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Aug. 28, 2013 |
涙”
「シオンの娘よ、声高らかに主に呼ばわれ、夜も昼も川のように涙を流せ。
みずから安んじることをせず、あなたのひとみを休ませるな。
夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。」 哀歌2章18-19節
今日は悲しいことがあって、昼休みにある方と話していて泣いてしまいました。前回は祖母がなくなったとメイルで知った時も、カフェで大泣きしました。私は涙腺が非常に弱く、泣き虫です。感動するときも涙が出てしまいます。讃美歌を歌っている時も時折涙が出ます。落ち込んだときも、泣きながら神様に気持ちをぶつけます。
涙はなぜ出るのでしょうか、こんなに心の繊細な部分と連動している体の器官はないのではないかと思うほど、不思議な水です。
8月9日の日記にも書きましたが 聖書の哀歌という本がありますが、エレミヤという古代イスラエルの預言者が書いた本で、そこには、彼の祖国に降りかかった憂き目を嘆き、悲しみをダイレクトに表現しています。涙に関する文学的な表現はたくさんありますが、今日の個所にとても共感しました。そしてそれでもなお、神様の憐れみといつくしみを思い出し希望を持とうと。
今日はこの哀歌を読み、涙を流しながら、悲しい時は泣こうと思いました。その悲しみも、それで終わらない、なぜなら神様から慰めが与えられ、自身の気持ちを整理して前に進んでいけると信じているからです。またキリストを信じる者にあっては、互いに喜びと悲しみを共有できるので、それも大きな励ましとなります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ人への手紙12章15節)
時に、神様の前に自分の心を水のように注ぎだす、そういう祈りをすることも必要です。心を注ぎだすと、涙として水がでるのでしょうか。神様はその祈りを聞いて下さり、新たに生ける水を心に注いでくださることを期待して。 |
Aug. 24, 2013 |
理想の女性像
「だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。その夫の心は彼女を信頼して、収益に欠けることはない。…あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、
しかし主を恐れる女はほめたたえられる。」箴言31章10-11,30節
今日はアフタヌーン・ティという女性の集まりが教会でありました。いつもの使い捨てのコップではなく、素敵なティーポットとカップを皆がもちより、おいしい紅茶と、サンドイッチ、お菓子を頂き、至福のひと時。私が座ったテーブルにはラテンのおばちゃんたちで、初対面でしたが、皆気きさくで、おしゃべりがはずみました。最近新たに通い始めた教会は、NYならではの多人種の人々が集まるところで、日本人はみかけませんが、アジア人もたくさんいて、アットホームな教会です。私はその教会の牧師さんの教えと礼拝のスタイルが日本で行っていた教会と同じなので、気に入っています。
お茶の前に、本日のスピーカーの方が話して下さったお題は聖書から、美徳のある女性とはという内容でした。箴言という本は、3000年前のイスラエルの王ソロモンが書いたもので、具体的な生活の中での神の知恵がたくさん書かれています。今日の個所は王の母が息子にかたりかけるという形です。”王は酒と女に自分の力を費やすな”という母の悟しのことばの後、最後に母が息子に勧める、魅力のある女性は知恵のある女性だと。彼女は真珠よりも尊い、価値があると。
これは3千年前の時代背景ですが、この理想的女性は妻として家庭のことを朝早くおきてからやりくりするだけでなく、家で布をおって着物を作って商売も行ない、同時に貧しい人、悩んでいる人に手を差し伸べるタイプと書かれています。今の時代では、女性も家事をやりながら子育てもし、仕事もするというスーパ―ウーマンがたくさんいますが、昔から家事・育児をしながら副業的な仕事をこなし、困っている人にも目をかける女性がいたんだなあと。箴言の最初でも、「主を恐れることが知恵の始め」と書かれていましたが、最後でも「主を恐れる女はほめたたえられる」という結論です。知恵のある女性は神様を信じるがゆえに(ここがポイント)、勤勉で、家族みなから褒められるようです。
