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信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

Oct. 2012

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言





Down & UP 信仰 先回り後回し 悪を良きに変える
退院 花言葉”君を忘れず” 視点を変える 天使がしたほうが早いのに
全力疾走、弱り果てる
July 2012 Aug. 2012 Sep. 2012
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Oct. 29 全力疾走、弱り果てる

「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。 マタイによる福音書9章36-38節

 本日はハリケーンがアメリカ東海岸接近中で、日曜の夜から交通機関はサービス停止、開けて月曜はすでに海岸側はすでに床上浸水、倒木による停電もこれから予想されます。あたりは人が歩いていませんし店もみな休み。
 私は今日のハリケーンによるお休みを個人的に感謝しております。ここ数日休みの日に日帰りで遠出を2度したため、ちょうど市の勧告とおり家から出ず、ゆっくり家で休めるからです。昨日は街へ出る路面電車が途中で止まってしまい、目的地のバスの出発時間に間に合わないため、2KMくらい全力疾走したため(ぎりぎり乗れた!)バスのなかでしばらく息が乱れ咳がとまらず、その後気を失ったように眠ってしまい気が付くと目的地へ着き安堵。よって体中が筋肉痛となってよろよろ。アメリカでの車生活による筋肉の衰えを感じます。近々に車を手放す予定なので、東京の時のようにバスと電車で通勤するので、もう少し鍛えられそうです。
 今日読んだ個所は、イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、教え、神の国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒しになったところでした。イエスの弟子たちもいくらか力をイエス様からもらって、二人組になって町々へ送られたとも書いてありますが、人々の需要に対する供給:働き人が足りない状態でした。イエス様は非常にやさしい方で、群衆の必要をいつも観て祈り行動されたのです。
 現代にいたる今でも、人が弱り果てて倒れているのを、その人が神を信じていようがいまいが、かわいそうに思って下さる方がイエス様です。そして助けを与えようと、他のまわりにおかれている”人”を使って導いてくれているのです。もちろんダイレクトにも助けて下さいますが。
 今も自然災害で避難し遅れて困っている人、また世界の他の国でも内戦、テロによって生活が脅かされている人々に救いの手をのべようとしておられ、またその神様の手伝いをしてくれる働き人を募集中でもある。人からではなく、神様から示されてその人たちにたいする思いが与えられたらまず祈ることから始められると思います。すると神様がその人に道を開き、実際奉仕のチャンスを与えられると。私自身も体力の行動力もない者ですが、どんな小さな働きであっても、まず、自身のなかでにその仕えようという相手に対して心が動き、それを祈っていくと神様から働き人としてチャンスが与えられていくことを徐々に経験しつつ、今後も仕えるのに必要な体力、健康も、すべて必要なことは与えられると信じて、キリストを伝える上から与える力を求めていきたいと思わされます。
Oct. 26 天使がしたほうが早いのに

「週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。」マルコによる福音書16章9節

 私は以前は映画好きで週に何本も観たものです。しかし観て後悔した映画の種類はホラー。あれは良くない、頭に恐ろしい映像が残ってしまうのです。一番嫌なのはエクソシストという古い映画。悪霊につかれた人のイメージはまさにこれ。そしてそれと闘う神父さんがなんだか私の信じている神様と全然関係ない筋書きの役割で描かれているのは、ハリウッド映画だから仕方がないことですが、とにかく信仰を持ってからはこの手のものは見ないことにしていますし、皆さまにも観ないようにお勧めします。
 イエス様が地上におられた2千年前、悪霊につかれた人々がイエス様の力で追い出して頂いたという記事が福音書に書かれています。現代のように精神病院の閉鎖病棟で暴れて拘束されてしまうような状態の人は、当時そのような施設も薬もなく野放し状態。表だってなくて、正常な生活をしている人の中にも悪霊に支配されている可能性もありうる。ある人は荒野で暴れていたところ、イエス様に悪霊を追い出してもらって正気にもどったという、当時の人々の驚きようはもちろんのこと、どんなに本人が救われたことでしょう。イエス様はそのような悪霊・悪魔の支配から人々を解放するためにも来てくださったのです。
 イエス様が十字架刑で殺され、3日目によみがえって最初に現れたのはイエスの弟子達にではなく、マグダラのマリヤという女性でした。彼女は7つの悪霊が憑依していたと記録され、いったいどんな状態だったのかとエクソシストの女の子より強烈なこと間違いなし。その苦しみから救われてどんなに彼女が神様の力の偉大さを体験し、感謝をしたことか。そして彼女はイエス様を信じ、それ以後イエス様に従って歩んでいたようです。イエス様はその女性に最初に復活されたご自身を現され、逆に、弟子たちは女性たちの証言を信じなかったので、イエス様はあとから現れてその弟子たちの不信仰を責められています。
 現代に生きる私たちも、この目でイエス様を見たわけでないので、他の人から伝えられて信じるしかない状態です。しかしながら、現代の私たちには聖書という神のことば、イエス・キリストについて書かれている書物が目の前にあり、一方で、本当に信じている人と話していると、その方からキリストに関する証しを聞くことで、また信者の集合体である教会を通してイエスの愛を知り、神の霊(聖霊)のはたらきを通して、信じられるという、恵みの時代にいることを覚えます。神様はなぜ、不思議な力を持つ天使を用いず、普通の人間に証しさせて、福音を伝えるツールとして使われるのでしょう。それは不完全な人間が神の力によって、変えられて、いきいきとしていること自体が生き証人なわけで、同じ人間同士のほうが天使が現れて不思議なことをするより、身近なのかもしれません。私も内におられる聖霊によって、己の生活態度をもってしても、キリストを証しできるものに変えられたいと強く思わされました。
Oct. 19 視点を変える

