|
Dec. 25 |
クリぼっち
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
イエス・キリストの言葉 マタイによる福音書11章28-30節
今年のクリスマスイブは雪が夕方から降り始め、ホワイトクリスマス。私はお友達とクリスマスイブ礼拝に参加しました。始めて行く教会だったので、ナビがあっても夜で道がよく見えない中、教会の建物がライトアップされていたのでああここだ!とわかり無事に到着。礼拝の中では、子供たち向けの腹話術によるお話(これがユーモアたっぷりで子供も大人も爆笑)、そして牧師のお話、その後の御馳走タイムととても楽しく時がすぎ、あっというまに10時近くになって「皆さ〜ん、もうお開きですよ〜」との掛け声で終了。
牧師のお話で興味深かったのは、日本では”クリぼっち”という言葉があるとのこと。要はクリスマスにひとりぼっちのことを言うそうです。一方アメリカではクリスマスに限らず、年間様々な祝日で連休があると、皆家族で必ず集まるという文化ですので留学生や家族のいない人たちはホリデーは”いつも一人ぼっち”で孤独なわけです。そこで一人の人を家族の集まりに招待してくれるやさしいオープンな家族もあります。
話の要点は、人は皆さみしがり屋だということです。なぜかというと神がそのように人を創ったから。まずは男が創られて一人でさみしそうなので、助け手でありパートナーである女を後から創られたと聖書には書いてありますが、さらにもう一つ、人間同士では埋められないぽっかり空いた穴があるのです。それは何をもってしてもうめられない空洞で、よって人はさみしさ、不安、空しさを持ちます。たとえ家族が傍にいても感じてしまう人はこの空洞を感じてしまうものです。そして、その部分を埋めることができるのはキリストの愛なのです。クリスマスのプレゼントであるイエス・キリストを受けとってほしいというメッセージでした。たとえ家族がいなくてもイエスを信じると不思議に平安があり、さみしいと自己憐憫になる必要がないのです。それは神様からのプレゼントとしていただいたイエスが心の中にいてくれるからです。ある程度は寂しい・孤独・先行き不安という思いをもったとしても、それを超えた大きなイエスにある心の喜び、この世に生きるうえでの希望、その後の天での希望が与えられ、逆に他者のことを考えるように思いが与えられるのが感謝です。
くりぼっちを感じている人、困難な状況にいる方がいたら、その孤独感・悲しみを単にまぎらわして蓋をせずに、それを認めたうえで、いつも心の深いところを満たすもの、イエス・キリストにある恵みと平安を探していただきたいと願いつつ。探せば必ず見つかるからです。このクリスマス・ギフトというのはタダで誰でももらえます。その人が下さいといえば受け取れます。 メリークリスマス! |
Dec. 24 |
フルーショット
「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」 第一ヨハネの手紙2章1節
この時期、インフルエンザが流行る季節です。アメリカでは日本ほどそれに対する対策は緩く、病院・施設内のスタッフでない限り、まずマスクというものをアメリカ人はしないのです。こちらは薬局でもワクチン(フルーショット)が簡単に打てるシステムにはなっていますが、ある程度しかその流行は妨げられませんし、ワクチンは完全ではなく副作用もあります。
私個人として、日本でワクチンを仕事柄毎年受けてきて、今まで問題なくインフルエンザにかかったこともなかったのですが、アメリカではじめてフルーショットを打った時、即高熱にうなされ苦しんだことがあり、それ以来受けるのを躊躇しています。最近、会う人皆、あとから風邪等で何かしら熱がでたりと、いつか自分もうつるのではと脅威を覚えながら、今のこの大切な行事が多い時期、食事・睡眠をばっちりとり気合を入れてかからないようにと思っております。
今日読んだ個所は、イエス・キリストの12弟子のなかで一番長く生きたと言われるヨハネが当時の信者へ送った手紙です。彼は当時90才代であってもなお、イエス様とともにいた時に彼が弟子たちに話されたことを鮮明に、聖霊の力で福音書・手紙を記し、それらが聖書として残されています。罪というのはインフルエンザのように感染するかのごとく、気が付かないうちに蔓延していくものです。この肉体を持って生きている以上、様々な分野で罪を犯す(罪とは”神の基準という的から外れること”:的外れという意味の原語が用いられています)ものです。
