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May 31, 13 |
ナッツの不思議
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」ヨハネによる福音書12章24節
ミックスナッツとして売られている、アーモンド・カシューナッツ・クルミ・ピーナッツ等が入ったナッツの詰め合わせは、例え高カロリーだとわかっていても、時々たくさん食べてしまいます。(今晩も頂きました!)ナッツ類がとても栄養価が高いのは、種であり、それを蒔けば芽が出て木となり、実がなるという、小さい種の中にぎっしりこれから成長していくのに必要な栄養がつまっているからです。種は発芽すると、種の外側の殻は不要になります。それはあたかも、種の内なる命が萌え出るまで、外側の殻は命を守り、そしてお役目が終わったら死んでしまうかのようです。
イエス様は、ご自分のことを、一粒の麦に例えられたところが本日読んだ個所です。種というのは、良い地に落ちないとづっと種のまま、休眠状態で発芽しません。しかし、種のままのものは、私たちの胃袋に入り、ある意味、食べられて死んでくれて栄養を提供してくれているのも不思議です。イエス様が死ぬことで、多くの人々が救いを得られる、つまり、死んで終わりでなく、罪が赦されて神様と和解することができ、そして天国で新しい体をもらって永遠に生きることができるためでした。そのために、イエス様は人としてインカネーションし、このために十字架で死んで、この死を通して、多くの信じたものが命をえ、生きている間は豊かに実を結べるように助け導いてくださるというのは、まさに希望です。そして、イエスさまが復活されたように、私たちも、新しい命として発芽し、実を結ぶように導かれます。 実を結ぶとは、具体的に聖書ではその人の内側と、人間関係のことで、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、忠実、柔和、自制*のことを指します。これらは神の霊、聖霊によって助けられて、結べるもので、自分の持前の性格・気質で出来る以上の高い基準です。しかし、実を結んでほしいというのが神様の願いであり、その為には、願えば助けて下さるという約束があります。
今週も終わり、実を結ぶ余裕もなく、辛いことに飲み込まれそうでした。しかしながら、物事がうまくいかない辛い時にこそ、この約束を思い出そうと思すように励まされました。誰でも辛いこと、うまくいかないことがあるのが世の中当たり前です。キリストを知らない人はそれを自分の力で乗り越えねばならない、心のなかで処理しなければならないのですが、イエス様を信じる信仰が与えられていることで、独りでがんばらなくていいのです。イエス様が死んでくれたのは、私が地上で実を結べるように変えられるためでもあり、そこまで愛して大きな犠牲を払ってくれている方へ、祈って任せようと思えるのが幸いだと感謝できるのです。辛いことにフォーカスして落ち込むのではなく、神様の大きな愛と恵みに目をとめて明日から仕切り治そうと思います。 *ガラテヤ5章22-23節 |
May 27, 13 |
体のパーツ
「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはそのからだである」
第一コリントの人への手紙12章27節
昨日教会の礼拝で、子供たちにこんな話をしました。
私:「教会とはなんでしょう?」子供A「礼拝するところ」子供B「お祈りするところ」私:「そうですね、礼拝したり、いのったりする、つまり場所とか建物だと思うよね。聖書にはねこんな風に書いてあるんだよ」と人間の体の部分、目、耳、鼻、口、手、足のパーツを見せて、「これらは一つも欠かけてはならない、皆必要でしょ?目は口にむかって「あんたはいらない!」と言えないし、目が耳にむかって「お前はいらないよ」と言えないでしょ。みんな各パーツが集まって一つの体だよね。そのように、教会は建物じゃなくて、イエス様の体なの。みんな一人一人が、それぞれのパーツ、あなたは目、あなたは耳、あなたは足。役割は違うの。ちがうけど、一つのからだだからお互い労わりあい、親切にしあい、協力しあってイエス様のからだを作っているんだよ。大人のように、お互いけんかしてはだめなんだよ(ここで一緒に聞いている大人たちはどっと、笑っていました)」
子供というのは、複雑に物事をとらえず、説明されたことをシンプルに受け止めるようです。また想定外の質問をぶつけてきて、かえって大人は考えさせられます。一方、大人たちは人生経験が長ければ長いほど、プライドが高く、複雑に物事をし、良くないと分かっていても、自分の長年の生活習慣・心の態度を変えようとしない頑固さがあります。私がそうです(笑)。
