|
May 30 |
内輪もめ
「さて、ここに民がその妻と共に、その兄弟であるユダヤ人に向かって大いに叫び訴えることがあった。」ネヘミヤ記5章1節
アメリカの某大統領がある演説で、「もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。」*1という聖書の個所を引用したことがありました。人間の歴史は、ほとんどが戦争。戦争がない時代はないです。強い国が弱い国を責めて統合されていきますが、弱い国というのは何かしら内政に問題があり、その弱さに付け込み敵が攻めるというパターンがよく見受けられます。
教会の中の歴史も同様。教会といえでも悲しいことに内部での問題が勃発し、結果的に分裂がおこります。キリストを信じる人の集まりといっても、しょせん罪人の集まりですから、完璧ではないのです。信仰が単なる宗教行事となり政治と結託すると、もはや信仰は形骸化。本当は、一人一人がキリストに従っていたら、何か問題がおこった時その解決のために共に神に祈って和解しあえるはずなのです。感情で流され、持ち前の気質や社会的制度で事を取り決めようとし、”自分たちの教義、自分たちの考えが正しい!”と、相手を赦さず、裁いて結果的に教会は教会としての機能が弱まるのです。
聖書のネヘミヤ記で、古代ユダヤ人が捕囚の憂き目に合い、ペルシャ帝国の時代に国への帰還が許された時代に、ネヘミヤという人がエルサレムの城壁の再建にとりかかろうとすると、それに敵対する他民族とも戦いつつ、城壁の修復を追行するようユダヤの人々の指揮をとっていました。一方、同時期にユダヤ人の同士での問題があがり、人々は総督であったネヘミヤにそれを訴えた個所が今晩の水曜の聖書の学びでした。ネヘミヤはそれに対し、怒ったと記されています。義憤というのはあり、それは罪にいたらない怒りで、きちんと建設的に対処すれば、問題解決につながると思うのです。
内部で問題が起きたときに、神から権威を与えられたリーダーが中心に、妥協せず、あくまでも神の教えに統一性を持ちつつ、ときには厳しく対応:愛を持って真理を語る、現代の教会にもこういう適用が必要だろうと示されました。教会内でもめごとがおきるのを大喜びしているのが敵:サタンです。クリスチャンを内わもめさせておけば、おのずと伝道力・社会への影響力を失っていくからです。サタン(悪魔)はなんとか、人々がキリストを信じないようにあの手この手を使うため、霊の戦いはいつもあることを意識しつつ、自分もぼーっとしていてやられないよう、神の武具*2を身に着けて祈り、神の言葉である剣で戦っていかねばと本日、タイムリーに学ばされました。
*1(マルコ3章24-25節) *2 エペソ人への手紙6章10-18節 |
May 26 |
"Taking The Hill: A Warrior’s Journey Home", Documentary film
「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。」<BR>
第2コリント人への手紙10章3-4節
ベトナム戦争:この戦争程、映画化されアメリカ史上深い傷を人々に残した戦争はないのではないでしょうか。もちろん、どの戦争でも心身に傷を受けない軍人はいないはずです。私は個人的には軍人の知り合いがいませんが、本日、これに関する記事を読んでいてふと涙を流しました。"Taking the Hill"というフィルムの中で、40年前、ベトナム戦争で元海軍隊員だった、今は牧師のRaul Riesさんが「神は私を赦さないだとろうと思ってた。」と。その言葉に反応した退役軍人がたくさんいたそうです。罪責感というのはどんなセラピーや処方を持ってしても取り除けないのではないでしょうか。国のためとはいえ、心の奥底では完全に正当化しえなくて、その責めに苦しんでいる人々、Raul牧師は彼自身も体験したことを通して、現役及び退役軍人への伝道に関わっている牧師です。
軍人さんに限らず、一般人の中にもなんらかの人には言えない、責められているものがあり、それにずっと蓋をして生きている人っているのではと思ったのです。なぜなら、私自身も以前、クリスチャンホームに育ち頭では聖書の教えを一部知っていて「知っているのにここまでやってしまったらもう神も私を見捨てるだろう。自分は地獄に行くのがふさわしいな」とマジで思った時期がありました。そのときはかなり斜に構えた投げやりの人生の時期。私は”知っているだけ”で、信仰がなかった時期でした。戦場の軍人さんのトラウマに比べれば、私のような凡人の小さな小さな罪責感やトラウマなど全く比較にもなりませんが、それでもその本人にとっては心の中の暗闇でした。
