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 日々のわかちあい



佐渡島 二ツ亀

          
♪Today's Sharing♪

2018

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言

 



 


 



 


 



 


 



 


 



 


 


新年の志 心の温度 泊まることにしている

 


わろてんか@福音落語 差別に対して ビリー・グラハム(アメリカの伝道師)を通して

 


「アメージング・ジャーニー(The Shack)」映画との出会い お花見@烏が森公園 「私」という存在から覚えられていること

 


注意深くヒアリングすること 喜びの噴出 墓参を通して

 


観測史上初めての早い梅雨明け 茶室の狭い入口(躙り口) 西日本豪雨

 


多様な女性と男性のあり方 趣味と実益を兼ねる 幼稚園児のゴスペルコーラス

 


NY ブルックリンの教会 持病との付き合い方 パイプオルガンの音色

 


佐渡島旅行 早期発見 新たな計画

 


台風で飛んだ物置の屋根 ハーベスト 北見ブドウ園

 


直らない心を癒す ゴスペルは希望 紅葉と勘違いの恵

 


休日は何のため 『教誨師』 大杉漣の最後の主演映画 カスタマーサービスの方へ、ごめんなさい

 


幼稚園児によるカンタータ(キリスト降誕劇) クリスマスがなぜ喜びの時なのか 満足をもたらす引き算と足し算
Dec. 27, 2018

満足をもたらす引き算と足し算 

 

  年の瀬となり2018年も終わろうとしています。一年を振り返ると、どれ程恵まれたかを感謝することができます。とはいえ、様々なハプニングもあって困難の時もありましたし、私も夫も体調を崩し心配した時もありました。最近は、今後のことで、私が想定していなかったことを夫から知らされた時は、ひどい片頭痛がしばらく続き、痛め止めを飲んでも治りませんでした。頭では神様にすべて委ねているつもりでも、体は正直なのでしょうか、思い煩いからくる緊張型頭痛だったようです。

 

  先日、日々送られてくる聖書のことばとそのコメントの中に、「クリスチャンの満足感というのは一般とは異なる」ということが書かれていました。普通は、持っているものが多い程満足し、またもっと欲しいと望むものがさらに与えられ、増し加えられた時に人は満たされて幸せを感じるでしょう。しかし、クリスチャンで神様に信頼している人は、逆に欲しいと思うものが減らされていくことで、もしくは既に持っているものが失われた時でさえも満足を感じることができるというのです。なぜなら、”満足”の反対語が”むさぼり、貪欲”とすると、クリスチャンの場合は何か欲しいという欲が、信仰生活の中で自然と減っていき、今あるもので満足できるように変えられていくからです。何かを欲しがる欲がさし引かれていくため、どんな状況でも神様の恵に感謝して、満足感が足されていくというわけです。

 

  私は妹に「お姉ちゃんは貧乏が好きだね、というか、貧乏を楽しめる人だね」と言われたことがあります。これは褒めことばではありません。40代にアメリカで独りで暮らしていた時も、確かに傍からみると、なぜいい年してそんな惨めな生活をしてまでアメリカに住みたいのかと思われる状態がありましたが、私はいたって満足することができたのは神様の守りと恵のおかげです。もともと節約するのが苦ではなく、ファッションにもあまり興味がない人ですし、時々想定外のプレゼントを色々な方々から頂いたりすると喜びが倍増となり、お金がなくても、生活が安定してなくても十分楽しむことができました。根本的には、アメリカに住む日本人に、キリストの愛を伝道するという目的のためにアメリカに住んでいたので、このような目的があって、その目的達成が僅かであっても、いつも神さまの助けによって満たされていたこともあります。

 

  私の今回の頭痛は、日本に帰国して結婚し、夫の庇護のもと少し甘やかされ、以前の独りで大変だった時の恵を忘れかけていたから、それを思い起こすために与えられたのかもしれません。神さまは、いつも同じ、ぬるま湯の状態に私たちを置いておかず、次のチャレンジを与えられます。それは私たちの信仰が練られるため、つまりもっと神様だけに依り頼み、その恵みを味わうためなのだと信じていこうと思わされました。幸いに頭痛は10日程で収まり、教会のクリスマス行事で忙しかった時期も無事過ごせ、神様に感謝です。新たに引き締められた思いと感謝とともに、新しい年に臨みたいと願いつつ。

 

 「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持っていくことができないからです。」第一テモテへの手紙6章8-7節

 

 

   

 
Dec. 20, 2018

クリスマスがなぜ喜びの時なのか 

 

  先日、子ども達のためのクリスマス礼拝とクリスマスお楽しみ会が教会で開催されました。子供といっても年齢層は幅広く、幼児から中学生まで、総勢10人位と大人たちが参加し、楽しいクリスマス会であるはずが、途中でちょっとしたハプニングが起こりました。イエスが生まれた様子を牧師が子ども達に話し終えて、さあこれからごちそうを食べようというタイミングに、突然参加していたご高齢の婦人が「先生、ちょっといいですか!」と立ち上がりました。そして子供たちの前で大声で「キリストは馬小屋で生まれたなんて聖書には書いてないんですよ。『飼い葉桶にねかした』、『宿屋がなかった』と書いてあるけれども、馬小屋とは書いていないんですよ!」と人差し指を上に掲げて叫んだのでした。子供たちは、おそらく何のことを言っているのかよくわからず、ぽかんと聞いているようで、中学生の子は理解していたと思いますが、ただ、会の楽しい雰囲気がこのご婦人のおかげで一時中断されてしまいました。

 

  彼女のいう事は勿論正論ですが、それをなぜ子供達が楽しく盛り上がっているところで、恐ろしいインパクトを与えるようなやり方で指摘する必要があるのかと。そもそも、クリスマスが12月25日とは聖書に根拠もなく、子ども達の絵本に描かれているクリスマスのストーリーも聖書通りではないところが多いのですから、馬小屋云々だけをとりたてても意味がありません。

 

  たとえ聖書通りではない推測や創作が付随して語られたとしても、どの教会でも、クリスマスの大切なこと、重要な部分は必ず語られ、そしてクリスマスが何のために祝われるのかという説明もなされます。周辺的なことに目くじらをたてるのではなく、中心的なことに私たちは着目すべきではないでしょうか。なぜなら、クリスマスは喜びの報せを告げ知らせるための機会だからです。何の喜びでしょうか?プレゼントをもらえる、パーティがある、カップルでロマンティックな夜を過ごす、そういった一部の人たちだけの、一時的な喜びのためにクリスマスはあるのでしょうか。もしそうであれば、クリスマスはある人たちにとっては、とても孤独な辛い時期となってしまいます。

 

  私たち人はすべては、いろんな意味で救い主が必要です。この世に生きている限り苦悩、問題、争いは必ずあり、人間だけで平和を実現できないまま、何千年と時が過ぎてきたことは、歴史から明白です。また未来についても、希望があるでしょうか。クリスマスの喜びとは、神から送られてキリストが世に来られたということを知り、それが自分を救ってくれる、そしてそのことを信じた時、平和と希望がその人の内側にもたらされ、喜びが与えられるのです。また、そこまで自分を愛して、大切に思っていてくれている神様に感謝と讃美を捧げ、状況が困難な中にあっても、生きる希望が与えられることが、良い知らせ、喜びの報せなのです。それがクリスマスです。幼い子ども達を含めた多くの人々に、クリスマスの良いイメージが心に残り、福音(良い知らせ)の種が心に蒔かれ、いつか芽を出すことを祈りつつ。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3章1節

 

 

   

 
Dec. 7, 2018

幼稚園児によるカンタータ(キリスト降誕劇) 

 

  今年もクリスマスの時期がやってきました。毎年、教会と提携している幼稚園ではクリスマス会が行われ、その中で年長組の子供たちがキリストの降誕劇を演じます。劇の後は、牧師である夫がクリスマスのお話を子供たちにしていました。幼稚園児というのは、大人が話の中で質問すると、ちゃんと答え、双方向性が成り立っていて、聞いていて面白かったです。イエス様が救い主として生まれたという、うれしい知らせをみんなに伝えてねと。なぜなら、イエス様が来られたことで、私達はみなイエス様の愛を受けることができ(こどもたちには、“愛する”を“大切にする”と言い換えて説明していました)、その受けた愛を周りの家族やお友達に分けていけるからと。具体的には、お友達にやさしくする、決していじめたりしない、あっち行け!とか言わない等、一人ひとりは命を持っているのだから、その命を大切にすることが人を愛することだよと。だから、幼稚園を卒業しても、小学生になっても、中学生になっても、大人になってもイエス様からうけた愛を持ち続けてほしいと語っていました。

 

  私は、このメッセージを子供たちだけでなく、劇を見に来ている保護者の方々も聞いて、その意味を考えてもらえたらと願いました。子供たちは幼稚園時代では多少個人差はあっても素直で、よい子だったのに、多くの人が小学生以降大人に至るまで、人をいじめたり、嫌がらせをするような人間、もしくはいじめられる側になってしまうという悲しい現実があります。素直さ、やさしさ、無垢な心は何によって損なわれてしまうのか、そしてどうしたらそれを持ち続けられるのか。もしくは、人はもともと悪の性質を持ち、そうなってしまうのは仕方がないことなのでしょうか。

 

  それは周りの影響、第一に家族の影響が大きいでしょう。虐待の世代連鎖に見られるように、親から愛されていない、大切にされていない子供は、自分以外の人に対して自分が受けたことを同じようにしてしまいます。第二に、学校時代から形成される日本社会の集団性が、個人をマイナスな方向に拘束してしまうことがあります。皆に従わないと、自分が(自分の子が)省かれるという恐れ。例えば他の子が携帯電話を、ゲーム機を持っているから、うちの子も与えないとかわいそうだという親の心理。その結果、子供たちの間でラインがコミュニケーションとなり、そこで陰湿ないじめが行われる。子供たちが暴力的仮想体験的ゲームにのめりこむ。「死ね」という言葉を平気で使い、命の大切がわからない。これらが幼い時の良い心を損なっていくのは確かです。一方、幼い子でも自我はあり、おもちゃを独り占めしたり、わがままであります。自己中心的傾向性は誰も教えなくても、生まれたときから持ち合わせいるでしょう。

 

  人は弱い存在です。社会で生きていれば、他者や環境からの影響をうけずにはいられませんし、良いとわかっていても出来ないこと、良くないことだと知っていてもせざるを得ない状況が必ずでてきます。しかし、そこで仕方がないとあきらめずに、神の子である、救い主イエス様が共にいてくださり、その愛を思い起こさせ、助けてくれるというシンプルな信仰があれば、子供たちも強くなれるはずです。その信仰という心の支えを持つために、クリスマスの降誕劇が毎年なされる意義はあると思います。

 

 「天使は言った、『恐れるな、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。」 聖書:ルカによる福音書2章10-11節

 

  *聖書:第一コリント人への手紙13章4-7節

   

 
Nov. 22, 2018

カスタマーサービスの方へ、ごめんなさい 

 

  先日、カスタマーサービスの人に当たってしまいました。原因は、4年使っていたPCがうまく作動しないため、新しいPCを購入ししたのですが、それも初期セットアップが上手くいかず、購入したお店や、カスタマーサービスに電話で問い合わせました。しかし、それから何度も、部署が違うからかけなおすようにと言われ、4度目の方に「何度もたらいまわしにされているんです。その部署に転送してもらえないんですか?」と当たってしまいました。もちろん、相手はそれができないので「申し訳ございません。とにかくこの番号にかけなおしてください」の一辺倒。しかし、私の心は、そのイライラを4度目の人に言葉に出した時点で罪悪感がこみ上げ、5度目の人に電話をかけた時は心をおちつかせ、結局、問題はスムーズに解決しました。最初からこの5度目に担当した方に対応してもらっていたら。。と思ったりもしますが、そうはいかないのが現実です。

 

  私は忍耐がなく、穏やかに対処できず、きつい言葉を相手に言ってしまうことがある性質を自覚しています。ましてや以前、2ヶ月間だけ携帯電話会社の電話によるカスタマーサービスの仕事をした時に、何度も理不尽な当たられ方をしたり、怒鳴られたり、2度とこの仕事はしないと思った一方、この手の仕事に従事している人に、色々事情があったとしても決してきつい言葉を言ってはいけないと思っていたのです。4度目のカスタマーサービスの人は、私が何度も電話をかけ、たらいまわしにされていることは知らないし、その人の責任でもないのに本当に申し訳なかったと思います。次回から気をつけなければと。

 

  聖書の教え「愛は寛容であり、…怒らず、いらだたず、人のした悪を思わず…全てを耐え忍ぶ…」*ということを頭に叩き込もうとしてきましたが、やはりまだまだ自分の感情を治めることが出来ません。自分の思う通りにスムーズに事が進まないと、つい文句や、きつい言葉を発し、穏やかに話すことができなくなってしまいます。もしくは、その場は何も言わず、黙っていたとしても、後から「こう、言えばよかった。。。」と頭の中で議論をしている自分がいるのです。私の心の中には、ある状況に陥ると、戦う欲望にスイッチが入ることを認めざるをえません。本当に、なんと惨めなのか、これでも信仰を持ったクリスチャンなのか?と。しかし、こんなダメな自分のために、キリストが代わりに十字架にかかり、罰を負ってくれたのだと。何度も赦してもらって、申し訳ないのですが、赦してもらえる恵みと憐みにすがるしかない私です。そして、赦してもらうだけでなく、心を変えて下さいと祈ります。

