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信条・Statement of Faith

<今日の一言> 

聖書のことばを通して、

生活のなかで示されたことや

インスピレーションが与えら

れたことを一言



September, 2010

野良猫@アテネ  Nov. 06, 2006
病人に朗報(GoodNews) 人のために祈ること 地球は何歳
秘密の喜び 幸せと喜びの違い 思い煩いとプラス思考
キリストさまは西欧の宗教?!by My祖母 謙遜のモデル メーカーが与える安心
落ち着きのない私へのメッセージ 敬老の日:年をとっても喜びに満たされて 助けの石Stone of Help
小説聖書・旧約篇を読んで 愚かさのバラドック 羽のはえたお札
U-turn方向転換 想定外の対応 なぜ日曜に教会へいくわけ?
他人の病いと痛みを担うこと アメージング・グレースの作詞者 空飛ぶ車の発明
目から耳から入る情報 ふつふつとわく泉 あなたが「高価で」ある理由
Intuitive直感的にわかること つい口がすべって…に対する口の見張り 愛とは!?
体の不思議 みな重要な器官 (以下日付順)
Sep. 30, 2010 (Thu) ”病人に朗報(GoodNews)”
「イエスはこれを聞いて言われた、”丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである”」。 マタイによる福音書9章12-13節

 私の母は医者いらず。80歳近いが大きな病気をしたこともなく、風邪くらいしかひかないし、健康診断もうけない。娘のほうが弱っちょろくてどんなに医療費を使っていることか。。。アメリカのように社会保険方式の国民保険・介護保険がない国と異なり、日本は本当に恵まれています。(それでも文句を言われる方はいますが)
 イエス・キリストはここで比喩を用い、病人(罪人)だという自覚がある人をキリストは招きにきたと言っている。多くの人は、"私は別に刑法上罪を犯したことないし、人様に迷惑もかけてない、罪人なんて言われる筋合いない。"と思われると察します。キリストはもっと根源的な心の内側の罪、外側にでない動機や思い:うらみ・ねたみ・むかつき・高慢・いらだちといったそういう次元を罪といっています。ご自身が病気だと知り治したいと思わないと医者には行かないように、自分は正しい、別に赦される必要ないと思う人にはキリストの救いを必要としないのかもしれません。しかし、キリストはすべての人に手を差し伸べて、先に全員分の罪の罰を代わりに受けるために2千年前に十字架にかかられた。その赦しを受け取るかは個人の自由意思。キリストは”信じろ〜”と脅したり、強制はなさらない方。
 ある時私は自分が罪人なんだと認めました。だからキリストが必要だと、その救いの招きに応じたのです。そういう心の次元の罪、もちろん実行犯の罪も、神の前に悔い改めると、全て赦されるというのが福音(GoodNews)。たとえ、その罪を人が、自分が赦さなくてもキリストのゆえに天の神は赦してくれて、罪悪感を取り除き、そして罪を犯さないように徐々に変えてくださると言うのが約束です。ここに解放と希望:福音があります。Praise the Lord
Sep. 29, 2010 (Wed) ”人のために祈ること"
「イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、”主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています”。 イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。 そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。 …イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、”よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。” …それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。 」マタイの福音書8章5-13節

部下思いの上司って、会社にいますか?今日の箇所はイスラエル人がローマ帝国の属国だった時代、そのローマ軍の軍人がなぜかイエスを信じて、部下の病気を癒してくれとお願いに来た箇所です。彼の権力的立場に関わらず、逆に謙遜な態度を見て、イエスは彼の信仰をほめられた。聖書でイエスが信仰をほめた人は2人だけ、それもこのローマ軍の軍人とシドン人の女性(2人とも非イスラエル人)で、共通点は2人とも自分のためでなく、自分の部下、自分の娘のためで、必死で低くなってお願いしています。低くなって人のために真剣にお願いするという姿勢、私の通常の祈りに足りないと今日示されました。人のためにとりなして祈るには、聖霊(神の霊)の働きを求めたいと。Praise the Lord
Sep. 28, 2010 (Tu) ”地球は何歳?”
「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。 」
エペソ人への手紙1章3-5節 

