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信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

Augsut 2012

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言





左:オリンピック国立公園(ワシントン州)
オリンピック:賞獲得への道 午年生まれ 職場でのイライラ ”なおみ”と言うな(という名)
車の事故 かえるの歌 気休めのことば リハビリの効果
聞き従う 病院がメンタルを悪くする
July 2012
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Aug.31 病院がメンタルを悪くする

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」ヘブル4章15節

 私は日本で高齢者の方のソーシャルワーカー(社会福祉士)として病院・施設で働いていた時、今まで企業で働いていた時には想像もしたことのない世界に遭遇しました。病院は病気を治療する場所ですが、緊急の治療が終了したら、退院しなければなりませんし、そのまま入院し続けると精神が誰でもおかしくなるということを現場みてきています。しかし、多くの患者さんの家族が”一人暮らしの親が退院したら心配だから”、”施設は24時間見てもらえるから安心”となんとか長期療養型の病院もしくは老人保健施設に長期あづかってみてもらいたいと相談されたものです。もちろん、自費で高額を支払えて、素晴らしい施設には入れれば話は別です。医療・介護保険がきく施設はそうではありません。これらの場所は目的があって一時的にいる場所で、自宅へ帰らなければならないところで、ケアにも限界があります。もちろん、同居で世話が大変、目が行き届かない等で施設に預けたいとするご家族の気持ちも察することはできますが、私は在宅でサービスを受けながら介護等をうける一人暮らしのかたむけの相談員も経験し、どんな心身状態でも在宅生活は可能であり(あまりにも自傷他害レベルが激しい場合は別として)、家が一番本人のメンタルにとってもベストな余生を送れる場所と私は思うのです。(在宅医療も進んでいますからよほど緊急の治療が必要でない限り在宅で治療療養は可能です)
 今日、家主のお見舞いにいって非常に悲しい思いになりました。2日前に見舞いに行ったときは、リハビリの病院へうっつて彼女の表情もよくなり、大分元気になっていたのですが、本日は見て仰天。ベットが拘束ベットにかわっていました。つまり彼女はベットから勝手に降りてしまい危ないからということでベットを囲って出れないようになっていました。24時間付添いの人がいるのにかかわらず、なんでさらに拘束するのか?これが病院というものです。本人がベットから落ちて骨折したら困る、鼻についているチューブをぬきとってしまうから手に拘束手袋をはめられと、これではせっかくよくなりかけたメンタルも後退してしまいます。しかしながら、とにかく嚥下状態が悪く、口から物を食べられないため、鼻からチューブは今は外すことができません。これが外れると本人も大分拘束されないですむのですが。。。
 彼女は今とても辛い所にいます。彼女がどうしても事故のショックで脳の働きが不自由なところがあり、その結果拘束され、ベッドに縛られてしまう。記憶も認知もよくなってきているのに拘束されてしまう、この苦しみを誰が理解できるでしょうか。イエス・キリストは人のすべての苦しみ、痛み、そして誘惑にも会われたと聖書はかいてあります。だから神の子でありながら、人の遭遇しうるすべての苦しみ痛みを思いやることができるのです。ただ高い天国にいて、「おーい、信じろ!」という方ではなく、愛をもってわざわざ人間になって、その人間の体における限界も感情も、罪は犯されませんでしたが味合われた、その究極が十字架刑です。
 私は面会の最後に、共にお祈りして、早く彼女がこれらの状態から解放されるよう祈りました。彼女も声にはだしませんでしたが、アーメンと心のなかでいって、うなずいていました。次回会うときは彼女の笑顔とチューブが外れていることを祈りつつ。
Aug.30 聞き従う

「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。
見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。」 第一サムエル記15章22節

