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信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

Jan. 2012

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



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幸福の追求 西洋美術とキリスト教 恐れが入る時 Change!ではなくTransforme変身
手をこまねく 人が蒔いたものを刈り取れる 高い基準とアフターケア 立ち返る
ジュエリーデザイン Kosher Food
(コウシャー)
Jan. 30 "Kosher Food(コウシャー)"

「鳥のうち、次のものは、あなたがたに忌むべきものとして、食べてはならない。それらは忌むべきものである。すなわち、はげわし、…とび、はやぶさの類、もろもろのからすの類、だちょう、…かもめ、…ふくろう、う、…ペリカン、はげたか、…こうもり。」レビ記11章13-19節

 アメリカの大手スーパーに行くと、Kosherフードのセクションがあります。これは、今私が呼んでいる聖書の中の旧約聖書(レビ記)に記されている、イスラエル人に向けた食事規定が元来で、Kosherでは食べてはいけない食材及び調理方法が決まってるようです。
 たとえば有名なのは、豚を食べない。その他ペリカン、猛禽類、昆虫(いなごはOK)、犬とか猫等四足で手足にふくらみ(Paw)があるものなど、また他の聖書の箇所で「子羊をその母の乳で煮てはいけない」ということがもとで、乳製品と肉は一緒に食べてはならない→拡大解釈で、チーズバーガ-はだめとか、いまでもイスラエルではあるそうです。つまり聖書にかいてある、たった一行を、何十章にもわたる詳細規定が生活なかに適用すべく作られ、それを守っているわけです。
 ユダヤ人が伝統的な教えを守っていることに対してそれを尊重しますが、私たち非ユダヤ人(異邦人)にとって、神様が食べていいときよめてくれたものは何でも感謝して食べてよいと信じています。それは聖書(新約)に書いてあって、イエス・キリストが2千年前地上に来られて死んで復活され天国に帰られた後、ある時神様はユダヤ人のイエスの弟子・ペテロに3回も幻で、これらの禁止されていた動物・鳥を風呂敷みたいのにいれて天からつりさげて見せ、「ペテロ、これを食べなさい」と言われ、「主よそれはできません」とペテロが言ったのに対し、「神がきよめた物ときよくないと言ってはならない」と神さまはおっしゃったということが書いてあります。
 この箇所は何も食べ物のことだけでなく、当時ユダヤ人は自分たち以外の民族きよくない、そして救い主メシヤはユダヤ人にだけだと思っていた偏見に対し、神様はイエス・キリストは全ての民族の救い主であって、イエスが来る以前にイスラエル人が選民とされ、ご自身がどういう神かを示され様々な法律を授けていましたが、その法律を守ることに縛られていた時代はすぎさり、キリストを信じるだけで救われるという全世界への福音を神様は伝えたかったと、ペテロさんもはっきりわかったという。(使徒の働き10章)
 よーく食べてはならないという物のリストを見ていると、古代、砂漠で不衛生な時代に、体にとって安全な食べ物を神様は示されていたと私は思います。今の時代のように無菌豚はないし、殺菌する薬もない時代、神様から与えられた生活の知恵でもあったと。なんでもおいしく安全に食べられる時代に生きていることを感謝を思わされました。
Jan. 26 "ジュエリーデザイン"

「見よ、主はユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、彼に神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、 また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせ、また人を教えうる力を、彼の心に授けられた。」出エジプト記35章30-33節