 

 

 

 「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなた方のからだの中で戦う欲望が原因ではありませか。」 聖書:ヤコブの手紙4章1節

 

  *聖書:第一コリント人への手紙13章4-7節

   

 
Nov. 18, 2018

『教誨師』 大杉漣の最後の主演映画 

 

  俳優の大杉漣さんが今年初めに逝去されましたが、その後、彼の最初のプロデュースにして最後の主演映画がこの10月に公開されました。この映画は教誨師を務めるキリスト教の牧師である主人公が、6人の死刑囚と対話する内容です。教誨師とは、刑務所、少年院などの矯正施設において受刑者の道徳心の育成や心の救済に務め、彼らが改心できるよう導く人で、日本では大多数が僧侶の方々で、キリスト教の牧師・神父もいます。

 

  私の夫も教誨師をしています。ただ、彼の場合は死刑囚向けではなく、刑の比較的軽く、将来的に出所する予定の受刑者の方々に、刑務所内で聖書を通して教えを話しています。教誨を受けるのはあくまでも自由参加で、参加したい受刑者だけが月に1-2回集まり、講話の後に受刑者との質疑応答の時間があるそうです。更に個人教誨といって、個別に教誨を受けたい方の要望にも応じます。おそらく、この受刑者の方々は刑務所に入るまで、聖書のことばも、教会とも無縁である方々が多いのではないかと想像しますが、彼らは聖書の話を聞いて、様々な質問をされるそうです。

 

  日本人の多くはこの受刑者に限らず、人生の中で教会に関わったり、聖書を読む機会があまりないでしょう。世界ではキリスト教は人口の約3割、しかし日本では人口の1%以下という数字からも明白です。しかし、彼らにとって教誨の話は、罪を犯し刑務所に入らなければある意味、聞く機会がなかったのかもしれないし、耳を傾ける機会もない希少な経験でしょう。日本人にとって罪とは、一般に犯罪、つまり法律に反することだけが罪という認識ではないでしょうか。

 

  しかし、聖書でいう罪とは、根本的に人間を創造された神の存在を信じないことです。そして神を信じるといっても、神ならどの宗教でも同じというのではなく、キリスト教というように、イエス・キリストを通しての神を真の神として信じることです。つまり、法律違反や倫理的にしてはいけないことはその大元の罪:神を信じないことから派生しているといえます。神を畏れる人は、法律違反も倫理的なことも、神に対して犯す罪と考え、ブレーキがかかります。なぜなら、神は人間を愛するために創造されたので、人の命を大切にされるからであり、人間同士で互いに愛し合いなさいというのが教えだからです。

 

 もちろん、私たちクリスチャンは、神が持つ愛で人に接することが出来ないのが正直なところです。何度も失敗を犯すし、人を傷つけるつもりがなくても結果的に傷つけてしまうこともある、不完全なものです。そんな不完全である自分を認め、神様にごめんなさいと悔い改めると、たとえ人は赦してくれなくても神様は赦し、もう責められる事もないのです。なぜなら、そのために代わりに、イエス・キリストが十字架にかかってすべての罰を負ってくれたからです。つまり、人生やり直しはいつでもできる。死刑囚でさえも。この世で生きているだけの人生ではなく、死んだ後の天国での命が、キリストを信じることで保障されるという信仰、希望が与えられるからです。この映画の作成に関わった方々にクリスチャンの人がいるかどうかは不明ですが、観る方に生きるとは、死ぬとは、希望とは何かを考えさせるきっかけになる映画として、お勧めしたいと思います。

 

  イエス・キリストのことば 「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」  ヨハネによる福音書12章46-47節

   

 
Nov. 14, 2018

休日は何のために 

 

  今日、ある方と話していて、その方のお子さんが勉強が忙しくなってきた為、日曜に教会にいく時間がない、その日くらい休みたいと子ども自身が思うようになってきて、またその他の事情もありここ数週間教会に行っていないと聞きました。もともと、その中学生のお子さんは、昨年のクリスマス会に参加し、聖書のメッセージを聞いて、自分自身で教会に行こうと思い立って行きだしたという経緯があります。そこで私はそのお母さんに、日常生活で勉強、部活、家族との時間など忙しいからこそ、あえて時間を作って週一回でも教会に行くことをお子さんに励ますことをお勧めしました。なぜなら、教会に行っている間が唯一、非日常の時間であり、日常の忙しさから離れることができる時間で、それが心にとって必要な休息となるからです。そのような時間はあえて作らないと、しなければならないことに追われて、あっという間に過ぎていきます。人には肉体的にも、精神的にも休息が必要です。勉強を効率的にするには休息、気分転換が必要です。

 

  しかし、もし人が親や誰かに言われて強制的に教会に行っているのであれば、いずれは行かなくなるものです。私は両親がクリスチャンでしたので、幼いころから日曜は教会へいくのが習慣でした。しかしそれは自発的に、信仰を持って行っていたものではなかった為、大きくなると礼拝に行くことがおっくうになりました。それでも慣習で行っていましたが、最終的に自分で信仰を持ち、行きたいと思って教会に行くようになったのは30代の時でした。ですから、親がしてあげられることは子供のために環境を整え、勧めることだと思います。以前は私は恵まれた環境に気がつきませんでしたが、今はそうしてくれた両親に感謝しています。子供自身が行きたいと思って、忙しくても工夫して行ければベストです。何事も、「〜しなければならない」と義務になると重荷になりがちで、本来の意図が失われて形骸化してしまいます。

 

  約2千年前、当時のユダヤ人の指導者たちはイエス・キリストが安息日(ユダヤ教の法律で定められた仕事をしてはならない日、土曜日)に病人を癒すことが法律違反だと非難して、イエスを訴えようと機会を見計らっていました。しかし、守る事ばかりに重点をおき、病人やケガ人、死にそうな人を安息日だからとほおっておくことが正しいことでしょうか。手当や治療も「働く」と解釈する彼らに、法律順守と人とどちらが大切なのかを気付かせるため、神様の与えたこの法律の本来の意図は何かを教える為、神の子であるイエスは安息日にも人を癒され、人々を助けるために奇跡をおこなわれました。クリスチャンも、このようなユダヤ人指導者たちの様になる可能性があります。教会が作った伝統、規約の通りにしない人を違反だと責めたり、杓子定規な愛のない判断をしてしまうことがあるからです。

 

  私たちの教会では、日曜の朝だけでなく、夜7時半からの夕礼拝を開催しています。それは、日曜日に休むことのできない仕事、例えば医療関係、警察など24時間のシフトで働く方々が礼拝に来られるためでもあります。また平日にも集まれる用に昼と夜に集会を開いています。日曜の朝でなくともよいのです。曜日や、形式に捕らわれるのではなく、強いられてではなく、この忙しい世の中で平和に、希望を持って生きていく為には、神様から安息を与えられる時間を取ることだと思います。安息日は神様を礼拝する日でありますが、同時にそのことが人の為でもあります。神さまを覚えて心に平安を持てる礼拝の時間を取ること、それこそが安息日を守ることではないかと。そして、神様に感謝し恵みを受けて、その受けた恵みを周りの人に流していけるように聖霊の力により変えられていきたいと思わされました。

 

 

 

  「安息日は人のために造られたのであって、人が安息日を守るために作られたのではない。」 マルコによる福音書2章27節

   

 
Nov. 8, 2018

紅葉と勘違いの恵 

 

  11月に入り紅葉が美しい季節となりました。折しも私たちは結婚2周年の時で、忙しかった10月から一息つこうと、一泊で紅葉を満喫するため近場に宿を取りました。夫の仕事が終わってから夕方出かけたので、夕焼けに映える紅葉を車の中から楽しみながら、福島県の猪苗代湖畔のホテルに着きました。神様が祝福してくださった結婚生活を思い返し、感謝を持って過ごせたことは本当に幸いです。

 

  ところが翌朝、夫に一本の電話が入りました。その日は五色沼や観音沼という紅葉スポットを訪れようと楽しみにしていたのですが、教会の方が今朝、天国に召されたとの報で、私たちはすぐに那須塩原に戻ることとなり、残念ながら予定していた旅行はキャンセルとなりました。牧師である夫にはこのように急に仕事が入るのはよくあることで、紅葉はまた来年ということになったのです。今回、この旅行に行く前日、この亡くなられたご婦人の誕生日当日ということで、夫と二人でお花を持ってご自宅にお祝いに伺ったばかりでした。ですから突然の召天の報には驚きとともに、最後にお逢いする機会が与えられたと感謝でした。

 

  さらに驚いたことに、なんと、その日は誕生日ではなかったのです!「97歳の誕生日だから、行こう」と夫が言うので、カードと花束を用意して訪問すると、本人もご家族も何も言わずに喜んでくれました。しかし葬儀の打ち合わせの時、「実はあの日は誕生日じゃなかったのだけど、母はお花を喜んでいたし、あえて何も言わなかったの。。。」と娘さんに言われた時には、皆で大笑いしました。またもう一人の主任牧師にも私たちから、彼女が誕生日だと伝えた為、彼もそれを信じてその翌日に彼女を訪問し、しばらく教会に来られなかったお二人のために自宅で聖餐式を行ってくれたのです。つまり、私たちは夫の勘違いがなければ、特に病状が急変していたわけでなかったので、このタイミングで訪問しなかったのです。神様は不思議な形で、夫の勘違いを恵のチャンスに変えてくださったのでした。この神様のユニークな取り計らいで、このご婦人は天に旅立つ直前に、2度目の誕生日祝い(実際は9月)と聖餐式を受け、安らかなお顔で眠る様に神さまのもとへ行かれたのでした。

 

  図らずもこのご婦人の家は那須町の別荘地でしたので、そのあたりも今が紅葉の美しい季節でした。神様は予定していた場所ではないけれども、そのお宅に何度か往復する際に、色鮮やかな紅葉の森を楽しむチャンスをちゃんと私たちに与えてくださいました。今回のような、勘違いを結果的に恵に変えてくださったこと、またご遺族の方も、寂しさはあっても神様の与えて下さった恵みに感謝しつつお母さまを送り出せたことを通して、全てのことをベストなタイミングで、益に変えてくださる神様に心から感謝を捧げられた、幸いな二周年記念でした。

 

 

 

  「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」  ローマ人への手紙8章28節

   

 
Nov. 1, 2018

ゴスペルは希望 

 

  日本人は教会に行った事がなくても、ゴスペルのレッスンを受けたことがある人や音楽のジャンルとして好きな人はいると思います。ゴスペルというとアフリカ系アメリカ人の聖歌隊がリズミカルに明るく歌うイメージがあるのではないでしょうか。

 

  ゴスペル(黒人霊歌)は苦しみから生まれた音楽でした。当時大勢のアフリカ人が奴隷としてアメリカ大陸に連行され、彼らは人間扱いされない過酷な状況下にありました。しかし、彼らが仕えた主人の中に神を敬い、彼らに人として優しく接する白人たちもいました。そのような主人の通う教会を通じて、彼らもキリスト教の神を信じ、彼ら独自の賛美(神を讃える歌)を捧げるようになりました。

 

  ゴスペル(Gospel)の語源はGod(神)とSpell(ことば):神のことばの合成で、福音(良い知らせ)という意味です。良い知らせとは、神は一人一人を愛し、その為に神の子であるキリストが救い主としてこの地上に送られ、私たちが神を知らずに犯してきた罪をキリストを通して全て赦されること、死んだ後も天国での永遠の命を与えられるということです。その為に、イエス・キリストが私たちの罪に対する罰を全て負って十字架で死なれ、3日目に復活され、今も天におられます。地上においても、福音を信じる者には全てのことを通して、神様が益に変え、苦難からも救い出して下さるという希望が与えられます。

 

  この希望がゴスペルを生み出し、またキリストが来られて以来、苦難にある全ての人々に、状況に左右されない生きる力・喜びが与えられてきました。このゴスペルは心の奥深くに触れて、人々に希望を、慰めを、感動を与えます。なぜなら、この音楽は神様がどんなに人間を愛し、救いたいという御心と、人間側の神様への感謝と賛美が表されているからです。

 

 

 

  「そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。」 ルカによる福音書8章1節

   

 (恩寵と真理、同信社 2018年11月号掲載)
Oct. 28, 2018

直らない心を癒す 

 

  自分の心と向き合うのは容易なことではないです。私はこの9月から10月にかけて、幾つかの新たなことを同時進行で関わることとなり、余裕のない日々が続きました。夫も、わたしより数倍仕事で忙しかったのですが、それでもなんとか神様の守りの中で、また皆さんの祈りに支えられ無事に過ごすことが出来たことは感謝です。先日、ようやくほっと一息つける時間が家で持てた時、ふと悲観的な、苦い思いが沸いてきてしまうのでした。一つには、他者が自分をどう言っているのか、つまり評価しているのか、それに対する自分の中での弁護、言われたらなんと言おうか、もしくは周りのプレッシャーを感じてしまう状況をどうしたらよいのか、と思いめぐらしている自分がいるのです。こういう思いが一番、意味のない、非生産的な、よろしくないものだと理論的にも、信仰的にも自分ではわかってはいるものの、自然とそういう思いが出てくることを止められず、そんな自分に落ち込みました。こういう現象は私の傾向性としてよくあることで、私の心は、信仰が与えられた後でも、このようなものです。