「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一忘れるな。」詩編103編2節

私は、”のど元過ぎれば熱さを忘れる”という典型です。一方で、人の脳は良くできていて、辛かったこと、苦しかったことを”忘れる”ことで精神の安定を保つ構造もあります。いつまでも忘れないで思い続けているとトラウマとなり、何らかの精神疾患になりかねないからです。人への苦い気持ち、自分のことへの思い煩いにばかりとりつかれると心に支障をきたすものです。
 問題は有難みや感謝を忘れるということです。そのときは出来なかったこと、大変だったことがだんだん順調になり、当たり前のようになると感謝の気持ちが薄れてしまいがちです。そして、落ち着いてくると自分が受けた感謝を忘れ、他人と比較して自身の状況を憂いたり、他人を裁いたりする傾向性があること。私は自分が病後の時、そういう状況に一時陥った経験があるからこそ、省みれます。同じ困難な状況が起こっても否定的な視点から、感謝の視点へと変えてみるということは重要だと思うのです。
 今、家主の家でのリハビリの生活を観ていて、2ヶ月の入院生活で衰えた機能:歩く、階段を降りる、台所に立つ、シャワーを浴びるという動作がが少しずつ回復して、自分でできるようになっいく過程を見ることは微笑ましいです。一方、どこまで傍にいるものが助けるか、どこまで気を使うかという課題はそれにあわせて介護する側にも問われます。退院から9日たち、正直、一緒に住んで寝泊りしている立場は簡単なことではなかったですが、神様の助けによって、多くの人の助けで山を越えられたという感触があり少し安堵しております。いかに自分も当たり前にできていることを神様にもっと感謝しなくては、と思い出されるのです。そして今回のように皆で協力してチームワークで働くということ、非常に謙遜にさせられるものです。神様が家主のリハビリ生活・介護を通して良くして下さっていることを忘れないようにしたいと、将来起こるであろう状況(今度は自分が病気になって人から介護を受ける、または親の介護をする等)で思い出せればと思うのです。
 何を思い出すかというと、神様が今まで良くして下さったこと、またこれから何か起こるとしても、God is in Control、ただ単に”何とかなる”ではなく、神様が何とか良くして下さるから、視点を感謝へとシフトすることです。
Oct. 16 花言葉”君を忘れず”

「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」マタイの福音書6章34節

 花に花言葉があるというのは以前から知っていましたが、365日それぞれの日に誕生花があることをご存知でしょうか。私は初めて10月16日の誕生花はシオン(紫苑)Tartarian asterという花だとGoogleしてみて知りました。秋に咲く小さい白い花で、この花言葉が”君を忘れず”だそうです。素敵ですね。
 今朝、家主と朝食を食べていた時、朝読んだ聖書のことばを分かち合いました。家主は特に、今後のこと、自分の体が回復していくのかとか、色々なことが心配になるのは無理ないと思うのです。ちょうどタイムリーの個所でしたので、先のことをおもいわずらわず、一日一日のやることを考えましょうと励ますと、彼女も「そうだわね、神様に任せなくっちゃ」と納得なさっていました。
 人は他者のことを自分のことのようになんでも覚えていられないものですし、限界があります。しかし天の父なる神様はいつも私たち一人一人を忘れないでいて下さる、そういう存在なのだから、先のことを思い煩う必要のないと、私自身も励まされました。神様に任せるというのも、神様がどういう方であるかと徐々に知っていくうちに、安心できるようになると思うのです。神様を知るにはその子であるイエス・キリストを知ることでもあるので、キリストの生涯が書かれている福音書をこれからも読み進めるのが楽しみです。
Oct. 10 退院