 私の友人のお父さんが大学でジュエリーデザインが専門の方がいます。宝石、金属、その他の材料を用いて美し作品を芸術として作り上げる実用的な学問、素敵だなあと思いました。しかし、私はそう思うだけで入学したいと思いません、というのは私は工作は苦手、そしてアート的な才能・センスがなく、どちらかというと事務的なほうが得意だからです。
 今日読んだ箇所は、神様が古代のイスラエル人に、モーセという預言者を通して神様を礼拝する場所(幕屋)を立てる細かい指示をされたところで、特に、ある人を神の霊で見たし、金・銀・青銅、宝石や機織等を使って工作・装飾する才能を与え、またそれを人に教える力を与えられたところでした。
 全ての才能は神様から与えられる、よく”天賦の”という日本語もありますが、どんな小さい日常的作業からプロフェッショナルなことまで、神様は一人一人に与えて下さり、それを神様のために用いてほしいと。見えない神さまに仕えるイコール周りの人に仕えること、それは結局人に仕えているようで神さまに仕えていることになると聖書にパウロという使徒は書いています。私のような凡人でも、小さいことに忠実に、職場でも人に仕えることで神様に仕えたいと。
 一方で、生まれつきの才能だけでなく、イエス・キリストを証しする力は、求めれば信じる人全てに、聖霊が上から注がれ与えられると(使徒の働き1:8)、牧師・教師・伝道師とタイトルがつく人だけでなく、信じる人皆に。プラス、奉仕のために必要な技能・力・知恵は求めれば与えられる、備えられるとも書いてありますので、なんでも求めればいいんだと。私はもっと聖書を、キリストの救いを人に説明できるよう、教える力を下さいと求めようと思います。
Jan. 25 ”立ち返る”
「そこで飛脚たちは、王とそのつかさたちから受けた手紙をもって、イスラエルとユダをあまねく行き巡り、王の命を伝えて言った、「イスラエルの人々よ、あなたがたはアブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば主は、アッスリヤの王たちの手からのがれた残りのあなたがたに、帰られるでしょう。 」歴代誌下30章6節

 日本史でも南北朝時代というのがありましたし、現代でも国が様々な政治的理由で南北に分かれてしまうことがありますが、紀元前のイスラエル王国もそうでした。このころ、イスラエルの国は北イスラエル、南ユダと南北に王国が分裂し、特に北は先に軍事大国のアッシリア帝国に征服され、人々は他の土地へ捕囚で連れていかれました。その時に、南のユダ王国のヒゼキヤ王という人は、敵対していた北王国の人々にも、今まで彼らの先祖に現れ、守り導いてきた神に逆らっていたことを悔い改めて、神に立ち返るよう、飛脚を使って全地域に手紙でよびかけたという箇所が、今日の聖書の学びでした。
 神様はいつの時代でも、私たちに「戻っておいで」と忍耐つよく、哀れみ深く、待って下さる方。たとえ、過去に何をしていたとしても、また現在の状態が神様の前にとてもじゃないけど、でれないほど心が汚れていても、いつでも神様に立ち返えられる、そのままで出ていけるとのメッセージ。私も12年前、神様に立ち返ろうと汚いままで出ていったことを思い出します。自分は”宗教 Religion”をやるつもりはない、シンプルに神様と愛の”関係 Relation”に招かれていることを受け取って、自分の全ての罪、特に神様を信じられないで生きていた根源的な罪を赦すために、キリストが変わりに十字架にかかったことを信じることで、その救いを受け取れました。この信仰も、プレゼントとして神さまの一方的な恵みとして頂いたものです。
 このバイブルスタディにはクリスチャンだけが参加しているのではなく、いろんな心の状態の方が参加しています。学びの最後に、牧師が呼びかけると、数人の若い人から中年の人までが、神様に立ち返る決心を表明するため前に出てきました。その内の私の横の席にいた若いカップルは、男性の方が前へ出て行った時、女性は涙を流して喜んでいました。私たちはこうして、神様を信じる決心をした人々を見るにつけ、喜んで拍手!天国でも神様、イエス様、聖霊様が喜んでいることでしょう。私はこの光景を見れたのがうれしくてうれしくて、今日も感謝で帰宅!
Jan. 21 高い基準とアフターケア

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。…
 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。…
 安息日を覚えて、これを聖とせよ。…
 あなたの父と母を敬え。
 あなたは殺してはならない。
 あなたは姦淫してはならない。
 あなたは盗んではならない。
 あなたは隣人について、偽証してはならない。
 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。…すべて隣人のものをむさぼってはならない」。
   出エジプト記20章1-17節

