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 日々のわか ちあい



米塚:阿蘇山@熊本

          
♪Today's Sharing♪

2017

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言

 



 


 


映画「沈黙」(Silence)を観て 自家焙煎珈琲にチャレンジ バードウオッチング@家の庭

 


3.11  6周年 近所付き合い 心のジャンクフード

 


無くてはならないもの 長崎:五島列島、外海地区を訪ねて 熊本バンド:明治初期大きな使命を担った士族青年たち

 


国連の核兵器禁止条約採択 武器を農具に変える HP読者に感謝を込めて

 


一羽の雀 光が差し込むとき 注文を間違える料理店

 


出前の聖餐式 死刑囚の精神的救済 涙の記録

 


対立と平和 校則のない学校 一緒に時間を過ごす

 


師走のクリスマスに立ち止まる 幼稚園児の密かな願い
Dec. 30, 2017

 

幼稚園児の密かな願い

 

   2017年も終わろうとしています。皆さんは今年はどんな一年でしたでしょうか。一年を振り返ってみると、本当に恵まれた一年でありました。しかし、私は下記の聖書の言葉にあるように、神様が私に良くしてくださった事はたくさんあったのに、全て覚えていられず、忘れてしまいがちです。おそらく、人というのものは忘れる傾向性があるから、神様への感謝を忘れないようにとのことでしょう。私の場合、昔お願いしていたこと、祈ったことも忘れてしまい、後になってから「そういえば、神様に祈ったんだ!かなえられている!」と気が付き、感謝したりすることもあります。

 

  最近、ほんの小さいことですが、自分が幼稚園生の時に願ったことがかなえられたことに気が付き、驚いています。むかしむかし、私が幼児の頃、親がミッション系の幼稚園にいれてくれたので、園児の生活にはシスターの先生たちがいたり、礼拝があったり、またクリスマスの時にはキリストの生誕劇が園児たちによって上演されました。私は、幼稚園の時の記憶というのはほとんどありません。しかし一つだけ覚えている感情がありました。それは、その生誕劇を子供達で練習していた時、自分は複数いる星の役を先生たちから与えられ、「私は(キリストの母親役の)マリヤがやりたい!なぜ先生は自分を選んでくれなかったのか?」とずうずうしくも思ったのです。後に、小学生4年から演劇部に入り、その後高校生まで舞台で演じるのが好きになりました。しかし、高校卒業以降も続ける程演劇にのめりこむこともなかったのですが、思えば、小さい頃から演じることに興味があったのでしょう。

 

  ところが、今年、教会のクリスマス礼拝の後に行われる祝会で、皆でキリストの生誕歌劇(ページェント)をすることとなり、私はマリヤ、そして夫はヨセフ役(マリヤの夫)をあてがわれました。当初「え、こんな年をとったマリヤではなく、若い人をどうぞ」と辞退したかったのですが、演じることになりました。そこでふと、「そういえば、私は幼稚園の時からマリヤの役をやりたかったんだ」と思いだしたのです。神様はなんと、何十年も経ってから願いを叶えてくれました。しかも、夫婦で演じる機会をこの時まで、神様はプレゼントとしてとっておいてくれたのです。この神様の計らいに感謝と驚きを隠せません。

 

  本当のマリヤは当時まだ14-15歳で、婚約したばかりでした。まだ夫ヨセフと夫婦関係になる前に、突然天使が現れ「あなたは救い主になる男の子を聖霊によりみごもるから」とお告げをうけました。もちろん、彼女の最初の反応は、「どうしてそんなことが可能なのですか?」と。しかし、「神には不可能はない」と天使に言われ、それをそのまま受け取り、「お言葉通りになりますように」と信じ、神様を崇め賛美した(マリヤの賛歌)と聖書には書かれています。14歳の少女の素直な信仰に驚かされます。

 

  多くの人がキリスト教でまずひっかかるのが、このマリヤの処女懐妊です。一方、現代の科学の進歩により、処女でも試験管の中で子供を作れてしまうという恐ろしい時代となりました。聖書に書かれていることは、科学的証明に基づくものではなく、あくまでも信仰で受け止める世界です。私はこの全世界と人間を神が創造されて、特に人を愛するために創られ、神様から離れて、罪がある状態の私を救うために、救い主のイエス・キリストを送ってくれたということを信じています。このことを信じられるのは、神様が信仰を私に与えてくれたからだと信じます。神様は人間の「信じたい」という自発的な意志を尊重される方であり、信仰さえも求めれば与えられ、信じられるようになります。また、一人の人が神様を信じるまで、忍耐と慈愛を持って、づっと待っておられる方です。

    

 今年の様々な神様から与えられた恵に感謝しつつ、皆さまの上に神様の祝福と恵みが来る年にありますようにお祈りしています。
    

 「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一忘れるな。」 詩編103篇2節
Dec. 7, 2017

 

師走のクリスマスに立ち止まる

 

   12月に入り師走という言葉が表す通りに、街やお店ではクリスマスの歌が流れ、クリスマス商戦が展開されています。多くの人々は年末で仕事が忙しい上に、忘年会のスケジュールのやりくりもしと12月は慌ただしく過ごしがちな年の瀬であります。かくいう教会も実は12月が一番イベントで忙しい時期でもあります。クリスマス礼拝、祝会、イブ礼拝、いくつかの施設を回りクリスマスキャロルを歌う等、クリスマスにちなむ特別の集会が次々に11月末から12月下旬まで開催される教会が多いでしょう。私が通う教会も同様で、更に今年はクリスマス礼拝の祝会でクリスマスの生誕劇(歌劇)を皆で行うこととなり、その練習が毎週のように行われます。

 

  私がアメリカ在住の時に通っていた教会は、もっとシンプルでした。クリスマスに向けて、貧しい国の子ども達に、靴箱に生活用品を詰めてプレゼントとして発送したり、セントラルパークでクリスマスキャロルを歌って教会のちらしをまき、そして本番のクリスマス礼拝を日曜午前に行い、午後は特にプログラムはなしでした。そして、クリスマス当日は、私のような(当時)独身や家族がアメリカにいないメンバーは、牧師やそのほかのメンバーの家に食事に呼ばれ、共に楽しい時を過ごしたものです。各々の教会によりますが、私はこれらの行事のボリュームで、余裕を持ってこの時期を毎年静かに過ごせたという思い出があります。

 

  クリスマスが12月に制定された由来は、当時のローマ帝国の異教の神のお誕生日が12月の冬至の時で、太陽の神が生まれた25日をキリストの誕生日にしたとのことです。聖書に由来なく日にちを決めるのであれば(聖書に記載されていないため)、10月くらいにしてほしかったと思います。なぜなら年末の忙しい時期に、更に忙しさを重ねることで、活動にバタバタして、何のためのクリスマスなのか、本来の意義が見失われてしまいがちだからです。

 

  この日本という予定が立て込む環境にいる時こそ、立ち止まって自身に問うてみたいと思わされました。心の「静けさ」を持っているか?、何のために、忙しく動いているのか?と。実はその質問は生きるということの根源的質問にもつながります。本来は人というのは目的や存在価値もなしに、生きれない存在であります。しかし、それがわからなくてもとにかく目の前のことを片づけて、忙しく日々を送ることも可能なので、多くの人がそんな質問をしないで過ごしているしょう。しかしそこには、真の平安・静けさはなく、たとえ自分で冷静になろうと、落ち着かせようとしても外的要因により長続きしないでしょう。

 

  自分で作る静けさではなく、神から与えられる「静けさ」というのがあり、それが力となることを聖書は記ています。 「…落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15) なぜ力となるのでしょうか。神から頂く静けさは、まず自分が神に対して悔い改めることによって、救いの確証を頂き、続いて神にすべてをより頼むことができる信頼関係が与えらえることによって、慌てず、世の中に流されない強さが与えられるからです。それは、私たちの想定を超えた神からくる、不思議な平安です。12月のクリスマスが伝統であればそのまま従いつつも、神様からくる平安を見失わないように祈りつつ、一人でも多くの人がイエス・キリストの誕生、自分の救いのためであったことを知る機会となるように願っています。

    

 「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 」ピリピ4章6-7節
    

 「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ書30章15節)
Nov. 18, 2017

 

一緒に時間を過ごす

 

  先日、私たち夫婦は結婚一周年を迎えました。私たちの周りには、結婚10,30,50年と大先輩ばかりですので、それに比べると私たちは未だひよっこです。しかし、同じ月日を過ごすと言っても、一緒に過ごす時間の密度が濃ければ、より早くお互いを知れるのではないかと思います。お互いを知っていくと相手を理解するようになり、そして多くのことで同じ考えになっていくこともあります。私たち夫婦は一緒にいる時間も、共に活動することも多いため、この一年は本当に中身が濃かったように感じます。

 

  人間関係においていつも一緒にいてお互いに話しをすれば相互理解が深まるように、神様との関係も、イエス様と一緒に過ごしていくことで、イエス様の思いを少しづつ理解できるようになっていきます。イエス様は十字架に架かる前に弟子たちにこう言われました。「私につながりなさい。」このつながると訳されている言葉は、とどまる、住む、泊まるという意味があります。

