沈黙
「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、 そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。
」ヨブ記1章20-22節
”悪いことは続くものだ”と嫌なことわざが言われることがあります。例えば、最愛の家族を突然の事故や災害で亡くした場合の深い悲しみと絶望、さらに、ご自身も続けて癌を宣告される、火事に会う、失業すると、これでもかというほど、辛いことが続き、打ちのめされるという経験をされたことはありますでしょうか。「こんなことが自分にどうして起こるのか!」と叫びたくなるような。
聖書の中でヨブ記という本があり、今ちょうど通読で読んでいますが、このヨブという人(何千年前の時代の中東の人)は、非常に富んでいて、神を信じ、正しい人だったのですが、ある時、一度に自分の子供10人、使用人、そして財産である家畜を全て失い、更に自分も全身おできが出来て苦しむという、ひどいことが一気に起こってしまいました。奥さんからも「神を呪ってあんたも死んだ方がいいわ!」と言われてしまいます。しかし、ヨブは決して神を呪わず、彼を慰めにきた友人たちとの対話が詩という表現で描かれていて、文学的にも優れた作品だそうです。最後には神が彼に失ったものを再び与え、健康になり、新たに子供も与えられたという、ハッピーエンドではありますが、結局、この本を読んでいて、”神はなぜこのようなことがヨブに起こることを許されたのか”という理由が直接かいてないのです。この本で最後に、神ご自身がヨブに語りかける形で登場されますが、そこから全てを創造された神が自然界を含めてすべてをコントロールしていて、人間の私たちは小さな存在で限界があることは読み取れます。つまり、私達の頭では理解できないこと、良いことも悪いことがおこることも、自然災害も、悪がはびこる世の中のことも、全て、神の支配のもとにあると。これは、深い因果応報という観念、”運命”という不明な状態をとりあえずカテゴライズする、根拠のない観念とは、ちょっと異なるので、わかりにくいかもしれません。
このヨブ記を通して現代に生きる私たちに適用できるとしたら、一人一人に起こる辛いこと、悲しいこと、それがなぜおこるのかをいちいち、神様は理由を説明してくれないのですが、後になって、”ああこういうことに繋がるんだ”と本人が神様から示されて納得し、慰められたり、希望を与えられたりする場合が多いということです。それは、自身や他のクリスチャンの体験を通してです。(自分の辛かったことはもう忘れてしまいましたが)
励ましは、たとえ理由がわからなくても、神が沈黙しているように思えても、神は決して沈黙していないということ。どんな時でも、神は一人一人を愛して、ケアして、最善の道へ導こうとしてくれているという信頼が、キリストを信じる信仰により与えられていることです。キリストの命をかけてまで、一人一人の人間を救おうとしてくれた神様のことを思えば、人生最悪の日であっても、神の自分に対する愛は変わらないという確信に支えられるのです。その信頼が一時的に弱まることが私は多々ありますが、いつも神様は引き上げて下さります。もし、その神に対する信頼がもてなかったら、とりあえず、苦しい、助けて〜と、神に向かってうめき、叫ぶことをお勧めします。神様はやはり、聞いてくれていたんだということが、後になっても、その渦中でも思えるようにと願いつつ。