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信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

Dec. 2011

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



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情報と理解力 レゴのクリスマス・ストーリーン バケーション セラピー:癒し
熱いか冷たいか吠える獅子両刃の剣よりも鋭いもの

クジラにのまれた捕鯨船の船員

ハウスメイトのボーイフレンド Ipad がほしい 私の側のパート ジンジャーブレッド・マン 番外編
Dec. 31 セラピー:癒し

「… 川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」 黙示録22章2節

 今日は大晦日です。先日から、TV番組は一年を振り返る特集ばかりですが、その中で津波の映像を報道したTV局へ多くの苦情が寄せられたそうです。つまり、その映像を何度も観ることで、被災者の方々が心的ストレスを受けるからとのこと。まだ大震災から一年もたっていません。心に受けた傷(PTSD等)はそう簡単に癒されるものではないですから、TV局はこの件に関しては慎重さを要求されるのでしょう。
 今日の箇所の「その木の葉は諸国の民を癒した」の”癒す”は、英語のセラピーの語源にもなっているセラペイアンという言葉で、”健康を与える”という意味だそうです。天国の様子、つまり神の都の中を流れる命の水の川のほとりには、癒し効果のある葉が茂っていることが書かれていますが、今現代に生きる私たちにも、癒しが必要です。多くの人は、身体の、心の癒しを必要としていても、その自覚がない人は単に忙しさで紛らわし、自分の体が危険信号を出す迄せわしく動き続けるのではないでしょうか。ストレス発散と称し色々なされますが、根本的な解決にはなっていないので同じことを繰り返す。一方、心理療法:セラピスト、カウンセリングは心のなかにあるものをあるていど吐き出せるのに役に立ちますが、代りに心の中にいれるものを提供してくれません。心の中に入れるもの:飢え渇いた魂を満たすものが必要です。
 人はぽっかりと生まれつき空いている心の隙間を、何かで埋めようとしますが、埋めるものが見つかりません。イエス様は、「私が与える水を飲むものだれでも、決し渇くことがありません。」1*と言われました。この水とは聖霊(神の霊)のことです。これこそが魂の飢え渇きを満たすもので、それを与えてくれるのはイエス・キリストご自身で、それもただです。つまりキリストを通してタダで誰でも受けられること*2を”信じる”こと。ぜひ、心が飢え渇いていることに気がついた方が、魂の救い主であるキリストを求め、見つけて頂きたいと祈りつつ、新年を迎えたいと思います。 

*1 ヨハネによる福音書4:14
*2 「…渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」黙示録22章17節
Dec. 30 ”バケーション”
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」へブル人への手紙11章13-16節

 今年は久しぶりに年末年始に短期間ですが、日本に帰ることができました。街を行くとそこでは日本独特の師走の忙しさを感じることができます。今回はあまり予定をいれず、家族皆とのんびり過ごすことができ感謝です。故郷へ帰って、緊張感が解け、何もせずリラックスできます。すると普段は気がつかないのですが、いかにアメリカでの生活においていつも気を張っているんだなとつくづく自覚。Vacation バケーションとはよく言ったもので、日常の生活から離れ空にVacantできる、これが本来の休暇でしょうか。  今日の箇所を読むと、私には更にすぐれた故郷もあることを思い起こします。そこは行ったことはないけれど、憧れている場所。神様が用意して下さる天の故郷にいつかいけることを期待しつつ、そこへ行けるまでベストを尽くして人生のレースを走ろうと励まされました。そして時にはお休みをとらせてもらって。。
Dec. 25 "レゴのクリスマス・ストーリー"
  