 

  イエス様が十字架で死に、復活されて天に今はおられるので、どうやって一緒に過ごせるのでしょうか。イエス様・神様と一緒に時間を過ごすには、聖書を読むこと(聴く)、そして祈ること(話す)を通してとれます。それはイエス様の言われたことを聖書を通して知り、また神の霊である聖霊の助けにより、父なる神様はどのような願い、計画を持っておられるのかも少しづつ理解が与えられていきます。また祈る時、眼には見えなくてもイエス様が祈りを聞いていてくださり、神様にとりなしてくださっています。また、キリストを信じる兄弟姉妹で集まっていて、共に分かち合いをしたり、祈っていると、そこにも聖霊が働かれます。例えばある人を通して神様は私にタイムリーに必要なことを語られることもあり、それによって慰められ、励まされ、時には自分の視野の狭さや罪に気が付かされ、悔い改めに導かれることもあります。

 

  こうして神様の願い(キリストを信じて、永遠の命をもらうこと*1)に沿った願いに私の願いも徐々に変えられていけば、人が信じて救われることに関しては何でも望めば与えられるというのが、今日の聖書の箇所です。私の個人的欲の為の望みについては叶えられるという保証はないですが、一方で私に本当に必要なものは神様は備えて下さるという、約束が書いてありますが、そのとおりに与えられてきたということは経験しています。実際私自身では、本当に何が必要なのかは完全に把握できないので、そのことも神様に委ねることができるのは本当に感謝です。日々の生活の中で、何をするにも人に対してではなく、神様に対してしているつもりで、こつこつと誠実にしていきたいですし、それにはもっと、神様のみこころを知って、祈りの内容も変えられていきたいと願います。

 

  *1 ヨハネによる福音書6章40節 「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。」

    

 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 」 ヨハネ福音書15章7節
Nov. 6, 2017

 

校則のない学校

 

  どの学校も校則を持っています。各々独特のきまりを制定し、そしてそれに従わない生徒は指導され、最悪の場合は退学というケースもあります。私はミッション系の学校で小・中・高校と学びましたが、特に校則に縛られた思い出がありませんので、比較的自由な校風だったのかもしれません。

 

  なぜ規則は存在するのでしょうか。他の法律同様、一つには、規則はその組織の秩序を乱したり、害を加える人を制御するために存在します。もし皆が互いを尊重し、相手の立場に立てるような人格者であれば、規則はいらないかもしれません。

 

  「あなたがたは聖書をもっています。だから自分で自分を治めなさい。」これは、明治時代に設立された女子学院(現在、中高一貫のミッション系の学校)の学長の矢島楫子のことばで、女子学院では、彼女の方針により校則を撤廃されたそうです。 規則で縛ると、人間というのは逆に破りたくなるという心理的な反動がありますが、逆にないことで、当時の女学生たちの自立を支えていたと言われています。(女学院のHPより)

 

  明治時代、日本の女子教育も、海外からのキリスト教の宣教師たち、もしくは海外で教育を受けた人々等によってなされてきました。その中で、女子学院(元B六番女学校)も宣教師によって設立されましたが、後に、日本人の初代学長に矢島梶子が就任しました。彼女は留学の経験はありませんが、日本で女性の教育、権利、自立のための社会運動を担った女性で、当時、禁酒や公娼・私娼の禁止を訴え、それらの活動をしていた婦人団体:日本キリスト教婦人矯風会の初代会頭でした。先日、彼女の伝記を読む機会があり、その波乱万丈な人生と、彼女の信仰(40代からクリスチャンになる)の軌跡に感銘を受けました。

 

  イエス・キリストは神が人に与えた戒め(律法)の中で最も大切なものは、@神を愛する A自分を愛するようにあなたの隣人を愛する の二つであり、全ての律法はこれらにかかっている*1と言われました。人が作る法律は人を規制して秩序・平和を保ちますが、神様の与える法律は愛することなのです。自分を愛するとは、自分が好きというナルシスト的意味ではなく、自分中心、自分をまず第一に考えることです。人は誰も教えなくても自分のことばかり考えます。それと同じくらいに他者の気持ちを考えることができれば、その他の法律はいらないというほど、平和な社会が保てるかもしれません。しかし、第一はまず神様を愛する事で、これがあって初めて、人間同士愛し合えるというのが聖書の教えです。自身が神様を愛する前に、まず神様が私たちをイエス・キリストの命を犠牲にしてまで愛されたというその愛を受け取った人が、その神の愛で他者を愛そうとします。自分が神に愛されているという信仰の経験がないと、どのような愛で他者:人間を愛したらよいのかわからず、その愛の意味も自己中心的な定義の愛になってしまいます。

 

  また、神様の愛を知って体験したとしても、それを他者に出来ない弱い自分がいます。しかし、ないものは、与えられると、つまり愛がなければ、その愛を下さいと求めれば与えられる、聖霊によって神の愛は注がれる*2との聖書のことばもあります。私は日々その約束に励まされ、少しでも自身の内側に神の愛が注がれて、他者に流せればと願っています。
 

  *1 マタイによる福音書22章37-40節 *2 ローマ人への手紙5章5節

    

 「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 」 ヨハネによる福音書15章12節
Oct. 30, 2017

 

対立と平和

 

  10月末となり、木枯らしが吹く時期に入りました。私の知り合いに、「憲法9条の会」に入っている方々がおられ、彼らを通していくつかドキュメンタリー映画を観る機会があり、私が今迄日本の政治で未知のことがたくさんあることに気がつかされます。彼らは熱心に政治的啓蒙活動をされています。私も日本の平和憲法が存続して欲しいと願う者の一人です。ある時その方が、聖書に関する質問を牧師にしました。キリストは平和をもたらすために来たはずなのに、それに相反する発言(下記聖書の箇所)が書かれているのはなぜか?と。

 

  「キリスト教を信じたいけど、家族の反対で内緒にしている、洗礼は受けられない」という方の相談を受けたことがあります。またあるご婦人は夫がイスラム教徒だったり、家が檀家だったり、「あなたが宗教を信じているから、これこれの問題が家族に起こるんだ」と家族に責められた方も。信仰は個人の信条でありますが、家族の反対より、信じる決心を躊躇してしまうというケースがあります。つまりこのような現状からも、キリスト教を信じて、家族と分裂することがある、しかし分裂イコール、争いではなく、それは一時的で、将来キリストを通しの平和が家族内に広がる可能性があることを、質問の答えとして私だったら説明するでしょう。信仰を理由に迫害されることはあるとイエス様も言われています。

 

  確かに、キリストを信じることは人生の大きな決意です。信じることで多くの犠牲、困難があっても、それにも勝り、信じるに値するから信じられるのです。それは、一時的な家族内の分裂よりも、皆が永遠に滅んでしまうことの深刻さと計りにかけて、恐れずに神様が共にいることで勇気を出し、家族の救いのために祈れるでしょう。また、何よりも、キリストが個人的に自分にしてくれた大きなこと(十字架)を信じ、感謝し、その神様の愛に応答して、何もお返しはできないけれどキリストに従おうと決めて、この世で地道に生活しつつ、天での永遠の命のことに希望をもてることが、信じるに値する最大の理由です。自分の意志や力だけでは信仰の試練を乗り越えることは不可能ですが、神さまが心を強くし、様々な状況から助けが与えられることで可能であることを、多くの人から、そのような証を聞き、励まされています。

 

  信仰のゆえの分裂は避けられませんが、争いとはならない方法があり、イエス様ご自身も、暴力には無抵抗のままでした。「剣をとるものは剣で滅びる。」「敵を愛し、祝福を祈りなさい。」これらのイエス様の教えと過去の宗教戦争は無関係です。なぜなら、これらは宗教を大義名分にして行われているだけで、自分たちの欲の為に戦い、キリストの教えは全く無視されてきたからです。もし本当に信じていれば、柔和、寛容を目指し、争いを避けようとするはずです。(ただ、これには個人差があり、未完成ですが、少なくともしようと努めている)なぜなら、師匠であるキリストがそうであったから、私たちも彼に倣うように教えられているからです。もちろん、私を含めて皆が敬虔で、立派な人ではありません。信じて一晩で人格・性質が変わらずとも、それぞれの個性はそのままで、一生かかってモデルであるキリストの性質を目指し、変えられていくという約束に、肩肘を貼らずにすみます。互いに「ああ、あの人はまだ、工事中だから。自分もそうだしね。」と少し相手に対して寛容になって、柔らかい対応ができるのではないでしょうか。

 

    

「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう。」  ルカによる福音書12章52-53節
Oct. 25, 2017

 

涙の記録

 

  私は今迄ダイエットを色々試みましたが、一度レコーディングダイエットというのを試したことがあります。ネット上の自分のアカウントに、毎日食べたもの、運動した量、体重などの記録をつけます。すると、ネット上の管理者から、それに対してコメントがきます。たとえ相手が知らない人だとわかっていても、やはりそのコメントは励みになり、頑張ろうという気になりました。そして記録を付けることは、人によりますが、私には効果がありました。現在は、ダイエットに関してはあきらめ、家計簿をまめに記録しています。(笑)