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」  ヨハネによる福音書14章26-27節

 車の衝突事故から約2ヶ月。今日は家主がようやく退院できました。今日は数人で集まりささやかな退院祝いのディナー。彼女が本当にうれしそうでした。本当に大変な辛い時期を通りようやく家に戻れるレベルにまで回復できたのは感謝です。私は彼女の笑顔見ることができ、家に帰ってこれたという安心感を共有することができて感動です。彼女は左目が見えないため視界が半分という、不自由な状態ですので、家の中で転ばないようにとにかく無理をせず、徐々に慣れていく必要があります。私は一緒に住んでいても仕事もありいつも一緒にいられないので、彼女の友人たちも交代で昼間見に来るようにして、彼女が自立できるまでしばらくチームで支えていく予定です。
 自分自身も以前、大きな手術をして退院後よろよろ状態で自宅に戻りましたが、それにあわせてちょうどアメリカ在住だった母が日本へ私の世話をするために飛行機で飛んできてくれたこと、妹も昼間毎日様子を見にきてくれたことを思い出しました。一人暮らしにとって、病気・けがのときほど辛い心細い時はないですので、誰かが一緒にいるというだけで心強く、有難いものです。特に事故の後、だんだん落ち着いてくると逆に色々考えてしまったり、落ち込むこともあると察します。そんなとき誰かが傍にいて話を聞く、励まし・慰めるが必要です。私は一緒に住んでいるということで少しでも役にたちたいと思うのです。
 一方で、私は彼女の気持ちを100%理解できないし、たとえ全く同じ経験、同じ境遇だったとしても人は人を完全に慰めることに限界があるものです。聖書の中でヨハネによる福音書と第2コリント人への手紙という書簡で使われている”慰める”というギリシャ語(”助け主”と訳される)は”その人を助けるために傍にいる”という意味だそうです。心の奥深く慰めることができる方はやはり人を創った神様しかいないと思います。イエス様は弟子たちに、自分はもういなくなるけど、代わりに別の慰め主(パラクレイトス)を送るからと十字架に掛かる前に弟子たちに約束されました。それがイエス・キリストを信じると与えられる聖霊:神の霊のことです。ですから、クリスチャンである家主が聖霊による心の深い部分での慰めを徐々に受け取れると私は確信しています。
 人はどんな悲しみのなかでも立ち直れるものです。それは目に見えなくても、いつも傍にいて助けてくれる、慰め励ましてくれる方によって、最終的には強さを持って生き続ける力が与えられるからです。その助けを与えたい、受け取ってほしいと神様は思って、キリストをこの世に送ってくれました。それは下さいと願えば与えられますし、信仰さえもプレゼントですから。家主にとって、今回生死をさまよい生き残れたことには意味がありますので、神様の助けと共に平安を持って前に進んでいってほしいと祈っています。
Oct. 7 悪を良きに変える

「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」創世記50章20節

 先週「ヨセフ」という映画をYouTubeでみました。3時間で非常に見応えがあり聖書をほぼ忠実にまた良く脚色して制作されていました。今日もたまたま牧師のメッセージをラジオで聞いているとちょうどヨセフの話のところから。ちなみにJosephという名前の由来はここから来ています。
 ヨセフは異母兄弟12人の下から2番目。古代イスラエル民族の12部族の最初の12人です。その父ヤコブから寵愛を受けた為、他の上の兄弟達から妬まれ、憎まれ、ある日ぼこぼこにされた後、エジプトへ奴隷として売られてしまいました。しかしエジプトでの奇想天外な生涯を20年歩み、神が守り導いていたので、エジプトが大豊作と大飢饉に見舞われるという預言を示す王の夢をヨセフが解き明かす機会が与えられ、結果国の首相にまで出世。そして兄たちが知らずに飢饉の時にヨセフのおかげで貯蓄を持つエジプトに穀物を買いに来て、再会することに。最終的には彼の家族全員をエジプトに呼び寄せて養わせたというストーリーです。ヨセフはひどい目にあっても神に従い、忍耐し、また兄たちのした悪に悪を返しませんでした。神は兄弟たちの悪を通して、ヨセフを先にエジプトに送り、イスラエル人が肥沃なエジプトで400年間大きな国民に数的に膨れ上がるという計画があったのです。
 世の中なぜ悪がはびこるのか、どうしてこんな不正・虐待が行われるのか。ニュースを見るたびに心を痛め怒りがわくものです。何もできない私は、いつか神が必ず帳尻を合わせてくれる、たとえ悪がはびこっているように見えてもその悪をそのままにしておかず、逆にその悪さえも良いことに利用されるからと、任せることができるのは平安です。ニュースを観ながら、ただ怒っていてるのでは自身の心に平安が与えられません。被害にあっている方々のために祈りつつ、神がいつか良きに変えて下さることを信頼したいと思わされました。それまでは忍耐、忍耐。。。(←私自身の周りの小さなことに向かっても言っている。。。)
Oct. 5 先回り後回し