 この頃思わされたことは、私の性格の一つは正義感が強すぎるところです。例えば職場で不正が行われているのを見るとどうしても黙ってみすごすことができず、また自分がその不正に携わるのが耐えられなくて法律・規則を守るべきだと上司に言ってしまうところです。その結果、私が職場を辞めるはめになるということが過去に一度ありました。幸いそれ以来、そのような会社には務める機会はなく、いつもきちんとしたよい職場が日本では与えられてきたのは感謝です。しかしアメリカにくると、どうもこの問題にぶち当たるようです。そろそろ今の職場は、去らなければならないのと益々迫られています。づっと職場の改善を祈ってきましたし、やること、言うことはやってきたと思いますが、限界にきているようです。(今の職場の全て悪いと言っているわけではなく、今の待遇に感謝しているところもたくさんありますが、だからといって、それと相殺していい問題でもないのです)
 アメリカでは私は外国人で、英語も流暢でないし、日本のように仕事先を選べる余裕がないというのも一つです。自分はグリーンカードも持っているので恵まれているはず、単に今のところに留り続けるのは私の能力的な面、努力が足りない、怠慢と正直認めざるをえません。
 私は人の声を聴くか、神の声に聴き従うかがいつも問われます。聖書を読んで、教会に通い、奉仕をしていても、自分の日常生活で神様に従っていないことをするのであれば私はクリスチャンである意味がないのです。キリストを信じて従おうとする人(たとえできなくても)がクリスチャンですし、自分の力ではできなくても、従えるよう助けを求めれば神は助けて、道を開いて下さる方だからです。もちろん、社会生活の中で気が付かないで犯してしまう罪等もありますが。気が付いた時が、そのとき。
 今日の個所は、古代イスラエルの王サウルが、神がやれといったことに聞き従わず、人を恐れて勝手に行動したあと、預言者サムエルが現れて、彼に神のことばを伝えます。神にいくら儀式的に捧げものを祭壇で捧げても、従わなかったら意味ないということです。ましてや彼は王という国のリーダーであるので責任が問われます。 
 今のアメリカで新しく仕事を見つけるのは、アメリカ人でも困難な中、でも9月から就職活動を始めようと思います。仕事のこともいつも神様が与えてくれると信じて。職種はそう選べませんし、時間はかかると思いますが、少なくとも最低限法律・規則を守って仕事が行われているところに次回は勤められるように、祈り求めようと思います。
Aug.27 リハビリの効果

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。」 エレミヤ書29章11-12節

 私の家主の交通事故が起こってからちょうど2週間が経ちます。仕事の帰りに、彼女が先週末転院したリハビリの病院へよりました。すると先週金曜の状態より、精神面が非常に安定していて、言葉もたくさんでていたので、本当にうれしかったです。一時は、このままメンタルが回復しなかったらどうしよう。。と正直思っていたゆえに、今日の様子を見て希望がわきました。今日からリハビリが始まり、1日4時間、集中的に2−3週間にかけて行われるとのこと。
 先が見えない、回復のきざしが見えない時に、それでも希望を持つというのは難しいものです。彼女の場合、たった一日リハビリしただけで、かなり違ってきています。治るみこみがでてきたので、ほっとしました。左目は失明してしまったのは、非常にお気の毒ですが、右目はちゃんと機能していますし、手足も大丈夫なので、あとは頭のリハビリを集中的にやれば、家に復帰できる日も近いでしょう。私も今まで人の事ながら緊張していましたし、先週土曜、仕事帰りに(前の晩遅かったのが悪いのですが)、ほんの一瞬、居眠り運転をしてしまって、危うくセンターラインをまたいでしまいましたが、対向車がいなかったので助かりました。もうひやひやものです。これも守られたのだと安堵。。次回は気をつけなくては。
 今日の聖書のことばはタイムリーに与えられました。これは、紀元前ユダヤ国家時代に、預言者エレミヤを通して神様が、国の滅亡の危機においてユダヤに言われた約束です。この時点では全く希望の兆しもなく、絶望的状態ですが、そのなかでこの神のことばを信じたユダヤ人がどれだけいたでしょうか。しかし、彼らが信じる信じないにかかわらず、神の計画は歴史を観ても成し遂げられているのです。そして、現代の私たちにも適用できる約束であります。
 神様は私の家主の人生の上にも、これから新たな計画を立てられている、将来と希望を与えるもの。そして、神様を呼べば、祈れば、必ずその祈りを聞いてくださるという。それを信じて、引き続きの回復を祈ろうと思わされました。皆様お祈りありがとうございます。
Aug.24 気休めのことば

「万軍の主はこう言われる、「あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。 彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、『あなたがたは平安を得る』と言い、また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、『あなたがたに災はこない』と言う」。 」エレミヤ書23章16-17節