 昨日、「どうして、(キリスト教の)神様は像を作ってそれを神として人が拝むのを禁じられのですか?」と聖書の学びに参加されていた一人の方が質問されました。確かに、多くの宗教はみな人が木や金属で牛とか仏像とか何か像を人間の手で作ってそれを拝みますので、それがなぜ悪いのかとそいう素朴な質問。私は「真の神様はこの全世界と人間とすべてのものを創られた方なので、人の手により木とか金属で作った像は所詮創られたもの。神ではない。しかし人はどうしても目に見えるものや、パワフルな太陽を拝む対象にしがち。しかしそれも神が創ったもの。真の神様が創造主Creatorであり、他のものは全て被造物Creation。神でないものを拝んでほしくない」と説明、彼女は納得したかどうかはわかりませんが、今わからなくても、聖書に触れてもっと神様のこと、イエス様のことを知っていただければなあと思います。
 今日読んだ箇所は、まさにその質問のところで、いわゆる十戒と呼ばれる、預言者モーセが神様から受けた10の戒めで、最初これはイスラエル人に与えられました。最初の4つの戒めは神様と人との間の関係に関する戒め、あと6つは人間同士に関する戒め。これをよく縦と横の関係と言われます。神様との縦の関係がしっかりしていると、横の人間関係に影響し、関係が良好となるようになっています。
 全ての律法は二つ@神を愛しA自分を愛するように隣人を愛しなさい に集約される、とイエス様はいわれましたが、まさにこの十戒が要約されているなあと、今日読んでつくづく思わされました。もし他人を神様の言われる愛であいそうとすれば(できなくても、しようとして、神様に助けをもとめれば)親を敬おうとするし、殺さないし、盗まないし、不倫しないし、嘘をつかないし、人の物をほしがらない。またこれらを実行に移していなくても、もし心にその思いがわけば神様の基準では戒めを破ったことになるという、その基準はあまりにも高すぎます。しかし、仮に最低限これらのことさえ人類史上まもられていたら、もっと平和だったはずでしょう。
 神様は出来ないことを人に要求してほおっておかれる方でなく、自分の力で出来ない私たち人間のために、キリストが変わりにその出来ない状態(罪)にたいする罰を十字架で全て代りに受けて下さったこと、そういうやり方で、戒めを、正義を保持しつつ、一方で私たちを赦し、救う方法を取られた。そして、さらに、キリストを信じた後、神様の力で戒めを守れるように徐々に内側を変えて下さるという約束も下さるので、希望があります。自分で修行して守れるようになれと言われたら、私には無理で、そんな体育会系ついていけない、すぐ脱落。しかし、私が信じている神様は愛をもって人に益になる戒めを与え、それが守れるようアフターケアをし助けてくれるので、重荷とならないから*、ほんと有難いです。

*第一ヨハネ5:3 「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷となりません」
Jan. 20 "人が蒔いたものを刈り取れる"

