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信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

July 2012

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



独立記念日の花火 物忘れ 刑法のゼミで バード・ウオッチング
緑の食卓:ビーガン?! 信号を守る雁(ギース) 心地よさ?から抜け出す時 子供の名付つけ
Mar. 2012 Apr. 2012 May 2012 June 2012
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July29 子供の名付つけ

「彼女はまた、みごもって子を産み、「わたしは今、主をほめたたえる」と言って名をユダと名づけた。」
  創世記29章35節

 日本では子供の名前を付ける時、生まれてくる子供に様々な期待して名づけをすると思います。日本語はさらに漢字の組み合わせでも意味が変わってきますから名前というのは重要ですね。もちろんどこの国でも名前には意味があり、アメリカでもWebサイトで名前の意味や、ランキングが出たりするサイトがあります。
 そのサイトによる、西洋ではJudah(ユダ)という名はそう多くないそうです。というのは聖書でイエス・キリストを裏切った弟子の名前がユダ・イスカリオテだからです。しかし実は、この名前は聖書的にはとてもすばらしい名前なのです。ユダとはイスラエル民族の12部族の一つ。意味は”主をほめたたえる”(Praise)です。そして、このユダ族の子孫から王権が出て、そして救い主・キリストが生まれると、キリストが生まれる前から預言されています。ですから、そのもともとの意味を知っている人にとっては、自信を持って子供にユダという名前を付けられるでしょう。たまたまアメリカ人の教会の礼拝で、幼児祝福式というのがあって、牧師が生まれて数ヶ月の赤ちゃんを祝福した時、彼の名がユダでしたが、その名前の意味をそう説明していたのを思い出しました。
 今日聞いた牧師のメッセージはちょうど弟子のユダがイエスを裏切ったシーンでした。彼の名:ユダは当時ポピュラーな名前でした。彼はせっかく素晴らしい名で名づけられ、そしてイエスの弟子となって3年半すごし、会計係を任されていてイエスについてきたのに、最後の最後で迷って裏切る行為にでてしまったのは残念です。これは仮定ですが、もし彼が裏切った後、イエスが復活して弟子たちに現れた時、謝ったらイエス様は赦されたと私は個人的には想像します。なぜ彼にそんな役回りが?わかりません。ただわかることは、彼は悔い改めず、イエスのもとに行かなかったということです。
 私も信じていても、失敗はするし、イエスに従えない時はたくさん生活の場面ででてきます。でもその時に、私の心に住む聖霊が”それは良くない”といい意味で責め、気が付かせてくれて、悔い改めるに導かれるというのは本当に有難いです。するとその罪は赦され、次回は同じことを繰り返さないように、変えられ、きよめられていくという約束があるのが希望です*。これはこの体が死ぬまで現在進行形なわけで、信じたら終わり、またはすぐに完成品を求められるのでなく、信仰に成長があるという面が助かります。私のように成長の遅いものにとって、いきなり完成を求められないので。
July22 心地よさ?から抜け出す時

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16章33節

 今日は日曜日教会で、担当の方が子供に教えた内容は、イエス様の弟子たちが乗っている船が嵐で転覆しそうになって、助けを求めていたところ、イエス様が岸から水の上を歩いて助けにきて、嵐を静めたというところでした。ポイントはイエス様を見ていれば、嵐も怖くない、溺れない、必ず助けが与えられるという点でした。
 私たちへの適応は、生きていると必ず順風満杯でない、誰にでも嵐:困難がおこるのは避けられないのは事実です。キリスト教は人間の作りだしたご利益宗教ではないので、神様を信じているからといって、すべてがバラ色ではなく、皆同じように病気、失業、また職場の仕事が大変になること、家族の死等はおこる。これらがその人の人生に起こることをなぜか神様は許可される。今はなぜかわからなくても、後から振り返ってその意味がわかることもあると思います。そして試練から抜け出す道も必ず与えられるという約束もあって、それでなんとか希望が与えられているのが励ましです。この希望や神様への信頼がないと、不安や思い煩いがきりがないです。
 一方、現状に問題があってもそのままの状態で抜け出せず、あきらめて動けないこともあると思うのです。そのままでいることは、ある意味心地よくなっている状態なのかもしれません。暗闇の中に留まりたいのです。しかし、そこから抜け出すためのきっかけとして、一時的に嵐のように突然、想定外の強制的に何かが起こることがあり、私は過去経験しております。
 今日の与えられた個所は、この先困難はあるが、イエス様ご自身がこの世に勝っているいるから、勇敢でありなさいという励ましでした。この”勝った”という単語は、一回だけの意味ではなく、将来にわたって効果を持ち続けるという意味があると解説から学びました。
 私は先週の火曜から、突然、今の状態から一歩踏み出さなければならないことになり、果たして自分はやっていけるだろうかという不安が正直あった一週間でした。しかし、たとえこの先大変だったとしても、神様から必ず助けが与えられるという信仰を持てるように祈ろうと、また私のために祈ってくださいと、ずーずーしく他の方にもお願いしてしまいました。問題に目を向けるのでなく、イエス様に目を向け、神様が導く方向へ信頼して行ければなあと、子供の学びから学ばされ感謝です。いつもお祈りくださる方々、いつもありがとうございます。
July16 信号を守る雁(ギース)

「なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ。
ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、夏のうちに食物をそなえ、刈入れの時に、かてを集める。」
             箴言6編6-8節
 今朝通勤途中、おもしろい光景に遭遇しました。車の多い道路にもかかわらず、私がふと信号で止まると、右手前方の歩道より、一列に並んだ10匹の雁(ギース)が歩いて交差点を(私の目の前を)渡り始めたのです。それも、ちゃんと信号が青になったタイミングで歩き始め、ほぼ1-2分後赤になるころに横断し終えたのです。動物が道路を横切るのはよくあることですが、この場合、信号のある交差点の位置であたかも列のトップのギースがリードするように、信号にあわせてわたり終えたのを見たのには驚き。たまたまかも知れませんが、それを車に乗った人間達がのんびりと待っているという平和な光景に思わず微笑みました。(場所はKing of Prussiaの近くです)
 そこで、先日読んだ箴言を思い出しました。蟻は人間のような知能はないけれど、本能でちゃんと一列になって夏の間に食べ物を集め、巣に運んでいくという。聖書はそのありから知恵を得よと。人間にとって夏は暑いのでバケーションを取る時、蟻さんとは生活スタイルが異なりますよと反論したくなるところですが、要は時期にかなって、なすべきことを怠るなということでしょうか。
 箴言とは古代イスラエルのソロモン王が書いた教訓の書で、様々な日常における知恵や忠告等が書かれており、あまりにも具体的なので人ごとと取ると笑える時がありますし、自分にとって気を付けようと思わされる言葉があり、一般的な教訓としても学ばされますし、神様の摂理を思わされます。
 私も急いでいる時、特にNYを歩いている時はつい信号無視てしまいがち。自分も含めた信号無視する人間に向けて、”信号を守る雁から学べ”と一句書いてみたいものです。
July15 緑の食卓:ビーガン?!

「野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。
憤りやすい者は争いをおこし、怒りをおそくする者は争いをとどめる。」 箴言15編17-18節

 「なんか、今日はおかずがすべて緑だね。まるでビーガン食(厳格な菜食主義)みたい。」冷奴、アスパラガス、グリーンサラダ、おくらの和え物と、食卓は全て緑。いつもこうではないのですが、今日はとても健康的な食事でした。そこで思い出したのですが、とあるビーガンのレストランは「野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる」というこの聖書の個所をテーマにしているそうです。
 現代は様々なアレルギー反応、体質によって食べられない物がある方が多く、食べたくても食べられない事情もあり御苦労が多いと察します。私は個人的になんでも神様に感謝して頂く主義です。一時、ダイエットにこったり、偏った食生活をしたりして、体に即影響がでることは経験済みのために今はそれほど食べ物にこだわらず、バランスよく食べられればいいなと思う程度ですむのも、感謝なことです。
 今日のこの箴言を読んで、逆を言えば”肉を食べて互いに愛するのは、野菜だけを食べて互いに憎むのにまさる」とも云い変えられますから,要は食べ物が重要ではなく、互いに愛することが重要で、憤りや怒りを避けなければならないという箴言だと思います。私は性格的に、もし攻撃的な会話をしかけられると面と向かって相手に怒れず、後になって”あ〜言ってやればよかった”と一人で怒るほうです。もちろん口に出してしまった言葉は取り返しがつかないので、相手に対して怒った言葉を発しないようにと思うのですが、後でふつふつ苦い思いが残るのは自分の問題です。心にとってもよくないことです。たいがい相手はなんとも思っていないこともあり、こちらが根にもっているなど露しらず(笑)これは、お互い様だと思います。だから”互いに赦しあいなさい”と教えられます。
 感情が出てくるのはノーマル。相手がどうであれ、自分の中の問題としてその苦い感情をいつまでも残さず、または心の奥に蓋をして根に持たず、その場で神様にこの苦い思いを取り除いてくださいと私は祈るようにしています。自分の力では消せないからです。そして、その祈りはいつも聞かれ、心が自由になれることはキリストのおかげ、これで思い煩ず前に進んでいけることの幸いを思わされました。
July13 バード・ウオッチング