 新しい言語を覚えようとする時、一番よく使いやすいことばから覚えますので、挨拶のことばと、Ok、大丈夫というようなあいづちの言葉ではないでしょうか。相手の状態を聞くというのはコミュニケーションで必須です。そこから会話が始まるからです。その時、ある程度信頼関係がある人には正直に自分の心境・状況を伝えたり、そうでない相手にはGOOD、問題ない、なんとかやってますという表面的なやりとりで終わらせるという、その場でどこまで話すかという操作が働くと思うのです。
 先週事故にあった家主が皆様のお祈りのおかげで、順調に本日リハビリの病院へ転院する予定です。日本のご家族と電話でその件で私がやりとりをする際、非常に気を付けて話しています。というのは、必要以上に心配させることは言うべきではないですが、事実は話さなければならないですし、私の勝手な憶測も言えないので、わからないことはまだわからないと答える。そして、気休めに大丈夫ですよ、という言葉を連発するのは無責任ですので、ただ心配しているご家族の立場にたって連絡できるように、知恵が与えられたいと願っています。希望は、こちらで皆祈っておりますので、たとえ状況がどうなっても神様がよくしてくださるから大丈夫です、ということははっきり伝えられることです。
 本日の個所は、古代ユダヤ王国末期に、王も祭司も預言者も神から離れ、勝手な宗教行事をやって、民を惑わしていることを神から遣わされた預言者エレミヤを通して語っている個所です。国はバビロニア帝国の侵略の憂き目にあっているのにかかわらず、そういうときだけ、神が助けるから大丈夫と、勝手な気休みのことばを神から言われたという偽預言者が横行していました。
 現代において、神様の守りや計画を信じ、神を信じるものにはすべてのことが益に変えられるから、希望を持とう、と励ませることが幸いです。しかし、そのことを抜きにして、単に気休めで、大丈夫ですというのは、確信のものがないからそういうしかないのですが、ある意味無責任だと思います。現実を直視し、将来に起こりうる可能性も踏まえたうえで、何により頼んでいるか、それがこういう危機的状況がおこったとき問われると。そのときにこそ、神様に依り頼める信仰が与えられるよう、日本にいるご家族のためにも祈りたいと思います。
Aug. 19 かえるの歌

「イスラエルの家よ、背信の妻が夫のもとを去るように、たしかに、あなたがたはわたしにそむいた』と主は言われる」。裸の山の上に声が聞える、イスラエルの民が悲しみ祈るのである。彼らが曲った道に歩み、その神、主を忘れたからだ。背信の子どもたちよ、帰れ。わたしはあなたがたの背信をいやす。」エレミヤ書3章20-22節

 私が小学校の頃ミッションスクールで讃美歌を意味も分からず歌っていましたが、ほとんどの歌が古い日本語を使っていたりしてよけい意味がわからず、誤解していたことが多かったです。その一つに、今でも覚えていますが

”罪の子らのかえるを、主は今待ちたもう。 かえれや、我が家にかえれやと主は今呼びたもう。”

 この歌に何度もかえる・かえると出てくるので、蛙の歌だと思っていました。(笑)今日の個所を読んだ時、自動的にこの歌が頭に浮かびました。当時のイスラエルの国は南北に王国が分裂し、両国とも真の神から離れ、他国の石・木・金属でできた偶像の神を拝み、神様の怒りをかい、そしておしおきをうけてアッシリヤ帝国、バビロニア帝国に国全体が捕囚となるという悲しい歴史が背景です。親が悪い子供を懲らしめるように、悪いことをしたことにはその刈り取りもさせ、悔い改める機会を与え、そして帰ってきなさいと、預言者を通して何度も神様は語られましたが、彼らは聞きませんでした。しかしながら、神様は決して南ユダ王国を滅ぼさず、キリストが生まれる家系を絶やしません。そして、帰ってこいと。
 過去にどんなに神様から離れてきて、何を行ってきてもそれを癒す、赦すと。これは罪を単に水に流すのではなく、悪は悪として、代わりにその罪に対する罰をうけてくれる方がいるから、私たちは赦され、神様のもとへ帰れます。それが神の子、イエス・キリストの十字架刑なわけです。この「帰っておいで」という招きは現代も続いている、この恵みに感謝しつつ。
Aug. 15 車の事故

「わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。」 第2コリント人への手紙1章6節

 私の住む家の家主が、本日、ひどい車の事故に会い、ICUにいて意識が不明状態です、私は連絡を受けて病院にかけつけ、とりあえず、体がかなり動き、一瞬眼を開けて手も握るようになったので、意識は明日にもどりそうで、彼女の友人と牧師夫妻とともに最低限の手続きを終え、先ほど夜中帰宅しました。
 とにかくひどいけがで、脳内出血と左目のまわりとほおの骨骨折、左手指骨折。彼女は独身でみよりはアメリカにいません。彼女は彼女にとって大切な犬猫を数匹買っています。計画では 彼女は9月5日に犬と猫を連れて日本へ永住のため帰り、私がその後彼女の家にしばらく住み続ける予定でした。
 私は家族のように今まで二人で暮らしてきたので、かなりショックです。とにかく命はとりとめましたが、彼女はせっかく定年退職後、日本での生活を楽しみに、色々準備をしていたのに、こんなことになるとは。。。おそらく通常の生活への復帰までしばらくかかると思われます。
 彼女が早く回復するように、日本にいる彼女のお姉さんたちに平安が与えられますよう、お祈りをしていただければ幸いです。
Aug. 11 ”なおみ”と言うな(という名)

「ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。」 ルツ記1章20節

 一昔前、NaomiCambell(ナオミ・キャンベル)さんという米国のモデルがいましたが、その時、この名は日本の名だけでなく、実は聖書のなかにもあり、それが故に西洋ではなおみさんという名は割とポピュラーだと知りました。ヘブル語でNaomiとは”楽しい、愉快”なという意味で(Pleasant:英語)、聖書のルツ記という本に出てくる女性の名前です。
 今日ラジオで聞いた箇所でして、このストーリーではナオミという女性が夫と二人の息子を同時期に亡くしたあと、二人の夫の嫁たちと別れて彼女の故郷ベツレヘムに帰ろうとすると、一人の嫁(ルツ)がどうしても一緒についていきたいというので二人で帰ったところから始まります。故郷の人々は、ナオミが帰って来た!と大騒ぎで彼女を迎えますが、彼女は「もうナオミと言わないで、神が私をひどい苦しみにあわせたから。マラ(”苦い”と言う意味)と呼んで!」と言ったほど、彼女の失った家族に対する悲しみは大きかったのです。しかし、この後、このナオミと嫁のルツは神様の導きで意外な祝福へと展開し、なんとこのルツがこの後, 再婚して生んだ子供の家系からイエス・キリストが誕生するのです。
 私もこの3月に突然父を亡くしましたし、身内を失う悲しさは辛かったです。ましてやこのナオミのように夫と子供二人を同時に失うというのは想像がつかないほどの悲しみだと察します。しかし、神様はその悲しみのなかでづっと沈んでいないように、残された者に希望を与え、また自然な形の導きで想像も及ばない方法に残された者へ、祝福の道を開かれる方だと、今日の個所から学びました。これらは皆、後になってそう思える、わかることが多いと思います。
 突然の災害や病気に伴う死に対して、なぜこんなことが?と神を責めたく位なる思いは理解できます。しかし、イエス様が約束されるように*1死はそこで終わりではないという信仰が与えられる必要があると思います。”死んだら終わり”という絶望をなくすために、キリストは十字架に掛かって死んでくれたからです。キリストは最後の敵である死を滅ぼした*2と聖書は書いているのは、私たちにも復活があり、生きているうちから霊的に新生され、望みを持って生きられる人生のための救いを神様は計画してくれました。
 もちろん、悲しみに対する慰めも人の与える以上のものを神様はあたえてくれます。そして、キリストにある希望があるからこそ、私も悲しみの中に留まり続けず、もしくは悲しみに蓋を閉めたままでなく、喜んで生きていられるのだと、思わされました。

*1 ヨハネの福音書11章25節  *2 Iコリント人への手紙15章26節
Aug. 08 職場でのイライラ

「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」  ピリピ人への手紙 2章3節

本日も(”も”ということは、継続的なわけです)、職場でイライラし、そんな自分に自己嫌悪に陥りました。具体的にはかけませんが、なぜ、いつもこうなんだろう? 結局自分のものさしがあって、それで相手を計って、悪いとかよくないと判断し、それに対して自分はものを言う立場にないとイライラしてしまうのです。
 自分の善悪の基準は相対的で、あてにならない、ましてや自分を棚において相手を裁いてしまうのがよくないとわかっていて、やってしまう自分がいます。今日のみことば「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」が与えられました。これは人間関係における、神様からの知恵だと思います。
 ここで”互いに”という意味は、この聖書のことばがクリスチャン向け書かれている内容なので、キリストの愛を知って信じているもの同士の間での”互い”にとなります。もし相手が神を知らない、神を恐れない人であれば、相手からはこのことを求められません。たとえ、こちらから一方的であっても、自分がイライラするかわりに”相手を敬う”ということを身につければ、心に平安が与えられるはずです。裁くのではなく、相手のために祈るという姿勢を学ばなければならない、まず自分の内側が変わらないといけない。神様、助けて下さいと、今日も思わされました。
Aug. 05 午年生まれ

「主なる神、イスラエルの聖者はこ言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と」 イザヤ書30章15-16節

