|
Apr. 29 |
"事実を伝える"
「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。」ヨハネによる福音書2章1−3節
昨晩、二人の友人より、全く別のある問題について聞き、目の前の状況では希望がない、自分でできるだけがんばるけれど先行きが不透明における焦り、その心労や辛さを聞く機会がありました。私の対応は、相手の話を聞くだけで、具体的な方策は何も提案できませんでしたが、共通して言ったことは、神様に委ねて祈ろう、きっと神様が不思議な方法で祈りに答えてくれるからと励ますこでした。
大変なことは重なるものです。すると益々焦燥感はつのり、投げ出したくなる、もしくはあきらめて希望を持たずに、考えないようにする、他のことで紛らわし、問題に触れないようにするとか、人の心は様々な方法で自分の心の中で対処しようとします。でもそれには限界があるし、表面的であると思うのです。
今日、礼拝に行って教えられた個所は、まさにそういう時だからこそ、神様に委ねるという信仰が必要だということでした。イエス様のおられた時代に、婚礼のバンケットでお客をもてなすぶどう酒がなくなるという、婚礼のホストとしては恥ずかしい状況が起こります。そのゲスト側にいたイエス様の母マリアがイエスに「ぶどう酒がなくなりました」とだけ言いました。何か問題・困難がおこった時、神様にその事実だけ伝えようとの教え。私の場合はいつも、事実というより、「こうしてください、ああしてください、ああだったらいいのに〜」と色々自分の考えうる解決策を神様に申し立て、これをかなえてくれと祈りがちです。しかし、そうではなくて、信頼して神様に現状・事実だけを訴える、すると神様のタイミングで神様の方法で(それが私たちにはなんでこんなことを?何の意味があるのか?とみえることでも、「水がめに水をみたしなさい」との指示のように)言われたら、その通りに従ってする。主の言われたとおりにする。すると、困った状態はそのままで終わらず、主の方法で必要が満たされ、それも予想外の方法や結果で最高のものを神様が用意して下さる、水が最高のワインに変えられるように、状況がまたは私たちの心が、相手側の心が良いほうに変えられる、という不思議なしるし・奇跡がおこるよと教えられました。
私も、もっともっと神様を信頼したいと、そして自分の画策や思い煩いではなく、何かが起こるまで待つという忍耐を与えられたいと思わされました。 |
Apr. 22 |
"アメリカが嫌い?!"
「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。」
第2ペテロの手紙1章5-9節
先日、私の今の職場を紹介してくれた人から、こんなメイルが来たのです。「”最近陽子さんはアメリカが嫌いだといっている。嫌になって日本にかえってしまうのではないか心配している”とドクターが言っていたけど、大丈夫ですか?」と。私は驚いて私のどんな態度や発言がこのように上司のドクターに思わせたのか考えました。私自身としては、大変なこと苦労があっても、今感謝してエンジョイしているのに。。
職場では常時、機械・設備が壊れ、治療に支障をきたし患者さんにも迷惑をかけます。修理を呼んで高額の代金を請求されるも、その人が一度できちんと直してくれない、最悪の場合はまた不具合がでるということが多々あり、私はアメリカはどうしてこういうレベルなのか?とドクターと二人でよく文句をいっていました。もう一つ、アメリカの医療制度についても、日本と異なり非常に高額な保険料を支払わないと、治療がうけられない。特に歯医者の請求は膨大。こういうことを一緒に言ってきたことがこのようにとられたのだと気が付きました。
私の素の品性は最悪です。以前は噂話を平気でしていたし、会社の上司の不満を同僚と飲みながらこぼしていたこともあり、やられたらやりかえそうという戦闘態勢があり、よく考えずに行動したり発言していたり。しかし、キリストを信じてから霊の部分が新しく作り変えられた者として、今までしてきたことがいかに人間関係において破壊的で神様が悲しまれることだと示され、もはやこれらをしてはならないと自然に思えるようになり、祈りつつ、大分変えられてきたのですが、まだまだ古い自分が残っているのを認めざるを得ません。キリストのような品性になりたいと。この世の基準で
人がどう自分を見るかには左右されませんが、少なくとも傍から見ていて何か苦いもの、不平不満的なものを私がかもしだしていたら、私がキリストを信じて喜んで生活していることと一貫性がないのです。