 この数年日本でもエコが徐々に普及、すばらしいと思う。地球だって年をとってきたし、その限られた資源を大切に使い、CO2(二酸化炭素)の排出を減らし温暖化を防ごうと。ところで地球は何歳なのだろう?進化論側の意見ですと45−46億年前(それくらい最低ないとアメーバ-から人間へ進化しないという前提)、一方、最近の科学者達は様々な地球測定法を開発、その一つによると”宇宙の塵”がどれだけ堆積しているかで地球の年齢を推定する、つまり大気の変化のない月面に宇宙の塵がその発生の時から堆積してきたとし、その塵の量からすると(月と地球が同じくらいにできたとしたら)地球ももっと若い5〜6千年ではと推定しているそうです。
 地球がどうやっていつ頃できたかという議論は私にとって想像を絶する非日常的お題。今日の聖書の箇所はキリストの弟子パウロが神様からの啓示を受けてかいた手紙で、神様が地球を創造する前から、一人一人の人間を有史以来キリストにあって、神の子にしようと”選んでいてくれた”と。銀河系から全て無から有を創造してしまうパワーを持つ”神”という存在は、なんだか全能で偉大な近寄りがたい感じですが、一方、昔から人間のために壮大な計画を立て、人をある目的を持って創られた、そして私をケアし愛してくれている方いる、神様がこんな私でも選び、ある計画を持ってこの世に送ってくれたんだと信じられると、この聖書のことばがもっと個人的で身近に受け止められます.Praise the Lord
Sep. 27, 2010 (M)”秘密の喜び”
「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。 (イエス・キリストの言葉)マタイによる福音書10章42節  
 
電車の中でお年寄りや体の不自由な人に席を譲る、ドアを開けてあげる等、小さな親切でもされると有難いし、する側も気持ちがいいです。(アメリカではLadyFirstだからもっとうれしいです!)
イエス・キリストを信じるだけで罪が赦されて神の子となれ、天国に行ける:この救い自体には、ただ信じるだけで、善行の有無は関係ない。行いで救われるのではなく神様の一方的な恵みによって救われるからです。一方で、聖書では良い行いを勧めています。この箇所のように、生活の中の本当に小さい行為、他人・家族でも親切な行いはすべて神様が覚えていてくれて、天国で報いが与えられるというのです。親切をしたつもりでも必ず感謝されるとは限らないし、誰も気がつかないこと(裏方のこと、小さな金銭的な支援も含め)であっても、イエス・キリストが”覚えているよ”とそれを後から報いて下さるというのは嬉しいです。キリストを信じる者にとって慈善的行いも含めた親切・善意は全て、神様が与えてくれた大きな愛への自身の応答、人に向けてしていてもその動機は見えない神様のためにしているので、”しているんだぞ〜”と人に示す必要もないし、神様が見ていてくれるという隠れた喜びがあります。。Praise the Lord
Sep. 26, 2010 (Sun)幸せと喜びの違い
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。 」ガラテヤ人への手紙5章22-24節

以前、”幸せの追求”という米映画を見た。これ自体はアメリカ独立宣言や我が国の憲法で、基本的人権として保障されている。しかし人が欲深ければ小さな幸せに満足できず、もっともっとと追求され続ける傾向性があるのではないでしょうか。クリスチャンにとっての”喜び”はユニークだとある牧師が言っていた。そして感情や環境に左右される”幸せ”との違い、イエス・キリストを信じていると困難な状況のなかでもその喜びが失われないと。その喜びはイエス・キリストキリストとの信頼関係、愛の関係からくるものなので、たとえアフリカの国に生まれて環境的には宗教的迫害、食糧難、物質的欠乏の状態であっても喜びは失われないと。
私は、正直こんなに恵まれた環境に住んでいても、ちょっとしたことですぐ感情がアップダウンしがちで思い煩いもおこる弱いものです。でもいつも戻れるところがあるのが感謝です。このキリストにある喜びを思い出し、この喜びにとどまっていればつづく、”平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制”という性質へと自分の自己中心的な性質から超自然的神の力で必要なその時に、変えられていくだろう、という希望が与えられています。そこには、禁欲主義とか律法主義が動機でなく、喜び・神への感謝がベースで自由があります。その自由を、信じた時十字架につけてしまったはずの旧い自分:肉・情欲のままに用いないよう、聖霊(神の霊)に心を見張って頂きたいなあ。Praise the Lord
Sep. 25, 2010 (Sat)"思い煩いとプラス思考”
「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。…空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」 マタイ6章24-27節(イエス・キリストの言葉)