 

  今朝読んだ聖書の箇所で、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることが出来よう。」(エレミヤ7章9節:新改訳)というところを読み、これは私だと示されました。この陰険な自分を認めるしかない。そして、認めたうえで、神様に祈りました”助けてください。どうかこの心を直し、この思いを取り除き、もっと神様のみ心にそった、喜びの思いがいつもあるように”と。すると、その後に続く聖書箇所で、「私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。」(14節)と続いていました。

 

  この聖書の書簡は、神様から言葉を預かった紀元前7世紀位に活躍したエレミヤというユダヤ人の預言者により書き記されたものです。彼のような預言者でさえ、自分の心の治りようのない暗闇を神様の前に言い表し、それを他者のこととせず、「私を」癒してくださいと、自分の心について神様に取り扱ってもらっています。エレミヤは当時、ユダ王国の指導者と民全体が神に背き、堕落していた時代に、神のことばを伝えたために過酷な迫害を受け、最後には殺されてしまった預言者でした。彼は自分以外のこれらのユダヤ人に対して、苦い心を持ち彼らを責め立ててもおかしくない立場でしたが、彼はなおも自分の心と向き合っていたのでした。

 

  本日の礼拝の中で、図らずも、牧師(←私の夫)が言った一言「人の評価を気にせずに、神様に対してするようにしたらどうでしょうか?」が胸に刺さり(ちなみに夫は私のこの心の葛藤を知りません。。。)、そして下記の聖書のことばを思い出しました。そのような心の姿勢に変えられるように、私も、神様が私の心を癒して下さり、救って下さることを信じて祈ろうと思います。きっと心の中に神様への賛美:神様、ありがとう!感謝します、という思いが与えられ、否定的なネガティブな思いがとりさられることでしょう。これはこの世に生きている限り、死ぬまで繰り返しかもしれません。しかし、繰り返し、神さまによって心が癒され、変えられて頂こうと、励まされました。

 

 

 

  「人に対してではなく、主に対してするように、何事においても心からしなさい。」 コロサイ人への手紙3章23節

   

 
Oct. 19, 2018

北見ブドウ園 

 

  北海道の北見市といえば、最近冬季オリンピックで活躍したカーリング選手たちの出身として記憶に残るかもしれません。私個人としては、父方の祖父母の住んでいた町として思い出の場所であります。まだ幼い頃でしたのであまり覚えていないのですが、親族の集まりがあって北見へ行った時、祖父が建てたブドウ農園に皆で行きました。祖父は当時、ワインのためのブドウを作りたいと思い立ち、ブドウ栽培には寒冷すぎた北見の土地で、品種改良を重ねてブドウを栽培し、初めて北見ワインを製造したそうです。今では私の従兄がそのブドウ農園だけを引き継いでいます。

 

  そのブドウ園がある山に、昔は柴川家のお墓があり、その中に木彫りのキリスト像が置かれていました。子供ながらに凝ったお墓だなと思いましたが(現在お墓は札幌に移転)、祖父は宣教師で彫刻家でもあったカイテン氏(Rudolf Kuyten )にその作成を依頼したのだと最近になって知りました。クリスチャンであった祖父はわざわざブドウ農園を開いたのは、聖書に深いゆかりのある葡萄を自らの手で作りたかったのではないかと思います。

 

  聖書ではワイン(葡萄酒)は特別な意味を持ちます。聖餐式と言われる儀式では、パンと葡萄酒(通常はブドウジュースが使われます)をキリストを信じている人々で頂き、イエス・キリストの十字架の死とそれによる新しい契約を思い出すために行われます。また、イエスはブドウの木と枝、その実からたとえ話として、イエスと私たちの人間の関係を示されました。ブドウの実がなるのに、木からの栄養が必要であるため、その枝が木に繋がっている必要があります。このように、私たちがブドウの枝でイエスがブドウの木であると言われ、イエスに繋がっていれば豊かに実を結ぶ、とイエスは約束されています。

 

  実を結ぶとは、イエスの性質が自分の中で表されること、つまり愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制が実であり*、これらの心と態度を持つことです。私は自分の素の性格ではこれらのことを出来ないことがわかっています。ですからキリストから実を結ぶための愛を流してもらって実が結べると信じ、すべて善いことの源であるキリストにいつも繋がっていたいと願います。

 

 
  「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」 ヨハネによる福音書15章5節
   

 

   *ガラテヤ5章22‐23節「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」

   

 
Oct. 12, 2018

ハーベスト 

 

  朝から小雨が降り、ちょうど昼頃には雨が激しくなりました。その日は夫が務めている幼稚園で、保護者のための聖書を学ぶ会(ハーベスト)を初めて開きました。一ヶ月前から、この会の案内を幼稚園の保護者へのお便り(通信)にいれてもらい、ポスターを入口にも貼って、多くの人に祈って頂き準備をしてきましたが、初回は知り合いのクリスチャンのお母さん二人と、教会のご婦人の他は新規の方は誰も来ませんでした。なかなか、個人的に面識がないと集まりには来ないとは予想していましたが、とりあえず4人で始められたのは感謝でした。

 

  日本にはキリスト教主義の保育を行う幼稚園がたくさんあります。大概は教会の付属から始まって、その後学校法人となる所が多いようです。そのような幼稚園では子どもたちが礼拝に参加して聖書のお話しを聞き、大きな声で賛美歌を歌い、お祈りを日々捧げる生活をしています。12月には園児によるクリスマスの劇(キリストの生誕劇)が披露され、入学式、卒園式等全ての行事には必ずお祈りや礼拝が組み込まれています。しかし、卒園して公立の小学校に入るとそのような環境ではなくなるため、せっかく幼稚園で身に着いた習慣がなくなってしまうのが残念です。そして親たちがクリスチャンでない限り、幼稚園で習った聖書のこと、神様のことから全く疎遠になります。

 

  会の名前”ハーベスト”は聖書からとりました。下記の聖書の箇所はイエス・キリストが弟子たちに言われたことばです。イエス様はよく譬えを用いては話され、特に植物の譬えが多いのです。作物の収穫をするためには、まず種を蒔きます。種を蒔くことなしに、芽を出さないし、成長して実ることもありません。ここではその種を蒔く人が少ない、つまり「働き手が少ない」ということです。種を蒔くとはキリストの福音をつたえる伝道を指し、収穫とはその結果です。神さまは、種を蒔くことを人に任せます。そして実を実らせる、結果を出してくれるのが神様です。さらに、人が「働き人を送ってください」と願うとそれも送ってくれるというわけです。

 

  私は、園児の親御さんたちに、子ども達が礼拝で何をしているのか;どのような教えを聖書から学んでいるのか、どんな賛美歌を歌っているのかを説明することで、それらを理解し、子供と共有してほしいという思いでこの会を始めました。牧師である夫は園児たちに週一回の礼拝で聖書のお話しをし、また毎朝の職員ミーティングで短く聖書の話をしています。幼稚園の先生たちもほとんどがクリスチャンではないのですが、夫の幼稚園での働きを通して、園児も先生たちにも聖書が伝えようとしている神様の愛を知ってほしいと日々二人で祈っています。今後もこのハーベストに神様が保護者を送って下さる事を期待し、毎月開いていきたいと思います。神さまが実り多くして下さることを期待しつつ。

 
  「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい」  ルカによる福音書10章2節
   

  

   

   

 
Oct. 3, 2018

新たな計画 

 

  那須に結婚して引っ越してからもうすぐ2年になろうとしています。栃木県という場所、気候にようやく慣れ、一年の行事や活動も一通り経験し、多くの新しい人たちとの出会いが与えられ、ようやく落ち着いてきたように思えます。目まぐるしい日々でしたが、牧師である夫をサポートしながら日々楽しく過ごすことができたのは、本当に神様の恵だと感謝しています。

 

  しかし、一つだけ、私が新しい土地でしたいと思っていることで未だ実現できずにいることがあります。私は結婚したとしても、アメリカでしていたように小さいグループでの会を開いて、聖書が示す神さまの愛を人に伝えていきたいのです。このような伝道活動はある意味私の生きがいであって、そこで得られる喜びは他の活動ではなかなか得られ難いものです。その志については、以前から他のクリスチャンの人に祈ってもらってきましたが、ようやく最近その機会が与えられました。夫もこの計画に同意して協力してくれ、二人で内容を話合い、関係者の方とも打ち合わせをして具体的に詰めていくことができたのです。そして、10月から月一回で始めることとなり、ちらしも作成配布し、先日の教会の祈祷会でも皆さんにその会のことを祈ってもらえたので、とてもワクワクしてきました。

 

  もちろん否定的(現実的)な意見もあります。以前、同様の会を開いても誰も来なかったので、会を開いても人が来ないのではないか、やってもなりたたず続かないのではないかということです。「日本人は興味ないから、ポスター、チラシは効果ないですよ」とも現場の方から言われ、最初はゼロなのかなあという思いが頭をよぎります。すると、毎朝読む聖書を通して、下記の箇所がタイムリーに励まされました。神様は聖書の言葉をとおして、いつも具体的に、タイムリーに励ましや指針を今までも下さります。今回もこの計画を私に委ねなさいと言って下さっているのだと確信が与えられ、平安な気持ちになれたのは、本当に有難いです。たとえ、一人でも、救いを求めている人、聖書に興味がある人を神様が送って下さると信じようと励まされました。また、背後で支えてくれる頼もしいパートナーと、祈ってくれている仲間がいるので心強いです。

 

  この新しい計画の準備が始まると同時に、それを妨げるかのような状況が次々と起こってきました。教会の関連施設で事務の人の手が足りないから、一時的にでも手伝ってほしい。また地域のある仕事をしてくれないかとの打診。それらをひきうけてしまうと、この新しいミニストリーや、教会での今抱えている奉仕と夫の仕事のサポートと両立が困難な程責任が重く、時間をとる内容で、かつ、とても断りづらいことでした。何とか一つは断ることができましたが、もう一つは断りきれない状況。更に、教会の主任牧師(夫と二人体制)の突然の入院と退院後一ヶ月に渡る自宅療養により、夫が彼の分をカバーしなければならず、私も出来る事を手伝わなければ、夫がオーバーワークで倒れてしまうという恐れ。なぜ一度にこれらが、この時に?

 


  それでも、神様は私に「委ねなさい。何があっても、私のみ心にかなう限り、あなたの計画はゆるがない」と、聖書のことばを通して言われます。私はこの時期を乗り越える自信が体力的にも、精神的にも全くないのですが、聖書のことばを信じようと思います。そして、どんなに忙しくなっても、神様への祈りと聖書のことばを読む時間を優先にとって行こうと決めました。それが私の一番に必要なことですから。
   

  「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」箴言16章3節  

   

   

 
Sep. 20, 2018

早期発見 

 

  「えっ?!大腸の内視鏡をしたことないんですか?したほうが良いですよ。ポリープがあるかもしれません」10年前の胃がんの術後以来、年に一度胃の内視鏡を観てもらっていましたが、今回ドクターより大腸もしたほうが良いと言われました。私は大腸に何も症状がないですし、大腸内視鏡は事前の準備が大変だと聞いていたので避けていましたが、今回渋々受けることにしました。当日は朝から絶食、2時間程度かけて洗腸剤(約2g)を飲み、便が透明な水状になるまでトイレに通い続けました。そしていざ病院へ。点滴を投与され、検査台に横になり麻酔が打たれて検査開始。そして目が覚めると終わっていました。

 

  現代の医療は早期発見、早期対応、とりあえず大腸がんを事前に防げるために検査は必要なのかもしれませんが、一方で、今後もこのような検査を受け続けるのかと思うと気が重くなりました。

 

  先日、教会である方が悩みを相談されてきました。彼女のご主人が転勤と決まり、家族で一緒に行くか、単身赴任か、子供の教育や金銭的な面等、色々調べて考えていくと、どうしたらいいか途方にくれると。私は、思い煩わないで、神様がベストの道を示してくれることを信じて、最善の選択をとれるように祈って委ねることを勧め、下記の聖書の言葉で励ましました。

 

  神は空の鳥を養って下さるし、きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神は美しく装って下さるのなら、私達人間にそれ以上よくしてくださらないはずがないのです。明日のことは、明日自身が思いわずらうから、心配しなくてよい、とイエス・キリストが言われていると。* すると彼女の顔がぱっと明るくなり、「そうですよね。また家に帰ってその聖書の箇所を読み直します。」と少し元気を取り戻して家路につかれました。先月も、ある方がやはり家族のことで色々悩み、眠れなくなり、血圧が急上昇して胸が苦しくなると訴えていたので、その方にも同様の箇所を分かち合いました。彼女もその聖書のことばを携帯のメモ帳に貼って、夜眠れなくなったらそれを読んで、思い出そうと思うと、メイルが来ました。

 