 

  今日の聖書の箇所で、神様は私たち一人一人の人生の記録をつけておられることがわかります。私がどのように人生の道をさまよっているか、また悲しみ、苦しみの涙を流したかを、皆神様は記録しているのです。そして、記録するだけでなく、私を励まし、慰め、彷徨っていると道を開き、試練に遭うとそれに耐えられる心を与え、希望の道へと導いて下さるのです。目に見えない神様が、どのように?と思われるかもしれませんが、神様は目に見えなくても、周りの人や状況を通して助けて下さるし、声が聞こえなくても、聖書を読んでいると、ある箇所を通して、直接自分のケースの適応できるようにタイムリーに与えられます。だから、落ち込んでも、落ち込んだままではなく、怒りがこみ上げたとしても、不条理なことは神様にお任せして手放し、怒ったままでいないのです。聖書に書いてある約束で、神様は涙を喜びに必ず変えて下さるとあるからです。

 

  今は時々となってしまっていますが、私は以前は祈りのジャーナル(記録)をまめに付けていました。その時祈った内容と、かなえられた感謝とを花◎をつけて記録しておきます。すると、祈ったことを忘れていた場合、その記録を振り返り、「あー神様はこのことに対しても答えてくれた」と、感謝をすることができます。まら祈ることを諦めてしまって、そのままになっていたことも思い出し、再び祈ることもあります。

 

  他人には理解してもらえないような困難と悲しを、神様はご存知で、忘れずにいて下さる。そしていつか、その悲しみが喜びに変えられ、「ああやはり神様は本当で生きて働かれる方だ」と、神様をほめたたえ、これからの希望が与えられ、その希望により生き続けていけるでしょう。私たちの涙の一粒一粒が神様により、宝石のような美しさへと変えられていくように。

 

    

「あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書にしるされているではありませんか。 」 詩編56編8節
Oct. 14, 2017

 

死刑囚の精神的救済

 

  先日小説「ある抗議書」(菊池寛 著 中央公論)を読みました。ストーリーは、ある殺人犯の被害者の親族が司法大臣向けに抗議の手紙を書いているという設定です。主人公は自分の姉夫婦を殺されたのですが、その死刑判決を受けた犯人が、監獄の中で教誨師によりキリスト教を信じて、精神的な救済を受けて死刑になったことの様子を、後に死刑囚の手記という形で公に出版されたものを読み、その理不尽さを切々と綴るという内容です。

 

  日本では、宗教教誨(きょうかい)と言って、僧侶、牧師などにより、刑務所や矯正施設内で受刑者や入所者向けに、彼らの出所後の更生に役立てる為に集合的講話が定期的に行われます。この集合講話は自由参加で、死刑囚に対しては希望があれば個人面接が可能です。この主人公が問題視している点は、本来であれば死刑宣告された極悪犯は罪責感に苦しみ、死の恐怖におびえながら死刑にされるべきところを、最後の最後でキリスト教の救いを信じて(神に)赦され、天国へ行けるという希望を持ち、肉体の死さえも怖くないという平安な状態で死刑執行されることです。無残にも突然殺された自分の身内と比較して、あまりにも理不尽であり、そのような極悪死刑囚の精神的救済をなぜするのかという抗議文であります。

 

  私はこの小説を読んで、イエス・キリストのたとえ話を思い出しました。あるブドウ園の農夫が日雇い労働者を一日いくら支払うと契約し雇うのですが、朝から夕方まで約10時間働いた人、7時間、4時間、しまいには夕方5時から1時間しか働かなかった人と、労働時間が異なるのに関わらず、皆同じ一日分の賃金を払った農夫の話です。朝から働いた人々は、農夫に不公平だと抗議しますが、農夫は最初から「一日いくら払う」と契約したのであって、何も不正なことをしていないと主張します。確かに常識的には時給制度、成果・業績主義で考えますと不公平に見えます。

 

  しかしこれは天の国についてのたとえであって、この世の経済システムとは異なります。ブドウ園で働くとは、イエスを信じる信仰のことで、時間に関わらずそこに行くことに意義があります。例えば、若い時に信じて誠実に生きてきた人も、晩年に死刑囚となって死ぬ間際に信じた場合も、同じ報酬:天国に行けるを約束されていることの譬えです。小説の作者はクリスチャンではないので、悔い改めて信じれば、過去に何をしても赦され、天国に行けるという虫の良い話が理不尽に思えるのも理解はできます。しかし、神さまは人の行いに関わらず、信じれば救われるという、その寛容さ、気前の良さで、一人でも多くの人を救いたいと思っておられる、その愛の大きさが、このブドウ園のたとえ話にあると解釈されます。

 

  私は、天国に行った時に、「地上では色々あったけど、ここで会えてお互い良かったね!」と、皆で互に言えたらよいなと願います。自分の愛する人を殺した相手を、赦すことは不可能です。私にもできません。しかし、人を恨み続けるということは自分の中に苦しみを生み出すだけで、マイナスのエネルギーのみで良いことを生み出しません。苦しみながらもその不可能を可能にしてくださいと、神様に祈ってお願いすれば、可能になると信じます。なぜならそのようなクリスチャンの証を過去に聞いているからです。自分が神に赦された経験のない人は、他者を憐れむことも、赦すことも難しいのではないでしょうか。しかし神が憐れみ、自分を赦してくれたのだから、自分も他者を(感情は抗っても)赦そうと決めて、そうできるように求めることは可能です。神に赦されるということは、自身が神に対してだけでなく、人に対して犯した罪の赦しも含まれます。

 

  例え、遺族に赦してもらえなくても、神様には赦して頂ける。どんな罪を犯したとしても、最後まで悔い改め、救われるチャンスがある。本当に悔い改めれば、人に対しての態度も変わるはずですし、罪も繰り返さなく変えられます。愛とは相手を赦すことでもあり、それをまずしてくださったのが神様で、赦されるために、キリストが私の代わりに十字架で裁かれたことを信じ、相手を赦せるようにと願い求めたいと思います。

    

「…わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか 」 マタイによる福音書20章14-15節   


 


Oct. 4, 2017

 

出前の聖餐式

 

  10月に入り、那須塩原地域は早くも紅葉が始まりました。道を歩いていると、9月には甘い香りを放っていたキンモクセイの花が雨のようにパラパラ落ちています。都会暮らしだった私にとって、田んぼや山々、街路の草木を通して、四季の移り変わりを感じることができて、とても新鮮で感動します。

 

  先日、在る方の家を牧師と教会の数人で訪問し、そこで聖餐式を行いました。聖餐式とは、クリスチャンにとって大事な儀式です。パンとワイン(現在はブドウジュースが主)を分け合って、キリストの十字架による罪のあがないを思い起こし、感謝していただく儀式で、イエス様が十字架に架かる直前に弟子たちに、「私を覚えてこれをしなさい」と言われました。これは宗派によって、その解釈や、儀式の方法、頻度などが異なります。その方は、教会に長い間通っておられましたが、ご高齢になり行けなくなった方でした。そのような信徒のために、出張して牧師が聖餐式をするわけです。私は今回、初めて訪問してする式に参加しました。教会で多くの人と行う儀式とは異なり、アットホームな式はとても感慨深く、その方も久しぶりに受けられることを喜んでおられるようでした。

 

  私の夫が牧師になろうと決めた理由は、このような家庭での聖餐式を必要としている人に仕えたいと思ったからだそうです。当時神学生だった彼は、夜間に神学校に通い、昼は介護福祉士として在宅介護の仕事をしていましたが、ある時、信徒の方で病気のため教会に行けなくなった方の為に、牧師と一緒に聖餐式を行うために訪問する機会があって、そう思ったそうです。初めて夫に会った時にこの話を聞いて、とても親しみを感じました。彼は牧師になる前は幼稚園の教諭、そして介護士に従事してきて、いつも子供や弱い人の立場に立って、優しく仕えようとする心を持っているので、私が尊敬している点でもあります。

 

  私自身は、30代後半から福祉職に転職し、在宅の介護が必要な方々のためのソーシャルワーカーをしていたこともありますが、正直、効率や合理的に物事を考え、選択してきた人生の方が長かったので、彼からはいつも学ばされます。福祉の仕事から離れて9年経ち、現場を懐かしく思うことがありますが、図らずも毎週水曜の午後は、小規模の介護施設で礼拝を行うために、主任牧師夫妻と私たちで出かけていきます。認知症やそのほかの病気で心身とも自由に動けない方々が、ギターの伴奏による賛美歌を一緒に歌い、短い聖書の言葉を通してお話しを聞きます。このように別の形ですが、施設の皆さんに関われる機会が与えられて感謝です。これからも夫と共に、どんな形や場所でも出張して、たった一人の為でもイエス・キリストを覚えて聖餐式をしたり、礼拝を共に出来ればと願っています。

 

  「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンをとり、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」 マタイによる福音書26章26-30節

 

  


 


Sep. 21, 2017

 

注文を間違える料理店

 