 あるアメリカ人が日本にきた時、街中に大きな黒い鳥がたくさんいるのに驚いたそうです。そう、カラス。確かに私の住むペンシルバニア州近郊でカラスはあまりみかけません。森林が多いため街中に来ないのでしょう。私はごみをつついているカラスを見たら"この〜!"と思わず、この聖書の箇所を思い出すことにしてます。私自身もわりとネガティブに考える傾向にありますが、経験上思い煩いは何もいいことを生み出しません。また長寿・健康に執着するのは思い煩いの具現化。もちろん適度に健康に気を使うのは必要ですが、あまりもこだわってあれこれやっても癌や病気になる時はなるのです。
 現実的に、生きていれば何かしら問題・困難はあり思い煩いが全くないというのは無理な話、しかし思い煩いそうになったらこうするといいよと、パウロという弟子もこう書いています「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 」(ピリピ人への手紙4章6節)、”神がなんとかしてくれる”というポジティブな信仰は、"自分の力で切り開く"という自身の力量・セルフイメージのアップ・運?等をベースとする"プラス思考"とは異なります。生活の中で、キリストを信じる信仰による神の平安で支えられますように。 Praise the Lord
Sep. 24, 2010 (Fri)"キリストさまは西欧の宗教?!by My祖母"

「アブラハムは"神を信じた。それによって、彼は義と認められた"のである。 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。 」ガラテヤ人への手紙3章6-9節

「キリストさまは西欧の宗教だからね」と私の祖母のコメント。そう思われる方も多いのでは?アブラハムは今のユダヤ人とアラブ人の先祖。そんなアブラハムと私たち日本人(ユダヤ人は自分たち以外を異邦人と呼ぶ)も実は関係があるのです。神様は長期的計画の中で、まずユダヤ人という一つの民族をおこし、イエス・キリストがその家系から生まれるように準備され、そしてキリストを信じる信仰によってアブラハムに約束された祝福が全ての国民に及ぶと聖書に書かれています。キリスト教は決して”西欧の宗教”ではなく、中近東から始まってFarEast(極東)の日本、世界のすべての国(FarEastという言葉自体、西欧中心的見方なんですよね…)への福音:「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」(26節) 日本人というより”天国民”として祝福を頂きませんかと、祖母に説明する機会があることを願いつつ。 Praise the Lord
Sep. 23, 2010 (Thu) ”謙遜のモデル”
 「…また、みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。 」第一ペテロの手紙5章5節 

 先日、”謙遜とは?”というテーマで聖書をもとにディスカッション、分かち合いをするグループ(Spread)に参加させて頂いた。私にとって謙遜程、身につけるのが困難なものはない。日本人文化として「いや〜何々さん、すごいですね!」「いえいえ、大したことないですよ」と実は多少自分には褒められるところはあると思いつつお約束のように答えるところ、逆にあからさまに自身を自慢する人には、仕方なく「すごいですね。。」と言いつつ心の中で”自慢話しはもういいよ”とひいてしまことがありませんか?こういう会話は表面的・偽善的な謙遜で、それが自分にしみついるのに気付かされる。最近はもしおほめ頂いたら素直に、「ありがとう!」「神様のおかげですよ!」と言うことにしている。実際ほんの少しの役にたつことも、全て神様から与えらた資質・恵みだという意識があると、自分が高ぶらずにすみます。
謙遜さのモデルはイエス・キリスト。神の子であられるのに、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ福音書10章43-45節) と言われ、天の父なる神に従い、人に仕えられた。キリストから謙遜さを学んでいきたいです。Praise the Lord
Sep. 22, 2010 (Wed) ”メーカーが与える安心”
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に。」伝道の書12章1節

 紀元前時代のソロモン王という、非常に知恵・力・富が与えられた王が書いたことば。彼は王としてすべての楽しみを享受できたが、そのうえで「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい、しかしこれもまたなんとむなしいことか」(2章1節)と、そして「結局のところ、神を恐れ、神の命令を守ることこれが人間にとってすべてである」と結論づけている(12章13節)。自分は彼のような富も権力も人生で決して味わうことはないけれど、自分がむなしいことを経験せずに、味あわずにすみ、反面教師で他の人の経験からこの重要な知恵を学ぶことができるのは幸いです。
 神様が人間を創った方だとしたら、何が人間にとってベストで益になるかメーカーとして知っているはず。年を重ねて頑固になる前に、自分の創り主:メーカーがいて、自分を理解し、ケアし、愛してくれるている、そういう方がこの世の中に一人いるんだということを一人でも多くの方が気が付き、安心が得られますように祈りつつ。Praise the Lord
Sep. 21, 2010 (Tue) ”落ち着きのない私へのメッセージ”
「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、”あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る”しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。」イザヤ書30章15節

