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信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

Feb. 2012

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



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101歳の祖母 あたりまえと思いがちなこと Candle Holderからもれる光 赦しがたい犯罪
夫がBest Friend ちょっとしかないものを皆にシェア 未亡人の悲しみを乗り越えて ITの発展に感謝
あせっている夢
Feb.27 あせっている夢

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ、雄雄しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたのいく所どこにでも、あなたとともにあるからである。」ヨシュア記1章9節

 私はここ数ヶ月の間、いつも同じような夢をみます。今朝も。小学生の同級生とか、会社の同僚とかミックスして登場してくるのですが、それがいつも私も含め、何か学校のクラスの生徒になっていて、課題をする場面。私はいつもそれがついていけなくて、また試験を受けて問題がとけない、卒業できないみたいな。とにかく夢のなかでいつもあせっているのです。今、時間にゆとりのある生活をしているはずで、以前のように昼働いて夜学校へ通ったり、仕事に追われたリという忙しさはないのですが。夢の中でも、神様に助けてくださいといえばいいんだなと、ふと思いました。
 今日から聖書のヨシュア記という書簡を読み始めました。古代イスラエルの民が、エジプトから出てきて40年後に、ようやく神様が導かれようとしていた約束の地(現代のパレスチナエリア)へ、ヨシュアというリーダーのもと信仰を持って、突入していくことが描かれています。そのヨシュアが、神様からじきじきに励まされたことばを今日読みました。ヨシュアという名前の意味はヘブル語で”主は救い”という意味で、そしてこれをギリシャ語にすると”イエス”、英語でジーザス。つまり、イエス・キリストが将来、ご自分の民を天国へ導きいれてくださることの型をこのヨシュアという人物を通して示しているそうです。旧約聖書はどこを読んでもイエス・キリストのことが指し示されていたり、預言されているのですね。
 現実の生活のなかのいろんな場面で、何か不安や恐れがきたとき神様がともにいてくださることを思い出し、神様のなさることに期待していきたいと思わされました。夢のなかでも思い出したいです。イエス様が天国へ導いて下さっていることも。
Feb.24 ITの発展に感謝

今朝は久しぶりに午前なか家でゆっくり時間をとれました。たまたまハウスメートも今日がお休みの日で、キッチンでボリュームたっぷりのブランチを作っていました。
 先ほどインターネットのラジオを聴いていて、ある牧師がどうやったら、毎日毎日の生活で、神の御心を知り、それを行えるのかとシンプルなメッセージをしていました。神様のなさりたいことは、私の思いつきとか感情で決めたことと異なり、その日、その日、それが私にとっても他者にとっても益になることであるはず。でもどうやって??私は神様の声が聞こえませんが、祈って、聖書を開き、また牧師達のメッセージ耳を傾けます。牧師さんたちの語られることは、神様からことばを預かって話しているはずなので、聞いている人が、その場にいなくても、インターネットのアーカイブで、世界の裏側で聞いていても、求めて聞いている人にタイムリーに指針を与えてくれます。(ITの発達に感謝!)
今朝牧師は、「こうやって神様が何をなされたいかを、知ろうとできるよ」と聖書の箇所を教えてくれました。

「心をつくして主に信頼せよ、
自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言3章6節

今日も、タイムリーに心の糧を頂き、色々頭で考えていたことがまとまりました。神様が全てをコーディネイトして会い働かせてくれるから、神様に信頼すればいいんだと。
Feb.23 "未亡人の悲しみを乗り越えて"