しかしながら、イエスをその罪からの救い主として信じると、キリストがすでにかかってくれた十字架のおかげで、全ての罪が赦され、きよめられるという福音があり、同時に罪を犯さなくなるよう変えられていくという希望があります。これは完璧な罪への対策、副作用もなしです。
クリスマスにイエスが生まれたという話で終わらず、何のために生まれたのかということに目を留めたいと。自分の力や気質的に罪を犯さない、正しい人間でいられるという方は、もちろんキリストは必要ないでしょう。しかし、”必要ない”、”受け入れられない”と主張すること自体が、そもそも的外れ(罪)だとしたら、残念ながらどんな自称潔白・わからないと無関心の方にも根源的な罪があるのです。イエスはクリスチャンのためにだけこの世に人として生まれてきたのではなく、全ての人のために来られたということ、神と人との間の壁となっている罪を取り除きに来た方であることを宣べ伝えていきたいとこのクリスマスの時期に特に思わされます。 |
Dec. 18 |
耳は二つ、口は一つ
「愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」 ヤコブの手紙1章19-20節
私は元来おしゃべりです。以前は自分がそんなにおしゃべりとは自覚していなかったので、人が集まる席では率先して場を盛り上げる話をするほう、ムードメーカーと言われた時代もあります。そしてそれが楽しかったし皆も喜んでいると思ったので構わず話していました。ある時、おしゃべりは賢くないことだとようやく知り始めたのです。「なぜ耳が二つ、口がひとつなのか?それは自分が話す量の2倍、相手の話を聞きなさい」と何人かの牧師たちもいっていましたし、私が社会福祉士として教育を受け、クライアント(利用者・患者)の話を受容して聞くこと(傾聴)、相手に必要なことを言葉を選んで発することを職場で実践していくうえで、自分はいかに自制が必要かと思い始めたものです。(もっと早く気が付いてほしいと、他者は思っていたでしょう)今日読んでいた個所で、ああ牧師たちが言っていたのはここからかと、コミュニケーション上、人間関係上重要なポイントだとつくづく思わされました。
私たちは怒る時というのはたいがい、自分の基準・ルール通りに相手が動かないことに対して怒り・むかつきが起こります。もちろん義憤といって、悪に対する正しい怒りもあります。しかし、日常生活で私が腹を立てるのは一般的に社会で起こっている不条理や不正・事件に対してというより、もっと身近な日常的なことに対して、「普通さあ〜でしょう? 常識を疑うよ!」と自分のものさしで相手を計り、自分のことは棚に上げとイライラしてしまうものなのです。
イエス・キリストの義理の弟(マリアさんが生んだ、肉の兄弟の一人)を通して、ずばり口をコントロールすること、怒りを抑えることについて聖書に記されています。相対的ではなく、絶対的な誰にでもどの時代にでも適用できる正しさ(義)は、人を創造した神しか持っていないのだから、自分の基準を再考しつつゆっくりと、そうおこりなさんな、ということです。怒っても翌日まで持ち越すなとも他の個所でもあります。
私は愚かなものですから、イエス・キリストを信じていても、相手の話を聞かず話しすぎたり、速攻頭にきたりしてしまう者です。自覚した後も失敗ばかりで聖書の教えとおりに全然できていないしと自己嫌悪。。。しかし、そんなダメな私のためにクリスマスにイエス・キリストを神様がこの地上に送ってくれたと信じられることは、本当に救いです。全ての失敗・罪、神を信じない罪のためにイエス様が十字架で私の代わりに罰を既にうけてくれているからです。この大きな犠牲のおかげで私は赦されて、また神様の力で少しづつ内側が変えられていくという希望もあり、本当にありがたいなあと、神様に本日も感謝しつつ、口を制御し、相手の益になることをなるべく発せる者に成長したいと願います。
|
Dec. 17 |
心痛む出来事: 銃乱射事件
「主よ、わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、