「御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。 ルカ福音書2章11-12節


 今日はクリスマスです。今月は毎回手を変え品を変え、サンデースクールで子供達にクリスマスの話をしてきましたが、今日はYouTubeで、レゴで作られたイエス・キリストの誕生ストーリーを見せて説明。今朝、クリスマスプレゼントをたくさんもらったばかりの子供達は、とてもテンション高かったですが、レゴはみな好きみたいで、とてもエキサイトしてみていました。
 なぜイエス様は馬小屋で生まれ、それも飼い葉おけのなかに寝かされていたのでしょうか?これはいろんな解釈・説がありますが、先日牧師が、「天使から知らせを受けた羊飼い達がイエス様を見に来るとき、立派なホテルや宮殿であったら入れないですよね、馬小屋なら問題ない。いつもの野宿していてあまりきれいでない羊飼いの方々も見に来られるわけたわけです。」と話していてなるほどなあと思いました。
 天の神様は、世界の人全員を救うための救い主、キリストの誕生を、身分の低い羊飼いから、賢者(東方の博士達)のようなエリートでユダヤ人以外の人たちへ、王が、メサイア(救い主)生まれたと知らせました。その生誕から、十字架で死なれるときまで、本当に世の中の低い低いところで人としての生涯を全うされ、人々に仕えられ、イエス様を信じる者の模範ともなってくださった方を思い、今年のクリスマスも教会にて楽しくみんなでお祝いできたこと、感謝でいっぱいです。
Dec. 22 情報と理解力

「それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」 コロサイ人への手紙2章2-3節

 昨日、バイブルスタディで現代のあふれる情報とその影響について牧師が触れていました。Text(携帯メイル),I−Phone等人々はいつも小さい四角い画面を暇があればみて、メイルしたり書き込みをしてます。これらはとっても便利です。しかし、いつでもWebサイト(NewsやFacebook)にアクセスできるため、それらを暇があれば覗き、見ないではいられない、メイルの返信をいつもチェックしと、ある意味中毒的ともいえ、面と向き合って話さないことによる弊害に気がつかないという面があります。 これは10年以上前の日本ですでに、電車にのると5人に2人くらいの割合で携帯の画面をづっとみていた現象で、それが今のアメリカでも起こっています。私の職場の患者さんで暇があれば携帯みているかたが多いのもその現れです。
 大量の情報が入っても、個々人のそれに対する処理能力、また理解力が問われます。私はあまり処理が苦手なので最低限にしています。そして自分に優先順位的に必要なこと(聖書のことばやそれに関わること)を日々入手し、理解しようとしていますが, わからず、すぐ忘れてしまうことが多いです。聖書のことばは霊的な部分で理解することだからです。そして、世の中のニュースについては職場で、患者さんやドクターからまた聞きしたり、夕飯時にちょっとTVのニュースをみるくらい。別に禁欲的になっているわけでなく、限られた時間のなか自分がしたいということをしています。
 自分の心に良い影響を与える情報ソースは何か?逆に自分は周りにどんな影響を与えているか?というチャレンジを昨晩の学びで示されました。聖書は全体を通してイエス・キリストがテーマです。そのキリストを知ろうとすると、そこに知恵と知識が隠されている。聖書は人に必要な、すばらしい情報源、そして影響源ですので、昔からキリストの弟子達が命をかけて伝道してきたのは、まさにこのことを伝えることで皆が心を励まされ、愛によってお互いの関係が結びあわされ、豊かな理解力も与えられるためだと今日の箇所で書かれています。
 私はいま少人数のバイブルスタディをリードしていますが、これからもこの目的で神様から知恵を頂きつつ、聖霊に導かれ、参加されいてる皆さんに聖書のことばを分かち合いたいと思います。受けるばかりでなく、良い影響を与える側になれるよう、求めようと思います。互いにキリストの奥義をますます知り、生活のなかでキリストの愛がリアルになるためにも。
Dec. 19

