。もちろん、”親しき仲にも礼儀はあり”という相互の了解もありますが。一方、通常の生活のシーンでは、頭で何を言うべきかちょっと考えてから口にだすよう心がけないと、私はたいがい余計なことを言うか、言うべきことを言えない等、口で失敗することが多々あります。
 今日の箇所、イエス・キリストの弟子パウロが書いた手紙での薦めのように、”今のときを生かして、賢く行動、そして塩味を聞かせた、しかもやさしい言葉を使う”というのはおしゃべりで感情的な私には不可能な気がします。それでも、以前よりはかなり抑えられていますが、時々爆発、口から出た言葉はもう取り消せないし、相手に影響を与えてしまいます。毎回神様に祈りつつ、せめて10回に一回くらいの割合でも、相手の益になる言葉が与えられて、話せればと思いました。
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