|
June30 |
何も変わらない
「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた
神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。 」コロサイ人への手紙2章12節
先日あるアメリカ人の方で、教会に行っていて、自分は救われたと言う人と話す機会がありました。しかし、よくよく話していると、牧師のことを何か斜に構えて批評したり、この方の発言から平安・喜びがないことにすぐに気が付きました。「私は誰も信用できないし、宗教っぽい人間じゃない。信じても別に何も変わらないし、誰も私を変えることは出来ない。」と諦めた調子で言うのです。私が最近、体調を壊したことを話すと、「あんたの宗教があんたを直せばいいね」と皮肉たっぷりにいいました。私はあえて何も反論せずにいました。こういう場合、議論をしても意味がないからです。
”アメリカではクリスチャンと称する人の割合は多いが、本当にキリストを信じて、不完全ながらも喜んで、従おうとしている人の割合は実際低い”、とラジオで牧師達が言っていたことを思いだしました。信じていると言いつつ、なぜキリストの十字架での大きな犠牲が払われている程、自分を愛してくれる神様の恵みを受けとらず、冷めた心でいるのだろう。信じたら、変わるはずです。なぜなら、信じたとき、今までの古い自分が死に、キリストにあってよみがえり、新しく生きるようになると、使徒パウロも書いています。これは心の内側の話で、もちろん、一晩ですぐに全てが変わるわけではなく、徐々に神様の力で変えられていくことを自分も経験しています。キリストを信じる信仰を”宗教”としてとらえているうちは、まだ神様との生きた愛の関係を味わっていないのかもしれません。信仰を告白したこと、また洗礼を受けたことは、あくまでもスタートであって、一度うけたら終わりの儀式ではないのです。それは新しく生きること、キリストのような愛の性質に内側が変えられていくという希望があるから、たとえ失敗しても、辛いことがあっても進んでいける、信じ続けることが大切だと思うのです。
自分にも以前、暗い不信仰の時代があったこと、にも関わらず神様が再び信仰を与えて下さったことを思い出しました。この憐れみ深い神様を思う時、その方がいつか、神様の恵みを受け取って、信仰が与えられ喜んで神様との愛の関係が与えられるようにと心の中で祈りました。 |
June27 |
体がぼろぼろ。。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」 ローマ人への手紙8章28節
このところ、外出も多く、また大雨のため家の地下室が床上浸水となり、水をかき出す作業をしたりと、体が疲れてしまったようです。日曜の夜から、嘔吐、蕁麻疹、下痢、腰痛、そして眼も調子悪いと一変に体の不調が出てしまいました。しかし仕事は休めず。思えば3月から、いつも動いていて予定があって、一日ゆっくり家にいる日が数えるくらいしかない。同居している、家主もあきれていた。私が今回の不調を話すと、私が無理をしているのではと心配していたとのこと。とりあえず、寝るしかないと少し寝て、少しはよくなりましたので、感謝です。今晩も、下痢で目がさめてしまって、こんな日記を書いている。
実は精神的にも、打撃がありました。この日曜にある初対面の人から、私が今まで独身ということに関連づけて、ばこばこにいわれて(彼女は悪気はない、思ったとおりを言っただけ)、それも一原因かもしれません。その場で言い返せない、このやろう〜と後で憤慨。私はそう言われるだけのことがある、そんな者ですし。だから神様が必要だし、イエス様が必要。”愛は怒らない”と聖書のことばが頭に浮かんできたので、彼女に言われて傷つきましたが、赦すことにしました。このところ聖書を読んでも頭に入ってこない状態です。そんな時、クリスチャン向けの雑誌が手元にあり、何気なく読んでみると、去年の東北大震災で無くなってしまった福島にある教会の牧師さん(福島第一バプテスト教会)の、2007年に書かれた記事が目にとまりました。
「祝福の道のり、想定外こそ想定内」という題で、”何が起こってもおこらなくても、主のご計画にゆだねつつ、大きな世界観を持って旅をしましょう”と 上記の聖書のことばとともに書いてあり、これを読んで励ましが与えられました。この牧師さんはこの頃から、人生で自分の予定通りいかない、うまく進まない想定外のことが起こっても神様に委ねることを学ばされていたのでしょう。彼はこの震災で教会を失い、信者さんもみな被災者ですが、めげずに希望を神様から頂いて、また他の場所で礼拝を始め、教会を続けたという話を昨年聞いたことがありましたので、これが東北大震災が起こる、4年前に書いている記事であることも驚きです。
