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Sep. 30 |
いつでもアクセス
「わたしたち は、信仰によって義とされたの だから、わたしたちの主イエ ス・キリストにより、神に対し
て平和を得ている。またキリストによって、いま私達の立っているこの恵を信仰によって導き入れられた(アクセスを得られた)私達は、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」ローマ人への手紙5章1-2節
()内は直訳
今まで使っていたパソコンが壊れました。幸いもう一台中古のものが手元にあったので、それをまた作動させて、データを移すという時間をかけたのも報われず、このPCもあまり調子がよくなく、いつ壊れるかは時間の問題です。現代はPCがないとインターネットにもアクセスできないし、文章も打てないし、とても不便です。スマホがあればいいじゃないかと。しかし、さらに追い討ちをかけるるように、今朝誤ってスマホを落とし、ガラス面が壊れ、終には作動しなくなり、携帯からのアクセスも遮断されました。涙。。。。
このように通信の全てのアクセスが閉ざされた時、いかにネット通信に依存している自分を見出すものです。いつも誰かと一緒にいるわけではないため、電話やネットでの人とコミュニケーションは貴重ですから、それができないのはやはり寂しく、不便なものです。
一方、いつでもどこでも、ネットもなくてもアクセス出来る存在が一人だけいるのが心強いのです。私にとって、”祈り”を通して神様とダイレクトにコミュニケーションを取れることは、非常に価値があることだと思っています。聖書を読んでいると、真の神という存在がどういう方か、またわたしのように小さな存在に対して何をしてくれているか、どう関わりがあって、いつか天で会えるということ等を全てではなくても、徐々に知っていくことで、ますます、そんな大きな存在、でも愛のある神様にダイレクトにお話出来るなんてすごい特権だと思わされ、ネットが少しの時間使えないことくらいでなんのその。(ただし、その買い換えるコストについて考えると懐が痛い。。。)。
神の子であるキリストは「私を通して天の父に祈りなさい」といわれました。キリストの名を通して祈るということが重要なのです。本当は私は直接神に祈れる存在ではないのですが、キリストが間に入ることで、「天のお父さん、天のパパ」くらい親しく呼べるのです。キリストを信じる者は、祈るとき必ず「キリストの御名で祈ります」と多くの人は最後に(最初や途中にいれる人もいますが)言います。祈りの順序・形式は問われませんが、誰に向かって(天の父に向かって)、誰を通して(イエスを通して)祈るかということが、祈りのキーであります。祈っていく回数が増えていくと、次第に祈りの内容も変えられていくのが不思議です。自分のお願いばかり祈っていたのが、人の必要のために祈る心も与えられ、ついには神さまの思い、神様がなさりたいことがなるように、自分の思いは置いておいて、となるようです。真の神に祈ることは、同時に神さまの思いを知っていけるよう帰られるプロセスでもあり、これは大きな恵です。これもすべてキリストのおかげで、罪があって、神の前に正しくない者、コミュニケーションするのにふさわしくない者が、キリストのゆえに、神の前に正しいと見てもらえて(義と認められて)、このようなアクセスが出来るからです。これは実は大きな犠牲(キリストが苦しんで私の罪のために死なれたこと)のゆえに可能であること、そのことを覚え申し訳ないほどに、しかしシンプルに感謝してこの特権を使わせてアクセスさせていただこうと思います。 |
Sep. 25 |
子つくり競争!?
