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Jan. 31 |
歯の痛み
「…「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。 」マタイによる福音書20章32-34節
歯医者に勤めていながら、自分の歯に虫歯や歯の根がもうだめになって抜くしかない状態にあるのはお恥ずかしい話ですが、昔日本で歯の根幹治療をしたのが完全でなくて、いつか爆発するよと前のDr.に言われてそのままになっていたのが、とうとう炎症をおこし痛みだしました。しかし、歯の上に矯正もかけている為、新し職場のDr.達はそれぞれ分野別の治療をするので、私の痛みのある問題の歯を抜くか、再び根幹治療するかどうか、別の矯正歯科医に診てもらった後まで、方針を待たなければならず、3週間程痛みがある状況が続き、結構辛いです。
歯医者にも行きますが、それまでの間、歯の痛みを癒してくださいと、薬を飲みつつお祈りしするしかないのです。歯ならまだしも、今日読んだ個所、目が見えない人たちはどんなに辛いことか。当時医療は発達していないし(現代でも一度失明した視力を治すというのは非常に難しいそうです)、彼らはあきらめていたと思います。しかし、突然イエスと言う人がどんな病気でも癒すといううわさを聞いて、ちょうどイエスが通りかかると聞くと、大声で叫んだのです。とにかく憐れんで下さい!と。そして、イエス様は「何をしてほしいのか」とはっきり相手の意志、希望を確かめられます。そして聞いてから、癒されました。他の個所では「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様はその癒された人にいったと記録されています。
私たちは、日常生活で困っている状態があったとして、意外とそれが漠然としている、もしくは表面的で、何が根本的な問題で解決されるべきかを意外と認識していないものです。私もよくありますが、そういう時はわからないので何が問題なのかを教えて下さいと、逆に祈って、後でその後続く出来事で示されたりすることがあります。祈り求める内容をはっきりさせて、
「主よ、目が見えるようになりたい」とイエス様に言いたいと思わされました。日常生活でも、私の”霊”の目が見えていないことが多く、覆いがかかって見えないこともたくさんあるからです。シンプルに見えるようにして下さいと、その祈りが答えられるという信仰も与えられたいとお願いしようと思いました。 |
Jan. 25 |
私の狙い VS 神の願い
「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」
ヘブル人への手紙10章35節
先日の日曜は、家の近くの日本語教会に行きました。ここには前回ちょうどハリケーンが来る直前にここへ日帰りで行ったのですが、日曜でバス電車の接続が悪く11時の礼拝に間に合うのにフィラデルフィアの家を朝5時半にでたのですが、今はなんと30分で行けるという距離に。別に狙ったわけでなく、NYに仕事が見つかり、そこに通える家を探していたらこうなりました。そこで私が年頭に示された聖書の言葉を通して、クリスチャンにとって「信仰で一歩踏み出す」というテーマでメッセージをさせて頂き、そのなかでそもそも今日の個所の中にもある、そもそも”神のみ心”(God's
will、神の意志、願い)とはなんでしょう?と質問を投げかけました。 私達の日々の生活は多くの計画や狙い、願いの積み重なりです。たくさんの選択肢をリサーチし、可能性を探り、あたってみる、そして結果を見るということの繰り返しだと思います。そこにはまず自分のこうしたいという狙い(私のお心)が基軸であります。最低限考慮すべきこと検討するのは勿論必須ですが、老後の心配、健康に気を使って何を食べようか、何を着ようかとそればかりに時間とエネルギーを取られてしまうと、もっと大切なことに目をむけにくいものです。