結局、Laulu牧師も、またこのフィルムを見てづっと抱えてきた重荷、トラウマから解放された人々も、そして私も、ひとつの共通点があります。それは、たとえどんな責められるようなことを人生のなかでしたとしても、また人は赦してくれないようなどんな負い目があったとしても、神様は赦してくれると受け取れたことです。それはイエス・キリストがどんな罪のためにも先に、2千年前に十字架上で、罪の罰を全て負ってくれたから。それを信じたとき個人的に神様からの赦しが受け取れて、生きる希望が与えられ、後ろ向きの人生から神に向かって前向きの人生へと方向転換できたのです。
このような話は、これといって心に傷もなく、刑法的な罪を犯したことのない人にとっては、関係のない話かもしれません。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである*」とイエスは言われました。 自分に負い目があると思わない人は、赦される必要もないので、イエスを必要としないかもしれません。しかしイエス様のいう”罪”とは表面的なことだけでなく、心の内側のことにも触れられます。また、心の深い傷やトラウマも癒すことができるのはイエス様です。私は内側の部分で赦される必要があると気付いたとき、キリストを必要とし、そして信じられた時に解放があったこと、その時どんなにうれしかったか、今日の記事を読んで自分が信仰を持った時の原点を思い起しました。
*マルコによる福音書2章17節
filmについて
http://www.christianfilmdatabase.com/review/taking-the-hill-a-warriors-journey-home/ |
May 24 |
宝の持ち腐れ
「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。」「
すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて旅に出た。…一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。」マタイによる福音書25章14-15,24-25節
私は元来受け身なほうです。仕事上でも、レジャーでも自分で自ら率先して何かイベントを企画したりするのが苦手で、逆に既に決まったことを、淡々とするのが性に合っています。人が立ててくれた計画にその一部分として働くのを好みます。一方で、神様が私にタレント(何か小さいことでも才能、資質)を与えてくれています。例えば、人前で話す、ステージでマイクをもつのが苦にならない:MCとか、瞬間芸をするとか(こんなのは別に才能ではないか)、声が大きい(耳が遠い方に話す時有用)、集計作業等。
しかし、教会のことに関しては神様から示されて自ら始めるというのは最近チャレンジしていて、それは自分で全部抱えなくて済む、つまり神様が導いたことなら神様が責任を取ってくれるという信仰に基づいて、また助けを求められるから、自分の力で出来なくても、上から与えられるとして続けていて、これは神様の恵みに他なりません。教会内では、”これらがあるから、この才能を使って何かやるぞ!”と始めるのではなく、あくまでも、神様に仕える(=人に仕える)という”動機”が先にあり、結果的に与えられた能力を使うというのが原則です。もしこの順序が逆になると、もはや教会での活動は表向きは神様のためと称して、世の中の仕事や出世と同じく自己実現となってしまいます。(自己実現が悪いという意味でなく、教会内ではしないという意味です)
今日バイブルスタディで、祈りの大切さを学びました。祈りには色々な側面がありますが、今日は特に嘆願(Petition、とりなし)について。もし人が”神様はすべて知っていて、力があるから別に自分が祈らなくても、神様がやってくれるでしょう”とすべて神様任せで祈らないというのは、まるで今日の個所のように才能を与えられていて、使わずに土に埋めて隠しておく僕のようだと。”主人は怖い人だし、全知全能だから自分は何もやる必要ない、だから埋めときました”といった、主人との愛の関係ではなく恐れの関係しかもたず、結果的に宝の持ち腐れとなった僕のようだと。