私はわりと多動です(最近自覚)。今の世の中ネットによる検索機能も助け、頭でくるくるこうしようああしようと考え、また家にいる時はなぜか掃除や、かたづけ等何か動く、人と会う外出の予定をいれないと自分が怠け者なのではと思ってしまう、損な性格。ですから、必要な時に立ち返って、落ち着いて、神様を信頼し祈って指示を仰ぐというのが自分の素の性質では困難。突進しすぎると、不思議な形で神様のストップが入り〜後になってそれがわかるのです。当時のイスラエルの人々も、この箇所にあるよう、神に信頼して神の指示を仰ごうともせず、自分たちで戦略をたてばたばたしていた、それに対する神様の預言者イザヤを通しのことば。
 しかしながら神様はそんな彼らにも・私にも続く18節で「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。」と。神様の忍耐深さ、愛を感じます。今日もこれを生活のなかで少しでも思い出し、力が得られますように祈りつつ。Praise the Lord
Sep. 20, 2010 (Mon.) ”敬老の日:年をとっても喜びに満たされて”
「また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である。 このような人は自分の生きる日のことを多く思わない。神は喜びをもって彼の心を満たされるからである。 」伝道の書5章19-20節

本日、日本では敬老の日。昨日も教会では午後、敬老会が開催され、教会にご自分で公共機関を使って来られる元気なお年寄りと自宅で過ごされる方も含めてお祝いする会に参加し、皆さまの”恵みの日々”として一言ずつ今の感謝・喜びを分かち合われたのを聞くことが出来た。皆さんに共通していることは、身体的にはあちこち支障や病気となり不自由なことがあっても、心が喜びで満たされている。生かされていることを感謝して、大きな希望を持っている。その希望とはいつか天国で神様、イエス・キリストとお会いできること、そして永遠に一緒に住めること。
若い時には忙しくて考えたこともない、これから年をとっていくことへの不安・心配・死への恐怖に対して、投げやりにならず、ごまかさず、真に向き合うことは厳しい。これは自身も仕事を通して「早くあの世へいきたい」「生きているのが辛くてね」とこぼされていたお年寄りと接し、感じていた。しかし、年齢に関わらずキリストを信じることで、”真の喜び”で心が満たされる、それは全て神の恵みのゆえなんだと、敬老の日に思わされた。Praise the Lord
Sep. 19, 2010 (Sun.) ”助けの石Stone of Help”
「そこでサムエルは一つの石を取り…それにエベンエゼルというな名をつけ”ここまで主が私たちを助けてくださった。”と言った。」サムエル記上7章12節

 へブル語でエベンエゼルEbenezerとは”助けの石”という意味だそうです。紀元前、イスラエルの王国制度が確立する前、周囲の敵の攻撃から神様が彼らを守って下さった時、当時裁き司であった預言者サムエルが記念の石を置いて言った言葉。現代の私たちも、今までを振り返るとああ、あの時主が(神様)が困難な状況から助けてくれてたんだなと思い当たることがないでしょうか。それも私が信仰がない時、神様から離れ、背いていた時、自分でまいた種で痛い目にあう時でさえ、最後の最後で助けられ、なんとかここまでこれて、今の自分があります。
 当時のイスラエル人が真の神を忘れ他の偶像の神々を拝み、困った時だけ叫ぶ、それでも神様は何度も彼らを助けてくれていた。今の自分も彼らと変わらない弱さを持つ。その弱さのゆえに、イエス・キリストが来て下さった。本日は日曜礼拝、特に感謝をもって礼拝を捧げたいです。Praise the Lord
Sep. 18, 10 (Sat) ”小説聖書・旧約篇を読んで”
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」第2テモテ人への手紙 3章16節

先日飛行機の中で単行本”小説聖書 旧約篇”、ウォルター・ワンゲリン著(徳間文庫)をいっきに読んだ。普段教会に通っている人々でさえなかなか聖書全部:旧約聖書・新約聖書と二つに分かれているを一気に通読する機会は多くないのではと。その点、こういう小説としてその要約が描かれている(それもかなり原文に忠実)ものは読み易く非常にドラマティックで面白い。旧約聖書に登場する人物たちはみなが聖人君主ばかりでない。失敗あり、びっくりするような愛憎ドラマや事件があり、数千年前も現代とかわらぬ人間ドラマが繰り広げられている。もちろん、神様に従った信仰の人々のストーリもたくさん。聖書は2千年位の間、たくさんの人が神の霊感を受けて書いたものの集大成。神様の見えない力で一つのテーマでもって今の形に編集されているからこそ、現代の私たちと神様との関係、そして人間関係にも適応可能な、生きたメッセージが書かれているのだ。すごいなあと。Praise the Lord
Sep. 17, 10 (Fri.) "愚かさのバラドック"ス
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力である。実この世が、自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ神は、みこころによって宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うと定められたのです。」第一コリント人への手紙1章18,21節)