ある人々から(クリスチャンを含む)”聖書は昔の書物、現代にあてはまらない”、”天地創造の部分は神話としてうけとるべき”、”聖書をそのまま信じるのは古い、もっと新しい神学がある”というご意見を聞きますが、私はそういう話には全く興味がありません。聖書は全体を通して貫く主題(イエス・キリストについて)を持って読む、生きた神のことばです。しかしながら、部分部分を取って悪用され戦争などの大義名分にも使われたり、オカルト映画に利用されたりします。またキリスト教の宗派は、それぞれ強調点が異なったり、歴史的な背景等で別れすぎです。多様性はあってもいいと思いますし、その当時の服装とか、その地域特有の生活習慣に関わるような周辺的な事柄は現代に適用する必要はないと思いますが、本質的なことは現代も生きです。そうでないと、2千年前の神と、4千年前の神と現代の神は異なることになります。聖書に書いてあることを自分達のヒューマニュズム的考えで勝手に解釈して、”これは現代でもOK,これはだめ”とそんな相対的な判断で聖書を解釈する方々と議論もする余地がありません。何が正しいかは神さまだけご存じだし、小さい脳みその私の考えや他の偉い先生の考えでさえも、神の全容を知ることは無理でしょう。
科学技術やITが発達し生活形態は変わっていますが、人のやってること、考え方は今も昔も変わってないし、神様も昔から変わらないと聖書を読んでいると観察することができます。子供に教えるたびに、自分もシンプルに、そのまま神のことば、聖書の教えを受け取ろうと思わされます。そして、考え方・意見のことなる人も同じキリストの体の部分であり、頭(司令塔)であるキリストにつながっていきたいと願いつつ。
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May 24, 13 |
シエスタ
「わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」 詩編62編7−8節
若い頃、短期間スペインでホームステイをした時のことです。そのころラテン系の人たちの文化にまだ馴染みがなくても、一つだけ知っていたのは彼らは”シエスタ”といってお昼休みを長くとる習慣、それもお昼寝できるほど2時間くらい休んで、午後店を開けるということでした。実際現地へ行ってみると、現代はアメリカの商業主義が入り込み店を9−5時で開けているビジネスが多くなっているようですが、その当時田舎町でしたので、昼間しまっているところがありました。それを表す印象的な彼らの格言は、ホストファミリーのおじさんより聞きましたが「仕事のために、生きるのでなく、生きるために仕事をする」でした。つまり、彼らにとって働くことは目的ではなく、よりよい人生を生きることの、手段にすぎないのでしょう。ヨーロッパン人のバケーションのとる期間が人によって1ヶ月と昔聞いて、驚いたのもこの影響でしょうか(今は欧州は経済が大変でそんな余裕はないかも)
日本人である私は勤勉に働けという根性がしみついていて(それでも私は怠け者のほうですが)ラテンの方々とは考え方が異なりますが、ある意味共通点を見いだします。私は仕事のために生きていないことです。ある方々は、生涯現役として何かしら仕事をし続けることが、その人の誇り、人生で自分を立たせている拠り所、それが社会での存在価値として持ち続けられます。それはすばらしいことです。一方、例えば私が日本で仕事でかかわっていたクライアントはほとんどがリタイア後、病気や障がい、認知症をかかえ、社会でもう働けない方々でしたので、もし仕事をもってしてのみが人の存在価値を付けるという考え方ですと、多くの人が疎外されるでしょう。
私は、自分自身が努力しても報われないこと、頑張っても思うように人生が成功しないことも経験し、自分の力や能力に拠り所、つまり自分を立たせているプライドに存在価値を置くことを辞めることができると知ってから、非常に自由になりました。もっと大きい存在、私たちの想像を絶するほどの全知全能の神がいて、こんなちっぽけな私個人のこともケアしてくれるということが、聖書を通してその愛が示されているので、それをシンプルに信じ、拠り所であり、避けどころとして、そこに自分の思いを注ぎ込めるという恵みを知ったからです。そんな壮大な神は恐れ多くて近づけないし、親近感がなかったのですが、イエス様が来てくれて、神様との仲介者となり、私の祈りも通してくれる、また日々弱さのゆえに犯してしまう罪も悔い改めて赦してもらえるためにイエス様が十字架にかかり、復活されたことを覚えて、感謝につきません。
今週も小さなことで心騒ぐことがありましたが、キリストの名を通して神様のまえに注ぎだそうと思います。すると、また前進できる意欲と力が与えられて、今週末も楽しみです。連休があるので、少しはやることに追われず、シエスタできる時を持ちたいものです。 |
May 18, 13 |