そもそもクリスチャンが何か教会内で活動する動機は、キリストが自分の罪のために死んでくれたおかげで、自分の罪が赦されたということを本当に信じて、その神様の愛に感謝して、自発的に応答してするはずです。心の態度の問題。たとえ体を動かせないひとでも、相手のために(たとえば病気の人のため、ある人が救われるようにとか)祈ることは神様への重要な奉仕の一つです。実際多くの表立った活動も必要ですが、その活動の中で動機が他のことがメインで神様のことは添える程度となっていると、その活動はもやは地域のコミュニティーセンターの活動になります。コミュニティーセンターは良い物ですが、教会の目的がそれとは異なるからです。
人はキリストを信じる信仰だけで、救われます。しかし本当に信じたら、神への応答があるはずだと。それは心の内側の態度に問われるという点で、目に見える活動ばかりでなく、もっと積極的嘆願の祈りをしていくようチャレンジされました。 |
May 22 |
スカイツリー開業(634M:ムサシ)
「主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」 詩篇145:18 (主=神)
先日、成田空港へ向かう京成ライナーに乗っていて、ふと窓から空を見上げると今話題スカイツリーを初めて見ることが出来ました。私は東京の西に住んでいた為初めてこの高い見慣れない塔を拝見し、突如現れた感じで思わず感動。今日が開業、それも高さまでごろ合わせしていたとは、ユニークだなと思いました。昭和初期の人が初めて東京タワーを見たとき、同じような感動を覚えたのではないかと、先日「三丁目の夕日」という邦画を見たばかりなので思わされました。
世界でも次々と高い塔や建物が建設されています。NYでもあの9/11の跡地に再び建物が建設中、2015年に完成予定で、アメリカで最も高い建物となるだろうとのこと。この貿易センタービルに関しては、たとえどんなに高く立派なのを建て直したとしても、人々の心の痛みを決して忘れさせることは出来ないのではないでしょうか。
昔から人は高い建物をあくまでも追求する傾向があります。天にまで近づきたいという思いが、例えば宇宙ロケットもそうですが、より高い天空を求めて、何かを探しているかのように思えます。
この天地を創られた神は、確かに宇宙よりも高い天におられますが、実は私たち人間のすぐ傍にもいてくれると知った時、非常に安心しました。聖書を読んで見ると、神は霊なので同時に時空を超えて、一人一人と共にいることが可能なほど全知全能なのだ知ると、人間の想像を絶します。一方で、そんな恐れ多いような神様は、聖霊として人々の傍にいる、今日の個所のように気づいてほしいと、呼び求めてほしいと、それも強制的にでなくやさしい。そして私が人生のある時点で、呼び求めていてようやく心が満足できたのは、イエス・キリストに出会って信じたときです。それ以来、聖霊が内側に住んでくれています。聖霊は目に見えないし、私には感覚として感じられませんが(感じられる方もいますが)、聖霊がいる証拠は、たとえいろんな出来事で感情的にはUP&Downしても、私の感情より深い部分:魂や霊に静かな平安と将来への希望があり、また罪責感に責められることもなく、そこへ落ち着けることです。だから、もはや次々にもっともっといい物や地位、高い高い天を追い求める必要がないのかもしれません。 |
May 21 |
転々とする生活
「群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。」 ルカによる福音書12章13-15節
私は先週から新しい所に引っ越しました。2年半前アメリカに越してから、何回引っ越したのだろうと思い返し、そしてこんなことを書いていても来年の今頃はここにいるのかどうか。。。経済が不安定と致し方ないです、まあ独り者なので気楽ですね。今度は、念願の猫のいる家の一室をお借りすることに。小型犬もいますが、とてもかわいいです。