「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第Uコリント人への手紙4章8−10節

私のハウスメートはケニア出身です。彼女はアメリカに来てアメリカ人と結婚し、一年後に突然心臓発作でご主人がなくなり、未亡人に。しかし、彼女はその悲しみでつぶれることなく、亡夫が存命中に志していた、ケニアの孤児のために基金をつくる会を彼女の教会のなかで支援者をつのり立ち上げ、孤児達の生活資金や、奨学金、そして小さいマイクロバスを購入して、現地でバスサービスという職を創出することも考えと、小規模ですがすばらしい働きをしています。
 人は悲しみや困難の中に沈むのは無理もないことです。しかし、この悲しみを乗り越える力を与えて、益に変えたのはキリストだと彼女は証ししていました。聖書で神様は孤児の世話をしなさいといわれているので、自国の貧しい子供達のために実践しているわけです。全ては神様がここまで導いてくれたと。
 キリストの弟子パウロという人は、伝道している際、多くの困難、悲しみ、死の危険にあったと書かれています。これほどまで迫害されて苦難にあっても、へこたれないのは、彼は神様の力は自分の弱いところに現れると、自身を誇らず、神様に全信頼をよせ、7転8起、いつも神さまから助けが与えら、最終的には天国で永遠に神とともに生きるライフに希望を持っていました。彼の経験がこうして聖書に書かれていて、2千年たった現代に生きる私達にも、励ましと慰めがキリストにあって与えられるのは感謝です。
 神様は一人一人に、地上での生活において計画を持っておられるので、我々の側では他者と比べる必要はなく、ただ神様のプランをキャッチし、それにのるかそれるかではないでしょうか。様々な形でイエス・キリストの福音を伝え、イエス様の教えられた愛を人間同士で実践していくと決める。すると聖霊の力により、私の地では無理なこと、その出来ない弱さのなかにおいても、出来るように導いてくださるというのが励ましです。自分の力でやらなければならないとしたら潰れるのが目に見えているからです。
 私は今まで、散々自分のやりたことを追い求めてきてむなしさが増すばかりでしたが、キリストを信じてから、”神様が(私の人生をとおして)なさりたいこと”を求めてつかんでいきたい。いわゆる古い自分が死んで、キリストの命がこんな自分にも現れてほしいと願います。その歩みはゆっくりで、一生かかりますが、パウロのように永遠に続く見えないものに希望を持ちつつ。
Feb.19 "ちょっとしかないものを皆にシェア"

「善を行うこと、持ち物を人に分けることを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」へブル人への手紙13章16節

ある人から聞いた話しですが、インドに旅行にいったとき、ガイドより「現地の人に絶対、物をあげないでください」と言われていたのに関わらず、かわいそうで、物乞いしてくる女性に少しの食べ物をあげてしまったそうです。すると、その人は即座に、もらったものを子供達に与えていたと。忘れられない光景だそうです。
 今日,教会で子供達に見せたビデオは、イエス様が5つのパンと2ひきの魚を奇跡で、5千人が満腹できた量に増やしたという内容。コンビニもない時代、イエス様の話しが聞きたくて人里はなれば場所に集まり、熱心にきいているうちに時間がたち、そこにいた群衆がみなお腹がすいて、これから家路につくまえに倒れてしまうという状態をイエス様はかわいそうに思ったシーンです。そこへ、一人の少年が自分の持っていた弁当(5つのパンと2匹の魚、サーモンみたいなでかいやつでなく、いわしサイズ)をこんなんじゃたしにならないと他の弟子にいわれても、どうぞ、とイエス様にさしだしたのです。子供達は、パンがどんどこ増えて行く、魚がバスケットいっぱいになっていくのを見て、「わおー more fish more fish!」とエキサイトしていました。
 ほんの少しだけど他者とシェアしようという、寛容な心、イエス様はそのやさしい心を見て下さる。どんな小さいことでも、物でも神様に捧げると、神様のほうで大きな祝福に変えて下さるんだなあと。持っていない物に目を留めて不平を言わず、今持っているものを神様に感謝し、またそれを人にもシェアすると、神様が想像を超えて他の人を助けることに用いてくださると子供とともに学びました。私は正直、自分に余裕がないと気分にも余裕がなくなるほうなので、耳が痛い、この少年のような寛容な心を与えてほしいと思いました。それにしても、映画のJesus(イエス様)いけ面だった。。
Feb.15 ”夫がBest Friend”
 
「あなたがたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。」申命記7章9節

 昨日はバレンタインデー。アメリカでは街や地下鉄等あちこちで、男性が花束やハートのバルーンを持っている人がたくさんいました。スーパーでも、前の日からいつもはがらんとしている生花セクションには男性陣が並んでいました。彼らが、ご自身の妻やガールフレンドのために用意していることと察し、とてもほほえましい光景です。女性の立場からすると、日本もそういう日になればいいなあと私は個人的におもったりしますが。
 私の友人の幾人の方々から、彼女たちにとって夫がベストフレンドだから、お互いなんでも話し合えると聞いたことがあります。それって、本当に信頼関係のある夫婦だと思いました。もちろん、わたしのように独身、または既婚者にとっても同性のベストフレンドも必要です。同性同士ならでは理解できるところってありますし、ぶっちあけ話せる信頼関係、互いに誠実である関係は必要です。いずれにしてもお互い不完全であっても、基本的なところで誠実と信頼、これがある人間関係は幸いだなあと。
 私は、神様が誠実な方だというのを何度も自分の今までの人生をみて思わされます。目に見えない相手ですが、祈ったことは必ず、私は忘れていても先方は覚えていてくれて、5年、10年後に想定外の形で答えられていたり、逆にすぐにかなえられることもあり。いつも私のベストを考え、一方で私に強制されない。聖書のことばや、他の人の助言を通して、聖霊が働かれ、私が自発的にその神様のガイダンス、導きを信じて一歩踏み出してみたり、自分が間違っていた悪かったと軌道修正する、という態度に変えられてきているのは不思議です。最近は神様が誠実であることを信じ、様々な局面で”待つ”ということを学んでいます。これは私にとって簡単なことではないですが。聖書を読んでいても、神様は人類を創造されたときから、人間と契約というかたちで約束をされてきたことが書かれていて、何千年もへて、いつも約束を守られる、誠実な方であることがわかります。
 自分が相手方に誠実さを求めるだけでなく、自身も相手に、また神様に対しても誠実をつくすという態度を、神様の力で与えて頂きたいです。
Feb.10 "赦しがたい犯罪"

「彼は悩みにあうに及んで、その神、主に願い求め、その先祖の神の前に大いに身を低くして、神に祈ったので、神はその祈を受けいれ、その願いを聞き、彼をエルサレムに連れ帰って、再び国に臨ませられた。これによってマナセは主こそ、まことに神にいますことを知った。」第2歴代誌3312-13


私はネットで日本のニュースの見出しを見ていて、時々非常に怒りと悲しみを覚えるニュースに目がとまってしまいます。虐待の事件です。最近も茨城である男が女子大生を家に監禁して衰弱死させてしまったと、その詳細はあまりにも惨く、出来れば目をそむけたくなります。またその刑が懲役8年となると、軽すぎる!と、再犯防止の手立てをしてほしいと怒りがわきます。虐待をする人は一概には言えませんが、自身も以前被害者だったり、心がゆがんでしまっているので、再犯の可能性高く、次の世代への負の連鎖となることもあり、簡単な問題ではないです。しかし被害者とその家族のことを考えると、本当に心が痛みます。  先日学んだ箇所は、古代イスラエルの王の中でも超悪王とされる、マナセという人のところ。彼も現代でいう、幼児連続殺人者。彼は異教の神を拝むため、その宗教儀式で自分の子も含めて、子供を生きたまま焼いていけにえとして捧げていたのです。(パレスチナの遺跡には多くのいけにえにされた子供たちの骨が発掘されます)その他、真の神の前にすべて悪ということをことごとく行い、民衆にもさせるという。この王のおかげで、どれだけイスラエル人は神からおしおきを受けて、アッシリア帝国に捕囚としてつれていかれたりと多くの悪影響を与えたか。こんな赦しがたい人には無慈悲を!と思ってしまいますが(すいません)、しかし、なんと神さまは彼が悔い改めたので彼を赦し、捕囚先から再び王として国に戻したのです。こんな慈悲深い神さまってすごい。また驚きは、マナセ王はイエス・キリストが生まれる系図に入っているのです。(マタイ福音書1章に系図)