「次に神はラケルを心にとめられ、彼女の願いを聞き、その胎を開かれたので、
彼女は、みごもって男の子を産み、「神はわたしの恥をすすいでくださった」と言って、
名をヨセフと名づけ、「主がわたしに、なおひとりの子を加えられるように」と言った。
」 創世記30章22-24節
聖書には実にたくさんのなかなか子供ができない妻達の話がでてきます。しかし、彼女らはみな夫に非常に愛されていて、”神様が胎を閉じていた”と表現されるように、それぞれ延ばされていた理由がありました。家を継ぐという慣習により、妻が複数いたり、めかけもいたりと夫婦関係は昔から複雑で、日本の大奥でも世継を生む女性の闘争があったように、世界のどこでも女性の戦いが繰り広げられるという悲しい性(さが)が伺われ、一女性として心が痛いです。
先日学んだ聖書の学びでは、約4千年前にラケルという美しい女性が色々事情があって姉のレアと同じ夫を持つ羽目になり、姉には子供が生まれるのに、自分には生まれませんでした。そしてこの姉妹の間に、自分達の女奴隷まで巻き込んでの子作り競争と発展。ようやく、神様が願いを聞かれてラケルに子供を授けた時、彼女は感謝するどころか「次の子も下さい」と。後に彼女は二人目を身ごもりますが、難産となり、子供の名を”ベンオニ:苦難の子”と名づけて亡くなりました。(夫は痛く悲しみ、子の名前をベニヤミンへと変えましたが。)
ラケルは姉よりも夫に愛され、子供も授かりましたが、命を失うという悲劇が記録されています。
ここから個人的に学んだことは、今あるもので満足すること、自分の願いがかなえられないからといって文句を言わないことです。ラケルは夫に「子供をください、さまないと私は死にます!」と、彼に訴えるのです。こういう祈りを自分も神様にしていないかと心を探られました。「〜をください(Or、もうこんな生活いやです!)、そうでなければ、もう生きているのが辛いです」と私は時々苦しいと、ついこんなふうに神様につぶやくことがあります。まずい、これってまるでラケルのようだと、反面教師で悔い改めさせられました。
いつでも、どんな状況でも神様に感謝することをできるはずです。しかし、”ないこと”・”辛いこと”に目を留めると不平不満、そして不信仰になり、忍耐を欠き、自分の苦い気持ちを持ち続けてしまうからです。キリストが自分のために死んでくれたほど、それ程大きな愛を受け取っているのに、なぜそれだけで満たされないのか。ほんと耳が痛い学びでした。聖書は現代においても、昔書かれたことが教え戒めとなるのでありがたいです。
もちろん、神様は助けてくださる方、必要なものは与えて下さる方なので願っていいのです。ただ神様の計画・タイミングと自分の願いは異なることが多い。しかしながら、結果的にはもっと良いものを神様は下さるので、”いかようにも”と任せて祈る信仰:御心のままにーが与えられたいと思わされました。 |
Sep. 21 |
倍返し
「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。」ローマ人への手紙12章19節
今日本ではやっている「半沢直樹」というドラマにより、今年の流行語大賞は”倍返し”になるのではと、言われるほど話題になっているそうです。私は観たことはないですが、粗筋を人から聞けば大概把握できますし、自分がバブル時代に入社した年代ですから、想像はつくものです。少し切り口は異なりますが、水戸黄門というドラマがあり、悪代官に裁きをつける天下の副将軍が、庶民の立場にたって悪をたたくドラマは、誰もがみてすっとするものです。人は、自分ができないこと、言いたくても言えないことをドラマや他者がしてくれると、そこに感情移入して喜ぶものです。ちょうど、スポーツ観戦と同じ興奮です。私も信仰を持つ前は、職場でいじめられそう?になったら彼らより上の人を使って、ぎゃふんといわせようとしたことがあり、そのときは高笑いしていましたが、後味はよくないもので、そういうことをしたことを後悔し、今はできません。
イエス様は右の頬を打たれたら、左をだしなさい、敵を愛しなさい、また敵には良くしなさいと、世の中とは真逆のことを言われました。また聖書では、復讐は神がすると約束されており、たとえ今悪がはびこっているようであっても、必ず神が裁く日が来るのです。(それが地上でか死んだ後かわかりませんが、少なくとも死んだ後は皆裁かれます)。一方、神は悪人が亡びるのを喜ばないと、言われていますし、つまり裁かれる前に悔い改めて神を信じてほしいと願っているのです。