私はここを12年前に読んで、こんな女性になれたらなあと思ったものです。現実はこれと全くかけ離れている自分ですが、まずは神様を恐れる心をもっと持ちたいし、神様からの知恵が与えられたいと願います。生活の中で、家族の中で、本当に神様の恵みと憐れみが私には必要だなあと、思わされます。まだまだ、成長、変わらなければならない部分ばかり、時間はかかるかもしれませんが、次回この個所を読んだ時、自身が次のステージでブラッシュ・アップされていきたいなあと願いつつ。 |
Aug. 17, 2013 |
目からうろこ
「そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
また食事をとって元気を取りもどした。」 使徒の働き9章17-19節
目からうろこ体験というのはありますか?故事ことわざ辞典で調べると、「あることをきっかけに、今までわからなかったことが急に理解できるようになることのたとえ。」とあり、由来は聖書であるとありました。私は以前はこれは日本のことわざかと思っていました。物事というのは学べば学ぶほど、知識が増え理解ができるようになるものですが、知的に頭でわかっていてもそれ以上のところでいまいち納得、理解できない分野もあると思います。自分の思い込み、自分の長年建て上げてきた観念・常識、プライドといったその人個人特有ものが、何かを深く理解したり信じたりすることの覆いとなり、”見えない”状態になっていて、そのうろこが取られた時、はっとわかる、気が付いたりするものではないでしょうか。
昨日の聖書の学びでちょうどそのことわざの由来である箇所を学びました。2千年前、キリスト教徒を激しく迫害していたサウロという人が、突然、天からの強い光がさして地に倒れ、イエスご自身が「サウロ、サウロ、なぜ”私”を迫害するのか?」と語りかけられました。サウロは今まで、イエスはただの人で死んだのに、彼が復活して救い主だといっている、こんなカルトをぶっ潰さなければならないと、その信徒を殺そうとしていた矢先でした。「主よ、あなたはどなたですか?」とサウロは尋ねると、「私はあなたが迫害しているイエスである」と。その時目が見えなくなり、3日後に、彼はキリストの弟子アナニヤに祈ってもらって、目からうろこのようなものが落ちて目が見えるようになったのです。ここでサウロは迫害のリーダーが180度一転しキリストを信じ、大伝道者、大使徒となり、当時の世界にキリストの福音を宣べ伝え、新約聖書の半分以上が彼によって書かれるという、劇的大改心のストーリーです。
ここで、サウロは天からの光と、ただならぬ呼びかけに、とっさに「主よ」と呼びかけたのが昨日の話題になりました。誰かわからないけど、この時点で、「主よ」とサウロは応答したのです。”主”というのはタイトルで、主従関係の主人のことです。もしあなたが、”主”と相手を呼ぶならば、その人があなたの主人であって、ご自分は僕です。昔の映画等で、召使が「lord、ご主人」と呼ぶように。また聖書では、”神”という言葉をみだりにいわないように、神様のことを「主、The
Lord」と読んでいます。一般的に、もしみなさんが神にお願いをする時、神が自分の主人であるという観念はないかもしれません。キリスト教ではもし私が、イエス様を救い主として信じる時、イエス様が主人で、私は従う側となります。それだけ聞くと、「そんなのいやだわ、神は自分の言うこと、願いを叶えてくれる相手であって、なんで自分は僕なんだよ」と思われるかもしれません。
しかし、イエスは地上に人として来られた時、仕えられるためでなく、いつも忙しく人々に仕えておられました。神であるイエス様が、人間の僕として仕えられて、最後には十字架に掛かられて死に、そして3日後によみがえって、弟子達に現れ、福音を宣べ伝えるよう言われ天に帰りました。まず、イエスは仕えて下さった、それも私達一人一人を愛するがゆえに、ご自分の命を捨てて、私たちの心の暗闇に光があてられ、霊の目が見えるようになるために。それがわかると、喜んで、主よ といって仕えたいという気持ちに変わるものです。イエスは光そのものです。
真の神の愛というのは、何でも好きなものを与えてくれる、自分の思うとおりに願いをかなえてくれる愛ではありません。親が子を愛するがゆえに、子を思って、しつけ、子供の願いを全てきいてあげないように、神の愛はそれ以上に、私たちが想像しうる物事を超えて一人一人に働かれる神です。またイエスはご自身を私たちの”友”であるとも言われ、そして「なぜ私を迫害するのか?」とサウロに言われたように、イエスはクリスチャン、教会をご自分と一つとして見なされますから、単なる主従関係を超えた、信頼と安心のある愛の関係です。今日もどこかで、目からうろこ体験をされ、イエス・キリストが自分を愛しているんだ、遠いかなたの神ではなく、個人的な関係がある方なんだと信じる体験をされる方がおられますように祈りつつ。 |
Aug. 10, 2013 |
情報の氾濫と応答