 神様は、どんな人でも悔い改めれば赦される愛の方。一方で罪・悪には罰、正義で裁かれますが、その人間の罰を全て自分の子、キリストに負わせたのです。それにより、たとえどんな事をしても、そのキリストが自分の罪の罰を負ってくれたことを信じれば赦されるというのは、本当に人間の常識では考え難いことです。この茨城の人であっても、もし神を信じ、悔い改めたら、人からは赦されなくても、神から赦される。

 虐待をしてしまうほどの心がおかしくなっている人が、そういう人だからこそ、キリストの愛を知って変わってほしいと、この事件を通しても思わされました。

Feb. 7 "Candle Holderからもれる光"

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」第2コリント人への手紙4章7節

 ここ数年、アロマキャンドルをあちこちの店頭でみかけるようになりました。そのろうそくの温かい光とアロマの香りが癒し系というか、またおしゃれなキャンドルホルダー(入れ物)も一緒に売られ、インテリアとして女性は特に好むのではないでしょうか。そのキャンドルホルダーは大体、穴のあいた模様が側面に施されていて、その穴からもれるろうそくの光が暗い所に置くと素敵です。
 今日読んだ箇所は、そのキャンドルホルダーと似ていて、土器のなかに置かれたダイアモンドといったイラストレーションでしょうか。土の器自体は素朴で魅力的でなく、欠けていたり穴があいていたりしますが、その中に入っている宝(ダイアモンド)に価値があり、その輝きがあまりに眩しいので、土の器を通して、その小さい穴を通して光がもれ、ダイアモンドの輝きが間接的に魅了するわけです。
 キリストを信じている私は、信じた後もぼろぼろの土器状態です。不完全で欠点だらけ:性格的にも穏やかでない部分が(これでも大分ましになったんですが)イライラすると顔や語調にでます。(特に職場で。。)自分自身の欠けに注目するともう落ち込むしかない。
 しかし、今日の聖書のことばでは、私たちは”自分の良さ”を伝えるのでなくて、宝であるキリストを内に持っていて、私たちが信じている”キリスト”を伝える、その福音のすばらしさを外へ輝きださせる役目があると。個人差がありますが、土器の入れ物を通り越してキリストの光が出て、生活のなかで”この人が信じているキリストとは?”とそちらに目がいくことがポイントだと。この人自身から出たものでなく、この人の信じている神から出たものだと、現れるように。不完全な失敗ばかりの自身に目をむけず、キリストにいつも焦点をおき、落胆しないで、キリストを伝えるようにと弟子パウロはこの手紙に書いてくれてます。これは本当に励ましです。そして、時間はかかるけど、キリストの愛の性質(忍耐とか親切とか)にいつか徐々に変えられていくことを信じたいと。神さまはキリスト(ダイアモンド)のすばらしさを伝えるのに不完全な人(土器)を用いられる、なぜだかそういうやり方を神さまはされるようです。
Feb. 5 "あたりまえと思いがちなこと"

「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返してきて、イエスの足元にひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。」 ルカによる福音書17章15-16章