クジラにのまれた捕鯨船の船員

「ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。 」ヨナ書4章1-3節


 1899年、英国の捕鯨船にて(イギリスも昔クジラとってたんですね!)、一人の船員が事故で船から転落し、クジラに呑まれてしまったのですが、その後奇跡的にその船員はクジラから吐き出され生還したという、世界仰天番組のネタになりそうなStoryあったと聞きました。胃酸でとけなかったのか?空気は胃の中にあったのか?と色々疑問はわきますが、真相はおいておいておもしろい話しです。
 聖書の中のヨナ書には、神の預言者であるヨナが大魚に呑みこまれ、3日間して吐き出されたという話があります。これを子供に話すおとぎ話と解釈する人もいますが、私はこのイギリスの捕鯨船の話がなかったとしてもそのまま信じます。なぜ彼は魚に呑みこまれたかと言うと、神様が古代のアッシリア帝国の首都ニネベに行けと命じたのに彼は拒否して、タルシシ(おそらく現スペイン)行きの船に乗った為、神様は嵐をおこし船は沈没しそうに。人々はその嵐を鎮める為にヨナを荒れ狂う海に投げることになり、すると嵐は収まり、そして彼は大魚にのみこまれ、三日目に生きて吐き出された陸地が、なんと彼が行きたくなかったニネベだったのです。ヨナの国、当時のイスラエル国はアッシリアという残酷な軍事国家からの侵略の危機にあっていて、なんで神は敵国に救いのチャンスを与えるんだ?と、ヨナは40日したら滅びるぞ!というメッセージを神から言われて嫌々人々にしました。すると王さまから庶民まで皆悔い改めて、結局ニネベは滅びを免れたのです。そのことに対してヨナが怒って神様に文句をいったのが今日の箇所。
 この書を読んで今回示されたのは、自分は神様からたくさん憐れんでもらい全ての罪を赦してもらっ、たくさん恵みを頂いたという経験をしておきながら、人のことを裁いたり、赦せない思いを持ち続けたり、挙句の果てに、神様に怒って文句をいうというヨナ症候群、これはクリスチャンになった後の私にも起こりうる、人ごとではないなあと。「人が自分に罪を犯したら何回赦せばいいんですか?」と弟子からの質問に、「7X70=490回赦しなさい」とイエス様はおっしゃいました。つまり事実上490回も数えてらんないので、何度でもという意味でしょう。
 たとえ相手が悪、理不尽、謝らなくても、復讐は神がなさるとも書いてあるので何もせず、自分がすることは相手を怒り続けず、赦せるよう愛を毎回神様から頂く必要があります。今日も店員の嫌な態度と出された生ぬるいカフェオレにむかついて、イライラしたあと神様に悔い改めつつ、短気な私は徐々にこの部分が変えられてほしいと願いつつ。

Dec. 18 "両刃の剣よりも鋭いもの"

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄とを分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 」へブル人への手紙4章13節


 先日、雑誌の達人対談「武士道とキリスト教:古流剣術の達人、笹森武美 V.S. ビートたけし」*の記事を読みました。この笹森さんは、牧師でもあり小野派一刀流の宋家でもあり、道場が教会も兼ねているそうです。ビートたけしさんとのテンポのいい対談のなかに、意外な武士道とキリスト教の共通した精神があることも紹介されいて、とても興味深い内容でした。

 この記事を読み今日の箇所を思いだしました。私は神のことば(聖書)を読むたびに、指針、ビジョン、新しい力、励まし、慰めそして戒めが心に与えられます。いつもフレッシュで生きているからです。私の生まれながらの能力でははっきり見分けられない、説明がつかないこと、切り分けて考えにくいこと(例えば魂と霊は一緒だと思っていました!)も神のことばがはっきりさせ、私たちの心の思いの動機やねらいを見分けて下さるのです。

 私の祈りの答えは、たいがい聖書の箇所を通して不思議とタイムリーに示され、大きなことから小さいことまで決断する上でいつも助けられています。ある人は神様の声を聞けるかもしれませんが(聞こえたらいいなあ)、私は聖書を通して神様が語られます。この神様のことばが聖書としていつでも自由にアクセスできること、そして全てをご存じでおられる神様に安心してより頼めるという信頼関係が、日々の生活の中に与えられていることを本当にありがたく、そのために十字架にかかって下さったイエス様にこのクリスマスの時期、感謝でいっぱいです。

Dec. 15 "吠える獅子"

「獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」アモス書3章8節 

 
ナルニア物語という映画を見られた方は、アスランというライオンが吠える場面を思い出されますでしょうか?そうこのライオンは何か行動を起こす時ガオ〜っと吠えるのです。この原作の著者は有名な神学者ですので、この物語にキリストのことをかなり入れ込んでいます。例えば、神が語られることを獅子が吠えるということにたとえて描写されているそうです。

 今日読んだ箇所は古代イスラエルの王国時代(紀元前)の預言者アモスの書いた預言です。神様が預言者を通して語られる時は獅子が吠えるようなのでしょうか。堕落して神から離れていた王、宗教家、国民は儀式だけ行い、心は神様から離れて悪を行っていました。神様は何度も預言者を通して、真の神に立ちかえるように、悔い改めるように語られますが、それを耳にしたとしても右から左へという状態。

