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信条・Statement of Faith
          ♪Today's Sharing♪

June 2013

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言





レース完走に向けて 通勤時間 NYも梅雨並み トライベッカ
自分で全て抱えないこと 沈黙 失った悲しみ以上に
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June 28, 2013 失った悲しみ以上に

「そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。 また彼は男の子七人、女の子三人をもった。」ヨブ記42章11-13節

 木曜の夕方、
仕事を終えてメイルをチェックすると、再び妹からの悲しいメイルが目に飛び込んできました。急いで母に電話すると、日本時間の夜中に祖母は静かに息を引き取ったそうです。今週前半まで元気で、いつも通りにトイレも食事も自立していましたが、目が突然全く見えなくなり、食事を家族が食べさせてあげなければならなくなったのが、数日前。そして木曜日の夜、遅い昼食後、床に入ると寝たまま返事をしなくなり、おかしいと医者を呼びました。母と医者と看護師が見守る中、静かに本当に眠るように亡くなったとのこと。
 覚悟はしていましたが、心の中でまだ私が秋に一時帰国するまでは大丈夫だろうと楽観していたので、ショックでした。一目はばからず、スタバで大泣きしてしまいました。海外での身内の死は昨年の父に続く二人目。祖母は前の日記でも書きましたが、私は大好きで、子供のころはもちろん、大人になって2000年から母と3人で暮らしていた時も、両親がアメリカへ赴任になって、当時94才の祖母と二人暮らしをしていた時も、いつも頼りになるしっかりとしたお婆ちゃんでした。40代前半で未亡人となって、その後再婚をすることなく、たくさんの孫たちの世話をして仕えてくれました。孫のなかで私が一緒に長く住んでいたのもあり、祖母とは何でも話せたので本当に寂しいです。
 最後に私が祖母と話したのは、昨年の5月。おばあちゃんに、イエス様を信じてほしいと勧めました。祖母が「自分は信仰心というものが持てないんだよ」というので、「信仰心は、与えられるものなんだよ。与えられるように祈ってるから」と私がいうと、祖母は「じゃあお祈りしてちょうだい」と。それが最後でした。私は毎日祖母のことを祈っていました。祖母は生前から、自分の葬儀はキリスト教式でと頼んでいましたので、週明けに家族葬で執り行われる予定です。
 先日日記に書いたばかりですが、愛する者の突然の死は本当に辛いです。母は最期まで、施設や病院でではなく、自分の母を家で静かに看取れて幸せでした。祖母も102才まで、本当に寸前まで自立していてよく生きることができたこと、これらのことは失った悲しみ以上に大きな神様の恵みであり、感謝です。私はNYで家族のために祈ることしかできないのですが、皆さまのお祈りのおかげで、神様の愛が注がれ、悲しみに沈むことなく家族共々慰めが与えられていること、ありがとうございます。
June 26, 2013
沈黙

「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、 そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。 」ヨブ記1章20-22節

 ”悪いことは続くものだ”と嫌なことわざが言われることがあります。例えば、最愛の家族を突然の事故や災害で亡くした場合の深い悲しみと絶望、さらに、ご自身も続けて癌を宣告される、火事に会う、失業すると、これでもかというほど、辛いことが続き、打ちのめされるという経験をされたことはありますでしょうか。「こんなことが自分にどうして起こるのか!」と叫びたくなるような。
 聖書の中でヨブ記という本があり、今ちょうど通読で読んでいますが、このヨブという人(何千年前の時代の中東の人)は、非常に富んでいて、神を信じ、正しい人だったのですが、ある時、一度に自分の子供10人、使用人、そして財産である家畜を全て失い、更に自分も全身おできが出来て苦しむという、ひどいことが一気に起こってしまいました。奥さんからも「神を呪ってあんたも死んだ方がいいわ!」と言われてしまいます。しかし、ヨブは決して神を呪わず、彼を慰めにきた友人たちとの対話が詩という表現で描かれていて、文学的にも優れた作品だそうです。最後には神が彼に失ったものを再び与え、健康になり、新たに子供も与えられたという、ハッピーエンドではありますが、結局、この本を読んでいて、”神はなぜこのようなことがヨブに起こることを許されたのか”という理由が直接かいてないのです。この本で最後に、神ご自身がヨブに語りかける形で登場されますが、そこから全てを創造された神が自然界を含めてすべてをコントロールしていて、人間の私たちは小さな存在で限界があることは読み取れます。つまり、私達の頭では理解できないこと、良いことも悪いことがおこることも、自然災害も、悪がはびこる世の中のことも、全て、神の支配のもとにあると。これは、深い因果応報という観念、”運命”という不明な状態をとりあえずカテゴライズする、根拠のない観念とは、ちょっと異なるので、わかりにくいかもしれません。
 このヨブ記を通して現代に生きる私たちに適用できるとしたら、一人一人に起こる辛いこと、悲しいこと、それがなぜおこるのかをいちいち、神様は理由を説明してくれないのですが、後になって、”ああこういうことに繋がるんだ”と本人が神様から示されて納得し、慰められたり、希望を与えられたりする場合が多いということです。それは、自身や他のクリスチャンの体験を通してです。(自分の辛かったことはもう忘れてしまいましたが)
 励ましは、たとえ理由がわからなくても、神が沈黙しているように思えても、神は決して沈黙していないということ。どんな時でも、神は一人一人を愛して、ケアして、最善の道へ導こうとしてくれているという信頼が、キリストを信じる信仰により与えられていることです。キリストの命をかけてまで、一人一人の人間を救おうとしてくれた神様のことを思えば、人生最悪の日であっても、神の自分に対する愛は変わらないという確信に支えられるのです。その信頼が一時的に弱まることが私は多々ありますが、いつも神様は引き上げて下さります。もし、その神に対する信頼がもてなかったら、とりあえず、苦しい、助けて〜と、神に向かってうめき、叫ぶことをお勧めします。神様はやはり、聞いてくれていたんだということが、後になっても、その渦中でも思えるようにと願いつつ。
June 23, 2013 自分で全て抱えないこと

「そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った、「わたしたちが神の言を後回しにして、食卓のことに仕えるのよくない。 そこで、兄弟たち、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を選びなさい。わたしたちは、この人たちにこの仕事にあたらせることにします。そして私たちはもっぱら祈と御言の奉仕に励むことにします。」」 使徒の働き6章2-3節

 私の祖母は102才、そしてその祖母を介護する母は長女なので老老介護です。しかし多くのお年寄りがそうであるように、あまり家庭内に他人をいれたがらないため、母が2010年以来、独りで見ています。私は母の負担を心配しております。母は責任感がありますから、食事の支度、トイレの後始末、その他家事も全部自分でやり、近くに住む妹がかなり助けてくれますが、海外に住んで何も手伝えない元福祉の人間の私としてもっと福祉サービスが使えればいいのにと、非常に心苦しいでます。多くの家族が自分たちで抱えて、介護疲れで倒れていますし、あまりに我慢し自分の生活を犠牲にしすぎて、爆発し、施設にいれざるをえないという選択を取る方々も見て来ているからです。
 安心な点は、母は自分の人生で最優先とするところは、たとえ自分の母親の介護が大変でも、譲らないところです。母は戦後若い時からクリスチャンになり、それからづっと同じ教会に通い続け、神様に仕えるのが生き甲斐であり、喜びです。晩年牧師になった父とも協力して、アメリカの日本人教会、日本の教会で仕えていました。そのことを祖母はクリスチャンでなくても理解していて、最近日曜日だけヘルパーさんが入ることを祖母が承知したのです!母は祖母の介護の大変さに飲み込まれて体調を壊すことなく、やるべきことはきちんと祖母に仕え、そして自分の大切な教会は日曜日に行くという点が、かえって長期間にわたる老老介護が続く秘訣なのでは、と手前味噌ながら観察できて、感謝でした。
 今日私が教会の礼拝でメッセージしたところは、初代教会(イエス様が復活されて、天に変えられた後、その弟子たちにより教会が建て上げられていく、使徒の働きという書簡より、紀元一世紀頃)で、信者がどんどこ増えて来た一方、教会内に問題がでてきた個所でした。教会の未亡人への食事の配給が、人種的えこひいきがあって不公平だという訴えがでたというのです。そこで、使徒たちがこのことを自分たちで抱えないで、知恵と聖霊に満ちた人たちを選任し、その7人に任せて問題は解決され、おかげで、リーダーの使徒たち(イエス様の直弟子)は食事のことでなくて、優先順位が高いリーダーとして彼らがやるべきこと、聖書を教えて、伝道し祈ることに専念できるようになったというストーリーでした。
 神様は私達の間で問題が起こっても、それを対処する知恵を与えて下さり、聖霊で導いて下さる方です。神に助けを求めず、己の力に頼り、全部自分たちで対処しようとするとうまくいかない、更にはその小さいことをなおざりにしていると、どんな組織でもそれが大きな分裂や問題に発展するものです。教会だけでなく、各家庭においても、神様に祈って知恵を与えられ、問題に対応していきたいと励まされました。
 そうはいっても、娘として自分の母のことは心配です。海外にいて何も助けになれないけど、祈って支えていきたいと、またいざというときには駆けつけたいと思っております。
June 19, 2013 トライベッカ