「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」ヨハネによる福音書14章6節
今日は私の住むアパートに新しいケーブル会社が工事に来ました。ルームメイトがもっと早いスピードのインターネットとケーブルTV、電話のセット料金が今よりも少し安い会社に変えたからです。しかし実際は私のPCは古いのでスピードは同じ、しかし私は今のスピードで十分満足だとルームメイトに言いました。「昔、PCが立ち上がるのももっと遅かった、画面が変わるのがゆっくりであった時代を経験しているからね」。
現代は有史以来、スピーディに簡単に大量の情報にアクセスできる時代です。全ての情報が有益ではなく、有害なものもあり、また害がなくても選択肢がありすぎるというのも、自分のポリシーを固持していない人は流され、情報に踊らされることになります。情報の流出にはビジネスが絡むためどこまでも行きます。また情報は大衆を政治的に操作するのに用いられます。それを受け身で見ている人たちは、その情報にさらされているうちに、国家に意識や考え方が徐々に操作され、気が付くと”戦争はしかたない”となったりするわけです。以前はラジオ、テレビ、今では携帯の画面からばんばんメディアが入ってくる時代。何が必要か、何が優先順位かをはっきりしたうえで、賢く情報を選択していく必要を思わされます。
私はこの技術発展の恩恵を大いに利用させて頂き、感謝しています。具体的には私は聖書の学び、多くの日本・アメリカの牧師達の説教をネットで聞けて、自分が開いている聖書の学びの会で、皆さんにわかちあう情報の収集ができますし、何よりもまず自分がそれを聞くことで生活への適応を学ばされ、自分と神様との関係が、聖書を学ぶことでより深まります。イエス・キリストについてもっと知ることで、自分の欠けや傾向性、直すべき点を示されたり、また神様のたくさんの恵みに気づいて感謝できるのです。
イエス・キリストは、ご自身を真理だと言われました。我々が真理に触れたら、それにたいして個人的にどう応答するか、というのが今晩聞いていた牧師のメッセージでした。真理を知っていけば行くほど、この世界は偶然に出来たものでなく、創造主である神がいて、被造物である人間が神に背いて勝手なことをしてきても、神は愛を持って人間をケアし、神が愛しているということを理解できるようになります。しかしながら、ただ聖書を読んで、メッセージを聞いても、その人の人生や生活が変わらなければ意味がないと。なぜ変わらないのか?それは、その真理である情報、神のことばである聖書を受け身で、流されて聞いているだけだからだと。神の真理に対して、受け身ではなく真摯に個人的に応答していくと、ただの宗教を信じているのではなくイエス様との個人的な関係が与えられます。個人的に、ああ、イエス様が自分のために死んでくれたんだと信じられる、私が責められることがなく赦されて罰せられずに神との和解が与えられること、そのためにイエス様が十字架にかかったこと。同時にまたこの世の不条理な、罪のもたらす理不尽な悲しいこで傷ついた心をも癒すためにも、そして甦られて今も生きておられること。
人間でも誰かのために死ぬ人はいますが、それ以上何か永続する力があるでしょうか。死んだ先祖が生きている私たちを守ってくれる、という信仰が日本にはありますが、死んだ人にそんな力があるのでしょうか。もし人がそんな力を持っていたとしたら、この世はもっと今とは異なったものであったしょう。死んだ人の魂は残っていても、何の力もないのです。しかし、神であるイエス様が死んでよみがえられたことは、人に命を与え、絶望の人生を希望に変え、縛られている習慣、関係から解放する力があるのは多くの、信じた人の証しから本当だとわかります。
信仰は成長していくもの、キリストの恵みと知識で成長していく、自分が生活のなかでもっと変えられていくように、意識して神に祈ってもとめないと、と耳が痛い話でしたが、気が付かされ感謝です。 |
Aug. 9, 2013 |
二八(にっぱち)
「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。
しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。
主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」哀歌3章20-23節
商売で二八(にっぱち)という言葉をご存知でしょうか。日本では2月と8月の需要が落ち込み、景気の悪い月を言うそうです。私は振り返ると決まって毎年(2月は少し)8月に気分が落ち込みます。いつも同じことで、ああ今年も〜と自分を見て落ち込み、以前は気晴らしに何か新しいことをしようとトライしますが、それがお金ばかりかかって、根本的な落ち込みを癒すことはないのは経験上わかっています。最近は熊のように眠りに逃げるのですが、これもまた、眠りすぎると変な夢を見るうえ、だるくなります。
