Praise the Lord Top page

Praise the Lord
日々の聖書のことばより 分かち合い

 大下 陽子


2020 頭に思い浮かぶもの 約束を守れない人のために 陶器師と陶器 悲しみに寄り添い、慰めを祈る
タイタニック号:もう一人のヒーロー イスラエルの為に祈る 普通とは 命のイメージ
困難の中で体験する神様の慰めと愛 ネット配信による教会の礼拝 復元、回復、リバイバル 見えない脅威に対してすること
人生の嵐と土台 希望:何に望みを置くのか 確実性にもとづく安心と不確実性における信仰 プレッシャーに感じる時
病の癒し 自然との調和 祝福するとは 政府を批判する代わりに
病からの回復、その後の苦しみ 資金なし、人材なし、自粛でも、ゴスペル! 「もしかすると、この時のため」と思えること ガラス越しの面会
親に倣う子供 ラテンの人から学んだこと 聖書と国家機密情報レポート 家庭菜園:ナス、トマト、そして オリーブ
弟子が師に習う 野百合とかげろう 世界をひっくり返す影響力 キッズシェルターの子ども達
焦らず、委ねる リモート(Zoom)での礼拝 資格は取れた。が、計画とおりにいかず。。 Servant Leadership (人に仕えるリーダー)
婚約式 この時だからこそ 人生のレースを走る 顔と顔を合わせて
デリバリー HOPE(希望): Holding On with Patient Expectation シュトーレン(ドイツのクリスマスケーキ) 人と争わないこつ
神さまのサプライズ * * *
Dec. 30, 2020

 神さまのサプライズ

 

  「サプライズ!」思いもかけないプレゼントが用意されていたり、何も知らされず、その当人が驚かされるような状況が与えられる時に使われる言葉ですが、当人は驚きと喜びでびっくりするものです。思えば神さまはいつも、サプライズで私たちを驚かせ、喜びに満たして下さる方です。最近のサプライズは12月25日に与えられました。この日は、益子教会に専任して初めてのクリスマス礼拝の日。今の社会情勢により、集まって礼拝を行うべきかどうか迷いもありましたが、いつもの礼拝堂のスペースと隣の部屋の間の仕切りを外して広く場所をとり、参加者全員にマスク着用、入口での消毒をお願いし、感染対策を取って準備しました。もともと、益子教会では10人以下の集まりですので、新しい方が来たとしても密になることはないと予測していましたが、リスクはありますので、神様に守っていただくよう祈り委ねることにしました。結果、私たち夫婦以外、9人の方々が参加され、クリスマスの賛美歌を歌い、夫のメッセージを聞き、とても和やかな時間を共に過ごし、無事にクリスマス礼拝を開催できたことは、本当に神さまの恵でした。


  9人の内の二人が新しい方でしたので、そのうちの一人に私が「初めまして」とお声をかけると、「一度、木曜日の聖書を学ぶ会に来たわよ」と言われ、ハッとして思いだして失礼を平謝り、慌てましたがすぐに驚きと喜びで一杯になりました。彼女は益子教会のチラシを見て来られた方のお友達で、半年ほど前に一度だけ木曜日の聖書の学ぶ会に来られ、それきりでした。暫くは、また来て下さるようにと祈っていたのですが、いつのまにか彼女の為に祈ることを忘れていました。ところが、折しもクリスマスの日に、彼女から木曜の学び会についてお問いあわせがあり、その彼女とは知らずに夫が電話で対応し、「今晩、クリスマス礼拝があるので、それにもぜひいらして下さい」とお誘いしたら、なんと来て下さったのです。クリスマスのチラシを近隣にも配ったので、誰か来られるかなあと期待して、一ヶ月以上前から祈ってきたのですが、あの時の方が来て下さるとは、本当にサプライズでした。

  教会に新しい人が来るというのは非常に貴重なことです。ですから、一期一会の出会いを大切にし、フォローアップしなければならないのに、私は連絡先がわからないとはいえ忘れてしまっていて、そんな自分が情けなくなり、神様にごめんなさいと謝りました。しかしながら、私は忘れていても神様は決してお忘れにならず、彼女のことを覚えていて、ちょうどクリスマスに日に彼女の心に「また行ってみようかしら」という思いを起こしてくださったのです。本当に神様のなさることは素晴らしいと、感謝の思いで一杯です。引き続き、木曜の学び会に来てほしいと願います。

 もう一人の新しい方は、いつも遠くから来て下さる方(大下の父が足利で牧師をしていた時の信徒さん)の娘さんで、クリスマス礼拝にお母さんと一緒に参加して下さり感謝でした。教会というのは、近隣の方に限らず、車や電車で遠くから来て下さる方もいますが、引き続き、お二人で来て下さることを祈っていきたいと思います。

  益子教会はある時から信徒がいなくなり、他教会の牧師さんが兼務で他教会の信徒数人とともに土曜礼拝を続けてきましたが、2020年4月から私たち夫婦が益子教会に移り住んで専任となり、日曜礼拝を再開したという経緯があります。ですから、新しい人が来られるたびに私たち夫婦には大きな喜びが与えられます。様々な理由で聖書に興味を持ったり、教会に来る機会があって、聖書の言葉に触れ、神様の愛と恵みを知るようになってほしいと、私たち夫婦にとってその事が一番の願いであります。生活の中で、様々な問題で苦悩している人々、失意の中にいる人々が神様から与えられる安心と希望・救いを見出し、そのことを皆で共に喜ぶ時、それは下記のみ言葉のようにさまよっていた羊が羊飼いに見つけられた時のような大きな喜びです。私たちにとって、この喜びこそが何よりも大きなサプライズであります。そして、益子教会を献金とお祈りで支えて下さっている多くの方々に、この喜びを分かち合うことで感謝を表し、神様に栄光を返していきたいと思います。益子教会が今迄無事に礼拝を続けられていることを神様に心から感謝しつつ、神様が来る年も、一人二人と益子教会へ送って下さるみ業を期待して祈り続けていこうと思います。

 

  「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」 ルカによる福音書15章4-7節 (口語訳聖書)

 
Dec. 20, 2020

 人と争わないこつ

 

 「切れる」ということばはいつから、日本語においてイライラした瞬間を表す用語として使われだしたのでしょうか。少なくとも、この2-30年位前ではないかと思います。ぶちっと堪忍袋の緒が切れたという表現からくるのかはどうかは不明ですが、「切れる」人が多い世の中で、切れて暴力的な行動・言動に出てしまうと、警察沙汰になってしまい、多くの人が被害を受けます。一方、切れた当人は自分の行為の正当性を主張します:相手が悪い、だから自分はこういう行動をしたんだと。しかし、どんなに相手が悪くとも、暴力で返してはならないのです。そこまでいかないとしても、だれでも、自分の想った通りに事が進まないとイライラし、相手にたいする口調がきつくなってしまうことがあり、それに対抗して相手もきつくなりと、人間関係の悪化のきっかけとなりえます。私も以前、短期な性格により、よくイライラしていましたが、今はその傾向性を自覚し、なるべく穏やかに、口調に気をつけ、たとえ不当な扱いをされても切れないで、忍耐しようと務めています。逆に、自分の言動や失敗で、相手をイラッとさせてしまい、冷たい態度を取られてしまうことがあります。素直に謝るべきことは謝り、自分からは穏やかに接し、相手との関係がよくなるように日々祈ります。


 人間関係における全ての争いのもとは互いに権利を主張することからくる、と言えるのではないでしょうか。自分がこうあるべき、こう扱ってもらうべきだと思った通りに事が進まないと、相手に訴えます。それにより、身体的もしく物質的に損害を被むれば、裁判という手段を用います。裁判はお金や時間もかかり、なかなか、判決も自分が勝訴したとしても、失ったものは元通りにはならないし、この世のやり方での争いの解決は、結局心の傷や後遺症が残り、さらに次の争いに発展するというケースがあることは、悲しい現実です。どこかで、自分が損した分を取り戻そうという主張を手放し、相手をとりあえず赦すということが、少なくとも自分の中で争いを終焉させる方法ではないかと思います。

 ここで下記の聖書のことば「互に従いなさい」に触れてみたいと思います。「従う」ということは、一番人間がしたくないことであり、仕事や学校、家庭で、仕方がなく従うことはあっても、自分のプライドがあるので、本当は他者が自分に従ってもらいたいと思う傾向性が誰にでもあるのではないでしょうか。しかし、キリストを信じる信徒に対して、キリストの使徒パウロは「互に」従いなさいと勧めています。片方だけでなく、互いに。これはなぜできるのかというと、人間関係において、私と相手という2者の間に、第3者の存在があり、お互いがその第3者を通して、互いにプライドが低くされ、仕えあおう、従おうという思いが与えられるからです。その第3者とは、イエス・キリストです。互いにキリストの愛を受けている者であれば、キリストが自分を赦し、良くして下さったことを感謝して、他者に対してもそうしようという思いが与えられます。「与えられる」としたのは、素の自分では出てこない思いだからです。キリストを信じた時に与えられる聖霊の働きにより、感情ではたとえ相手に従うのは納得できなくとも、キリストがそう言っていたから、そうしようと思い直すことができるからです。したくないけど思い直す、これが私の正直な反応です。もちろん、もっと信仰が練られている人は、思いなおさずとも、最初から自然にそう思えるのではないかと思います。そこまで自身の品性が変えられていくように願います。

 現代は、失うものが多く、大変辛い時勢です。多くの人が職を失い、経営状態が悪化しと、お互いの権利を主張し合います。そうしないと生きていけないからです。しかし、私たちの思いを超えた、見えない存在の全知全能の神様の存在を認め、神様がなんとかしてくださる、そして私たちに災いではなく、将来と希望を与える計画を用意して下さっているという約束*を信じられれば、どんな状況となっても、生きていけます。そして、「互に」こだわっていることを手放し、互いを尊敬できれば、争うかわりに、互いに助け合うことにつながるでしょう。それには、人間同士の美しい関係だけでは限界があります。やはり、イエス・キリストをまず信じること。これが全ての争いの解決の基盤となると思います。

 今日は、夫が那須のホテルでウエディングの司式の仕事をしているため、雪の積もった景色を見ながら、日々与えられるみことばを通して思わされたことをつづっています。家族は社会の基礎単位です。今日、これから夫婦となるお二人に、夫の司式でのメッセージを通して、お互いに敬い、愛し合えるご夫婦、愛のある家庭を築かれることを祈りつつ。。。

 

  「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。 」 エペソ人への手紙5章21節

 
  *「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ書 29章11 節 (口語訳聖書)


 
Dec. 8, 2020

 シュトーレン(ドイツのクリスマスケーキ)

 

  クリスマスにクリスマスケーキを食べることは、クリスマスの意味を知らない日本人にとっても、日本の文化の一部となっています。先日、私たちも知り合いの息子さん夫婦が開いている洋菓子店で、クリスマスケーキを予約しました。最近日本では、パン屋さん、洋菓子店でシュトーレンというケーキを見かけるようになりました。シュトーレンとは、ドイツで伝統的にクリスマスの時期に食べられる、ドライフルーツとナッツが入ったフルーツケーキです。このケーキは粉砂糖で真っ白に覆われた楕円形で、主イエス・キリストが赤ちゃんとして生まれた時にくるんだ、おくるみをイメージしているそうです。このケーキは、クリスマスの当日に食べるものではなく、待降節といって、クリスマスにむけて4週間前から教会はクリスマスの準備期間を持ちますが、その時期にクリスマスが来ることを楽しみにして、少しづつスライスして食べます。


  この待降節(アドベント:「到来」という意味)は、主イエス・キリストが人となって2千年前に生まれたその誕生日を喜び祝うための準備期間をいいますが、もう一つのことを準備する期間でもあります。それは、第二の到来、主イエス・キリストが再びこの世に来られること(再臨)を覚えて、それに備えていく時でもあります。

  キリストがもう一度来られることについて、イエス様が弟子達に幾つかたとえ話で話されていたことが聖書に記されています。10人の乙女のたとえ、遠くへ旅に出かけた主人と家を任された僕たちのたとえ等、どれも共通している点は予告なく「突然来る」ということです。つまり、いつ来るかという予測は誰もできないし、知らないので、いつキリストが来られても良いように、日ごろから心を準備しておきなさいという警告でもあります。これは、当時、キリストの再臨はない、裁きもないとたかをくくって、神様を恐れず好き放題なことをしている人たちもいたようですが、どの時代であっても「もう来ない、自分が死んでからだろう」という思いで神様を信じる信仰をあとまわしにしているとしたら、それらの者にとっての警告でしょう。しかし、神様にとって、1日は千年、千年間は1日という長さで*1、時間の感覚は人と異なります。

 ペテロは、この再臨の際に起こると記される天変地異、つまりすべてのものが崩れてなくなる、この世の終わりの現象に触れ、「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほどきよい生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」*2と言っています。大切なことは、いつ来るかと予測することや、この世の終わりだと恐れることではなく、神さまを信じ、清い生き方をして、キリストの再び来られることをを待ち望むことだと言っています。

 今日の下記の箇所は、ヨハネもこの再臨に望みを持つ者は「キリストがきよくあられるように、自分をきよくします。」 と記しています。キリストの再臨における望みとは、最後の審判において、キリストを信じて生きそして死んだ者たちは、復活と永遠の命を与えられ、先に復活して天で生きておられるキリストと共にいつまでも生きる者とされることです。神様は、イエス・キリストを通して、私たち人間がこの最後の裁きを恐れなくてもよいように、救いの道を用意してくださいました。神の子でイエス様は私たちの罪のために十字架に架かられて、その罰を負ってくれてたので、この最後の裁きの時に、キリストを信じる信仰により、責められることがないのです。たとえ、完璧なクリスチャンとして歩めなくとも、失敗があり、何度か神様を悲しませることをしたとしても、信仰さえ持ち続け、悔い改めて、神様にすがっていけば、キリストによって私たちは正しいとみなして頂けることは、なんと幸いなことでしょうか。ですから、世の終わりのキリストの再臨と、そこで起る最後の審判は恐ろしいものではなく、救いの完成の時だとなり、待ち望むことができます。

  日常生活の中で、心を清く保つのは努力が必要とされます。なぜなら、心ではキリストを信じて内側が聖霊が住み、新しくされていても、いまだこの肉体を持っている状態で生きているので、外側から入る情報、環境、過去の記憶等にかなり影響されます。影響されにくくするには、なるべく心に悪い影響を与える情報や環境を避けることです。また、仮にそうしたとしても、ふいに、過去の映画等で見た怖い映像やある人に対するネガティブな思いがフラッシュバックしたり、マスコミに操作されて必要以上に恐怖心を煽られたりすることが起こります。私は牧師たちに教えられたことは、道を歩いていて、自然に入ってきてしまう誘惑の映像や、相手を悪い言葉でけなしたり、下ネタでゲラゲラ笑っているTV番組がどこかでTVで放映されているのが目に入ったら、「2度見」をせず、その場を立ち去ればよいと。つまり、何かに反応してぱっとわいて出た悪い思いを、そのまま心の思いのなかで進めないことでストップできます。そのままにしておくと、思いはどんどん広がっていきますから、私は思いがわいた時に神様に瞬間的に祈ります、「この思いを消してください」と。

 信仰を持って、長年教会へ行っていても、いまだに私はこんなやりとりを神様と心の中でしなくてはならない、なかなか清くなれない者です。しかし、アドベントの時期だけに限らず、普段の生活の中でも、キリストが来られることを待ち望み、心を聖霊によって徐々に清めていただき、準備していきたいと願います。

  「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストがきよくあられるように、自分をきよくします。 」 第一ヨハネの手紙1章2-3節

  *1「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 」第一ペテロの手紙3章8節
  *2 第一ペテロの手紙3章12節(新改訳)


  *1 ヨブ記2章10節 (口語訳)
  *2「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」  イザヤ書11章1-2節 (口語訳)
  *3 ピリピ人への手紙4章11節(新改訳)

Dec.1, 2020

 HOPE(希望): Holding On with Patient Expectation

 

  ある日、いつもの道を車で走っていると、両側の街路樹が次々に切り倒され根株だけ並んでいるのに気がつきました。これは2022年開通予定の、宇都宮駅から周辺の工業団地まで走る、新しい電車の工事のために取り除かれていたものでした。毎年この道を通る度に、その美し銀杏の木の紅葉を楽しんでいたので、非常に残念に思います。ところが、数週間後に同じ道を通ると、その切り株から枝葉が少しづつ出ているのに気がつきました。木の生命力は改めてすごいと思いました。しかし、人間は次々に自然を犠牲にして、己の利益のために工業団地を建てていくわけです。


  アメリカ人は、言葉の頭文字をつなげて言葉の意味の文章を作り出す、ことば遊びをするのが上手なようですが、先日なるほど!と思うものを見つけました。HOPE(希望)の頭文字をとって、Holding On with Patient Expectation. (直訳すると”忍耐の期待を持ち続けること”) 何かを期待する時は、ある程度忍耐が必要とされます。すぐに希望通りになる場合もありますが、大概、時間的に待たなければならなかったり、希望とおりにならないことが多々あります。つまり、希望には思い通りにならないことに対する忍耐が伴うという面があると思います。人が希望を持つ時というのは、状況が厳しい時、苦しい時であり、これからは良くなる、楽になることを期待することで、希望を持って励まされ、頑張ろうとするからです。逆に、何もかも物事がうまくいっている時は、希望を持たなくとも生きていけるのかもしれません。

  聖書で、ヨブという人のことが記されています。彼は、神をおそれ、神に褒められる程正しい人でしたが、ある時悪魔が「ヨブは、財産、健康、幸せがあり祝福されているからで、それを取り去れば神を呪うよ」と言い、そして神は悪魔にヨブを試すことを許されます。そして一度に妻以外の家族(10人の子供達)を失い、財産も使用人も失い、そして自分の健康も失われるという非常に過酷な状況に置かれました。しかしながら、ヨブは神を呪うどころか、「『われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。 」*1と言ったと記されています。そして、彼の友だちが彼に「お前が何か悪いことをしたから、罰が下ったんだ」と彼を責めるので、ヨブは自分は何もしてないと言い張り、次第にその論争がヒートアップしていく様子が、ヨブ記の中で詩の形式で表されています。下記の箇所はその中でヨブが言った言葉ですが、これを「こんな状況でも、希望を持てる」という励ましの意味にもとれますし、「木は切り倒されても復活できるが、人はここまでボロボロにされたら立ち直れない」、という嘆きを示した文脈にもとれます。ちなみに、最終的にヨブは、神様ご自身から語り掛けられ、その崇高な存在の前にひれ伏し、再び、子供が与えられ、財産も与えられるというストーリーです。

 聖書のなかで、「若枝」という言葉には意味があり、あることが象徴されています。若枝とはメシヤ、救い主を象徴していると解釈されます*2。ですから、イエス・キリストという救い主にあっては、人はどんな状況であっても希望を持てるのです。なぜなら、イエス・キリストは私たちを絶望から希望へ、暗闇から光へ、死から命へと導く、神の子、救い主だからです。現代のような暗い社会情勢にあっても、希望が与えられていると思えることに、日々感謝しています。それは、何か目に見える保証やお金があるからでもなく、自分や家族が健康だからではなく、政府が何かしてくれるという期待によるのではありません。キリストを信じる信仰が与えられると、どんな状況でも、神さまに感謝出来る心が与えられるからです。使徒パウロは「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 」*3と言っています。私自身は使徒パウロが経験したような苦難や貧しさを経験したことはありませんが、信仰の成長の中で徐々に、今神さまが与えて下さっている状態・環境で満足し、充分であると思えるように変えられてきていることは感謝です。もちろん、生活の中で様々なことが起こり、忍耐しなければならないこともあります。しかし、その状況がすぐに変わらなくとも、忍耐しつつ神さまに任せようと思っています。なぜなら、神様が全てのことをコントロールしていて、なんとかしてくださる、というイエス・キリストにある希望が与えられているからです。

 クリスマスの時期が近づいてきました。このイエス・キリストにある希望を一人でも多くの人が知り、その恵みに預かれるように祈りつつ、イエス様の誕生を祝う準備をしながら、神様のなさるくすしい業に期待したいと思います。


  「木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない。」 ヨブ記14章7節 (口語訳)


  *1 ヨブ記2章10節 (口語訳)

  *2「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」  イザヤ書11章1-2節 (口語訳)
  *3 ピリピ人への手紙4章11節(新改訳)

<> Nov.17, 2020

 デリバリー

 

  最近は、外食よりも家族や少人数で「お家ごはん」やテイクアウトが以前より用いられるようになりました。外食産業としては痛手ですが、感染対策にはとても有効です。結局、マスクを常時していてソーシャルディスタンスをとっていても、食べる時はどうしてもマスクを外し、そして多少でも話すことになるので、ウイルス感染の機会となるからです。そのことが分かっていても、たまにはレストランで食べたいという、外食にはそれなりの価値があります。座ってオーダーすると、美味しい料理が運ばれて来て、食べ終わるとお店の人が下げてくれますし、料理を作らず、後片付けもせず、家の中とは異なる空間で、食べて、話して、何もかまわずお支払いだけすればいいわけですから。一方、たとえおいしい料理であっても、店の人の対応が悪かったら、嫌な気分になり、せっかくの料理の味が台無しになることはないでしょうか。また、ピザのデリバリーの人が、乱暴な運転をしてピザの箱をひっくり返してしまい、中身が崩れたものを渡したらどうでしょうか。基本は味ですが、料理を運ぶ人の態度や方法も大切な要素です。


  イエス様がこの世に生きておられた時、5千人の人にパンと魚を奇跡で増やして給食したことが聖書に記されています。*1イエス様は5つのパンと2匹の魚を、5千人が満腹し、さらに12のかごに有り余るまでにパンを奇跡で増やされました。これは、イエス様の話を聞きにきた群衆がお腹がすいていて、かわいそうに思って必要を満たされたのですが、同時に霊的な意味も示しています。パンは神のことばを指し、神のみことばはどんなに人数が多くても、十分届けられ、皆が味わうこと(知ること)ができるのです。私達は生きるためには食べ物が必要なように、心の食べ物が必須で、それが神のことば、つまり聖書に書かれている神の言葉です。

   「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばによる。」 *2

 ここでは、イエス様がそのパンを運ぶのではなく、弟子達が運びました。このように、クリスチャンは牧師や教師に限らず、神様の伝えたいメッセージ:聖書に書かれているみことばを、自分の置かれた立場と様々な方法で知らない人々に「伝える、運ぶ」という役割があると思います。