「主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。 」詩篇94編22節

 私の今の職場は、マンハッタン島の下の方、トライベッカというところです。家とオフィスの往復で周りを全然見る余裕がはないですが、いつも空を見上げて気になるのが、すぐ横にそびえたつあのビル。そうツインタワーが911で破壊され、その跡地に建設中の、巨大なビル!「また壊されたりして。。」と思ってはいけない思いがよぎります。なぜなら、貿易センタービルは、911以前にも地下で爆発がテロにより起こったことがあり、敵はしつこく攻めてくる可能性がありです。世界最強の軍事力を誇るアメリカは、他国で戦争する武器ばかり作ってないで、国内にて最新技術でもってして、あのようなテロを防いでほしいものです。
 日本にいては巨大地震が、マンハッタンではテロが、と世界中どこも安全な場所はあるのかと考えたらきりがない、何が起こるか先行き不透明な時代です。人間の悪や天変地異はキリストが再び戻ってこられるまで起こるのも覚悟(聖書でそう預言されているので)。そんな中で平安でいられるのは、やはり神様の守りがあることを信じられること、また死んだら終わりでない、天国での永遠の命が与えられる次の世界があることです。キリストのおかげです。
 今日読んだ詩編の著者も、神におけるゆるぎない信頼を表現していることに共感がもてます。神様が頑丈な岩の囲いとなって、守って下さるという確信が与えられているのは感謝です。すると、苦しい目に、辛い目に合うことがあっても、人を恐れず、また災難がふってわいてきても、神がなんとかしてくれるという希望が与えられるだろうと、その実際の体験が蓄積されていくのは有難いです。楽しいプロセスではないですし、その渦中では「助けて~」と私は涙ながらに、祈り求めますし、思い煩いもたくさんでてきます。とにかく祈ると日常の小さいことでも、一変に解決はされませんが、徐々に助けが与えられたりします。そしてキリストの愛にフォーカスしようと、何度も、励まされ、一日一日を生きていける、感謝なことです。
 それにしても、欲をいえば(食欲は絶大)。。。せっかく、おしゃれな場所だったら〜レストランとか行く機会があったらいいなあと。食べるのが好きな私は、15年くらい前この辺りの有名なレストランに職場の人たちと食べに行った思い出がありました。誰か行く人いないかな?
June 11, 2013 NYも梅雨並み

「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」ヨハネによる福音書7章37-39節

 梅雨は日本だけかと思っておりましたが、こちらでもこのところづっと雨ばかりです。昔からのNY在住の皆さんによると、ちょっと多すぎるとのこと。熱帯雨林化しているのでしょうか。(失礼、冬は極寒の地域でした。)
 先週末より、日本から牧師がちょうど来ていて、聖書の学びの会を開いてくれたため、かなり励まされ、魂に栄養が補給され、感謝でした。学びのなかで、「クリスチャンをしていて、喜びがなければ意味がない。キリストをもっと知り、神との関係がもっと深まることが重要」とありました。私は、このところ疲労と睡眠不足、忙しくて乱れた食生活でよろよろです。先週末から帰宅時間も深夜が続き、そしてその後仕事も残業。
 今日の個所で、イエス様は信じる者は生ける水を受けると言われています。人が聖霊に満たされ続けていると(一回きりでなく、続けて)自分だけでなく、周りの人へその水が流れて(原語的ニュアンスではほとばしる)いく、つまり他者へ影響を与えるということでしょうか。その生ける水で心が満たされていると、環境に左右されない、心の深い所で神様から与えられる喜びがいつもあります。
 最近は私はその喜びを失いかけていました。あまりにも環境・状況が八方塞がり、自分の能力のなさに情けなくなり、じたばたして動けば忙しくなります。なんでこんな辛い思いをして無理してNYにいるんだろうとふと、思ってしまうのです。初心に帰り、神様がNYに自分を導いたことを信じ、恵みと喜びを与えて下さいと祈り求めようと思いました。雨は毎日だと困りますが、恵みの雨を上から日々うける必要があります。神の恵みとは、私が良い物を受けるにふさわしくないのに、一方的に神様から受けるプレゼントのことです。報酬のように、何かしたことによって、能力があることで当然受けるものではないので、安心します。弱い私の祈りを聞いて下さるやさしい神様がいることを信じつつ。
June 6, 2013 通勤時間

