すべてプレゼントなんです |
関わるかどうかのタイミング |
運とは!? |
一般的→個人的へ |
肉体の衰えと内側の成長 |
希望を与えることば |
環境に左右されない強さ |
自由な時代と支配 |
何が良くて悪くてという判断 |
まだですか?とベストの時 |
内側の成長 |
自然の癒し |
新しく力を得る |
(以下、日付順) |
Aug. 31, 10 (Tue) ”すべてプレゼントなんです”
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それはあなたがた自身から出たものではなく、神の賜物(プレゼント)である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
」エペソ人への手紙2章8-9節
キリスト教と他宗教の大きな違いは、@信仰を持っている本人があがめられないこと。イコール本人も誇らないこと。生前に良い行いをした人だけが救われるのでもないし、すべてに救いを受け取る機会が与えられていること。また信仰を持つ人が信仰を自身で造り出したわけでなく、神からのプレゼントだから、その人をすごい!とほめようがないこと。ほめられ、あがめられるのは、その人を通して愛を表している神、イエス・キリストだけ。救いや信仰もすべて神からのプレゼントなので、その人がいい人だから、修行したからに関わらず、下さいと求めれば与えられるものだからです。A神と親子のような(完璧な親がいるとしたらそれ以上に完璧な神の愛とそれを無償で受けるだけの子:私たち)信頼関係が与えられること。この前提の上で、神は私たちに良い行いに歩むように、その良い行いもあらかじめ備えてくださる。(10節)すべてプレゼントなんです。Praise
the Lord!
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Aug. 30, 10 (Mon) ”関わるかどうかのタイミング” 「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と
くすしきわざとに関係いたしません。かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。」
詩篇131編1−2節
これは、ダビデという紀元前ユダヤ人の王国の王が書いた詩です。彼は非常に多才で強い戦士であり、神を恐れた信仰の人でした。彼のような人が高慢にならず、かえって謙遜に、自分の力の及ばないことには関わらず神の任せようという態度に、凡人の私は学ばされます。自分で考えて動くことは簡単です。しかし、神に祈って、神のタイミングを謙遜になって”待つ”というのは厳しい、実は自分で動いてしまうほうが容易だから。でも神に任せて待っていれば、幼児が母のふところにいるように安心になれるというのが励ましです。Praise
the Lord!
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Aug. 29, 10 (Sun) ”運とは!?”
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」
第一コリント人への手紙10章13節
試練というか、困難な状況にあった時、ある人は自分の出来ることはやりつくして後は”運に任せる”しかないとよく言われます。運とは何なのでしょうか?偶然とは?きっと、説明がつかない不確かなことで後はなるようになるしかない時、人々はこのフレーズを使うのではないでしょうか。イエスキリストを信じる信仰が与えられていると、こういう運とか偶然と思えることが、すべて必然、神様のコントロール内にあると思えるため、不確かな状況であってもある意味、安心です。試練があっても、それが起こることに意味があって、そしてその上でそれに耐えられるよう脱出の道も用意してくださる神様がいるということに、苦しい状況のなかでも希望と励ましが与えられると思います。Praise
the Lord!
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Aug. 28, 10 (Sat) ”一般的→個人的へ”
「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 」ヨハネの福音書8章7節
この記事は、ユダヤ人の指導者たちが罪を犯した女性を公衆の前に引っ張り出し、イエスに「この女は石打ちの刑に値する罪を犯したけど、どうする?」と問い続けていた状況、ちょっと間をおいた後のイエス・キリストの返答です。罪という定義が、心の中の悪い思い・自己中心にまで及んだとしたら、人間のなかで罪を犯したことのない聖人は誰一人としていないはずです。イエスはこれらの内側の罪のためにも2000年前にこの世にきてくれた。
罪にたいしては罰が伴う、しかしその罰をすべての人間分、先に十字架上で代りに罰をうけてくれたから、それを信じた時、我々が罰を受けずに済み、全ての罪が赦され、神様の前に正しいとみてもらえる、天国へ行ける。この”人間の罪”という一般的から”私の罪”という個人的へと変わった時、イエス・キリストを自分の救い主として受け取れ、ある意味、すべてのしがらみから自由になれる。それは、勉強してわかるのではなく、神の霊(聖霊)によって信じれるようになるという、そういう経験をもっとたくさんの方が味わってほしいと願いつつ。Praise
the Lord!