  六本木に「注文を間違える料理店」というレストランが、期間限定でしたがオープンしていたことを今朝のニュースで知りました。そこのウエイトレスは認知症となり、社会との接点を失い、家に引きこもってしまっていた方々ですが、ウエイトレスという仕事をする上で様々なハプニングがありながらも、イキイキと接客をしている様子でした。もちろん、介護の専門職がその場にいてフォローもしていますし、このレストランに来るお客さんは普通のレストランとは異なることを承知で来られる方々です。しかも店は六本木ならではのおしゃれな空間で、お料理も美味しそうでした。ここでは、お客さんにとっては単に食事をする場でなく、認知症を持つ方を理解し、驚きながらも、寛容になれる機会となる場で、見ていて笑顔がこぼれる光景でした。

 

  私が毎週教会でお会いしているご婦人で、アルツハイマー型認知症と診断されている方がいます。診断以来、ご主人の介護と死も続き、とても辛い時を過ごされたのですが、今では前向きに認知症に関しての講演、様々な地域の行事に積極的に参加され、イキイキとしておられます。更に彼女は、市役所等が主催する会での認知症の本人からの話を聞くというプログラムにて、診断されてからどのように生活しているか、どう対処しているかなど、前向きにお話しをしているそうです。また「○○サロン」という、地域の高齢者の方がはたらくカフェでもウエイトレスとし週一回働いてもおられ、彼女の元気なトークと笑顔に私は毎週癒され、励まされいてます。

 

  今月は敬老の日があり、教会でもそのお祝いの会をしました。下記の箇所のように、聖書では高齢の方を尊敬するようにと繰り返し教えています。その方が高齢で様々なことに制限や障害がでてきたとしても、一人一人を尊厳ある存在として見る。なぜなら、全ての人が神様が創られた存在であり、神の子であるイエス・キリストが命をかけたほど大切な存在であるからです。

 

  超高齢化社会において、介護問題だけでなく、認知症等を持つ方を受け入れる体制を、社会が総合的に対応していかなければならない時代となってきたと思います。このような福祉的コンセプトを持つ様々なお店が全国に増えていくことは、認知症だけではなく、障がいを持つ方への理解にもつながるはずです。

 

  単に、人として尊厳があるという理由にとどまらず、不完全な人間をも愛し、赦し、そして天国に招き入れようとしている創造主である神様がおられ、その神様が創った存在であるから相手を敬いたいと思います。それは神様を畏れることにもつながり、私自身もいつも心に留めて一人一人と接していきたいと願います。

 

  「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」 レビ記19章32節


 


Sep. 13, 2017

 

光が差し込むとき

 

  9月に入ったばかりの快晴の日、嬉しいE-メイルがアメリカより届きました。「今日、私は洗礼を受けました。」と、2016年1月からNYに日本から引っ越してきて以来一緒に教会に行ったり、ミュージカルを見たり、半年の間でしたが親しくしていた方が報告してきて下さったのです。その方は日本でもすでに教会には何度か足を運んでいたことを紹介者から聞いていたので、私は彼女と初めてお会いして以来彼女が信仰に導かれることを願っていました。そして、その祈りが聞かれて本当に嬉しかったです。

 

  私が現在通う教会でも、ある方が昨年教会にふらっとよられ、牧師である夫がその方と話しをし、それ以来教会の礼拝や行事、またゴスペルクワイアーに参加されるようになった方がいます。今迄その方の人生で、聖書や教会に関わったことがなかったそうですが、唯一、高校時代にゴスペルクワイアーに入って歌ったことがあるとのことでした。半年もするとだんだんその方の言動が変わってきたのに皆が気が付きました。何かがその人の内側で変わってきたのではないかと思うのです。現在彼はもっと自分が信じる対象:キリストがどういう神かを知って、納得してから洗礼を受けたいと希望され、聖書勉強会にも来られています。

 

  人が、聖書やゴスペル音楽(歌詞は結局キリストを賛美している内容)であれ、それらに触れた時、実際キリストを信じようと心が変えられていくというのは、まさに奇跡です。理屈や、知識ではなく、神の霊(聖霊)がその人の心に働きかけ、そしてその人の心に光が差し、それを受け取るようになると、なぜか信じようという心になるのではないでしょうか。その奇跡のプロセスは個人差があり、人によっては何年も友人などを通して関わりがあっても中々信じるまで至らない場合と、聞いてすぐに信じられてしまう場合などと色々あります。神は信仰を強制する方ではないので、その人の心が開かれるまで、忍耐強く待ってくださいます。イエス・キリストが自分にとって救い主だとはっきり分かり、信仰に導かれると、暗闇だった心の中に光が差し込み、今迄見えなかったものが見えるのです。

 

  聖書は神の霊感によって多くの人が執筆したものが編集された本なので、神のことばが書かれていて、それが生きて一人一人に働かれます。ある人にはすぐに、ある人には一年、3年とその人の内側に聖書のことばが意味を持ち、光が照らすまで時間がかかることもありますが、確実に、聖書の言葉に触れていると変革がおこるということを、多くの証人によって知り、やはりこのことは真実で、神が生きて働かれていることが分かります。私の関わってきた方々でまだプロセス中の方もいて、その方々のために祈り続けています。そして、今回のような嬉しい知らせを聞く度に、私の中で喜びと神様ありがとうという感謝が沸きあがります。

 

  昨日、福島から車で帰宅途中に、美しい夕焼けに出会いました。雲の間に反射して広がる夕陽の光には何とも言えない神秘的な美しさがあります。神のことばがこのような光として一人一人の心に差し込むことを願いつつ。

 

  「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」 詩篇119篇130節「


 


Sep. 2, 2017

 

一羽の雀

 

  毎週土曜日午前中は、夫が掛け持ちで牧師をしている栃木県にある益子教会での礼拝に出かけます。益子町は益子焼という素焼きの陶器で有名で、小さい町ですが、お休みの時期は観光客で賑わいます。そこに教会堂があり、週に一度だけそこで礼拝をするために訪れます。

 

  毎回行くたび、建物内に風を通すため窓やドアを開けて、お掃除をし、礼拝の準備をするのですが、本日は台所でぎょっとするものを発見しました。一羽の雀が死んでいるのです。おそらく先週教会堂の入り口を開けた状態にしている間、建物の中に入ったのを誰も気が付かず、その後一週間締め切りなので閉じ込められ餓死してしまったのでしょう。腐敗が進んでいない状態なので、つい数日前まで生きていたのでしょう。かわいそうに。それ程広い会堂ではないので、次回からよく見回してから戸締りをしようと思いました。

 

  そのことを一人のご婦人に告げると、「田舎ではよくあるのよ、あまり使わない屋内部分に鳥が入り込み、死んでしまうの」と言われ、そして不思議なことに、二人で何も申し合せずに下記の賛美歌を口ずさんでいました。雀さんのための弔いの歌でしょうか。そして夫に、外の庭に埋めてもらいました。

 
心くじけて 思い悩み
などて寂しく 空を仰ぐ
主イエスこそ わが真の友
一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん?
一羽のすずめさえ 主は守り給う   「一羽の雀」  (新聖歌 285番)
 

 聖書の中のイエス・キリストのことばで、神様が一羽の鳥でさえも自然という中で養ってくださるのだから、ましてや人である私たちを養って下さらないわけがない。だから心がくじけるような様々なことが起こっても、思い煩わず、神様に信頼しなさいということが書かれています。下記の聖書の箇所を基に作られた歌です。

 

  今日は、別件のことで、どうしてもある活動に自分が関われなくて、自分の愛のなさに責めを感じ、ではそれを無理にやっても続かないのではないか、それとも人の目を気にしてやらなければという動機ならやるべきではないのかなどと、あれこれ考え、思い煩っていたところでした。この聖書の箇所を通して、あれこれ考えるのをやめようとタイムリーに示されました。神様に素の自分を出し、もし私がその活動をする時がくれば、そうしたいという思いが与えられるであろうと。神様、こんな自己中心でだめな私に目を留めて下さり、ありがとうございます。

 

  「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」 (マタイによる福音書6章26節)


 

Sep. 1, 2017

 

HP読者に感謝を込めて

 

  太陽がほとんど隠れていたこの8月。ようやく夏らしい天気となった週末に、神奈川県の湯河原という温泉町に行ってきました。私の母教会の夏の修養会に参加するためでした。昨年結婚して以来、久しぶりの母と二人での小旅行ともなり、とても楽しい時を過ごすことが出来て感謝でした。

 

  修養会では、私を赤ちゃんの時から知っている方々、そして教会が発行している月刊誌を通してお名前を知っていても今回初めてお会いした方々などと、多くの方と親しく交流する機会が与えられ、また講師の方々を通して聖書から深く学び、その生活での適応を教えられました。中でも、私のホームページを開設当初から読んで下さり、教会の月刊誌で私が執筆していた連載も楽しみに読んで下さっていた、というご婦人とも初めてお会いして話しをすることができてとても嬉しかったです。この方は私が日本で闘病していた時から、アメリカに渡米し、聖書の勉強会を自分で開いて在米日本人に伝道活動をするようになったという、不思議な展開をづっとHPで読んで、祈って下さっていたというのです。彼女のように思いがけないところで、たくさんの方々の祈りで自分が支えられているということを改めて知り、彼女に、また神様に感謝いたしました。