私のちょっとした体の不調なんかはたいしたことない。後になって万事が益になると信じ、また新しく力を神様から与えられて前に進もうと思わされました。一方、腰痛も始まったので、少し夏休みとしてペースをおとしたいと思います。 |
June23 |
夏の小旅行
「キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。へブル人への手紙9章24節
今週はお友達がフィラデルフィアに来ていたので、一緒に郊外へ遠出し、観光をしてきました。その日はとても暑い日でしたが、ランカスターといって、田園風景が広がる広々とした場所でしたので、そよ風も吹き、暑いなりになんとか過ごせました。
ランカスターは、ペンシルバニア州にあるアーミッシュ村といって、電気を使わず昔ながらのスタイルの生活をしている人々が住んでいるところがある場所として有名です。今回はそのアーミッシュの歴史や暮らしを簡潔に紹介してくれる馬車にのったり、機関車博物館を見たり、アウトレットでお買いものをしたりと、一日盛りだくさんの観光を楽しめて、久しぶりに旅行を満喫できました。
観光のなかで、私にとって一番興味深かったもは、”メノナイト情報センター”という場所でした。ここは、アーミッシュの人々の歴史や生活に関する情報だけでなく、彼らが信じている信仰の紹介もあり、中でも聖書のなかに書いてある内容ですが、古代イスラエルの民が今から約3600年前、中東のシナイ半島を40年間テント生活をしていた頃、幕屋という、神から任命された祭司だけが入れる移動式の聖なる場所のレプリカが展示されていました。担当の人が当時の儀式を説明してくれたのでした。聖書の書いてある内容がより想像しやすくリアルでした。
キリストが来てから(2千年前)は、もはやこのような幕屋という場所で宗教儀式(人の罪を神様に赦してもらうための動物の犠牲をささげたり、お香をたいたり等々)は必要なくなりました。これらは本物・実体→キリストが来るまでの”型”だったので、大祭司でもあり、犠牲の捧げ物でもあるキリストがこれを一度に全人類分をやってくれたからです。私たちは罪を赦してもらうために、動物をささげる必要はないし、牧師や神父や祭司を通さなくても、直接神様にお祈りできるようになれたのは、イエス・キリストのおかげです。
幕屋の模型が思いもかけずランカスターで見ることができ、また夏の旅行が無事に、充実できたこと、神様に本当に感謝でいっぱいです。 |
June20 |
心にとめること
「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。
」ピリピ人への手紙4章8-9節
昨日は朝からイライラしていました。その原因は今一時的に借りている家のシャワーからお湯がでないのです。この季節、シャワーが浴びれないというのは衛生上、きついものがあり私は早朝からメールで、担当者にシャワーの件を伝えたのですが、その後全く直ったとか、今直しているとか何も連絡がないため、仕事中も携帯の電話をみつつ、ちょうど、今週、友達が二人泊まりにくることになっていたので、よりによって、こういう時に壊れるなんて!と。ところが、昼になっても、夕方になってもいっこうに連絡が来ない。何度か連絡して昼過ぎ電話がつながったときに”必ずどうなったか連絡して下さい”と、頼んだのにと怒り爆発。しかたなく、今、別にお客がきていて使えない自分の家に仕事帰りに直行しシャワーだけ借り、”もし今後使えなかったら、私の友人もきて使うかもしれない”と客人がいるのに無理にお願いしてきた。日本から来ていた先方の客人も唖然。
結局、夕方6時過ぎに留守電に、”シャワーは使えますよ”とだけはいっていた。向こうにとってはシャワーは壊れてないので、連絡はどうでもいいことなのです。が、私にとっては”どうして一言早く伝えてくれなかったんだ!”と不愉快になりました。アメリカという国は何か故障したり、書類上のミス等、日本のようにすぐにスムーズでないのが日常茶飯事なのでいい加減私もそれに慣れないといけないのです。仕事中も、ありえないミスを犯し、ドクターが、どうしたの?と不思議そうに、そして私が上司と患者さんにミスを誤ると「彼女はBFが必要なんだよ」と笑いながら言われ、これってセクハラ発言?とまた悲しくなり、でもミスはミスなのでこんな言われ方をして悔しかったのですが、私の自分のせいなので言い訳もできませんでした。帰ってから、シャワーの理由を聞くと、私の操作の仕方が悪かっただけで、お湯はでると。なんだか、もう本当に私の忍耐のなさ、おおらかでないこと、自分の都合のよいように相手が連絡してくれないことを怒っている自分が悪い、とかなり自己嫌悪になりました。
