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信条・Statement of Faith
          ♪Today's Sharing♪

Nov. 2012

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言





通勤時間3倍 フェローシップ 開眼 Thanksgiving
ハーモニカのおじちゃん 感謝祭のごちそう 頭の中を流れる曲 受けるより与えるほうが幸い
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Nov. 30 受けるより与えるほうが幸い

「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」
第2コリント人への手紙9章6節

 昔からお金持ちほどケチであると言われます。確かに持てば持つほど、うし縄なわない損をしないように、お金を無駄に使わないように色々気を使う、小さいことにも節約しようというのは賢いことだと思います。一方、そのことがいつも頭を占めていれば、お金・物欲に自分が支配されてしまいがちではないでしょうか。貧乏でも金持ちでも、お金は管理するものであって、お金に支配されてはならないと思います。
 一方、神様の経済学はちょっと異なるようです。他者に与えればもっと与えられるという法則です。イエス様は「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカの福音書6章38節)また天に宝を積みなさい、それも信仰を持って捧げることが重要だと。
 今日読んだ個所で、しぶしぶとか人に強いられてプレッシャーではなく、喜んで捧げなさいと、すると神様はそれを喜ばれると使徒パウロも聖書で書いています。それが教会の献金についてだけでなく、困った人を助ける、たとえそれが少額であっても、神様の愛を示すために。私はたくさんの方にいろんな面で支えられて、今生活していられるなあと、本当に感謝しつつ、特にこのクリスマスの季節、自分も受けるより与える方が幸いだとも聖書にかかれていますし、与える方に信仰が励まされたいと思わされました。
Nov. 25 頭の中を流れる曲

「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。」 詩編103編1-5節

 車のない生活になってほぼ4週間。最近気が付いたことで一つだけMissするものがあります。それは毎日車の中で聞いていたラジオが聞けないことです。そのラジオからはいつも讃美歌や牧師たちのメッセージが流れ、運転中ですから全集中はできませんでしたが、視聴覚というのは私の心に多大な影響を与えますので、日頃何を見て聞いているかが大事だったのです。ところがそれがなくなってしまったので、時折、讃美の代わりに他の曲がふと頭で流れるようになりました。たとえばマイケルジャクソンのBear it!(なぜそれが?!)とか私にとって益にならない歌が突然記憶の引き出しから出されて頭に流れるのです。私の電話はいまだに電話の機能しかない型(いい加減スマホに変えれば。。涙)、小型のラジオを持ち歩けばいいのですが今更わざわざ買うのもと、とりあえず、MP3プレーヤーは持ち歩いているので、すでにそこに入っている牧師たちのメッセージ、讃美歌を聞くことはできることを思い出し、ここ数日通勤の時間は讃美をMP3で集中的に聞くことにしました。
 するとてき面!いつも感謝をわすれがちな私が、その讃美を聞くことによって、神様がどういうお方か、何を私にして下さったか、今何をしておられるか、また将来もしてくれるか、私がイエス・キリストによってどこから救われたか、罪が赦されたかが曲を通して心に入ってきます。讃美は神様に向かってほめたたえる内容ですから、ほとんどが神様に対する感謝の詩なので、心が引きあがるのです。
 ある方にとっては、いつも聞いてなくても神様への感謝、祈り、讃美が自動的に出てくる方もおられるかもそれませんが、私の心の引き出しはまだまだ空いている部分が多く、そこへできるだけ良い物・益となるものを取り入れていきたい、そのように自身の環境も整えていく必要があると、日常で心に讃美が溢れる生活を目指したいと思わされました。
 普段の生活で困ったこと、逃げ出したいこと、たくさんあります。目の前の状況で否定的・不平不満に覆われた時、どんな状況でも一つだけ(本当はもっとたくさんあるはずですが)感謝できることに目を留めようと:イエス・キリストが私の罪のために死んでくれたおかげで今の自分があること。このことだけは毎日いつでも感謝し、日々新たに内側が変えられたいと願いつつ。
Nov. 22 感謝祭のごちそう

「もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。 」ローマ人への手紙14章15-17節

 今日は家に数人の友人家族を招いて皆でアメリカの行事:感謝祭をお祝いします。私は日本式に鍋と鳥の手羽焼きを用意し、皆さんにも一品持ってきいただくので、色々楽しめそうで、食いしん坊の私はどの要に胃のことを考えて食べ過ぎないよう自制も必要。これだけ豊かな社会にて好きなものを食べることができる、その他日頃の沢山の恵みを神様に感謝して、感謝祭を祝いたいと思います。
 今日読んだ個所は、キリストの弟子パウロがローマにいる信徒にあてた手紙で、教えだけでなく細かい生活所上での指針も書いていますが、ここは食に関わる個所でした。当時、ユダヤ人やギリシャ人混在の教会で、何を食べるか食べないかでお互い裁きあっていたので、パウロがそんなことで裁きあわないでくださいという実際的な指導をしています。彼は、すべての物はきよいから何でも食べていいと。(当時ユダヤ人にとっての規定は、汚れたものだから食べてはいけないという考えが彼らの律法に基づきあり、現代でも守っていらっしゃいます。豚はだめ、チーズバーガーはだめ、うなぎもだめ。これじゃあ日本人はこまりますね、もしくは当時、異教の神殿で捧げられた動物の肉:それが肉屋でおろされて、その肉を買って食べるのはけがれているからだめとか。)
 一方パウロは、いつも他の人のことを考えなさいと他の手紙でもいっています。ある人にとって汚れているとみなす物を、私が食べたり飲んだりしているのを見て、そのことで相手をつまずかせるような場合は、何もわざわざその人たちの前で食べなくてもいいではないかと。すべてお互いの平和と霊的成長に役立つことを求めなさいと。
 クリスチャンといっても、ちょっとしたことでお互いを裁きあいがちで、傍から見てもそこに愛があるのか?と。現代でも、何かお互い意見が異なったり、習慣や教義が異なっても、周辺的な事柄については平和を優先することを覚えておかなければと(聖書の中心的なことは妥協できませんが)むしろいつも喜び、感謝して互いに祈るものに変えられたいと常々求めたいと願いつつ。
Nov. 18 ハーモニカのおじちゃん

「私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 」「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において圧倒的な勝利者となるのです。 …わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」  ローマ人への手紙8章35,37-39節

 昨日、東京にある、自分が幼いころから行っていた教会で、いつも優しい笑顔のハーモニカを吹くおじさんだったMさんが天国に召され、その記念会が開催され、私は今その様子をネットで見ることが出来ました。病気が発病した後も、この初夏に急変し入院されるまで、出来るだけ日常生活をいつも通り過ごされ、私の父が3月に亡くなった時も、お別れの言葉と共にハーモニカを吹いてくれましたことを思いだし、感謝でいっぱいです。実はMさんはこの6月に癌でご長女を亡くされ、ご本人にとって、ご家族にとってこの半年の間どんなにお辛い時期だったことか、特に奥様のことを思うと涙がとまりません。
 人の死はいつも心が痛みます。たとえ天国で会えると分かっていても。でも、必ず神様は残された者に慰めを与えて下さるものです。その神様から与えられる慰めは、不思議と感情的な悲しみを超えた、心の深いところに静かな平安の心をもたらします。それはこの世だけで終わりでない、永遠に続く天国での命の希望によります。また生きている間も、辛いことがあっても、神様から任されたことを喜んでしていこうと、そのために自分の変えられるべきところも変えられていくという希望もあります。
 人はこの肉体の死だけはどうすることもできません。しかしキリストを信じる者には、この死に対して勝利が与えられています。それは神から離れた、罪を持つこの死ぬべき者のために、イエス・キリストが十字架で代わりに死んで、葬られ復活されたので、このことによって、私も死んだら終りでない者にしてくださるからです。この神様の十字架で示される大きな愛と恵みは全ての人(信じない人も含め)にオッファーされていて、このことを受け取ってほしいと神様は願われています。
 人の死に面し、普段の生活では意識しないこと:死んだらどこへいくの?という不安や、死への恐怖、諦めを内に秘めている方がいらしたら、ぜひこの神さまの愛をうけとってほしいと願いつつ。
Nov. 17
”Thanksgiving”