  大腸のポリープはいつか出来るかもしれないし、癌になる可能性を考えるときりがなく、検査、検査と体中をし続けても、不安を取り除くことができせん。しかし、健康のことも、家族の事も、あれこれ心配する必要はなく、神様に委ねることが一番です。聖書のことばには力があります。なぜなら聖書のことばは、神様は約束されたことは必ず守られる方で、目には見えなくても私達を見守り、導いて下さる方であるという確信を与え、心に平安が与えられるからです。これは何も計画せず、その日暮らしに刹那的に生きると言う意味ではありません。自分で計画を建て、未来に備えることは必要なことです。ただ計画したこと、決めたことに関して、明日以降のことは神様に委ね、神様を信じて歩むということです。ですから、その日になすべきことをなし、自分の計画したことがたとえ計画通りにならなかったとしても、落胆することなく、神様が別の道を用意していると信じて、柔軟に心を保っていけるように祈ろうと思います。
   

  「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。…あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」 マタイによる福音書6章31-33節  

   

   *マタイによる福音書6章25-30節

 
Sep. 18, 2018

佐渡島旅行 

 

  今年の夏休みは、夫と佐渡島へ旅行しました。その島にある教会の牧師が、夫の同窓生で、教会に泊めてくれるというので、その牧師夫婦(二人共牧師)を訪ねることになり、早速私は那須からマイカーで行く計画を2泊3日で立てました。佐渡島は自然に恵まれた、山あり海あり、ジオバーク満載の素晴らしいところでした。昔は金山があって、室町時代から多くの労働者が過酷な状況で金を掘っていた歴史を知り、その労働者たちのことを思うと心が痛みました。2日目の夜に、台風が上陸し、教会が海に近かったため、暴風雨でしばらく停電にもなりました。真っ暗で、何も見えない中ろうそくを灯してみると、意外とその暖かい光がなじんできます。昔の人はこれで生活していたんだと実感し、その小さな光のなかで皆で語り合う事ができ、かえって良い思い出になったのは感謝でした。

 

  時々私は、この地球から電力が一切なくなったら、不便であるけれども、それなりに生活が出来、その方が人にとって良いのではないかと思ったりします。もっと人と人がコミュニケーションをじかにとり、引きこもりや過労死もなくなり、人が自然と調和して生活できるのではないかと。現実はもう昔には戻れないことは承知ですが、現代においても、人間の利便性を優先して自然と動植物を犠牲にするやり方を考え直さなければならないし、そして不便なことをあえて受け入れ、部分的に電気なしでも工夫して生活する術を考えることが必要ではないでしょうか。また、佐渡は島なので、いたるところで水を大切に使っていました。自分たちがいかに贅沢に水を使っていることを恥じ、家に戻ったら少し見習おうと思わされました。

 

  聖書では、神は人を創造する前に、この地球を含めた天と地の万象、つまり自然、動植物を創造されたと書かれています。そして、人を創造してそこに置き、神は人が動植物を治めさせるようにされました。”治める”とは、人間の欲に従って好きなように自然を開拓したり、枯渇するまで資源を伐採・採掘したり、動物を乱獲したり、遺伝子を操作して大量生産することではありません。人間は自然と調和して、大切に管理する責務があるのです。しかし、人の自己中心的な思いで自然を破壊するまで利用してきたため、現代の地球環境が悲鳴を上げ、多くの自然災害を引き起こしているのは明らかです。これは、最初に神が創造された調和がとれていた自然界からほど遠い、壊れてしまっている自然です。そして人も壊れています。神はいつの日か、これらすべてを最初の良い状態に戻す壮大な計画を持っておられ、今はその途上にあり、まずは段階的に人を失われた状態から本来の良い者に戻そうと、イエス・キリストをこの世に送られたことが聖書に記されています。

 

  台風は佐渡では夜の内に通過し、大しけだった海も翌朝には収まり、無事にフェリーで本州に戻れましたが、旅行中はTVやスマホを見ていなかったので、後からその台風で関西地方が大変な被害に遭ったと知って、驚きました。日本の今年の夏は、猛暑、地震、台風とトリプルに自然災害に見舞われた年でした。停電になると、今迄当たり前だと思っていたことがそうでなくなります。現代社会は全て電気に頼っている為、いざ、電気・ガス・水が災害のため使えなくなり、その不便さを今日本の各地で多くの方が体験され、苦労されていると思います。一日も早く、設備が復旧し、元の生活に戻れるよう、またそのための必要な物資、支援が与えられるようお祈りしています。そして、復旧後も、その不便さを忘れずに、また当たり前だと思わず、今与えられている資源を大切にしたいと。いつも共にいて守って下さる神さまに日々感謝して、自然のことを考慮して過ごしていきたいと思わされた旅行でした。

 


  

  「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 」 創世記1章26節  

   

 

 
Sep. 17, 2018

パイプオルガンの音色 

 

  私は小さい頃に親がピアノを習わしてくれましたが、中学生の時に辞めてしまいました。練習をしてもしても、先生の前や発表会では緊張してうまく弾けなくて、いつも悲しい恥ずかしい思いをしたものです。私は楽器に関しては、人前だと緊張して弾けない、つまり才能がないのです。

 

  ところが、20代後半にアメリカに留学した時、地元で通っていた北カリフォルニアの日本人教会(シカモア教会)で、オルガニストが産休になるので一年間代わりに弾いてくれと、毎週の礼拝で讃美歌を引く羽目になりました。2回目にアメリカに住んだ時も、フィラデルフィアの日本人教会でオルガニストが出来なかった時だけ奏楽を数回したこともありました。このように、いつも小さな教会で、奏楽者が不在の場合に限りピンチヒッターでやったことがあるだけで、人前ではとても弾けないものです。今の那須にある教会は比較的大きく、オルガニストが何人もいます。日曜は朝の礼拝の他に、夜にも礼拝が行われていて、夜に来られる方が少ないため、私は夕拝の時だけ奏楽をさせて頂いてます。また毎週土曜には夫がもう一箇所、栃木県益子という街にある小さな教会で礼拝を行っていて、そこではそれほど緊張しないで奏楽ができるのは感謝です。

 

  或るとき、ピンチヒッターで数回だけ朝の礼拝で奏楽を担当しました。この教会はパイプオルガンなので、まずオルガンの弾き方からメインのオルガニストに少し教えて頂きましたが、私にとってはかなり難易でした。ちょっとさわりを習っただけでしたが、パイプオルガンの音色は、弾いていてもとても心魅かれるものがあります。しかし、いざ本番の礼拝で弾いたときは緊張し、膝ががくがく震え、練習したとおりに全然ひけず、初回は情けなくて涙がでました。会衆の皆様、ごめんなさい。すると、後で他のオルガニストが、「私はオルガンの先生から『上手く弾けたかどうかではなく、神様に心から奏楽を通して讃美を捧げられたかが大事だ』と言われた。間違えないようにと気にするより、いかに心を讃美に注ごうと思えば、楽になるわよ」と励まして下さいました。「場数を踏めば慣れるわよ」とも言われましたが、音楽は才能の問題ですし、神様は教会で私に他の役割を与えて下さっていると思います。パイプオルガンは弾くより聴く方に専念することにしました。

 

  以前の教会で、賛美リード・奏楽は技能よりも、神様を礼拝する方に会衆を向けるため、自身が目立つのではなく影で仕える役割と学んだことがあります。礼拝の奏楽は演奏会ではなく、全ては神様に栄光が行く(人でなく、神さまが素晴らしい!と誉がいく)ように讃美がなされるからです。礼拝での前奏曲で「主よ、人の望みの喜びよ」を弾くことがありますが、日常生活の中でも、心でいつもこの喜びを賛美していたいと思います。なぜなら、イエス・キリストが私の救いの為にして下さった事に対して、私が表せる感謝の気持ちであり、神様は賛美を受けるに相応しい方だからです。

 


  

  「さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。」 詩編95編1-2節  

   

 

 
Aug. 30, 2018

持病との付き合い方 

 

  皆それぞれに、体に弱い部分もしくは持病を持っておられると思います。それが以前にかかった病気やケガによるもので、ある程度改善してもその後遺症に一生悩まされる場合があります。病(それが体であれ心であれ)とずっとつきあわねばならない場合、それと向き合って生きていくということは辛いものです。

 

  私も小さいことですが、体が疲れて抵抗力が落ちた時、無理をした後、また機能的問題で、定期的に必ず症状として出ることがいくつかあります。少し休んだり、投薬により改善するのですが、これで終わりではないので、それを思うと落ち込んでしまうのです。神に、完全に癒してくださいと祈ったこともあります。

 

  昨晩もそれで落ち込んでいると、タイムリーにこの聖書の箇所が与えられ、引き上げられたので、感謝でした。下記の詩編:歌は、ユダヤ人の過越しの祭りという時に必ず歌われてきた詩編ですが、これを作詞した人も、実は喜べるような状況ではなく、かえって苦しみ、絶望の中にあってこの詩を読んだことが全体を読むとわかります。それでも、主(神)が設けられ日を喜び楽しもう!と言えたのは。神がいつか必ず救って下さる、助けてくださるという信仰が与えられていたからでした。

 

  つまり神が与える喜びは状況に左右されない、心の内側から、信仰から来るものです。私が状況に落ち込んでいる時、今はなぜこうなんだろう、これさえなければ。。。とその悩みや痛みが取り去られることを願ってしまいがちです。しかし、今はわからないけれど、今取り去られない、改善しないことにも長いスパンで見ると意味があって、神は必ず良いことも悪いことも合わせて益に変えてくださるという信仰を持てるかが問われます。そして、その信仰がはたらく時、状況に左右されない、常時心にある喜びを思い出すことが出来ます。その喜びとは、キリストが私を罪と死から救って下さった事に対する感謝、そして神の約束された将来に対する希望です。

 

これからも様々なことで心が落ち込むたびに、神に私の貧弱な信仰を強めて頂こうと思います。そしてこの詩編を思い出したうえで、状況を受け止めて忍耐し、将来の神様の計画、約束の実現に目を向けて前向きに、静かな心の底にある救われている喜びに満たされて歩んでいこうと励まされます。
  

  「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。」 詩編118篇24節 

   

 

 
Aug. 24, 2018

NY ブルックリンの教会 

 

  米国のニューヨーク市にブルックリンという場所があり、そこにブルックリン・タバナクル・チャーチ(Brooklyn Tabernacle Church)という教会があります。そのゴスペルの聖歌隊がグラミー賞のゴスペルクワイアー部門で何度も賞を得ていて、その教会の礼拝に参加すれば彼らの歌声を聞くことができます。日曜日は3回礼拝が行われていて、様々な人種の人々が大勢集まり、また海外からの旅行者もビジターで参加する大きな教会です。

 

  私はNYに住んでいた時、時々そこの教会の午後の礼拝や平日の集会に参加したものです。普段は自分の教会(Harvest Christian Fellowship NY)に通っていましたし、ブルックリンは同じNY市内でも自分が住んでいたところ(Queens)からちょっと遠かったのですが、わざわざ時間をかけて他教会へ行くのには理由がありました。そこの聖歌隊の賛美が素晴らしいだけでなく、その聖歌隊のリードに合わせて、自身も含めた会衆で一緒に賛美を歌っていると、あたかも天国で礼拝をしているような気分になるからです。讃美を歌っていると、その会場のパワフルな聖霊の働きで感動し、信仰が非常に励まされ、また明日から頑張ろうという気になったものです。

 

  天国での礼拝の様子が聖書の最後の書簡、ヨハネの黙示録に書かれています。イエス様の弟子のヨハネが、晩年に未来に起こることを幻で神様から啓示されたことが記されていて、そのまま読んでも理解できない部分がたくさんあります。しかし、天国で、神様とその御子であるイエス・キリストを全ての被造物が礼拝している様子が少し書かれています。それはこの現世での教会の礼拝とは比べようがないとは思いますが、少なくとも天国に行く前の、前味わい的な礼拝をこのような教会で体験できたのではないかと思うと感謝でした。

 

  今は日本に在住し、通っている教会はアメリカでの礼拝スタイルと全く異なりますし、時々、これらのNYの教会の礼拝を懐かしく思います。それでも、ネットのおかげでブルックリンの賛美の動画を見ることが出来、一緒に声を出して賛美することはできるので幸いです。スタイル・場所は異なっても、礼拝する対象である神様は変わりません。今置かれているところで礼拝し、また家事をやりながら、公園で散歩しながら、頭の中でいつもゴスペルが自然に流れ、神様を賛美していたいと願います。

 


  

  「二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。   ヨハネの黙示録4章10-11節

   

 

 
Aug. 9, 2018

幼稚園児のゴスペルコーラス 

 

  今年度からキッズ・ゴスペル・クラスが夫の働く幼稚園でスタートしました。リードするのはアメリカ人の宣教師の方で、幼稚園の年長組と学童クラブの低学年クラスに分けて、隔週で子供たちにゴスペルソング(英語の歌詞)を教えています。幼稚園で子ども達に聖書の話をしている夫と、ミンゴス(私たちの教会とアジア学院のメンバーが中心に活動しているゴスペルクワイアー)の方々が一緒に手伝っています。私は一度だけ幼稚園児のクラスを見学で参加しましたが、子ども達のエネルギーには圧倒されました。体全体から声を出して、子供にも歌いやすいゴスペルソングを上手に英語で歌います。小学生の子供達となると、もっとレベルが高くなり、大人顔負けのパフォーマンスとなるそうです。子供達のゴスペルコンサートがいつかできそうで、楽しみです。