今朝は、そんな私にタイムリーに”いつも心にとめるべきこと”を聖書から示されました。私はこれらはまったく昨日は頭に浮かばなかったことは事実です。というか、普段の生活でも。私の心は陰険で、邪悪、いいものがまったくない。ないものは与えてくださいと求めるしかないんです。本当に真実なことって、なんだろう?と考えたとき、イエス・キリストを通しての神様の私に対する愛は確実、真実、真理だなと。全然聖書で読んだことを実行していない自分と向き合い、悔い改めて、変えられて行きたいなあとつくづく思わされました。とにかく、私は気が短い。目指すはぼのぼの、なんとあかなるさ〜 りらっくま状態。 |
June16 |
スカッとする話
「わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。生れつき盲であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。
」 「イエスは彼ら(パリサイ人)に言われた、…しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
」ヨハネによる福音書9章27-28、41節
私は子供のころ漫画で一休さんというのをよく見ていました。彼がとんち(知恵)を用いて悪代官や、悪い人から人々を助ける和尚さんの話です。人によっては水戸黄門や大岡越前という時代劇が好きという方も。要は人の中で、悪を倒して善が勝つ、虐げられている人がその権力者の鼻を明かしたりするのを見るの気持ちいいものです。
私はその流れで、今日の話がお気に入りの聖書の話です。イエス様ご自身が当時のユダヤの宗教家たちの偽善を暴くような場面も聖書にでてきますが、ある意味イエス様は神の子だからと自分のレベルにはおとせません。しかし普通の人が、その悪徳宗教家たちの迫害に対し相手をぎゃふんと言わせる個所を見ると、なんだかスカッとするのです。
生まれつき目が見えない男性が、2千年前は医療も福祉制度も現代のようにないですから、物乞いをしていたところ、イエス様が彼の眼が見えるように癒されました。彼は生まれてから一度も何かを見たことない触覚と聴覚で世界を認識してきたのに、突然見えるようになったのです。治してくれたのが最初誰かわからなかったのですが、どうもイエスという人がしてくれて、そのことを宗教家が「誰がやったのか、どうやって見えるようにしたのか?その男は安息日に癒したから、神の規則を守っていないから、罪人だ!」と彼に何度も詰め寄り、なんとか彼の証言を通してイエスを訴えようとその男性に詰問した個所が今日ストーリです。
当時宗教家は群衆に大人気のイエスをねたみと自分の権威を脅かされるということで、殺すことが狙いで、民衆でイエスの方を持とうものなら、村八分にする権力をもっていました。彼の両親も証言を求められましたが恐れで、「あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」と彼は両親からも見捨てられる。あまりに質問がくどいので、彼は「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか?」と言うと、彼らは敵であるイエスの弟子になりたいのか?とこの元目の見えない人に言われ、超逆切れし、彼をののしって、追い出しました。追い出された彼のところにイエス様が来て自分がメシヤ(救い主)だと言われ、彼は信じました。彼は肉体の目も開かれただけでなく、霊の目も開かれたのです。霊の目が見えるようになるには、自分には罪があって、だからそれから救ってくれるイエス・キリストが必要だと自覚するところから始まります。宗教家は自分たちは正しい、法律を教えている者だといいながら、宗教で利得を得、人々に様々な規則でしばり、目の前にキリスト・メシヤがいるのにも見えていない状態。自分が正しいという罪で目がおおわれているのです。