 下記の箇所は、キリストの福音を「伝える」ことについて書かれています。デリバリーの人は運ぶ中身には手を出さないように、伝える人はメッセージの中身(キリストの福音)を変えることは出来ないし、付け加えたり、差し引いたりしてはならず、聖書に書かれていることをそのまま伝えるべきです。そして、運んだあと、つまりメッセージをした後や、個人的に神様がどのように自分の人生を変えて下さり、救ってくださったかを証した後は、その結果(聴き手が神さまを信じるか、信じないか)に対しては責任を負うことはないと思います。なぜなら、メッセージを受け取る側を信じさせることは神様のなさる領域であって、神様だけがその人の心に語られたみ言葉を響かせ、気づかせ、そしてもっと知りたいと神様を求めさせ、救いに導くからです。人の役割はデリバリーの人、ウエイター・ウエイトレスの役割。ただ宣べ伝える人としての責任は、そのメッセージを忠実に伝えること、また私たちの態度で台無しにしないよう、相手をつまづかせないように配慮することではないでしょうか。そのためには、神様の愛と知恵をいただかなければならないと思います。


  「神の計画は神からの霊感を受けた人間が、神のことばに従ってあげた成果によって実現するばかりではなく、人間の過ちによっても、罪によってさえも実現するのです」*3と記している人がいます。聖書を読んでいると、神様が選ばれた信仰の人達でさえも、失敗や罪を犯すことも記され、それでも神様はその人たちを用いられるケースがあるからでしょう。ましてや私のような普通のものが、今までを振り返ると、いつもメッセージの運ぶ時の態度等が適切であったかは自信がありませんし、失敗、失言が多いことを認めます。つまづいてしまった人もいたかもしれないので、ごめんなさいとその方々と、神さまの前に謝るのみです。いつか、神様がその人の心を和らいで下さることを祈ります。神さまの憐み、赦し、愛は深く、その御業は私たちの思いを超えたところで行われる、と安心して委ねられることは、なんと幸いでしょうか。相手に伝える際、みことばの内容に忠実に、そして自分の態度についてよく吟味しつつ、文章を書くときも、話すときも、人と日常生活で関わるときも、神様から助けを頂いて日々歩んでいきたいと願います。



 「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」   ローマ人への手紙10章14-15節 (引用 新改訳聖書1965年版)

  *1 ヨハネによる福音書6章1-4節
  *2 マタイによる福音書 4章4節
  *3 ポール・トゥルニエ 「人生の四季」より

Nov. 7, 2020

 顔と顔を合わせて

 

  先日、久し振りに西那須野の地を訪れました。西那須野教会の皆さんとお会いするのは、益子へ引っ越して以来。皆さんお変わりない様子で安心しましたが、一つだけ以前と異なることは、マスク姿で顔を合わせていることでした。今回の訪問の目的の一つには、病気の方々を見舞うことでしたが、その方々は退院したばかりだったのに関わらず、お会いする機会が与えられました。ソーシャルディスタンスを取り、マスクをしながらでも、このように顔と顔を合わせて集まることが出来たのが本当に感謝でした。お互いの近況等、しばし共に語り合い、楽しいひと時が持てました。


  その週末、義理の両親が我が家へ訪問してくれました。お正月に会って以来(約10ヶ月振り)でしたので、益子教会の礼拝にも参加し、また両親の友人で益子在住の方も招いて、家で団欒の時を持つ事ができました。今迄電話では話していましたが、なかなか以前のように頻繁に行き来ができないので、高齢の両親の体調も守られて再会が実現できたことに、本当に神様に感謝しています。家族や友人たちと気軽に会えないという今の世の中において、顔と顔を合わせて会えることがどんなに貴重な時か、改めて思わされます。

   下記のみことばの「兄弟」というのは、実際の血のつながりがある兄弟に限定しているのではなく、神の家族という意味合いであります。神の家族とは、天の神様がお父さん、そしてキリストが長子で、キリストを信じる者が神様の子どもとされ、この「座っている」(ヤーシャブ)という動詞 は「住む」という意味もあり、ただ座っているというより、家族のように共同体的に集まっている状態を表しているのだと思います。この詩編の文脈的にも表題が「都に上る歌、ダビデの詩」とありますから、都つまりエルサレムの神殿への巡礼の旅において、ユダヤ人たちはこの賛美の歌を歌いながら都への道を歩いていたのでしょう。神様を礼拝するために都へ上るわけですから、その行く途中も神様を賛美しつつ歩む、つまり礼拝の一環であります。それがどれ程喜びであり、恵と祝福であるかを、この詩の著者であるダビデは表現したかったのではないかと思います。キリストがこの世に全人類の救い主として来て下さったおかげで、ユダヤ人だけでなく、血のつながりや人種・身分・年齢の違いを超え、神の家族が集まって礼拝できる時間と場所が今は与えられています。それは教会です。教会は、時代が違っても、礼拝のスタイルが異なっても、キリストを信じる者たちが共に集まり、神様に礼拝を捧げ、このダビデの感じていると同じ喜びと恵み、神様の祝福に預かれるということは、感謝につきないと思います。

 また、教会というのは場所的な意味、つまり建物ではなく、キリストを信じる神の家族の集合体です。譬えて言うならば、教会はキリストの体であり、ひとりひとりが体の器官として生かされ、調和して生きていると、使徒パウロは記しています。「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」* キリストの体においては、健康な人の体の中で調和があるように、各器官がうまくお互いを補いあい、機能しています。


 時には、集まってお互いの喜び、苦しみを共有できない事情もあります。たとえ物理的に遠く離れていても、神の家族は霊的に各々がキリストに繋がっているので、互いに祈り合いながら、共に座っている恵み、喜びを味わいたいと願っています。


  「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 」詩編133編1節


  * 第一コリントの手紙12章25-27節 (引用 新改訳聖書1965年版)

Oct. 17, 2020

 人生のレースを走る

 

 新型コロナウイルスは誰でもかかる可能性があります。有名な政治家でも、普通の子どもでも。重症になる人もいれば、無症状や軽症の人も。善い行いをしている人、立派な人もかかり、いわゆる悪人と人々からレッテルをはられるている人もかかります。最近、クラスターが起きたであろうとされる、アメリカ大統領の主催のパーティに参加した、ある牧師さんもコロナに感染したというニュースをみました。その牧師さんは神様に大いに用いられている人で、コロナ禍で礼拝に集まれない信徒たちのために、また不安の中にいる人々に向けてITの技術を駆使し、リモートで多くの宣教活動を行い、結果、今迄彼が開いてきた集合型伝道集会の時よりも、多くのアメリカ人が信仰に導かれたという報告を聞くたびに、励まされ喜んでいました。ですから正直なところ、「え?彼もかかってしまったの?!」という反応はあります。その方の回復を祈りつつ、かかってしまったというネガティブにとられる状況を通しても、神様はプラスに用いられると信じております。


 「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

  何のために私たちは人生というレースを走るのか。それはイエス・キリストの為に走っているのです。このレースは他の競技者と競い合う必要はありませんが、競技者たるもの、レースではベストを尽く、賞を目指して走ります。そのように、信仰のレースは自分の自身において、神様の前にベストをつくそうと努めているかどうかが問われると思います。私達は自分の自己実現のために、もしくは誰か自分を必要としている人の為に走るのではなく(結果的には誰か人の為になりますが)、わたしたちを暗闇から光へ、死から命へと導き救って下さった方のために、走り続けようと、この聖書の著者も励ましています。

 生きていれば、辛いことはあります。私は心が弱く、特に職場ではくよくよし、落ち込むことがあり、聖書のみことばで励まされ、なんとか引き上げられている日々です。多くの方は、もっと大変な状況:病気や経済的困難、災害に被災するという状況にあると思います。しかし、状況についても他者との比較ではなく、神様は個々人の大変さ、抱えている問題に寄り添い、助けて下さる方なので、平安と安堵を与えられます。この神様にすべてを委ねつつ、信仰の創始者であり、完成者であり、助け主であるキリストを目指して、人生のレースを走り続けようと、互いに励ましあっていけれたらと願います。


 「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 」 ヘブル人への手紙12章1-2節 (新改訳1965年版)

 



Oct. 11, 2020

 この時だからこそ

 

 現代は世界中のほぼどこへでも、交通手段の発達のおかげで行くことが出来、またIT技術により、たとえその場所に行けなくとも、スマホがあればリモートで顔を見てコミュニケーションが可能な時代となっています。一方で、その技術を何のために使うかによって、話は異なってきます。残念ながら、これらの技術が人々の益となるだけではなく、悪用され、犯罪も巧妙になっているというのも事実です。また便利だからとは言え、ネット社会においてその便利さが人々の心に様々な影響を与える可能性があり、そのことによる「ひずみ」も生じています。


 NY在住の日本人の友人から、NYの治安が最近悪くなっているとの報告がありました。その原因は、昨今の抗議デモ後、警官の配備が以前より少なくなったこと、またコロナ禍により失業する人々が増え生活苦を抱える人が増大していることなどがあるそうです。以前は夜中に地下鉄に乗っても問題なかったのですが、今は遅い時間に地下鉄に乗ると、襲われるという事件や銃を伴う強盗、殺人が増え、最近NY在住の日本人ジャズ・ミュージシャンが被害にあったというニュースを見た人もいることでしょう。社会で何か問題が起きた時こそ、お互いが協力し、助け合っていく世の中が理想ですが、残念ながら、その混乱に乗じて犯罪に走ってしまう、自分の保身しか考えず、他者のことまで考える余裕がなくなってしまうというのが現実です。個々人の心に平安や希望が必要です。

  光は周りが暗ければ暗いほど、輝きます。こんな暗い時だからこそ、どんな小さな光でも必要です。それも、一時的でなく、いつまでも続く光が。 心を照らすことの出来る、そのような光とは何でしょうか。信仰と希望と愛だと思います。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」*1とみことばにあるように、キリストの光を今だからこそ、世界の全ての人に伝える最大のチャンスだと思わされます。もちろんこれからも、もっとIT技術は発達するかもしれませんが、ネットで聖書がどこでもアクセスでき、牧師の説教も聞くことができ、集まる事が出来ない状態でも、リモートで礼拝もすることが出来る時代だからです。そして何よりも、人々の心が今一番飢え渇いている時だと思います。目に見えないウイルスの脅威にさらされ、これから完全に守られるという保証もなく、今迄当たり前にできたことができない社会情勢の中で、何が生きる上で大切かを求め、それが神様を求めることに繋がるはずです。

 イエス様が私たち人間の罪を贖うために十字架にかかり、死なれて3日後によみがえられ、弟子たちに現れ、天に帰る前に弟子達に言い残した言葉。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。 」*2 これは牧師や宣教師だけに言われている命令ではなく、本当にキリストを信じ、キリストに従っていこうと決めた人であれば、「自分」にもイエス様が言われていることだと受けとめることが出来るのではないでしょうか。特別な知識や技術は、皆に必要なわけでなく、今それぞれが置かれた場所で出来ることがあるはずです。全世界に出かけていけなくとも、ネットで配信できる福音のメッセージや証し(証とは神様がどんなに自分に恵深く、憐み深くしてくださったか、信仰に導かれた経緯や、その人におこった神様の業を分かち合うこと)が可能です。また、たとえ人前で話すのが苦手な人も、言葉で表現するのが得意でない人でも、その人の態度や言動でキリストの愛、希望、信仰を表すことが可能です。

 私は良い人格ではないし、欠点もあり、神学校教育を受けてはいません。聖書には、全ての人が教師になる必要があるとも書いてありませんし、かえって使徒の働きという書簡には、使徒や弟子達だけでなく、普通の信徒が、迫害の中においても口コミでキリストの福音(良き知らせ)を伝えていることが記されています。普通の信徒であっても、聖霊が私の内側におられて共にいてくれるので、祈って、聖霊のより頼めば、自分が思った以上のことで神様の力が注がれて、奇跡が起きると信じています。最大の奇跡は、人がキリストを救い主だと信じられるということだと思います。これは聖霊の力によらなければ起こりえない現象ですし、人の説得で、強制や洗脳という操作では起こりえないことで、神様は求めている人を必ず様々方法や人を使って導き、信仰を与えて下さります。今が、本当の神様を求める時。私は、日々この奇跡が世界中の全て人々の間で起こるように祈り、私のような小さい存在であっても、神様のすばらしさ、愛をもっと発信していきたいと願っています。



 「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイによる福音書28章19-20節

 *1  第一コリントの手紙13章13節

 *2 マルコ福音書16章15節    (引用 新改訳聖書1965年版)




Sep. 26, 2020

 婚約式

 

 先日、夫が婚約式の司式を執り行うため、郡山へ一緒に出掛けました。婚約式とは、結婚の約束を神様の前で約束する式ですが、クリスチャンであっても婚約式は特にせず、結婚式だけするカップルも多いです。夫が司式したカップルは40代前半で、二人共長い間結婚のことを神様に祈ってきたそうで、神様が用意して下さった相手に出合えたという喜びに溢れ、幸せそうでした。女性の方は神様が長年の祈りに答え、素晴らしい人を与えて下さったと泣いていました。男性の方は、婚約式をすることで結婚式への心の準備と決意が固まり、身が引き締まる思いですと言っていました。今の時勢ですから内輪の集りでしたが、心温まる式とその後の簡単な交流の時が持たれ、皆でお二人の神様への感謝と幸せの思い、喜びを共に分かち合えました。そして、私達夫婦にとってもちょうど4年前の婚約式、結婚式のことを思い出す機会ともなり、あらためて神様にこの結婚を感謝することができました。私達も神様が導く結婚を長い間祈り、諦めかけそうになりながらも待ち続け与えられたので、このカップルの気持ちが良く理解できます。


 神様には、何でも自分の願いを求めることができますが、それがすぐには叶えられない場合、また自分の願った通りに叶えられない場合もあります。タイミングとその方法が私たちの希望と神さまの計画と異なることが多々あるからです。しかし、神様のタイミングがベストであり、また私の願った通りにならなくて、かえって結果良かったということが多かったと思います。聖書には、祈りがすぐに聞かれないというストーリーがいくつかあります。(例えば、なかなか子供が生まれないで苦悩するハンナ、晩年になって子(洗礼者ヨハネ)を授かったエリザベツのケース等)しかし、聞かれるまで祈り続けたその過程に意味があり、その間に祈りの動機が変えられ、神様の計画や思いに近づけられるプロセスとなることがあります。一方、ある祈りはすぐに聞かれ、最終的に聞かれない祈りもあります。しかし、重要なのは、祈りとは自分の願いが通ることではなく、全てを神様に委ねつつ、自分のありのままを神様に訴える、信頼にもとづくコミュニケーションだと思います。

  最近益子教会では、教会の礼拝が終わった後、その場で短く祈りのひと時を皆で持っています。これは、先月、アメリカのフィラデルフィア日本人キリスト教会の礼拝にリモートで参加した時、「とりなしの祈り」という形でこの教会でなされていたことで、「これはいい!」と夫が益子教会でも導入しようと決めたのです。この祈りの時を始めると、参加されている方々はそれぞれの家族の病気や、今抱えている問題、もしくは神様が祈りを聞いて下さり、こんなに良くして下さったという感謝の祈りも含め、礼拝後その場で分かち合うことができます。この祈りの時は短い時間なので、礼拝後すぐに帰りたい方でも参加可能です。神の家族として、お互いが喜びも悲しみも共有出来、皆が心を合わせて最後に夫がまとめて祈るので、祈祷会という別枠の時間帯に来られない方々にとってももれがなく、神様が祈りのひと時を持つよう導いて下さったと、感謝しています。

 「みこころにかなう祈りは何でも聞かれる」と上記のみことばにあります。何が「御心にかなう」願いなのでしょうか。マクロ的、究極的な神の御心とは、人がキリストを信じて、永遠のいのちをもつことだとイエス様は言われていますが*1、もっとミクロなレベルに関してはどうでしょうか。私たちの思いでは、例えば「病気が治ること」は御心にかなうことと断定したいですし、悲しいこと、辛いことが神様の御心だとは思えないものです。しかし、「なぜ?」と神さまに叫びたくなるような結果が与えられたとしても、たとえ自分の想う通りにならなかったとしても、神様はなにかしら私の思いを超えたところで、取り計らって下さると平安のうちに受けとめられるように心が変えられていきたいと願います。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」*2とあるように、次第に「自分がこうしたい」という願い自体が最初から、神様のみこころに沿ったものとして出てくるようになり、それを実行に移す機会が与えられるようになればと願うところです。

 私は自分の思いがつよく、自分の感情にまだまだ左右されてしまう足りない者です。日々祈り、聖書のみことばに触れて神様の思いを知り、それを自然と願えるよう変えられ、徐々に神様に全て委ねられるようになりたいです。忍耐を持って私を愛して下さる神様の業に期待したいと思います。



 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」第一ヨハネの手紙5章14節

 *1 「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 」ヨハネの福音書6章40節

 *2ピリピ人への手紙2章13節   (引用、新改訳聖書より)




Sep. 19, 2020

 Servant Leadership (人に仕えるリーダー)

 

 数十年前の日本では、セルフサービスのガソリンスタンドはほとんどありませんでした。お店の人に「レギュラー満タンお願い」と言うと、一人がガソリンを入れてもう一人が車の窓を拭いてくれてと、私たちはただ車に乗ったままでお金を払えばよいのです。現在でも、そのサービスは続いていますが、改めて全て人にしてもらうことが快適と感じたのは、その後、アメリカに住み、給油をセルフでするのが当たり前だったことを経験してからでした。給油に限らず、人に何かしてもらう、「こうして」というと、その通りに人が自分に仕えてくれるのはいい気分です。また、通常仕事上で管理職になれば責任を伴いますが、部下は上司の指示に従います。


  Servant Leadership(直訳すると、僕的リーダーシップ?)。これは相対する言葉をつなげたように見えますが、アジア学院という、有機農業とリーダーシップを教える学校の基本理念の一つとして打ち出されている言葉です。正確な意味については、アジア学院のホームページに書かれているので参照いただければとおもいますが、この姿勢は農業に限らず、どの分野でも適用されうると思います。リーダーには統率力、リーダーシップ、決断力、能力・技能が問われますが、そのリーダー自身が部下をこき使うのではなく、かえって部下に仕えるという、謙遜な姿勢を持って共に働くと、そのリーダーの下に皆が働きやすく、良い成果を上げることが出来るのではと思います。現実には、政治家でも、企業でも上司は威張っている人が多いかもしれません。しかし、本当に仕事の出来る人、ある分野で秀でる人、皆に信頼されている人は謙虚な方なのかもしれません。

 この精神は聖書に記されている、イエス・キリストが言われた言葉に由来しています。イエス様は神であられたのに、わざわざ限界のある人間となって生まれ、私たちに仕える為にこの人間界に来てくださったからです。下記の聖書の箇所にあるように「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」(人の子とはイエス様ご自身を指す)と、イエス様は弟子たちにも、ご自分に倣って、仕える人になりなさいと教えられています。更に、仕えるためだけでなく、ご自分の命を与えるために来て下さったこと、これは神の子であるイエス様にしかできない業です。

  もし、キリスト教の神が、全能で畏れ多い、恐怖で支配するような存在であれば、私は信じたいと思いません。恐れでは人を支配出来ないからです。しかし、私が信じている神様は、愛そのものであり、優しい方であり、そのご性質は、人となって現れて下さった神の子イエス・キリストに示されています。だから、私はその愛を受けとることが出来、信じる信仰が与えられて、今は日々感謝して過ごすことができます。信じたからといって、良いことばかりでなく、生活上、人生の中で困難なこと、苦しいことも、引き続き起こります。しかし、どんな状況においても神様の守りの中に、自分が生かされているという安心感が与えられます。それだけでなく、信じてキリストに従って歩んでいこうとすると、自分の内側の性質が、キリストの光に照らされて、汚い部分、心の苦い部分が変えられていくという希望が与えられているので、日々、自分の心のふがいなさに落ち込むことにとどまらず、仕切り直してなんとか生きています。

 傲慢な心、不満を持つ心では、人との関係においてどうしてもギクシャクしてしまいますが、相手がどうであれ、親切に、謙遜な姿勢で、立場とかに関わらず相手に仕える気持ちで対応していくことができれば、相手も柔らかい態度になってくるでしょう。私も、日々傲慢な心がふっと湧ます。そういう時はすぐにこのイエス様の相手に仕えるという姿勢に倣い、家庭でも、職場でも、教会でも、街中でちょっと出会う人に対しても実行できるように、変えられていきたいと願います。

 ”そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 ” マルコの福音書10章42-45節(口語訳聖書)





Sep. 13, 2020

 資格は取れた。が、計画とおりにいかず。。

 

 私は10年前に介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を取得しましたが、その時期にアメリカへ転居してしまったので、その資格を用いて実務経験をしていません。今日本で勤務している仕事でも必要ないため、この先使わないのであれば、時間とお金をかけて講習を受け更新をする必要があるのだろうかと考えるところです。ただ、将来使えるようにと、この資格を持てるように計らって下さった神様の意図を思い、保持をしてきたという経緯(一度試験に落ちたのに、試験問題の不備で繰り上げ合格となったという奇跡!)があります。とりあえず、コロナ禍もあるので、更新講習を一年延期することにし、来年また考えることにしました。


  私は先々のことを考え、計画を建てて、こつこつと準備するタイプです。でも、私の計画はいつも計画通りにいきません。つまり、私の計画は完全ではないし、ましてや社会がどう動くかは先行き不透明であり、何事にしても計画通りにいかないのが当たり前と思っています。しかし、社会生活をする上で、計画をたて、実行することはむしろ常識的で、求められることです。ただし、計画を立てる上で、その動機というのが今日の聖書の箇所のよると計られるようです。

 自身も含め、人は自分の考えたことは正しいし、妥当だと、自分の常識や自分の置かれた立場、状況によって思い、それらの考えに基づいて、計画し、実行するでしょう。ただし、人の価値基準は相対的であり、時代や国によっても異なります。その人には良くとも、周りの人には共通して正しいことでない、損となる場合もあります。皆が神様に自分の都合に基づき、「願いを叶えて下さい」と祈ったとしたら、利益が相反してしまうのではないでしょうか。

  「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」 *1と聖書には書かれています。性格の良い人、仁徳がある人は、「私は陰険ではない」と思うかもしせません。しかし、もしかしたら本人に自覚がないだけかもしれません。聖書の前提が、人は罪の性質を持って生まれ、自分の持ち前の気質では聖く、正しくいられず、自己中心的な思いは必ずあるというところに立っています。それを「陰険」と表現してしまうのは、いささか言い過ぎなのでしょうか。キリストを信じた後でさえも、その陰険な性質が残っている場合があります。例えば聖書を基に、自分の行い・主義・主張が神の前に正しいと思い、他者を裁き、愛の心が欠ける、そして決裂してしまう悲しいケースが教会の中でも見られます。なぜ和解できず、決裂してしまうのか。それは陰険さが残っているからではないでしょうか。