 

  日本人は教会に行った事がなくても、ゴスペルコーラスのレッスンを受けたことやゴスペルミュージックが好きな人はいると思います。ゴスペルというと黒人の聖歌隊がリズミカルに明るく歌うイメージがあるのではないでしょうか。しかし、ゴスペルは苦しみから生まれた音楽でした。当時アフリカ人が奴隷としてアメリカ大陸に連行され、彼らは人間扱いされない過酷な状況下にありました。主人の通う教会等を通して、キリスト教の神を信じ、彼ら独自の賛美(神を讃える歌)を捧げるようになったのが、ゴスペル(黒人霊歌)の由来でした。

 

  ゴスペル(Gospel) はGod(神)とspell(ことば)の合成で、「神のことば」という意味で、また「福音:良い知らせ」という意味で聖書に書かれています。 良い知らせとは、神は一人一人を愛し、その為に神の子であるキリストが救い主としてこの地上に送られ、私たちが神を知らずに歩んできたことにより犯してきた罪をキリストを通して全て赦して下さり、この肉体が死んだ後も天国で生きれ続ける永遠の命を与えて下さるということです。そのために、イエス・キリストが私たちの罪に対する罰を全て負って十字架に架かって死なれ、3日目に復活され、今も天におられます。そして福音を信じる者にはすべてのこと(良いことも悪いことも)を通して、神さまが益に変えてくださり、苦難からも救い出してくださるという希望が与えられます。

 

  この希望が黒人霊歌を生み出し、また2千年前にイエス・キリストが地上に来られて以来、いかなる苦難にある人にも、状況に左右されない生きる力、喜びが与えられてきました。このゴスペルは心の奥深くに触れて、人々に希望を、慰めを、感動を与えます。なぜなら、この音楽は神のメッセージ:神様がどんなに人間を愛しておられ、キリストを通して救いたいと思っていることを曲を通して全ての人に伝えようとしているからです。聖書は読むのはちょっと。。。という方も、ゴスペルコンサートに行ったり、もしくはCDで聞いてみてください。必ず何か心に響くものがあるはずです。

 


  

  「この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。」 コロサイ人への手紙1章5節

   

 

 
Aug. 7, 2018

趣味と実益を兼ねる 

 

  7月の中旬の日曜の午後、夫の後輩がこの4月から新しく牧師として就任したので、その就任式に参加するために福島県へ二人で出掛けて行きました。その方は、夫が15年以上前に初めて副牧師として仕えた教会の信徒の方でしたが、後にご自身も夫と同じ神学校に行き、牧師となった方です。彼の卒業前から、私たちは彼の晴れの就任式に参加することを楽しみにしていました。

 

  式の中で彼の経歴の紹介、彼の人となりが紹介されましたが、中でも印象的だったのが、「趣味: 伝道」でした。つまり趣味と仕事も同じ程、キリストの福音を伝えることに熱心なわけです。彼は会社員だった時も、機会があるごとに相手の興味の程度に応じて、キリストを紹介してきたそうです。牧師という専門職となり、いわゆる趣味と実益を兼ねることができるわけです。それを聞いた先輩方の牧師達が、「今だから、まだそう言えるでしょう。。」(つまり、伝道はそんな「趣味」と言えるほど簡単じゃないよ、そのうちわかるよ、というニュアンス?)と笑いながらコメントしていました。しかし、私が思うに、彼は本当に趣味と言えるほど伝道することが好きであり、喜びなので、彼のこのスタンスは変わらないと思うのです。もちろん、伝えようとする相手が攻撃的だったり、酷いことをされたり、また結果はすぐに出ないことが多く伝道は簡単ではありません。続けていくと辛いこともたくさんあるのは確かです。

 

  約2千年前、パウロという伝道者は、その当時の世界(地中海沿岸のローマ帝国統治下)中に伝道旅行を通してキリストの福音を伝えた人で、彼が建てた幾つかの教会の人々あての手紙が聖書の書簡となっています。パウロの宣教旅行では困難な状況が次から次へと起こり、彼は何度も死にそうになりましたが、彼はいつも喜びに満たされ、最後迄伝道を続けていました。神様が共におられたので、多くの信仰の実が残され、教会がたくさん形成されていきました。何がパウロを、また夫の後輩を伝道に駆り立てるのでしょうか。それはキリストが自分にしてくれたことがあまりにも大きく、彼に示された愛と彼が受けた恵みを自分だけでなく、グッドニュース(福音)だから他の人に伝えなければもったいないという思いではないでしょうか。また、神様の大きな愛に対して何もお返しはできないけれど、(かえってお返しはしなくてもよいので無償の愛と言われ、それが神の恵です)、その愛にせめて答えたいから、何か神様のために働きたいという自発的な喜びが原動力なのだと思います。

 

  私も以前NYで日本人向けに小さい伝道活動をしていた時、とても喜びが溢れていました。独りでしたので、辛いことも、怖かったこともあり、生活も不安定でしたが、興味がある人に対して、キリストをつたえるこの喜びに優る、他の趣味や楽しみはなかったです。これから牧会を始める夫の後輩にエールを送りつつ、自身も以前とは場所や立場は異なりますが、喜びをもってキリストを信じることのすばらしさや希望を機会あるごとに伝えたいと、新たな気持ちで励まされました。

 


  

 「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」 ローマ人への手紙1章16節

   

 

 
Aug. 2, 2018

多様な女性と男性のあり方 

 

  猛暑日が続く中、先日日本の最高気温が日々更新される前橋市へ、夫とともに講演参加の為に出かけました。「暴力ではなく”愛”を」ー聖書から無意識に読み取っている価値観を検討するー という講演で、講師の先生はご自身の研究及び大学で若い学生達との対話を経て、ジェンダー(性)意識の実態を考察なさっておられ、それに基づく講演でした。

 

  中でも印象的だったのがグループに分かれて行われたワークショップでした。「”子育て中の共働きカップル:パートナーの仕事が忙しくなり、家事・子育てを自分がみなするようになった、どうしたらよいか”という相談に対して、あなたならどう答えるか?」という例題でした。私達はグループ討論の中で、この事例の詳しい説明から相談者が「女性」だと想定して考えていましたが、後から男性だったと分かりました。現代は夫の方が家事・子育てをする夫婦の在り方もあるわけです。このワークショップで、私は無意識に男性と女性はそれぞれ「こうである」という価値観を働かせてものを考えていることに気がつかされました。

 

  また、講演では多様な性のありようがあることが説明され、「人を性別で鋳型にはめること」、また「いる人をいないとすること」はその人の可能性・存在を否定することで、「暴力」であるとも話されました。色々な性別:LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの略)、DSDs (体の性の様々な発達、医学的には性分化疾患)を持つ人々等は実際、社会の中で受け入れられず、差別されてきたことについて、改めて私自身の中でもそのような人々に対して理解に欠けていることを認めざるをえませんでした。

 

  聖書は神が男性と女性とに創られたと書かれていますし、私はこのこと自体を人間側で書き換えて解釈したり、変更することには疑問があります。しかし、男女という枠ににきっちりわけきれない人々が現実にいます。私はイエス・キリストが現代にいたら、どう彼らと関わっていただろうと想像しました。一緒に食事をしていただろうなあと。イエスは誰とでも、食事をしていた(つまり関わりを持っていた)と、聖書に記録されています。彼はその人が社会からどう見られているかに関わらず、ありのまま受け入れた方でした。同時のユダヤ人社会では女性の地位は低く、男性に対しても階級的差別が存在していましたが、彼の弟子は様々な人々からなり、女性の弟子もいました。

 

イエスは全ての人を救うために、十字架で全ての人の罪を背負って、代わりに神様から罰せられるために、人として生まれてこられました。全ての人といったら、全てで、そこにわけ隔てはありません。そして、人である限り、完全な人は存在せず、神様の前には全て罪人です。私自信は罪人であって、だからこそキリスト・救い主が必要です。キリストを通して神様から赦された者、憐みを受けた者であることを忘れずに、心に様々な痛みや苦しみを持つ方々に対して配慮して接していかなければと思わされました。
  

 「『イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 9:13『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』。」 マタイによる福音書9章12節

   

 

 
July 12, 2018

西日本豪雨 

 

  先週末は、西日本地域の豪雨により多くの方々が亡くなられ、その被害は平成になって最大規模という恐ろしく悲しい災害がおこりました。この暑さの中、今も洪水後の復旧作業が行われていますが、更なる降雨により地滑り、土砂崩れの危険もあるとのこと。被災者の方々の苦悩を思い心が痛み、日々、彼らの為に祈っています。

 

  私たちには、なぜこのような試練が与えられるのかはわかりません。特に自然災害に関しては、個人レベルで「あの時こうしたから、これが起こった」という理由づけは出来ません。その理由づけを考えるより、今、どうやってこの危機を乗り越えるかが最優先事項となります。感謝なことに、人々の助け合いという素晴らしい行いや義援金が募られ、それらによりある程度は乗り越えられるでしょう。3.11の時同様、今回も台湾政府が大きな支援を送ってくれたと知り、日本はいつも他国の人々にも助けられていることに感謝がつきません。

 

  しかし、困難な状況を乗り越えるには、人間の力、意志、努力だけでは限界があります。自分の頑張りだけではなく、このような人的、物質的、経済的必要が与えられるように、神に祈れば叶えられるという信仰が与えられると、人はもっと強くされます。なぜなら聖書では、神は試練や困難が私たちに起こる時は、神により近づける機会となること、またその試練により忍耐が生じると書いてあるからです*。また、神は耐えられない試練を与えないと、そして必ず脱出の道を備えてくださるという約束があります。私も個人的に様々な事が起こった時、不安な時、今まで何度もこの約束に励まされ、また時間がかかることもありましたが、その約束通りに乗り越えられてこられたのは、神様の助けがあったからでした。

 

  何もかも失い、失望の底にいる時にこそ、その人に寄り添える神に助けを求める機会となってほしいと願い、愛と希望を与える神が慰め、励まし、必要を満たしてくださるよう、祈っています。

 

  「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」  第一コリント人への手紙10章13節

 

   *ヤコブの手紙1章3節  「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」

 

 
July 2, 2018

茶室の狭い入口(躙り口) 

 

  若い時、茶道を習ったことがありました。残念ながら長く続けられることができませんでしたし、作法も皆忘れてしまいましたが、一つだけ記憶に残ることがあります。ある茶室の入口が狭かったことです。その入り口は躙り口(にじりぐち)といわれ、そこに入るには正座したまま、頭を低くして拳で体をひっぱり、膝をにじって入らなければならない間口でした。なぜこんな作りなのだろうと、それを知る由もなく辞めてしまいましたが、その理由は、高い身分の人も低い身分の人も茶室の中では皆平等ということで、謙遜になって茶室に入るという説があるとのことです。

 

  私はこの躙り口(にじりぐち)から、イエス様の言われたことばを思い出します。「狭い門から入りなさい。」広い門は大きいけれど、それは滅びにいたる門で、狭い門は命にいたるという、2者選択が示されています。キリストを信じる信仰を持つ事は、世の中ではマイノリティ(少数派)です。統計的には世界のクリスチャン人口はイスラム、仏教と並ん3大宗教となっていますが、その内真剣に信じ、キリストに従おうとして生きている人は多くはないと思います。なぜなら、そうしようと思うと、この世の中では迫害されたり、変わり者扱いされたり、ヒューマニズムつまり人間が第一とする人権擁護の考えを持つ人々から批判されたりするからです。もちろん、個人的に偉業を遂げたクリスチャン(例えばマザー・テレサ)は称賛されますが、人々はその人の信じている宗教には興味をもたず、ただ「立派な人とその偉業」にだけ目がむけられるのです。

 

  ある人は、キリスト教は排他的だといいます。なぜならイエス・キリストを通しての神のみが、唯一の真の神であるとするからです。しかも、自分の罪が赦されるために、キリストが代わりに十字架にかかり、死んで3日目に甦ったのだから、悔い改めて信じなさいという話は、受け入れ難いからです。人々が信じやすい宗教は、もっと間口を広くし、誰でも包括できるような宗教「どの神々もみな同じで、登山口が異なるだけで、富士山の頂上に至れば同じ神」、「自分の修行や努力、献金をある程度すれば認められ、自分の思う通りに願いをかなえてくれる神」です。また「悔い改め」と言われても人は理解に苦しみます。「私は別に人様に対して迷惑かけることはしていないし、完全じゃないけど、ある程度は人間だから仕方がない、だが罪人扱いはされる筋合いはない」と、ご自分の正しさ、プライドでもって受け入れることが難しいかもしれません。

 

  茶道の躙り口が謙遜の現れだとすると、キリストを信じることとの共通点はそこにあると思うのです。実際の狭さのことを言っているのではなく、心の態度が低くならないと入れない門:信仰の道です。今迄何も考えずに生きてきて、自分で一生懸命努力して社会生活をしいる人、もしくは何かで挫折して、心に傷を受けて家に引きこもっている人や実刑を受けて刑務所に入った人も、どんな人であれ、皆プライドを持っています。そのプライドは、自分の人生は自分のものだとして誇りを持って生きるという自負でもあります。狭い門はなんとその社会的には必要とされるこのようなプライドを捨てて、神さまの前に低くなると「見えてくる」門、そして入れる門なのではないでしょうか。自分という存在は、神が自分を愛するために創造し、神が自分をこの世において目的を持って創られた存在なのか!と分かった時初めて、神を無視してきたこと、自己中心に生きるしかない自分に気がつく。すると、自ずと頭を下げた時に、今迄見えなかったことが見えて来るでしょう。