物を増やさないようにと努めていますが、生活しているとなぜか増えていきます。引っ越しの度に、荷物がもっと簡易だったらどんなに楽かと、一人で全部運ぶ労苦に疲れる反面、もういいかげん一つのところに家族を持って定住したいとふと思うことがあります。定住の家となれば、自分で選んで何か買って家を少し飾りたいし、ガーデニングだってちょっとしたい、お客様が来た時もてなせるように食器、キッチン用品等〜空想は広がるのです。
今日読んだ個所は、財産分与のもめ事に介入してくれと突如頼んできたある人に、イエス様が言われた言葉です。確かに、いくらたくさん何か持っていてもきりがないし、自分の命のことはコントロールできなし、ましてや死んだあとの魂のこともお金では何もできない。という、タイムリーなお言葉。貪欲にならず、今持っている者、与えられているもので満足しようと思います。
イエス・キリストは目に見える物ではなく、見えないこと、しかし重要なこと(魂の救い)をプレゼントしてくださる方。その恵みを受け取って感謝しつつ、正直当分引っ越したくないと願います。そして私の目指すことは定住より(もちろんできればベターです、はい)、今は自分が神様から頂いた恵みと、GoodNews(福音)を人に分かち合うことで、地上ではなく、天に宝を積めることを目指したい、ああ、これ出来てないけど目標です。 |
May 18 |
目覚めはばっちり
昨晩は友人と久しぶりに電話で話し、互いにお祈りをしあってから夜中に床に入りましたが、その後全く眠れず、とうとう鳥が鳴きだしてあたりが明るくなってきたので起きることにしました。時差ぼけのため貫徹。今日はNYへ行くのでその往復のバスで寝る時間があるので問題ないですが、とにかく私の体内時計は調整が非常にゆっくりなので困ります。
私はいつも感謝に思うことは、共に祈りあえる仲間が与えられていることです。同じ信仰に立って、最近あった嬉しいことをわかちあい、そして現在抱えている問題や祈りのリクエストを互いにだして、共に祈ります。傍にいなくても、たとえ距離が離れていても、祈ってくれている友人がいるのです。私はこれでどんなに支えられていることか。また制限なしの国内通話やスカイプというツールで料金の気兼ねなく話せるのはITの恩恵です。
私が最近あったことで落ち込んでいると、彼女から、もう神様に謝ったんだから赦しを受け取り、自身を責めるのをやめ、だからこそ神様に信頼して任せきること、次回への教訓にしなくてはと彼女からはっきりいわれました。昨年の夏、心を一つにして共に祈れる人を日本だけでなく、アメリカの地にても与えて下さいと神様に真剣に祈ったことがあります。するとその後、次々と意外な方面から祈りの友が与えられました。彼女はそのうちの一人です。
神様は通常聖書のことばを通して語りかけてくださいますが、時にキリストことばを心のなかに宿らせている友人を通して、直接励まし、教えてくれるので本当にありがたいです。そして神様に感謝の心がその後わいてきて、興奮していたのでしょうか、寝ながらづっと讃美歌が頭をぐるぐる回り、頭が作動していて気が付くと4時でした。時差ぼけに関わらず、目覚めはばっちり(というか寝ていない)。今日も一日が楽しみです。 |
May 14 |
”講演:中高年の心と体の健康”
「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」
ヨハネによる福音書10章11節 (わたし=イエス・キリスト)
5月13日午後、中野にある母の教会で地域の人を招いて「中高年の心と体の健康」と題し、循環器系の土肥医師と私の二人で講演をする機会があり、私の専門は口腔衛生と地域の社会福祉相談。日本では高齢者向けの福祉相談員をしていましたので、自宅で暮らす高齢者のための様々な支援・サポートを提供する相談機関のご紹介と、現在アメリカで歯科医に勤務していますので、歯がどんなに体の健康と関係あるかと、その予防についてお話させていただきました。
参加者の皆さんの関心事は、どうしたら病気にならずにこのまま余生を送れるかということ。参加者は歩いてここまで来られる高齢者の方々ですから、まだまだお元気です。(ちなみに日本で高齢者とは65才以上を定義しますが、実際65才はまだ現役です)医師より病気にならず、健康を保つための必要事項を医学的観点から説明され、私のほうで歯と歯茎の健康は後回しにされがちでありますが、実はこれらは非常に体全体にとっても重要、栄養摂取やかむことでの脳の活性化、また歯周病の原因となる細菌が一部の心臓病を引き起こすこと等をご紹介し、その予防策について(食事の度の歯磨き、定期的なクリーニング@歯科医院)をお話させて頂きました。質疑応答でも皆さん積極的に質問されていて、とても有意義な時を持てました。