時に、私は日常生活のなかでも、様々な恐れがやってきます。人が自分をどう思うかとか。こうしたらよくない結果になるとか。要は人を恐れるか、神を恐れるかの選択を迫られることも、この目の見えなかった人程ではないですが多少あります。人を恐れてそれが動機で動くと、ろくなことはないと経験しています。ですから、神を恐れ、そして神様の守りにあるという信頼を持ちつつ、たとえ目の前の状況は悪い方向にむかっているでも、信じて固く信仰の上に立てるように力を与えていただきたいなあと。
|
June13 |
ザンビア(アフリカ)への旅行
「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
マタイの福音書28章19-20節
本日、明日の早朝にザンビア(アフリカ)へ2週間余りの宣教旅行に、高校生のグループを引率して行くという友人を、その家族と友人とでお祈りして送り出しました。彼らはアフリカへ行くために、たくさんの予防注射を事前に打ち、NY→ドバイ経由とかなり長旅だそうです。予防注射のせいか彼は以前一度気を失って病院で見てもらったと聞きました。私は、アメリカでインフルエンザと肺炎の予防接種を打った直後ものすごい高熱にうなされ一晩で5KG減ったという恐ろしい経験があり、もし私だったらアフリカへ行く前に予防接種の副作用で入院しそうです。
ザンビアという国は実は私にとっては思い入れがある国です。行ったことはないのですが、私が最初に努めた会社が電線のメーカーだったので銅を海外から輸入していました。折しも私はザンビアやチリから銅の輸入に関わる貿易実務の仕事をしていたことが、この国を知るきっかけです。その国に駐在していて帰国していた当時の上司は、マラリヤにかかったそうで、今でもその後遺症があると、私のこの国のイメージはとても住むのに困難な、旅行に気軽に行くようなところではありませんでした。ましてや鉱山の労働者の生活を考えると、想像を絶します。
その後、この国が開発途上国の一つであるということを知るようになり、なぜそういう国がシステム的に存在してしまうのか?と疑問を持ち、それがきっかけで、アメリカで国際関係論を学び、第三世界の政治経済を学んで、何かそれに関わる仕事をしたい(たとえば国連、IMF、その他NGO)という野望を持ったのです。卒業の研究テーマもザンビアの政治経済としたくらいですから、今思えば、行ったこともない、人生で直接かかわりもない国のことをよく調べたものだなあと。
一方、教会に通う高校生たちが、現地にある教会での宣教を手伝うために、夏休みを使って短期間でも行くという、このほうがもっと直接的に現地に行けたし、現地の人と触れ合えるという、素晴らしい機会であると、私はそのチームのためにお祈りしてこの宣教旅行が祝福されるように祈ろうと思いました。この若い子たちは、聖書の知識、人生の経験があまりなくても、シンプルにキリストを信じて、その愛と福音を伝えたいとはるばるアフリカまで行くことを自分で決め、両親の了解を得て、信仰で踏み出したのでしょう、私は非常に励まされました。 |
June10 |
12年という月日
「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」ルカによる福音書18章1節
今日教会で子供に教える聖書の個所を見ていて(それがメインのポイントではいですが)12年という年月を思わされました。私はちょうど12年前の夏に、それまで人生投げやりで、信仰もなかった時、はっきり自分の罪を神の前に認めて、赦されていることを受け取り、だからキリストを信じようと、そして人生に希望が与えられ始めたところでした。そのころから様々なことを神様に祈り始めたのです。
”神様のみ心にかなった祈りは聞かれる”と聖書に書いてあるので、そういうこと(ある人の病気が治るとか、おばあちゃんに信仰が与えられるようにとか、ある人たちの関係が良くなるようにとか、その他個人的願い)を祈り続けていまだに聞かれていないものがあるのです。この間、あきらめたり、祈ることさえも忘れてしまっていたのも事実です。
しかし、今日読んだ”今日のデイリーブレッド”で図らずも、この件に関する励ましが、下記の聖書の言葉と共に載っていました。”祈りがまだ聞かれてなくても、拒絶されているわけではないから、忍耐を持って祈り続けよう。”と。
子供へのテキストは、12年間血が止まらない女性が医者にもお金をつぎこんでも治らず見捨てられ、絶望の内にいたとき、イエスが癒す力があると聞いて、自分が外へ出ていくのをはばかりつつも、群衆の中でそっとイエスの着物の端にタッチすれさえすれば治ると信じてそうしたら、瞬間に治っり、イエスがその信仰をほめ励ましたという話と。またそのあとすぐに会堂(ユダヤ人のシナゴーグ)管理者の娘が死にかかっていてイエスはそのために呼ばれていたのですが、実際この女とイエスが立ち話をしている間に、死んでしまったのですが、イエスは両親に信仰を励まし家までいって娘を生き返らせた。その娘は12歳だったと。