2000年前に迫害された当時のクリスチャンは決して、戦いませんでした。逃げたり隠れたりはしますが、無抵抗でした。そして殺されても天に行けることを確信しているので、ローマ帝国自体の厳しい迫害の中でもキリストの名を否みませんでした。一方、祈りという霊的戦いをしていました。残虐な皇帝、独裁者の背後には必ず悪霊の親玉・サタンがいるからです。現代でもアフリカやイスラム諸国ではクリスチャンであることで、多くの人が殺されています。クリスチャンと称して歴史的に戦ってきた人々・国は自称であって、クリスチャンではありません。クリスチャンとは、”クライスト・ライク”、キリストみたいな人だなあと、当時アンテオケという今のシリアの街で、ユダヤ人以外の人もイエス様の福音を聞いて信じ、キリストの教えに従っていたので、彼らはなんでああなんだろう、まるで彼らの信じているキリストのようだなあというところから呼ばれたそうです。ですから、私は自分が”クリスチャンです”、と言うのもはばかります、自分がぜんぜんキリストのようではないからです。でもそうなりたい、変えられたいと祈りつつ、求めていますし、自分が”キリスト信者”であることは大胆に言えます。
復讐は一回では終わりません。たとえ、どちらが善・悪であろうと、両者ともやられたらやりかえす、次の世代へ負の連鎖は続くものです。そして復讐しても、死んだ人は生き返らないし、結局次から次へとまた悪は発生してしまう、悲しい世の中です。人に罪がある限り、最後の終わりの日が来るまで続きます。そんな世の中で、唯一の希望はやはり、一人一人がキリストを信じて、希望をもち、キリストのように変えられていくこと、倍返しは自分がしなくていい、神さまが最終的には裁かれることを信じて、悔しくても、言い返したくても、見返してやりたくても、忍耐する、黙っている、場合によっては逃げる、そういう者に変えられて、平安と喜びを心に頂きたいと思わされます。世の中的には、弱い者と見下され、だめな負け組、性格に問題ありと評価されても、キリストを信じる者は、その人の資質や行い、能力に関わらず、キリストにあって勝ち組(勝利)だと聖書は約束しているので励まされます。 |
Sep. 16 |
りんご狩り(Apple Picking)
「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」 黙示録22章1節
秋晴れの冷んやりとした週末、NY州郊外にりんご狩りへ行ってきました。NY州はアメリカでも多品種のリンゴ(22種類)を栽培する州だそうで、そのうち日本のりんご2種類(ふじ、むつ)もありました。スーパーで売っている形のそろった小さいリンゴと異なり、とても大きいものがたわわに実り、もぎたてのリンゴをかじった時の新鮮な味は感無量。一日リンゴ一個は医者いらずという程、健康に良く、最近まともな食事をしていない私の体は喜んでいるようでした。
リンゴ園はとても広く、大きな柳の木の傍にピクニックエリアがあって、リンゴ狩りの前に、皆でランチを食べ、そしてギターに合わせて讃美歌を歌い、語られる聖書のことばの分かち合いに、静かに耳を傾けていました。子供たちはその傍らでかけまわりと、久しぶりに日々の喧騒から離れて平和で穏やかな時間を与えられリフレッシュ出来たので感謝でした。
今日の個所は聖書の最後の書簡:黙示録の最後のとろこですが、今の世界が亡びた後の、新し天と地の様子が書いてあります。水晶のように輝く川、そしてその川のほとりに命の木があって12種類の実が毎月実り、その木の葉が人々を癒すと。どんな実なんだろうと想像してみます。またその葉っぱに癒し効果があると。
新しい天と地を経験するのはまだいつになるかはわかりませんが、人間の欲により、破壊され、枯渇、摩耗していく今の地球に生きている間でさえ、その前味わいみたいな自然の美しさと静かな時を持つことが出来ます。その自然を通してもこれらを造られた神様の存在、偉大さに畏敬の思いを持ち、讃美をすることが出来る、心から神様をほめたたえられるのは幸いだなと思わされました。 |
Sep. 12 |
一つだけ誇れること
「主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。
9:24誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。
」 エレミヤ書9章23-24節
次回のオリンピック開催地が東京に決まりました。オリンピック需要による景気上昇の明るい兆しが、日本にも見えてきたのではないでしょうか。オリンピックの選手達は練習に練習を重ね、また精神力・集中力も鍛えと、勝敗は別としも、出場して競い合うことが出来るという経験は貴重であり、彼らの人生の誇りでもあると思います。