私はこういった教会で行なわれる健康や福祉関連の講演の最後に、必ずお話させて頂くことがあります。健康や必要とされる福祉サービスの情報を得ることは大切なことですが、それらを超えて大事なことがあること。たとえご自身がが気や介護が必要になっても、家族の介護等で精神的に問題を抱えているとしても、心の平安を持つことが大切であること、また病気はどんなに予防しようと努力しても、残念ながら病気になってしまう場合もあるいことを申し上げています。これをしたから絶対保障されるというシステムはこの世の中で不在です。一方、その困難を自分の力、自分のガッツですべて乗り越えられるかというと、それも限界もあること。心の病は弱者と呼ばれる人だけの病ではないこと。従って、心のもっと深い部分、魂の平安を得ることが必要だと。それは環境に左右されない、喜びと希望をも与え、例えば羊が羊飼いを必要とするように、人はイエス・キリストが必要であるとつなげます。
羊飼いであるイエス様は一人一人を大切に思い、生まれたときから一人一人に計画を持っておられ人生での道案内をしてくださる。そして最も重要なのは、羊のために命を捨てて下さるのです。人が作り出した宗教の神々のなかに私のために命を捨ててくれた神は誰もいません。私はその魂の牧者であるキリストを信じることをお勧めして、講演を閉じます。地域の方々でキリストを知らない人が、また教会って何かわからない方が、このような講演を聞きにくることが教会の高い敷居をまたぐきっかけとなることを祈りつつ。
|
May 13 |
”お墓詣り”
「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。
しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」 イザヤ書40章29-31節
五月晴れの爽やかな日、学生時代の友人たちと、他界した親友のお墓詣りに行ってきました。5年前、お葬式もいくことが許されず、半年後に喪中ハガキ一枚で故人の死を突然知らされただけの私たちは、茫然としたままでしたが、ようやく彼女のお墓詣りに行けることとなり、私たちの中でもある意味区切りがついたかのようでした。卒業後20年以上たってもお互い変わらない仲間と久しぶりに会って楽しいひと時を過ごせ、故人を偲びつつ友人のありがたみを感じました。
今日は、父の納骨のため北海道まで行く母を羽田空港まで見送って、いよいよ、明後日アメリカに戻るのですが、今回の滞在はあっという間に過ぎ色々人と会ったり充実した時をすごせましたが、予定を入れ込み疲れがどっとでてきた感じです。そして、これから先、一月の詰め込まれた予定を考えていると、体力も根性のない自分はやっていけるのだろうかと、ふと思ってしまいます。一人で前に進んでいくには、力が必要ですが、その力は自分では生み出せないのです。
そんな時、昨日の日曜に教会で読まれた個所を思い出しました。神様からの励まし、タイムリーで本当に感謝です。私の力の源はやはりここにあるんだなあと思わされ、神様の与えて下さる力を待ち望みつつ、頑張って乗り切ろうと思います。 |
May 10 |
"謝罪"
「祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、…まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」マタイによる福音書5章24節
私は小さいころから物をよく壊しますが、それを“ごめんなさい”と親に言わず隠そうとしてしまうところがありました。悪いことをした時に素直に謝るという習慣は大切だと思います。大人になって職場でした自分のミスが大きければ大きいほど、それを謝るのは辛いですが、きちんと上司に謝り反省し次回ミスを防ごうと気を付けるようにしています。するとある会社では、ミス対策を会社側の体制として考えてくれたこともあり、結果的に謝罪というのはできるだけ早いほうがいいと学んでいます。どの仕事でもミスはつきものですから、今もそうしています。