 グッドニュースは、だれもその陰険を直せないけれども、神様には直せるということです。そのために、神様がイエス・キリストを救い主としてこの世に送って下さったからです。すぐには、性格や性質はかわらなくとも、まずは自覚するところから始め、神様に正直に祈って告白することが互いにできれば、平和の源であるイエス様が和解に導いて下さると信じます。「これくらい、いいでしょう」という小さいことは心に根付き、後々大きな問題となっていきます。だからこそ、私も日々、自分の内側を聖霊に探っていただき*2、罪があれば示され、その罪をごめんなさいと神様の前にもっていき、赦され、清められたいと願います。自分の思いや計画が異なっても、寛容な心を与えられ、他者が自分より優れていると思える、柔和な、謙遜な心で対応できるように、その機会があるごとに心が変えられていきたいと願っています。 そうしていけば、陰険さが直されていくことでしょう。すると、たとえ思ったように物事が進まなくとも、神様に委ねることができます。そして、一度自分の立てた計画の狙い、動機をもう一度吟味し、神様の思いにそった計画に導かれること期待し、柔軟性を持っていきたいと思わされました。

 「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。 あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」 箴言16章1-3節 (新改訳聖書)


 *1 エレミヤ17:9 (新改訳聖書)
 *2 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139篇23-24節)





Sep. 7, 2020

 リモート(Zoom)での礼拝

 

 PCの画面の上には、4年振りにお会いする懐かしいお顔がいくつも並んでいて、私は思わず手をふり「お久しぶりです!」と声をあげました。昨晩は、両親と私がアメリカ在住時に大変お世話になったフィラデルフィア日本人キリスト教会の礼拝に、リモートで日本から参加する機会が与えられました。折しも、その教会の牧師さんがお休みを取られるということで、ゲスト説教を私の夫が頼まれたのです。私たちの今仕えている益子教会を紹介する上でちょうど良い機会でもあったので、依頼を受けた時はすぐに引き受け、試行錯誤をしながらZoomのソフトをダウンロード。実際つながった時は思った以上に臨場感があり、ITの恩恵に感謝しました。


  この教会ではこの方式を導入して半年経つそうです。今では、アメリカ東部地域は新型コロナ感染がコントロールされているので(それでも数字的には日本とはケタ違いに多いですが)、参加人数を少なくし、礼拝堂に集まる人とリモートで参加する人とにわけ同時並行で礼拝を行っているそうです。そして、この教会の工夫の素晴らしいと思った点は、礼拝が終わった後「さようなら」ではなく、その後、順番にこの一週間の近況を報告するという、分かち合いの時間を持っているところでした。司会者が建てられ、人数も20人前後なので、一人数分話しても一時間もかかりません。もちろん、用事がある人はいつでも退席可能です。この分かち合いをすることで、遠方のため、また病気、その他の事情でその場に行くことが出来ない人でも、リモートでお互いの顔を見つつ会話ができ、孤独にはならず、お互いのことを覚えて互いに祈り合えるという、新しいスタイルの交わり(フェローシップ)だと関心しました。

  もちろん、実際集まれることがベストです。しかし、そうできない社会情勢がある場合、リモートを利用する価値と意義はあると実際参加して思わされました。私たちの教会は人数が少ないため3密になることはなく、感染対策をしながら礼拝を集まってしてきましたので、他の教会がリモート礼拝をしていることを聞いてもあまり興味を示しませんでした。しかし、アメリカの教会で、日本にいながら説教ができる、礼拝に参加できるということは本当に恵みだと感動します。贅沢を言えば、時差がなければもっと楽なのですが。(アメリカ東部と日本は11-12時間の差)

 キリスト教が初まった頃の教会の信徒達は、厳しい社会情勢(宗教的迫害)により、自由に集まって礼拝できない時期がありました。トルコの有名な観光地の一つに、「カタコンベ」といって、山の斜面に穴を掘って隠れて住んでいたクリスチャンたちの住居の遺跡は有名です。迫害を恐れて礼拝に集まることを辞めてしまった人も多かったと察します。もしくは、「信仰は独りで信じていれば良い」と他者との関わりをしない主義の人々もいたかもしれません。しかし、教会は「集まる」ことに関しては、他の団体以上に意味がある、大切なことです。なぜなら、教会のことをギリシャ語で「エクレシヤ」と言い、「呼び集められた者たち、集まるように召し出された者たち」を意味 するからです。ですから下記の聖書の箇所の筆者は、「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合おう」と勧めを書いているのだと思います。公に集まることが許されなければ、隠れて集ったように、現代のように公衆衛生上集会が開けない状況であれば、リモートで集ればよいのです。パソコン・スマホの操作ができなければ、出来る人に基本を設定してもらい、後はボタンを押すだけの最低限の操作にまで準備できれば、誰でも利用出来るのではないでしょうか。実際、フィラデルフィアの礼拝に参加されている日本人の方々の半分は若い世代ではなくとも、最新のITを使いこなされていました。

 私たちは、一人では信仰を持つ続けるには弱い存在です。夫が説教の中で「互に愛し合う」*という箇所を話し、お互いを覚えて祈り合うことの大切さを話していましたが、独りでは「互いに」ができません。相手があって初めて「互い」となります。お互いのことを知り、近況を分かち合い、そしてお互いの悩み、問題を神様に委ねて祈り合えます。そして何よりも大切なことは、共通の希望を持っていることです。その希望とは、イエス・キリストです。キリストご自身が平和であり、愛であり、その方を信じる私たちも、その平和と愛にあずかることが、人の能力や意志の力ではなく、聖霊の働きで可能だからです。そしてこの希望は、聖書に記されている神様の約束に基づいています。ですから、日々聖書のみことばを読み、なんらかの手段でコミュニケーションを取り続け、互いに祈り合って、励ましあっていきたいと思います。

 「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 」ヘブル人への手紙10章23-25節(新改訳改訂第3版)


 *「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 」 第一ヨハネの手紙4章10-11節 (口語訳)





Augu. 30, 2020

 焦らず、委ねる

 

 近所の方より、おいしいぶどうを頂きました。果物や野菜は買ったり頂いたりして食べる分にはあまり感じないことですが、実際自分で育てようとすると、実がなるまでどんなに大変な世話がいるかを実感するものです。そして、世話以前に、当たり前のことですが、全ての植物は木や幹に繋がっていないと、すぐに枯れてしまい、実はなりません。


  下記の聖書の箇所は、ブドウの木と枝をキリストと私たち人間に譬えてイエス・キリストが弟子達に言われたことばです。キリストにつながっていれば実を結ぶが、繋がっていなければ何一つ出来ない。何一つ。ここでの「実を結ぶ」というのは、もっと内面的なこと、つまり聖霊の実を結ぶこと*1や、人の魂がキリストを信じて救われることに関してだけを言われていると思ったのです。しかし、結局社会生活をする上で、生きていく上で、全てのことにおいてキリストに繋がっていることがどんなに大切かと、最近しみじみと思わされます。

  若い時は傲慢だったので、自分で努力すればある程度は成果が出せたし、仕事でも、頭の回転をくるくる回して同時に沢山のことをこなせると思っていました。一方、人間関係はそうはいかず、大体うまくいかなかった人間関係は諦め、距離を持つことでその場をしのいでいたように思います。ところが、中高年になると(年を言い訳にしたくはないのですが)転職して新しいことを覚え、忙しくともミスなくテキパキとこなすということが、以前のように出来にくくなっています。自分が情けなくなり、自信がなくなります。最近は頻繁に仕事のことで、神様に具体的に祈り、助けて下さいと祈るようになりました。祈って、祈って、助けて頂いて、日々なんとか過ごしているのが現状です。

 教会での働きに関して、神様の御心にそって日々何をなすべきかと日々夫と共に祈っています。傍からみると、見える部分での成果も見えず、コロナ感染防止の為に積極的な活動も出来にくい状況で、このままでいいのか、もっと何かしなければ。。と焦ってしまいがちです。しかし、自分達の思いや、他人の評価により焦ってはならない、むしろ、日々祈って神様に導きを求め、神様に示されたことを続けていこうと、夫と心を合わせて毎朝、食事のごとに共に祈っています。どんなに頑張っても、今の自分たちの能力や気質では限界がありますが、全ての状況・人間関係をコントロールしておられるお方に委ねるというのが大切なことだとお互い認識して祈れるのは幸いです。私独りだと、以前信徒伝道をしていた時よくありましたが、人からの評価により「もっと神様のために働かなければ」と追い立てられ、一種の強迫観念のような思いにかられて苦しみ、遂には投げ出したいと思ったことが何度もあったからです。これは、私のなかなか克服できない精神的弱さの一つでもあり、その弱さを補ってくれるパートナーを神様が与えて下さっていると感謝しています。

 人同士は、相手に依存してしまうと、お互い不健康になりがちです。しかし、人が神様には依存してよいのです。神様にははばかりなく依り頼み、必要をお願いし、助けを求めるという恵をキリストを通して与えられれていることは本当に感謝です*2。なぜなら、聖書を読んでいると神様の包容力は超自然であり、万能だからです。私は、自分の弱さや欠点、むしろ自分では得意だと思っていたことでさえも、全て神様に祈って指針を求め、助けを求めて行きたいと思います。すると私とキリストとの信頼関係はもっと深くされ、自分の願いや狙いを超えたところで、全てをコントロールされている神様がなんとかしてくださるからです。私のようなどうしようもない、取るに足らない者に、キリストの力が流れ、実を結ぶまでに至ることを忍耐を持って待ち望みつつ、祈り続けようと思います。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」ヨハネによる福音書15章5節


 *1「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 」ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節

 *2「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」ヘブル人への手紙4章15-16節 ()は追記



Augu. 16, 2020

 キッズシェルターの子ども達

 

 暑さの厳しい日、先日、益子教会では久しぶりに、子供達の声で賑わうひと時がありました。この子供達のグループは、キッズシェルターといって、那須塩原市にあるNPOで、いわゆる育児放棄されていてる子供たち(小学生から中学生まで)を放課後の時間に預り、食事やお風呂を提供し、宿題を見てあげたり、家庭的な暖かさで子どもたちの居場所を提供しているところです。私の夫は西那須野にいた時からこのグループにボランティアとして関わり、夕食を一緒に食べたり、遊んだりしてきましたが、今回は夏休みの遠足として、バスを貸し切って子供達10名程と、ボランティアスタッフを含めた大人たちが、益子のお店で陶器の絵付けをしたり、教会でお昼を食べたり、卓球をしたりしました。私は残念ながら仕事があり参加できませんでしたが、夫は子供達と会うのも数か月ぶりでとても喜んで、楽しいひと時が過ごせたようです。


  私たちは益子教会での活動に一つとして、将来的にこの地域で「これこれの境遇の子ども(人)」と特定せずに、近所の子も含めて子供達が集まって、卓球をしたり、DVDを見たり、自由に遊べる場所として、教会を平日提供できたらと願っています。今は、コロナ禍で積極的に人を集めて活動をすることは困難ですが、いつかワクチンや治療薬が普及し行動制限がなくなる時期が来ると願い、状況を見つつ、このような単発や小規模の集まりから始めていければと願っています。

  先日、私の職場にアジアの方が来て、日本語が話せないので私が通訳をする機会がありました。私は簡単に通訳しただけですが、その方は非常に喜んで「親切にしてくれてありがとう」と何度も言っていました。日本に在住する人は、日本語が使えなくて不便な場面が多いのだろうと思い、私もアメリカ在住の時、アメリカ人の方々に色々助けてもらったり、親切にして頂いたことを思い出しました。この地域で、自分が出来ることで、少しでも日本在住の外国人の方の助けになれる機会が与えられるといいなあと思いました。

 「主は寄留の他国人を守り、みなしごと、やもめとをささえられる 」*下記の聖書の箇所にあるように、神様は古代のイスラエルの民に、寄留の外国人とみなしごを不当に取り扱ってはならないという戒めを与えました。つまり、これらの社会的弱者は、昔から差別され、不当に取り扱われていたからこそ、あえて神様は言われたのだと推測します。神様は社会的な支援を必要としている人や弱い立場の人を守り、支えられてきました。西洋諸国では教会が中心に孤児院、病院、学校などをミッションとして設立してきたという歴史がありますが、このような聖書の教えが今日の社会福祉の原点となっています。神様いつも弱い立場の人々を顧みて下さる方です。私たちは自分たちのことで精一杯で、在留の外国の人々ことや、社会の中で虐げられている人々、困難な家庭環境にある子供達のことになかなか目が届かず、政府がやるべきだと任せきりになりがちです。もちろん政府が社会福祉制度を十分に拡充できれば理想ですが、現実は限界があります。従って、多くの福祉的、慈善的活動を行うNPOが設立されていて、政府の支援策からこぼれている人々を助けているというのが現状だと思います。ましてや、教会がそのような働きに積極的に取り組んでいく必要はあると思わされます。

 私たちキリストを信じる者は、キリストが私たちを大切に思い、ご自身の命まで犠牲にして愛して下さったことを信じていますが、私個人としてはその愛を受けるばかりで、周りに分かち合えていないのが正直なところです。神様から受けたことを「やらなければ」という強制感でははく、神様から受けた愛に感謝し、その応答として、キリストの愛を行動を持って周りに示していきたいと願い、神様にそうなれるように祈り求めたいと思います。

  「寄留の他国人または孤児のさばきを曲げてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。」申命記24章17節


 *詩編146編9節



Augu. 8, 2020

 世界をひっくり返す影響力

 

 私は平日、車で約30分弱の通勤をしていますが、日々あるラジオ番組を聞くことを楽しみとしています。この番組は米国フィラデルフィアにあるカルバリー・チャペルという教会の牧師が、過去に話てきた創世記から黙示録まで聖書全体を順にメッセージをしている内容が30分に編集されたプログラムで、朝の通勤時間帯に地元のラジオ局で40年近く続けられている番組です*1。続き物の番組というのは、TVの連ドラと同様、毎回「次はどうなるのだろう。。」という期待感があって、短時間であっても継続的に楽しめるもので、聖書のメッセージもしかり。このラジオを何気なく、朝の通勤時に聞き続け、多くの人々がキリストを信じる信仰に導かれてきたそうです。私は10年程前アメリカに在住していた時も車通勤でしたので、このラジオをよく聞いていたものです。運転中なので全て集中して聞けませんが、それでも一日を始める上で、心の糧を得られ、今日も頑張ろうという思いが与えられてきました。現在はスマホのアプリから聞いていますが、IT社会の恩恵を神様に感謝しています。


  今聞いている箇所は、使徒の働き(使徒言行録)で、キリストが十字架で死なれ、3日目に復活し、弟子たちに現れてから天に戻られた後のお弟子さんたちの宣教活動の様子が主に記されている書簡です。2千年前、ネットも、TVもラジオも何もない時代、人々は歩いて遠距離を移動していた時代に、エルサレムの小さなユダヤ教の一派と言われたグループが、どのように当時の世界に瞬く間にキリスト教を広めることが可能だったのか!?と驚かされます。しかも、自由に伝道できたわけでなく、いつも迫害されていたにも関わらず、クリスチャンは増えていき、とうとうローマ帝国もクリスチャンを迫害するより味方につけたほうが得策と考えたのか、キリスト教はローマ帝国で国教化されて容認されるまでになります。なぜこれほども影響力を持てたのか、その答えは、聖書に記されているように、人の力ではなく、神様の力、聖霊の働きで可能だったからです。

  この新しい宗教の布教に対する人々の反応は、素直にキリストを信じる者もいれば、既存の宗教で利益を受けていた人々のように恐怖を覚えた人もいました。後者は、なんとか使徒たちの宣教活動を阻止しようとしてきました。彼らが役人たちに彼らを訴えた時の表現は、「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。 」*2、英語訳ですと「世界をひっくりかえそうとしている者たちがここにも来てます」*3であり、何とか罪状をでっちあげて、逮捕させようとしました。まさに、キリストの弟子達が口コミで、また講堂や会堂で宣べ伝えていた内容には、世界をひっくり返すような力があり、多くの人が信仰に入っていきました。当時の世界観、宗教観、個人の人生観とは全く異なる、それらを根底から覆すような信仰に。この現象は、彼ら自身に力があったわけではなく、彼らを通して働かれている聖霊の力によって、人々がひきつけられ、信仰に導き入れられ、そして信じたばかりの人々が喜んで他の人に伝えていくという口コミで広がって行きます。良いニュースも悪いうわさも、あっという間に広まりますが、「人のうわさは75日」と言われるように、あまり長く人々の記憶に残されません。しかし、グットニュースは何世代へと語り継がれます。

  一方、信じている自分自身を見ても、そんな影響力を持ったことはなく、逆にこの世の影響を受けてしまいそうな弱さを見いだす時、これはあの時だけ、特別の人にだけ与えられただけのことと思ってしまいがちです。しかし、神様は一人一人に他者とは異なる、ユニークな役割を与えておられていると信じ、いつか聖霊の力が自分を通して働かれ、下記のイエス様のことばのように、塩味のような良い影響力を持てる者になりたい、そのようなチャンスがあることを祈って行こうと思います。個々人が変えられれば、教会も力を持つように変えられる。そのためにも、日々時間を見つけ、聖書の言葉が自分の心に書き込まれるように、どんな時でも短くとも神様に祈り、全てのことに感謝を捧げ、日々過ごしていきたいと励まされます。


 「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 」マタイによる福音書5章13節

  

 *1 The daily Bible teaching ministry, “Straight from the Heart”, by Senior Pastor Joe Focht of Calvary Chapel of Philadelphia. It began in 1981 when Pastor Joe Focht started a small Bible study in a catering hall. With a strong emphasis on teaching God’s Word verse by verse, the church has grown to minister to approximately 12,000 people weekly with a variety of outreaches and ministries.
 *2 使徒の働き17章6節 新改訳改訂第3版
 *3 Acts 17:6 “And when they found them not, they drew Jason and certain brethren unto the rulers of the city, crying, These that have turned the world upside down are come hither also;”  (King James Version)



July 25, 2020

 野百合とかげろう

 

 忙しさにかまけて、暫く近所の森から足が遠のいていたうちに、季節は春から夏へ移り変わっていました。森に入ると、野の百合があちこちに咲き、セミの声が響いていました。野百合はお店で売られている整った美しさの百合と比べると、何か力強い自然の美しさを感じます。野の百合について、イエス・キリストが下記のように言われているのも改めて納得できます。「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花(野百合)の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」*1 すぐにしおれてしまう草木だとしても、神が自然に美しく着飾ってくれるのであれば、尚更、人間である私たちを神が心にかけないわけがないので、何も心配しなくてもよい、くよくよ思い煩っても寿命はのびることはないでしょうという文脈です。


  久し振りの森の散歩は変わらず静かで、心地よく、人とすれ違うこともほとんどありません。森の薄暗い中に、見た目はカゲロウのような黒いものがひらひらと優雅に飛びかい、とても神秘的でした。後で調べて見ると、ハグロトンボというそうで、その飛び方は蝶のようで、留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じて止まります。かげろうというと、「はかなく短い命」の象徴とされています。これはかげろうが、成虫になって1日で死んでしまうことからだそうで、カゲロウの仲間を意味する学名「Ephemeroptera」は、「1日」という意味と「翅(はね)」という意味のラテン語から作られた造語だそうで、古今東西、かげろうのイメージは変わらないようです。

  自分の命がどれだけか、長いか、はかないかを意識することは、その人の生き方に反映されると思います。若い時、そして健康に何も問題がない時は、人生の長さなど考えることもなく、いつまでもこのままが続くと思います。しかし、晩年になってくると、また若くても大きな病気を経験すると、当たり前に思っていたことがそうではないということに気がつかされ、逆に一日一日を大切に生きようという思いが強くなるものです。なぜなら、いつこの命が終わるかわからない、もしくは限られているという意識をもつことで、残された時間を大切にし、また、特別なことをしたい人はしてもよいですし、いつも通りに生活することにおいてもそこに価値を見出すことが可能です。もちろん、余命宣告をされた場合、すぐには前向きにはなれません。怯えたり、恐れたり、嘆き悲しむことはノーマルな感情です。誰でも、そのような感情の過程を通った後、最終的に平安な気持ちにたどり着くことができれと願います。

 キリストを信じる者にとっては、この体の命のはかなさを知り、価値を見出すだけにとどまらず、その先に待ち望むものがあります。下記の、詩編という詩を書いた古代イスラエル時代のダビデ王は、自分の命のはかなさを知り*、また世の中に悪がはびこり、自分の命が狙われている状況を神様に訴えつつ、最後には神様にのみ望みをおくと宣言しています。このように、現代に生きる私たちにとって、望みとはキリストであり、キリストを信じる信仰を通して、死んだ後のことに対しても希望が与えられています。それもただ天国で魂がふらふらしているのでなく、天の国で何かを相続する、つまり神の子供としての特権があり、また罪のない永遠に生きる新しい体が与えられ、神様とづっと過ごせるという約束が書いてあり、たとえそれが漠然とした把握であっても、待ち望むことが出来るからです。もはや罪がお互いないということは、この世の中のようではなく、もはや悲しみも嘆きも、戦争もなく、平和だということですから、それがいつになるかは知らされていませんが、その新しい世界を待ち望みたいと思います。同時に、今与えられているこの体における地上での生活において、日々神様に感謝しつつ、この喜びの福音(グット・ニュース)を知らない人々に伝えていきたいと思います。

 

「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。 」詩編39編7節

  

 *1 「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」 マタイによる福音書6章27-30節
 *2「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。」詩編39編4-5節



July 24, 2020

 弟子が師に習う

 

  「私は聖書に今日初めて触れ、話を聞いていてもちんぷんかんぷんだった。けれど、一つ興味深かったことは、キリストにはお弟子さんがいて、そのお弟子さんを派遣する時にちゃんと指示を与えて送り出していたということです。」私たちの教会では、毎週木曜の夜に聖書に親しむ会というのを開いていますが、これは初めて参加された方が言われたコメントです。この会では新約聖書の最初から順番に夫が解説しています。初めは夫婦二人だけでしたが、最近は教会のチラシを見て、聖書に興味を持ってきてくださる方、他教会の信徒の方が参加されています。そして今回は、その方のお友達も一緒に参加されました。その方曰く「彼女は無神論者なんだけど、面白いグループが益子にあるからと、連れてきたんだ」。その方が「面白いグループ」と思って参加してくれているのだと聞いて、私はとても嬉しく思いました。なぜなら、日々夫と、「新しい人を教会に送って下さい」と祈っているので、来る人数は少なくとも、確実にお祈りは聞かれているんだと、とても励まされるからです。