おそらく、どの時代の人も”神様っているんだろうな”〜という特に信仰心がなくても漠然とした思いはあったのではないでしょうか。しかし、”あなたの罪のためにキリストが十字架で処刑され、よみがえったんです、それを信じると救われます”というのを信じることは困難ではないかと思う。あまりにも非科学的、この世の価値観からすると愚かに思えるからです。私自身も、キリストが”自分のための救い主”と信じられたのは、まさに奇跡、神の霊(聖霊)の働きで、この信仰も求めたら与えられたプレゼントだと思います。生まれが西欧文化圏、クリスチャンホームだったから等とはまったく異なる次元での個人的な決心。(もちろんキリストに関する情報を知れるという点で環境的には恵まれていますが)
この救いへの招きは全ての人に差し出されていて、人を創った神様は一人でも多くの人が受け取ってほしいというのが”神のみこころ”、貧富・学力・文化に関係なく平等にこの奇跡が神様の力でおこるから、自分が信じたからといって誰も誇れないのがいい。Praise the Lord
Sep. 16, 10 (Thu.) ”羽のはえたお札”
「富を得ようと苦労してはならない、かしこく思いとどまるがよい。あなたの目をそれにとめると、それはない、富はたちまち自ら翼を生じて、わしのように天に飛び去るからだ。」箴言23章4-5節

 トロントの飛行機の乗り換えでたまたま一緒だったビジネスマンと言葉を交わした。彼はフィラデルフィア近郊在住で、毎月のように出張で台湾や上海に行くとのこと。”いや〜時差ボケ治ったころにまた出張でね、僕の仕事はアジアでの娯楽産業、カジノとかなんだ!”と鷲のようなするどい目をキラキラさせて言っていた。近年、中国の都市部では振興富裕層が増大、いいマーケットに違いない。
 今日、紀元前900年頃のユダヤ人の王ソロモンが書いた箴言を読み、お金に羽がついていて飛んでいく漫画を思い出し、この箇所に由来するのだろうと。お金を儲けることは悪い事でないし勤勉さの結果であるが、それを”賢く思いとどまる”とはどういうことか?資産のない私はそういう心配はないが、富を得たいと言う欲望は宝くじのブースのそばを通るたびに正直つきあがる。羽の生えたお札も思い出し、現状を満足し、感謝できる心を持てたらいいなと思う。Praise the Lord
Sep. 14, 10 (Tue.) ”U-turn方向転換”
「今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。… 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」第2コリント人への手紙7章9-10節
私が大体”ああ、またやってしまった〜!ともう2度としないわ!”とその時は思い反省するが、しばらくするとまた忘れて失敗するという繰り返しが多々。しかし、本当に悪かったと神様の前にも(相手がいる場合、相手にも謝り)悔い改めた時、確かにその時は非常に自分のしたこと、情けなさに悲しみが伴いました。そして繰り返さなくなっていく。 救いを得させる悔い改めとは、人生のU-turn(方向転換)だと以前牧師から聞きました。私にとって今まで神様を知らなかった時から、イエス・キリストの救いを信じて、これからは神様のために生きようと思った時、人生の大きな方向転換がありました。もちろん、その後も細かい悔い改めは日常茶飯事。”こればっかりは性格・生まれつきだからこの悪い癖・習慣は治らないよ”と諦めないで、祈って徐々に変えられることを期待しようとおもいます。Praise the Lord
Sep. 13, 10 (Mon.) ”想定外の対応”
「人の道は自分の行いがことごとく純粋だと思う、しかし主は人の魂の値うちをはかられる。
あなたのしようとすることうを主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」箴言16章2-3節

 私は前々から計画を立てて準備するタイプ。しかし、それが自身の能力・努力やタイミングがあわなくて思ったようにいかないことが多い。そこで想定外の状況になりその対応に、余裕がない時どうしよう、ああしようと頭がくるくるまわり、眠れなくなったことが最近もあった。特に就職活動でめったにない面接のチャンスが他の予定と重なり、先送りしている間にチャンスを失うことになる等。。。出来ることは対応して後は相手の出方を待つしかない時、そこでパニクらないで、神様に任せ(ゆだね)祈ろうというのをすぐ忘れるのである。翌日他の人にも祈ってもらい、すると心の余裕が少しが与えられた。その余裕とは単にケセラセラ(なるようになる)や、あきらめとは異なる。
 ”たとえそうでなくても”ベストに神さまが導かれるという確証、結果が偶然や運命でなくて、神様が一人一人にゆるがない計画をなしてくれるという信仰を与えられたい。Praise the Lord
Sep. 12, 10 (Sun.) ”なぜ日曜に教会へいくわけ”
「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、 愛と善行とを励むように互に努め、 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互いに励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。 」へブル人への手紙10章25節