教会に何年いっていても、私はこのクリスチャン用語”神の御心”の意味がわかりませんでした。”この大学には神の御心だったら受かるだろう”、”この仕事が決まるのは神のみ心か”として皆さんが使われていたので、ああ何か方向性を求めるときに使う言葉なんだくらいの理解でした。しかし、聖書には、今日の個所にあるようイエス様ご自身がおっしゃって、もっと大きな根本的なことなのだと。逆に、どこの大学か、どこの幼稚園に子供をいれるとかというのは”神の導き”(guidance)という言葉を用いて祈ったほうがいいと以前牧師から教えられました。
私たちは生きている間の、祝福、健康、幸せ、恵みにばかり目がいってしまいますが。一方、神様の願いである、イエス様を信じて、天国で、新しい体が与えられて(復活して)永遠のいのちを持てることから逆算してみると、案外、今の限られた人生で何を優先順位に大切にしていくか、シンプルにソートされるのではないでしょうか。@死んだら終わりだからそんなことどうでもいい、今が大事と思われるか、A体が死んだ後も永遠に魂の意識が残るとしたら〜の、どちらかです。神様は一人一人に、良い方を選んでほしいと、今からも希望を持って毎日を過ごしてほしいと願われている事を、皆さんに分かち合わせて頂きました。 |
Jan. 23 |
今朝は華氏9度(=マイナス14℃)
「…あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう」。
申命記31章6節
今朝はどうも寒いなあと思い、天気予報を見ますと外はマイナス14度(℃)。仕事に行くのに沢山厚着しましたが、バスを待っている間あまりにも寒くて、足踏みするのも何なので、サイドステップ(エアロビでよくやるやつ)をして体を動かしながら待っていました。するとバスの運転手のおじさんが、ニヤッと笑って「寒いから踊ってんだね?」と。とにかく、まるで冷凍庫の中にいるようでじっとしていると足がしもやけになりそうでした。こんなに寒い思いをしたのは、大学時代スキー合宿に行き、吹雪のなか滑ったり、スキーを担いで歩いた時以来です。吹雪で一時周りの視界を失った時、なぜこんな思いまでしてスキーをしなければならないのかと思ったものです。
随分昔の邦画で「八甲田山」といって、1902年に青森の連隊の雪中行軍が演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件を題材にした映画があります。非常に悲しい映画でしたが、この中で演じていた俳優の北大路欣也の台詞「天は我々を見放した」が当時はやった程、話題になりました。
「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶシーンが聖書に記録されていますが、これはイエス・キリストが十字架にかかって息をひきとる直前に叫ばれた言葉です。私は以前このセリフがとても不思議でした。イエス様は神様の子だし、死んだらよみがえって天国へまた戻るのがすでにわかっているのだから、見捨てられたわけでない、なぜこう言ったのかなあと。しかし、後になって、私の罪が赦されため、誰かが見捨てられる必要があった、その誰かがイエス様。それほど罪は重大で、その罪があると神に近づけないとわかり、それが心にどーんと響きました。何も罪を犯したことがないイエス様が神様と一時断絶し、黄泉に下らなければ、人間を私を救済できない、というのが神の取られた方法なのです。本当は私が黄泉に行くべき者だったのをイエス様が代わりに行ってくれたんだと、思うと本当に申し訳ないと感謝しています。
”天は私達を見捨てない”と今日の個所のように約束があります。現時点で神から見捨てられたと思う状況にある方は、ぜひ思いだしてほしいです。私たちは今も、また死んだ後も見捨てられず天国に行けるという希望があります。それが自分のものになるには、自分のためにイエス様が見捨てられたことと、そのおかげで自分は罪が赦され神と共にづっと生きれることを信じた時です。ここに神様の人間に対する愛があり、その愛を受け取ってほしいといつも思われています。
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Jan. 20 |