わたしの涙を見て、もくさないでください。
わたしはあなたに身を寄せる旅びと、
わがすべての先祖たちのように寄留者です。」詩編39編12節
昨日の礼拝の中で、先日アメリカ中を冷感させた事件における被害者とその家族のために祈りが捧げられました。いったい何度、銃乱射による惨劇がおこるのを見なければならないのかと怒りがわきます。コネチカット州という、私が住むフィラデルフィアからそう遠くない場所にある小学校で、多くの子供たち、校長や教師達も銃で撃たれ、犯人はすでに自分の母親を殺した後で、最後に自分も自殺。遺族の方々のことを考えると心が痛み涙が出ます。もし自分に小学生の子供がいて打たれていたらと想像を絶します。数年前におきた、ランカスターというこの近くのアーミッシュ村での銃乱射によって、沢山の子供たちが殺されたことも記憶に新しいです。
アメリカという国は、資本主義のもとに自由でお金を儲けることばかりが優先され、武器産業が政治的に力を持つ国であるため、民間人が簡単に銃を購入出来ることへの規制が事実上不可能、よって一度に大量に無差別に人を殺す事件も頻繁に起こるという恐ろしい国でもあります。
私は祈ることしかできませんが、神様は私たちの祈りを聞いて下さってると信じます、遺族の方々に慰めが与えられるよう、時間がかかっても必ず。今日読んだ詩編という詩は、著者の叫び、涙、助けを神に訴える内容ばかりで、タイムリーでした。昔から、事情が異なっても人は神様に向かって悲しみの叫びを訴えます。「私の涙に黙っていないでください!」と。遺族の叫びが重なります。
一方、この詩編の著者は、地上では自分が旅人・寄留者であることも自覚しています。この地上での生活だけでなく、約束された天国での命もあることも踏まえたうえで、しかしながら、地上での苦しみ・悲しみをもそのまま、神様に祈っている様子に私は共感を覚えます。また神様は不義を犯した人間を必ず裁かれるとも書いてありますので、犯人のことは神の裁きに任せるしかない。
残念ながら、生きるうえで悲しいことは起こってしまいます。しかしその悲しみを神様は必ず、癒し、慰め、その苦難を通しても、キリストにある希望へ導かれる方であることを信じつつ、遺族ために祈りたいと思いました。 |
Dec. 13 |
じんましん
「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。
真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」 ヨハネによる福音書
17章15-17節
私はアメリカに来て約3年、最近蕁麻疹が頻繁にでるようになりました。パターンとしては夜寝る時で、疲れてるとき、体調が悪い時にでていたのが今では毎日のように出るようになり、色々人に聞いたり、調べたりして、抗ヒスタミン剤を服用することにしました。しかし、それでも出ます。最悪の場合は抗アレルギー剤を服用したほうがいいという意見も。
先日、最近突然アレルギー反応が出るようになったと言う方と話す機会があり、その人が皮膚の検査をしたところ、動物の毛、ダニ、ほこり、花粉等々すべてに反応がでてしまったとショックを受けていましたが、私も同様ではないかと察します。アメリカに来て住むところ必ず家主が犬・猫をたくさん飼っていたし、こちらの家はふるくほこりも多い花粉もたくさん飛んでいるしと、私の場合日本では抑えられていたものが環境的にアレルギー因子が大量化に伴いとうとう勃発と推測。しかしながら、場所を変えてもこれらの因子は地球にいる限りどこでも存在するため、どうしようもないわけです。その症状を抑え、どう自分の体を守るかを検討するしかないのです。
今日読んだ個所は、イエス・キリストが十字架にかかる直前、弟子たちのため、また弟子たちを通して将来信じる信者のために、天の父なる神様にお祈りしたところでした。弟子たちがイエス様の福音を伝道していくうえで、この世から迫害を受けることをわかっていて、守って下さいとお願いして祈られています。もし、弟子たちや信者をこの世から取り去って天国へ即連れて行けばそのほうが簡単です。しかし、取り去らない理由は、先に恵みによって信仰を受けた者たちを通して、全世界にキリストの福音を何世代にもわたって伝えてほしいからこの世に残し、この世の中に留まらせ各々に役目を与えているからでしょう。ですから、取り去らないで残しておくかわりに、悪から守って下さいとも祈ってくれています。そして、このきよめ分かつというのは原語的には、”聖なる目的に用いられるため分けられる”という意味だそうです。