 

  茶室の空間が、立ったままで入る時と座って入る時と違ったアングルで見られるように、ちょっと頭を下げて低くなってみるとイエス・キリストが招いて居られる狭い門が見えてくるのではないでしょうか。そしてその門は、いつでもだれにでも、何もしなくても開かれている門です。入ろうと一歩踏み出すことができますように、祈りつつ。

 

   「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 」マタイによる福音書7章14節

 

 
June 30, 2018

観測史上初めての早い梅雨明けて 

 

  今年の梅雨はなんと6月中に上がってしまいました。これは観測史上で最も早い梅雨明けだそうです。都会に住んでいると、一般の人々は湿気でじとじとする雨が続く時期はうっとおしさを感じるかもしれません。私も以前はそう思っていました。

 

  しかし、栃木県に住んで以来、日ごろ水田に囲まれている地域に住み、農家の人々の話を聴いたりしていると、作物にとって雨がどんなに必要かという視点で見るようになりました。よって、こんなに早く梅雨が終わってしまうと、お米の発育のための水が不足してしまうという懸念がわきます。また野菜が高くなるかなとも。一方で、同じ日本でも大雨による水害も発生し、家が浸水してしまったり、土砂崩れがおこったりと、人間の科学がいくら発達したとしても、自然の力の前には無力です。気候はある程度予報できますが、地震は予測できません。

 

  それでも時間は、だれにでも平等に過ぎていきます。思い煩いが全くないということは無理ですが、今日も一日無事に過ごせたことを神様に感謝し、日々、神様に自分の懸念、願い等をなんでも祈りを通して伝え、後は神様がどうにかしてくださると委ねたいと思います。

 

  聖書には、人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとをキリストにあって守るとの約束が書いてあります。実際、今迄もたくさん守られてきたことを通して、神様は約束を守られる誠実なかたであることを深く感謝しつつ、神様の約束に目を留め希望を持ち続けたいと思います。

 

  「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 」

 

  フィリピ人への手紙4章6-7節

 

 
June 30, 2018

観測史上初めての早い梅雨明けて 

 

  今年の梅雨はなんと6月中に上がってしまいました。これは観測史上で最も早い梅雨明けだそうです。都会に住んでいると、一般の人々は湿気でじとじとする雨が続く時期はうっとおしさを感じるかもしれません。私も以前はそう思っていました。

 

  しかし、栃木県に住んで以来、日ごろ水田に囲まれている地域に住み、農家の人々の話を聴いたりしていると、作物にとって雨がどんなに必要かという視点で見るようになりました。よって、こんなに早く梅雨が終わってしまうと、お米の発育のための水が不足してしまうという懸念がわきます。また野菜が高くなるかなとも。一方で、同じ日本でも大雨による水害も発生し、家が浸水してしまったり、土砂崩れがおこったりと、人間の科学がいくら発達したとしても、自然の力の前には無力です。気候はある程度予報できますが、地震は予測できません。

 

  それでも時間は、だれにでも平等に過ぎていきます。思い煩いが全くないということは無理ですが、今日も一日無事に過ごせたことを神様に感謝し、日々、神様に自分の懸念、願い等をなんでも祈りを通して伝え、後は神様がどうにかしてくださると委ねたいと思います。

 

  聖書には、人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとをキリストにあって守るとの約束が書いてあります。実際、今迄もたくさん守られてきたことを通して、神様は約束を守られる誠実なかたであることを深く感謝しつつ、神様の約束に目を留め希望を持ち続けたいと思います。

 

  「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 」

 

  フィリピ人への手紙4章6-7節

 

 
June. 14, 2018

墓参を通して 

 

  今朝は朝6時から2時間ちょっと、草刈りをしました。私たちの教会には共同墓地(教会員とその家族で希望者が納められる墓地)があり、定期的に夏は草、秋は落ち葉を集める等の清掃作業があります。もし個人で霊園の墓地を購入すれば、管理費を払って、自分の家の墓石のところだけきれいにすればよいですが、教会の共同墓地は独立していて、ある山の斜面に建てられているため、そこまでの歩道、その周りのスペースを含めて非常に広範囲を教会が管理し、清掃しなければなりません。少人数での機械と手作業とで草を刈って集め、おかげで私の体が全身筋肉痛、よろよろです。お墓の管理というのは大変だと、痛感しております。

 

  5月末に、父のお墓がある札幌へ母と二人で行く機会が与えられました。父が天に召されたのが2012年3月、私は当時アメリカ在住でしたので、その後日本へ帰国しても北海道へはなかなか足を伸ばせずにいたため、一度は行きたいとおもっておりました。父が召されてから七年目になるので、この機会に是非行きたいという母の希望だったので、一緒に行くことになりました。

 

  父の墓は北海道の美しい山の斜面に広がる、藤野霊園内にありました。父の家のお墓は、開かれた聖書の形の墓石に「私はよみがえりであり、命である」と彫られたものでした。父の兄夫婦とその長男が母と私のために、父の墓前礼拝を用意して下さいました。皆で賛美歌を歌い、聖書を読み、一人ずつ父の思い出を語りお祈りをしました。叔父家族のおかげで、私たちは父のお墓を任せられ、草刈りや落ち葉拾いをしなくてもよいのだと、今回の教会の墓地の管理の大変さを知るにつけ、叔父家族への感謝の気持ちがひとしおです。

 

  2千年前、十字架刑で死んだイエス・キリストはお墓に葬られましたが、3日目には空っぽでした。復活されたからです。ですからイエス様のお墓参りをする必要もないですし、天国で今も生きておられると私は信じています。そしてイエス様を信じた者は、死んでも生きる、つまり同様に天国にて今も生きていると思うと、”私自身”についてはお墓の必要性をあまり感じないのが正直なところです。もちろん、日本人は宗教的にもお墓を大切に守るという慣習がありますので、それには敬意を払いたいと思います。人はお墓を見て「この人は存在していたのだ」と、その人の実存の確認をするという面があるのかもしれません。私は父の墓参を通して、過去の地上での父の実存より、父は天国で今生きている、そしていつか会えるということを改めて確認できたことは幸いでした。

 

  「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』。 」

 

  ヨハネによる福音書11章25-26節

 

 
May. 17, 2018

喜びの噴出 

 

  私の教会では、アジア学院という学校にて日本に農業とリーダーシップの勉強に来ているアフリカ人学生たちが礼拝に参加しています。日本の教会の礼拝スタイルと彼らの自国のがあまりに異なることに、彼らは驚くそうです。アフリカの教会の礼拝では、日本のような静かな荘厳なスタイルではなく、とても賑やかで、大きな声で喜びの声を挙げて賛美歌を歌い、リズムに合わせて体を動かして、また牧師の説教中もただ静かに聞いているのではなく、合間に『アーメン!』と信徒たちが掛け声をかけるそうです。それに比べると「日本の教会の礼拝はお葬式にようだなあ」と言われたこともあるそうです。

 

  キリスト教といっても多くの宗派があり、それぞれ礼拝のスタイルも異なります。日本でも海外からの宣教師が建てた教会などは、若い人が多く、賛美歌を歌う時はまるでコンサートのようにバンドを使って盛り上がっているところもあります。アフリカの学生たちをこのような教会に連れて行けば、それ程ギャップは感じないかもしれません。

 

  キリスト教が出来たばかりの1世紀の頃の教会の礼拝の様子が聖書に記されていますが、そこには喜びと敬虔さの両方があったようです。使徒の働き2章46節に、当時の信徒たちの集まっていた様子が「喜んで」とありますが、この「喜び」の原語での意味は、”喜びがあふれて噴出すること”を意味するそうです。また、「一同の心に畏れが生じ」(同43節)とあり、喜びと共に、神への畏敬の念をもって、神の前に謙虚な気持ちをもって礼拝していたようです。

 

  現代の教会において、もし礼拝に出て喜びがないのであれば、礼拝の形式というより、その人の信仰の問題かもしれません。その理由が思い煩いの為なのか、悲しみなのか、誰かに対する赦せない思いなのか、なんであれそれらが頭を占めてしまっていると、礼拝に出ても形だけになっていまいます。初期の頃の信徒たちは、当時激しい迫害もあり、彼らを取り巻く状況は決して楽しいことばかりではなく、思い煩う・先行き不透明な要因はたくさんあったはずです。にも拘わらず、礼拝で”噴出する喜び”があったのはなぜでしょうか。彼らの礼拝は自分の感情や状況に左右されてするものではなく、神に対して、その偉大な御業と、私達に注いでくださる恵みとキリストの通して示される十字架の愛に対して感謝を捧げていたので、これら変わらない真理に目を留め、その他の事は神がなんとかしてくださると横におき礼拝に集中できたのではないでしょうか。

 

  一方、たとえ思い煩いなどが一杯で集中できない場合、礼拝の中で自分の必要を求めたり、助けてくださいと心を注いで祈ってもいいのです。神様はその祈りを聞いて助けて下さるお方だから、神様の前に自分をそのまま隠さずにだしてよいので、慰められ励まされます。礼拝の形式に関して自分の好き嫌いにこだわるのではなく、要は心を込めて、喜びと感謝を持って神さまに礼拝をすることが大切だと私は思います。神様にフォーカスして、全ての思い煩いなどを一切神さまに委ね、神様を崇めたいと願います。

 

  「われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。主は大いなる神、すべての神にまさって大いなる王だからである。」 詩編95篇2-3節

 

 
Apr. 25, 2018

注意深くヒアリングすること 

 

  私は海外に住んでいた時最初に困ったことは、コミュニケーションです。特に数人で話している時、ヒアリングが悪いので、相手が早口で話したり、その地方のアクセントがあったりすると聞き取れませんでした。そのような状況があまりにも多く、いちいち「もう一度いってくれますか?」というのが面倒であり、一対一での会話であれば聞き直せたのですが、皆の会話の流れを自分のせいでとめたくなかったので、わからなくてもスルーしていたことがよくありました。それでも日常生活には差し障りなく過ごせてしまったので、その後長く住んでヒアリングが向上してからも、そのくせは多少残っています。

 

  しかし「これを知っておかなければならない」というような重要なことについては、横にいる人に聞きなおして確認をしていました。例えば、今日の天気やだれだれの家族がこうしたああしたということと、仕事をするうえでの段取りと、私の中では、後者のほうが注意深く聞かなければならない内容でした。一方、日本で医療福祉の相談員をしていた時は、利用者さんやその家族の話す内容を傾聴しなければなりませんでした。それは日本語であってヒアリングに問題がなくても、よく注意して聞き、相手の話方や目線など言語以外の要素にも気をつけて聞かなければならない事でした。ましてや聞いている内容が、生死に関わる内容であれば何としてでも正確に聴こうとするものでしょう。

 

  私にとって聖書のことばは注意深く聴きたい、知りたい内容です。なぜならイエス・キリストの言葉は、私の生死にかかわる重要な内容だからです。「わたしは天から下ってきた生きたパンである。」*1「わたしは命のパンである」*2 とイエスはご自分のことを例えられ、「このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」*3と言われました。つまりこのパンを食べるとは、イエスを神であり、救い主として信じることを示します。このことばを逆にいえば、”命のパンを食べなければ死ぬ”となります。そしてここでの「死ぬ」とは、この肉体の死ではなく、霊的な死のことで、つまり肉体が死んだ後も存在しつづける「自分の存在」である霊が生きるか死ぬかという重要なことだからです。

 

  これ以外にも聖書にはたくさん大切なことが書かれていて、かなり大きくまとめると、神様からのメッセージ「私はあなたを大切に思っている(愛している)から、私を信じ、キリストを通して”生きる”こと選びなさい」だと思います。ぜひ、キリストのことばを食べてみてください。それは魂の糧となり、命へとつながるから。

 

  

 

  イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。 ヨハネによる福音書6章35節

 

 *1, 3ヨハネによる福音書6章51節  *2 ヨハネによる福音書6章48節
Apr. 13, 2018

「私」という存在から覚えられていること 

 

  今、教会で最近召天されたご婦人の追悼集を編集しています。その方は生前の仕事においても、教会の奉仕においても偉大な活躍をなさった、人徳のある方でしたので、寄稿された文章を通して、これほど多くの人々に良い影響を与え、覚えられている方は少ないのではないかと感銘を受けました。現代はSNSやホームページのように、自分(達)の活動の様子を写真や文章でアップし、印象づけられ、記憶に残される手段がたくさん溢れています。しかし彼女の場合、ただ彼女のしてきたこと、彼女に触れた人々の良い思い出により、彼女という存在が覚えられているのには驚きました。

 

  私という存在で、何を人に覚えていてもらいたいか?と自身に問うた時、私自身は何も今まで仕事においても、教会生活においても取り立てられるようなことをしたことはなく、平凡な人生であり、むしろ今までしてきた失敗か欠点を人々に覚えられていそうです(笑)。それでも、覚えられていたいと望むことは、「神様が私の人生においてどんなに恵み深くして下さったことを示す出来事」です。例えば最近のことですと、「陽子さんといえば、神様により素晴らしい結婚が、恵みとして与えられた人だな」と。