名前負けしない
「…彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」 第一歴代誌4章9-10節
名前というのは非常に重要で意味があり、自分がどのように名づけられたかを知るのは興味深いものです。私の母親が私の名を、小説の主人公の名前から取ったと聞かされたのは中学生の時でした。そこでその小説を読んでみようと、いつも漫画ばかり読んで本を全然読まなかった私が初めて興味深く読んだ小説、それが三浦綾子さんの「氷点」でした。
親からつけられた名前は通常良い名前ですが、古代のイスラエル人は聖書の記録を見ると時々、あまりつけてほしくないような名前を親がつけたこともあるようです。今日読んだ個所はヤベツという人のストーリーで、彼の名前はヘブル語で”痛み”、それも母親が「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」そう名付けたと。子供としては「ちょっと、それはないんじゃないか」と言いたくもなります。自分の名前がそんな母親の悲しみが由来だなんて、彼の人生までその名前の故に、悲しみに満ちてしまったら困ります。
しかし彼はそこでへこたれず、神様に逆に”祝福してください、災いや苦しみから遠ざけて下さい!”と祈ったと、そして神様はその願いをかなえられたと書かれていました。もちろん、神様に祈ったのだから、人生全てバラ色、苦難も苦しが全くないというのは、この世に生きている限りありえません。しかし、その困難よりも神様の祝福のほうがまさり、また神様は神を信じて信頼するものには、すべてのことを益として変えて下さるという約束もあり*、またこの世だけの利益でなく、天国での希望があるので、キリストを信じる者はこのことで日々励まされます。日々の生活で辛いことがあると、私はだいたいベットで横になり、神様にその悲しみを訴えつつ、そのまま寝込んでしまいます。しかし翌朝からはまた気持ちを切り替えてスタートできるというのは本当に感謝です。
困難にばかり目を留めて時間を取られるより、キリストにある神様の祝福に目を留めて前向きに生きたいと思わされました。
*「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ人への手紙8:28 |
May 11,
13 |
母の思い
「するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。―そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。―それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。 」ルカによる福音書2章34-35節
5月11日は母の日です。二人の息子を持つルームメイトが「母の日にもらったケーキが冷蔵庫にあるから食べてね!」と私におすそ分けをしてくれました。先日、日本にいる母に電話して色々お互いの近況を話しましたが、私は本当に母親を尊敬し感謝していますし、こんな自分を育ててくれた苦労
を思うとき頭が下がります。ましてや父が召天してまだ一年ですから、父の分まで母には日々喜んで生きていってもらいたいと願っております。
今日読んだ個所は、イエス・キリストの産みの親のマリアに、まだイエス様が子供のとき、神殿で言われた言葉です。彼女は神様から特別の使命:この世の救い主、神の子を産むを受けた時、まだ15歳位のティーンでした。そしてイエス様が33才くらいで、十字架にかけられた時、彼女は40代後半。この人を通して預言された内容、”刺し通す”というのはいくつか解釈はあるとしても、とにかく産みの母親であるマリアにとってはイエス様が目の前でむごい十字架刑で、釘で手足を刺し通された時、心が張り裂けんばかりの、それこそ心が刺し通される思いだったと察します。しかし、その悲しみはそこで終わりませんでした!イエス様は3日後に復活され、弟子達、もちろん母マリアさんを含む他の女性たちにも表れたのです。
母親の子育てに限らず、誰でも刺し通されるような悲しみに直面することは何度かあると思います。また、心が刺されるという経験は、真に悔い改める時にもおこることです。*1 つまり自分が神の前に悪かった、正しくなかったと本当に分かった時、ああ自分が悪かったために、イエス・キリストが十字架で刺し通されたんだと分かった時、本当に申し訳ない、悲しい思いがこみ上げます。しかし、その悲しみが悲しみで終わりません。この悲しみを伴う悔い改めはキリストによる救いに導くためのものだと使徒パウロもいっているように*2、どんな状況の中でも、キリストを信じることで、必ず神様は喜び、希望を持てるように変えて下さる方です。
お母様たちも、希望を持って日々励まされるよう、祈りつつ… Happy Mother's day!