子供には、イエス様は自分の願いを何でもかなえる人ではないし、全ての病気が必ず癒されるすわけでもなく、癒されるケースと癒されないケースがあることをきちんと説明しようと思います。ポイントは、神様のみ心にかなっていると思うことは、あきらめず祈り続けること、イエス様には私たちをケアし、愛してくれているからその人に良くしてくれる方であることを、信じること、望みを置くことを説明しようと、自分自身も再び励まされつつ思いました。
|
June7 |
母が国税局で勤めていた時
「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。」そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。」
ヨハネによる福音書8章7-9節
私の母は、戦後すぐに地方の国税局に勤めました。そのころ、戦争に負けて今まで天皇が神だと教えられていた母は全て教えられてきたことが嘘だと絶望していましたし、何の信仰は持っていませんでしたが、ある時、国税局内の会報誌の中にちょうど、今日の聖書の個所が載っていたそうです。
当時のユダヤ人の法律で、不倫をした者は男女とも死刑(石打ち刑)です。”それくらいで?”とあまりにも不倫が横行する現代では思われるかもしれませんが、不倫はその当事者だけでなく、両方の家族を破壊します。姦通・不倫とは配偶者を持つ者が離婚をしていないのに、配偶者以外と関係を持つ当人と相手方両者に対してのことですので、不倫→離婚→再婚になると子供が傷を受け、そしてその子はまたその傷を持ったまま大人になりまた同じことを繰り返しかねないのです。不倫の余波はかなり深刻です。
ユダヤ人の宗教家がイエスを告白しようと、わざと不倫中の現場を押さえ、それも女だけひきづりだしてきて、イエスの前に出し、彼に裁かせようとしたのがこのセッティングです。イエスがこの刑の執行に対してYes/Noのどちらをいっても彼を訴えることが宗教家にはできたのです。イエスは「罪がない者から最初に彼女に石を投げなさい」と言われ、みなドン引き。だれも罪を犯したことのない人はいないので皆去りました。もちろん、イエスは不倫を容認したのではなく、罪は罪として認めつつ、ただ責めずに赦されたのです。そして、女に「行きなさい、これからは決っして罪をおかしてはなりません。」と言われました。母はキリスト教のことは何も知らなかったのですが、たまたまその上司の局員がクリスチャンだったのでしょうか、会報誌にこれを掲載したとき、”このイエスという人はすごい”と思ったそうです。そして母は折しも後に宣教師と出会い、クリスチャンとなりました。
神が男女を創造されたのは、もともとは一夫一婦制。もちろん死別などで再婚はありえますが。姦通罪は日本でも戦前は実際ありましたし、イスラム圏では現代でも存在、要はそれほど深刻な罪として裁かれた(ている)という歴史があります。
この個所は、福音のエッセンスだと思わされました。私は良い人間でありたい、と望んだとしても、生まれつきの性質でやはり自分が第一だし、すると他者との関係で様々なコンフリクトが起こります。そして相手を傷つけることもあるし、これぐらい法にふれないからいいでしょ?と神の前に正しくないことをしてしまいます。しかし、キリストは私をそのことで責めるために来たのでなく、赦すために来たのです。そして、赦されたら、そのままではなく、罪を犯さないようにと人生が180度変えられていく必要があるのも、この女性に言われたことばにもあらわされていると。「信じました!だからもう何をやっても天国へいける、救われる」といって、以前のままの生活態度を続ける人は本当にイエスによって”赦された”という経験をしていない人が言うことだと思います。もちろん、私のことをふりかっても、一晩ですぐに自分が変わるわけではないです。本当に何年もかかって古い自分が徐々に聖書のことばで教えられ、痛い目にあって失敗して、徐々に神の力で変えられて、気づかされてきています。これは一生の成長だと。だから私は今でもいい人にはなれないし、罪人でありますが、希望は罪を犯さないように内側が変えられていくということ。また罪に対する罰は全てすでにキリストが十字架でおってくれていること、だから私は裁かれないということ。こんなおいしい話はあるのか?と思うほど、申し訳ないのですが、恵みとしてどうどうと感謝して受けたいと思わされました。