今日は日曜日、礼拝に参加。未信者の方にとって教会にいくきっかけは、牧師さんの話がいいから、そこでの交流・活動がなんだか楽しくて〜と色々あると思いますが、クリスチャンにとって教会に行くとはどういう意味でしょうか?私にとって一番は神様に会いにいく(つまり神様を”みんなで”礼拝する)ためかな。とにかく集まることに意味があるわけで。教会は建物でなくキリストを信じる人の集まり。しかし気がつくと、”〜をしにいかなくては”とそれが教会の何か役割分担のために行くとなりがちで、集まる喜びが義務感となり、神様が一番悲しむ。
 病気や家族の事情でなかなか行けない方も現代は電話、インターネット、手紙と交流する色々な手段があり、見えないところでも心はつながっていて励ましあえる。ましてや健康で自由にいける時間があるかたでしたら、ぜひ集まりに顔を出されるのがお勧めです。人は一人では生きてけない社会的動物、ましてや信仰を持ち続けられないし、”互いに愛し合いなさい”とキリストがおっしゃったの、少なくとも二人以上が必要だから”互いに”で、”一人で”でないはず。私は他の方の励ましと祈りがあってなんとか生きて来れて、それが神様からの大きな恵み(プレゼント)です。Praise the Lord
Sep. 11, 10 (Sat.) ”他人の病いと痛みを担うこと”
「まことに、彼は私たちの病を負い、わたしたちの痛みをになった。」 イザヤ書53章4節

 今朝、心の痛む知らせを受けた。私の友人で昨年末肺がんの手術をし、予後もあまりよくなく、再び肺にがんが再発したと。今回は外科手術の出来ない場所で、抗がん剤や放射線治療になるとのこと。その友人を見舞う度に、肉体的精神的にも辛い状況の中、なんとか、聖書のことばでもって彼女の信仰が励まされ、希望が与えられればとづっと祈って来た。彼女の痛みを思うと涙が止まらない。それでも人には相手の状況を100%思いやることには限界がある。
 しかしイエス・キリストはわたしたちの病を負い、痛みを担える方だと聖書にある。なぜなら、人が経験しうる最大限の苦しみや痛みを十字架刑で体験されたから。神の子であるのに人となって人の体でその痛みを味わったからこそ、私たちの苦難、侮辱、全ての痛みに同情できる。それは、私たちの神様を否定する罪も含め、全ての罪を全て赦すため、代わりにその全ての罪に対する罰を一挙に十字架上で受けてくれるため。キリストは死んでから復活されて新しいからだを得て、天国に戻られた。同様に、キリストを信じる信仰とは、この体が死んでも永遠に生きるという希望がある。この信仰が強められ、また同時にこれからの辛い治療を耐えられる力と回復が彼女に与えられるよう祈り続ける。Praise the Lord
Sep. 10, 10 (Fri.) ”アメージング・グレースの作詞者”
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(”人の子”→キリストのこと)
(ルカによる福音書19章10節)

 小さい頃私は親の目が離れるとさ〜っとどこかへ行ってしまう子で、ずいぶん親を心配させたそうです。親にとって迷子のわが子、もしくはその道は危険だよ、良くないよと言っても聞かずに歩んでしまう子を思う時、その探している時間が長ければ長いほど、見つけた時、戻ってきた時の安堵感は大でしょう。
 有名なAmazing Grace(アメージング・グレース:驚くばかりの恵み)の歌詞で、"I once was lost, but now am found"とあるのはまさに、以前は極悪・奴隷船の船長だった作者(John Newton)が体験したことで、今まで自分の魂・霊の状態は失われていたが、キリストによって見つけられ救われたことへの感謝の歌。人は、天の父から離れ、自分がどこからもともと創られたのか知らず、肉体が死んだらどこへいくのかもわからず、何のために生きているかもわからず、自分の欲するままに生き、人生でさまよっている状態。その状態の人を探して救うために来たのがイエス・キリストです。そしてその人が見つけられ、天の父のもとへ立ち返る時、天国では大喜びでパーティが行われると聖書に書かれています。ポイントは、”自身が失われた人!?”とある時点で自覚するかどうかですが。。
 私も、失われていた、そして見つけられた人の一人として本当に感謝し、そしてこの喜びを他の人に伝えたいです。Praise the Lord!
Sep. 9, 10 (Thu.) ”空飛ぶ車の発明”
 「神にとって、不可能なことは何一つありません。」 ルカによる福音書1章37節