私の生まれた年は日本の十二支でいう、ひのうえ午といって、60年に一回の歴(年がばれますが)。子供の出生数グラフを見るとその年だけ出生数ががたっと落ち込んでいるのが見て取れるほど、その年に子供を産むのを避けたようです。これは当時20世紀にもなる現代で、昔の言い伝え(ひのうえ午生まれの女性は良くない)を半分信じていた人が多くいたことの証拠です。
午年生まれは、馬のようにつっぱしる、〜年うまれだから〜だと、よく人は星座とあわせて性格判断をするものです。そういうものは信じませんが、悔しながら、自分が突っ走る性格であることは認めざるをえません。
 私は落ち着いて、静かに家にいたいと思うのですが、頭がからから回転しはじめて先のことをどんどん考え、色々思索し、また先走って行動しがちなところがあります。それらが功を奏する場合もありますが、対外”骨折り損のくたびれもうけ”に終わることがあり、ぎりぎりまで何もしなければよかったと思うことが多々あり。
 忙しいという字は、心が亡びると書きます。今日読んだ個所、神様がイザヤという預言者を通して、神様に信頼せず、この世の策略に頼って駆け回ってばたばたして苦しんでいるイスラエルの民に言われたことは、私に言われているとタイムリーに受け取れました。2週間前、ものすごく忙しくて動いて、くたびれて、聖書を読む時間もなく、ぐったりベットに倒れこむこともあり、また頭がからから色々考え、眠れない夜もが続き、そここそ私は”馬に乗ってとんでいかなきゃ”状態だったと、振り返ると思います。今はそれが取りのけられて感謝です。もちろん、神様はその通った大変なところを後から益に変えて下さると信じていますが、一番大事なこと(祈ったり、聖書を読んだりと神様との時間を取ること)ができないほど忙しい状態だと、私の心が死んでしまうのです。
 今朝も、まだその疲れがとれず半分眠りながら、聖書を読んでいましたが、その中でも”私は神様に立ち返って落ち着こう”と思い直せたことは幸せです。私のようにせかせか、動いて疲れてしまっている人を神様はかわいそうに思って下さり、その後続く、「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」(30章18節)との言葉が続きます。必要を満たしてくださる神様に信頼し、先に進む力を頂きたいと願いつつ。
Aug. 03 オリンピック:賞獲得への道

「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。」
第一コリント人への手紙9章24-26節

 ロンドン・オリンピックが始まり、金メダル獲得数は中国やアメリカがダントツですが、総メダル獲得数でいえば、現在(8月3日朝)日本は金銀銅合わせて獲得数は19個、国別には3位。もちろん銀の数が多いのですが、これからもがんばってほしいと応援しております。特に陸上競技が開幕しますので、期待できそうですね。
 人というのはやはり目標があると、その達成に向けて走り続けられるもの、私も昔マラソンを完走してみようと試み、練習を始めたばかりの頃は、絶対無理と思ったものですが、こつこつ練習を続けていけば(タイムは問題外ですが)完走できるようになれるものだと、一回だけですが経験しました。その時人生何ごとも努力をすればある程度報われると思ったものです。
 オリンピックの発症の地は古代アテネ。キリストの使徒パウロは当時、アテネを含む地中海沿岸・現トルコ地域を伝道して巡回していたので、今日の個所をオリンピックの競技を思い起してたとえたのでしょう。つまり、信仰の道を走り続けるには、賞をめざして走り、そのために節制もする面もあると。もちろん救い自体は、イエス・キリストを信じるだけで与えられますから、レースのように努力して獲得して得る必要はないのですが、ここでは救われて、信じた”後”始まる信仰のレースという点について、パウロは励ましをしているところでしょう。
 私も神様の与えて下さる大きな愛に応答して、神様のために何か小さいことでも生きている間にしたいと思い、それに対する報酬はもらえなくても、もう救ってもらっただけで十分です。しかし、プラスさらに天国でそれに対する報い(賞、冠)もあるとの約束があり、「よくやったね」と天国で言ってもらえればなおうれしいなあと。神様は人が目的のために努力をするという傾向性を、決して無駄にはされない方です。
 信仰のレースは簡単な道ではなく、正直、辛いことも多いし、もう無理だ、なぜここまでしなければならないのか?と思うこともありです。一方、神様は耐えられないような試練は与えず、寸前のところで脱出の道も用意してくれて*、だから走り続けられると思います。最近、個人的に非常に苦しいことがありましたが、先日脱出の道が与えられてほっとしています。そしてまた休憩して、レースを走り続けられればと願いつつ。
*「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 」第一コリントの手紙10章13節
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