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信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

Sep. 2012

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言





左:オリンピック国立公園(ワシントン州)
草刈りの労苦 オリーブ油の製法 反米・反日デモ、反政府デモ。。。 愛されているという自覚
タペストリー(壁に掛かっている織物の絵) 負うと逃げる 久しぶりの食卓?での会話 矯正の辛さ
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Sep. 30 矯正の辛さ

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」マタイによる福音書5章3節

「聖書は、すべて神の霊感をによるもので、教えと戒めと、矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分にととのえられた者になるためです。」 第2テモテへの手紙3章16-17節

 経験された方はよくご存じのように、歯列矯正は大変なプロセスです。私は歯医者に勤めていることもあり、DR.の勧めで歯列矯正とかみ合わせ調整で顎を動かす治療を受けています。しかしこれが想像以上に時間もかかり、日常生活での不便、特に食べる時、話す時に困難でした。口の中に入れ込む装置のため、一時はもごもごうまく話せない、特に英語の発音ができない時期もありました。歯のかみ合わせもあごを動かしているのでどんどん変わるため、その過程で物がかめない、するとよく噛まないで食物が胃に送られてしまうため、私のように胃がほとんどない人は非常に胃に負担がかかるのです。よって、他の患者のケースよりもさらに時間をかけて行なわれています。そして、口の中は歯にかけたブレスで切れまくります。しかし、目的のために頑張ろうと忍耐しております。(まだ、いやようやく一年経過。。。)
 矯正とはよく言ったもので、せっかく2-3年かけて矯正された歯列も、そのあと一年間、透明の固定カバーを歯全体につけて定着させないと、また歯が動いて戻ってしまうというのです。苦労したものがリバウンドしてしまわないように、さらに固定するまでに忍耐と訓練が必要なのだと。
 性格や自身の良くない性質もこれまた同じ。私の欠点は自覚し、自分でも気を付け、神様に祈って少しずつ変えられてきたと思っていると、突然リバンドして昔使っていた悪い言葉、怒りやすい性質がでてきてしまうのです。そして落ち込むわけです。私の性質は古い自分がふと何かのきっかけ(たいがい車を運転したり、人から言われた言葉で)で出て来て、そのたびに神様に悔い改めるという繰り返し。信仰が与えらえていても罪は犯してしまうのですが、そのたびに、落ち込んでクリスチャンをやめようと思わないのは、”ああ、だからこんな時間のかかる、どーしようもない私のためにイエス様は十字架で死んでくれたんだ”と 思い直すのです。
 一方で全てがうまくいっているとき、自分はいけていると思える時は、ある意味その状態でぬるま湯につかるように満足し、求めないのかもしれません。また矯正すべきところが自分の内側にあったとしても見過ごしてしまいがち。私は自分が足りない、欠点だらけのものであることを自覚すればするほどその心の貧しさ(人にむかつく、切れる、悪い言葉を言う、イライラする)を治して下さい、神様に助けを叫ぶことができるのは幸せだと思うのです。イエス様がおっしゃった心の貧しいとは、物質的な目に見える物の貧しさではなく、霊的な貧しさ(原語的にはPoor in spirit)、神様の愛で他者を愛せない、そして平安がなくなるみじめな状態。しかし、そのみじめさを自覚したら、そのまま底に停滞する、もしくは開き直るのでなくそこから解決策を与えてくれる神に求めるチャンスになり、ますます神様への信頼関係が強められと言う点で、神様の支配する領域(国)を味わうことが地上にてもできる恵みを思わされました。矯正のプロセスは決して楽しいものではないですが自分の内側が整えられるためだと信じて、Up&Downの道を進もうと。そのための励ましは、神の国を今味わえる恵みと、将来、永遠に神の国を享受できるという希望があって喜んで前に進めることではないでしょうか。
Sep. 27 久しぶりの食卓?での会話

「(イエスは)夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。 」ヨハネによる福音書 13章4-5節