何事も、駆け出しは厳しいものです。私はアメリカに来て、未経験分野での仕事を始めたので、スタートの時給は低かったです。先日、一ドルお給料をドクターが上げてくれました。本当に一ドル(エンでは75円?)でも助かるし感謝しましたが、実はづっとあげてほしいと思っていたのでそれほど感謝していなかったことを認めます。心のなかでは、こんなに始めたときより、たくさん仕事を覚えてやっているんだから、上げてもらってあたりまえと思っていたのです。当然の報酬だとおもうと、ありがたみが半減するものです。結局、このうれしい昇給を神様からの恵みとしても受けとれません。 今日の箇所は、イエスさまが地上におられた2千年前、医療も発達していない頃、ハンセン氏病にかかった10人が、イエス様によって病気が全く癒されたというところです。ところが10人中9人は、癒してもらったことを感謝せずに立ち去り、たった一人だけ、それもサマリア人といって、同時のユダヤ人から軽蔑されていた民族の人だけがイエス様のところに来て、大声で神をほめたたえ、感謝して、足元にひれ伏したのです。他の9人はどこへ??<
 私は生活の中で多くのことを、あたりまえと思って、神様に感謝していないことに気がつかされました。時給のことも、神様に上げてくださいと、づっと祈ってきてかなえられたのに。。。後で思えば、職場で色々あり、お給料を上げてもらえるような状況でなかったので、まさに意外でもありました。
 この箇所をメッセージをしていた牧師は「神様、このチーズステーキを感謝いたします」と小さなことにも祈ったと。すべてのことは神様からのプレゼント:恵みだと感謝できる心に変えられたいです。あたりまえと思わず、ああ神さまが必要を満たしてくれたんだと、またこれからも、とその恵みに感謝できる低い心に変えてくださいと祈ろうと思います。そして祈ったことは聞かれるという、ますます神様に対しての信頼関係が増し加えられたい。神様の恵みを味わいたいと、思わされました。
Feb 4 "101歳の祖母"

「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 」レビ記19章32節

  私の母方の祖母は1月30日で101歳になりました。とても健康で、ゆっくりですが、室内も歩行器やつたい歩きで歩け、お風呂も食事もセットアップすれば自立。毎日、新聞を読み(細かい字は読めないので最近は見出しをざっと、1-2年前はちゃんと読んでました)、よく食べよく寝ています。母が世話をしていますが、本当に健康であることを感謝です。私は祖母には小さい時から世話になっていていて感謝です。厳しくしつけもして頂き、私が大人になっても一人で泣いてる時は慰めてくれる、私は祖母を尊敬しています。
 今日読んだ箇所は、神様がモーセという古代イスラエルの預言者を通して直接、様々な命令・律法を非常に詳細にわたって言われている箇所の一部ですが、ところどころに、必ず「神をおそれなさい、わたしは主である」と挿入されています。これはただ単に人間関係を平和的にするための法律を与えるだけでなく、根底には神を恐れ、その神に従う(主従関係:主人は神であり、人はそれに従う側)というのが前提です。つまり、神様を信じて恐れることなしに、高齢者を敬う、父母を敬う、また夫を敬う、夫は妻を自分の体のように愛する(キリストが教会を愛したように愛する)等はできないからです。できるよ!と思う人は幸いな環境で、相手が攻撃的でなく、立派で、いい性格で、自分に良くしてくれるからだと察します。しかし、相手が意地悪でも、不当でも、敬えるような人でなくても、とにかく神を恐れるがゆえに敬うのだとしたら、できるでしょうか?私は感情的に出来ないという場面はいっぱいあります。
 レビ記を含めて聖書のなかの旧約聖書と呼ばれる部分は、神様が法律を人に与えますが、それを自分の力で人が完全に守れないことの歴史が書かれているとも言えます。だからこそ、イエス・キリストがその出来ない我々の救世主として来てくれて、新約(新しい神との契約)の時代が到来:キリストがそのできない人のために代りに死んでくれて、罪を赦し、その罰を受け、そして死から復活、その復活させたと同じ神の力で、キリストを信じる我々が神の戒めを守れるように心の内側を変えて、助ける。
 グレーヘア-:白髪の方を見た時、この箇所を思い出すとともに、神様が主であることも思い出そうと思わされました。
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