ひどいじゃないですか!(洪水編)
「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」 ヨハネによる福音書6章40節
アメリカのミシシッピー州のある町で、洪水注意報がだされ住民が避難するよう勧告されました。ある老人がその勧告を無視して家に留まり、「神が助けてくれるから、わしゃ大丈夫だ、家を離れん!」と避難をしませんでした。数時間後、雨がひどくなり川が氾濫し、床上浸水となってきました。消防署の人がまたその老人のところにやってきて、「早く逃げて下さい、水がどんどん迫っています!」というも、「いや、ワシャ大丈夫だ、神が奇跡的に助けてくれるから」と。そして、水が更に上昇し、家の1階分は浸水し、彼は2階のバルコニーにいたので、ボートに乗って再び消防隊が救助しにきましたが、やはり老人は拒否。そしてしまいには水は屋根の上まで上がり、老人は屋根の上にいたので、ヘリコプターから梯子がたらされ「これにつかまって逃げて下さい!」と。しかし彼は拒否し、遂に水が彼を覆ってしまいました。彼は死んで天国へ行きましたが、怒っていました。ペテロがいたので、「ワシャ、神に話がある、連れていけ」と言うので、ペテロは「OK〜!」とその老人を神のところにつれていきました。老人は「ひどいじゃないですか!私は生きている間、熱心に教会に通って、奉仕をし、あんたを信じていたのに、なぜ助けてくれなかったんだ、あんな死に方をさせるなんて!」と抗議しました。すると神は「でも、私は何度もあなたの家に天使を送ったんだけど。。」、「。。。!?」
これは夕飯時に、家主が話してくれたたとえ話でした。(アメリカ人はこの手のジョーク的たとえが好きですね)私達は自分の”こうであるべき”という思いで、何かを探求すると、探すべきベストの物が、想定外や自分のシナリオ通りじゃないことだと見過ごしてしまうということのたとえです。
私はNYに越してきて、神様がここで私を通して何をなされたいのか、計画があるのかと祈り求めて(Search)いきたい、と彼にいった時に、「”こうだろう”という我々の想定の枠にはめてサーチ(Search)せず、ファインド(FIND)したほうがいいよ、神は想定外のことを用意されるかもしれないから、柔軟に」というアドバイスでこの話をしてくれて、興味深かったです。
私のお心(狙い)が強すぎて、神のみ心(願い、God's Will)や計画をミスしてしまわないようにと思わされました。わたしがこの世ですることは、なんだとしても、最終的には自分と自分のまわりにおかれた方々がキリストを信じて共に天国へいけることが神のみ心だと、イエス様は今日の個所で言っておられます。天国ではこの体ではなく、新しい体が与えられて(復活して)永遠に神様と共に生きるという約束がありますので、この望みを基軸に今の生活の小さいことも大事にし、優先順位を考えていきたいと思わされました。 |
Jan. 16 |
いいな〜という思い
「ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。…ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。 」 創世記37章2-4節
遅くに生まれた子というのはかわいがられると聞きます。若い時代の子育ては夫婦とも余裕がなく、その代り”おばあちゃん子”というように祖父母がおもちゃをいっぱい買ってくれたり、親よりもかわいがったりすることが多く、また中年になってから生まれた子は孫かわいがり状態と聞きます。
今日読んだ個所はイスラエル民族の先祖(3代目)であるヤコブには12人の息子がいて、その12人は4人の母親から生まれた息子たちで構成され、異母兄弟でした。特にヨセフという11番目が、ヤコブが一番寵愛した妻から生まれた子で年寄の時の子なので、非常にかわいがられたため、他のお兄さんたちはそれを妬んだと書かれています。そしてその妬みが殺意にまで発展しますが、神様の大きな計画で、殺されず奴隷としてエジプトで売られてしまうのです。(しかしその後奴隷→エジプトの宰相へ!)