 現代においても神様が愛を持って、人々に「立ち帰って悔い改め、キリストを信じ、神の救いを受け取ってほしい」と、様々な情報形態で伝えられていますが、どれだけの人が耳を傾けているでしょうか。罪というとどうしても刑法上の罪というイメージあり、責められる感覚があり耳をふさぎます。しかし、罪を示すのは、それが赦されるためで責めるためではない、キリストは人を裁くためにきたのでなく、赦すために来られたというのが福音(GoodNews)。

 このクリスマスの時期、一人でも多くの方が、イエス・キリストがなぜ2千年前に人となって生まれたのかのメッセージに耳を傾けてほしいと願います。それは人が神様から離れ、死んだ状態である魂の救いのために、キリストがその死の原因である人間の罪の為に十字架で代りに罰せられたということ、そして3日後に復活し今は天国で24時間365日人々のために祈りを聞き、救われるよう願っていること、それを信じるだけで、全ての罪が赦され、神様との生きた愛の関係がこの地上で信じた時から与えられ、この体が死んでも天で新しい体が与えられ、永遠に続くことを。それがこの暗い世の中の唯一の希望の光だと私は日々励まされ、生活できることが感謝です。

Dec. 13 "熱いか冷たいか"

「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」黙示録3章19-20節



 熱いものは冷まさないと食べられないと言う方を、ねこ舌をいいますね。猫に限らず、動物は実は熱いものをばくばく食べられないのではないでしょうか?例えばさるが「今日は寒いからあったかいうどんでも作るか〜」と調理しアツアツのものを食べているのを見たことがありません。人は他の生物と異なり自分で調理して熱いものは熱く、冷たいものは冷やしておいしく頂くことができる能力が与えられているのは感謝です。生ぬるいものはおいしくないですからね。

 イエス様は人間となってこの世に来られた時、よくお食事を皆さんと楽しまれていたし、食事に招かれていたことが書かれています。食事を共にするというのは、家族が一緒に食べるのと同様、とても親しい関係が当時の文化的からして表されます。今日の箇所はイエス様が戸の外に立って、戸をノックしているという皮肉な場面です。この箇所はクリスチャンにあてたメッセージですが、いつの時代でも教会の状態、または個人の心の状態にも当てはまる可能性があるのです。”私はクリスチャンです”、とっているだけで、実はイエス様を心の外に追い出している状態。それでもイエス様はノックして、開けてね、一緒に食事をしようよと言って下さっているのです。

 私は以前そういう時期がありました。教会に通っていても、はっきりイエス様を信じていなかった中途半端で、心が二心。心は自分のしたいことを求めているだけ、神様を信じて喜んで生きる、熱心に神様に求めるという姿勢がなく、なんというか生ぬるい状態。まだ、イエス様の福音を知らない冷たい状態なら、知らないんだからまだしも、熱心な信者を冷ややかに眺めていた自分。にもかかわらず、イエス様は私の心をノックして忍耐を持って、私が戸をあけるのを待って下さっていました。今は心にイエス様を迎えることができ、これは神様の恵みです。もし自分が熱くないと気がついたら、どーせ私は生ぬるいわよと開き直らず、神様に助けを求めればいいだけです。二心でなく、イエス様と一つにして下さいと。もちろんUp&Downはあるのはノーマルで、私も何度も助けてもらいつつ、今もイエス様に従って行こうと歩んでいる状態です。

 今でも自分モードになることが多々ありますが、気がつき次第熱心に悔い改めようと。聖書に書いてあることをそのまま信じつつ、聖霊に示されて懲らしめや叱られることが状況的におこったら、素直にそれもうけとり、ごめんなさいと謝り、赦しを受け取って(そう、神様は何度でも赦してくれるんです!)、また仕切り直そうと思わされました。

Dec. 11 ”ジンジャーブレッド・マン 番外編”

「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。」 第一ペテロの手紙1章18-20節 (あがなう→買い戻す)