 

  「名札を見ても姓が違うから、あなただってわからなかったわ。HPに全く結婚の経緯が書かれてないから。。。きちんとブログ上で報告してくれなきゃだめよ。」と言われ、ブログでは小出しに夫を登場させていましたが、実際結婚したことについては改めて書かなかったことに気が付きました。そこで、彼女に神様の不思議な導きで夫との出会いが与えられ、特急で結婚まで進んだことを一気にお話しすると、彼女は神様のなさることはすごいわと驚かれ、今後の那須塩原での働きのことを祈って下さると励まして下さいました。

 

   昨年11月に結婚し、夫と二人の生活が始まりました。結婚はこんなに素晴らしいものだと、毎日思わされ、神様に夫との出会いを感謝しています。結婚生活では独りの時と異なり、自分の時間を以前より取れなくなりましたが、今は二人のための時間がより大切です。もはや自分のためではなく、夫のために、また夫が牧会をしている教会に関わることのために時間を費やせることが嬉しい毎日です。何をするにも愛をこめてしたいと思いつつ、愛を込められない時は、祈って神様に愛を注いで頂いています。そのうち、時間配分をうまくできるようにり、ブログでもっと分かち合いたいことを頻繁に書けるようになればと願っています。いつも私のブログを読んで、心に留めて下さる、一人一人の読者の方に感謝をしつつ。

 

  「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」(第一テサロニケ人への手紙3:12)


 

Aug. 6, 2017

 

武器を農具へ変える

 

  8月6日、今年も平和記念式典が広島にて開催され、72回目の原爆の日を迎えました。私の教会では、毎年8月を「平和月間」と定めて、特に平和の為の祈りと、平和についての様々な会が開かれます。先日も、南アフリカの方がアパルトヘイトについての個人的な体験談を、また東ティモールといって、インドネシアと長い間紛争がつづいていた国の方から、その内戦時のこと、そしてその後について話を聞く機会が持たれました。日本に住んでいると、彼らのような外国人で、想像を絶するような辛い体験をした方々から直接話を聞けるのは稀だと思います。その痛みや恐怖を他者に話せるようになるのも、その人の中で時間がかかると察します。差別も、内戦も多くの人の命を奪い、人々の間に大きな確執と、憎悪、大きな傷跡を残し、問題はまだ残っています。それでも人々は前に進んで行く様子を知り、平和について考えさせられる機会となりました。

 

  私は昨年までアメリカに住んでいましたが、その間何度も一般市民による銃乱射事件が起こり、震撼させられましたが、そのたびに銃規制について論争がおこっていました。アメリカでは自己防衛のために、誰でも銃を持てる権利が保障されています。ある子供たちは、大人とともに、気軽に射撃場で実の銃の操作練習をしているのことを知るにつけ、驚きを隠せません。

 

  戦争勃発と自衛のため武器を持てる国民の背後には、武器会社の巨大な裏の力がはたらいています。武器会社は、常に戦争を起こしてもらわないと、また国民がもっと銃を購入しないと、彼らのビジネスが成り立たないという現実があります。国を守るために戦う、自衛のために武器を持つという発想は所詮大義名分であって、皆が武器を持たなければ済むことです。しかし、人々は「恐れ」で銃を持ちたいと思い、それが市場で手に入るのです。日本でも昨今、「美しい日本国を守る為、憲法条文に自衛隊を載せ、もっと活躍させよう」という動きがありますが、こういうことを唱える政治家、またそれを支持する国民は、広島と長崎になされたこと、そして平和憲法が何のために作られたのかということを、全く理解していないのではないかと、同じ被爆国である日本人として心が本当に痛みます。

 

  本日の聖書の箇所より思わされたことは、武器は農具に変えられ、国同士はもはや戦おうとせず、また戦いのことを学ばない日がいつかくると預言されています。それはいつか神様が裁かれ、人間の仲裁に入られる時です。もし人間同士でこれができたら、お互い戦争をせず、話し合いで解決できたでしょう。人々は平和を求めても、前述のような多くの利権が絡むため、常に戦争があるからです。

 

  まずは、キリストの愛の心を一人一人が個人で持ち、それが家族に、地域に、国にと広がることを祈ります。個々人がまず、イエス・キリストを通して神との平和を与えられ、そして人間同士の平和へ繋いでいくように、祈り続けたいと思います。祈るだけでは、何も起こらない、何か行動しなくてはと思われるかもしれません。実は、祈りというのは目に見えない戦いです。この戦い方は非常に力があります、なぜなら、その祈りを聞いて下さる神に力があり、神が働かれるからです。そして必ず祈りは答えられると信じて祈り続けいます。
 

 

  「彼は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国々のために仲裁される。そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない。」 ミカ書4章3節


 

July 13, 2017

 

国連の核兵器禁止条約採択

 

  昨晩、NYの国連で7月7日に採択された核兵器禁止条約に、日本人女性が事務次官として関わっていることをテレビを観ていて知りました。残念ながら、この条約にはアメリカを中心とする核保有国が参加していない上に、世界で唯一の被爆国である日本が締結に同意していません。先月、長崎の原爆資料館と平和記念公園を訪れたばかりであり、また来月8月の終戦記念日を迎えるにあたり、日本はいつまでもアメリカの傘下という立場から解放されないのかと、非常に悲しく思いました。

 

  今回のことを通しても、世の中は平和を作り出す人(ピース・メーカー)より、平和を破壊する人、もしくはトラブル・メーカーのほうが権力を持って世界を動かしているという現実を突き付けられます。差別は良くない、戦争は良くない、環境を破壊してはいけない、弱者を搾取してはいけないと、してはならないとわかっていたとしても、結局、己の利益を優先させてしまうのが人間の罪深いところではないでしょうか。世界のどこかでいつも戦いがあり、人類史上戦争がない時代はいまだかつて存在しないことからも自明です。しかし、この事務次官の方は、諦めずに個別に同意しない国々と交渉していくと意欲的にインタビューで話していました。国連では、安全保障理事会の常任理事国5ヶ国が権力を持ち、またそれらがすべて核保有をしていますから、交渉は非常に難関と察しますが、平和を願う者として、また日本人として、彼女の職務を応援したいと思います。

 

  イエス・キリストは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と言われました。他の宗教でも平和は唱えられますが、キリストの言う平和は他とは前提から異なります。他の宗教や思想は、人同士の平和、もしくは人と自然や生物との平和について語られます。キリスト教では、人との平和を持つには、まず個々人と真の神とがキリストを信じることを通して和解すること、つまり人が神との平和を回復する必要があると説かれます。神との平和を持っていない人間は、どんな聖人、偉人であっても完璧に全ての人との平和を作り出すことが出来ないのです。もし出来る人が人類史上存在していたとしたら、過去に平和状態が存在し、続いていたことでしょう。それはユートピアとも呼ばれますが、平和は続かないのです。

 

  キリストの愛は、無償の愛、敵を愛せよという愛です。これは人間にはない愛だと思います。平和を作りだすには、この神の愛を与えてもらうしかありません。つまり、神様が救い主としてこの世に送れらた、イエス・キリストを信じる信仰により、神の愛が注がれると聖書に書いてあります。私は愛のない、ダメなものです。しかし、神の愛を求め続けたいと思います。そして、少なくとも人間関係において、自身が損をしたとしても、自分の利益にならなくても、また自分の思い通りにならないとしても、他者と争うことを避ける立場をとっていきたいと思わされました。

 

  *「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 」ローマ人への手紙5章5節

 

  「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」マタイによる福音書5章9節


 

June 29, 2017

 

熊本バンド:明治初期大きな使命を担った士族青年たち

 

  長崎を後に、私たちは昨年の地震の爪痕がまだ痛々しい熊本へ移動しました。街の中心部は一見普通に見えました。あちこちで、くまモンのキャラクターによる「頑張ろう」という標語が掲げられていましたが、復興の現実は厳しく、益城町は更地と倒壊した家が混在した状態で、仮設住宅に住んでいる人々のほとんどが、いまだに彼らの住宅の復興の見通しが立たないそうです。熊本城なども修復中でしたし、阿蘇地域迄車で足を延ばしましたが、道路の修復がまだ終わっていないところが多く、立ち入りが制限されている区域、封鎖されている道路が目立ちました。熊本では最近も余震がありました。私たちは熊本の復興が一日も早く進むよう現地で祈りました。

 