「主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」 ゼパニヤ書2章3節

 私の性格はせっかちです。自覚してからは気を付けようと思うのですが、これが性格なわけで、大体頭をからから回転させて先のことを考え、支払にしても、何かの準備にしても、早めに片づけておくタイプ。後回しにしておくと、突然手遅れ、ああ先にやっておけばよかったと後悔したくないからです。一方で先回りしてあることを用意しておいて、それが寸前で予定や内容が変わり全てやり直し、無駄になったこともあります。それでも後悔するより2度手間のほうが私にとっては安心なわけです。
 一方で、後回しにしないほうがいいことは確かにあります。今日読んだ聖書はゼパニヤ書といって、古代ユダヤ時代、神が預言者ゼパニヤを通して終わりの日に起こることが預言されています。終わりの日?裁きの日?って何?神様は愛であるならば、全ての人が天国へ行けるようにすべきだと願うのが人間ですが、一方で神さまは最終的に悪を滅ぼされる、罪はみのがせない、正義というご性質も持たれます。その日はいつかわからないです。(神様だけ知っていると書かれているので、よく終わりの日の日付を予言する人がでてきますが、必ずあたりません)生きている間、自分は神なしで正しいと、神様の愛を拒否する人を神様は彼らの生前の行いに応じて裁かれる日がくると書いてあります。これはあまりに耳障りが悪い言葉で、アメリカの教会ではこの神様の裁きの面を意識的に避ける牧師もいると聞く程です。しかし、裁きがあるとわからないと、神の愛はうけとれないのも確かです。なぜなら、イエス・キリストを信じる時、自分には罪があり、本当は裁かれるべき立場だと自覚して始めて、神の前に悔い改め、だからキリストの十字架の犠牲の上に自身は赦される、救われる、言い換えれば裁かれないという単純なメッセージを信じることだからです。
 なぜ自分が裁かれなくてはいけないのか?自分は人様に迷惑をかけてない、刑法的な罪を犯してないと。聖書では、神を信じないこと自体が罪であると、また、古今東西どんな偉人でも完璧な、全く責められることのない人はいないはずです。それでは、皆だめじゃん、人間だから仕方ないでしょうと。しかしながら、すべての人が最後の裁きから救われる方法として私たちと神様との懸け橋となってくれるイエス・キリストを送ってくれたとあります。自分は神とは関係ない、自分の力で生きたいと言う人は死んだ後も自分で解決を迫られます。自分が正しかったことを神の前に弁明することになります。
 神様は、今、求めてほしい、信じてほしい、そして滅びてほしくないと呼びかけられています。”まだいいわ”という方へも後回しにしないことをお勧めします。信仰は恐れで怖いからと信じるものではないし、何かしろ、お金を払えといっているのではない、イエス・キリストを通しの神の愛を信じるだけ。わからなかったら、とりあえず自分で情報を得て確かめればいいのです。本当の信仰は意志をともない、強制や洗脳ではないから。そのキリストを通しての神の愛を自発的に信じると、信じた後も何が何でも互いに愛し合いなさいという教えで、今の人間関係にも適用するよう導かれ、そこに神の恵みが表されます。今日の個所のように、神を求め信じたものが裁きの日から、かくまわれるという約束がありますから。
   *”ゼパニヤ” とは隠された、かくまわれる者という意味
Oct. 4 信仰