  「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。」*1とイエス様が言われたところを、今回の聖書の学びで触れました。これはある意味、一般社会では、当てはまらない事柄かもしれません。なぜなら、様々な師弟関係において最初は弟子は先生のもとで見習い、訓練され、そのうちある人は才能を発揮し、師以上になることもあるからです。そして今度はその人が師となって、次の世代のお弟子さんを訓練していきます。しかし、イエス様がいう天の国の世界では、神であるイエス・キリストという先生を私たち人間が超えることはなく、完全にまねることもできません。しかし、少しでもそれに近づけるように求め続けること、実はそのことさえ難しいのですが、聖霊の助けによって、イエス様の愛の心そして行動に近づこうとする、それで十分だと、イエス様は言ってくれているようで、出来の悪い私はとても慰められます。

 キリストから習うべき事柄で、最も大切なのことの一つに「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」*2とあります。神様の持っておられる愛の基準は、人間の能力を超える程高く、誰もそれを完璧にクリアすることができません。例えば、自分に敵対する相手を恨まずに、相手が神様に祝福されることを祈ること、親切にすること、赦せない相手を赦そうとすること、自分を犠牲にして相手のために何かすること。これらは特に人間関係において、簡単に出来ない、場合によっては不可能なことではないでしょうか。しかし、師であるキリストがこれらの愛を私たちに対して既に行って下さり、また今も、これからもこの愛で愛し続けて下さります。この愛はキリストの十字架に現わされています。

 キリストを信じ、従っていこうと思う者は、たとえ私のように失敗が多い弟子であっても、決して見捨てられることはなく、愛されているという安心感が与えられていて、このことは心の支えであり、大きな励ましでありす。この世で生活している限り、辛いこと、うまくいかないこと、悲しいことがたくさんあります。しかし神の子であるイエス様ご自身は、人としてこの世に来られた時、もっとも過酷な状況を経験されて、十字架を忍び、今は復活されて天国におられ、私たちのために日々生きて働かれておられることを覚えて、師であるイエス様を仰ぎ見て、イエス様に習って喜びを忘れずに、人生の道をゴールに向かって走り続けていきたいと思います。そのルートは長距離で、途中転んだり、歩いたり、止まってしまうこともあるかもしれません。しかし、私がその走るルートから外れないよう日々導いて下さっている神様を信じ、与えられている恵に感謝しつつ一日一日を過ごしていきたいと思います。

 

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」ヘブル人への手紙12章1-2節

  

 *1 マタイによる福音書10章25節
 *2 ヨハネによる福音書15章12節




July 12, 2020

 聖書と国家機密情報レポート

 

  「私は毎朝、二つ読む物がある。聖書と国家機密情報レポート。この二つを並べ置くことは非常に難しい。しかし、主が私にアメリカの人々を保護するために、これらの挑戦に正面から取り組むための知恵と忍耐力を与えてくれることを願い祈っています。」この抜粋は、アメリカ国務長官のマイク・ポメオ氏は、5月24日に流されたアメリカの牧師、グレッグ・ローリー (Greg Laurie)師*とのインタビューで言っていたことです。ポメオ氏はトランプ大統領政権で重要な役割を持つ人だと思います。次の大統領選挙を控え、クリスチャンの多いアメリカ国民に影響力のあるメガ・チャーチの牧師とのインタビューに応じることは、政治的意図があるとも察します。そうであったとしても、私は彼は嘘は言っていないと思うのです。あくまでも私の個人的見解ですが、アメリカの現政権で唯一、まともに見えるのはこのポメオ氏だけです。いずれにしても彼は立場上、非常にストレスもあり、頭の中を24時間回転させても足りない程の大変な職務についていると思いますが、それでもやって行けるのは、日々聖書を読んで、力を得ているからではないかと、このインタビューからも思わされました。

  一部の報道により誤解が多いのですが、アメリカのキリスト教の教会、特に福音派と言われる人々皆が現大統領を支持しているわけではありません、そのことは統計上明らかですし、私のアメリカ人のクリスチャンの友人でも、二手に分かれます。おそらく、ある人々は性格や人格的には現大統領に同意できなくとも、今建てられている国のリーダーだという理由で、聖書が言う通りに彼の為に祈っていて、それが政権支持という形に現れているかもしれません。私はアメリカに住んでいた時、このグレッグ牧師と同じグループのNYの教会に通っていました。NYの教会(Harvest Christian Fellowship NY)は、彼の教会の様にメガチャーチではなく、むしろ一時期より人数が減っていました。私がいた頃はちょうど、長い間借りていた礼拝場所もリースを終了され、小さい雑居ビルに移らざるを得なくなったという困難な時期でした。私たちはそれでも、教会の為に祈り、礼拝を捧げていました。人数が少なくなっても、グレッグ牧師は何度か、ゲストスピーカーとしてNYのHarvest教会にメッセージに来てくれていたことを思い出します。

   今特に、日本の政治家達の為に日々祈っています。彼らはクリスチャンではありませんが、彼らに神様の知恵と忍耐力が与えられて、国民を守り、今そこにある国家的危機に対する妥当な政策を打ち出せるように。自然災害、ウイルス感染拡大という、科学や人間のコントロールしえないことに対して、私たち人間が、己の弱さ、限界を認め、全てを創造され、コントロールしておられる神様に祈り求め、キリストに出逢えるよう、そして心に平安と恵が与えられるよう、祈って行きたいと思います。神様は求める人には、必ず与える方だと、聖書に約束されています。それは物質的なものだけに限るのでなく、信じる心、信仰も与えられます。神様を探せば見出すことができる、そして、閉じている門戸は神様により開けてもらえるからです。

 

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう」マタイによる福音書7章7節  

  

 

 *Greg Laurie (グレッグ・ローリー )は、アメリカの伝道師、ハーベスト・クリスチャン・フェローシップ教会の主任牧師。毎年アメリカ各地のスタディアムで、大規模な伝道集会を行い、多くの人がキリストを信じている。



July 5, 2020

 ラテンの人から学んだこと

 

  20年前のことです。スペイン在住の日本人の友人を訪ねるついでに現地の語学学校に2週間、観光で2週間というプランを建てて、独りでスペインへ行ったことがあります。ホームステイでお世話になったスペイン人の方から気付かされたことがあります。ホストファミリーのご主人がこういいました。「日本人は働くために生きるんだろう?わしらは違う、働くために生きているのではなく、生きるために働くんだよ!」(”trabajar para vivir y no vivir para trabajar”) 日本人はラテンの方々からすると、なぜそんなに働くのかと不思議がるほど勤勉なのでしょう。彼らは仕事は生活の為にするけれども、あくまでも仕事は生きることを楽しむための手段と割り切る人が多いようです。最近の動向は知りませんが、おそらく、これが彼らの仕事と人生に対する考え方の根底にあるものなのでしょうか。一方、人種的傾向性に関わらず、仕事をいい加減に、無責任に行うことは、常識的に許されない世の中です。なぜなら、お給料を支払われている限り、それに相当する労働力を提供するという契約社会の中に私たちは生きているからです。しかし、まじめに仕事していて、過剰な仕事の責任感に押しつぶされ、心の病を患ったり、過労死してしまったら、一体だれがその人の命の責任をとるのでしょうか。

  「仕事が出来なくなったら終わりだよ」病気になって、今迄の仕事が出来なくなったある日本人の方がこう私に言われました。そしてその方は絶望の中にいて、私がいくら励ましの言葉や、仕事だけが人生ではないし、生きていること自体が大切であることを言っても、耳を傾けてくれなかった、という悲しい経験をしたことがあります。仕事が生きがい、プライドとなることは良いことですが、それが全てになってしまうと、ラテンの人曰く仕事の為に生きている人生となります。もちろんそれ自体が良い悪いの問題ではなく、個々人の価値観だと思いますが、どんな人種でもどの職業についていたとしても、仕事より命、つまり生きることの方が優先順位が高いのではないでしょうか。

   仕事より人生を楽しむ、もしくは仕事が人生と、どちらか偏りすぎると、様々な問題が起こります。私は感謝なことに、キリストを信じて新しく歩もうと決めた時から、生きることへの価値観が変わり、これらのどちらにも偏らない、もっと大切なこと:キリストのために生きるという目的が人生の優先順位として与えられました。聖書では、勤勉に働くことの大切さが書かれています。例えば、2千年前すでに「この世の終わりがくる、キリストが再臨する!」と騒ぎ、どうせ終わりが来るなら働くのを辞めようといったクリスチャンがいました。それに対して使徒パウロは、きちんと働きなさいと下記の聖書の箇所にあるように戒めています。また、家々を回りゴシップをばらまく若い未亡人のクリスチャンが当時いたようですが、その人たちにもパウロは注意をしています*1。

    聖書では困った人の救済をし、慈善、施しをするようにも書かれています。ですから、心身的に病気があって働けない人は、社会の福祉的な恩恵を感謝して受け取られれば良いですし、働きたくとも働けない状況もあります。私も職がみつからない時期、病気で働けない時期などが過去あり、いつも働けていたわけではありませんでしたが、その時その時、周りの方々に支えて頂き、神様は私を養ってくださいました。また、この仕事をしてはならないとか、この仕事の人が素晴らしい、といった細かいことも記されていません。従って「互に愛し合いなさい」というキリストの教えから類推し、法律を犯したり、他者を傷つけたりするような仕事でない限り、その人が出来る仕事であれば、どんな仕事でも良いのです。すると、信仰生活が健全に日々続けられるという優先順位だけを残し、仕事を選ぶことにおいて、これでなくてはならないというこだわりが削られ、またことさらに或る職種を称賛、もしくは見下すこともなくなります。お給料に換算されない働き、例えば家での家事、子育て、ボランティア活動も仕事です。

    大変な、辛い仕事をしている方々に対して、日々感謝の念を持つことも大切であり、特に今の時期は、医療従事者の方々のために健康が守られるよう祈りたいと思います。信仰を第一優先にすれば、食べる者も与えられ、必要は満たされる(つまり仕事も与えられる)*2とイエス様は約束されているので、生活のことは思い煩わす、安心して、神様に様々なことを祈り、導きを求めていきたいと思います。

 

  「そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。 」テサロニケ信徒への手紙 第一 4章11-12節

 

 *1「その上、彼女たちはなまけていて、家々を遊び歩くことをおぼえ、なまけるばかりか、むだごとをしゃべって、いたずらに動きまわり、口にしてはならないことを言う。…反対者にそしられるすきを作らないようにしてほしい。」 第一テモテへの手紙5章13-14節

 *2  「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」マタイによる福音書6章33-34節


June 14, 2020

 親に倣う子供

 

  良好な親子関係を持つ人はとても恵まれています。そのような人は、自分を愛し、育ててくれた親を幼い時から見ているので、子供として愛されることを経験として知っており、自分が親になった時にそれに倣おうとするでしょう。一方で、愛を与えられ、守ってくれるはずの親から、虐げられ、最悪の場合には死に至ってしまう、もしくは生きていてもそのトラウマを抱えながら成人していく子供たちがいることは、悲しく、心痛むことです。そしてそのような親たちは、自身も子供の時に親から虐待されていることが多く、その結果どのように子供を愛してよいのかわからないという、不の連鎖の結果が現代社会で生じています。

  どの親であっても、人間ですから完璧ではないし、親になる心の余裕がない人もいます。また、虐待はされていなかったとしても、自分の親を尊敬できない人もいるでしょう。子供は成長するにつれ、親の欠点がだんだん見えるようになり、それにイライラしてマイナスの感情を親にぶつけることもあるでしょう。しかし、ある時気がつきます、それは鏡を見るように、自分も親と似たような欠点を実はもっていることを。そうなると、遺伝だから仕方がないとか、そのように育てられたから今の自分は仕方がないんだと開き直る人もいれば、反面教師といって、こうはならないようにしようと気をつける人もいます。いずれにしても、親との関係がぎくしゃくしたまま月日が過ぎていくのは悲しいことです。しかし、もう一つの良い道もあります。

   聖書では「あなたの父と母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」*1とあります。そこには「良い親の場合のみ敬え」という特記事項はありません。どんな親であろうと、親であるというその事実だけで、敬う存在とあるのです。なぜなら、自分の存在は親無くしてはこの世に命が与えられていないし、それも神様が与えた命だからです。親としての権威は、神からであり、子は親に従うようにと聖書では一貫して記されています。もちろん、親が不法なことをしろと命令したら、従う必要はないのです。神様は親に対しても「父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。」*2と言われており、主(神様)の薫陶と訓戒によって育てるのであって、自分の気ままな感情に基づいて、子に対する権利を振りかざして暴力をふってはならないし、不法なことを子供に命令することは主の訓戒に反します。つまり、親も子も第一に神様に従うことで、親子関係の秩序が保たれるわけです。

    「敬うなんて無理。」という人は、何かしら親に傷つけられて赦せない、もしくは自分ではなく他者にした親の行為が赦せない等、感情的には無理かもしれません。しかし、すべてを可能にすることができる神様にお願いすれば、いつか心の傷は癒され、好きにはなれなくとも親を赦せる日が来る、つまり、親が変わらなくとも、自分の側が寛容に変えられるということがあります。それは神様によって変えられるのです。

    人間の親は完全ではないけれども、私たちを創られた神様は完璧な親であり、完璧な愛をもって一人一人を子供として愛していることを知って、信じてほしいと願い、忍耐して待っておられます。もし、そのことを信じられれば、たとえ親の愛を知らない環境に育った人でも、聖書で記されている父なる神様の愛を知ることができ、倣うべき親のモデルが与えられます。下記の聖書箇所は、神様の子供として私たち一人一人がどれ程愛されているかが記されています。神様がどれ程わたしたちを愛しているかは、神さまの一人子、イエス・キリストの命を犠牲にしてまで、私たち人間を救おうとされたということに表されています。いったい、誰が他人の罪をつぐなうために、自分の子どもを身代わりに死刑という処罰を受けさせるでしょうか。神様はそれをして下さいました。私たち人間も神様が創られた神様の愛する子供で、その子供たちを滅びから救うために、神であるご自分の子、キリストの命を神様は犠牲にされました。

    また、父なる神様に従った子なるイエス・キリストを通して、彼の父なる神への従順と具体的にどのように人が互いに愛しあうかのモデルも示されています。その父なる神様とキリストを信じて、その愛を受け止められると、負の連鎖をする必要がなくなり、愛のうちに歩もうと心が強くされ、そして神様と共に困難な人生を歩んでいけるでしょう。そして、親を含めた他者を赦せるようになると、同時に自分の心の傷が癒され、神様の愛のうちに少しづつ心が平安に変えられていくはずです。もちろん、素晴らしい、尊敬できる親を持つ方々もたくさんいますし、そういう人は自分が受けた愛を自分の子や他者にも分け与えようという人徳が自然に身についているかもしれません。しかし、どんな優れた人でも、神様の愛を知らなければ限界があるでしょう。そのことに気がついた時、謙遜になって、自分には愛のないことを認め、神様の愛が与えらえれるよう、祈り求めたいと思います。

 

 「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 」 エフェソ信徒への手紙5章1-2節

 *1 出エジプト記 20章12節
 *2 エフェソ信徒への手紙 6章4節


June 13, 2020

 ガラス越しの面会

 

  先日、夫と一緒に高齢者施設に入っておられる教会の信徒の方に面会に行く機会がありました。面会も事前に予約し、当日は大きな移動可能なガラスのつい立がその方と私たちの間にしきりとなっておかれ、面会時間も15分以内でした。その方の元気なご様子を伺えて安心しましたが、あらため、”Withコロナ”の時代の面会方式なのだと思わされました。それでも、実際お会いできるのでネットによるリモート面会よりはベターだと思います。

  ”「解決」はできなくとも「解消」はできる”という日めくりカレンダーの言葉が目に留まりました。ガン哲学を専門とされる樋野先生というお医者さんが書いた本*の言葉ですが、このお医者さんはガンにかかった方とその家族に寄り添うために、執筆活動やセミナー、またこのような方々が自由に話しをし、それを傾聴するスタッフがいる「がんカフェ」を全国に広めた人です。多く方が彼の本のことばに励まされ、またそのカフェに行くことで”With病”という、いわゆる完治しなくともがんを抱えながらも前向きに生きていく勇気と励ましを得たことでしょう。

   時に、問題があまりにも大きく、長期的だと、何が根本的問題なのか、また何が今必要なのかもわからなくなることもあります。言葉に表せないということがあると思います。今朝読んだ下記の聖書の箇所に、私は再び励まされました。クリスチャンが持っている希望の一つに、そのような自分の混沌とした心の状態で、どう祈ったらいいかさえも、いや祈る気持ちの余裕がない祈れない時でさえも、代わりに心の中におられる、神様が与えてくれた聖霊(御霊)が、かわりに神様に祈ってくれるというのです。それも、自分の視点でしか問題の解決、解消方法が見えない場合も、それを超えた神様の計画、み旨にかなうように、代わりに祈ってくれるというのは、大きな安心感を与えられます。自分が祈れない時さえも、自分が知らないところですでに、聖霊がとりなしの祈りをしてくれているという、大きな神様への感謝とその懐の深い愛を覚えます。

    日々、色々なことが同時進行でおこり、対応したことないことを経験する度に、頭が回らない、結果ミスをするなど、自分の能力のなさに落ち込むことがあり、その最中には祈っている余裕もないというのが現実です。それでも、トイレに行った時、廊下を歩いている時など、時間を見つけて神様と会話をして、仕切り直していければと願いつつ、神様から頂く日々の恵に感謝して過ごしていきたいと励まされます。

    キリストを信じる信仰が与えられてからは、後ろ向きな考えをすることが少なくなりました。してしまったこと、おこってしまったことをくよくよ思い返さずに、今後は自分の思いではなく、「神様はどう考えられるかな」という思考回路にもっていくように努め、迷った時は答えを求めて祈り、苦しい時には助けを求めて祈り、物事を選択していくようになりました。それは、神様という方は私が何をしようと、しまいと、神様の計画通りに私が動かなくとも、それでも神様は私をそのまま受け入れ、罪を犯せば赦し、愛して下さっているという安心感が与えられているからです。私への責めも恥も、全てキリストが十字架で負って、代わりに死んで下さったのですから。

 

 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」ローマ信徒への手紙8章26-27節
 
 *「人生を変える言葉の処方箋」、樋野 興夫著、いのちこことば社フォレストブック発行


June 7, 2020

 「もしかすると、この時のため」と思えること

 

  「選タクシー」というドラマの再放送を見ています。このタクシーはタイムマシーンでもあり、もう一度その時点に戻ってやり直したいという過去の地点に戻れるという内容です。大概、過去に戻っても、今度は別の問題が生じてドタバタ劇となるという、とてもコミカルなドラマで、私は毎回ゲラゲラ笑いながら見ています。

  生きていると、良いこともあれば悪いと思えることもあります。嬉しい時、悲しい時、辛い時、恐れを感じる時。良いこと、楽しいことはそのまま受け入れられますが、例えば、自分の愛する子を突然病気・事故で失ってしまう悲しみ、今のように見えないウイルスがいつ自分の体内に入り、重篤になるのではないかという恐れ、孤独にさいなまれる辛さ、人にいじめられたり傷つけられたりする経験。。。誰でもその渦中にある時、「これはいい経験だ!」などど、肯定的にとらえることは難しいでしょう。私は20代の時アメリカに留学・就労したことがありますが、それは人生で辛い時期となり、無駄だったと思えました。出来れば過去に戻り、アメリカに留学せず、もう一つの選択肢:日本で福祉の専門学校に行く道を選んでいれば、もっと幸せな人生だっただろう、こんなに失うものが大きくなかったのにと、悔やむことが以前はありました。しかし、いくら悔やんでも、選タクシーに乗って過去に戻ることは出来ないのです。

   聖書には、過去が変えられた話は記されておらず、逆にその過去が意外な良いことに生かされたり、用いられたりする話がいくつか記されています。例えば、ヨセフという男性は、10代の時、他の兄弟たちに妬まれて、エジプトに奴隷として売られてしまいます。そのエジプトでも冤罪で牢に入れられたり、辛いことばかりでしたが神様への信仰は持ち続けます。牢に入っている時に出逢った人を通して、エジプトの王様からヨセフの知恵と夢を解き明かす能力を買われ、エジプトの総理大臣を任されることになったのです。これは、その地帯全体に酷い飢饉が起こる前のことで、神様はヨセフを通して、エジプトだけでなく、その周辺の国々の人々も穀物が手に入れられるよう計られました。これはヨセフが30歳になった時のことで、彼は10代で奴隷として売られた時に、自分がこのような役割を担うためだったとは想像できなかったでしょう。下記の聖書の箇所は、ヨセフの兄達へのヨセフの言葉であり、これも、この時のためだったのです。

  神様は一人一人の人生にその人にしかない計画を持っておられますが、一方で人には自由意志があり、自分で様々な分岐点で選択をしていき、その結果が必ずしも喜ばしいことばかりでなかったり、失敗を刈り取らねばならないこともおこります。神様はそれらを無駄なこととせず、私たちの想像しなかったような意外なことに役立てられたり、ああ、あのことがあったのも、この時につながるのだと思えるような展開に、神様が軌道修正をして導いて下さります。

  キリストを信じる信仰が与えられてからは、後ろ向きな考えをすることが少なくなりました。してしまったこと、おこってしまったことをくよくよ思い返さずに、今後は自分の思いではなく、「神様はどう考えられるかな」という思考回路にもっていくように努め、迷った時は答えを求めて祈り、苦しい時には助けを求めて祈り、物事を選択していくようになりました。それは、神様という方は私が何をしようと、しまいと、神様の計画通りに私が動かなくとも、それでも神様は私をそのまま受け入れ、罪を犯せば赦し、愛して下さっているという安心感が与えられているからです。私への責めも恥も、全てキリストが十字架で負って、代わりに死んで下さったのですから。

 ちなみに、日本に帰国してしばらくしてから福祉の専門学校に行く機会に導かれ、仕事も与えられました。そして、アメリカに住んでいた時に得た様々な経験、多くの人との出会いは私にとって貴重な宝となり、これらが相まって今の自分があることを、神様に心から感謝しています。
 

 「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。 」創世記50章20節
 


May 27, 2020

 資金なし、人材なし、自粛でも、ゴスペル!