  今回熊本へ来た目的は、熊本にある花岡山を訪れる為でした。ここには「熊本バンド」という明治初期1876年に、キリスト教信仰者の結盟が結成された碑があるというので、それを見る為に訪れました。夫の曾おじいさんが海老名弾正といって、その熊本バンドのメンバーの一人だったからです。NHKの大河ドラマの「八重の桜」で、この熊本バンドのメンバーが出てきます。当時は幕末、開国直後でまだキリスト教の解禁がされておらず、キリスト教の布教は外国人の寄留地内でのみ行われていたそうです。熊本洋学校の教師であったジェーンズ師は、当初は自分の家で密かに生徒たち(ほとんどが士族)にキリスト教を教えると、一部の生徒たちが信仰に入り、この花岡山で信仰布教のバンド結成に至ったそうです。開国という激動に時代に、この青年たちは、日本という国の近代化をプロテスタント・キリスト教精神によって成し遂げようと願っていたのでしょう。これは花岡山事件とも呼ばれ、このキリスト教信仰のゆえ彼らは迫害で熊本を追われ、洋学校も閉鎖、 そこでジェーンズ師は京都の新島襄にこれらの生徒たちの同志社英学校での引き受けを依頼しました。以前は元ジェーンズ邸として熊本市内に観光地として残っていたのですが、残念ながら昨年の地震で崩壊してしまっていました。

 

  長崎では16世紀のキリスト教の布教と迫害の様子を伺えましたが、熊本の花岡山はそれから3百年タイムトリップした感じでした。翌日、博多に移動し、柳川という街で川下りをしました。というのは、海老名弾正さんが柳川出身だそうで、柳川沿いに彼の個人の碑があったからでしたた。夫にとって自分のルーツをたどる旅であったようで感無量の様子。彼の牧師としての働きおいて、曾おじいさんは多くの影響を与えているのではないでしょうか。

 

  キリストの使徒パウロは一世紀のヨーロッパにてキリスト教の布教に大きく用いられた偉大な伝道者です。彼は行くところ行くところで迫害を受け、何度も死にそうになりました。最終的にはローマ皇帝により斬首され、殉教したと言われます。彼はエペソという街でも根気強く福音をその地域に語ったので、アジア(現トルコ)地域の人々がほとんどその教えを聞いたと下記の聖書に記されています。パウロは聖霊の導きに従い、神様の導きとタイムスケジュールで動き、パウロは神様に用いられる器として、全面的に自分自身を委ねていました。彼の執筆した各教会にあてた手紙は聖書として残り、現代に生きる私たちへの教え、戒め、励まし、慰めとなっています。

 

  牧師という職業は個人差がありますが、困難なことが多いですし、忍耐を要する場面がたくさんあります。現代の日本では迫害はなくても、無関心の人々が多く、この地での宣教活動は容易ではなく、結果がすぐには見えない世界です。私たちは小さな存在ですが、忍耐を持って地に根を張って、地道に夫をサポートし共にイエス・キリストの愛、救いを伝えていきたいと、使徒パウロ、そして明治時代の日本人たちの精神に励もまされました。

 

  「それから、パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。」 使徒の働き19章8.10節


 

June 28, 2017

 

長崎:五島列島、外海を訪ねて

 

  梅雨入りの6月初旬、私たちは長崎へ旅行に行きました。長崎を旅行先に選んだ理由は、今年の2月に観た映画「沈黙」(遠藤周作原作)の舞台を実際訪ねてみたいと思ったからでした。今回旅の準備をするにあたり、また実際現地を訪れて、自分が日本人として、クリスチャンとして、その歴史を何も知らなかったことに気が付かされ、驚きの連続でした。

 

  折しも、長崎県がいくつかの教会と集落をまとめて「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、ユネスコの世界遺産登録を目指して準備をしていたので、この地域全体が、平成30年の世界遺産登録へと盛り上がっているかのようでした。

 

  一日目は、長崎港からフェリーで片道3時間かけて、五島列島の福江港を訪れました。お天気は曇り時々小雨でしたが、それでもフェリーの甲板から見渡せる海の青さと、多数の島影(五島列島は全部で対象140もの島々から構成)がとても美しかったです。半日かけて、レンタカーで島を回り、いくつかの歴史的な教会等を巡り、また美しい白浜のビーチにも立ち寄ることができました。この島は異国のようで、沖縄ともまた違った風景でしたし、観光客もまばらな時期で、あたかも私たち二人しかいないかのような錯覚を得るほど、壮大な自然に囲まれ感動の連続でした。

 

  二日目は、長崎市の北部、外海地区という映画の中の村のモデルとなった地域にある教会と、「祈りの岩」といって神社の横にある岩ですが、そこでひそかに祈り(オラショ)を捧げていた場所を訪れました。また、長崎市内では禁教下に長崎で処刑された宣教師・信徒26人の記念館、平和記念公園、長崎原爆資料館にも立ち寄り、様々な思い:人間の罪、赦し、平和を考えさせられました。

 

  長崎は16世紀にいちはやく、諸外国に港を開港し、異文化およびキリスト教を受け入れた街です。その歴史における禁教令、鎖国、迫害と過酷な時代を通り抜けた人々の姿を思い浮かべるころができる資料をみつつ、迫害の中でも死をも恐れず信仰を守り通したキリシタンたちから、私は何を実際学ぶことができるのかと問われました。また、踏絵を表面的には踏みつつ、既存の社会、宗教(神道、仏教)と共生しつつ、ひそかに信仰を守り抜いた隠れキリシタンたちについても考えさせられました。

 

  神様は人の弱さをご存知です。私のような軟弱者は殉教できるほど強くなれなかった人々に共感できます。一方、「その時」になったら不思議な力が神様から与えられて、こんな自分でも強くなれるかもしれません。それはわかりません。現代のように棄教を迫られるようなことがなくても、人生の中で危機的状況や絶望的状況でどのように対応したらよいのか戸惑い、またどう祈ってよいかもわからない時さえあるでしょう。そこで、弱さを自覚している私がいつも励まされる聖書のことばは下記の箇所で、たとえ私がどのように祈ってよいかわからない時、祈る余裕さえない時にも、私の心に住む神の霊(聖霊)が、言いようもない、言葉にならないうめきを持って、私の言語表現を超えた無意識のところで代わりに必要を神様に祈ってくれているというのです。

 

  神様の前に静まる時、言葉を超えた世界:沈黙を少しでも実感できた旅を共に与えられ、本当に感謝でした。そしてこの度で感じたこと、思わされたことをこれからの生活において忘れずにいたいと思います。

 

  「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」ローマ人への手紙8章26節


 

May 19, 2017

 

無くてはならないもの

 

  若い時は何にしても活動的です。仕事・教会の奉仕活動においても、働き盛り・奉仕盛り?!の時代は、個人差は多少あったとしても、その年齢によっておよそ活躍する年代が決まってきます。私が通う夫の牧会する教会は、60歳以上の方が多く、元気に教会の働きにおいて活躍されています。一方、80歳代のある方が「昔のように、教会のために何か働きが今はできない。礼拝に参加するのが精一杯。」と言われていました。
 

  世の中の会社や組織のように、何をしたかという行いや結果で我々を評価する神様ではないのです。神様のために何をしたかという外側の行いではなく、内側の態度・その信仰を神様は見て下さる方であることをいつでも忘れないでいたいと思います。
 

  一方、教会において、誰かが奉仕し、誰かが教え、誰かが経済的に支え(献金)、誰かが祈るという役割分担は存在します。これはあたかも一人の人間の体が、総合的に各器官が機能し、生命を営むがごとく、キリストの体と例えられる教会は生命体であり、キリストを信じる個々人が全て必要なわけです。
 

  何の役割を担うとしても、必ず必要なことがあります。それは、頭の部分であるキリストにつながっていることです。繋がっているとは、頭が指令を各体の器官に送り、それに従って各々動くことです。具体的にはイエス様を信じて礼拝し、そのみことば(聖書のことば)に聞き従うことです。教会には、神様を求めている求道中の方もおられます。その方々は何か特にする必要がなく、単に信じるために必要な情報を聖書から得て、信仰の対象であるイエス様を「知ること」に専念しつつ、教会の人々と交流して頂くことが大事なことでしょう。
 

  イエス様が地上に生きておられた時代に、奉仕とみことばに聞くことにおいて、バランスを欠いてしまった女性のことが聖書に記されています。マリヤとマルタというイエス様を敬愛し、仕えていた女性たちがいました。ある日彼女らの家にイエス様をお招きした時のことでした。マルタはお客様へのもてなしの準備で大忙しとなりましたが、なんと妹のマリヤは手伝わずに、ずっとイエス様の傍で彼のお話しを聞いていました。マリヤに直接「手伝って」と言う機会もないまま、マルタは「なぜ自分だけがこんなに忙しく働かねばならないのか?」という思いが爆発し、お客の面前で、イエス様に「妹に、手伝うように行って下さい!」とマリヤを皆の前で責めでしまったのです。
 

  イエス様はそんなテンション高いマルタに、優しく2回名前を呼びかけて言われました。「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし無くてならないものは、実際一つだけ。マリヤはその良い方を選んだからそれを取り去ってはならないよ」と。
 

  無くてはならないものとは何でしょうか?イエス様から聞くことです。現代で「イエス様から聞く」とは、聖書を読み、祈り、礼拝することに相当するでしょう。
 

  教会でも必要なこと、やらなければならない多くのことがたくさんあります。もしその活動に忙しくていつも考え、礼拝に出ていても、上の空、心から礼拝していなかったらどうでしょうか。終いにはこのマルタのように他者と比較し「あの人は何もしてない」と他者を責める思いが出てきたら、霊的に危険信号が出ているのではないでしょうか。
 