妬みというのはものすごいパワーです。殺人や窃盗の動機をさぐっていくと、妬みやうらやましい、相手の持っている者がほしい(→これが人になると不倫、物になると盗みへと発展)から来るケースが実は多いのではないでしょうか。こうした思いは、たとえ実行犯とならなくても持ち続けると知らずに自分の心をむしばむ、苦い思いです。いいな〜という思いは、きりがありません、上には上、人間の欲は際限がないからです。
私は以前信仰を持つ前は、他人の才能や持っているものをうらやましい〜と思ったもので、そんな自分が嫌いだったし、不自由に感じたものです。しかし、いったんキリストを通しての神様の自分に対する愛を知ると、人と比較したり、うらやましいという思いがいかに意味のないことかに気が付かされたのです。こんな自分であっても、神様の前には高価で大切な存在として扱われ、私の行いに関わらず、一方的な愛で神様が愛してくれていると知ると、また神の子であるキリストの命がかかっているほど、自分には価値があると神様はみてくれると知ると本当にうれしかったのです(本当は私はそれに値するものでもなく、ふさわしくもない)。
とはいえ、時々ふと、いいなあ〜と一瞬思いがよぎることもあり。独りで自活していくことは厳しく、目に見える頼れる人がいたら、宝くじがあたったら〜と思うこともあります。すでに与えられている満たされた状況を、当たり前に思ってもっと〜と思ってしまうのです。すると”もっとキリストに目をむけ頼りなさい”と、ますます頼らざるを得ない状況となっていくのも信仰のチャレンジでもあります。目に見えないけれども、イエス様が共にいてくれて励まし、助けてくれることを少しずつ経験させてもらっているため、今持っている物、状況で感謝する心へと、永遠のことへ視点をむけるように必ず軌道修正してもらえるが有難いです。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
」*という聖書のことばに、魂が励まされ、また明日から頑張ります。(眠い。。。)
*第2コリント人への手紙4:17-18
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Jan. 13 |
新しい環境への適応
「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」 マタイによる福音書9章17節
1月2日にNYへ引っ越して、4日から新しい職場で働き始めてちょうど一週間が経ちました。新しいDr.達とスタッフの方々からたくさんのことを学びつつ、一週間が本当に長かったです。新しい環境で新しいことを覚えていくチャレンジであり、研修中のため二つのオフィスを行ったり来たりで目が回りそうです。新しいことを覚えるのには頭を柔軟に、脳を新しい情報用に切り替える必要があります。古い考えのままで(たとえば前の職場ではこうだったから〜等)は支障をきたします。人間関係、仕事内容とも早く心身が慣れていって、緊張が張り詰めなくても働けるようになりたいと願います。
そんな過酷な日々のなか、神様はすばらしいホストファミリーを与えてくれました。今晩も”フルーショット”と名付けた免疫力を高めるというスパイスのたくさん入ったスープを作ってくれて、これでインフルエンザ防止だと。パンも家で焼くので朝からパンのドウをこねこねしているのを横で見つつ、パン好きの私としては焼きたての全粒粉パンが食べれる幸せをかみしめ、”パンの家”という言葉を思い出しました。
ベツレヘムは”パンの家”という意味だそうで、イエス様が生まれた街の名です。もともとこの地域のセム系民族でthe house of sustaining(養う、元気づける、持続するの家)という言葉が語源でそれが後にそれぞれ派生してアラブ系民族の言語で”お肉の家”ともなり、イスラエル民族の方では”パンの家”となったそうです。(ご主人は言語学に詳しく、中近東にはエルサレムも含め10年在住したことあり)
今日読んだ個所は、イエス様が新しいぶどう酒を古い皮袋にいれないものだ、そんなことをすれば新しい発砲しているワインにより古い皮袋がさけてしまい両方ともダメになってしまうと。これはたとえで、イエス様の新しい福音を既存のユダヤ教の儀式や法律で受け入れることは出来ないということです。福音は全く新しい心で受け取る必要があり、自分の今まで考えてきたマインド、信条、自分の力でやろうとするプライドと混ぜることはできず、そうするとよけい中途半端になってしまい二心になりかねません。一方、イエス様の福音自体は決してすたれず、変わりません。イエス様のことが書かれている聖書は、何千前に書かれて編集され、一つの本となって世界中に訳されて読まれていますが、内容は変わりません。真理だからです。