 今日は教会学校で子供達にジンジャーブレッド・マンの話を絵本で読み聞かせ、またその番外編?をお話しました。この話はアメリカで有名なおとぎ話で、またクリスマスにはジンジャーブレッド・マンのクッキーが販売され、家庭でも子供達が楽しんで焼くそうです。この話のあらすじは、あるおばあさんが人型のクッキーを作り、焼きあがるとそれがオーブンから飛び出し、逃げてしまう話です。行く道行く道で牛や馬に出会い食べられそうになりますが、とにかく走るのが速く誰もこれを捕まえられません。得意になって走っていたこのクッキーも、最後には悪賢い狐に騙され食べられてしまうという話。
 その番外編があるのです。ある女の子がジンジャーブレッド・マンのクッキーを焼き上げると、それが逃げていってしまい、女の子はあちこち探しました。するとそのクッキーはあるパン屋で商品として飾られているのです。女の子必死で返してくれ、お金払うからとパン屋のオジサンにお願いしますが、もう売約済。そこで今度は売約した男の子に売ってくれるよう懇願し、ようやく彼女はお金を払って自分が大事に作ったジンジャーブレッド・マンを買い戻せたという話です。
 この話のたとえは、神様と人間の関係を表しています。神様が大切な存在として創った人間は自由になりたいと勝手に逃げていってしまいます。そしてあることへの奴隷のように捕われ売られて、死んでしまう存在。しかし創造主である神様は人を代価を払って買い戻してまでも人間を救いたいと思われた。その代金がイエス・キリストの命なわけです。命を犠牲にして払ってまで、人間を買い戻して、もとの神様が創造されたときの愛し合う関係に人間を回復するために。
 子供には、「これはたとえでね、神さまと人間のことなんだよ。では代金は何だと思う?」と質問すると「命!」と答えてくれた小学生がいました。何も説明してないのにするどい!そう、私達が走り回って、売られて最後は食べられて死んでしまう状態から神様が買い戻すために、イエスさまの命がかかっているんだよと。じゃあパンやのおじさんは?その売約した男の子は誰なの?と質問は続きます。そしてみなでジンジャーブレッドマンの絵を描いたり色をぬったり、楽しいときを過ごせて、感謝でした。
Dec. 8 "私の側のパート"

「・・・義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。 神の宮と偶像となんの一致があるか。・・・だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。・・・」第2コリント人への手紙6章14-17節

私はかなり日和見主義なところが昔からあります。私の現在の妥協とは、神様を第一にしないで、人間的な考えに日和見になること、そしてそれにぼーっとしていて世的なほうへ流されて妥協してしまうことがあること。今まで振り返ると、私のした妥協により、自身が痛い目にあい、また他者にもおよぶ場合もありといいことがありません。
 今日の聖書の学びでは、あの時した妥協がどんなに後になって悪影響を及ぼすかというポイントでした。(古代ユダヤ王国の王、ヨシャパテのストーリーから*、彼の悪への妥協、日和見の刈り取りが彼の次世代へと影響) しかし憐れみ深い神様は、そのことをごめんなさいと告白すると赦してくださるし、それだけでなくづっと後になって、私の失敗したことを益に一部かえてくれたりすることもあり、これは本当に恵としかいいようがなく申し訳ないほど感謝です。自分では”これくらい大丈夫だ”と思いが、足元をとられることが多いです。自分の弱い部分、影響を受けやすい部分は意識して距離をおくことも必要だと。例えば危険とわかっているところへ、わざわざ近寄るのは賢いことではないのは当たり前のことですし、それは心への影響も同じです。同じ時間を費やすならば、もっと日常生活の中で自身の内側に神様からの励ましや慰め、喜び、希望、愛が与えられるほうを選び取って、その受けたものを他者へ流していくことを求めていくのは、有る意味私の側のパートでもあると。何かにつけ助けてくれて、不思議な力を与えてくださるのは神さまの技ですが、有る程度やろうとする本人の意思も伴うし、神様は強制して何かをなさる方ではないのです。
 もちろん私達の意思や思い・予想を超えたところでの、神様の恵みが大前提で、神様の主権(神様が全体をコントロール、つじつまをあわされている)があります。神様は憐れみ深い方であると、私のように失敗を重ねている弱っちょろい者は、その忍耐強い愛に触れるたび、感謝でいっぱいです。
*第2歴代志17〜19章
Dec. 7 "Ipad がほしい"
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」第一ヨハネの手紙5章3節