 今日はうれしい日。私の家の家主が交通事故で意識不明になった日から早くも一月半が経ち、彼女はようやく鼻に通された経管栄養が外され、その他の治療も落ち着き自由に話せるようになるほど回復していたのです。ちょうど病院の夕飯の時間で、最初は食べたくないとナースに言ってましたが、私が食事の蓋をあけて「おいしそうだよ♪」と勧めると、本人は少しでも食べると言いました。まだまだ口からの食事を再開したばかり、お肉等固いものは食べるのが困難そうでしたし、左手指もまだ骨折で固定されているため片手で食べるので不自由です。ゆっくりですが、お野菜やライスはスプーンで食べ、一口大にカットしたチキンのBBQソース焼きも食べていました。
 家で二人で食卓を共にしていたときは、必ずどちらかが祈ってから感謝して食事を頂き、たくさんのことを話し、あっという間に時間が過ぎたものです。今回も病院の一室でしたが、彼女の夕食を囲んで、一言食前に祈ることができました。彼女はほぼ以前と同じくらいか、少しペースはゆっくりでも、色々お話をできるようにまで戻り、自分の猫達はどうしているかと私に聞きました。つい2週間前は、薬で朦朧としていて、話もあまりできず、ああどうしよう。。と病院を出て帰途につくたび心が痛み、彼女の回復を祈ってきたのです。しかし今日の回復ぶりをみて神様はやはり誠実な方、祈りを聞いてくれたと感謝の気持ちとうれしさでいっぱいで帰途につけたのです。
 食事を誰かと共にすると言うのは大切なことで、一緒に食べる人がいると食欲も会話も進むものです。イエス様もよく弟子たちや、その当時の社会からアウトキャストされていた人(前科者、売春婦、ローマ帝国の手下として税金を集めてた者等)と食事をしていて、宗教家たちに批判もされたことが聖書に記録されています。イエス様は差別をされない方でした。人を見下すこともなく、悪いことは悪いとその罪は示しても責めない方。そして当時奴隷がする仕事である、足を洗うということを、最後の晩餐で弟子たち一人一人にしてあげて、互いに仕えあうことの模範を示された方でです。”仕えるためにこの世に来られた”と言っておられました。
 現代に生きる私たちは文字通り足を洗いあう必要はないかもしれませんが、その趣旨は小さいことでも低くなって相手の必要に仕えるということなのではないでしょうか。時にはそれはやりたくない内容のことかもしれません。そのときは神様に助けを求めないとやってられないと思うのです。幸い今の私の場合、家主の猫の世話をする小さいことですが、これは負担になりません。家主の件で、お祈りしてくだ下さった多くの方々へ感謝を持って、ようやく彼女の回復をお知らせできるのが何よりも喜びです。神様は皆の祈りを聞いて下さったということをお知らせできることも。 
Sep. 25 負うと逃げる

「彼女は恋人たちのあとを追って行こう。しかし、彼らに追いつくことはない。彼らを捜し求めよう。しかし、見つけ出すことはない。彼女は言う。『私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから。』」 ホセア記2章7節

 若い時、女性同士で恋愛談義に花を咲かせていたとき、その中でよく言われたのが、”男性は女性から追われると逃げる、女性は自分を男性が追うように仕向けなければならない、男性はハンター(狩猟家)だから”と。すると結婚したら”つった魚に餌をやらない”のでしょうか?もしくは最近の日本は肉食女子の方がハンターなのでしょうか(笑)。
 聖書でいう神が人を創造された時の男女の結婚は、もっと良い関係、一心同体で、互いを自分の体のように労わり、尊敬するものと知った時、安心したものですし、実際完全でなくてもそのような夫婦を観ていると微笑ましいです。一方、一心同体となれず夫婦で別々だと、自己中心、責任転嫁等と関係が困難になる場合があるのでしょうか。そして、結婚を前提としない、責任を負わない関係を続けたり、恋の駆け引き等、これらをやればやるほど自分が傷ついていくものです。
 神様は4千年前に一つの民族(イスラエル)を起し、その民族を大切に育て、何が良いことか悪いことかの律法も与え、たとえイスラエル民族が神から離れて背いてきても、づっと見捨てないという歴史があり、今も続いています。それは、イエス・キリストをその民族から人として生まれされる血統のためでもあります。聖書ではよく 神とイスラエル民族の関係を婚姻関係にたとえ、預言者を通して”どうして他の男のところへ行ってしまったのか、戻ってこい”と表現しているところがあります。
 今日の個所は、ホセアという預言者を通して異教の神を拝み続けるイスラエルの民に対して、”どんなに浮気をして、その結果傷ついて捨てられてからでも、最後には自分のところへ戻ってきてほしい”と神の思いを表現されています。興味深いことに、ホセアは実際、神からの命令で姦淫をした女性を妻にしろと、そして彼女がその後離れていって、とうとう奴隷市場に売られてしまうほど落ちぶれてしまっても、その妻を買戻すよう言われます。ホセアもいくら神からの命令とはいいえ、なんと忍耐のいることでしょう。ましてや、神様はどんなにか、自分から離れ、他の”神々”(神々とは自分の心を占めているもの、優先順位のTOPのもの)を求めてしまう民を見捨てず愛し続けていることか。今日の個所を通して、現代に生きる私たち一人一人へも同じ思い、同じ愛を持って待っておられる神様の愛を思わされます。
 私たちはどこからきてどこへ行くのでしょうか。それを真に求めていくと、イエス・キリストがキーとなるはずです。
Sep. 22 タペストリー(壁に掛かっている織物の絵)