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Aug. 26, 10 (Thur) ”肉体の衰えと内側の成長”
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 …わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
」第2コリント人への手紙16-18
今日は朝7時夕6時半までぶっとおしの3人のベビーシッターを友人の友人に緊急に頼まれてやったら、非常に疲れてしまった。明日も。お母さんたちは日ごろ大変だろうなあと。。本当に体力がない。どんなにがんばっても筋トレしたとしても肉体は衰えていく。でも、今日の聖書のことばのように内側は新しくされて成長していきたいものです。内側の成長とはキリストの性質のように変えられること:忍耐できるようになる、寛容になる、親切になる、人のした悪を思わない、恨まない、苛立たない等々(第一コリント人への手紙13章参照)。一生かかる成長ですが、神様が変えてくださるという約束があるから、自分で修行しなくても、ただその方向に向かおうと願うことを日々忘れないでいたいです。Praise
the Lord!
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Aug.25, 10 (Wed)”希望を与えることば”
「わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。わたしが自分の歩んだ道を語ったとき、あなたはわたしに答えられました。…わが魂は悲しみによって溶け去ります。み言葉に従って、わたしを強くしてください。」詩篇119編25-28節
今非常に苦しいところを通っている友人に、この聖書のことばを送った。必ず助けが与えられると信じて。少し状況は良くなっているとの今日連絡も受けたが、引き続き友のために神さまが彼女にこれからの具体的な指針を与えられるように、必要が満たされるように祈り続ける。また、今日別の病床にある友人に電話したら、先日私が訪問した時に持っていった教会の週報に掲載されていた聖書の箇所を読んで、悲しみの底から希望と力が与えられて前向きになってきたとの報告も。神様のことばは生きていて力があるんだ!Praise the Lord! |
Aug. 24, 10 (Tue.)”環境に左右されない強さ”
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」ピリピ人への手紙4章11-13節
上記は、イエス・キリストの弟子であるパウロがピリピ人への信者にあてた手紙の一部です。 すごい!自分がもし、極貧状態になったらこんなことを言う余裕はないと正直今は思います。「どんな境遇にあっても満ち足りることを”学びました”とあるように、パウロも最初からそうだったんでなくて、学んだんだという、つまり色々神様から助けられたり恵みを受けてきた経験を重ねてきてこう変えられたのかなと。そしてこの満足感は環境(余裕があるとか貧しいとか)に左右されず、キリストとの信頼関係(「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」)がベースなのでしょう。自分の力に頼るのでなく、神様に頼るという信頼関係は一晩では形成されない、というのが、まだまだ環境に左右される弱っちょろい自分にとって励ましです。Praise
the Lord! |
Aug. 23, 2010 (Mon.)”自由な時代と支配”
「すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。」第一コリント6章12節
今の時代、法律の範囲内であれば全てのことをする自由が与えられているというのは他の時代と比較すると非常に恵まれていると思う。ただ、”すべてのことが益になるわけではない”というのは確かで、だから一人一人選択する意思がある。問題はあることに支配されてしまうこと。自分では気がつかないうちに。。。ある人はネット・ゲーム・遊興・ダイエット・投資に夢中になるがゆえに、実はそれに自分が支配されていることに気がつかないかもしれない。私は過去にダイエットに支配されていたことがあります(笑)。自由な意思があったうえで、今の時期何をするか、何を優先順位にするかという知恵は祈って、神様に示してもらいたいなあと。どんなに小さなことでも、そうすると益になる選択へと導かれ、支配されないですむと思います。Praise
the Lord! |
Aug. 22, 2010 (Sun.)”何が良くて悪くてという判断”
「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」
第一ペテロの手紙1章20-21節
アメリカに住んでいると様々な面で日本との違いを感じます。人は、それぞれ育ってきた環境・文化・時代によって価値観や善悪の基準が異なるはずです。そうすると、何が良くて悪くてという判断も相対的。そこで、もし時代をこえて全ての人に当てはまるもの・基準があるとしたら、私はそれに同意したしと思います。聖書を読めば読むほど、人間にとってベストなことが(全ての人間関係にあてはまる、神の愛、人の考える愛でなくて)書いてあって、神様が人を通して語ったものが書物として残っている、私はこれを信じたいと思います。そして信じれてよかったなと、なぜなら、盲目的もなく迷信的にでもなく、自身の知性でもっても納得いくし、何よりも平安と喜びをもって神様の恵み・プレゼントとして受け取れるからです。Praise the Lord! |