「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。」  詩編3編5-8節

 昨晩は、フィラデルフィア郊外に家を持つお宅に招待されました。その方の家は森の中の素敵なログハウス調の家で、お庭にたくさんの花・野菜・植木が植えてあり、また野鳥のための餌箱もたくさん置かれていました。ガラス越しの居間から様々な種類の野鳥がせわしなく訪れては、餌をつつく様子を見ることができます。とてもカラフルな野鳥、ハチドリ、スズメも。野鳥の本を見せてくれて「今来たのは〜という鳥よ」とあたかもバードウオッチングのように友人は説明してくれました。自然の中にある家、アメリカでは珍しいことではないでしょうが、鳥だけでなく、鹿、リス、ウサギ、アライグマ等の訪問者が庭に現れ、人間が取る前に一番おいしそうな実を食べていってしまうそうです。この家庭菜園から取った新鮮な野菜も食卓にありと。久しぶりに自然を身近に感じることができました。
 一方、先月にフィラデルフィア動物園(アメリカで最初の動物園)にこの暑い中行く機会がありました。日本の動物園と比較すれば、敷地は広く自然の中に設計されていて、親子連れやグループでにぎわっていましたが、やはり動物園は動物園。野生ではないので動物たちには生気がない。特に檻の中に無表情で座っている大きなゴリラを見ていたらなんだか悲しくなりました。もしかしたら動物の数より多い、わらわら集う人間を、檻の向こうから動物のほうが観ているのかも。。。
 昨日通読していて読んだ個所、及びぱらぱらとめくった本にも出てきた聖書の個所が上記です。自然も神様が創られて、人間が余計なことや、人間の欲に基ずいて操作しなければ調和するように創られている自然。神さまは人間にある程度、自然の管理を任されたと聖書には記されていますが、人間の知識には限界があり、自己中心を自制できない面がある、それでも”これが正しい、これでいいんだ”と突き進む愚かさがいろんな悲劇を起こしているように思わされます。自然に対してだけでなく、人間関係においても。
 やはり、神さまをすべてにおいてその創造者として認め、その最善をご存じの方として信頼した上で、物事を進めるが知恵なのかなと、徒然に思わされました。

July 8 刑法のゼミで

「あなたはわが内臓をつくりわが母の胎内でわたしを組み立てられました。
わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。
あなたのみわざはくすしくあなたは最もよくわたしを知っておられます。
わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合されたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。
わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。」  詩編 138編13-16節

今日読んだ個所から、私が大学一年の時受けた、刑法のゼミを思い出しました。教授が用いたテキストは曽根綾子さんの小説「神の汚れた手」で、ゼミの議題は”人はいつから人とみなされるか”という、非常にデリケートな議題でした。要は優生保護法というのが日本にあり(母体が生命の危険にさらせている場合は、堕胎が6ヶ月まで許される)、この小説を通して、この法律の根拠、合法性と実際の運用を学生が考えるというのが教授の狙いだったのでしょう。
 当時私は思慮が浅く(今もですが自分の中での比較)、その真剣な議題に対してどれだけ考えたのか思い出せません。その小説は産婦人科の医師が主人公で、ある女性より堕胎を妊娠初期で依頼されますが(健康な女性ですが彼女の個人的事情により)なぜか手術が失敗し、結局その女性が気が付いたときには、かきだして堕胎したと思っていた嬰児がお腹の中ですくすく育っていて、結局、彼女もその事態をかえって喜び、医師に感謝して子供を出産したというストーリです。
 聖書のこの詩は約3千年前に書かれたので、医学的技術、エコー、帝王切開等ない時代ですが、著者のダビデは神様から言葉を預かってこの詩を書きました。ここを読むと、聖書を神のことばと信じる者にとっては、政治的な論争であるプロ・チョイス/プロ・ライフ(堕胎の是非)など最初から問題外に思えます。神様が体内で私たち一人一人を組みたてられ、そしてお腹にいる間に、すでに神様の記録にその人の存在が書き記しているというからです。これは、事情があって生まれてこれなかった嬰児を思うと、非常に慰めが与えられます。そして事情で堕胎せざるをえなかったその母に対する責めに対し、その罪のためにもキリストは十字架で死んでくれたから、その罪が赦されているから責められる必要はないんだとというのが、大きな神様の憐れみだと思います。
 これは、その人がこのキリストを信じた時に、自分のものとなります。”自分のものになる”とは、キリストは全ての人が信じる前、それぞれがこの救いを信じる信じないにかかわらず、人類全員の分の責めと罪を負って先に死んで下さり、3日後に復活され、今は天国で私たちのために祈りを聞いてくださって、続けてケアしてくれているからです。自分には罪がある(堕胎だけでなく、様々な罪、根源的な罪:神を認めない罪を含めて)と自覚し、神様の前で正しくないものだと悔い改めたとき、この救いが信じる信仰が与えられ、その赦しが自分のものとして受け取れるという意味です。キリストは、罪を示しますが、それを責めにきたのでなく、その罪を赦し、救うために来られたということは本当にありがたいと思いました。
July 6 物忘れ