自分の現実にかなり落ち込みましたが、めげずに悔い改めてまた祈って内側が不平不満を言わないよう変えられることを祈ろうと思わされました。安心なのは私がこんな、どうしようもない者でも、とにかくキリストを信じてついていくと決めて進んでいけば、神様の愛は私の想像以上に大きく、今日のみことばのように、神のことばによって戒め、正しい方向へ矯正してくださる、忍耐を持って導いてくださる方だからです。 |
Apr. 17 |
"JOYの意味"
「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」 マタイによる福音書20章28節(人の子→キリスト)
通勤途中に、WAWAというコンビニによることがあり、そこでちょっとした嬉しい体験をよくします。私が入口を入ろうとする時、ちょうどそこに居合わせた人が私のためにドアをホールドしておいて、中に入れてくれるのです。ありがとうと微笑みを返します。日本では自動ドアが多いので、そういう状況が少ないのかもしれません。自分がしてもらってうれしかったから、今度は自分もしようと心掛けています。しかし自分に余裕がない時には忘れてしまい、われ先にとなり、器が小さいものです。
先週、サンデースクールにて、みんなで作業をしている子供たちに、”JOY”の意味について教えました:
Jesus
Others
You
これらの頭文字をとって、JOY。イエス様、他者、自分 という優先順位。この優先順位でもって物事にとりこむと内側に”喜び”がわき、相手にも流れる。私は自分に言い聞かせるように、子供にも説明。いつもイエス様ならどうするか、イエス様を第一に考え、そして他者のことを、自分は最後。どうしても、我先に根性がしみついていて、自分が自分が〜というゲットモードに自然になるのが私です。自分が出来てないことを、人に教えたり説明したりするというのは、おこがましい。でも完璧に出来てからしか人に伝えられなかったら、一生先に進まないので、自分も開発途上ということを前提にて。
「お先にどうぞ」と相手が誰であれ、特に小さい子供や、体の弱い人、お年寄りに譲る、親切にするという心は、道徳的にどこの国・宗教でもある考え方です。キリストを信じる人が何か慈善活動をする場合、他のボランティアやNGOとの活動の動機の違いは、目的が”人のため”という前に”キリストに従ってやる”という前提があります。
今日の個所で、イエス様は神の子なのに、自分が仕えられるためにこの世に来たのではなく、人に仕えるために、自分の命を捨てるために来たといって、人にその模範を示してくれました。そしてこれが神の愛だよと自らをもって教えられました。自分の持前の性質や力では限界あり、というか正直私は出来ない者です。しかし私の内に住む聖霊がリードし、出来なかったとき後からでも気づかせてくれて、徐々に”JOY”ができるように変えていただきたいと思います。 |
Apr. 16 |
"神の小屋 (The Shack)", William Paul Young著 (サンマーク出版、2008年)
「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」第一ヨハネの手紙4章9-11節
先日、人からの紹介で久しぶりにハードカバーの小説(日本語訳)を読みました。二日間で一気に読み終えてしまえるほど、先がどうなるのかハラハラドキドキ、サスペンス的部分と、ファンタジー的部分、そして全般的に聖書的内容で、とても興味深い本でした。様々な内容が盛り込まれていますが、中でも私達の問い「なんでこんなことが自分の人生におこんなきゃならないんだ?神がいるなら、なぜそれを阻止してくれなかったんだ?」という究極の問いに対する、神の答えも?!
あらすじは、少年時代に父親から虐待された傷を負う主人公が、大人になって結婚し、妻と子供4人と幸せな家庭を築いていたある日突然、シリアルキラー(連続殺人犯)に自分の最愛の末娘を誘拐、殺害され(しかも死体はでてこない)という、恐ろしい事件がおこるところから始まります。英語の題名は”小屋”(The
Shack)つまり、FBIが山奥を捜索し、ぼろい小屋のなかに娘の血の付いた服が見つかった場所を指します。そのあと犯人の手掛かり全くなし。しばらくたって、主人公に「小屋で待っている、パパより」と切手も張られていない差出人もない手紙が郵便受けに入っていて主人公は衝撃をうける。”パパ”とは彼の妻だけの神様に対する呼び掛け。家族のみぞ知ること。これは犯人からの呼び出しか?まさか本当に神様からの?と困惑、とうとう一人でその忌まわしい小屋へ出掛けることに。その先は奇想天外の内容、ご興味があるかたは読んでみてのお楽しみ。お勧めです!