「・・・あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう。」
エステル記4章14節

 美術館に行かれて、中世のアートのセクションとかにある、大きな織物で精巧におられた巨大な壁掛けの織物が展示されているのを観たことがありますでしょうか。あれは、本当にどうやって手で織ったんだろうかと見るたびに感動します。色彩豊かな糸が縦横に織られすばらしい絵となるよう(裏だけ見るとぐちゃぐちゃといったら失礼ですが)設計図をもとに作られているそうです。
 9月の上旬、NY州の郊外に二泊三日の修養会に行く機会がありました。この会はアメリカ東海岸の各都市にある日本人教会の人々が集い、今回のテーマは”アメリカに生かされて”として、各教会の牧師さんたちがメッセージをなさり、とても盛りだくさんのプログラム。ここで改めて、今なぜこの時期にアメリカにいるんだろうと自分に問う機会ともなりました。皆それぞれ今の場所にご自身がおられるのは、その理由・目的・家族の事情等があるからだと思います。私の場合は、なぜ今アメリカなのかと。
 今日読んだ聖書の個所は、古代ペルシャ帝国が栄えた時代に、その中に離散して住んでいたユダヤ人たちの中から、ペルシャの王妃に抜擢されたエステルという女性のストーリーです。当時王妃といえども、王様の所有物の様な扱いでしたので、王に謁見する、嘆願するというのは簡単なことではない状況。ある時、彼女の民族であるユダヤ人全てを撲滅するという策略がユダヤ人を憎む官僚から起こされてしまい、エステルの養父のモルデカイという人が、彼女にユダヤ人救出のために王に嘆願するよう伝えたところです。つまり、彼女が多くの民族の女性の中から王妃に選ばれたのは、”まさにこの時のために、違いない”と。そして実際、彼女が死を覚悟で王に謁見を申し出、ユダヤ人虐殺の計画が阻止されることになるのです。
 私たち一人一人、人生の中で、なぜ今ここに自分が置かれているかと、それは決して偶然ではなく、意味や役割があつて、それを神様が総合的にコーディネイトしていることによると信じられることは、非常に心やすいものです。全てのことを自分でなんとか動かすべく心を煩わし、走り回る、もしくは運だから仕方ないとあきらめることがないからです。自分の思いや計画を超えたところに働く大きな存在がいて、私を大切に尊いと扱ってくれて、他のすべての人と一緒に総合的に組み合わされている、それはまるで大きなタペストリーの絵柄のよう。その一部分や裏だけみると、なんだかわからないように、自分の視野では現状の意味がわからない、先が見えない。しかし、全体像をご存じの神様がどこか支障が生じても調整して下さるから大丈夫だと安心しつつ、自分のここでの小さな役割をビジョンとしてキャッチして行けるよう、祈って求めたいと思わされました。
Sep. 17 愛されているという自覚

「弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。」
ヨハネによる福音書13章23節

「自分は〜に愛されている」とはっきり皆に公言できるのは、すばらしいことですし、その自覚があるから言えるものです。人間関係で、お互い付き合う時間が長ければ長いほど、相手との信頼関係は増すもので、例えば親子では、子供が大人になってきて初めて親の愛をもっと理解できるようになる、夫婦も共に二人三脚で苦労を乗り越えてというように、つきあう時間が長いということと、愛が深まることと比例すると思うのです。(もちろん相性が合わなければすぐに炸裂しますが。。。)
 聖書のなかにヨハネによる福音書という書簡があります。この書簡の特徴はいくつかありますが、そのユニークな面の一つは著者のヨハネが自分のことを名前で記さず、”イエスの愛しておられた者”と表現しているところです。他の弟子が書いた福音書では、ヨハネは”雷の子”というニックネームがイエス様によってつけられていたように、若い時少々気性が激しかったという発言も記録されています。しかしながら、ヨハネ自身の書いた福音書や手紙にはそんな気配はみじんも感じられなく、”イエスに愛されていた弟子”という余裕を醸し出しています。
 最近、ヨハネがなぜ自分を”イエスの愛しておられた者”と言っていたのかが自分なりに納得がついたのです。彼はこの福音書を晩年(弟子のなかで一番長生き、90才近い)に書いたとされ、彼はイエス様が生きていた時もそうですが、イエスが十字架で死なれ復活された後、長くキリストの弟子として生きていたため、その人生が長ければ長いほど、様々な人生の局面でもっともっと自分がイエスに愛されたという実感を体験できたのではないかと。ですからイエスが愛してくれていたことを強く自覚し、わざわざそう表したのかなと、ふと思ったのです。
 私は最初キリストを信じたときはそれほど、神様の愛、キリストがどれだけか、どう愛してくれているかはっきりしていなかったように思います。10年、12年。。と経つと、だんだんその愛の深さが当初よりわかってきて、まだまだですが、徐々に自分が神様に愛されているんだという自覚がわいてきているようです。人との比較ではなく(たとえば、ヨハネは、自分が弟子のなかで自分が一番愛されていたという意味で書いているのではないように)自分と神様との関係のなかで、愛されているという自覚が年を追うごとに深まってくるのかなあと、ふと思わされ、うれしくなりました。 私はこの愛されているということに応答して、それがすべての行動の動機になれたらと願うものです。
Sep. 13   ”反米・反日デモ、反政府デモ。。。”