*1「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」
使徒の働き12章37-38節
*2「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」第2コリント人への手紙7章9節 |
May 5,
13 |
テントの修理
「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」 第2コリント人への手紙5章1節
女性にとって、お肌の悩みは深刻です。私はお手入れを最低限しかしてこなかったため、とうとう顔に大きいシミができたことに、最近鏡をみて気が付きました。ショックでしたが、仕方ないこと。人間生きていれば生物学的に衰えは来るし、それを悲観しないで前向きに受け止めることも必要です。
人は美と健康を保とうとたくさん努力し、お金をかけますが、どんなにお金を投じても老いを止められないし、全く病気にならないということはありえないため、これは人間の医学の限界。私はあまり、今の体に必要以上に投資することをある時からやめたものです。
今日の礼拝メッセージを聞いた個所は、ちょうどテントの話でした。使徒パウロは人の体を一時的にこの世に生きる間だけの仮住まいの体だとたとえました。この体が死んだあと、魂は残って、キリストを信じる者は天で永遠に生きる新しい体が与えられるという約束が、聖書のいたるところに書かれてあります。当時、キリストを信じるゆえに迫害を受け、殉教していった人々にとって、このことはどんなにか慰めであり希望であったでしょうか。死んだら終わりではないし、苦しみ、不公平、悲しみは地上の間だけ、天国ではもう苦しみも、涙もなく*1、新しく与えられた体は天使のようで、結婚もないと、イエス様が言われています*2。
私はこのことを単純に、聖書に書いてあるので信じ、今の体をあちこち修理してもたせながら、いずれ新しい体をもらえるんだという希望を持っています。すると、今の体にやたら拘らなくなってきたのです。むしろ、拘らなければならないこと、エネルギーを投じ、いつも思いめぐすべき重要なことに目をとめたいなあと。また、今の体に不具合があっても、また生活が安定してなくても、いろんな困難が起こって落ち込んでも、いつも平安に戻れるところがあるというのは、本当に心強いのです。これは、イエス・キリストを信じると与えられる聖霊が、この約束が本当にそうなるという保証を与えてくれます。というのは、私は行いも悪いし、性質も悪い、資格もないけれども、そのような恩恵を受けられるのは皆キリストの大きな犠牲のおかげなのです。私のために、キリストが十字架に掛かって代わりに死んで下さったから、それを信じるだけで保証されます。そして、イエス様は甦って天で今も、私たちの祈りを聞き、導いて下さるという信頼関係、愛の関係も与えられ、死んだらどうなるか先行き不安もないのが有難いです。
私はまだまだ、テントの補修に目が留まりがちで、毎日シミを隠すためメイクアップして出掛けますが(顔色悪くて患者さんを怖がらせないように)、基本的には見えないもの、信仰によって歩みたい、新しい体がもらえるまで、今は心の内側が日々新しく、キリストの性津のように変えられたいと、なあと願い求めようと思います。
*1 黙示録21:4、 *2 ルカによる福音書20:35−36 |