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」 第一テサロニケ人への手紙5章16-18節

 来週は感謝祭の祝日があります。私たちの教会では、その前の日曜日に感謝祭に食べるごちそうをランチに皆で頂きますので、明日楽しみです。
 明日子供たちに話す内容を準備していて、米国の感謝祭の由来をベースに、神様にどんな時でも感謝することを伝えたいと思わされました。400年前に初めて欧州からアメリカにわたってきた人々は、船の難破もあり、極寒の土地へと苦労して移住したそうです。どんなに家族や友人を失っても、食べ物がない中寒い冬をしのぎ生き残った人々で生活を切り開いたそうです。なぜ彼らがこれほど強かったのか?この最初の移民(ピルグリム)の人たちはヨーロッパでクリスチャンであることで迫害を受けて、それで自由を求めて移住してきたので、どんな困難でも神様が必ず助けてくれるという強い信仰が、彼らを支え、愛する人を失った悲しみにあっても神様から慰めを受けて乗り越えたのだと思います。一方Native American(当時インディアンと呼ばれていた)にも助けられて、なんとか秋にその土地で作物の収穫を得られた時、まず神様に感謝しようと、それが感謝祭の由来だそうです。
 辛い時・悲しい時に感謝する余裕は通常ないです。しかしながら、神様が与えるキリストにある喜びと、いつも神様と祈りを通してコミュニケーションできる安心感、これらを伴って感謝できる心にかえられるのかなあと。
Nov. 13 開眼

「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」ヨハネによる福音書16章7-8節

 先日の日曜日に、マンハッタンにある日本人教会でメッセージを子供と大人と両方にさせていただく機会が与えられました。子供には短く、イエス様がいつも一緒にいること、喜びがいつもあることを説明しました。イエス様を信じていると、目には見えなくてもいつも共にいてくれるから、悲しい時、怖いと思うときも、イエス様が助けてくれると。つまり、目には見えないのですが イエス様は私たち一人一人の心のなかに聖霊として住んでおられるので、いつも共にいるのです。と同時にイエス様ご自身は天国で、天の父なる神様と一緒にもいるという、時空を超えた全知全能の存在なのですね。一方、子供のイエス様という存在への理解は実に単純です。
 今日の個所は、2千年前にイエス様が約33年半の生涯を送られ、その弟子たちは目に見える肉体を持っていたイエス様と3年半共にいましたが、そのイエス様が去って行くことを十字架にかかる直前に言われ、悲しみでいっぱいになった時のことです。そんな弟子たちに、イエス様は自分は去っていくけど、代わりに、聖霊を送るからと約束されたのです。聖霊のことをイエス様は”助け主”と呼ばれ、その助け主は私たちの素の自分では、知識では理解できないことを理解できるように助けてくれると、よく開眼といいますが、心の目をまさに開いてくれる働きをされるのです。
 多くの日本人がよく「キリスト教を信じるにはまず勉強してよく納得してからじゃないと」と言われるのを聞きます。確かにその年齢・能力に応じた知的理解は必要ですから、聖書の学びに出たり、教会でメッセージを聞くことは大切です。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはイエスキリストについてのみことばによるのです」とも聖書に書いてあります。しかしながら、全部わかってから信じようとしたらいつまでもかかるものです。一番大切なことだけ信じようと一歩踏み出せば、心に聖霊を受けて、目が開かれるようになります。つまり、今まで納得できなかったこと、理解できなかったことが不思議と理解できるようになっていくものです。信じて何年たっても、同じ聖書の個所を学んだとしても、いつも新しい発見や気づきがあるのは、まさにこの聖書は生きていて力がある神のことばだからです。
 その大切なこととは、自分の罪のためにイエス様が十字架で死んで、葬られ、3日後によみがえり天国に今はおられること。自分が正しい、自分の理解できる世界が基準だと信じて、神を信じないそのかたくなな心←これが根本的な罪、この罪のために代わりに罰せられてくれたことを信じる、この罪からの救い主がイエスだと単純に信じて受け取ること。難しいでしょうか。「人には不可能でも神には可能」ともイエス様は言われました。人がイエス様を信じるのは不可能に思えるかもしれませんが、可能なのです。信じている人がたくさんいるというのもその証拠、証人なのかなと思わされました。
Nov. 8 フェローシップ