 「涙とともに種をまくものは喜び叫びながら刈りとろう。」詩篇125編5節

 「自分で蒔いた種を刈り取る」ということわざが、つまり、自分がしたいことの結果に対しては、当然自分が責任を持つことになるという厳しいものがあります。一方、聖書には種まきと収穫のたとえが様々なイラストレーションとして引用されていて、ことわざ的意味でも用いられますが、逆にいい種をまけばいい結果を刈り取るほうにも表現され、特に地道に伝道していけばいつか、福音を聞いた人がキリストを信じるよう導かれるという場合に用いられています。
 種は聖書のことば(みことば)で、それを蒔いていけば(人に伝えて行けば)いつかその人の心で芽が出て成長する、神様を信じるようになる(収穫)
という希望が書いてあり、私もそれに従って小さいことですが種をまいていきたいと思っています。しかし、私の心は環境に影響されるのでいつも調子がいいわけでなく、様々な心をくじかせること、悲しくなること、イライラすることも生じて、時には部屋で、車のなかで涙を流すこともあり、自分のことしか考えられなくなり自己憐憫に陥ることがあります。
 地道に時が良くても悪くても種をまくこと、自分の力では出来ません。涙をもってしても、神様に助けを祈って、聖霊の力で前へ進んでいくことを決める、するといつかわからないけれども、必ず喜びなから、やったあ〜と叫びながら蒔いたものを刈り取れる、収穫をみれることがあります。
 一般のことわざと異なるのは伝道の場合、自分が蒔いたものでなく、他人が蒔いたものを収穫することができる場合もある、とイエス様ご自身がその恵みを話されています(ヨハネによる福音書4章)。それぞれ分担がありチームプレイとして皆で喜べるのです。今日は夕方聖書の学びがあるのですが、ちょうどこの件にもふれる予定なので、参加される方と神様の恵みを分かち合えるように祈りつつ。
Jan. 18 ”手をこまねく”
「わが子らよ、今は怠ってはならない。主はあなたがたを選んで、主の前に立って仕えさせ、ご自分に仕える者となし、また香をたく者とされたからである」。第2歴代誌29章11節

 手をこまねく(こまぬく)という表現をご存知ですか?今日読んだ箇所にでてきたので、意味を調べてみると「何もしないでいる、何もしないで傍観する」とあり、何かが起きた時に何も出来ない状態のことをいうのでしょうか。私は振り返ると、そういうことってよくあり、後から「ああすればよかったのに。。ああ言えばよかったのに」と、ぼーっとしていて突然の出来事に手をおまねくしかないことってあります。
 今日の箇所は、古代ユダヤ王国のヒゼキヤ王という人のことばで、そこから学ばされました。彼は25歳という若さで王位に就いたのにかかわらず、非常にリーダーシップがあり、神様の前に正しく、自分よりはるか年上の、当時神殿で仕えていた祭司やレビ人達に、「わが子らよ、今は怠ってはならない!」別の訳では「手をこまねいていてはなりません」とびしっと命令したのです。彼の父が超極悪な王で国が偶像崇拝で満ち溢れ、真の神様への礼拝がされずどうしようもない状態だったので、その息子の代になって、彼が最初の月に言った言葉で, 続いて様々な刷新が行われます。
 この古代の王と祭司たちの話しだけにとどまらず、今日の私達への適応は、一人一人皆神様から、どんな小さいことでも神様の前に仕えるよう選ばれているのだから、手をこまねていてはならないという、戒めでした。もちろん、神様に仕えるとは強制感でするのではなく、神様がイエス・キリストを通してどんなに私たちを愛して下さったか、その愛を受け取り、その愛に応答してのことですが、私はすぐ、目の前の困難や問題でいっぱいになり、こういう大事なことを忘れてしまいがちです。
 毎日、火矢(心に悪影響を及ぼす物、苦い思い、誘惑等)がバンバン飛んできます。それに対して信仰という大盾や神の武具でフル武装し、ぼーっとして、頭が燃えているままにならないよう、イエス様の大きな愛を忘れず、喜んで仕えることに思いを集中していたいと、今日も教会での聖書の学びを通して再び励まされ、感謝です。
Jan. 14 ”Change!ではなくTransforme変身”