「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである 。」エペソ人への手紙2章1-3節

「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。 」2テモテの手紙2章1節

 ニュースでは、中東に広がる反米デモ、シリアでの反政府運動、そしてアジアでは領土をめぐる反日デモ等、いつもキナ臭い政界情勢に、TVを観ないわたしでも気になるところ。世界史を見ても、王や政府が国民を虐げる、そして革命がおきる、戦争がおきると歴史は常に戦いを繰り返します。
 昨晩のバイブルスタディで、牧師が悪名高きローマ皇帝ネロのことについて言及してました。彼は幼いころから両親の血なまぐさい争いを見て、自身の妻たちを次々に殺害し、19歳の時には自分の母まで殺害、そして政治的手腕を振いローマ皇帝という権力の座にのし上がりました。彼の有名なエピソードはローマ市内に火をつけて(新しい街を建築するため)、それをクリスチャンが放火したと噂を流し、壮絶なクリスチャン迫害を行ったことです。
 しかしこの当時のクリスチャンは、このような迫害に対して決して反乱をおこしたり武力で立ち向かわず、カタコンベと呼ばれる地下の隠れ家にいて、祈って集まっていました。そして殉教を受ける人は受けるがまま、彼らを棒に縛ってコールタールを塗り、燃やして夜の火柱を楽しんでいたという恐ろしいネロ。。しかしながらそのネロによって死刑にされたと伝えられる、キリストの使徒パウロは、このような皇帝にもかかわらず「王たちと上にたっているすべての人々のために、願いと、祈りと、とりなし、感謝をささげなさい」*と手紙にてクリスチャンに指示していたことを、今更ながらに教えられ驚きました。パウロはまさにネロのためにも祈っていたのは驚きです。もちろん、祈りの内容は権力者が悪から悔い改め、正義のある政治をすることであります。
 ”平和的なやり方では何も変わらない”と武力にて歴史を動かしてきた人々には、この祈りはばかげたことにように聞こえるかもしれませんが、パウロはまさに「敵を愛し、祝福を祈れ」と言われたイエス・キリストの教えをそのまま適用していたんだと思わされました。これは現代にも適用、自分の会社での上司にたいしても。自分の持前の気質ではできないので、聖霊の力を求めたいと思います。
Sep. 9 オリーブオイルの製法