イエス様は弟子たち、私達のために祈って下さる本当に愛のある、やさしい方だなと。しかしその優しさと愛は、私たちの狭い自分たちだけ良ければという視野ではなく、全体を見据えた神様の視点における目的:すべての人が救われてほしいがベースです。今の世の中に生きている限り、クリスチャンだからゆえの困難もあり、また危険・悪(サタン)からの攻撃を受けることがあると思います。一方、試練のあるところには必ず脱出の道も備えられるとの約束もあり、信仰によってどう、悪に対する霊的戦いにおいて守られるので、励ましです*。
蕁麻疹という小さな健康の悩みから、もっと大きい問題まで、今の置かれた場所にいながら、守っていただけるよう祈ろうと励まされました。
*エペソ人への手紙6章10-18節 |
Dec. 11 |
クリスマスプレゼント
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」 エペソ人への手紙2章8-9節
今日はあるご夫婦から思いがけずクリスマスプレゼントを頂きました。私の大好きなチョコレート。私はいただくにふさわしくないし、ただ普通に仕事をしているだけなので恐縮ですが、感謝して頂きました。クリスマスパーティが多いこの時期、よく皆でプレゼント交換をします。いつも何を買ったらいいか迷いますが、ちょっとした楽しみです。日本では、ギフトといと、片方だけが送るものというより、頂いたらお返しもしなくてはと思います。
では、”恵み”ということばを聞くと何を連想しますでしょうか?大地の恵み、恵みの雨等々。大地や雨は地球に住んでいる限り、良い人にも悪い人にも誰にでも分け隔てなく享受できるものです。聖書では神の恵みというと”その人が受けるにふさわしくないのに、一方的に与えられる神のギフト:賜物”だそうです。ギフトをもらうにはそれがクリスマスだから、誕生日だから、日頃世話になっているから等なにかしら理由があるのでギフトを頂きますが、神様の恵みはその人にもらう理由がなくても、誰にでも与えられるものなので、お返しに何かする必要もない一方的なプレゼントです。逆説的なのは、”自分がもらえる理由がある”、”もらえるにふさわしい”と思う人は神様の恵みを受け取っていても、わからない、気が付かないのです。私も恵みがわかるのは非常に時間がかかったもので、以前は自分が努力したから、やることはやったから当然の結果と少しは思っていたことが多かったですが、振り返ると全て神様からの恵みだったと分かった時は本当に神様への感謝がいっぱいになり、かえって有難い、いいのかなこんなに良くしてもらってという気持ちです。
究極の恵みは、そうイエス・キリストです。この神からのプレゼントを自発的にうけとってほしいというのが神様の願いですが、自分にはいらない、関係ないと思われる方も、いつかこの恵みがわかるとすべての見方がが変わると思います。信仰でさえも(自分が決めて信じると人間の側から思いますが)神様からのギフトなので、誰も信じられたことを誇れないのです。
この季節特に、クリスマスの主人公であるイエス・キリストにフォーカスできるよう、祈りつつ。 |
Dec. 9 |
"辛い時にあっても喜べること"
「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 」「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。 」 ローマ人への手紙8章35,37-39節
最近、ある体が不自由になって落ち込んでいる方とお話しをする機会がありました。彼女は「こんな不自由になるなら、あの時死んで天国に行ければどんなによかったか、この障がいを持って生きるのが辛い」と嘆いておられました。私自身から彼女に対して、慰めのことばがうまく出ませんし、本当にお気の毒です。この辛さは本人にしかわからないし、彼女も「他のもっと大変な人と比較したら自分はましなほうだと思わなきゃね」といいますが、でも彼女がそう思えていないのは、いつも繰り返すセリフから明らかです。