|
June5 |
眼に星☆
「だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
また、あなたのしもべを引きとめて、傲慢の罪を犯させず、 これに支配されることのないようにしてください。
そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、 大いなるとがを免れることができるでしょう。」詩編19編12-13節
以前、ある友人から「陽子ちゃんって、目の中に星があるんだよね!」と誉められたことがあります。私は目が細いので、けっしておせいじにも少女マンガのような大きい目で☆がある眼でないことは自分でわかっていたのですが、そんな風に言われて、嬉しかったことがあります。
眼は心を表すとよく言いますが、眼をそらす、眼を合わせて話さないと何か隠しごとや、心に悩むことがあると言われたり、確かに眼の輝きや曇りというのはある程度心のバロメータなのかもしれません。
今日読んだ個所は、古代ユダヤの王、ダビデ(元羊飼い、そして戦士でもあり音楽家、作詞家)が書いた詩で「主の(神)のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。」詩編19:7-8とありました。神様の教え、神の言葉が結局私の魂を元気にしてくれて、すると反映して眼も明るくなるのかなと。その個所に続き、私たちは自分の犯した過ちを全て知ることが出来ない、それにすぐに傲慢になるし、それに支配されないようにしてくださいとありました。
私が何気なく言った言葉や態度で、相手を傷つける可能性もあるし、それは相手から言われるまで自分で気付くこともできないのです。またちょっとおだてられたり、何かを任されると、それは全て恵みとして神さまから与えられているものなのに、神様のことばでいつも心を探ってもらわないと、知らず知らずにあたかも自分ですべてやってきたかのように傲慢になってしまいがちです。これは私には耳が痛い話です。耳が痛くても眼を明るくしていただくために、言い訳をいわずに、自分の過ちは素直に認め、低くならねばと思わされました。 |
June3 |
油断禁物プラス
「このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。 大水の押し寄せる悩みの時にもその身に及ぶことはない。
あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。」
詩編32編6-7節
この金曜土曜と二日間、日本から訪米している牧師に同行していた私は、NYのマンハッタンの教会内での牧師の講演や聖書の学びが祝福の内に行われて、ほっとして一人でバスでフィラデルフィアに向かっていました。バスの到着が1時間以上も遅れたため時間が遅くなり、今から市電(トローリー)にのるのは遅い時間で危ないと思って、いつも使わない電車を使うことにしたのです。すると電車をぼーっとして待っていて、なんと全く方向の違う電車に乗り込んでしまいました。 時は、10時PM。そして間違って乗った電車の最初の駅は、フィラデルフィアの北部で治安が異常に悪い地域。このエリア、銃もってホールドアップされそう、薬の売人が路上でたむろしているような場所です。。。人が誰もいないプラットホームに降り立ってしまいました。”まずい、次の戻る電車が来るのは一時間後。ここで待っている間、どうしよう”と不安になり、神様に守って下さいと祈るしかない。日本では想像がつかない状況ですが、こんな時間にノース・フィリーに一人で女性がいるというのは、犯罪に巻き込まれてもおかしくない状況なわけです。遅い時間に人には迷惑かけたくないから、このままここで電車を待って、また元の駅にもどるしかすべがないと愕然としていました。
すると、タイミングよくすでに別のミーティングを終え帰宅していた牧師から電話がかかってきました。事情を話すと、危ないからと車ですぐに迎えにきてくれました。待っている間、ちょっと怖かったけど平安でした。やはり神様は助けを送ってくれた!と、私のケアレスにも関わらず、なんてタイムリーに助けを与えてくれるんだろうと。感謝です。と同時に、いくらほっとしたからといって、家につくまで油断せず、気を抜かないようにしないとなあと、超反省。何もなくてよかったです。
|