 世界初の空飛ぶ車を発明したスティーブ・セイント氏の記事を読んだ。写真をみると軽い骨組みの車にハングライダーがくっついているような割と構造的に簡易に見えるがちゃんと正式に道路と空路を使えるようアメリカで許可もおりた発明。彼の発明の目的は、”ローテクの人々へのハイテク”。つまり、彼は宣教師でもあり南米のエクアドルのジャングルの人々にキリストの愛を伝え、そして彼らが自分達で自立して生活していけるよう支援するミッションのため、ジャングルのような地形的に普通の交通手段で入って行けないところに、なんとか空飛ぶ車があったらという夢を長年かけて開発したとのこと。
 彼の父親ネートもパイロット・宣教師で、この部族へ初めて宣教へ行った5人の内の一人だった。外部と全く交流のなかった部族の人と少しずつ言葉を覚え仲良くなりかけた頃、5人とも突然首を切られてその部族に殺されるという悲しい過去がある。しかし彼らの遺族達はそれでもその部族への宣教を引き継いでいる。この親を殺した相手にキリストを伝えるというそんな驚くべき愛は、神様からしか与えられないと、空飛ぶ車の発明以上に感銘を受けた。
 私たちの日常で、例えばちょっとしたことでむかついく上司・同僚、傷つけることをいつも言う家族、自分を裏切った相手等を自分の方から”赦そう”と思うことについて。赦そうと思ってもどうしても不可能な時、神様が赦せるように自分の心を変えてくれるということが可能なのかとこの記事から励ましを受けた。
 Praise the Lord!
Sep. 8, 10 (Wed.) ”目から耳から入る情報”
 「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 」エペソ人への手紙4章29節
日本に住んでいると皆さんお気づきにならないかもしれませんが、公共の場(電車のつり革広告、新聞広告)でなぜあんな週刊誌の暴力的・性的に子供によくない、また女性に不快を与える言葉・写真等が表現の自由として堂々と広告されいるのか驚くのは私だけでしょうか。その点アメリカは、公共の場の広告は日本に比べるとかなり制限されています。現代ITのご時世、耳から目から入る情報がどれだけ自身や自分の子供の心に影響していくかを考え、選択していくのは必要なことだと思います。口から出る言葉というのは、体外、そういう表現を外から聞いて影響を受け、ある意味模倣されて出ることもあって(かくいう私も以前は気にしないで乱暴な言葉を使ってた)、自分を汚し、人を汚す。
この情報の摂取に関しては”〜してはならない”という禁欲主義に陥らずに、もっと良い情報を心に取り入れていく方に目をむけるほうが自然にそちらを選択しなくなる、そういう自由があります。
聖書の言葉は人にとって良いことがたくさん書かれているので、日々取り入れ、何かの機会に聞いている相手に必要な益になる言葉を語れるようにかえられていきたいと思わされました。Praise the Lord!
Sep. 7, 10 (Tue.) ”ふつふつとわく泉”
「イエスは女に答えて言われた、”この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 4:14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。”」ヨハネによる福音書4章13-14節

泉を見たことがありますか?地面からふつふつと染み出てくる、そして川へと流れていく、なんとも不思議な光景。一方、私は行ったことないが、イスラエルに死海という湖があり、この湖は海→川から水が流れ込むだけで、流れ出ないため溜まっていくとのこと。水の流れは他へ流す先がないと淀む。
このように神様からもらった祝福とか恵みも自分がうけるばかりで、それを他の人に流す(分かち合う)ことをしないと淀んでしまうんだなあと思わされた。淀みたくない、流せるように〜と祈りつつ。
この箇所は井戸に水を汲みにきた女にイエスが言われた言葉。 Praise the Lord!
Sep. 6, 10 (Mon.) ”あなたが「高価で」ある理由”
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ書43章4節

これは、イザヤという紀元前の預言者を通して語られた神様の当時のイスラエル人への、そして現代に生きる私たち全員へのメッセージ。このLabor Day Weekend(3連休)に教会の修養会に参加した。参加された方の一人が、「私、キリスト教をもし信じたら、いい人にならないとついていけないのかと、だからハードル高くて私には無理かなと思っていた。しかし今回話しを聞いて、素のままの自分、つまり自分自身のなかに何かすばらしい気質・性質がなくても、神様は高価で尊いとみてくれるんだと聞いて、ちょっとほっとした。」という感想をシェアしてくれた。
私もほっとした。私自身には価値がなくても、価値があると神様の目では見てくれる。なぜなら、私みたいなちっぽけな人を救うために、イエス・キリストの命がかかっている。そんな大きな犠牲を払ってもらうほど、価値も資格もない者のために。。。 Praise the Lord!
Sep. 4, 10 (Sat.) ”Intuitive直感的にわかること”
「あなたがたの従順は、全ての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、私の願うところは、あなたがたが善にさとく、悪にはうとくあってほしいことである。 」ローマ人への手紙16章19節