 昨晩、帰宅しご飯を食べてから急にIpadかIPhoneがほしくなり、Webで検索を始めました。私はいまだにレトロな携帯電話と重いラップトップのPCを使っています。というのは月曜日、アメリカ人の教会のバイブルスタディに参加し、ある医療用語(病名)単語がわからず非常に困ったのです。私の隣のシニアの女性より”これこれの病気のことをお祈りしてください”と頼まれ、順番で互いのために祈っていくのですが、私は何のことかわからないことをお祈りできないわけです。なんとか目の病気であることはわかり、わかる範囲で彼女のためにお祈りしました。もちろん、帰宅してPCで調べ、黄斑性変性症という目の病気と判明、日本語でも調べないとわからない。このバイブルスタディのメンバーはほとんどが現在癌の治療中 or 過去に癌を患った人等、シニアが多く、どうしても病気に関する単語がでてきやすいし、もしIpadかIphoneその場で調べられれば困ることないのになあと。
 これはほんの一例で、英語がわからないフラストレーションはつねに私におこり、アメリカ人にぺらぺら早口で話されているとぜんぜんついていけないのです。その場で英語がわかんないときWeb翻訳でさっと意味がわかればいいな、仕事でだってアメリカ人とのコミュニケーション向上するだろうと思って、値段やアメリカで買ったのは日本で使えるのか?と色々調べているとあっという間に時間がたち、疲れて寝る時間へ。
 結局、朝起きて、今のままでいいやと。必要だったら神様が与えてくれるだろうと思わされ、英語が通じなくても残念だけど死にはしないし、言語が通じなくても祈りについては、神様は私達の願いをご存知だし、その場でわからなくてもいいと。要は英語ができないということへの私のプライド(めんつ)、そして便利なものをほしいという私の物欲の問題なのだろう。結局自分のことばかり。
しかしもっと大事なこと、”自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさいという”神様の戒めを思い出すよう、今朝は示されました。これらのこと生活のなかですぐに、ぶっ飛び、自分が”ほしい”と思うことにいくらでも時間を費やしがちな私。神の戒め自体は自分の力でやろうと思ったらむずかしい(いや、私には不可能です)。だから神様に求めてその愛をくださいと求めるしかないんだなあと。今日も求めたいと思いました。
Dec. 4 "ハウスメイトのボーイフレンド"

「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるのである。」創世記2章24節

先日から、ハウスメイトの彼氏がオハイオ州から訪ねてきています。同じケニア人で、今は学生をしていて、とってもいい方です。今日も二人そろって朝食を食べて教会に向かうところでしたが、少し会話を交わしました。彼は以前神学校を卒業後、牧師の仕事をしてまた今勉強に戻っているそうですが、いずれまた(その頃はもうお二人は結婚していると思いますが)教会で夫婦二人で仕えるようになるかもと。聞いていてほんとうにほほえましいカップルです(ちなみに彼らは30歳台後半)
 私はアメリカでクリスチャンの夫婦やカップルに接して(日本よりアメリカのほうがクリスチャン人数多いので)いつも思わされるのは、神様が二人の関係の間におられるのが、目には見えませんが、かもしだされる、また態度や会話に表れるので、とってもいいなと思います。私は今独身ですが、づっと神様に神様を信じて従っている、同じ信仰をもった伴侶を与えてくださいと祈っています。それがすぐに聞かれないので、時々、挫折しそうになることも何度もありました。でも、年齢とかではなく、神様のタイミングを待とうと、色々な方法で神様は励ましを与えてくださっているので感謝です。
 もちろん、クリスチャン同士でも、そうでなくても結婚にはいいこともあれば、大変なこともあることは、おのずと人から聞きますし、自分の親を見ていてもそうです。しかしながら、神様は人を創造したとき、男と女が一体となり、家族の基本単位としてデザインされたという聖書のことばを信じ、祈りつつ待とうと思います。同時に、結婚が私の人生で、神様の計画ではないとしても、それはそれでとっても残念ですが、以前のように結婚にしがみつかなく変えられてきたのは奇跡です。今の独身の時代、神様の恵みで本当に充実を与えられていますし、さらにそのことをEnjoyし感謝できるようになりたいと。
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