神様はいつもタイムリーにそんなニッパチの私を引き上げてくれます。おかげで落ち込む期間が年々短くなっており感謝です。今日の夜の教会での聖書の学びは、私のために用意されたかのように(そう、牧師さんは私の心を知らなくても、神様はちゃんと一人一人に必要なメッセージを用意してくれるのです)”落ち込んだ時”という内容でした。
今日の聖書の個所は古代ユダ王国時代の預言者エレミヤが書いた哀しみの歌です。彼は自国が神様に背き、彼を通して警告を神が何度も何度も言ってきたのに無視し、遂には神からお仕置きをうけ、バビロニア帝国に国が滅ぼされて、多くの人々は殺され、また捕囚で遠方へ連れて行かれ、国はめちゃくちゃとなります。しかし神様は決して全て滅ぼさず、70年後のペルシャ帝国時代にユダヤ人を帰還させますし、ユダヤ民族は今でも存続しています。なぜなら、ユダヤ人を通して、この世の救い主、イエス様が人として生まれるように計画されていたからです。また、神様が選ばれたユダヤ人が、神の送ったイエス様をキリスト、救い主として認めない状態でも、忍耐を持って最後まで彼らが信じるのを待っています。他の国民に対しても同様。神の愛の一つの特質は忍耐であります。
エレミヤは神様にそんな自国の状態を嘆いて、うなだれているようすを歌に書いています。しかし彼の歌はその悲しみで落ち込む、絶望の状態では終わらないのです。あることを思って希望を抱くことができると。それは自分の今の状態に目を留めるのではなく、決して最後まで見放さない、いつくしみ深い、恵み深い神に目を留めること。そして、何か神様から悔い改めを示されていることがあれば、その罪が神様と自分の間に壁を造り、恵みを受け取れない要因となっていますので、悔い改めて赦しを受け取ることも必要です。
他者から見ると、そんなことぐらい〜と小さな些細な問題かもしれませんが、当人にとっては先が見えず、最悪深刻なうつ状態にもつながります。しかし、全ては神様の御手の中にあり、そこに委ねることができる、自分でがむしゃらに動いて、解決方法を探さなくてもいいんだとわかり、希望を持てる、このことが落ち込み、うつからの脱出方法です。絶望は命を奪い、希望は命を与えます。神は全能だし、しかも一人一人を愛を持ってケアできる方だからです。「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。」(26節)神様の救いを”静かに”待つことを身につけたいと思わされ、元気が出ました。何か気晴らしをしなくても、神様のことば(聖書のことば)が一番の癒しが与えられることは、毎度本当に感謝です。 |
Aug. 4, 2013 |
The誘惑
「だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。 」
ヤコブ書1章13-15節
8月に入ったばかりなのに、朝夕はかなり涼しく、こおろぎの鳴き声が聞こえます。昼間の気温は高いですが、7月上旬にはアパートの前の芝生にて、蛍が幻想的ネオンを放っていたのに、NYの夏は思ったよりも駆け足で、秋の訪れは早そうです。
今日の午後は、スモールグループでの聖書の学びがありました。今日のお題は、”The 誘惑”。このことばの響きはどうしたってネガティブです。私は個人的に若い頃、男性の誘惑に弱かったです(ひえ〜超昔の話)、今でも克服できずにいるのは、甘いものへの誘惑。これ以上食べたら、体に悪いとわかっていても、つい食べ過ぎてしまします。あとは、人の批判を言いたくなる誘惑。悪いと分かっていてもしてしまう、これが誘惑に負けるという構図です。ですから、誘惑される分野は人それぞれ異なり、その人の弱い所を大概ついてきます。
以外だったのは、その誘惑さえも、それが来たときそれを退け、逆によい物を選び取るチャンス、聖書でいうと、御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制*1)を結べるよう、成長させられる機会ともなるという、発想の転換を学ばされました。誘惑されること自体は罪ではないし、この肉体を来ている限り、来るのがノーマル。誘惑を受けてそのまま走らせたら罪が熟します。また、誘惑の背後には必ずサタン:悪魔、見えない力が動いていることを意識することも大切です。