「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。ヨハネによる福音書6章40節

 油→脂肪とくると、コレステロール増、ダイエット大敵と連想されがちですが、油は体に必要です。油も様々な種類がありますが、私は健康目的もあり、特にオリーブ油を好みます。オリーブ油の最大の特色は、植物油のほとんどがが過熱して油と果肉を分離させる必要があるのに対し、熱を加えなくてもオリーブの実を絞ると油が自然に表面に浮かび上がり、そのまま使え、さらに凝固しにくいそうです。いくら好きだといってもなぜその製法に興味を持ったかと言うと、昔、エルサレムにあるオリーブ山の北西麓にゲツセマネという場所が、そのヘブル語の意味は”オリーブ油絞り”だということを知ったからです。オリーブの木がたくさんあった場所なのでそう呼ばれていたのでしょう。
 ここは、イエス様が十字架にかかる直前、最後に弟子たちとこの園に集まり、お独りで神に苦悩をもって祈られた場所です。「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」(ルカ22:44)なぜ、ここまで苦しみもだえたのでしょうか?
 オリーブの実の気持ち?になってみると、絞られる、圧縮されるのは痛い!苦しいでしょう。ここでイエス様が天の父なる神様に祈られた状況はまさに、苦悩の祈り「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と祈られたと。その意味は”もし、十字架以外に、他の人間救済方法があればそれでお願いします、しかしわたしの思いではなく、あなたの計画のままに”。私は以前は”なぜ神なのに、計画されてわかっていることをここにきて、こう祈られたのか?”と理解できませんでした。しかし、よくよく教えられて、また自分に関係あることとしてみると十字架刑での拷問・死の肉体的な苦しみの壮絶さ、それ以上に何よりも、神と神の子はづっと一つだったのに、死んでよみがえるまでの3日間は、その神と断絶すること、これがどれ程のことなのか、イエス様が神の子だとしても想像を絶します。まさに油を搾られような思いで祈られた場所、それがゲッセマネ。
 これを思うわたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
とその十字架による救いの重みを改めて思わされます。そして自分の人生に適用してみると、自分にも油絞られるような辛いことを経験するかもしれない、その時、自分の思い・願いも祈るが、それを超えて「みこころのままに」(神のなさりたいことがなるように)と心から言えるか?(言えない。。)これは私の信仰上のでのチャレンジでもあり、”その時”にならないと、わからないことです。少なくとも、今いえることはどんな状況で神様の助けを求められ、必要に応じてきっと心も変えられるだろうと期待でき、これが励ましであります。
Sep .6
草刈りの労苦

「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」 マタイによる福音書20章13-16節

 私が日本で高齢者向けの相談員をしていた頃のサービスの一つに、地域のボランティアさんを募って、高齢者世帯で生活の中でヘルプが必要な家庭へボラさんを派遣するコーディネイトをしていました。その項一番需要があったのは、草刈りや部屋の掃除のヘルプ。特に草刈りというのは大変労力のいる仕事で、企業に頼むと非常に高額な料金をとられるので、年金くらしで生活に余裕ない方からよく依頼されたものです。お庭が広かったり、その他の事情で私も一緒にボラさんと草刈りをしたものです。汗だくになって、草を刈っていくのは大変ですが、やり終えたあとの達成感は爽快です。この活動を通して、その高齢者の方とボラさんとのちょっとした交流にもなり、とても楽しい仕事の一つでした。
 このことをふと思い出したのは、今日の午後、そう、4年ぶりに庭の草刈りをして汗だくになったからでした。家主の玄関前の庭が草ぼうぼうで、案の定お向かいの方が私に「家主はどうしたのか?」と話しかけてきて、「この庭なんとかならないのか」とお言葉をいただき(汗。。)、私なりに雑草をとりました。私は体を動かす方が頭を使うより好きですが、仕事としてやるほど根性と体力がありません。ですからこういう農作業をいつも仕事としているかたはすごいと思います。
 折しも今日読んだ個所はぶどう園の労働者の話でした。イエス様はよく天国のことや神様と人間の関係をたとえ話で話されていますが、あるぶどう園で農夫が、日雇い労働の人を募り、朝の6時から夕方まで働いた人、昼から働いた人、午後から働いた人、そして最後の一時間しか働かなかった人がそれぞれいました。日の終わりに雇い主(農夫)は全員に一日分の賃金を同額支払いました。すると、朝から働いていた人が不公平だと農夫に文句をいいますが、農夫は「私は不正をしてない、最初から一日分の金額をきみに約束した、最後の一時間しか働かなかった人にも同額あげたとしても、私の自由である」と言われた話です。
 このたとえの解釈は、シンプルには人生で早くキリストを信じても、晩年にもしくは死ぬベッドで信じても、同様に救われて天国へ行けるということです。神の救いは地上での行い、努力、これこれのことをしたからではなく、むしろ、もらう資格もないのにいただける一方的な神様からのプレゼントで、これを恵みと聖書ではいいます。私も散々神様から離れた人生を送ってきて、後から信仰が与えられた者、本当は与えられる筋合いも資格もない者でしたので、後から信じた人や教会の奉仕をしてないとか、〜をしてないのにずるいという、人間的な視点からの公平・不公平という思いは、出てきようがないです、私はこのたとえで一時間しか働かない級ですから。”恵み”は自分がふさわしくない、資格がないと分かった時、実はたくさん神様から今までも恵みをもらってたんだということがわかってくる、そして見えない将来においても恵みを期待できる。”恵みがわかると、すべてが変わる”という本を書かれた牧師さんがいますが、行ないではなく、信仰で救われる、その信じる心でさえも求めればプレゼントとして与えられるという、すべての面において気前の良い神さまのことをぜひ知っていただきたいと願っております。 
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