 

  私たちの家では、いつもゴスペルソングが流れています。車で移動する時もCDをかけて、自然に口ずさみ、歌っています。我が家でこのような習慣となったのは、ちょうど一年程前、牧師である夫が、「来年4月から、教会でゴスペル賛美礼拝を始めようと思う」と言い出したことに始まります。今迄も、賛美歌やプレイズソングは聴いたり、礼拝で歌っていましたが、2020年4月から、今迄の土曜礼拝に加え、日曜日に新たなスタイルの礼拝を始めることを考え、二人で色々相談してきました。このゴスペル賛美礼拝では、ゴスペルソングを皆で歌う時間を長くとり、聖書のメッセージは子供でも、初心者でもわかりやすい簡潔な内容にし、地域の人が気軽に来られるスタイルの礼拝を始めることにしました。

  そのための準備として、昨年から那須塩原市のゴスペルクワイアー(ミンゴス)の練習に参加をし始めました。そしてなるべくたくさんのゴスペル賛美の曲を聞き、自分たちが歌えるようになり、遂には礼拝に参加する人々の賛美をリードできるようにまでなれればと願い、既にそのような礼拝をしている他教会の人々からアドバイスを頂いたり、話を聞いたりしてきました。以来、私たちの頭の中にはいつもゴスペルが流れ、時折どちらともなく、森を歩いていても、車を運転していても口ずさむようになっています。一方、あまり音楽的才能のない私たち夫婦には、途方もなく難しいプロジェクトに思えました。まず、二人共ゴスペルをリードできる楽器を弾けないですし、私はせいぜい従来型の礼拝で賛美歌を奏楽する程度のレベルで、ゴスペルをキーボード等で自由自在に伴奏する才能はどう頑張ってもないのです。しかし、いつか演奏の才能がある人、教会でゴスペル・クラスをひらけるような人材を神様が送ってくださること祈り求めながら、とりあえず今は生演奏でなくともゴスペル賛美を歌っています。

   賛美は力です。一般的に音楽は人の心に影響力がありますから、なおさら賛美は歌詞の内容が聖書のことばであったり、神様への祈りであったりするので、歌っていると励まされ、くじけそうになっても力が与えられます。賛美で重要なのは、誰に向かって、何のために歌うのかという点であり、コンサートのように自分たちを喜ばせたり、観客を楽しませるためでは本来ありません。つまり賛美は神様に向かって、神様を崇める為、感謝を捧げるために歌うのであり、心がこもっていれば奏楽や音楽のジャンルに関わりなく、神様に受け入れられるのです。もちろん、それに加えて、レベルの高い演奏、コーラスがあれば素晴らしいことですし、神様を信じていない人は是非ゴスペルを聞いたり歌ったりするのを楽しんで頂きたいですし、それはそれで素晴らしいことです。ただ、信徒にとっては賛美は礼拝、神様への感謝の捧げものだからです*1。

  一般的には、才能や技術、知識、経験がある人々を集め、それに基づいてプロジェクトを準備し、広告宣伝をして人を集め、開始していくというのが事業です。しかし、キリスト教の教会の伝道に関しては、必ずしもそうではなく(もちろん、これらがすでに与えられていれば恵ですが)、一番大事なのは、神様からその牧師やリーダーに与えられるビジョンです。「 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」*2 と聖書に記されているように、自分たちのやりたいことを行うのではなく、神様がなさりたいことを私たち信じる者がビジョンとして捉えて、祈りながら、計画を進めていきます。そして、必ずしも計画通りにいかないことが多々あります。しかし、神様はもっと大きな視野と時間の流れの中で、そのビジョンがなされるように導かれることがあります。それは人間には見通しがはっきりしないものなので、そこで問われるのが信仰です。神様への信頼と、聖書で約束されている多くのことばに裏付けされた確信が信仰として私たちに与えられ、それだけが頼りです。必要なことはその時期に与えられる、チャンスも与えられるという希望によって、前向きに日々生活をしていけることは本当に神様の恵です。

  私たちの教会は資金もない、人もいない、まして、この春から新型コロナ感染拡大で3密自粛という社会となり、教会の宣教にとって全ての状況が不利に転じたかのような幕開けとなりました。地域のゴスペル・グループをゲストに迎えてのイースター礼拝は延期、教会の集会を積極的に広告宣伝できない状況下。それでも、私たちは神様が一年前に夫にその志を与えたのだから、それが神様のみ心にそう計画であれば、下記のみ言葉のように、必ず福音のよい業を始められた神様(主)が完成させてくださると信じつつ、この4月から二人だけでも集会を続けてきました。土曜・日曜の朝の従来のスタイルの礼拝、そして、日曜午後にゴスペル賛美礼拝、そして夕礼拝、木曜夜の聖書の学びの会と開き続けてくると、以前から土曜礼拝に来て下さっていたが方々を中心に、数人の方々が参加されることもあり、少人数なので自ずと3密にならず、マスク・消毒をして細々と毎週礼拝を神様に捧げられていることは、この上ない恵であり、感謝の想いで一杯です。

 このように、私たちの弱いところにこそ神様の御業が力強く働かれるというみことばに励まされて*3、実際たくさんの恵を神様から受け礼拝を続けて約2ヶ月が経とうとしています。このことは、多くのキリストにある兄弟姉妹たちのお祈りと献金によるもので、彼らを通して、主から与えらている恵です。その方々に、主にあって心から感謝するとともに、引き続き教会で感染が起こらないように対策は取りつつ、徐々に社会情勢に合わせて、延期している宣教活動がなされていくことを願い、自分たちだけでなく、日本の、世界の教会のために、日々祈っています。こんな時だからこそ、神様を求める人々が一人二人と教会を訪ねてくると信じ、主に期待して、今出来る事をこつこつとしていこうと思います。
 

 「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 」ピリピ人への手紙1章6節
 

*1「だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。 」へブル人への手紙13章15-16節
*2 ピリピ人への手紙2章13節
*3「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」第2コリント人への手紙12章 9-10節

May 22, 2020

 病からの回復、その後の苦しみ

 

   “…we are like pariahs.” (私たちはまるでのけ者だわ) *1 これはアメリカの新聞記事から引用ですが、アメリカで新型コロナにかかり、ようやく回復、陰性反応も出て、家に戻ることが出来た後、自身の存在が病から生還した証として人々の励ましになると期待し、血漿を寄付して治療に貢献できた者として意気揚々と戻ってきた人々に起きた悲劇が報じられていました。現実は、近隣の人や家族からあたかも伝染病患者と接触をさけるような態度を取られます。ショートメイルで連絡しても、返事はこない。近所を歩いていると、自分を見た途端、走って逃げ去る近隣の人々。治ってから数週間たち、別件で入院し(住んでいたマンションが火事になり、煙を吸って入院)、病院側から、本人が家族と会いたいと言っていると伝えるも、家族は会うことを拒絶。多くの新型コロナウイルス・サバイバーは病気には打ち勝っても、周りから隔離され、精神的に追い詰められているという記事を読み、心が痛みました。

  アメリカの感染者数は、人口も異なるので日本のそれと比較にならない程未だに多いのですが、それでも減少しているとされ、徐々に経済活動を再開する政策が取り始められているとのことです。しかし、治った人々が職場や地域に今まで通りに復帰できるかどうかは、そう簡単ではなく、様々な問題がこれから出てくるのではないでしょうか。日本も同様です。日本では、感染していない医療従事者の子どもたちさえ、保育園の預りを拒否されることがあります。どの国でも、恐れが偏見を生み、そして酷い場合はそれが暴力的行為になり、新たな犯罪に繋がる可能性があります。もし、自分が、身内が感染したら、陰性反応がでるまで他者と接触はできないし、ある程度の期間孤独に耐えなくてはならないのは仕方がないことですが、その間リモート面会や電話で話すなどなんとか会話をしたいものですが、社会に戻って差別的待遇を受けることは辛いです。

   イエス・キリストは2千年前の社会において、伝染病のゆえに隔離されていた人々に接し、その病を癒やされたり、罪人として社会からのけ者にされ、食事も付き合いもしてもらえない人々と共に食事をされたと聖書に記されています。なぜそのようなことをされたのでしょうか。まず、イエス様は神の子でありましたが、人の体をもって生まれてきたので、お腹もすくし、疲れる、つまり人と同じ条件の肉体を持っていました。その上で、人の痛み、孤独、蔑み、悲しみ、そして十字架刑での拷問と死、とおよそ人が経験するであろう全ての苦しみを経験されたので、人の気持ちに同情できるお方です*2、今迄一体だった天の神様とも、十字架で死なれ3日後に復活されるまで断絶され、独りで全人類の罪を負われました。下記の聖書の箇所は、預言者イザヤがそのイエス様の救い主としてなさることを預言した箇所です。だから、そのような差別された隔離された人々に寄り添えたのです。彼は人々の物理的・精神的苦しみから解放することが出来る救い主として、この世に来て下さったのです。それは、イエス様と天の神様が人を愛するがゆえです。そしてイエス様が十字架の死で終わらず、復活されて今も天で生きておられるという信仰によって、信じる者に希望が与えられます。

  人は独りでは生きていけない、社会的な生き物です。しかし人の中に罪と恐れがある限り、差別や偏見はなくなりません。たとえ、家族からも見放され、全ての人から拒絶されたとしても、全ての人に同情出来るイエス・キリストだけは見捨てないという約束*3は、大きな励ましです。私は彼らのような差別や隔離された経験はありませんし、比較のしようがないですが、孤独の体験、全て悲観的にとってしまう時期はありました。大きな病気をした時、しばらく手術後体力もなく体の痛みもあり、仕事や教会へ行くことさえも出来ない、家で、家族とも離れて暮らしていた時、本当に孤独でした。後に仕事に戻ったとしても、一人暮らしなので、だれとも話すことがない日もあり、寂しいと感じていたことは何度もありました。それでもなんとかやってこられたのは、イエス様が共にいてくれるという信仰に支えられていたからでした。目には見えなくとも、イエス様が聖書の言葉を通して、祈りを通して、私が孤独に押しつぶされないように寄り添って下さったからです。その経験を通して、主イエス様は生きていて、私を愛し、辛い時には助けて下さる、強めて下さる優しい方だと信じられるのです。

  今、孤独の中にいる方々が、神様に助けを求めて、祈り、そしてなんとかこの辛さを乗り越えてほしいと願います。社会から取り残されたように感じる時があったら、その時こそ、SNSで呟くより、神様に祈り求めるほうが良いと思います。他者は自分が期待した通りに自分を理解してくれないし、動いてくれません。その辛さを神様に叫んだ時、神様それを聞いておられるので、その後、心に平安が与えられ、独りでも、心が強められて、一日一日を乗り越えられたという経験をすると、次回に何か起きた時、それを思い起こして励まされるからです。そして、立ち直ったら、今度は自分が、孤独の中にいる人の少しでも励ましになればという心が与えられます。神様の愛は自分が受けたら、他の必要としている人へ流すという愛の連鎖、それが神様が望んでおられることでもあり、そのような機会が与えられればと願います。

 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」 イザヤ書53章4-5節
 
 
  *1 “They Beat the Virus. Now They Feel Like Outcasts.” By Sarah Maslin Nir, May 20, 2020, New York Times.
*2 「この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」 へブル人への手紙4章15-16節 ()は追記
*3 「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。」へブル人への手紙13章5 節

May 19, 2020

 政府を批判する代わりに

 

  マスクが来ない!10万円の給付金の案内が来ない!休業補償が十分じゃない!経済の回復をどうするつもりか!「緩み」とか言わないでほしい! メディアでも、人との会話でも巷ではこのような政府に対する不平、文句のことばが飛び交います。私もうっかり、家族に言ってしまいがちです。しかし、不平、批判を言うのは簡単ですが、ではもし自分が政治家たちの立場だったら、もっと良く出来るのか?と問いつつ、批判するのを止めて、彼らが適正で知恵を得た政策を施行していけるように、日々祈ることにしています。そして、すべて政府が解決してくれると思わず、新しい生活スタイルに自らどう行動していくかを考えた方が、建設的で効果的ではないかと、自分自身に言い聞かせています。

  第35代米国大統領 のジョン・F・ケネディ氏が就任時のスピーチで、「あなたの国があなたのため に何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるか考えてみましょう 」といったのはある意味、的を得ていると思います。結局、国というのは国民全体の協力がなければ、いくら政治家だけが法律を整備し、政策を打ち出しても、その主体は国民です。もちろん、お上に盲目的に従うのではなく、独裁的、不条理な政策に対しては、非暴力的方法で声を挙げてそれをストップさせなければならない時もあります。しかし、今のように、国民の安全を守ることと経済活動のバランスをどう保っていくかは政府にとっても困難な課題であり、段階的政策が必要です。政府も試行錯誤をせざるを得ない状況とある程度理解しようと務め、批判ではなく、どうしたら互いに協力しつつ、生き残っていけるかを模索していかなければならない時ではないでしょうか。

   キリストの使徒パウロは、2千年前のローマ帝国独裁政治時代の人でした。その信仰ゆえに、政府から迫害され、投獄、最終的には死刑に処せられたと伝えられています。しかし、彼は迫害されても忍耐し、今日の聖書の箇所は、彼がその迫害の最中で書いた、テモテという自分が信仰を育てた教会のリーダーへの励ましの手紙の一節ですが、そこで王や上に立つ政治家たちのために祈りなさいと勧めています。自分の家族が処刑されたり、自分も地下で隠れて生活しなければならないという状況であれば、革命を起こして武力で政府と対決することで平和を得ようとするのが、人間が今まで歴史的に繰り返してきたことです。しかし、真のキリスト者は違います。どんな政治家であっても、その人たちのために祈ることが神様の愛の実践、平和へ至る道だと、これはキリストご自身が言われてきた教えにそっています(前日のブログ参照「祝福するとは」)。この時代の上に立つ政治家とはローマ皇帝で、しかもクリスチャンに対する最も残虐な迫害で有名なネロ皇帝でした。自分を迫害する相手のために祈る事で、祈っている私たち自身が、安らかな生活を送り、信仰を持ち続けて過ごせると記していて、それが神様のみ心にかなうことだからと説明しています。祈っていても表面的には不安定で苦しい生活が続くかもしれませんが、心の平安、信仰は持ち続けることは可能であり、心の中でどう思うか、信じるかまで、他者や政府がコントロールできないですし、誰もこの信仰を取り去ることは出来ないのです。

  日々のニュースで政府の政策が報じられる時、批判的な気持ちが沸いてきたら、それを「神様、彼らに知恵が与えられ、国民の生活のため良い施策が行われますよう、彼らを導いて下さい」と、出来るだけ具体的な願いも含めた祈りに変えていこうと思います。そして、たとえ状況が思わしくなくとも、祈るときには感謝できることを見つけて、神様への感謝を忘れずに、そして神様は人間を大切に思って、救おうとしておられる全能のお方であり、必ず良い方向に導いて下さる方だと信じて祈り続けようと思います。

  

 「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。」第一テモテへの手紙2章1-3節
 

May 18, 2020

 祝福するとは

 

  葬儀の時、弔辞、追悼の言葉が述べられる機会が多いと思いますが、その場合、故人を偲んで、その方との良い想い出が語られたり、その方の生前の立派だったこと等、通常良いことが述べられます。たとえ、その故人があまり良い人でなかったとしても、特に功績があった人でなくとも、その人の良かったところが語られるでしょう。なぜなら、その亡くなった人がたとえどんな人であっても、葬儀の時に故人を悪くいうものではないという、葬儀での礼儀があるからです。

  先日、教会に来た方が礼拝後に突然こう言いました。「相手を赦すっていうのは、出来る事じゃないですね」と。具体的になぜ、誰をどうして赦せないのかについては話されませんでしたが、同時にその方はこうも言われました、「不思議なことがあってね、昨日まではこれはおかしいと思っていたことに対して、今日、教会の礼拝に来たら、自分の中で納得してしまったんですよ。」これについても、具体的に何に対して違和感を持ち、そして翌日には大丈夫になったのかをその方は話されませんでしたが、聞いていた私たちがわかることは、その方は土曜も日曜も、教会の礼拝に来ていたことです。

   聖書の言葉は科学の本でも、小説でも哲学書でもないので、理論的、この世の常識では理解できない箇所があり、また矛盾すると思われる箇所があると思います。しかし、聖書は信仰を持って読むとき、自分の知識で理解するものではなく、その時その時に、インスピレーションと表現されるでしょうか、「あっ、そういう事なのか!」とひらめいて、心にストンと落ちるかんじでその内容が理解できることがあります。ですから、私も聖書で何度も同じ個所を読み、牧師さんたちからそのメッセージが語られていても、以前はわからなかったところが、その時には理解が与えられることがよくあります。つまり、私の信仰の成長の度合いに応じて、理解できるように不思議に神様が心の目を開いて下さるのでしょう。

  下記の聖書の箇所は、この箇所だけ読むと、「あっ、これ無理。そうすべきと頭ではわかっているし、キリストの教えだからそう出来ればと願うけど、実際は難しいですよ」と、先の方と同様、クリスチャンでさえも、赦せないと諦めてしまいう相手がいるかもしれません。今日、ある牧師から教えられたことは、ここでの「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい」の「祝福する」ということばの原語(eulogeo)の意味は「弔辞」eulogy:英語 と語源が同じで、相手のことを良く言うという意味だそうです。「神の祝福がありますように」(May God Bless You)のように、神が主語で人を祝福する場合は、神が人に恵を授けると言った意味合いになりますが、人が主語の場合では、相手のことを良く言うと言い換えることができます。相手を赦せなくても、嫌いでも、自分に対して敵対してくる人であっても、キリストの教えは、その相手のことを良く言いなさい、そして呪いのことば、つまり悪口をいってはならないということです。もしくは、自分が積極的に相手を良く言える余裕がないのであれば、渋々であっても、「神様の祝福があるように」と相手の為に祈ることから始めることができるのではないでしょうか。

 キリストを信じると心に与えられる聖霊は、わからなかったことに理解を与えたり、忘れていたことを思い起こし*、不思議に心が変えられているとい現象のように、例えば、赦そうという心に導く働きをされます。聖霊は目に見えませんが神の霊であり、人がキリストを信じる前はその人の傍らから、つまり外側から、聖書の言葉だけでなく、人の言動をも通してその人の心に働きかけます。そして信じる心に導き、その人が信じると聖霊は心の中に入って、その人の内側から静かに語り掛け、導きを与えます。常識的に、理論的に、性格的に、「これは無理」と諦めていたことも、そのことが人との平和に繋がること、神様の愛に繋がることであれば、神様は必ず相手を赦せるように心を変えて下さる方です。赦すとは、その人が赦すに相応しいから赦すのではなく、単に弔辞では良いことしか言わないものだという礼儀以上に、キリストが自分をそもそも赦してくれたのだから、自分も人を赦そうと決めること、そして時間がかかっても赦す心に変えられるまで神様に祈り求めることが必要だと思います。そうすると、いつか、ある時、「不思議なことがおこったんだよ」という経験をし、相手に対する苦い思いが心を支配することがなくなり、心が解放されることでしょう。
  

  心の内で、何か赦してもらうべきことがありますか?自分を傷つけたことを赦せないという憎しみ、ある人を嫌い続ける苦い思い、傲慢な思い、人に言えない過去にしたことと、それによる罪責感、強迫観念、そして神なんかいないという思い。。。どんなことであっても、神様はキリストを通して、赦して下さる方です。ただそれを神様に持っていけば良いのです。自分自身が神様に赦された経験をした人は、人間同士の関係において、たとえ相手がどんな人であっても赦そうという思いに導かれるからです。
  

 「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」ローマ人へ手紙12章14節
 
 *「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 」ヨハネによる福音書14章26節

May 13, 2020

 自然との調和

 

  ハーブといえば、ミント、カモミール、ローズヒップなど、ハーブティー、またお料理や、アロマセラピーのオイルにも利用され、その独特の良い香りが心身のリフレッシュに効果があるといわれる植物です。その歴史をたどると、古代からハーブは薬として用いられていたようで、中世ドイツの修道院の院長のヒルデガルト*1という女性はハーブを研究した人物として有名だそうです。ハーブ薬は自然のものですから、科学的に造られた薬の様に即効性がないかもしれませんが、人の免疫力を強める、つまり自分の病気に対する抵抗力を強めるという作用があるのでしょう。ちなみに、修道院というと、修道士・女が隠遁生活をして宗教活動だけしているイメージがあるかもしれませんが、その所属しているカトリック教会の会によって様々で、ワインやクッキーを作って市場に出荷するところもあれば、大学の教授も兼ねる、つまり教育、福祉、慈善団体の職員もしたりと、社会の中で活躍している人が多いことがわかります。ちなみに、栃木県の那須にある修道院ではクッキー(ガレット)を作っていて、地域で広く「トラピストクッキー」という商標で販売され、とてもおいしいです。

  ハーブとまで特定しなくとも、植物自体に何か自然由来のもので、人の心身を健やかにする成分を放っているように思えます。森林浴と言われるように、様々な種類の草木、樹木からなる森の中はマイナスイオンがたくさんあり、それが体をリフレッシュさせると言われます。私が住む地域は自然が豊かで、近くにちょっとした森があり、時々朝早に1時間程そこを歩くことができます。そこではほとんど人と会うことなく、鳥のさえずりだけが聞こえます。日に日に新緑が濃くなっていく森の中を歩いていると、日々報じられる危機的状況を一時でも忘れることができ、むしろ自然という生態系の中で人間がいかに小さな存在であることを思わされます。自然は厳しい面もありますが、すべての生物が共存できるよう、神様は当初この世界を創られた時、「それは、はなはだ良かった」*2とコメントしているように、全てが最初は調和していたのでしょう。

   神様は人に自然を「治める」ように命じていたことが聖書に記されています*3。この「治める」という表現には、国王が国を治める(reign, rule, have dominion)と言った意味をもつ原語が使われているように、秩序を保ち、平和的に統治することであり、よって、人が自然を自分の利益のために過剰に使ったり、遺伝子組み換えをして人工的な穀物を造ったりすることではありません。神がこの天地を創造したことを信じない人であっても、現実的に人間がどれ程自然環境を破壊し、その結果、多くのひずみを引き起こし、異常気象、自然災害となっていることは気がついているはずです。そして人は、それを科学的方法で取り繕おうとして、また生態系バランスを崩し、新たな問題を起こしていく、負の連鎖を続けているように思えます。

 20世紀以降、サービス業の増加に伴い、便利で効率的な世の中になっているかもしれせんが、それだけエネルギーを必要とします。それには原子力発電や原油の消費が伴います。掘削による地下資源の枯渇、原子力発電所の事故による被害と、いくら一人一人の市民が環境のために資源を節約、エコ活動していても、一方で大規模に24時間営業のサービス業等がこうこうと電気を使っている現実を見逃してはなりません。病院・施設や警察など24時間交代制が最低限必要である職種を除き、夜中まで営業する必要があるのか、夜中まで習い事や塾で勉強する必要があるのか、高級品の消費がこれ程必要なのかを、今の自粛という新たな生活スタイルが長期的になる可能性に伴い、見直す必要があると私は思います。もっと良い生活をしたいからお金を稼ぐという必要性と、企業がもっと収益を上げるための雇用増加という需要と供給が見合い、生活が忙しくなり、複雑になり、ストレスも増大していく世の中。これがもっとよい生活、人にとって幸せなのでしょうか。
  