「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 」第2コリント人への手紙3章16-18節

日本から帰国してハードスケジュールで一週間とばしてくると、疲れと時差ぼけで今もきちんと眠れないのとで(そのおかげで夜中にこれが書ける)体調がすぐれません。そんな中、どうしても行きたくて仕事帰りに先日、アメリカの教会での女性のバイブルスタディに参加。毎月決められた聖書の箇所を事前に読んできて、神様から示されたことをわかちあう、10−20人位のグループですが、毎回励まされます。
 ここに集う多くの女性がみな1度・2度も癌を経験した方達ですが、驚くべきことに彼女達には悲壮感とか不安とか、ネガティブな思いが見受けられないのです。先日、皮膚がんで鼻の皮膚を切りとった方や、11月にステージ4の乳がんで乳房を切除、そして保険会社は治療費をこれ以上カバーしないと言われた方もにこにこして参加。彼女達にとっては、もちろん癌になったことは辛い経験でしたが、それを通過するたびに、ますます神様に信頼することを学び、また”自分のことは自分できる”と思っていたがそうでないことを学んだと。だからこそキリストにますますフォーカスするように変えられ、これ以外に希望がないことを確信していくとのこと。体は丈夫ではない、いわば再発の懸念にも関わらず、機会があるたびに他者に仕えていくことや、キリストを伝えていきたいと目を輝かせながら、同時に自分の辛かった時期も笑いながら話していました。私はこんなすばらしい励まされるグループを与えられ、本当に感謝です。
 彼女達と私の共通の希望は、この世で生きている間、どんな状況においてもイエス・キリストをいつも見ていれば、聖霊(神の霊)の働きによりキリストの性質に変えられていくという約束です。人はいつも見ている人の影響を受けがちです。ましてやそれが神様であれば単なるChangeでなく、原語ではTransformですので、映画Transformerではないですが、全く”変身”変貌?していき、鏡のようにキリストの栄光を反映していくと。
 私はちょとした困難なことが起こると思い煩うし、どこか痛いと再発のことも頭を正直よぎります。しかし、以前と比べもうちょっと神様へ依り頼むようになり、落ち込みからの上昇時間が短くされているようで、少しは変えられているのかな。これは聖霊の働きです。自分の内側が困難に対応できるように、なかなか変わらない欠点の部分が変えられていくのは一生かかりますが、それを自分でやらなきゃと力振り絞るのでなく、リラックスして神様が変えてくれると信じつつ、神様のために仕えて行きたいなあと思わされました。
Jan. 13 "恐れが入る時"

「主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。
わたしの嘆願が御前に達しますように。仰せのとおりにわたしを助け出してください。
わたしが小羊のように失われ、迷うとき/どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません」  詩篇119編169,170,176節

 私は今緊急に祈っていることがあります。
 その祈りの答えを、今すぐに神様にかなえて頂きたい、今すぐ状態を変えてほしいと思うのですが、「それがたとえすぐにかなえられなくても、それまで神様が陽子を守ってください」と友がバイブルスタディの後、私のために祈ってくれました。
 それまでは自分のなかで祈ろうとしても、思い煩い、頭のなかに色々悪いシナリオが浮かんできてしまうので不安がありました。しかし、ようやく平安が与えられてきました。神様は目に見えないけれど、目に見える主にある兄弟姉妹をそばにおき、共に祈ってくれる、どんなにありがたいか感謝でいっぱいです。
 そして今日の詩篇の箇所が与えられ更に確信を得ました。私の叫びは神様に届いている。そして、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(第一ヨハネの手紙4章18節)とあるよう、神様は愛ですから、必ず私の不必要な恐れも締め出して下さるという神様のみことばを、あるがまま理解させて下さいとも祈り続けようと思います。
Jan. 8 "西洋美術とキリスト教"

 「さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。 イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。」 創世記25章27-28節