 私は、過去にこの点で失敗し、痛い目に遭ってきています。そんな時状況を通して、みことばを通して、イエス様は優しく「ヨウコ、ヨウコ。。。」と諭してくださいますので感謝です。今はみ言葉から聞くことを第一優先とし、その上で他者に仕えようと心に留めながら教会生活を過ごしていきたいと願っています。イエス様が大事なことは一つだけとおっしゃられたのですから、人が何と言おうと、状況からプレッシャーを感じたとしても。
 

  「主は答えて言われた、『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである』」。 ルカによる福音書10章41-42節


 


May 17, 2017

 

心のジャンクフード

 

  食いしん坊の私にとって、食事に関して様々な問題が起こります。外食をする時によく失敗することは、主食(メインディシュ)が来る前に、前菜ですでにお腹が一杯になってしまうことです。きちんと自身の胃の大きさを考慮して、少しづつ食べればよいのですが、前菜も美味しくて食べ過ぎ、メインが食べれなくなってしまうか、無理やり食べて具合が悪くなるという顛末に至ります。家庭では、自分で食事を作る際、すでにお腹がすいていて待つことができず、お菓子をつまみ食いしながら料理します。すると、食事の前にかなり胃の面積がすでに満たされ、せっかく作った自分の料理を食べれず残してしまうことがあります。幸い、作った料理を食べてくれる夫がいるので助かります。
 

  私はTVを見る時非常に気を付けています。多くの人が、疲れていて、何も考えたくないので、バラエティ番組を流しておく、もしくは観る必要もなくTVをつけっぱなしにしていおく方がいます。私がその方法でいきますと、かえってストレスがたまります。なぜならTVに流される情報は、映像、音楽、全て心に入ってきてしまうため、特にバラエティ番組はなるべく見ないようにし、必要な情報、例えばニュースや、ドキュメンタリー番組等を選んでいます。以前は連ドラが好きでよく見ていましたが、コンテンツが殺人や略奪愛などを含むものが多く、ドラマだと割り切ってみるのには、限られた時間で観る余裕が私にはありません。私の心は、それらの心に無害と思える内容でも、ジャンクフードのように心のある部分を埋めてしまうので、本当に必要な聖書のことばとか、他の必要な情報がはいる余地がなくなってしまうという、ある意味不器用な心かもしれません。

 

  しかし、本日読んだ牧師から送られてきた下記の聖書の分かち合いでは、私と同じように感じていて、TVやネットの情報もよく選択して観る必要があることを指摘していました。私は禁欲主義ではないので、全てのことは法に触れない限りする自由があります。しかし、一見、楽しくて良いことのように見えることであっても、そのことが私の心に益なるとは限らないのです。日本のTVを付けると、ほとんどが害はないかもしれませんが、益にならない内容が多く、いつもバックに大笑いの音声が流され、全てのことを深刻に考えないで、笑ってジョークにしながら情報を流すという風潮があると感じるのは私だけでしょうか。また、昨今気になるのは、日本は防衛する必要があるということを、外からの脅威があることを煽る形で情報として流しているように思えます。

 

  情報に操作されない、踊らされない、そして自分の信仰に固く立って日々生活し、自分の思いついたことを発言をするのではなく、神様の前に喜ばれることか、もしくは他者に良い影響を与える言葉を発するのか、もしくは行うのか、見極めたいと祈り求めようと思わされました。

 

「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。」   第一コリント10章23節


 

May 17, 2017

「近所づきあい」


  3月下旬となり、この栃木県西那須野エリアではほとんどの桜はまだ蕾ですが、道を歩いていると一部の桜の花が早くも咲き始めていることに気が付きました。日本で春を迎えるのは7年ぶりです。アメリカ在住中でも東海岸なので桜を見れましたが、やはり日本での桜の時期は他国でのとは異なり、格別の趣のある季節であり、また雪を帯びた那須の山々の背景も加えて、日々春の美しさを楽しんでおります。


 3月下旬となり、この栃木県西那須野エリアではほとんどの桜はまだ蕾ですが、道を歩いていると一部の桜の花が早くも咲き始めていることに気が付きました。日本で春を迎えるのは7年ぶりです。アメリカ在住中でも東海岸なので桜を見れましたが、やはり日本での桜の時期は他国でのとは異なり、格別の趣のある季節であり、また雪を帯びた那須の山々の背景も加えて、日々春の美しさを楽しんでおります。


 暖かくなってきたので、引っ越以来ペンディングにしてきた家の庭の整備にかかりました。猫の額ほどの庭ですが、かれ草と大きな岩がころがった状態で、その中にも美しい水仙の花がところどころ咲いていました。まずは玄関まわりを綺麗にしたいと考え、水仙を玄関の脇へ移し替え、まわりの枯れ木と草を取り除き、家の生垣の周りを掃きました。2時間程これらの作業をしていると、近所の人が声をかけてきて下さいました。このご近所の方々は皆、庭や周りの手入れを綺麗になさっています。近所だからこそ、お互い他人の家の様子も気になるのだと思います。そういえば冬の間、生垣の周りの落ち葉を掃いていた時も、声をかけて頂きました。


 一軒家に住むのは子供の時以来ですが、当時自治会や近所づきあいがありました。私のようによそから越してきた者は、なかなか挨拶程度で、お近づきになるのには難しいものです。ちょっとしたことを通して、少しずつご近所の人と言葉をかわし、何かあったとき助け合うとか、見守りをするなどそのコミュニティに属することは大切なことです。新参者の私たちにとって、大家さんが様々な配慮をしてくださるので感謝です。先日も、一緒にお隣の家にお茶に連れて行って頂きました。

 

  イエス様の昇天後、弟子たちを中心にキリストの福音が人々に伝えられ、初代のクリスチャンの共同体を作っていたことが聖書に書かれています。最初の共同体はユダヤ人だけで、エルサレムから始まりましたが、信徒たちは「みな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えていた。」*1と書かれています。皆が一つの家族のようだったのでしょう。現代では、現実にこれをそのまま実行するのは無理がありますが、少なくともお互い助け合う、誰かが困っていたら分け合うということ出来るはずです。私の今の教会でも高齢で自動車の運転が出来なくなった信徒の方々のために、信徒同士の間で教会や病院への送迎がなされています。フィラデルフィアで通っていたアメリカの教会では、私が車で一時教会に送迎をしていた独居の女性がいて、彼女が失業し、病気になり家賃が払えない時、教会が援助をしていました。

 

 また信徒同士間だけでなく、「すべての人に好意を持たれていた。そして神様は、救われる者を日々仲間に加えて下さった」*2と初代の教会の様子が書かれていますから、教会の信徒の間に愛があり、助け合っている姿が見られると、他の人たちも好意を持ち、そして仲間になろうとする人が、日々加えられたそうです。このように初代の教会には、あるべき教会の姿があります。たとえ、現代でこの通りに教会生活が出来ないとしても、私個人として、徐々に近所の人々に好意を持たれるようになれればと願います。

 

 

「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」 ヨハネによる福音書15章12節

 

*1 使徒の働き 2章44-45節

*2 使徒の働き 2章46節

 

Mar. 14, 2017 「3.11 6周年」


  3月。2011年以来、この時期は東日本を襲った未曾有の大震災を思い起こす時期となります。実は私は2010年から2016年7月までアメリカに在住していたため、この時期に日本にいたことはなく、また一時帰国して被災地に行く機会もなかったため、米国にてネットでのニュースや特集を見ることのみでした。すると、限られた情報と、被災者と接する機会がなかったため全てが伝え聞いたことばかりで、なおも多くの人が様々な課題の中を歩んでいることを知りえません。神戸大震災の時期も、アメリカに在住していました。

 私の夫は3.11の時、福島県の南相馬市の教会で牧会をしておりました。夫から当時の様子を少し聞いていましたが、その時の深刻さや彼の心の傷までは理解することが私にはできません。先日も一緒にテレビを見ていて、福島県のある地域が住めるようにと解除となり、人々が帰還し、復興を始めたというのニュースを観ていました。私は何気なく「復興したんだ。。。。」とつぶやくと、横でそれを聞いていた夫は悲しそうな顔で、「そんな簡単に”復興した”なんて言ってもらうのは軽すぎる」と言われました。私ははっとして、悪気があって言ったのでもなく、ただ放映されている内容に対して、それしか情報がないのでそう言ってしまったと弁解。しかし、「”知らなかったから”と言ってすまされるものではないよ」とも言われ、被災者の深い気持ちを考えないうかつな発言をし、申し訳なかったなと思いました。まだ夫は直接、心の思いを言ってくれるから有難いですが、相手が他人であれば、その場では何も言わずとも傷き、離れていってしまうこともあるでしょう。夫とは小さいことでも、何かひっかかることがあれば、お互い言い合おうと努めています。