二心にならず、神の言葉を心を開いて理解しようとし、イエス様が示された模範に従順についていこうという謙遜な姿勢をいつも持てるように、色々な面で持続していけるよう助けてくださいと祈りつつ。 |
Jan. 04 |
お腹の音占い
「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
マタイによる福音書2章2節
今晩の食卓で、家主が「The 100 funniest words in English」 (100のおかしな言葉:英語)をいくつか紹介してくれましたが、その中で特にGastromancy(お腹の音占い)、つまりお腹の音のなり具合で未来を占うというのがあり、あまりにもばかばかしくて笑いました。しかし、世の中にはなんと様々な種類の占いがあり、ばかばかしくて半信半疑でもそれを試してみたりするものではないでしょうか。
聖書では”神様は占い・霊媒者を忌み嫌われる”と書いてありますが、一か所だけその占いが我々人類にとって良い知らせに使われているという個所があります。イエス様が2千年前に生まれて2歳くらいになった頃、イスラエルからみて東の国の占星学者達が星の動きで、”ユダヤの地に王が生まれる”と割だし、らくだにのって遠方からその王を拝みに来たという個所です。正確にどの場所かわからずも、その星が誘導して彼らは幼児のイエス様の場所を見つけ、贈り物を捧げて王様として拝み自分の国に帰って行ったという不思議なストーリーです。先日の日曜の礼拝メッセージがちょうどその個所でした。
当時ユダヤ王国では(ローマ帝国の属国でしたが)、民はメシヤ(救い主)を待望していました。彼らにとってそれは政治的な救世主・王であり、預言者を通していつか来られると預言されていたのです。しかし、まさにその待望のメシヤがこの世に生まれた時、その辺にいた羊飼いだけで、他の誰にも知られず、かえって遠方の外国人、しかも占いをするユダヤ教以外の人たちに、神様は星を通してユダヤの王、それを超えた全ての民のための救世主の誕生を知らせたというのは、ある意味皮肉です。待望していた国民は全然知らない、また知らされたとしてもおびえて、その当時のヘロデ王という残虐な王が、その博士たちの来た目的をしって保身のためにその幼児を殺そうとした程でした。
現代でも人々は自分の世界に生きるのが忙しくて、ゴスペル(福音)を聞いたとしても、興味を示さないか、”また今度にするよ、理解できないから”、”そんな宗教信じたら怖いことになる”という反応は、2千年前から変わらないように思えます。神様が自分を創ったこと、大切に思っていること。その自己中心的で真の神を否定しているという人間の状態にもかかわらず、なんとかその罪を赦し死んだ後天国に迎えられるように、神の一人子、イエス・キリストを十字架にかけたこと、それを信じるだけで、その愛をうけとるだけでいいということ。これらの福音に無関心、またある人々はその信仰を持つ人を毛嫌いしたり、ひどい場合は殺そうとするのです。
神様はその嫌われる占いを通してさえ、ご自身を表そうとされたように、様々な形で古今東西、人間に福音とそれによる希望を与えようとしています。その希望の星を見のがさずに、探究される方が一人でも今日起されることを願いつつ。 |
Jan. 03 |
健康な食事
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。…神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。
」創世記1章26-31節
今朝は新しい家主とご近所ツアーもかねて、散歩に行ってきました。外はマイナス5°(華氏23°)でまるでスキー場にいる気温でしたが、空気は澄んでいて、歩いていても気持ちが良い朝でした。家主はアメリカ人のご主人と中国人の奥さん、とても親切な面倒見の良いご夫婦です。私のほかにお部屋を借りている方々が5人いるという大きい家ですが、皆仕事で朝早く夜遅く帰るのでめったに会うことはないと。昨晩はそのうちの一人のハウスメートも含め、一緒に食事を楽しめました。