 年明けに、東京上野の西洋美術館に母と行きました。館内にあるショップで書籍のセクションをみていると、いかに西洋美術とキリスト教はゆかりがあるかを、それ関係の陳列されている書籍が多いことで気がつきました。クリスチャンでない著者が研究して書いた「旧約聖書入門」「旧約聖書をしってますか?」等、わかりやすく解説してある本もあり、聖書のなかのストーリーが西洋の芸術のモチーフとなっていることの理解を助ける本として多数でていました。ルネサンス期以降であっても、絵画・彫刻・音楽でキリスト教モチーフの作品が多いのです。
 これらの本をもっと以前に読むことがてきたら、旧約聖書もわかりやすかっただろうと思いつつ、今年も聖書を創世記から数章づつ順々に通読を始めました。例年では聖書の中の旧約と新約部分から少しづつ読み進めてきたのですが、今回は旧約からのみ順々に。難解の旧約も、毎年読めば読むほど「ああ、こういう意味だったのかあ、こういう関連性があったのか!」と理解が与えられ楽しみです。一方で、そういう基礎知識だけでなく、聖書を読む時の重要な点は、聖霊(神の霊)が私の心の奥深いところに個人的にその聖書箇所を通して語られることが驚きです。何度読んでも毎回別の発見と学び、また自身に示されることも違い、聖書は神のことばで生きているんだなあと。
 今日読んだ箇所は、神様がアブラハムの子、イサクからさらにその3代目が双子として生まれたところでした。神様は母親のリベカに双子の内弟(ヤコブ)が兄に仕えると示されたのですが、実際子供達が育ってみると、状況をみても兄が父親から好かれ、その後を継ぐかのようにリベカには見えてしまいます。そしてお母さんリベカは、この状況を自分がなんとかしなければと、後継ぎが受けるべく祝福を父親から次男ヤコブに受けさせるようにと策略を練ります。もしリベカが神様のことばを信頼して、任せていたら、そんな詐欺まがいのことを次男にさせる必要はなかったのです。そしてその策略の実行が兄の弟への憎悪・殺意を生み、そして彼らから起こる二つの民族が敵対するようになってしまいました。
 目の前の状況を観ると、自分の思い描いたように、望んだとおりにならないことが多々あります。また祈り続けていることも、いつまでこのままですか?と思うことはあります。旧約聖書を読んでいると、信仰のある立派な人たちでも、神様の約束を信頼しきれず、待ち切れずに自分で事をおこしてしまうケースも多々見られます。それにもかかわらず、神様はご自分の計画、約束されたことを成就されるため不思議に軌道修正されているのを読みとる時、自身の今の生活においても、現状はすぐに変わらなくても神様が必ずベストに導いて下さること、祈りは聞かれていることを信じて、忍耐し待ち望みたいと思わされました。
Jan. 2 "幸福の追求"

「神よ、わたしをお守りください。わたしはあなたに寄り頼みます。わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。」詩篇16篇1‐2節

数年前に映画「幸せのちから」(The Pursuit of Happyness)Will Smith主演の映画を観ました。平凡な人が家族共々幸せになりたいと、一生懸命努力してそれが報われるというストーリーで、我が国の憲法の前文にあるよう幸福の追求が人権ともなっていますから、誰もがある程度共感できると思います。ただし現実は努力しても報われないこともあり、また様々な障害があったり、生まれた環境が最初から不公平だったりもします。結局、幸せと感じるられるのは人それぞれで、相対的なのでしょう。
 元旦が日曜でしたので、日本の教会の礼拝に両親と参加することができ、今日の箇所にもとづきメッセージがありました。年の初め、私は非常にこの詩篇16編に励まされ、神様を礼拝できることって、本当に喜びなんだなあと久しぶりに新しく心にヒットしました。ここで”神様のほかにわたしの幸せはない!”と言いきれるほど、この著者ダビデは喜びにあふれ、そこまで神様との信頼関係をもっていました。彼は古代ユダヤ王国の王でしたが、それになるまではとても地味な羊飼い。そんなダビデが波乱万丈の人生のなかで、うたった歌です。彼は本当に純粋に神様を心から信頼し、礼拝していたのだなあと。彼は様々な分野で優秀な人でしたが同時に欠点もあり、失敗も多く聖書に記録されていますが、いつも悔い改め、主(神様)への信仰は変わりませんでした。そして彼の子孫からキリスト(メシヤ)が生まれると預言されていて、そのとおりになったのです。
 人の想像しうる幸せとは残念ながら持続的ではないものです。しかし、どんな環境におかれても、神様を信じ、神の御子イエス・キリストという救い主により頼み、希望を置くことができる喜び、それにもとづく幸福感だけは誰も奪うことができません。
 新しい年も、良いことばかりでなく、失望したり、落ち込んだり、怒ったりするかもしれませんが、いつもここに戻ろうと励まされ、お正月を迎えられることが出来たのは感謝です。
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