「私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。」 詩篇131編2節

 先日、アルツハイマー協会というNGOが、認知症の一形態であるアルツハイマー型認知症に関する基礎的なセミナーを教会で開き、私も参加しました。私は職業上、日本で認知症を発症している患者さんや利用者さんに実際関わる機会が多くあり、もちろんそのための教育も受けていましたが、改めて、一般の方々が家族やご自身にとっても、この基礎的な情報を知っていることが大切だと思わされました。認知症は、単なる物忘れとは異なります、年相応に忘れることがあるのはノーマルです。また若い人にも最近多い”一過性健忘症”という、一時的にストレスや多忙で、記憶がぼこっと抜けてしまうという疾患があります。これは一時的で、その原因となるストレスや多忙が緩和されると継続的に発症しないと言われています。私の知っている限り、これになった方を何人か知っていますし、一時的でした。 
 ところがひと事でなく、先日私は一緒に住んでいる家主より、”陽子さんはまだ若いのに、ちょっと忘れるのが早いんじゃない?最近いろいろあってストレスが多すぎるか忙しすぎるか、もっとペースを落とさないと”と言われ、また、他の友人にも、”陽子さんは聖書のことはよく知っているけど、他のことは結構 覚えていないんですね”とも言われちょっとショックでした。実際聖書のことも、全然まだわかっていないレベルで、学んでいる最中です。確かにこの年で人の名前、画家、芸能人、映画等の名がすぐにでてこないことがあり、もちろん後で思い出しますが。きっと一過性健忘症の類で、多忙で脳がキャパをこえているのか、それとも単に抜けているのか。単に抜けていると、気にしないことにしよう。人と比較しても意味がないですが、そんなに多忙ではないと思うのですが、これは私自身のキャパの問題。 芸能人の名前なんて忘れてもいい。日々やることは書き留めておく必要はあるでしょう。
 時々肉体の限界を覚えます。働かなければ生活できないし、やるべきことはやらなければならない。今日、タイムリーに与えらた聖書のことばから、心身健やかな人生を送る力を、神様からいただくためにも、家で落ち着いて神様の前に静まる時間をもっと定期的にとるように意識しようと思わされました。赤ちゃんが完全な信頼感を持って母親の前に安らかでいるれるように。今週はその時間もとれ、かなりリフレッシュされ、感謝です。 
July 4 独立記念日の花火

「 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。」 詩編119編176節

 本日はアメリカでは独立記念日のためお休み、今日は家でのんびりできる時間が与えられ嬉しい限りです。夜には近所に恒例の花火を見に行く予定です。”花火と爆弾は同じような材料で作られているが、前者は人々を楽しませ、後者は人々を殺す”と今日読んだ記事に書いてありました。いくら知識や技術があっても、”知恵”がないと破壊的な方向にその知識が用いられてしまう、もしくはせっかく持っている知識が全く無視されてしまうということは、残念なことです。これを自分のレベルに落として考えると、例えば、人に聖書のある部分を説明できたとしても、自分がそれを生活に適用してなければ意味がないと。
 今日読んだ個所は、アクロスティック詩編といって、ヘブル語のアルファベット(22)の文字からそれぞれ始まる詩です。詩編のなかで一番長い詩で、とても励ましになること、良いこと、神様に依り頼むこと、神様のことばを守ることの大切さが歌われています。しかし、この詩の最後に「私は滅びる羊のように迷い出ました、だから、私を探し求めてください」と神様にお願いしています。*
 私も生活のなかで、少しづつ、神の言葉(聖書)を読んで、心に蓄え、人にも説明できるよう準備し、またそれを実践しようと思うのですが、実際は忘れてしまって自分の思い・欲求・恐れに従って動いてしまうがちです。そして神様が示してくれるベストの道、正しい道から外れて、ある時は迷い出てしまうこともあります。自分の思いの中にぐるぐる回って、なかなか抜け出せない時がそうです。<BR>
 希望は、迷い出たと気が付いたら、とにかく”助けて〜”と叫び求めればいいと、同じ119編147節から励まされました。私は、羊飼いであるイエス・キリストが共にいて下さることを信じ、聖霊が示すガイダンスに耳を傾けて、神の愛をベースに仕切りなおそうと矯正されることが、本当に有難いです。

*ここはイエス・キリストがこの世に現れる預言的詩編ともとれるそうです。イスラエルの民が滅びる羊のように迷い出た状態で、メシヤ(救い主)を待望している、みことばを求めながらも迷い出てしまったイスラエルに、神がメシヤを遣わし、良い羊飼いとして羊を探し出してくださるという預言。
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