この本を読んで何度か涙を流しました。なぜなら、この中に神様の・イエス様の人間に対する愛が非常にわかりやすく表現されていたからです。読んでいて、はっとさせられるのです、そうか、それでイエス様は十字架に自らかかったのかと納得できるような。聖書に書いてあるような表現ではなく、そのことが我々人のレベルで考えうる家庭や人生での選択として、リアルにリンクしてくるのです。これを本当にあったことか(この事件は存在し、その人の体験談を友人が執筆)か単に小説かどちらかととらえる自由も、読者に与えられています。私はシンプルに、神様からのメッセージの一つの表現として感謝して受け取ります。この本を通して、神、信仰、愛、希望、赦すこと等について共感するところがたくさんあるからです。 |
Apr. 14 |
パンを作る人とデリバリーする人
「イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。 」ヨハネによる福音書6章35節
私がパン好きなのは何度も今まで書きましたが、実はその好きなパンを自分でオーブンで焼いてみようと何度かトライしたことがあります。しかしあんなに時間がかかる割に(こねたり、発酵させたり)うまくいかないのです。そして、結論にいたる。こんな労力を使うより、買ったほうがいいと。
昨日の聖書の学びはイエス様がご自身のことを、天から下ってきたパン、命のパンだとおっしゃったところでした。パンは飾る者でもなく、食べて味わうもの、そして生きていくのに(日本人には米が主食のように)必要な体のエネルギーのもと。イエス様を食べるというのは(つまりイエス様を信じるということ)、魂のかて、エネルギーのもとになるだけでなく永遠の命をもらって、天国で神様と共にいられるということ。
イエス様はこの教えの直前に、おなかがすいている5千人の人々に奇跡で5つのパンと2匹の魚を増やして給食しました。イエス様パンを奇跡で増やして、弟子たちがそれをデリバリーする。神様は私達が今この肉体で生きている間も、必要なものは備えて下さる方、食物も、食べるための仕事も。
しかし、優先順位として、イエス様を信じることを生活のなかで一番に求める(命のパンを食べる)ことを大切にしたいなとを学ばされました。私は自分の役割は、自分が食べてみたされるだけでなく、その命のパンを他の方に
デリバリーする弟子のように、イエス様ご自身のこと、この永遠の命のこと、キリストを信じることで与えられる生きる希望、内側の品性がキリストの愛のよう徐々に帰られていくという、GoodNews(福音)を少しでも運べるものになりたいなあと願いつつ。 |
Apr. 9 |
アンバサダー:使節
「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」
第2コリント人への手紙5章29-21節
以前私が日本で働いていた時、平日に定期的にファミレスとかカフェに集まってご飯を食べながら、東京で働いているクリスチャンがフェローシップ(交流)をする会があり、私は楽しみに出ていたものです。そのグループの名が”アンバサダー”で、実はこのグループで出会った人を通して、今の東京の母教会(カルバリ・チャペル国分寺:ジーザスコミュニティ)に導かれたのでした。
ちょうどその時期、私は信仰が不安定で新しい教会に行けたらなあと求めていました。そして、2000年8月にその教会へ初めていって「ここだ!」と思い、自身の不安定の原因:自分の抱えていた罪が示され、それが悪かったと認めて神様に告白し、そのためにイエス・キリストが十字架で死んでくれたんだと本当に心から信じる信仰が与えられた時でした。まるで、新しく生まれたかんじです。
アメリカでは、なんとなく神を信じていてもキリストを救い主として信じていない、でも自称クリスチャンといっている人とはっきり区別し、真剣に信じて従っている者を”ボーン・アゲイン・クリスチャン”と呼ぶことがあります。ある牧師いわく、クリスチャンに種類はない、クリスチャンというからには、ボーン・アゲインしていないとおかしいとも言います。つまり今まで自分が世の中で生きてきたと同じように考えたり、行動していたら、いくら教会へ通っていたとしても、新しく生まれていないわけです。知識では聖書のこと、神様のことをわかっていても、ボーンアゲインしていないと、二股状態で、心が二つにこの世と神様とに分かれます。自分はボーンアゲインできたとわかったのは、それ以後すべての考えが自分中心からキリスト中心に、聖書に書いてあることを軸に物事を考えるようになったこと、また、信じると神に従うということが強制ではなく、自発的に神の愛に応答して従おうという態度に徐々に聖霊により変えられてきたからです。そして今も進行中です。