私は下手の横好きタイプで、どれも極められない為、何も誇るものがありません。たとえこれが得意というのがあったとしても、世の中には上には上にがいるわけで、誇れる程でないのです。こんなことを言うと、よく母親に「あんたは自己卑下し過ぎよ!」と言われます。いわゆる自己評価(Self Esteem)が低いと。一方で私の中には隠れたプライドみたいなのがあり、人様の前で恥ずかしいので表にださないだけで、小さな誇りがたくさんあるようで、それを一つ一つ崩していく必要があると思わされます。
今日読んだ個所は、そんな私に励ましを与えてくれました。何も誇れなくても、一つだけ誇れる、そしてそれを神様が喜んで下さると。真の神がおられること、そしてその神はただ私の願い事をかなえてくれるご利益宗教の神ではなく、慈しみ深く、公平で正義を行う方、何よりも一人一人の心の深い部分をケアしてくれる方だと知っていることを誇れるのです。確かに、誰もが神様を知っている(信仰が与えられている)わけではない。もちろん、信仰は誰にでもオープンなのですが、自分の意志をもってして信じようと思わない、思えない人もいます。私はこの頼りがいのある、愛のある神を知っていること、このことを胸をはって誇っていいんだと、ぜひ他の人に知らせたいと思うほどです。
自分の持前の技能、努力、家系、お金、誰かの世話をすることで自分のプライド(自分の存在価値)を持っている人は、それらが永遠に続かない、保証もない土台の上の誇りだということを、改めて考えてみたことがあるでしょうか。それらを失ったとき、もう立てなくなる、ぽかんと心に空洞があいてしまい、そしてそれを他のことで紛らわそうとするか、あらたなものを探す。どうせ、探すならば、永遠に続く、確実な真理である、イエス・キリストを求められることをお勧めしたいです。
「求めよ、さらば与えられる、探せ、そうすれば見つかる、門をたたけ、そうすれば開けられる」とイエス様はいわれましたが、神は求める者に必ずご自分を表され、信じられるようになるからです。期待を裏切ることはありません。神の愛は私たちが”自分が正しい”というプライドがそぎ取られた時初めて受け取れるものです。キリストは正しくない者のために十字架で代わりに死なれたと聖書にかいてあります。自分が正しい、悔い改めることもないという人とはキリストは何の関係もないのです。しかし悔い改めがあるところに、赦しがあり、キリストを信じる信仰に繋がります。 |
Sep. 7 |
”心が亡ぶより、心を配る”
「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」
詩編41章1節
今日は秋晴れのすがすがしい日。私は家でゆっくりし、用事を済ませて、バイブルスタディの準備等で部屋で過ごしていました。すると、台所でルームメイトがビーフシチューを作ってくれていて、おすそ分けに与れ、感謝です。最近全く料理をする余裕もなかった私は、いつも適当な食事かスナック。まともな食事を食べたのはお友達の誕生日の会食くらい。先日「体調が悪いの?」と上司に心配され、まずい、顔に疲れが出ているとはっとしました。私の疲れている顔や態度を見て心配してくれた上司に感謝です。確かにこの2週間は仕事は忙しいし、遅くまで外出の日が続きと、心身とも疲れがたまっていました。
忙しいという漢字は”心が亡ぶ”とかくように、やることをこなすことで時間を費やして、他者を心配するとか(自分の心配でなくて)、いろんなことに心を配る余裕がないのはよくないと思わされます。
今日の個所では、体や心が様々な事情で弱っている人に、心を配る者は幸いだとありましたが、自分が直接的には関われないとしても、その方のために真剣に祈ったり、また祈るだけでなく行動にも移さないととも 思わされました。それも、人助けのためにやろうとすると、必ずしも自分の想定したようにことが進まなかったり、相手の反応、態度によってやる気をそこなったりしますし、自分の意地や頑張りでは続かないものです。その人の背後にいらっしゃる、イエスさまのために仕えようという思い・動機、そして自分が哀れんで助けていただいたように、神さまから受けたことを自分も目に見える他者へと仕えられるよう、変えられたいと願います。
しかし、体力のない私は、日々行動力の限界も感じます。しかし”あの時やればよかった”と後悔するより、無理してやって後で休めばいいこともあるようです。
「主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。」 マタイによる福音書25章44-45節 |