今日読んだ個所でイエス・キリストが言われたことは、神に捧げものをする前に、もし兄弟が自分に恨みをもっていると思い出したら、まず和解しなさいと。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい、とも続けて言われます。ここではどちらが悪いかを問うていません。ちなみに、兄弟とは“神に捧げものをする前に”という文脈からして、肉親の兄弟の意味でなく、神を信じる信者同士のことです。
私は最近、恨まれているわけではないですが、ある方と関係がぎくしゃくしていまい、そのかたと和解したいと思っていたので、今日の個所で示され、こちらから自分の悪かった点は謝りました。あとは会って話し、またいい関係に戻れればと願います。神様が和解に導いてくださるよう祈るしかないです。 |
May 9 |
”土台”
「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。」第一コリント人への手紙 3章10-11節
先日、アメリカでの友人で現在日本で設計事務所に働いている方と会う機会がありました。彼はI-Phoneで彼が関わっていた建築物を見せてくれましたが、とても素敵な建物でした。仕事は多忙のようですが、自分が設計に関わった建物の完成を見ることができる喜びを語っておられました。
私が以前ヨーロッパ旅行に行ったとき、各都市で素晴らしい建築物を見る機会がありましたが、それらのほとんどが教会でした。芸術的観点では見事だと思いますが、一方で本来、教会は建物ではなく、キリストを信じる人の集合体なのでその観点からすると、人はどうしても目に見える物に拘る、お金をかけてしまいがちだなと。芸術活動それ自体は悪いことではないですから、ただ私は教会はあくまでも神を礼拝し、神の愛で互いに愛し合おうと(それが自分の力で出来なくても、神に助けてもらって)する人間関係の上に本来の教会があると信じます。その上で教会の中の活動として、近隣の人の必要に仕える(社会的・教育的・福祉的活動)のが順序だと思います。
今日読んだ個所は、キリストの使徒パウロがはっきり書いていますが、教会の土台はイエス・キリストであること。彼は各都市を伝道して、その土台を据えてリーダーを建て、その群れが成長して教会となっていきました。残念ながら、初代教会の後のカトリックもプロテスタントも、教会と称しながらこの土台の上に、キリストと以外のものをメインに活動に据え置き、付け足しに聖書の話をするとか、それで人を集めようとして、結局それを続けると教会が形骸化してしまっている所もあるのが残念です。人は集まったとしても本来の教会として機能しない。教会で神様のためと称して、よくよくその人の動機を探っていくと自分のやりたいことを教会でやろうとする自己実現だったり、もしくは教会のネットワークを使って商売をしようとしたりするケースがありますので、それにははっきりと見極める必要があると今日の個所からも示されました。 クリスチャンといえでも、人の集まりである限り教会のなかで、問題は起こります。しかしその問題がおこった時に、互いにそもそも、自分が何を信じているのか、その信仰の土台に戻り、互いに歩み寄ろうと祈り、話あえば不思議と一致が神様から与えられ、腹を立てたとしても相手を赦せるようになることを私自身経験しつつ、一生この訓練なのかなと、自分の欠けを神に頼るしかないです。
|
May 6 |
健康な羊
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
詩編23:1-3 (主→神、イエス・キリスト)
グーグル世代と言われ、何でも検索すればでてくる世の中。ある牧師が、”健康な羊”というキーワードで検索したところ、色々写真入りでその情報が出て来たという話を聞きました。牧場主がよい羊を購入するうえでの品調べのポイントは幾つかあるそうです(別に私は将来牧場経営をしようと思っているわけでないですが)。そのうちの一つは健康な歯を持っているかを見るそうです。そう、健康な歯を持っていれば牧草をきちんと食べられるか、どれでけ栄養をとれるかは健康な羊の必須条件だそうです。私は現在歯医者にて勤務しているので余計にそう思いますが、人間も歯の健康は体全体の健康と直結です。