 自然との調和。シンプルな生活。そもそも神様が創造された世界では、神と人との関係、人と人との関係、人と自然との関係の中に調和と秩序、そして相手や自然を大切に思う心がベースになると思います。それには、まず下記の聖書のことばのように私たちが神様との和解が必要で、そのためにすでに神様はイエス・キリストをこの世に送ってくれているのが、Good News(福音)です。和解をさせて下さったキリストに感謝し、日々自分の自己中心的な思い・行動を悔い改めて、自身の心が自然に対しても人に対しても平和的になれるよう、聖霊の力で変えられていきたいと思わされます。
  

  「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」 コロサイ人への手紙1章21?22節
  

 *1 ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen, 1098〜1179年) ドイツ・ビンゲンの地に自ら作ったのベネディクト会系女子修道院の院長で、医学・薬草学の研究をし、「ドイツ薬草学の祖」と呼ばれる。
 *2「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。 」創世記1章31節
 *3「神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。」創世記1章31節

May 10, 2020

 病の癒し

 

  先日、競泳日本代表の選手で、白血病が一年前に発症した方のその後のドキュメンタリーをTVで観ました。彼女はたった一年で闘病生活から復帰し、ジムでトレーニングを開始し、そしてとうとうプールで軽く泳ぐことまで出来たという、その時の彼女の笑顔に感動しました。残念ながら、その直後、コロナウイルス感染拡大の為、屋外でトレーニングを続けられなくなりましたが、彼女は今も家の中で続けているそうです。自分のこれからの使命としては、病気の人に回復の希望を与える為に自身も頑張りたいと、また、新型コロナだけでなく、その他の病気と闘っている人もいることを覚えていてほしいとも言っていたのに感銘を受けました。誰でも病から回復したいという思い、それが難病であっても、諦めずに前向きに闘病される方々にとって、彼女の発信により、どれ程勇気づけられることでしょう。

  先月、アメリカの実話を基にした映画を観ました*。あらすじは、主人公の小学生の女の子が突然腸の難病を患い、物凄い痛みに日々苦しむも、その原因も分からず治療法もなく、家族は飛行機でテキサスからボストンまで権威ある小児科専門医に通いますが、治る兆しもなく、経済的にも追い詰められます。その家族はクリスチャンで、家族皆で教会に通っていて、家族は必死に神様に癒しを祈りますが、その母親は神に求めても無駄だと信仰を一度諦めます。ある日、その子が(おそらく白血病で)入院治療中の同室の女の子に「死ぬのが怖い?」と尋ねます。そして、「イエス様が共にいるから、怖くないわよ」とその子に説明するのです。その後、主人公の女の子は家にいる時に木から転落し、一度死にかけましたが、なんとその難病もその時に治ってしまったのです。彼女が言うには、意識を失っている時、一度天国に行ったのだけれど、地上に帰れと神様に言われたと言います。もちろん、それを信じる、信じないは個々人の自由です。むしろ私が感動したのは、その子が生き返ったこと以上に、その後同室だった子が死んでしまったのに、その父親が神を信じたという告白でした。普通だったら、子供が癒されれば信じそうなものですが、この同室の子の父親は当初、「宗教の話をうちの子にしないでほしい」と、主人公の母親に言った程でしたが、その後、自分の娘がイエス・キリストを信じて、死を恐れずに、安らかに亡くなっていった様子を見て、神はやはりいるのだと信じたということに、感動しました。

   人は病気になり、ある人は助かり、ある人は亡くなります。それがなぜなのかは私たちにはわかりません。誰でも懸命に努力して、復帰できれば素晴らしいことです。では、亡くなってしまう場合には希望はないのでしょうか。私は、この同室の天国に安らかに召されていった少女のこと、そしてその父親のことを知り、少女の死自体は父親にとって想像を絶する悲しみであり、慰めが必要ですが、この死は絶望に終わらず、父親の人生を全く変える力が現わされたと思います。そして、この映画を観た多くの人々に、特に病気の家族を持つ人々にとって、たとえ病が治らなかったとしても、希望を与えると思います。その希望とは、イエス・キリストを信じて、生きている間に起こりうる様々な困難なことに対して、全ての悲しみも、苦しみも、神様の不思議な仕方により、信仰により乗り越えられること、そして天国でも命が続くという希望です。神様は真実な方ですから、無意味に私たちに苦しみや悲しみを与える方ではありません。なぜなら、神様は私たち一人一人を大切に思っていて、愛しておられる方だからです。ただ、神様の考えていること、その計画は私たちには理解を超えます。わからなくとも、その真実であることは、このような多くの人々の証から、立証され、励ましが与えられることが本当に感謝です。

 新型コロナウイルスにより、多くの人々が命を失い、アメリカでは子供たちが新たな病気にかかっているそうです。家族を失われた方々に深い慰めと、いつか希望が与えられるように、今闘病中の方々が癒されるように、日々祈り続けます。
  

 
  「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 」 Tコリント10章13節
 

May 9, 2020

 プレッシャーに感じる時

 

  何があなたにとって、プレッシャーとなりますか?仕事、学業、人間関係。。。私の悪い傾向性は、不必要な、存在しないかもしれないプレッシャーに苛まれることが時々あることです。例えば、頭の中で、誰かに「これはどうなっているのか?」とまだ実際問われていないうちから、責められる思いにかられ、それに対して言い訳を考えたり、あせったりします。そしてそれは時々夢に現れます。夢では、若い時に卒業したはずの大学の時代に戻り、単位が足りなくて卒業できないと焦っていたり、中学生の時の場面に戻り、試験勉強に間に合わなかったり、退職した会社の場面になって、出勤しようとするとなぜか職場に行くことを妨げられ、無断欠勤となり焦るなど、そのような類の夢を時折みるので、私の目覚めている時の思い煩いが起因していると思います。その思考が頭に湧いてくるきっかけは、たとえばある人(たいがい、以前からその人と緊張関係にある、自分にとってはちょっと苦手な人です)から、連絡があったりした時です。すると、それに対してこう言おう、ああ言おうと頭の中でぐるぐる考え、メイルで返信を打った後にも考えてしまうのです。もちろん、相手は私がそう感じているとは思っていないでしょうから、意味のないことなのです。

  このような思いに捕らわれた時、神様に何度もここから、解放してください、相手に対する恐れや苦手と思ってしまう心を変えて下さいと祈ります。そして、神様はこんな情けない私をかわいそうに思って下さる、慈しみ深い方であり、解放してくださる方であることに感謝します。なぜなら神様は私を責める方ではないし、他者との関係で平安な気持ちをもってほしいと願って下さる方だからです。ただし、私が何か罪を犯していれば、私の心にいる聖霊が「それは良くない」と、静かに語り掛けてくるでしょう。その場合は、悔い改めて、その罪を私がストップするために、心が責められる必要があります。

   下記の聖書のことばは、キリストの使徒パウロが記していますが、キリストを信じて、主と呼び、キリストに仕えようという人生に変えられるので、一人一人が神様からこの地上でキリストの福音宣教に関わることを何かしら任されている、管理者だという文脈で書かれています。しかし、神様はその任していることを私が失敗したり、出来ないです!と完成できなくとも、私を怒ったり、責めたりしません。もしかしたらそのことを神様は残念に思うかもしれませんが、私がしなければそのタスクを他の人に任せ、その人が神様に用いられるでしょう。そして私の信仰の力量に合わせて、別のことを任せようとされます。これは実際、私の信仰の歩みを振り返ってみると、そういうことがありました。私はこの世的に言えば出来の悪い娘であり、もし神様の恵みの中におかれていなければ、神様との関係においてもいつもプレッシャーに追われ、平安でいられなかったでしょう。

 この世では、管理者というのはそれなりの力量、能力を持っていないと任されませんし、それなりの報酬を組織から与えられているので、失敗すればすぐに外されます。ですから、管理職というのはいつもこのようなプレッシャーを持ちながら仕事をしなければならない強さが必要でしょう。しかし、信仰の世界では成果主義ではないので、管理者に最低限も求められていることは、誠実であることだとパウロはあえて、言ってくれているのは私にとって少し慰めとなります。なぜなら、私は管理者にとうていふさわしくない者、神様が任していることをきちんとできていない者だからです。しかし神様に対しては、プレッシャーを感じたり、責められる思いに捕らわれ、言い訳を考える必要がなく、正直に、できません、助けてくださいと祈ればよいからです。すると、明後日の方向から助けが与えられてそのことが完成できるか、もしくは状況が変わり、それをしなくともよくなったりします。時には、神様に対して誠実になれない時もあります。その時こそ、聖霊が私の心に悔い改める思いに導き、ごめんなさいと神様のもとに立ち返る時です。
  

 神様が私の弱さをそのまま受け止めて下さる方であることに安らぎつつ、プレッシャーに感じてしまう相手への気持ちが平安に変えられることを求め、また神様から任されていることが何かを見極め、それを自分の力ではなく、神様の力によって成し遂げられるよう、少しづつ信仰において成長できるよう導いていただきたいと願います。

 
  「この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。 」 第一コリント人への手紙4章2節
 

May 2, 2020

 確実性にもとづく安心と不確実性における信仰

 

  今朝のニュースにおいて、学生たちへの9月入学制度導入の賛否とその理由についての、アンケート集計の結果が報じられていました。日本社会では、社会全体の年度始まりが桜の季節である4月であるものを、欧米の入学時期である9月に変えるということは、教育制度にとどまらず、日本の社会制度を大きく変えうる政策であります。学生のみならず大人も、そのような変化によって生じる不確実な未来に対して、懸念を示す人のほうが多いことでしょう。一般常識的に考えると、不確実なこと、先行き不透明なことは”良くないもの”として、私たちはとらえる傾向があります。一方、コロナ感染脅威により今迄のように事が進まない時期に、前向きになんとか対処しよう、乗り越えようとして、危機をチャンスとして捉えている方々もいるということは、励まされます。

 

  信仰の世界というのは、人間の思い中心ではなく、神という存在がベースでありますから、このような確実性に縛られることはありません。イエス・キリストは十字架に架かる前に、弟子たちに大切なことを話されました。彼らはよく理解できず、先生はどこへ行ってしまうのだろう、これからどうなるのだろうという不安な気持ちになり、そこでイエスは弟子たちに、こう言われました。 
  「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。」*1


   世の中の常識、目に見えることに基ずく確実性は、ある程度の安心感を与えますが、同時にこれがいつ変わるかわからない、何が起こるかわからないという不確実性がいつも伴うので、100%安心できません。これがイエスが言う、「世が与えるように与える」平和です。しかし、イエスが与える平和は、神を信じ、イエスを信じる信仰によって与えられます。ですから、不確実性のなかにおいても、感情的には一時的に心が揺らぐことはあっても、心の深いところで、神に信頼しようと、神のなさることの範囲内で今のことは起きているし、将来も起きるから、委ねようという気持ちになり、恐れや虚無感に支配されることはなくなります。この信仰の根本には、下記のみ言葉にあるように、イエス・キリストが再び戻って来られて、全てを新しくするという約束を待ち望んでいることにあります。それがいつ来るか、どう来るかは明らかにされていませんが、私たちが生きている間考えることは、御子(イエス・キリスト)のうちにいつもとどまることです。

 
  どうしたら、とどまれるか。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」*2という命令を守るなら、わたしにつながっていられる、わたしのうちにとどまれるよと言われました。命令を守る。これはプレッシャーになったり、重荷になったり、強制感が伴いがちなフレーズです。しかし、その命令自体が、互いに愛し合うということであれば、互いの益になり、問題の解決の糸口となるでしょう。愛は全てのことを覆います。また、愛せないのであれば、愛せるように助けるよ、たとえ命令を守れなくとも、私はあなたを決して見捨てないよというのがイエスの約束です。自分の力ではなく、神が愛せるように、わたしたちの心や行動さえ変えられるので、また、命令を守れなければ罰則が伴うものではないので、恐れや重荷なりません。他者を愛することに弱い私たちでも信仰を続けられます。これからも、御子のうちにとどまり続けられるよう、助けを祈りたいと思います。

 

 
  「さて、子たちよ、御子のうちにいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つ事ができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」 第一ヨハネの手紙2章28節
 
 *1 ヨハネによる福音書14章1、27節
 
 *2 ヨハネによる福音書15章12節


Apr. 26, 2020

 希望:何に望みを置くのか

 

  ”Stay Home” 、今の時期、日本で出された感染防止対策。春という、一番新緑の美しい時期、観光シーズンの時期に多くの人にとって、これは厳しい自粛要請かもしれませんが、必要なことであります。しかし、最低限ネットでコミュニケーションができるし、普段忙しくてできないことをしたり、本を読んだリ、DVDを観たりと家での過ごし方は工夫すればあっという間に時間はすぎます。同じ状況をストレスに思うかどうかは、その人の気の持ちようでもあります。狭い空間で、自分の思いや希望ばかり通そうとせず、互いに、忍耐することがキーでしょう。

 

  しかし、全く思い煩いや不安がないのかというと、そうではありません。この状態が長期化し、仕事も出来なくなるかもしれないという懸念はあります。今これを書いている最中に、震度4程度の地震がおこり、ちょっと怯えます。メディアを通して、人々を元気づけようと、多くの著名人、スポーツ選手たちが様々な動画を流していますが、同時に一日中報じられているコロナの感染状況が、その励ましや娯楽を覆ってしまうほど大きく、再び気分は暗くなります。私はもともと、娯楽番組。動画が気晴らしにならず、むしろ観たいのは、人々が様々な困難を乗り越えようとして頑張っているドキュメンタリー等で、悲しみの、もしくは感動の涙を流せるコンテンツがもっと放映されればいいなあと願います。いずれにしても、報道、TV局の人々が国民を励まそうと頑張っていることには変わらず、そのご苦労を感謝していますし、日々祈っていることは、医療従事者の安全です。コロナとの闘いに命をはって、最前線で働く方々の健康が守られるようにと。

 

   私たちは、人と人とが助け合い、互いを思いやるという愛や絆に感動を覚え、これで頑張ろうと励まされますし、そこに希望を置く人が多いと思います。しかしながら、自分を含め、人が出来ることの限界を考えると、人に、また人がなしうる科学技術に、お金に、人の自己実現による生きがい等に希望を完全に置けるでしょうか。冷たい人間に思えるかもしれませんが、私はこれらに期待をかけても、必ず失望すると思います。もちろん、世の中には立派な働きをする人、徳がある人はたくさんいて、その方々には感謝はしていますし、自身のように何もない者と比較しようがないですが、それでも完璧な人はいないし、万能ではない、結局のところ、自分が希望を置いた対象が、必ずしも自分の都合のよいように、自分の願うように動かないということは、生きていれば誰でも経験することでしょう。では、自分だけ信じればいいのでしょうか、何に期待を置けるのでしょうか。

 
  下記の聖書の箇所のヨナ書には、ヨナという古代イスラエルの預言者が、苦難の中から神様に叫んだ祈りが記されています。彼は、実は反抗的な預言者で、神の命令に背いて、そのおかげで彼が乗船した船で嵐に合い、海の中に投げ込まれて、大魚の腹に飲み込まれてしまったという、情けない人です。しかし、彼は腹の中でもう死ぬという、絶望の状態で、神様に叫び求めます。すると、神様はそれを聞き、答えて下さったと、まだ彼の命が助かる前に(つまり、魚の腹の中ではいつまでも生きていられませんから)このように祈っています。このことから、彼が神に信頼し、希望を置いていることがわかります。そして、彼は3日後に大魚の口から吐き出され、神が最初に彼に行けと命じた、アッシリア帝国の首都ニネベの浜辺に打ち上げられ、そこで神のミッションをすることになるのです。真の神は全知全能な神で、全ての人を目的を持って創り、命を与えて下さった方なので、完全な希望を置ける神です。信じるには、もっと知る必要があります。どんな神で、なぜ希望を置けるのかが聖書のことばを通して分かり、そして信じる信仰も与えられていきます。

 

 明日は自分が感染して、死ぬかも知れないとい可能性はゼロではなく、まだコロナウイルスに対する治療薬もワクチンも開発されていない、医療崩壊が起こるかもしれない、先行きが不安な現実にあっても、私もヨナのようにイエス・キリストに希望を置こうと思います。この希望は失望に終わらない*1と信仰の先人達のことからも、確実だとわかりますし、そのような信仰が与えられています。どんな状況になっても、私の魂の平安を取り去るものはないという、信仰を強めて頂きたいと、神様に願っています。というのは私の信仰ほどあてにならないものはなく、自分の意志の力で自分に希望を置いたり、自分を信じたりするほど強い者ではないからです。信仰とは求めれば神により与えられ*2、強められる、成長させられるものです。キリストはただ天国にいて、人々が苦しんでいる状況、不安におびえている状況に高見の見物をしている方ではなく、目に見えなくとも、傍に寄り添って励まし、導いて下さる方だと聖書に記されています。私の今の状態もそのようにして、生かされていることを、神様に感謝しつつ、信仰に固く立つ力を日々与えて下さいと祈っています。

 
  「(ヨナは)言った。「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。 」 ヨナ書2章2節 ( )は追記
 
 *1 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」ローマ人への手紙5章1-5節
 
 *2 信仰さえも、神からのプレゼントであることが記されている。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 」エペソ人への手紙2章8節


Apr. 23, 2020

 人生の嵐と土台

 

  これまでも大規模な自然災害、疫病の流行は歴史的にも起こってきていますが、今回の新型コロナウイルスの世界的蔓延は、史上で最大規模であり、お互いこれを乗り越えるために協力していくことが大切だと、メディアを通じて日々伝えられています。科学が現代のように発達し、流通と人の活動がグローバルに発展している環境に慣れていると、昔のように家でシンプルに過ごさねばならないことが、さらなるストレスとなってしまう人もいるかもしれません。

 

  科学ではどうしようもないと、また直接的な因果関係がわからない災害・事故について、普段神を信じていないのに、無意識的にそれが神の罰とか裁きだと考える傾向が人々の中にあります。日本では、小さいころから「罰があたるぞ」というフレーズを耳にしてきました。この疫病は人間の傲慢さに対する神の厳しい裁きだという人、聖書に記されている「この世の終わり、終末」だと短絡的に考える人もいたりするしょう。確かに、人の科学・知識が万能であるとするおごりはあり、謙遜になる必要はあるかもしれませし、神を“畏れる”気持ちを持ったほうが良いと思います(“畏れ”と“恐れ”は意味が微妙に異なる)。しかし、単に神の裁きだという恐怖心だけでは、信じる気持ちにもならず、不安ばかり増して益になることはありません。

 

   科学ではどうしようもないと、また直接的な因果関係がわからない災害・事故について、普段神を信じていないのに、無意識的にそれが神の罰とか裁きだと考える傾向が人々の中にあります。日本では、小さいころから「罰があたるぞ」というフレーズを耳にしてきました。この疫病は人間の傲慢さに対する神の厳しい裁きだという人、聖書に記されている「この世の終わり、終末」だと短絡的に考える人もいたりするしょう。確かに、人の科学・知識が万能であるとするおごりはあり、謙遜になる必要はあるかもしれませんし、神を“畏れる”気持ちを持ったほうが良いと思います(“畏れ”と“恐れ”は意味が微妙に異なる)。しかし、単に神の裁きだという恐怖心だけでは、信じる気持ちにもならず、不安ばかり増して益になることはありません。

 
  「神が愛なら、なぜこんなことが起こるのか?」という疑問。しかし、その疑問を持つ前に、起こしている原因のほとんどは人間の欲、傲慢さにあるということを認めることが必要ではないでしょうか。神が愛であることを知るには、まず自分の傲慢さ、神を認めない罪を悔い改め、そして自分の意思や力で善になれないと自覚し、そのために自分には救い主が必要だと求めることから始まります。そして求めれば信仰が与えられ、キリストを信じる信仰が人生の土台となります。すると、様々な人生の嵐が来ても、土台がしっかり据えられているので、その人は倒されないと、下記の建築のたとえをキリストは語られています。これからも、様々な試練が生きている上で起こるでしょう。だからこそ、このキリストという土台によって、恐れではなく、自分を愛して、助け、導いてくれる神を信頼し、励まされて日々歩んでいきましょう。

 

 

 
  「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。」マタイによる福音書7章24-27節
 
 *1 マタイによる福音書5章45節
 *2 ヨブ記には、ヨブは「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」と神にも認められていたが(ヨブ記1章1・8節)、彼には過酷な試練(自然災害、略奪により家族・財産を一機に失う)が起こったことが記されている。
 


Apr. 16, 2020

 見えない脅威に対してすること

 

  人は、その人に信仰心があるなしに関わらず、どんな時、祈る気持ちになるでしょうか。特に、特定の神様を信じていない人にとっては、人間の力、能力、方策、技能でもってしても、どうしようもない時、最後にすることかもしれません。「祈るほかない」と。現在の状況ですと、肉眼で見えないウィルスの脅威に対して、どんなにマスクをして消毒しても、誰が感染しているかわからない為、どこで感染してしまうか見極めることができない、100%防御率がありません。そして、その治療薬、ワクチンもまだ開発されるには時間がかかります。

 

  アメリカは、日本と比べてクリスチャンの数も多く、キリスト教的歴史背景、文化、慣習がある国ですが、それでも真剣に信じている人、教会に熱心に礼拝に行く人はそう多くはありません。しかし、政府による緊急事態宣言に伴う厳しい外出制限後、オンラインで礼拝をおこなっているある教会の統計によると、今までにない程の多くの礼拝配信へのアクセス数になっているとのことです1*。つまり、普段教会には、冠婚葬祭、イースターとクリスマス位しか行かないアメリカ人の多くが、オンラインで礼拝を聞き、牧師の話に耳を傾け、祈りに心を合わせていると察します。まさに、祈るしかない、という状態です。

 

   一方、日本はこのような西欧文化ではなく、また神社やお寺が礼拝のオンライン配信することはないと思います。では日本人はどうしているのでしょうか?詳しくはわかりませんが、今までと異なる生活スタイルを構築するのに必死になり、自分たちで努力して、ストレスがかからないように過ごせる、巣ごもりの方法を模索しているかもしれません。

 
  キリストを信じる者にとって、祈りとはまさに、「神のみ前に」出ることではないでしょうか。祈りが単なる、お願いごと、嘆願を叫ぶだけでなく、本質的には、祈りとは大いなる、畏敬の念を抱かずにいられない神のみ前に、安心して、自分をさらけ出すことが出来ることだと思います。祈りを通して神様の前に出ることは、特別の場所に行く必要がなく、人里離れたところに独りで籠らなくとも、日常生活の中で心の中できるます。自身がどこにいても、神様の御前にいるということに意識を集中すれた、周りのことを全て忘れて、あなた(私)と神だけのマンツーマンの世界になれます。そこには、自分が神様に祈る資格がなくても、ふさわしくなくても大丈夫、ありのままで神様の前に出られるのです。ありのままで出られる理由は、私と神様の間に、完全な仲介者が入って下さっているからです。その仲介者とは、神様が送って下さった、真理である御子、イエス・キリストです。私たちは「イエス・キリストの名によって」祈ります。イエス様が、「私の名によって祈りなさい」と弟子たちに言われたからです*2。

 

 そうはいっても、日常生活中で、なかなか意識を集中できませんが、少しの時間でも、歩くとき、家事をしている時、出来るだけ心の中で神様に語り掛けるようにしています。すると、どんなに不安にさせるようなニュースが日々流れようとも、私は神様の前に、心を安んじていられ、神様への感謝の想いが賛美歌として、心の中で歌えるのが幸いです。

 
  「それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。」 第一ヨハネの手紙3章19節
 
 *1 アメリカの教会、Harvet、Greg Laurie牧師による、礼拝オンラインの統計。アメリカでロックダウンが施行された直後の日曜日に、オンラインによる出席者が250,000人以上、続く週は100万人以上のアクセスがあった。”Digital Worship May Create America’s Next Spiritual Awakening",bGreg Laurie* Blog , Apr. 14, 2020より。
 
 *2「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」 ヨハネによる福音書16章23-24節


Mar. 24, 2020

 復元、回復、リバイバル

 

  冷汗がたれました。私がいつも使用しているUSBメモリーが突然、使えなくなったのです。今迄もPCがUSBメモリスティックを認識しないことはよくおこり、差し込みなおすと機能していたのでしたが、今回はUSBの中のファイルが文字化けし、何度差し込んでも認識しないのです。あせった私は、壊れたUSBをどう復元するか調べたり、別のPCに差し込んでみたりと、数時間にわたり悪戦苦闘。この数週間、様々な大切な書類を作成していましたが、バックアップを取らず、プリントアウトもしていなかったことを悔やみ、かなり絶望的になりました。ああ神様、助けてください。。。と一言祈りながら、何度もPCに差し込んでいると、突然認識。いまだ!とファイルを新しいUSBに急いでコピーしました。今後は、初心に戻りバックアップをまめにとることに。神様、ありがとうございます!