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」使徒の働き2章42節

私は旅行が好きであちこち行ったもので、その中でヨーロッパのカテドラル(教会堂)のすごさとか価値とかは分かりませんが、その芸術的完成度には圧倒されたものです。しかしいつも違和感を同時に覚えるのです。私はその建物と、そこでなされてきたことを思う時(例えばこの費用は民衆の血税がかかっていたこと等)、聖書でいう”教会”とはあまりにかけ離れた実体に思えるからです。
 今朝読んだ個所は、約2千年前まさに初めて教会が出来たところでした。イエス様が復活されて天に帰った後、弟子たちに聖霊(神の霊)が注がれて、弟子のリーダーであったペテロが大胆に人々の前で神様から言葉を預かり、キリストの福音をスピーチし、その場で3千人がイエスをキリスト(救い主)として信じたという驚くべき神様の力が現れ始めました。彼らは最初にしたことは集まる場所、教会堂を建てたのでもなく、何をしていたのかというと、すでに存在していた神殿(宮)や家に集まったりして聖書のことばを守り、フェローシップ(交わり)をし、イエス様が私の十字架を覚えて記念してしなさいといった聖餐式(パンとぶどう酒をとも頂く)、そして祈っていたことです。この4つが教会の原点だと言われますし、教会は建物ではなくイエス・キリストを信じる人の集合体のことをそもそも言います。
 残念ながら歴史をみても現代においても、形に拘ってしまって本来の大切なもの(神様を礼拝し、互いに愛し合う)が形骸化してしまいがちです。人の集まりだからどうしても、こうあるべきというところに留まれない弱さを持つものです。しかし私はその弱さゆえに、教会がうまく機能していないことを自分を棚に上げて批判したり、”腹を割ったキリストのみが共通点の集まりなんかどうせ無理だ”とあきらたら意味がないと思います。自分たちにあきらめても、無理でも、神様にあっては不可能はないと信じているからです。そしてイエス様の命令、”互いに愛し合いなさい”と言われたことを自分の力ではできない、神様の愛がないから、下さいと求めて、不完全ながらも今おかれたところで初代教会のようなフェローシップを目指して、祈りつつ、求めていきたいと思わされました。
 聖霊の働きは(私の場合感じたり見えたり聞こえたりしないのですが)感覚的に満たされることよりも、聖霊に満たされているとわかる証拠は、自分の頭でこうしようああしようと考えて動くところの以上の、自分の知性と力を超えた神の力が自分を不思議と支配している状態です。具体的には相手の反応が怖くてキリストを証できない、こんな人と愛し合うなんてとんでもない〜という状況が、不思議と証しできたり、愛し合えるように徐々に変えられてたりする、そういう人間関係の場所が教会であり、そして教会外の人へ影響を与えていけるようになる。自分には期待できないけど、神様の力に期待したいと思います。
Nov. 3 通勤時間3倍

「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」 ピリピ人への手紙4章11-13節

 今回アメリカ東海岸を襲ったハリケーンは大きな爪痕をのこし、多大な被害で困っているかた、またご家族を亡くした方もたくさんおられ本当にお気の毒です。私のエリアは幸い、停電や倒木による被害、水害がなかったのですが、フィラデルフィア在住の知人は未だ電気が通らない(5日目)、NYの友人からは未だ動いていない地下鉄、電車・バスのことを聞き、復旧に非常に時間がかかっているようです。一日も早く皆さんが通常の生活に戻れるよう、また神様からの慰めと励ましが与えられる様にお祈りしております。
 私は個人的にハリケーンとは別に、生活にちょっと変化がありました。アメリカに来て以来、車がないと不便な場所であったためづっと車生活だったのですが、それが終焉。東京に住んでいた時はもちろん公共の交通機関を使っての生活でしたが、違いはここでのバス・電車が一時間に一本、ピーク時に多くて2−3本しかない世界で、乗り継ぎが悪く通勤時間が今までの3倍以上かかるようになりました。ものは考えようで、それだけ早起きし、移動や待ち時間を本を読んだりMP3プレーヤーで聞く時間にあてて有効に使えばいいと思っています。歩く時間も増え健康にかえっていいですね。また運転しなければ車の衝突事故にあうこともないし、海外でなるべく安全に住むためにも車なしのメリットはかえってあり、非常に身軽になったような解放感があります。とはいえこれから大雪や、寒さの季節。がんばります。
 今日の個所は、キリストの弟子パウロが迫害を受けて牢屋に入っている時、ピリピという街の信徒に書いた手紙です。彼は彼の行く道はいつも迫害、艱難や厳しい状況がありましたが、彼はどんな境遇でも、たとえ長期の牢獄中生活においても、神様から与えらえる喜び・平安があり、満足し、感謝していたことは驚きです。キリストを信じる者が神様から与えられる強さ、前向きさ、力を思わされ、現代に生きる私たちへのなぐさめと励ましにもなるのです。私は現代社会の便利さにどっぷり慣れていて何でも当たり前のように享受してしまいがちです。それが災害や故障、生活の変化で今までのようにいかないと不平を言いたくなる、そんなとき神様に全て委ねていたパウロを思いだし、どんな状況においても心から満足できて喜ぶものに内側が変えられたいなあと 祈ろうと思いました。
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