これも神様が私が二股で苦しんでいるのをかわいそうに思ってくれて、私が特に何か必死に祈ったからでもなく、何もしない、ただ助けを求めていました。すると再び信仰が再生するきっかけをくれたのです。まさに一方的な神様のあわれみと恵みでした。
今日の個所は、やはり神に反抗してクリスチャンを迫害までしていたパウロが、信仰が与えられ救われたから、”キリストを通しての神の和解を受け入れようよ”と神の使節として勧めている個所です。人は生まれながら、神に反抗しているから、神との和解が必要なんだなと、自分のことを振り返っても思わされました。その和解の仲保者がキリスト。
|
Apr. 6 |
回復力
「それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」 第2コリント人への手紙4章14-16節
本日は、5ケ月前に脳内出血で倒れ、危篤状態だった80代後半の方のお見舞いにいきました。前回お会いした時は、集中治療室で、頭骸骨に穴をあけて管を通して血を流出させていた状態、意識も朦朧としていて、麻痺もありよく話せない状態でした。しかし、現在はリハビリで回復し在宅に戻っており、彼女の驚くべき回復にびっくり。倒れる一月前に、50代の息子さんを突然亡くされ、その悲しみで”自分も息子のところにいきたい”と生きる力も失せていたかのようでした。しかしみごと回復したのです。
一方で、同じ知り合いでもご主人の病状が日に日に悪くなり、介護が大変な奥様もいます(その方も80代)。回復する人もいれば、良くならない人もいます。人それぞれ人生の中で、この限界のある体では病気や老い、また様々な辛い時期もあり、回復のきざしが見えない時もあるでしょう。
4月8日はイースターの日曜日。わたしたち、キリストの復活を信じるクリスチャンはキリストを通しての神様の大きな愛、そのおかげで自身の罪が赦され、そして死んだら終わりでなく、天で新しい体が与えられ、永遠に神様と生きれることを素朴に信じています。キリストが死んで、お墓に葬られ、3日目に新しい体でよみがえったこと、そしてそれと同じ永遠の復活の体が自分にも与えられることも約束されています。それも、何かしたから、日頃の行いの良し悪しで与えられるのではなく、単に信じればいいわけです。ですからこの世での苦しみ、悲しみがあったとしても、その先のことを思って希望を持ち、困難を乗り越えられる力が与えられます。死後の行く先がはっきりしているので、この世の体の健康、この世での幸せの追及にあくせくしないというのは、ある意味自由です。
一方でこの世の生活も大事にし、体は衰えていっても、内側が神の霊により日々新しく、イエスの愛の性質を実行できるよう変えられていく、つまり生きている間も復活の力で古い自分のままでなく、徐々に性質・思い・考え方が神様の方へと変えられるというのが希望もあります。今年もイースターもキリストが復活してくれたことを感謝しつつ、お祝いしたいと思います。
|
Apr. 5 |
粉が尽きない瓶
『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。
I列王記 17章14-16節
先日、患者さんから干しブドウとくるみの入ったおいしいパンを頂きました。私は日本人のくせにパン好きで、感謝して頂きました。なかなかおいしいパンにアメリカでは出会えないのですが、このパンはとてもおいしかったので、満足。パンは主食であり、大事な食べ物です。
古代イスラエル王国の時代、エリヤという預言者が活躍していた時代は、イスラエル王国は南北に分裂し、両国とも異教の神を拝み、真の神から離れてしまっていたため、預言者が神様から言葉を預かり、対外その悪王にたいして、恐れずに預言を伝えます。エリヤはその主たる預言者で、彼があるやもめの家に来たとき、彼女の家は食べる物が尽きるところでした。その当時夫を失った女性は生活が自立できないため、聖書ではやもめと孤児を社会が養うように、法律があったくらいです。まさにこのやもめは、かめに一握りの粉と、びんに少しの油しかなく、「今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。そこへエリヤが現れ、そして神様が彼を通して奇跡をおこない、しばらくの間使っても使ってもパンのための小麦粉と、油が瓶から無くならないという、不思議なことがおこり、このやもめと子供を助けという個所。
神様は本当に一人一人の必要をちょうど満たしてくださる方、こういう常識では考えられないような奇跡を現代でもあり、ぎりぎりのところで、食べ物・献金が与えられたという話をクリスチャンからたくさん聞くことがあり、励まされます。
しかし、「祈ったら宝くじがあたった」という体験談はクリスチャンからは聞いたことがないのですが、誰かありますか?神様はどうも、今必要なものをぴったり、ぎりぎりのタイミングで与えてくれるようです、いっぺんに沢山のお金ではなくて。それが我々欲深い人にとってベストなのかもしれませんね。 |