 

  デジタルのファイルは技術とお金があれば復元できるかもしれませんが、一度壊れると元の状態に戻せない物はたくさんあります。人の体もケガや病気をすると、元の状態に戻るのに治療とリハビリをして、ある程度までは回復は可能です。しかし、なかなか完全に以前の状態にまで回復するのは困難です。では、壊れた心、傷ついた心はどうでしょうか。これは、身体や物を直すより難しいかもしれません。ちょっとしたことであれば、忘れてしまうことはあります。忘れるというのは、実は人の精神を正常に保つのにとても必要な機能であると言われています。もし生まれてからのすべての悲しみ、怒り、恐れを覚えていたとしたら、人の心はその記憶に耐えられないからでしょう。トラウマ、PTSDは、あまりにも衝撃的なことを経験し、忘れるという機能が働かないことによる後遺症ではないかと思います。

 

   クリスチャン用語で、リバイバルという言葉があります。「日本のリバイバルの為に祈る」という時、キリストを信じていない人々が信仰を新たに持つことに使っている人もいるかもしれません。しかし、リバイバルとは本来、復元、再び命を戻すという意味で、眠った状態のクリスチャンが覚醒することを表し、聖霊の働きにより大きな神様の御業がなされることに使われるものです。リバイバルがその人に起こると、熱心に伝道する様になり、それによって周りの人々が信仰に導かれ、キリストを信じるということが起こります。ですから、信じていない人は元に戻されるというより、新しく生きる命を与えられる(新生する)ので、彼らに必要なのはリバイバルではなく、キリストの福音です。リバイバルは、休眠しているクリスチャンに信じた時のイキイキとした喜びが再び与えられる、キリストの為に生きようと立ち上がる状態とでもいえましょうか。つまり、信仰とは一度洗礼をうけたら終わりではなく、信じ続ける必要があります。この世に生きている限り、信じ続けること、信仰をいつも熱く持ちつづけ、疑いもなく、神様のために生きようとするのは努力を必要とします。努力とは何かを行いをするという意味ではなく、イエス・キリストに繋がり続ける*1ことに努めるということです。

 
  初代の教会では、「使徒の働き」(使徒言行録)での聖書の記録を読むと、いつも大勢の人々が一度の説教でキリストを信じるという、爆発的なムーブメントが起こっています。つまり、宣教をする信徒たちが、いつもリバイブされている、霊的に覚醒している状態を保ちつづけて、その結果、信徒たちが伝える福音の言葉を通して、多くの人がキリストを信じるようになります。人が神を信じるということは、理屈や説得でもなく、聖霊の働きによらなければ起こりません。なぜなら、この世の常識や科学で考えると、宣教のことばは愚かなことに聞こえるからです*2。しかし、目に見えない聖霊がその人の心に触れると、神様の前に悔い改める心が与えられ、罪が赦されたいと願い、そのためにキリストを救い主として信じることが可能となります。その結果、喜びが与えられ、霊的に新しく生まれた状態になり、生き方が180度変えられます。

 

 もし、信じて洗礼を受けても、霊的に成長しておらず、未だ自分の為に生きている状態であれば、その方にはリバイバルが必要かもしれません。下記の聖書のみことばあるように、私たちが喜びを得るため、再び生かして下さる方が神様です。神様にリバイブ、回復できないものはありません。壊れてしまった心、希望のない人生を送る人の心、喜びのない辛い日々を送る人を神様は憐み、助けて下さる方だからこそ、この詩編の作者は、当時落ちるところまで落ちてしまったイスラエルの民の回復を神様に求めているのでしょう。人がもし、信仰の途上で悩んだリ、信仰上に停滞し、喜びもなく、ただ教会に行っている状態であれば、神様は必ずその人にもう一度、リバイバルを与えて下さると信じます。私も、停滞したことは何度もありましたが、そのたびに引き上げられてきました。これからも、必ず神様がみ言葉により、また様々な状況を通して私に与えられた霊を強めて下さることを信頼し、その意味で日本のリバイバルを祈り、そして多くのまだキリストをしらない人達が聖霊に触れられて、信仰に導かれるように祈りたいと思います。

 
  「あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。 」詩編85篇6節
 
 *1「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」ヨハネによる福音書15章4-5節
 *2「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」コリント人への第一の手紙 1章21節


Mar. 18, 2020

 ネット配信による教会の礼拝

 

  私の通う教会では、毎週水曜日午前中に教会に集り、聖書を学んで共にお祈りをしてきました。しかし、今月はコロナウイルス対策で暫くお休みとなり、個々人が家で、牧師の作成したレジュメに基づき、聖書を読んで、互いの為に、また今の状況の為に祈ることになりました。このことを自分独りで家で行うと、顔と顔を合わせて交流の時を持てる恵みの有難みを感じ、どんなに貴重な時間であるのかと改めて思わされます。

 

  国内外の教会は大勢集まる場所であるため、他の施設同様暫く閉鎖状態となり、ネットで礼拝の配信をしているところが多いようです。しかしネットができる環境にない人、そのような操作が困難な人々にとってはそれも利用できません。家で、一人もしくは家族と礼拝することになります。一方で、今回のことを通して、礼拝の基本的在り方が問われる時ではないかとも思います。結局、信仰とは自分と神様との間のことだからです。もちろん、信仰は本人が持ち続けるという側面と、他者と関わり、互いに愛し合うことを目指すことで信仰が成長させられるという面もあります。そうでないと独りよがりの信仰となってしまいますから、集まって、互いに仕え合うことは大切です。神様を礼拝することをまず信仰の基盤とし、他者との関係に愛が持たらされるよう、互いにキリストの教えに従うことを目指せればと願います。

 

   しかし、基本は本人が神様に信頼を置いて神様に語り掛け(祈り)、心の中で平安な気持ちが与えられ、神様への感謝の思いが湧き、自ずと賛美の歌を口ずさむという、本人の心と思いによって礼拝がなされることだと思います。目に見えない神様との間のマンツーマン(God To Man?)の世界であっても、それを続けていくと、聖霊の働きにより神様の臨在を感じ、平和に満たされるかもしれません。いずれにしても、どこにいても、心を静め、神様と共に過ごす時間は必要です。

  今、家に独りでいる時間が与えられ、年度末の季節的な多くのことを余裕を持ってすることができ、何よりも、いつもバタバタ忙しくしている自分が、神様と静かに向き合える時間がたくさん与えられ、本当に感謝しています。特に、4月から新しい生活スタイルが始まり、今迄とはかなり変化があることを考えると、体力的にも精神的にもそれをこなしていけるだろうかという懸念もあり、その生活リズムに慣れるまで時間がかかることでしょう。しかし、イザヤ書に「あなたは全き平安をもって こころざしの堅固なものを守られる。 彼はあなたに信頼しているからである。 」*とあるように、神様が与えて下さる全き平安により心が守られるとあるので、先のことを思い煩わずに、神様より与えられた志に沿って前進していきたいと励まされました。

 

 

 「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 」 ピリピの信徒への手紙4章6-7節
 
 *イザヤ書26章3節


Mar. 10, 2020

 困難の中で体験する神様の慰めと愛

 

  母がこの4月で米寿(88歳)となる為、親族でお祝いの会を開催する予定でした。しかし、ちょうどコロナウイルス感染対策で延期せざるを得ず、急遽3月初頭に内輪で一足早くお祝いをしました。折しも、天国にいる父の8周忌と重なりました。天国の父も、一緒に祝ってくれていたことでしょう。母は一人で暮らしていますが、健康に恵まれ、教会の礼拝に喜んで通い、日々意欲的に過ごせるという幸いを、神様に心から感謝しています。

 

  初春は、私にとって何か突発的な事が起こる季節です。2011年は東北大震災が起こり、2012年は元気だった父が突然眠りながら亡くなりました。今年は、感染症の世界的アウトブレイクの恐れが日々報道され、多くの日常的に行われていたことが一変しています。この数週間で、多くの予定がキャンセル、延期されました。企業にとっては経済的損失は甚大です。また、多くのイベントや行事を時間をかけて準備してきた人々にとって、大きな失望感が払拭出来ないことでしょう。ご家族をこのウイルスの故に失った方々の上に、慰めが与えられますよう、早期に治療が開発され収束するよう、日々お祈りします。

 

  一方で、この非日常へと変えられた状況をどう生かすか、という工夫と気の持ちようが問われる時ではないでしょうか。マイナスのことをマイナスにばかりとらえると、心に良くないだけでなく、他のことに対しても悲観的になります。マイナスのことの中に、プラスのことを見出すと前向きになれ、今の暗い状況さえ楽しむことができ、そして神様への感謝に繋がります。私の母はいつも前向きです。戦後、母は10代後半の時に父を亡くし、5人の兄弟と母を父親代わりになって働いて養い、結婚後も、夫のフィラデルフィア日本人教会への招聘で渡米するまでの72歳まで働き続け、傍からみると苦労の連続だったと思います。母は呟くこともなく、いつもニコニコ笑顔で、「大丈夫、主様にお任せすれば、なんとかなるわよ!」と言っていました。そして、88歳を迎えるにあたって人生を振り返り、「私は特に大変だったと感じないのよ。」とさらりと言っていました。この母の強さ、前向きな生き方は、若い頃からキリストを信じる信仰に支えられていたからでしょう。

 

    
下記のみ言葉にあるように、恵によって信仰を与えられた人は、患難さえも喜べるとあります。その患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出し、この希望は失望に終わることがないと。なぜなら、神様の愛が私たちの心に注がれるから、神様の力で乗り越えられ、損失と思えることも益に変えられていくからです。このことのベースには、私たちは主イエス様の十字架のおかげで、信仰によって義と認められ、神様との平和を持てるという祝福があると思います(ロマ5:1)。私たちは神様の前に、到底義(正しい)と認められるような者ではありません。しかし、イエス様の十字架の贖いを信じるだけで、義の衣が着せられ、それを通して正しいと見なして頂けると言う恵を与えられています。これは、なんという大きな恵でしょうか。私はそんな素晴らしい神様との関係が与えられるに相応しくない、罪深い者であるのにと、この恵を思うだけで感謝と喜びがいつも湧いてきます。この救いの喜びは環境や状況に左右されずに持つ事ができます。パウロがこの「喜び」を表現するのに、 「誇りにする」(新共同訳)とも訳せる言葉を用いて、なんて素晴らしいのだろうと、大きな喜びを表現しているのだと思います。この喜びに支えられ、困難な状況を乗り越えられるように、忍耐する力が与えられ、そして練達(練られた品性)へと成長させられ、主にあって確かな希望を持てるという、パウロは自分の経験から得たことを記し、私たちはそのみ言葉に今も励まされています。

 

  世の中的には、困難な状況はマイナスな事として捉え、喜ぶどころか、苦しみ、悲しみという悲観的な思いになるのが普通です。信仰がなくとも、強い精神力を持つ人はいるでしょう。そういう人は、自分の意志の力で乗り越えようと前向きに頑張りますが、皆がそのような強さを持っているわけではありません。自分の意志、自分の力で乗り越えようとする人は、ある意味自分を信じ、頑張れた自分を誇ることでしょう。しかし、私たちは自分ではなく、主を誇ります。この世で弱い者は、ダメなものと見られても、私たちはその弱さをも誇れます。なぜならその弱さの中でこそ十分にキリストの力が発揮されるからです(2コリ12:9)。神様の支配の中にあっては、損とみなされることも益へと変えられ、また悲しみの中にあっても、この救いの喜びが私たちを支え前向きな姿勢へと導いてくれます。むしろ、私たちは苦難にあう時にこそ、み言葉の約束を信じて祈り求め、委ねて、その結果、不思議に乗り越えられたという経験を通して、神様の約束の確証を与えられます。神様は私たちの苦しみに寄り添ってくださる方です。全てが順調に行く時よりも、苦しみの中で、より神様の慰めと愛を体験し、神様との関係を一段と深めることができたと、私も小さな苦しみの経験を通して思い返すことができます。

   
 

 私はどちらかというと悲観的で、心配性の性格ですし、このようなみ言葉や恵の体験をすぐに忘れてしまうような、弱い者です。ですから、日々み言葉に触れ、気持ちを新たにされて、母を含む信仰の先輩たちに倣いつつ、神様に祈り求め、すべて委ねて歩んでいきたいと思います。


 

 「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 ローマ5:3-5(新改訳聖書)
 
 


Feb. 27, 2020

 命のイメージ

 

  命。「命をイメージして絵を描いて下さい」と言われましたら、どのような絵が頭に浮かぶでしょうか。ハート、赤ちゃん、植物の芽。。。 命のイメージは個々に異なるでしょう。大きな災害や戦争を経験した小さい子に命のイメージを描かせると、真っ黒に紙を塗りつぶした絵を描くことがあると聞きました。命という概念は、それ自体目に見えないですし、言葉で表現しようとしても漠然としてますが、よく使われる言葉です。

 

  一方、命を守るために、私たちは出来るだけのことを、いや、出来ないことでも必死にしようとします。コロナウイルスのように、目に見えない脅威から、自分の身を守ろうと私たちは必死になります。感染したら死に至るかもしれないという、恐れがあるからです。このように、命は「生きている」ことに関連し、この肉体が死ぬと命はなくなると一般的には考えられています。では、命はどこから始まりどこで終わるものなのでしょうか。このことをよくわからないまま、生きている人の方が多いと思います。何事でもはっきり見えて、こうなると予め把握出来、それを信じられたら、多くの恐れは軽減されるかもしれません。

 

  イエス・キリストは「命」という言葉をよく使われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」*1ここでは、死んだら終わり、生きてなんぼという意味ではありません。なぜならイエス様は別の箇所で、弟子たちに「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」*2と言われ、体しか殺せない「人」を恐れるな、むしろ体も魂も滅ぼすこともできる、神を恐れなさいと言われているからです。つまり、お金や名誉、権力、また死んだらなくなる命に執着することより、魂に関連する「命」を与える神様を求めよと示しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。」*3ここでの「世」とは人間のことを指し、神様は独り子イエスの命を犠牲にして、世(人間)を救い、永遠の「命」を与えるために、キリストが十字架で死に、3日後に復活するという計画を実行されました。

 

    
一度生物学的に死んだら、どんなにお金を支払っても生き返らせることできません。しかし、神様には人の命を買い戻すことができる、ということが先ほどのみ言葉(マタイ16章26節)の背後にあります。(なお、単に「買う」と「買い戻す:贖い」とは異なります*4。)下記の箇所にあるように、イエス・キリストは、全ての人の、罪のゆえに霊的に失われていた命を買い戻すために、十字架でご自分の命を代価として捧げられました。このイエス・キリストによる贖い、救いを信じる人に、永遠の命が与えられます。

 

  このキリストの復活は、キリストご自身が復活されたことで終わらず、キリストを信じる者が後に霊的な体が与えられ復活することを意味すると、使徒パウロは説明しています*5。イエス・キリストを信じている限り、この命は永遠に続くという約束を信じて、日々様々な恐れや思い煩いの要素となるものに心乱されず、今日という日を、神様に感謝して過ごしたいと願います。私の命のイメージは、「神と共にある永遠」です。

   
 

 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコによる福音書10章45節


 

 *1 マタイによる福音書16章26節
 *2 マタイによる福音書10章28節
 *3 ヨハネによる福音書3章16節
 *4 買い戻すとは、贖いともいい、本来は、奴隷の状態にあった人をお金を払って自由にすることを言う。聖書は、人は皆、罪の奴隷であったので、そのような状態から解放するため、神は代価(キリストの命)を払ってく買い戻し、自由にして下さったと記している。 第一コリント6章20節、エペソ1章7節
 *5 第一コリント人へ手紙15章
 


Feb. 21, 2020

 普通とは

 

  以前の職場で、私の同僚に嫌な態度を取る男性に、そのことに対して私は直接その男性と話合いをした時、私は「普通、そういうことしないですよね?」と言うと、「あんたの言う、普通ってなんだよ?俺は普通じゃないのか?」と切り返されたことがあります。私たちは無意識に「”普通は”〜ですよね」と言います。確かにその男性が言うように、普通とは何であろうかと考えさせられます。相手にこの言葉を言う時、その言う人間の”普通”と相手側との”普通”が必ずしも一致するとは限らず、そして、言われた方は「自分は普通ではないのか?」と激怒、もしくは気分を悪くするでしょう。

 もう一つの普通。女性であれば、誰でも母性が持てると思われています。しかし、そうでない女性もいます。子供を産んでも、その子供を愛せない人、母性が持てない、子どもを置き去りにしていまう人もいます。そのような母親を持つ子供達は心に傷が残り、大人になって自身の人間関係で影響がでてきます。幼少時に母親から虐待を受けた女性が、自分が受けたことのない愛情をどのように自分の子どもに注いでいいのかわからず、子育てに悩みます。彼女たちは、精神的に追い詰められていたり、問題を抱えて苦しんでいても、誰にも相談できずにいるかもしれません。そして、周りの人のちょっとした一言「普通は。。」で、自分がそうでないことにさらにプレッシャーを感じ、落ち込むことでしょう。

 あるアメリカ人の牧師が、最初、自分が日曜の礼拝でメッセージを語っている人々がごく普通の家族を持つ人々だと思っていたのですが、実はそうではなかったことに気付いたと言っていました。この牧師にとっての”普通”の家族とは、例えば両親が揃っていて、彼らの子供がいる、まあまあの車に乗り、一戸建てに住むような世帯。しかし、実際話しを聞いてみると、例えば親は離婚し、片親と住む子どもたちや、親が再婚同士で、それぞれが前の結婚での連れ子と共に暮らす家族、離婚して独りでタワーマンションに住み、 高級車に乗っている人等だったそうです。彼らの心は、傷ついています。問題をたくさん抱えて、多くのことに失望し、心の中は空虚な思いで、満たされない。だから、神様を求めて、教会に来るのでしょう。

 神様は、「普通」という枠組みで人々をわけ隔てしない方です。聖書のイザヤ書という書簡に、女性が自分の産んだ子を忘れることはあるかもしれないが、私(神様)は決してあなたを忘れることはないと、記されています。神様は、母親であっても子供を愛せない女性たちもいるということをすでにご存知です。そして、普通という基準に達せないことを責めるのではなく、「私はあなたを忘れないし、見捨てないよ」と言われています。これは、もともとはイスラエルの民に神様が語られた言葉ですが、現代に生きる私たちにも適応される神様の約束です。

 多くの人は様々なことを普通に、当たり前にしたいと思っても、出来ない弱さを持っています。他人からは、そのことを責められるかもしれません。差別や仲間外れにされ、見下されるかもしれません。しかし、神様は決してすべての人を見放さず、ご自身の愛で包み、傷ついた心を癒そうとされ、回復される方です。だから、教会には普通ではない人々がやってきます。私もしかり。しかし、教会にきて、聖書の言葉を聞くことから始め、信仰が与えられると、回復が与えられます。回復された人同士で、不完全であっても互いに愛し合おうとします。そして、教会でも人間関係でうまくいかないことがあっても、神様が助けて下さり、心が変えられていきます。赦す心も与えられます。私には決して裏切ることのない、確かな神様の愛に包まれているという信仰が与えられるので、失望するようなことがあっても、落ち込んだままではいません。また立ち上がる力が与えられます。なんと、感謝なことでしょう。だからこそ、自分が神様の愛を受けるだけでなく、他者と接する時に話す言葉に、よく注意を払えるよう、神様に助けていただく必要があります。他者のことをおもいやるイエス様の愛を「注いで下さい」と祈ろうと思います。
   
 

 「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。 たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 」 イザヤ書49章15節


Feb. 13, 2020

 イスラエルの為に祈る

 

  ホロコーストを知らない人はいないと思いますが、この恐ろしいナチスによるユダヤ人大量虐殺の歴史的背景を深く知らない方もおられると思います。先日、私はある会に参加し*1、ユダヤ人とキリスト教国の歴史をまざまざと映像で見る機会があり、自分の無知さと、この悲しい現実にショックを受けました。ユダヤ人はA.D.一世紀に現、パレスチナ地域にあった国を滅ぼされ、全世界に離散して街を作り住んでいたのですが、キリスト教がローマ帝国に国教として認められて以来、キリスト教は彼らを徹底的に迫害し続け、根拠のない反ユダヤ主義思想を人々に植え付けてきたという歴史が1700年間に及ぶという背景があります。そして、ホロコーストが起こったときも、全世界は見て見ぬふりをしました。彼らは全ての人々から見捨てられたと言っていました。