 下記の聖書のことばは、古代のイスラエル人の国(ユダ王国)が、バビロニア帝国に滅ぼされて捕囚の憂き目にあい、国民は一部を除き他国へ強制移住させられました。当時の人々は彼らの神殿も、街も全てバビロニア軍に破壊され、家族を殺され、絶望の内に捕囚の身で他国に住むことになる時期です。しかし、神様は預言者エレミヤを通して、70年たったら帰還できるから、それまではよその土地で生活の基盤を作り、暮らし続けなさいと、そして神様はこの国民の将来に平安と希望を与える計画を持っているよと言われた箇所です。そして何よりも”心の復興”:人々が神に立ち返り、祈り求めるようになり、神様もその祈りを聞くという希望の約束が書かれています。時代や状況が異なりますが、このような大震災において私はこの聖書の言葉により励まされ、希望を持ちたいと思い、多くの方がこのような神様からの希望と励ましのメッセージを聞く機会を持ってほしいと願うのです。

 折りしも今年の3月11日に、関東地区の教会合同での被災6周年記念礼拝がもたれ、夫とそれに参加しました。共に声を合わせて祈りました。こういう礼拝に参加することで、被災地への教会の関わりと現状を一部ですが知らされ、そして”心の復興”にはまだまだ時が必要であることなどを、少し理解する機会が与えられています。未だに仮設住宅での暮らしをしている方々が孤立や健康の問題等、様々な問題を抱えておられることを覚え、お一人お一人が希望を持って、早く平安に暮らせる場所に落ち着き、心が癒されるようお祈りしていこうと思います。


「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。」 エレミヤ書29章11-12節

Feb. 24, 2017

バードウオッチング@家の庭

 

 「鳥にあげるんだよ」朝、夫がすり鉢でクルミを砕き、家の小さな庭の石の上に置いていました。都心では鳩とカラス、スズメくらいしか見ることがないのですが、那須は山々に囲まれていて、ここでは様々な鳥を見かけます。私は鳥が大好きで、見ているだけで癒されます。野鳥なので人の気配ですぐ飛んでいってしまいますが、確実に小型の鳥が我が家の庭に来るようになりました。今朝はゴミでだそうとしたキャベツを置くと、つがいの可愛い鳥がつついていました。私はそれをこっそり窓からみて幸せな気持ちになります。

 実は先日、小猫を飼わないかと友人に言われましたが、動物を飼うのにはお金がかかるし、病気にもなれば獣医で高額な費用を払う必要があるため断ったばかりでした。本当は飼いたいのです。一方、野鳥は病院に連れていく必要がなく、少しだけ餌を仕掛ければ、鳥たちを見ることが出来ます。多少の餌やりは、野生の鳥たちの生態にそれ程影響はないでしょう。次回は水あびのスペースを作ろうかなと考えています。

 「何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな*1 とイエス様は弟子たちに言われました。神様は本能で生きている自然の動物たちの世話も、野の花も養っているのだから、ましてやご自分が創られた人間を大切にするにきまっているでしょうと。神様は私たちに必要なものを全てご存じなのです。ただ、必要以上のものをむさぼったり、他人のものを求めても、神様からは与えられないでしょう。今あるものに満足できる心は幸いです。そして、イエス様は続けてこう言われました「まず神の国を求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのもの(必要な衣食住)も与えられる」*2と。

 神の国とは色々な意味がありますが、ここでは神が統治する領域が広がることを願うことを指すともいわれます。イエス・キリスト信じれば、その人はもう神の守り(領域)の中に入ります。神の国は生きている間、天国に行く前に、この世で神の国が各々の心に、またその集合体の教会にあたえられるからです。すると、状況が不安定でも、先行き不透明でも、心に平安が与えられて、思わずらいが減少します。ああ、神様が何とかしてくれるからと。

 ゴミ集積所にいるカラス。本来はカラスは山にいて神が養ってくれていたのに、人間がそれを宅地化して彼らの場所が失われ、仕方なく町にきてゴミを食べるのです。そもそも人間が環境を破壊していることを棚にあげ、カラスを嫌う。私はカラスをみたら、神が養ってくださっているから大丈夫だと思い出しすようにし、神の国がもっと広がるように求めたいと思います。


「からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか」 ルカによる福音書1224


*12 ルカによる福音書1224,31

 

Feb. 23, 2017

自家焙煎珈琲にチャレンジ


 最近、新しいことにチャレンジしています。といっても小さいことなのですが、私の夫の教会には様々なことを教えて下さる方々がいて、まず牧師が自分で生のコーヒー豆を購入し、フライパンで自家焙煎します。また手作り味噌を教えて下さるご婦人もいて、先日初めて麹と大豆で味噌を作ってみました。(出来上がりまで半年以上かかりますが)

 

   教会で集会のある時には、いつも牧師が焙煎した豆でコーヒーを皆に入れて下さり、お菓子をつまみながら、交流の時を過ごしたり、ミーティングをしたりします。私たち夫婦はコーヒー好きであり、その消費量が多いので、豆を購入し自家焙煎したほうが安く美味しいかと考え、私はその牧師さんからやり方を習いました。習った時は美味しくできたのですが、いざ自分で家でやってみると時間がかかるしうまくいきません。結局、量販店でひいてある粉の安いコーヒーを購入したほうが、時間と手間を考えると良いという結論にいたりました。しかし、自分で初めて焙煎した時のコーヒーの香りは何ともいえない幸せな気分でした。本日も久しぶりに残っていた生豆で焙煎をしましたが、非常に時間がかかり、その割にあまり香りがでず、美味しく出来たか不明。しかしその豆をひいて入れてみると、酸味のない、まあまあの出来上がりでした。

 

 

 聖書では、信仰の成長を農業に例えられます。植物の種が植えられ、育ち、実がなるという時間のかかる工程のイラストレーションから、一晩では実はならないということです。作物の収穫には時間と手間がかかり、忍耐を要します。忍耐とは、一つにはキリストを信じた人の内側の性質がキリストのような愛のある性質に変えられるようになるまで待つということです。キリストの性質とは「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」*のことを指し、御霊の実と言われます。どんな時も神様に信頼して委ねるという訓練を通して、時にはある状況を耐え忍ぶこと、長期間状況が変わるまで待っこともあります。しかし、その時間と手間がかかる過程を通して、私たちの内側が練られ、このような実を結べるようになる、つまり信仰が成長していけるでしょう。 

 

 

 現代はインスタントの時代。24時間コンビニ、ファーストフードの利用で時間の効率とコストも安くすみ、ITの発達により瞬時に相手とコミュニケーションが世界のどこででも取れ、「待たなくて良い」世の中になっています。時間がかかることが良くないことのように見なされる風潮があり、待つということをしなくなります。今回時間をかけて作る楽しみというのを体験し、今迄の生活の在り方を考えさせられました。自身の信仰の成長についても時間がかかっておりますが、その過程を大事にし、忍耐が養われたいと願います。


それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

ローマ人への手紙53-5


*ガラテヤ人への手紙522-23

 

Feb. 7, 2017

映画「沈黙」(Silence)を見て

 

 先日夫と映画を観に行きました。この遠藤周作著の「沈黙」は日本の小説がアメリカで映画化された作品で(アメリカでは201612月公開)、監督はマーティン・スコティツシュ、キャストの多くは日本人俳優により演じられていました。

 この小説の概略は、江戸時代にキリスト教が禁止され、キリストが彫像されている「踏絵」を踏むかどうかで信者かどうか見極められ、信仰を守った多くの人々が残忍に殺されていきます。この状況を目の当たりにしたポルトガル人の宣教師が、「神はなぜ沈黙しているのか?なぜ彼らは苦しまねばならないのか?」と何度も神に祈り叫び、自身の棄教をも日本人代官に迫られるという内容です。主人公の神父が最終的に気づいたことは、神は沈黙していたのではなく、彼ら(殉教者たち、そして神父自身)と共に苦しんでいたんだということです。このことは、簡単に理解できることではありません。苦しんで苦しんで、神に叫び、祈り続けるというところを通って、信仰的にこのように受けとめられた、啓示的な理解に到達したのだと私は思います。

 世の中で起きている、様々な不条理、惨状、悲劇をニュースで見聞きし、人々から聞き、「なぜこのようなことが起こるのか!」と心が痛みます。そして神に祈ります。私には神の声は直接聞こえないし、眼に見えて何か分かるものは、聖書のことばだけです。すぐに状況が変わらなくても、私たちの叫びに対し神は沈黙しておられるのではないのです。私たちの苦しみを理解し、共に苦しみ、忍耐をもって、私たちには想像できない大きな視点で、世界を時代を動かされているということを信仰でとらえていく必要があります。

 一方、こんな小さな存在の私をも愛して、ケアしてくださり、祈りに答えて下さる神様に改めて感謝します。祈ったことがすぐにかなえられないのは、私の願い、思いは近視眼的で、自分だけのことしか見えないけれど、神様は全ての人の想い、他の人々との兼ね合い、タイミングをオーケストラして、総合的に祈りに答えられる、ベストの方向に導かれる方だからと、信仰で受け止めているからです。また振り返るとそうだったと体験により確証が与えらてたきたことも幸いです。現代でも、信仰的な迫害にあって苦しんでいる方々のために祈りたいと、この映画を観て思わされました。


「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」へブル人への手紙218

 

 

 

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