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ書55章8‐9節

 突然、信仰ってなんだろうとふと思う。私が今信じている神、イエス・キリストは単に知性とか知識・経験・常識では理解できないこと。それなのに、なぜ信じることができるのだろうかと。
 本日与えられた聖書のことばから、その答えが与えられました。信仰とは、自分の思いと異なる思い・計画を持っておられる神を信じること、また、自分の思いよりもはるかに大きなことを考えておられることを信じて、任せることなのだなあと。それは”信頼”という漢字に近いけれど、”信仰”は相手が神様だから”仰ぎみる”という礼拝も含みます。もし神が人間と同じレベルの、想定内で動く神、自分の言うことだけ聞いてくれる神であれば、たいした神ではない。所詮人間が創り上げる神のレベル。でも、私は自分の罪のために死んでくれた神なんて聞いたことないし、知性では理解できない内容です。なぜそこまでする必要があるのか。一つ分かっていることは、そこまで犠牲を払ってまで私を愛してくれているからということ。こんな小さな存在でも、神様が創られた人間であるということで、大切に思ってくれるのは本当に有難いのです。そしてこれは私にだけでなく、「世を愛された」*と書いてありますから人間全員へのメッセージ。
 自分がそこまで愛されている、価値があると観てくれているということで、生きる意味が与えられ、励まされます。また、この体が生物学的に死んでも、天国で神様と永遠に生きれる体が与えられるという約束も、想像を絶しますが、神様の思いは超高いのだと。現実に今私を取り巻く環境のことで、これからどうなるかわからないことがあり、自分にはやってく自信もない、しかしなぜか平安が与えられています。私は祈りつつ、心の平安のあるところに進みたいと思います。すると神様のタイミングで、突然また状況が変わっていくことも楽しみでもあります。私は急な変化に対する柔軟性も問われるかな。

*「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書3章15節
Oct. 3 Down & UP

「主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
あなたの道を主にゆだねよ。」        詩編 37編3-5節 (主:神様のこと)

 今日は2週間ふりに、水曜のバイブルスタディに行けて、終わってからいつも祈るメンバーと分かち合いをして、お互いのためと、日本のため(特に東北)のために祈れました。おかげで、このところ沈んでいた心が引きあげられ、ようやく心に喜びと平安がもてました。やはりキリストを信じる兄弟姉妹で顔と顔を合わせて心をひとつにして祈れる時ほどうれしいことはありません。
 ここ2週間体調を崩し、仕事から帰宅しても早く寝ていたので、平日の教会の集会に出れないでいました。すると、私の場合、礼拝と神様のことば(聖書)のメッセージを聞き、共に祈るということが欠けると、霊的ダメージがてき面にでます。日曜は私は子供を教えているのでほとんど礼拝に出られないため、代わりに平日にどこかで出ないと非常に精神的に不健康に陥りがちです。インターネットで録音したものを後から聞けますが、それと実際礼拝にでてメッセージを聞くのとやはり全然違うのです。体調が悪いと信仰が弱まり、必ず否定的な思いが頭のなかにどんどこでてきます。今朝もこのところつづく胃痛と落ち込みが極地に達しふと、日本に一時帰国して病院いかなきゃと(私はアメリカで保険がない為)飛行機を予約しようと思ったほどでした。月曜朝もそんな状態に朝から涙がぽとぽと、助けを祈りました、そして昨日も今朝も。必ず神様は引き上げてくれると信じていましたが、やはり期待を裏切らない方です、昼ごはんを食べて胃痛がとまり、そして夜には心の痛みも癒されました。神様は本当に期待以上によくして下さるので、ほんとうに感謝です。
 クリスチャンは一人では信仰を持ち続けることは困難です。”互いに”という相手が必要なのです。片方が落ち込んでいても、もう片方が神の約束をもう一度思い起して励ましてくれるからです。この祈りのグループでそれぞれに神様に長い間祈っているミニストリーのこと、仕事のこと、家族のこと等なかなかドアが開かれないような場合、時間がかかる場合、共に祈ることで互いに励まし合えます。私たちが予想するようにことが運ばなくても、神様に信頼して神様のタイミングを待てるように。すると、私たち人間の目先の短絡的時間と視野が神様の永遠という時間の間隔と視野へ調整されていくようでもあります。一人で祈る祈りも大切ですが、2人または3人でキリストの名で祈ると、神様はそれを聞いてくれるとの約束をイエス様がされていますから。祈って待っている間も、結局互いの信仰が成長させられるというのも感謝です。
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