 イスラエル国は、シオニズム運動(ユダヤ人国家建設運動)を経て1948年5月14日に建国 、以後それを認めない周辺のアラブ諸国との戦争、いわゆるパレスチナ問題が続いています。西欧諸国にも、いまだ反ユダヤ主義思想が残っているという恐ろしい現実があります。このような辛い歴史を歩んできたユダヤ人が、幾度もの民族的絶滅と迫害の患難にあいつつも、希望を捨てずに生き続けてこられたのは、彼らの神(ユダヤ教)を信じる信仰と民族のアイデンティティ保持によります。従って他国の人と交流をせず、自分たちだけで結束し、勤勉に働き財をなし、様々な社会の分野で活躍しているのも理解できます。

 このような歴史から、他民族がユダヤ人に寄り添うというのは難しいことです。しかし、いくつかの民間団体はなんとか和解の架け橋になろう活動を続け、特にイスラエルの貧しい人々(貧困率が高い)の支援をしているNPOもあります*2。また、ユダヤ人は日本人に対してはとても好意的に思ってくれています。なぜなら、ホロコーストの際、リトアニアの日本領事館領事に赴任していた杉原千畝氏が、政府の命令を守らず多くのユダヤ人に日本経由で亡命するビザを発給し、手助けしたからです 。当時7歳だったユダヤ人の女性は、2016年のイスラエル建国記念式典(MOL)*3に参加した日本人のクリスチャン・ロックグループに、「私は杉原千畝によって生き残れたのよ!」と熱く語りかけたそうです。

 日本には西洋諸国のようにユダヤ人街もないので、彼らと接する機会も少ないしあまり情報も入らないでしょう。ユダヤ人は、イエスがキリストだと信じず、いまだに神が送ると約束しているメシヤ(救い主)を待っています。キリスト教による迫害の歴史のゆえに、彼らにはクリスチャンと大きな溝がありますが、それでもメシアニック・ジュ―と称する(クリスチャンとは決して称しません)、イエスをキリストと信じるユダヤ人信徒も少数派ですがいます。そして、旧約聖書の預言によると、ユダヤ人はメシアの再臨(イエス・キリストが再びこの世に来ること)の前に「恵みと哀願の霊」を注がれて、イエスがメシアであると信じる時が来ると記されています。*4 

 ユダヤ人であったキリストの使徒パウロは、神様の救いに関してユダヤ人と異邦人との関係について、選民であるユダヤ人がつまずいたおかげで、キリストの救いが今まで全く縁のない他民族(異邦人)にもたらせれたという、不思議な神様の計画があるのだと、ローマ人への手紙にて記しています。もともと、神様はアブラハムを選んでイスラエル民族を起こし、以後イスラエルの民をずっと愛されてきました。かれらが他の神を信じた時期もあったり、メシヤを受け入れなくても、彼らを決して見捨てず、いつかメシヤを信じる時がくるという計画を持っておられます。ですから、下記のみことばにあるように、民族に関わらず、誰であっても、ただキリストを信じれば救われるという恵にあずかることができたのは、ユダヤ人がイエスをキリストと認めなかったおかげなのです。

 よって私たち異邦人は、与えられた信仰を誇ることも出来ないし、ユダヤ人を見下すこともできない、ましてやユダヤ人を迫害するというのは、クリスチャンであれば本来あり得ないわけです。しかし、私も他人ごとではありません。無知のゆえにユダヤ人に対する偏見を受け入れ、彼らの祝福のため、救いの為に祈らなかった罪、聖書に記される神様の大きな計画を考慮せず、世界のメディアにより放映されるイスラエルに批判的なニュースをそのまま受け止めていた罪を、今回悔い改めました。ユダヤ人がイエス様を信じた時の喜びは、私たちの想像をはるかに越えますが、そのために祈ります。そして99%の日本人もキリストの福音を知りません。私は、ユダヤ人のため、そして日本人の救いのために忘れずに祈ろうと、今回強く思うきっかけが与えられたことは、本当に感謝でした。
   


 「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。 」ローマ人への手紙11章11-12節

 


 *1 2020年2月11日東京オープンハイナイト @淀橋教会 イスラエル(ユダヤ人)のため、また4月に行われるイスラエルの建国式典(Int”l Mrach of the living, MOL)に参加して、ヘブル語で賛美を歌う日本人のゴスペルクワイアーの方々のために祈る祈祷会。
 *2 Biridges for Peace Japan (B.F.P. Japan) クリスチャンがユダヤ人の方々に愛と尊敬を実践的な行動を通して伝え続ける団体。イスラエルに帰還するユダヤ人新移民や子供たちを継続して生活品、食料品を支援するプログラム、家屋の修繕、ホロコースト生存者支援など16の支援活動をしているNPO。
 *3 MOL とはInt”l Mrach of the livingの略で、世界のユダヤ人の若者が参加するツアーで、ポーランドのアウシュビッツの死の行進がなされたところを「命の行進」として歩き、続いてイスラエルへ飛び、エルサレムの嘆きの壁まで歩き、イスラエル建国式典に参加するという催し。2016年に日本のクリスチャン・ロックバンド、ナイトdeライトがこの式典に異邦人として初めて参加した。
 *4 ゼカリヤ書12章1-14節 イスラエルの民がどのようにしてメシアを受容し、回復されるかが預言されている。 (引用:口語訳聖書)
 


Feb. 10, 2020

 タイタニック号:もう一人のヒーロー

 r

 

  映画「タイタニック」で日本でも広く知られるようになった、1912年に北大西洋で氷山に追突し沈没したタイタニック号の悲劇。多くの人々が命を失いましたが、生き残れた人々からその時の生死の境目の実話が語り継がれていると思います。ある人達は我さきにと救命ボートに乗ったでしょうし、ある人々は他者を助ける為に、限られた数しかないライフジャケットを譲って救命ボートに乗せたり、一人分くらいしか支えられない海に浮かぶ舟のがれきに他者をすがりつかせて、自身は氷の海の中沈んで行った人がいたことでしょう。とっさの非常時に、他者が生きれるように自分の命を犠牲にすることが、果たして自分は出来るのかと思うと、出来ないと正直に思います。逆に、自分は助けられる側になってしまうような、弱い、自己中心的な者であることを認めます。

 

 先日、そのタイタニック号にまつわる、ある方の話を知って心を打たれました。ジョン・ハーパー氏(John Harper、(1872 ? 1912)は、スコットランド人の牧師で、このタイタニック号の沈没で亡くなった人の一人です。彼は自分を犠牲にして救助活動をしただけでなく、もっと重要なことを同時にしていたのです。すでに妻を亡くしていましたが、船が沈没し始めると、6歳の娘と自分の妹をライフボートに乗せた後、他者を助ける行為を続けながら、「あなたは救われていますか? そうでなければ、今、キリストを信じなさい。そうすれば救われます」と、聖書のことば(使徒の働き16:31)を短く伝えながら氷の海に飛び込んで他者を救助し、そして最後に、若い男性にこの言葉を伝えながら、がれきを彼によりかからせて、自らは氷の海の中に沈んで行ったそうです。この若い男性は助かった後に、自分が最後にハーパー牧師によってキリストを宣べ伝えられた人だったと知り、キリストを信じたそうです。ハーパー牧師は、肉体の命の救助だけでなく、魂の救いを最後まで人々に伝えた勇敢な方でした。

 

 聖書を読んでいると、必ずしも彼のように特別に活躍した人々のストーリばかりを載せていないことが、励ましです。むしろ、かれらが大きなことに用いられる前は、普通の人、普通に社会で働いている人も多いのです。ハーパー牧師も専任牧師になる前は、工場で働きながら生計を支えつつ、宣教活動をしていたそうです。私がアメリカの牧師たちから良く聞いた言葉「神はあなたの能力を求めているのではなく、あなたが用いられる準備があるかを求めている」(God is not looking for ability but availability. )を思い出します。特別な能力も技能もなくとも、雄弁でなくとも、ただ自分自身を神様の福音の働きのために「用いて下さい」と差し出せば、その能力も機会も神様が与えて、豊かに用いられると。実際、そう話している大きな教会の牧師たちは、自分たちも普通の人だったが、自分が神様に召されたと信じ、一歩踏み出すと、自身を通して神様の働きが広がっていったという経験から語りますので、リアリティーがあります。

 

 誰もがハーパー牧師やマザー・テレサのようなヒーローにはなれません。一方で、神様が計画されている働きに一人一人が呼ばれて(召されて)いると私は信じます。ですから、私たちのなすべきことは、自分が仕えたいという心を神様に差し出すこと、もし何か特定の人々のために手伝いたいという思いがあれ、それも具体的な導きを祈りつつ、とりあえず小さいことから信仰で一歩踏み出し、始めてみることではないでしょうか。その自発的な人間側の思い、志をみて、神様は一歩一歩導き、様々な神様のための働きのドアを開いて下さり、必要な能力、知識や機会をも与えて下さる方です。そこには、一般社会でなされる他者との比較をしなくてよいので、うらやましいと思ったり、ねたみや、自己を卑下もしくは、高ぶりの思いは不要です。(それでも、そのような思いを持つという誘惑にかられますが)神様が一人一人にカスタマイズされた計画を持って下さり、何もかも備えて下さるので、私がすることは感謝と賛美を持って、喜んで召されたことをイエス様に従って、パウロが下記に勧めを記しているように、お互い別の働きをしていると尊重し合い、キリストにあって一致して行ければと切に願い求めます。

 


 「さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」   エペソ人への手紙4章1-3節(引用:口語訳聖書)
   


  

 
   

Feb. 2, 2020

 悲しみに寄り添い、慰めを祈る

 

 

  2019年12月4日、アフガニスタンで中村哲医師が銃撃を受けて亡くなられた、というショッキングなニュースが流れたことはまだ記憶に新しいと思います。アフガニスタンでも、日本でも、多くの人々が「何故?」と悲しみの声を挙げ、彼の死を悼まれたでしょう。中村医師はクリスチャンで、1983年に日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)を通して、最初はパキスタンのペシャワール・ミッション病院に派遣され、その後パキスタン側のアフガン難民の診療を開始し、以後、アフガニスタンでも医療だけにとどまらず、水源確保事業等、現地の人々の生活改善の為に長年活躍されてきたそうです。ペシャワール会は彼とその仲間たちの活動を日本で支えてきた団体で、私たちの教会に送られてきていたその会報を通して、彼の事業を改めて知り、本当に心が痛みました。

 

 もう一つの忘れらない事件は、2014年11月上旬、イスラム過激派組織イスラム国にシリアで拘束され、2015年1月30日に殺害された後藤健二氏のことです。私は個人的に彼を知りませんが、その動画がインターネットで流されたというニュースは、同胞としてあまりに衝撃的で、怒りと悲しみで涙が止まりませんでした。後藤氏はアフリカや中東などの紛争地帯の取材に携わるフリージャーナリストで、戦争と貧困から孤児を救いたいという思いで報道を続け、彼もいつしかキリストを信じるようになり、取材の際には小さな聖書を持ち歩いていたそうでうす。 先日、ある方が後藤氏のことでこんな証しをされました。「自分は晩年になってクリスチャンとなり洗礼を受けたが、暫く迷いがあった。ある時、ジャーナリストの後藤さんのニュースを見て、神様、なんとか彼を助けて下さいと思ったが、彼を助けるために自分が身代わりになってもいいとまでは、どうしても思えなかった。私には出来ない。その時、ふっと思った。ああ、イエス・キリストは私の身代わりに自分の命を捧げて十字架に架かってくれた。そこまでして自分を救おうとしてくれたのだと。後藤氏のことより、はっきりキリストを信じる確信を得た。」

 

 ある人は、神がいるのなら、どうしてこのような犠牲があるのか、助けが与えられないのか?という疑問を投げかけます。聖書を読んでいても、キリスト教を信じるがゆえに拘束され、信徒たちはその人が助けられるよう熱心に神様に祈りましたが、ある人は殉教し、ある人は神様の奇跡的方法で牢獄から助けられます。何故ある人は助けられ、ある人は殺されてしまうのか、このことは神様のみが知ることです。もちろん、その遺族の悲しみは計り知れません。そして、他人がその遺族以外の方に対して「天国でいつか会えるから。この死には意味があるはず」と言ったとしても、慰めにはならないと思います。確かにクリスチャンには希望があります。この世の生だけではなく、この体が滅びても、霊魂は神様のもと、天国へと導かれ、そして天国で永遠に生きる新しい、今迄とは異なるからだが与えられると聖書に約束が記されているからです。しかし、遺族や故人を愛する人々が、大切な人の死をそのように受けとめられるようなれるとしても、それには時間がかかるでしょう。

 

 冒頭の彼らの様に生きている間多くの働きをなし、人々を助けてきた方々が犠牲になることは受け入れ難いことかもしれません。一方で、何か業績を残したわけでもなく、普通の人の死であっても、幼子のように生きた時間が短くとも、同様なのです。しかし、神様はその方々の死を通しても、残された人々に様々な影響を与え続け、意味あるものとして下さる方です。また、神様の慰めを受けて悲しみを乗り越えられた人は、その経験を通して、たとえ悲しみ苦しみの状況が同じでなくとも、今悲しみにある人に寄り添って励ますことが出来るという、プラスの連鎖が生まれます。多くの試練を経験し、キリストの福音を世界に宣べ伝えた使徒パウロも「わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるように(神が)して下さる」:()は筆者追記と記しているからです。私たちは何か言葉を言うより、悲しみに寄り添い、その人の為に神様からの慰めと励ましが誰かを通して伝わるように、そしてキリストにある天国での希望を信じて受け取れるように祈りたいと思います。

 


 「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである」第2コリント人への手紙1章3-4節 (引用:口語訳聖書)
   


  

 
   

Jan. 31, 2020

 陶器師と陶器

 

 

 登り窯は、NHKの連続テレビ小説スカーレットの信楽焼にも登場する、陶芸用の 窯のことですが、16世紀後半に中国・朝鮮を経て唐津で導入され、日本全国で普及したそうです。登り窯は傾斜の地に複数の焼成室が繋げて作られ、上から見ると房が繋がった様な形をしています。私達が4月から住む益子の町は陶器の町で登り窯があり、以前見に行ったことがありますが、とても独特で、その焼き味は陶芸を志す人ならば一度はその窯で焚いてみたいと思うそうです。2020年は、益子焼を広めた陶芸家の濱田庄司氏が、英国の陶芸家の友人と共に、西欧で初めて登り窯をセント・アイビスという英国の町に作って100年目の年で、益子の町でも記念の様々な行事が5月か11月まで開催されるそうです。その際、私も簡単な陶器を作ってみようかなと、とても楽しみでもあります。

 

 陶器というのは古代、どこの地域でも文明の利器として使われてきています。古代イスラエル国でも陶器師がいましたが、ある時、エレミヤという預言者が神様により陶器師が作っている場所へ行けと導かれ、陶器が作られる工程を見た後、次の言葉を神様から言われました。「粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」 1*

 

 私達クリスチャンは「神様の御手の中にある」という言い方をします。これは、陶器師が神様で、粘土が私達人間にたとえられていて、私達は生まれる前から、神様には一人一人の人生に「こんな器に作ろう」との計画があり、粘土を練るところから器として用いられるまでの全ての工程が神様の御手によってなされているということでしょう。一つ一つの陶器が違うように、私達人間は神様の手で、愛を持って創られたこの世にたった一人しかいない存在。だから、人生に様々なことがあっても、神様を信じて生きていけば、私達は神様の働きのための器として用いられ、全てのこと:良い事も悪い事を相い働かせて益として下さる*2という約束が聖書に示されています。

 

 「自分の人生は、自分のものであって、自分の意志と力で生きている」と信じているうちは、自分の存在が神様の御手にあるということを理解できないかもしれません。しかし、自分の存在は神様に愛されるためにあり、神様の祝福と恵を受け取れる様に一人一人に用意されていること、そのために神様の御子イエス・キリストを送って下さったことを知ってほしいと、神様は忍耐強く待っておられます。その神様の愛を知った時初めて、自分は土の器にすぎないけれど、その中にある神様の光が世に照らされ、神様の計り知れない力が自分を通して現わされる、自分の力ではないことが分かるようになり、今迄の「自分が自分が」という思いが砕かれて、神様の前に低くさせらるのではないでしょうか。

 

 神様の御手の中にあるという安心は、神様への信仰に基づいて心に与えられているので、生活の中で様々なことが起こったとしても、神様の守りに支えられて乗り越えていけると信じられることは、なんという恵でしょうか。この神様の恵を受けて、み言葉を信じて歩んでいきたいと今日も励まされます。

   


 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであっ て、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」私たちは土の器であります。 」第2コリント人への手紙 4章7節
   


   *1 エレミヤ書18章6節  
   *2 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 ローマ人への手紙 8章28節    (引用:新改訳聖書)

  

 
   

Jan. 19, 2020

 約束を守れない人のために

 

 

 先日、幼稚園の行事に参加していたとき、園の先生がおしゃべりをしている園児達に注意している様子が目にとまりました。「お話しを聞くときは、おしゃべりをしない、というお約束をしたよね。今は静かにしましょう!」先生たちは、園児たちと園生活の中で様々な「お約束」をしているようです。このように集団生活の中で幼い頃から、「約束を守ること」を教えられ、身につけていくことは、社会生活の基本となることなので、とても重要だと思いました。社会とは様々な契約から成り立ち、人々は互に法律の順守がなされるだろうという信頼関係が前提となり、法律を破れば罰則が科せられます。法律が伴わない、個人的な約束を取り交わしたとしても、それをお互い守ることが期待され、どちらかが破れば、両者の関係にひびが入ります。

 

 聖書の神様は人と約束をする方です。しかし、最初に、人間を創造された時からこのかた、人間はいつも約束を守れず、その結果、人は生まれながらにして神様から断絶してしまっています。しかし、それでも神様はなんとか人との関わりを続けるために、その後様々な約束、戒めを預言者等を通して、まずはユダヤ民族に与えました。たとえば、たくさんある中で一番大事な戒めは「神を愛しなさい」*とされています。神の与えた戒めを守れば神は人を祝福される、しかし、守れなければ神の守りが伴わず、神の怒りをうけ、人は自分のしたことに対する責任をとらなければならず、自分が蒔いた種を痛い思いをして刈り取らなければなりません。神様は人間が平和に互いに尊重し合って生きれる様に、戒めを与え、それを守るようにと言われてきましたが、その約束がなかなか果たせないがゆえ、人間の悲しい戦争の歴史、互に傷つけあう社会が繰り返されてきていると言えるでしょう。

 

 神様が与えた約束を守れない人間の救済措置として、人となってこの世に来てくださったのが、神の子であるイエス・キリストです。人が神様との約束を守れなくても、そのペナルティを人が支払うのではなく、代わりにすべてイエス様が十字架上で払う、罰を負うことにして、その結果、私達が犯した罪に対する刑罰はあったのにそれが帳消しにされ、私達人間はキリストのおかげで神様に赦され、新しい命が与えられるという、恵の約束、それがゴスペル:福音(良いしらせ)です。  「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」 (ヨハネ15:13) ここで「人」とはイエス様を指します、イエス様は私たちを友とみなして、友のためにご自分の命を捨ててくださったのです。そこまで私達を愛して下さっている。この大きな愛の約束は、ただこの救いを信じれば成立するのです。

 

 神を愛し、人を自分を愛するように愛しなさいという神様の戒めは、たくさんある戒めの中で最も大切で、他の全ての戒めはこれらにかかっているとイエス様は言われました。要は神様の戒めは愛で、見えない神を愛するというのは具体的にその戒めを守ることなのです。そしてキリストを信じれば、キリストによって示された愛によって私達の内側が変えられていき、私たちも神と人を愛せるように、聖霊の働きによって徐々に変えられていくという希望も聖書に記されています。だから、下記の聖書のことばのように、自分の力で守れなくて、ああ無理だと!その戒めを守ることが重荷とならないのです。すべてのことが恵として神様に用意され、私達が約束を守れるように助けて下さることを、日々感謝しつつ、賛美を捧げ、互いの平和のために祈っていきたいと思わされました。

   


 「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。 」第一ヨハネの手紙5章3節(口語訳聖書)
   


   *「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。  マタイによる福音書22章36-40節

 
 

Jan. 5, 2020

 頭に思い浮かぶもの

 

 

 皆さんは、朝起きてから、様々な活動をしながら、何か自然と頭に思い浮かんでしまうことはありますか?私の場合、将来はこうなれば良いなあと、実現可能かどうかは神様の計画次第ですが、色々な夢や希望を空想したりします。一方、洗濯物を干しながら、あの時はこう相手に言えばよかった、ああしないでこうすればよかった。。。と、変えようのない過去に対して空想する生産性のない、非建設的な思いが、時折沸いてしまいます。また、心配性でもあります。例えば、健康診断で何かひっかかり再検査となる。するとその結果がでるまでに、最悪のシナリオを空想。もしこのようなマイナスの思考が無意識に頭に上ってきたら、はっと気づき、神様、この思いを消してくださいと祈ります。

 

 たとえ、ブログでどんな話題になる面白いことを書けても、もしくは社会的に地位がある人で美辞麗句を人前で話せたとしても、人の言動はその人の心にあるものを反映し、ボロはでるものです。自分の生まれつきの性格、傾向性は簡単に変えられないかもしれないし、社会に生きている限り心に悪い影響を与える様々なことから自分を守るには限界があります。しかし、昔の西洋のことわざで、「鳥が頭上を飛ぶのを止めることはできないが、鳥が自分の頭に巣を作るのは阻止できる」とあるように、自分の心に内外から入って来るものをある程度コントロール出来るはずです。それには意識的に行動をとる必要がありますが、どうしたら巣を作られないように心をコントロールできるのでしょうか?

 

 私の場合は、神様のことばである、聖書のことば(みことば)に力があると信じ、朝起きたらまずは聖書を夫と一緒に読んで、共に祈ってから一日を始めるようにしています。また、なるべく、賛美歌やゴスペルを家にいる時、車を運転している時BGMで流し、自分だけのときは口ずさむようにして、積極的に心に良い物を取り入れようと心がけています。そして、生活の中で具体的に「こうこう思っているんですが、どうしたらよいですか?」と神様に祈り求めます。実際今まで人生の、生活において、みことばによって決断で導かれ、励まされ、また戒められてきて、今の自分があります。みことばは私の力であり、それを与えて下さる神様に感謝しています。

 

 マイナスの思考、過去の嫌な思い出のフラッシュバック、恐れが、私の頭上を矢のように飛んでくるのは、日々さけられません。しかし、それをブロックする聖書のみことばを盾にして、意識的に、真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、ほまれあること、徳といわれるもの、称賛に値するものをまめに心にとめ、それらで心を占められ、自身の言動に反映されてほしいと願います。これらの良いことは全て神様のご性質にあり、みことばに示されています。キリストに従い、自分自身もこのような思いに満たされ続けるように、賛美をいつも身近で流し、みことばに触れていきたいと祈り続けようと思います。

   


 「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」 ピリピ人への手紙4章8節

   

 
 

inserted by FC2 system