「真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。 」」Uテモテ2章15節

 新緑の美しい季節となりました。NY郊外で車なしの生活の私は、公共交通機関で通勤をしますが、特にバスの車窓から見る木々の緑は目を潤します。バスの中では聖書を読んだり、牧師のメッセージを聞いたりする時間に当てられます。家に早くついてもつい、だらだらしてしまう私は、かえってバスの中の方が集中できたりするのです。
 一方、日本と異なり、時間通りにバスが来ないことの方が多く、かなり待たされ、短気な私はイライラしてしまいがちです。バス停で待つ間、何かしてればいいのですが、イライラすると集中して何かに耳を傾ける、読むというのができないものです。私の課題はこの待ち時間を有効に使い、のんびり待てるように私の心が変わることです。苛立ってもバスは来てくれませんので、結局状況に関わらず、自分の心次第なのですから。
 今週は日本から私の母教会の牧師が、NYの教会に来てくれるので、その聖書の学びや日曜日のメッセージが楽しみです。その方は、聖書をそのまま、まっすぐに説き明かすので、日本にいたとき、私はみことばでとても養われていましたし、そして今もWebでメッセージが聞けるのでITの発達に感謝です。クリスチャンは通う教会の牧師の影響が大きいと観察します。聞き手は教師が話した内容をそのまま、受け取るからです。私は、聖書のことばを水増ししたり、さしひいたり、現代の風潮に迎合する勝手な解釈をする教師に教えられず、よかったなあと感謝しています。
 牧師・教師も同じ人間で、完全ではないから、信徒も牧師も”互いに愛し合いなさい”という、イエス様の命令をやろうとする必要がある、一方で、霊的なリーダーである教会の牧師を尊敬するように聖書には書いてあるので、リーダーに従うことも教えられました。教えられたことをやろうとすると、出来ない自分にぶちあたります。しかしやろうとしないと、やらないので自分ができるような錯覚を覚えてしまいがちです。聖書の話を聞くだけで、実践がなく、”ああいいお話でしたね”、とすると全く日常生活と乖離してしまうのです。私も、欠点だらけで、愛せない人間ですが、出来ないからこそ、神様に頼って、助けてもらおうと思います。
June 1, 2013 レース完走にむけて

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」 第2歴代誌16章9節

マラソンや何かのレースを走ったことのある方はその経験からご存じかと思いますが、とにかく、レースに出るには、トレーニングをし、体調を当日まで整え、当日はゴールに向けてひたすら走り続けるのですが、これらの努力と積み重ねがあるからこそ、ゴールした時の達成感は嬉しいものです。私の場合は、マラソンを初めて走った時、記録というレベルでなく、とにかく完走と、最後のほうはよろよろでしたが頑張りました。一度だけでしたが、この経験よりたとえ記録は悪くても完走することが大切で、他のことにも関してもさじをすぐに投げずに、忍耐してこつこつと頑張ろうという姿勢を学ぶことができました。
 キリストを信じる信仰は、レースに例えられます。そのレースは記録というより、最後まで走り通すことが求められます。今日読んだ個所は、古代ユダ王国のアサ王という人の話です。彼は王として着任し、最初は神に従い、神により頼んで国を裁きました。よって彼の前半に、神と心が一つになっている状態であったアサ王は祝福され多くの業績を残したのです。しかしながら、神がして下さったことを自分がしたかのように高ぶり、いつの間にか己の軍事的能力・政治的手腕に頼って、神から離れてしまった彼の悲しい晩年のことも記されています。預言者からはっきり下記のことばを言われても、悔い改めることもせず逆切れ。彼は信仰のレースを最初は良く走っていたのに、途中でやめて、全く神から離れてしまったのです。
 旧約聖書の話は、現代に生きる私たちへの教訓・戒めとして適用されます。私も、すべてが神様からの恵みであり、与えられているものであるのに関わらず、いつのまにか、これだけやってんだから、こうなるのは(こう評価されるのは)あたりまえと小さな、かつ深刻な高ぶりを持ってしまう者です。そして神様に心底依り頼まず、人に・自分に頼って自分で全てコントロールしようとし、うまくいかなくて苦い思いになり、神様に「どうしてですか?」と文句をいう。幸いなことに、今日のようなみことば(聖書)を読んでいると、自分が外れていることが示され、そして自分が悪かったと気付きが与えられ、悔い改めに導かれるのです。そして”アサ王のようになってはならない”と厳しい教訓ですが教えられるのは感謝です。
 神様は時代を超えてあまねく全地を見渡し、ご自分の心と一つになっている人に、不思議な大きな力を表される、それは見た目に派手なことでなくても、小さな生活中での変化とか何かの決断に関して働かれるはずです。その内容が、神を抜きにした自分の自己実現、自分のやりたいことを人生で、ましてや教会の中でもやろうとするのではなく、神がなさりたいことを求め続けなければならないと、心に留めておきたいと思わされました。それは、やらなければならないから、そうするのではなく、単にイエス様が十字架にかかってくれるほど自分を愛してくれたから、その愛にすこしでも応答したいなあという動機です。これなしに、”やらねば”という道徳的な縛り、自己鍛錬、もしくは強制的な恐れといったものでは、キリストを信じる信仰のレースは走り続けられません。全て愛が動機でありたいと願いつつ。
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