奥さんのお料理は野菜中心でとってもおいしく(中華料理ではなくかなりヘルシー志向)、実は私とそう年はかわらないはずですが、お母さんのような包容力がある方です。同じアジア人というのも親しみやすく、これから仕事から帰ったら夕飯がもうできているということが、新しい職場で慣れない私にとって非常に助かります。なかなか一人暮らしだと、独り用にきちんと料理はせず、いい加減になりがちですから、そんな私に素敵な家を与えてくれた神様に本当に感謝です。奥さんは「食べ物というのは非常に重要なのよ!」と結婚してからご主人を健康にさせ、ダイエットさせたという目に見える証拠を示して頂き納得。
「みことばの糧」とクリスチャンは良く言いますが、まさに聖書のことば(みことば)は心の食べ物として毎日必要です。年初からまた聖書を一年かけて順々に読むので、1月は必ず創世記から始まります。聖書は何度読んでも、読むたびに違う気付きや発見があり、神様のことばが書いてあるので、毎回励まされて、教えられます。聖書は一般に文学・歴史書・哲学書としても読めます。しかし、信仰が与えられると、これが私向けに書かれた神様からのラブレターになり、個人に向けとなるので「今日は何が食べられるか(読めるか)」と楽しみになるのです。聖書を”読まなければ”ではなく、”読みたい”となれば占めたものです。
食べ物と同様、健康なものを心に蓄えると心身に良い影響があるからです。聖書は神様の霊によって人を通して書かれているので、著者は人でも監修は人を創られた神様なのです。神様は最初の天地創造の時から、自然も人も健康で、調和するよう創られましたが、残念ながら人間の自由意志による選択で(自分で勝手にしたいという思い:罪により、神様とのたった一つの約束を守れず)、その調和は壊れてしまい今の地球のように、様々な問題がでてきたわけです。しかし神様はその対応策を既に考えていたのです。
今年はここに住む続ければ蕁麻疹もおさまるかな〜と健康のことも期待しつつも、心の糧を頂き続け、また自分が受けたものを他者にもできるだけ分かち合えればと願います。 |
Jan. 01 |
心機一転
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
ヘブル人への手紙11章1節
2013年新しい年が明けました。今年も皆さまどうぞよろしくお願いいたします。元旦は、礼拝に行くことができ、年の初めから非常に聖書の言葉を通して力を頂き、そして讃美歌を歌い、祈り合うことができ、今年はとても幸いなスタートを切れたと感謝です。ついでにつきたてのお餅をたくさん食べ、力がつきました!
フィラデルフィアに住んでちょうど3年経ちますが、この度転職でNYに引っ越すこととなりました。マンハッタンへはほぼ毎週バイブルスタディのために一年3ヶ月通っていましたが、NY
(Westchesterと言って郊外です)に住んで働くのは14年ぶりです。新しい職場なので非常に緊張していますが、今回はづっと祈って導きを求めてきたので、このタイミングで神様が道を開いてくださり、新しい場所での方向性を導いてくれていると確信が与えられているのは感謝です。
今日のみことばのように、「信仰とは望んでいることを確証することだ」と、つまり私の望んでいることは、仕事上でキャリアを積むとか成功するとかではなく(生活のために仕事は必要ですが)、自分の置かれた立場でキリストを一人でも多くの人に伝えるチャンスが与えられたいという望みです。信仰とは目に見えないものです。しかし、それを持っていることが分かるのは不思議です。ですから、このことについては、いつも神様任せのところがありますが、一度神様の方向性をキャッチしたならば、先が見えていないことでも信仰で一歩踏み出さねばならないという面があります。
せっかく与えられたお友達、教会の方々を後にしてフィラデルフィアを後にするのは悲しいですが、引っ越したら後戻りはできません。とにかく、えい、やっ!と心機一転始めてみようと思います。ちょうど今年の標語としてこの聖書の個所が与えられたのは、正直新しい職場で自分は通用するんだろうか、フルタイムで働く体力はあるのか。。とちょっぴり心配もありますから、大きな励ましとなり感謝でした。
皆さまはどんな年間標語もしくはNew Year's resolutionを今年は持たれましたでしょうか?皆さまお一人お一人に神様の祝福がありますように新年にあたり願いつつ。
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