先日、あるバイブルスタディ(聖書の学び)にて、何も知らない始めて参加した中国人女性がこう質問した。「どうやって善だとわかるのか?」究極的な質問。それに対するリーダーの答えは「例えば、私は自分の旦那と結婚しつきあってきて何年にもなる。だから、旦那がいいと思うこと、嫌いなことは理屈や法則でなく妻の私は分かる。なぜわかるのかといわれても、intuitivelyにわかるとしかいいようがない。ましてや、もし私たちが神様とつきあっていくと(具体的には神の言葉である聖書を読む、クリスチャンとの交流、自身が祈る等も含み)、人間を創った神様が人にとって何が善か悪かを教え、わかるようになると思う」と。彼女は、「まだ全然わからないけど学んでみようと思う」と言っていた。
全ての事は細かく聖書に書かれていないし、解釈が難しいところもあり、疑問はある。しかし、重要なことを押さえ、それを信じる信仰が与えられると(つまり神様はイエス・キリストを通して、一人でも多くの人を救いに導き、神様との愛の関係に招きたいという壮大な計画)神の霊(聖霊)が疑問への理解を助けてくれる。これは確かに理屈でない、直感的(Intuitivel)経験。 Praise the Lord!
Sep. 3, 10 (Fri.) "つい口がすべって…に対する口の見張り"
「主よ、私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。私の心を悪い事に向けさせず、不法を行う者どもと共に悪い行いに携わらないようにしてください。」 詩篇141章3-4節

私は元来おしゃべりで、以前は知恵もなくベラベラ話しよく口で失敗したものです。しかし、キリストを信じてから自分が賢くないことを自覚し、少しづつですが話したくても必要ないことは黙っていられるように、また職業柄相手の話しを傾聴する訓練が与えられてきました。それでもまだ、つい”口がすべった””心にないことを言ってしまった。。”(実は心にあることしか、口からでないんですがね)という状態は多々あり、失敗して落ち込むことありです。
この聖書の箇所は、ダビデという偉大な信仰の人・ユダヤ人の王だった人が、”口にみはりを置き、また悪に関わらないように守って下さい”と神様に祈ってお願いしているところですが、私もこれを祈ろうと思います。Praise the Lord!
Sep. 2, 10 (Thu) ”愛とは!?”
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」第一コリント人への手紙 13章4-7節

 愛・LOVEというと、もっとロマンティックな、ぽわ〜んとしたのを想像するのは私だけ?ここは、”神様の愛とはこうです!”と聖書で具体的に説明されている箇所。この愛は飾りでなくて、全ての人間関係に適用しうる実践的なことではないでしょうか。私にとって自分の性格では生活の中でそうしたいと思ってもとても実行不可能。高尚な方は出来るのかもしれませんが、でも完璧にできる人っているのかな?
しかし、そんな私にも希望が!「希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ人への手紙5章5節)とあり、自分で作り出せなくても、神の霊(聖霊)によってこれらの愛が私の心に注がれるという約束。つまり信仰も与えられ、そして実生活で必要な愛も求めれば不思議に与えら、不可能が可能になる。そういう人間関係をもっと体験させていただきたいです。。Praise the Lord!
Sep. 1, 10 (Wed) ”体の不思議 みな重要な器官”
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれると、すべての器官が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその器官なのです。」
第一コリント人への手紙12章26-27節

料理していて指先を包丁でちょっと切ってしまうと、超流血、痛みもあり、体のたった一部でもけがすると日常生活に支障をきたしませんか?一方、人間の体は本当によくできていて、不要な器官はひとつもなく、もしある器官が病気で機能しなくなったり、切除されてもちゃんと他の器官がいたわって代りの機能をするというなんとも不思議な生物体!私は胃をほとんどとっちゃて、十二指腸も機能していないけど、小腸がかわりに良く働いて今では快調(腸?)なのは驚くべきことです。
当時、コリントという街のクリスチャンの教会内で色々問題があって(クリスチャンたって、結局罪人の集まり、問題も生じるわけで。。)、特に分裂があったことで、キリストの弟子パウロが、教会は一つの体のようにみなそれぞれに役割・才能・ギフトが与えられて、総合して機能していること、そして教会は建物じゃなくてキリストを信じる人の集合体・からだであることの重要性について述べています。共に苦しみ、共に喜べるというコミュニティーは本当に一人じゃないんだという励ましです。Praise the Lord!


   
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