 

  イエス・キリストは何を私たち人間に、覚えていてほしかったのでしょうか。イエス様は弟子たちに十字架に架かる前の最後の晩餐の時に、パンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えてこう言われました。「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。 」*と、そして葡萄酒が入っている杯も同様に回されました。これは後に聖餐式という儀式になり、パンとワイン(今はブドウジュースが用いられているところが多いです)を信徒は定期的に預ります。このパンと葡萄酒を頂くたびに、私のことを思い出してほしいとイエス様は言われたのです。これらはイエス様が十字架上で裂かれるご自分の体と、流される血を表します。つまりイエス様の十字架の犠牲が、私たちが救われるためになされた最大の業だということを覚えるために、聖餐式を行います。(宗派によって多少解釈は異なりますが)

 

  しかし、当時十字架は、なにかの象徴になるということはとうてい考えられなかった程、残虐で拷問を伴う処刑方法として人々から忌み嫌われるものでした。この十字架にかかったイエスを覚えるなど、知恵や常識のある人々にとって、愚かなばかげたことでした。しかし、それを信じた人々には救いであり、新しい命が、希望が与えられてきました。

 

  これからも、自分が何かをしたかではなく、神様が不思議な、アメージングにこんなことをして下さったという出来事が生活の中で増えていったらいいなあと願います。毎日聖餐式はできなくても、心の中でイエス様の十字架を覚えて、日々感謝し、そこまで私のためにして下さった神様の愛に応答し、不完全ですがイエス様に従っていきたいと思います。

 

  「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 」第一コリント人への手紙 17章21節

 

  *ルカによる福音書22章19節
Apr. 6, 2018

お花見@烏が森公園 

 

  先日、野外で桜を観ながら教会の祈祷会をしようと、水曜日のお昼に皆で近所の烏が森公園に行きました。その日はこのエリアでは桜が満開で、花びらが風に舞う暖かい日となり、お花見に絶好の日よりでした。

 

  教会の集会というと、通常教会の建物内で行われ、日曜日の礼拝だけでなく、平日に集まって聖書を学ぶ会、お互いの祈りのリクエストを分かち合い祈りあう会など、少人数で集まる機会が持たれます。今回のような野外での開催はとても清々しく、神様が創られた自然の美しさを感じながら、キリストを信じる仲間で集まることが出来、互いの信仰の励まし、また問題を抱えている人にとっては慰めになります。キリスト教は初めて、また教会は敷居が高いと思う方も、まずは少人数のこのような集会から参加されると、親しみやすく気軽に来やすいと思います。

 

  もし日曜の朝だけ、礼拝に来てすぐ帰ってしまうのであれば、他の人との会話、コミュニケーションが十分にとれません。礼拝とは神様に向かってするのだからそれでいい、という方もいらっしゃるかもしれませんが、聖書は神を礼拝することだけでなく、さらに大切なことを私達に教えています。目に見えない神を愛するとは、神の命令を守る事であり*、その命令とは神を愛し、人を愛す、つまり互いに愛し合うことだとイエス・キリストは教えています。信仰は各人が個人的に信じることですが、信仰を持ち続けるには「互い」を必要とするように神様はデザインされています。「互いに」というからには、独りではなく、相手が必要となります。

 

  教会も多種多様な人間の集まりですから、必ずしも皆と意見や気が合うわけではありません。それらの違いや好き嫌いを唯一の共通点:キリストを信じる信仰をもとに、互いを理解しあう、譲歩しあう、そのためにも、人を避けるのではなく、とにかく集まりに参加することが大切だと思います。病気や事情で教会に集まれない人に対しては、教会側から訪問したり、教会外で個人的に会うこともできます。私も忙しい生活の中で、そのための時間を作っていきたいと、今日の聖書箇所を通して励まされました。

 

  「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」  へブル人への手紙10章23-24節

 

  * 第一ヨハネの手紙5章3節

Mar. 22, 2018

「アメージング・ジャーニー(The Shack)」映画との出会い 

 

  関東でも桜の開花が始まり、厳しい冬も終わりと思いきや、今年の3月21日春分の日はかなりの雪が降りました。咲きかけた桜がこの寒さで止まってしまったようです。私たちはこの祝日を家で映画を観たりしながら過ごしていましたが、外出を計画していた多くの方々はこの予想以上の雪で大変だったと察します。

 

  今回観た映画は「アメージング・ジャーニー:神の小屋より」(”The Shack”、米映画)でした。私は6年前にこの小説(New York Timesのベストセラー)を読み、とても感動したのですが、それが映画化されて日本でもDVDになっていたので、観ることを楽しみにしていました。この映画のテーマは「赦し」と「癒し」。主人公の男性は幼少期に父から身体的虐待を受け心に深い傷を負っていましたが、彼は不の連鎖をすることなく、妻と3人の子ども達に恵まれた幸せな家庭を築いていました。ある日、家族で湖にキャンプに行ったときに、長男がボートから転落して溺れかけているのを彼が助けている間に、末の娘が誘拐されてしまいます。警察による捜索の末、森の小屋の中に彼女の血まみれの洋服だけが見つかり、遺体はみつからずという悲劇がおこります。彼は父の虐待より、神を信じずその傷に蓋をしながら生きてきたのですが、この事件により彼も家族も心を閉ざしてしまいます。娘を失った彼はこんな不幸を見過ごした神に怒り、また犯人を赦せず、その怒りと憎しみの中から抜け出せずにいました。

 

  ある日、ポストに「あの小屋へ来い。パパより」という差出人不明の手紙を受け取ります。「パパ」とは、彼の奥さんが神のことを親しみをこめて「パパ」と呼んでいて、それを知っているのは家族だけ。彼は犯人からの手紙なのか、もしくは本当に神からなのかと困惑しながら、独りでその忌まわしい記憶の小屋に行くことになります。すると不思議な3人と森の中で会い、癒しの旅に一歩踏み出ていく様子が描かれ、最後は以外な結末です。これは涙なしでは見られない素晴らしい映画でした。 ちなみに、キャストに俳優石田純一の娘が出ていることも日本で話題になったそうです。日系人かと思うほど流暢な英語!

 

  誰かを赦せないでいる人、家族を失って失意の中にいる人、または「神がいるならなぜこのようなことが起こるのか?」と怒りを持って傷を負っている人にこの映画をぜひ観てほしいと思いました。必ず何かこの映画から受け止めるものがあるはずです。それはキリスト教とか宗教的なことではなく、それぞれの人が向き合う必要があること、それが「何なのか」を気付かせるストーリだと私は思います。

 

  人はそれぞれ何か傷を持っていても、それを認めたくないし、心に蓋をしたまま普通の生活を送り、何も問題がないかのように装うことができます。もしくは一時的な娯楽とか、何かをすることで紛らわし、その時だけ楽しければ良いと根本的問題の解決なしに人生を過ごしているかかもしれません。しかしそれを解決することが、またその傷が癒されることが必要だとまず自覚し、そしてすぐに感情は変えられなくても、赦しを受け取り、もしくは(相手が変わらなくても、自分の中で)相手を赦すことを決めた時、傷は癒される。そんなのは無理だと言うかもしれません。しかし人には出来なくても、神が共にいてくれて、その過程を助けてくれることを信じる。独りで背負わなくていいんだと。傷は癒されるためにある。神の子であるイエスが十字架で負われた傷は、私たちの傷であること。一人でも多くの人が神様の愛の深さ、癒しをこの映画を通して知って欲しいと祈ります。

 

 「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲しめをうけて、 われわれに平安を与え、 その打たれた傷によって、 われわれはいやされたのだ。 」   イザヤ書53章5節

 

Mar. 1, 2018

ビリー・グラハム(アメリカの伝道師)を通して 

 

  私が中学生の時、アメリカの伝道者が後楽園球場に来るというので、母に連れられて行きました。ビリー・グラハム国際大会。これは1980年10月に日本の主要都市で開催され、聴衆約33万5,000人、キリストを信じる決心をした人が2万6,038人となったそうです。子供だった私はその内の一人でしたが、メッセージはよく覚えていません。しかし、子供ながらに彼のメッセージを聞いて、イエス・キリストを信じようと思い、「信じた人は前に出てきてください」とのコールに応答し、そしてその冬のクリスマスに洗礼を受けました。私は親に連れられて小さい時から教会へは通っていましたが、彼の伝道集会で個人的に信じようと決める機会が与えられたのでした。

 

  ビリー・グラハムは野球場や大きな公会堂で大衆向けに国内外で伝道集会を開き、テレビ・ラジオのマスメディアを通しても、総勢20億の人(2002年現在)がキリストの福音のメッセージを聞き、多くの人がキリストを信じる信仰に入ったそうです。彼のやり方を批判する人々やキリスト教宗派もいるそうですが、これほど多くの人をキリストに導くために神様に用いられた人は、近代でいないでしょう。彼は2月21日に99歳の生涯を閉じました。先日、アメリカの国会議事堂内で大統領、議員も参列する彼の葬儀が行われていた模様をネットで観て、民間人でここに埋葬された人はアメリカ史上で4人目だと聞きました。彼はアメリカにとって特別の存在であったことを物語ります。

 

  グラハムの伝道スタイルは聖書に書かれてあるとおり、「イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして死なれ、よみがえられた救い主と受け入れなさい」とストレートに伝えるものです。彼は、一部の牧師や伝道者がするような、聴衆を喜ばせるため、聞きやすくするために、笑いやジョークを含んだり、聖書のメッセージで受け入れやすい部分だけを伝えるという方法はとりません(笑いが悪いという意味ではありません。)また体の癒しなど奇跡を会場で行い、大衆を興奮させることはしません。「”罪”とか”悔い改め”と言っても、人々は拒否するわよ。神の愛をまずは伝えればいいの」と言う人もいます。確かにその方が耳障りがよく、信じようと思うかもしれません。

 

  しかし、キリストはご利益宗教の人間の都合のよく作られた神ではなく、全てを創造し、初めから存在する唯一の神で、自分の思う通りに動いてくれる神ではないので、それを望む人は利益がなくなると信仰から離れてしまいます。一方、全能の神の前に自分は何も分かっていない、小さな存在であることを低くなって認めて、忍耐深く愛し続けている神に対して、自分が背を向けて信じてこなかったその罪を認めると、キリストを信じる信仰が与えられます。この罪の自覚がないと、罪の赦しをもたらす救い主は必要ないからです。罪が示されるのは、責められ断罪されるためではなく、赦されて救われるために必要なプロセスです。

 

  私も、少ない人数に対してですが、聖書のことを伝える時に、人道主義や人権第一の考えのような混ぜ物をせず、足したり、差し引いたりせず、あいまいにしないで、ストレートに伝えたいと目指しています。それをすると、時には批判されますし、離れていく人もいるかもしれません。しかし私の責任は、求めている人に忠実に聖書を伝えることであって、後のことは神様が一人一人に働きかけてフォローしてくださると信じています。多くの人々がビリー・グラハムのシンプルな、ある意味厳しい、しかし神の愛をはっきり伝えるメッセージに心を打たれ、「イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れる」決心を促されたように、日本でもきっかけはなんであれ、イエス・キリストの愛を受け取り、信じる人が増えることを祈り続けています。

 

 「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、 自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」   第2テモテへの手紙2章15節

 

Feb. 15, 2018

差別に対して 

 

  先日、ヘイトスピーチと戦う人々に関する講演会に私の教会の方々と共に参加する機会がありました。私は海外に最近まで在住していて、日本でいつからこんな現象が起こっていたのか、なぜ21世紀という人権や平和が唱えられるこの時代に、このような暴力的な人権を蹂躙する発言を大声で叫ぶ集会が、公共の場で許可を取ってなされているのか理解できませんでした。しかしこの講演で、ヘイトスピーチと戦ってきた街を記者として報道してきた方の話を聞き、その根本の原因が単に個人や地域の人々の差別意識によるというより、陰で操作しているであろう大きい国レベルの問題、また世界の流れでもあることに気が付きました。それに対して、自分はなんと小さい存在で、この大きな時代の流れを止めることが出来ない無力さを感じさせられました。

 

  聖書には在留している外国の人々を、自国の人のように扱い、自分自身のように愛しなさいという法律が書かれています。これは神からイスラエル人に紀元前13世紀頃に与えられた律法です。人間の歴史は長ければ長いほど、文化芸術、科学技術は発展しますが、人の悪の品性については全く昔から変わっていないことが、聖書を読んでいると分かります。在留外国人に対しても、自分と違う人を差別し、不当に扱いがちである人の傾向性を神はご存知で、神はイスラエルの民にそうしてはならないと命じたのでしょう。

 

  人を創造した真の神は、ご自分の存在を知らせ、神がどれほど人を大切に思い、そのために救い主のキリストをこの世に送られたこと、そしてそこまで愛している神と愛する関係になってほしいということを聖書を通して伝えています。もう一つは、目に見える人間同士が平和にこの地上で生きるように願い、互に愛し合いなさいということも語られています。どんな愛で愛するのかというと、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という愛によって、とイエス様は言われました。自分を愛するとはナルシストのことではなく、人は誰から教えられなくても自動的に自分を優先し、自分の利益を求め、自分を優先するということです。「相手のことを考える」、たとえそうあるべきと思ったとしても、なかなか出来ないことで、かくいう私も自己中心です。