聖書では、人を羊にたとえたイラストレーションが多くでてきます。羊は非常に神経質でナイーブ、草が生えているところを自分で探す能力がない動物なので、いつもケアしてくれる羊飼いが必要です。よって、キリストが羊飼いで、信者は皆キリストの羊。教会の牧師というのは、大牧者であるイエス様から小さい群れをそれぞれ任されているわけです。自分が通う教会の牧師がどういう人かというのは重要ですが、同時に個々人の、それぞれの羊も
健康を保とうという姿勢は重要です。しっかり牧草である聖書の言葉(神のことば)を食べなければ、病気になります。神の言葉は霊の糧、日々ご飯を食べないと、すぐに神様の視点から、世の中的な視点へ持って行かれます。
羊飼いは羊のために命を捨てると、イエス様はご自分のことを言われました。私はこんなちっぽけの自分のために、神であるのに、命を捨ててくれたイエス・キリストを本当にありがたいと思います。それも、信者だけでなく、信じない人も含めたすべての人のために命を捨ててくれたんだと。なぜそんなことをしてくれるのでしょうか。一人でも多くの人がキリストを信じて、今まで”神を知らない”と反抗してきた罪が赦され、天国で永遠に生きれるようにするためです。私はこの神様の私への愛を知り、信じています。
私はすぐに病気になる羊です。嫌になります。しかし、治る方法があるのです、食べればいいんです。歯がかけてたって、なんだって、とにかく食べる、つまり聖書を読む、牧師や教師のメッセージに耳を傾ける、祈って神様に助けを求める。すると、大牧者であるイエス様が速攻登場。病気である羊だけでなく、その群れ全体(つまり人間関係)も考慮して癒し、健康にしてくれて、助けて下さるから心強いです。 |
May 1 |
のどが渇かなければ
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」」ヨハネによる福音書7章37-34節
「陽子ちゃん、例のベッドを頼んで頂戴。痛くてもう起き上がれないから」朝声をかけると、痛そうに背中をさすっていた祖母(101才)が介護用の電動ベッド(ボタン一つで起き上がりが楽なように高さや、背もたれが上下できるもの)を頼む気になりました。今までいくら家族やケアマネージャーが本人に必要だろうと勧めたサービスを「まだ大丈夫だよ、余計なものを頼まないで」と断ってきたのですが、徐々に体の痛み(神経痛)がひどくなり、動くことが困難になり、とうとう本人は頼むことに決めたようです。
私が以前、介護サービスの相談業務をしていた時、いくら福祉・医療サービスが仕える資格があっても、クライアンである本人が「これが必要だ」と自覚するまでそのサービス導入まで時間がかかる場合があります(本人が判断能力がない場合はまた別ですが)。あくまでもその人の意志を尊重するようにするのが基本ですから、自分の祖母のことも、私がアメリカにいながらいつも気にはかけていましたが、ちょうど私が一時帰国の時に、頼んでくれたのでよかったなあと。
人はのどが渇いてなければ、水は飲まないものです。今日読んだ個所は、イエス様がご自身が、”誰でも”渇いているならば、私のところにおいでよ(つまり信じること)と招いてるところです。イエス様との出会いは本人が”必要”と自覚して、初めて求めるという面もあります。必要ないものを人は求めないからです。しかし、もし人が何かのきっかけで、人生のある局面で真理を求めたり、自分の存在価値を考えたり、人は何のために生きているんだろうという大事な問いに真剣に向き合おうとすると、イエス・キリストとの出会いが与えられるはずです。キリストをシンプルに信じるとその答えが全部わからなくても、徐々に啓示されていくからです。私も心の中を真に満たしてくれるものが世の中になくて、渇いて渇いて、そしてとうとうキリストが与える命の水を頂き満たされました。すると、平安が心に与えられたものです。キリストを信じると聖霊(神の霊)が内側に与えられてその人の心の深い所を満たし、それがさらに生ける水の川として流れ出る、つまりその人を通して神の力が他者に及ぶようになるとの約束です。
聖霊は一回内側に与えられても、やさしいので、私を支配したり強制したりしないので、私自身のキャラは残るし、自発的に動く意志は信じた後も尊重されます。そこが洗脳や恐怖政治とは異なるところ。ですから信じた後も日々、生活の様々な局面で選択に迫られるし、神のみ心にそったガイダンスが必要です。聖霊はヘルパー(助け主)とも言われ、助けてくれますから、いつも聖霊の導きをキャッチできるようアンテナをはっていたいと願いつつ。 |