誘惑に打勝つには、ズバリ、神に従って、助けを求めることです。誘惑されて、最初わからずぼーっとしていて、そのまま引き込まれそうになっても、はたと気付き、まずい!と思ったときでも遅くはなく、その時にSOSを出せば、必ず神は逃れの道を備えて下さるということは、様々な人の経験談を通して聞いています。たとえ、誘惑に負けて失敗してしまった後でさえも、心から神に悔い改め(”悔いる”だけではまた繰り返します、改めるという決意、意志を伴う)、助けて下さい、誘惑を遠ざけて下さいと祈れば、その祈りは間違いなく聞かれ、もっと手前で避けられるように変えられていくのもありがたいことです。
誘惑に打勝つとは日々の生活での小さなことの積み重ねです。しかし、小さいことだと放置しておくと、ミクロのイースト菌がパンを膨らますように、重大な問題を引き起こしますので、早いうちに芽は摘み取り、神様に助けを求め対処したほうが痛い思いをしなくて済みます。痛い思い、恥かきの思いをしてきた私は、人の体験を聞いて反面教師で痛い目にあわずに素直に、神を信じて従うことをお勧めしたいし、自分自身も神に日々「誘惑を遠ざけて下さい」と祈ります。イエス様でさえ、人となられた時に、罪は犯されませんでしたが誘惑に会われたからこそ、私達人間の弱さに同情できるかただと聖書に書いてあり*2、単に、神だからと、天国で高見の見物ではなく、私達のレベルまで低くなってご自分も経験され、そして究極は誘惑に負けて罪を犯してしまっている私たちの、その罪が赦されるために、十字架に代わりに掛かって下さったのです。この大きな愛を思うと、ほんとうに有難いし、そのことを思い出すと誘惑に負けている場合ではない、イエス様だったらどうするかなあとという視点に導かれたいと願いつつ。
*1 ガラテヤ5:22-23 *2 ヘブル4;15 |
Aug. 1 , 2013 |
夏の痛い思い
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」
ミカ書6章8節
2008年の夏、私はちょっとした事故でけがをしました。後ろから転び、背中を瀬戸物の植木鉢の角にうって倒れ、あばら骨を挫傷。背骨をうった瞬間、息ができなくなり、一瞬死ぬかと思いましたが、無理やり息をしてなんとか回復。幸い骨は折れませんでしたが、しばらく痛くて動けず、仕事も休み、全治2週間と不自由な経験でした。
今、あの事故がおきた意味(原因ではなくて)を考えてみましたが、思い当たることは、その時期は、教会に通って奉仕をしていても喜びがない、まじめに物事をこなしていても、心に平安がなく、イライラが多く、苦い思いがあった時でした。神様はそんな状態から私を救いたいと思って、時々辛いことが起こることを許されるようで、その事故のあと、さらに病気も発症しと、さすがに表面的に神を信じて従っているふりを続けられなくなるまで追い込まれました。
神様に対する心の態度、神はこれに目を留められるということを今日読んだ、古代ユダヤ王国時代の預言者ミカの個所から示されます。神様が求められていることは、”へりくだって、神とともに歩むこと”。立派な、良い人であればクリスチャン以外に5万といます。しかし、それらの方々がイエス様を信じていなければ、へりくだって神様と共に歩めないのです。真の神様に近づくには、イエス様を信じること抜きにしてはありえないし、神はイエス・キリストでもあると、聖書に書いてあるからです。”神の存在は信じるけど、イエス・キリストというのはどうも信じられない”、という人はつまり、異なる神、自分の信じやすいように作り出した都合の良い神を信じていることになります。これがキリスト教のなかでも起こりうるというのは、皮肉なことです。
信仰とは一時的ではなく、持ち続けるもので、その間、揺さぶられる不信仰の時代もあったりしますが、最終的には、神様が引き寄せて下さり、信仰も回復・成長させられるものだと、ようやく身を持って、分かってきたようです。5年前の私は、イエス様との関係が弱く、非常に傲慢で、苦い思いがありましたが、それを神様の前に悔い改めることをせず教会活動は続けていたのです。まるで、預言者ミカの時代の、宗教儀式をしていても神に従っていないイスラエル人のようです。
聖書は神のことばなので、聖霊によって書かれ、教えと戒め、矯正と義の訓練に有益だとありますが*1、まさに現代に適用できるのが有難いです。その後時間をかけて、イエス様とともに歩もうという態度が定着されたのは、まさに神様の憐れみと恵みです。そうすると、徐々に、神様が求められている態度に変えられていくことを信仰によって、期待しようと思います。ぜんぜん今の時点でも、このみことばの基準に達してないし、傲慢な分野がまだまだたくさんあります。少しずつ、聖霊の力で、高ぶりを砕かれて低くされ、変えられていくのに、一生かかるなあと。それにはとにかく、イエス・キリストと共に歩み続ける、現在進行形。 *1 第2テモテの手紙3:16 |