 

  同じ国民、家族の中でさえ、考え方の違いがあり、それで争いを引き起こすのであれば、ましてや文化や歴史の異なる他国の人を理解することは努力を要しますし、そのような環境に置かれているかどうかも関わります。私の教会には、日本人だけでなく、アジア人、欧米人、アフリカ人等も少数ですが集っていて、おかげで多様性を知ることができ、とても恵まれた環境だと思います。相手を理解し付き合うようになれば、差別はしなくなるはずです。しかし、もし相手との間に利害関係がからんでくると、相手が誰であれ理解できなるでしょう。

 

  究極のモデルであるイエス・キリストは神であるのに自ら貧しくなり、批判されながらも、貧しく困っている人々に仕えた姿勢、そして人々を救うため、ご自分の命さえ犠牲にされた十字架に架かられました。このキリストの愛を思い出し、自分自身が、出来ないなりに、他国の人を受け入れ、自分の利益ばかりを求めず、イエス様の足跡に倣うことを目指したいと願います。私は政治的活動を通して大きな事に関われないけれども、このイエス様の愛が、差別をしている人々、またされている人々に届き、少しでも神の平和が広がるようにと祈り続けます。そして、大きな神のご計画の中にあってこのような悲しい争い、戦争があっても、必ず神の平和の支配がいつか来るという約束、これが神にあって私の持てる希望です。

 

  「あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。 」 レビ記19章34節

 

Feb. 8, 2018

わろてんか@福音落語 

 

  NHKで「わろてんか」という朝の連ドラが現在放映されています。関東人の私は「わろてんか」ということばを使いこなせないのですが、これは”笑ってください、笑ってほしい”という意味だそうで、ストーリーは夫婦で寄席を一から立ち上げていく話です。私は今迄落語に触れる機会がなく、寄席にも行ったことがなかったのですが、たまに観るこのドラマを通して、日本伝統文化の一つである落語や寄席が少し身近に感じることができました。

 

  折しも、来る3月3日に私たちの教会で落語家を呼んで、伝道集会を那須塩原市のホールで開催することになりました。露のききょうさんというプロの福音落語家で、落語で聖書の話、つまりキリストの福音を語る方です。私は早速現在ケーブルTVで放映されいている「バイブル落語」をYouTubeで見て見ました。落語は元来、浄土宗の説教師であった安楽庵策伝が説法を話す際に用いた手法だそうで、楽しみながら笑いながら宗教の話を聞けるというてんで、ある意味でキリスト教の伝道に適しているのではと思わされ、新しい発見となりました。

 

  笑いは聞いている人の心を和らげます。何か伝えたいメッセージがある時、それをダイレクトに伝えることで相手の心に衝撃を与えますが、落語のように笑いやユーモアを含めながら、真理や大切なことを伝えることも出来ます。そうすると、聞く気がない人、興味がさほどない人でも、つい面白いので最後まで耳を傾けてしまうからです。

 

  イエス様ご自身も、落語のように最後まで話を聞かせる手法を用いられました。弟子たちや、無学の大衆、ユダヤ教の専門家など様々な種類の人々の前で話される時、譬えを用いて神の国の真理を語られました。譬えは身近な日常生活に関わることを用いてたとえて語られるため、聞き始めるととりあえず最後まで聞いてしまうからです。そして各々が聞いた後、その解き明かしまで興味を持ち、信仰に導かれるか、もしくは聞いて終わってしまうかは聞く側の心によります。

 

  イエス・キリストの福音は聞いて信じる者に救いを与える、神さまの力であると、使徒パウロは書いています。日本人だからとか、人種は関係ないのです。日本伝統の落語を通して、一人でも多くの方が聖書の語る福音を聞き、救いを得させる神様の力を、つまり無から有を生み出す、絶望から希望に人を引き上げ、新しい人生を与える力のある唯一真の神であることを知って欲しいと願っています。

 

  「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 」 ローマ人への手紙1章16節

 

Jan. 30, 2018

泊まることにしている 

 

  一時、「パナマ文書」がタックスヘイブン(租税回避地)の是非も含めて話題になりました。私のような資産のない民間人には関係のないことですが、一般的に税金の支払いは少なくすめばそれに越したことがないものです。私の母は結婚するまでは国税局に勤め、査察官として企業に出向いたこともあるそうです。徴税というのは大変な仕事でありますが、国の行政が成り立つために必須の業務です。

 

  聖書に税金の取り立て屋の話が出てきます。この時代の税の支払いについては現代と状況が異なり、当時ユダヤ人の国はローマ帝国の属国支配となっていた為、ローマ帝国に税を支払わなければなりませんでした。そしてその取り立てには同胞のユダヤ人を雇って徴税させ、取税人はローマの税金にプラスアルファして自分の懐に入れることが許されていました。よって取税人は同胞から非常に嫌われ、社会から疎外されていました。

 

  ザアカイという人がいました。彼は「徴税人の頭で金持ちであった。」*1と記されていますが、人々からはのけ者にされ、孤独な人生だったかもしれません。彼はお金では満たされないものを求めていたからこそ、イエス様に興味を持ったのでしょう。ある日、ザアカイはメシヤ(救世主)とも噂さされるイエス様が街に来ると聞いて、背が低かったため木に登って一目見ようと待ち構えていました。すると、ちょうどその下を通ったイエス様が、知る由もないザアカイに突然声をかけたのです「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」 」*2と。彼は家にイエス様を招き、そして共に食事をして、ある決心を表明しました。「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します 。」*3 イエス様はザアカイの存在を前から知っていて、彼が救われるために彼の家に泊まることを計画されていたのです。イエス様との出会いにより、ザアカイは救われて新しく変えられました。

 

  イエス様がその人の家に「泊まる」と、その人の人生は変わります。同様にイエス様を信じると、イエス様がその人の内側にとどまり*4、豊かに実を結ぶと聖書に約束されています。現代でも、イエス様は一人一人の存在を知っていて、その人の心の家に泊まりたいと願っておられ、戸をノックしておられるでしょう。私たち人間の側ですることは、修行や善行、お金の支払いではなく、その戸を開けるだけです。人は新しく変えられることが出来るのですが、変わることを諦めていたり、また恐れていたりします。ゆえに、たとえ現状に満足していなくても、問題があっても信仰への一歩を踏み出すことに躊躇しがちです。

 

  私はイエス様を救い主として信じ「とどまって」頂いてから、不思議と心に平安、喜び、感謝が与えられ、以前のような空虚で、虚勢を張っていた自分はいなくなりました。落ち込むことはあっても、聖書のことばを通して引き揚げられ、神様の愛を思い起こし、また仕切りなおし希望を持てます。そのようなイエス様の愛に支えられ、一日一日の生活を大切に過ごせることを心から感謝しています。

 

  「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」 ルカによる福音書19章10節

 

 

 *1 ルカによる福音書19章1節、  *2 同5節、  *3 同8節
 

 *4 「泊まる」と訳されているギリシャ語”メノー”という動詞は「とどまる」または「つながる」の意味もあり、ヨハネによる福音書15章4-5節でもこの言葉が用いられている。
 

Jan. 17, 2018

心の温度 

 

  医者に診察に行くと、まず最初にバイタル(体温や血圧)をとられます。体の調子を見る時の基本的バロメーターだからです。人間の体は適正な体温、血圧が保たれていて、体内に異常が生じるとそれらが上がりすぎたり、下がりすぎたりします。ちなみには私は数値的には低体温、低血圧ですが、日常生活に差し障りない程度なので、健康が保たれていて日々神様に感謝しています。

 

  心の状態についても「燃えている」、「冷めている」または「生ぬるい」と表現されます。血圧も体温も高いと問題ですが、心が燃えていて、熱いという場合、その人が積極的で、生き生きとしているイメージがあり、プラスの表現でしょう。皆さんは、どんな時に心が燃えるでしょうか。最近心が燃えたのはいつでしょうか?

 

  聖書でも、「生ぬるい」信仰、霊的状態について、そうあってほしくないというイエス様のことばが書かれています。「このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 」*1 このように強い言葉でしかってくれるのは、あたかも親が子を愛しているが上に厳しくしかるように、イエス様は私たちを愛しているからです。私たちの心が自分の事で一杯で、自分・自分モードになり、他者を顧みず、神様に向いていない時は、何か信仰上で問題があり、冷めた心なのです。神様は私たちに対していつも「熱い」心をもって、親密に神様と関わってほしいと思われ、距離をおいているような関係になってほしくないのです。

 

  信仰が冷めている状態の人とは、キリストを信じて教会行っていても、他者の魂の救いに関して無関心でそのために祈ることを諦めていたり、神様の力や業にあまり期待していない状態かもしれません。生ぬるい信仰とは、例えば自分は救われているし、恵まれている、富んでいて、何の不自由もないと誇り、神様の恵みを当たり前のように思い、感謝もせずにいる状態かもしれません。もしくは、教会のメンバーが毎年行う宗教行事はしていても、神様との大切な会話の時・他者の為の祈り場である祈り会や心の糧となる聖書の学びに、忙しさを口実に全く出ようとしようとしない、それはあたかも肝心のイエス・キリストと関わらず、教会の外にだしてしまっているかのようです。その場合、イエス様は戸の外に立ってノックをし、そして一緒に食事をしようとドアをたたいていると書かれています。*2

 

  私は自分がどういう霊的状態かは、なかなか見抜けないものです。私が自分をどう見るかではなく、神様が私の心の状態をどう見るかが重要です。聖書のことばを読むたびに、心の内側を神様に探っていただき、冷めているもしくは生ぬるい思いが露わにされたら、日々悔い改めたいと思わされます。そして神様に対して熱心に祈り求め、喜んで他者に仕えられるように自身を変えて下さることを期待します。私の心を燃えさせてくださるのは、内に住む聖霊の働きであり、またイエス様が語られるみ言葉です。下記の聖書のことばのように、弟子たちが復活されたイエス様に出会い、お話しを聞いた時、心が内に燃えたように、私も日々み言葉を読み、聖霊の導きに従って祈り、神様に対して熱心になりたいと願います。

 

  「彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』。」ルカによる福音書24章32節

 

 *1 黙示録3章16節, *2 黙示録3章20節
 

 
Jan. 8, 2018

新年の志

 

   2018年、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。このお正月は夫婦でそれぞれに実家を訪問し、親戚と会うことが出来ました。昨年は、夫の仕事の関係でお正月は那須にいたため、結婚して初めて二人揃っての挨拶となり、またゆっくりとお正月休みがとれたことを感謝しています。

 

  休みというのは日常生活においてとても重要だと思わされます。人は休みなく働き続けると、心身に支障が生じて体調を崩し、かえって仕事の効率も悪くなるだけでなく、最悪の場合は仕事が続けられなくなる程病気にかかってしまうからです。日本は昔から、お盆と正月の時しか休まなかったようですが、西洋社会はキリスト教の影響により、週一回休みの日をとる習慣がありました。近代社会では、お金を儲けることのほうが人の健康より重視され、また宗教の影響も薄くなり、ビジネスは24時間365日が当たり前になっていますが、以前ヨーロッパでは日曜はお店はみな閉まっていた時代もありました。

 

  週一回休む理由は人間の休息の為でもありますが、もともとは神様が天地を創造された時に6日間で完成し、7日目に休まれたところに由来します。そして後に、神様が与えた戒めの一つに「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。」*1とあり、キリスト教ではイエス・キリストが復活された日曜日を安息日として神様を礼拝する日となり、その西洋の慣習が他国へも影響しました。神様が休まれた日を聖とし、人は仕事をせずに神の前に静まり、礼拝することで安息日を守ることとしています。 「神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。」*2 

 

  今朝、この安息日について、もう一つの意味があることを学びました。「神の安息に入る」とは物理的に休むという意味だけでなく、自分の力で頑張ることを辞めるという意味でもあると学ばされ、目から鱗でした。クリスチャンとそうでない人との違いの一つは、ここにあるともいえるでしょう。キリストを信じた人はもはや自分が生きているというより、自分の中にキリストが生きていて*3、全てのことを自分の力や業でやろうとせず、神様に委ねて、任せつつ生きていくという新しい生き方になるからです。これは怠惰に何も自らしない、もしくは自分の意志がなくなってしまうという意味ではなく、使徒のパウロが「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって…。」*4と説明しているように、私たちのうちにそうしたいという思い、志が与えられて、それに向けて祈り、指針を求めつつ行動に移し、全体的に神様がその実現に導いてくださるということです。

 

  長年の癖:自分で何でも考え、自分で全てやろうとし、バタバタせわしく動くことをやめ、神に聞いて、委ねつつ、落ち着いて行動するという訓練、今年はこの意味での「安息に入る」を目指していきたい、と新年に志を与えられ感謝です。

 

 *1 「こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 」
   創世記2章1-2節

    

 *1 *出エジプト記20章10節  *2 へブル人への手紙4章10節 *3 ガラテヤ人への手紙2章20節 *4 ピリピ人へ手紙2章13節

 

 

 

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