人は、自分の生活の中の不満やまた不幸な状況について、「でもね、世の中にはこれこれもっと大変な人がいるから、自分はまだましだと思わなきゃ」とさらっといいますが、しかし人との比較での幸せ感というのは真に心を満たすことはできない、根本的には満足できない気休めの言葉ではないではしょうか。逆に、比較してましだと思うのは、比較されたもっとつらい方々に失礼だと思います。
日本の徳川幕府は、士農工商という制度を作りました。これは”自分より下層の人がいる、自分たちの生活が苦しくてもこれよりましだと思う、また見下せる階級を作る”ということで、幕府への不満をそれで吸収させための方策でした。もちろん、長くは続きません。
私はその方に、聖書の言葉”いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。”*をわかちあい、すると彼女は「自分が元気な時はこの個所が好きだったけど今はそう思えない。」と。そこで私は「これは何も辛い時に、悲しい時にその感情を押し殺して、クリスチャンだから聖書にこうかいてあるから、我慢してこの辛さに対して喜べと強いているわけではないと。逆にその逆境のなかで、いつも喜べることがあるはずと。何をもってしても取り去ることのできない喜びはなんですか?」と彼女に問いかけました。最愛の人の死、病気、失業、家族間の問題、自然災害、これらの苦難をもってしてもクリスチャンから取り去ることのできないものは、イエス・キリストを通しても救いの喜びではないでしょうか?と。この喜びは環境には左右されない。それを思い出したら、少なくともこのことに関して喜んで感謝して、祈れるように心が向きますよと。すると彼女は、「でもこれはクリスチャンにしか通用しない話ですよね」と。そこで私は「パウロはこの手紙をテサロニケという町のクリスチャン向けに書いていますから、キリストの救いを知らない人にそうしろと勧めていませんよ。」
一方、この手紙が聖書として残されているのは、信者に対してだけではなく、信仰を持っていない方がこれを読んだ時、「ああ彼らの信仰とは、救いにはこういう確信や希望があるんだ」と知ることができるためでもあると思います。どんなきっかけであり聖書を読んだ方の心が開かれて神様を真理を求めたとき、イエス・キリストとはこういう方なんだと深く知っていく、信仰に導く神のことばとして読者に働かれるからだと思うのです。
このご婦人が早く、今の辛い時を信仰を持って乗り越えていただきたいと祈りつつ。
*第一テサロニケの手紙5章16-18節 |
Dec. 1 |
骸骨を見つめる日々
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」
エペソ人への手紙1章3-5節
最近、職場でデジタルの歯のパノラマレントゲン写真の機械が導入され、おかげで、毎日のように患者さんの顔半分下のレントゲン写真を撮りまくっているというほど、撮っています。デジタルは取った直後にパソコン上に表示され、鮮明に歯や神経、骨、あごの骨、骸骨の部分がよく見えます。毎日骸骨を見ている感じです(笑)。人の体は良くできているなあと思いつつ神様はなんと精巧に人の体を組み立てられたと感動します。
今日読んだ個所は使徒のパウロが、エペソという町(現トルコ)の信徒に手紙を書いたところですが、なんと私たちを天地が創られる前から(つまり人が創造される前から)救おうと選んでおいてくださったという聖書のことばです。そんな昔から、一人一人を選んでくれていたのかなあと思うと、その有史以来の人類の数から察し、途方にくれて私の頭では計り知れません。しかし、神様が自分を愛でもって、神の子たる身分にしようとあらかじめ選んでくださったのだと、そのためにイエス・キリストを人としてこの世に送ってくれたのだと信仰で受け取ろうと思います。信仰は自分で信じようと決めたと思っていましたが、神様の側から見ると、時間を超越したもっと前から救われるように選んでくれていたと思うと不思議です。特に私はそんな身分にふさわしくない者であるため、余計に有難みを感じ、だから救いは恵みなんだとシンプルに受け取ろうと思います。
12月に入りました。クリスマスの由来や意味も知らない方々も、神様からの大きなプレゼントである、イエス・キリストとはどういう方なのか知る機会となることを祈りつつ。
|