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信条・Statement of Faith
♪今日の一言♪



聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



(写真左:ニュージャージー州
から望むマンハッタン,NYC)
旧約・新約とは? ゾンビ退治
ジーザスって誰? ぶどうの木と枝 グローリーとは? /
否定的な思いが来る時 総理大臣のために祈る!? 論争はさておき /
パッション 福祉制度のベース コミュニケーション能力と神の力 /
完璧なアフターケアー 収穫の働き人募集! 地下700Mでの精神的支柱 /
竜馬みたいなリーダー
だったらついていける?!
夢中になるもの 誰が偉い? /
天国への引っ越し %以上の出会い ノーベル賞受賞とその適応 November 2010
裁判制度と恩赦 蟻と人の知能 無力を感じる時 September 2010
聖餐式の意味 人をもてなすの意味 畑を耕す二頭立ての牛 August 2010
(以下今月分日付順)
Oct. 28, 2010 (Thu.)  "ゾンビ退治"
「『おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ』。9節:心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。『主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである』」。エレミヤ書17章10節

 明日から2泊3日で札幌へ行き、お友達を訪ねたり、札幌で宣教しているミッショナリーの方々とお会いする予定です。私は札幌で紅葉が見れるかと思いきや、なんと昨日から雪がふり、それも結構積っているというニュースを見、先方にも電話で確認してびっくり。日本は、10月にしてこの寒さ、実に72年ふりの寒さだそうです。夏が暑かった年は冬も寒いとよく言われますが、本当にあの猛暑はなんだったのか?というまもなく秋を通り越して冬となってしまいました。
 今日の箇所は、水のほとりに植えられた木は暑さもへっちゃら、ひでりの年にも、絶えず実を結ぶと。キリストは、譬え話で、”私はぶどうの木、あなた方は枝です。”とキリストにつながっていれば、愛の実を結ぶと約束されました。素の私は、キリストにつながっていないとすぐに、自分でも気がつかないうちに、何かしらないけれども悪というか苦いことが心にわいてきたりします。
 今日の箇所の9節の別訳では「人の心は何よりも陰険で、それは治らない、だれがそれを知ることがえきよう。」ともあります。私の陰険な心、キリストを信じてキリストにつながっていようと、聖書を読んだ時は思い出し、生活のなかですぐ忘れる私は、どうして?なんですぐに性質が変えられないの?とその心の葛藤にみじめな思いをよくします。心は陰険だし、もう死ななきゃ治らないという
そう、死ねばなおるのです!キリストを信じた時、洗礼を受けましたが、それは古い私のお葬式でした。同時にキリストを信じて新しく歩む出発の式でもあります。ですから、古い自分は死んでいるで、時々ゾンビのようにむくむくとこの陰険な心が肉体で生きているとわいてくる。でもそれはゾンビなので、すぐにキリストが退治してくれます。本当にいつまでも手のかかる、なかなか新しく変えられていかない人ですが、神様は忍耐をもってケアしてくださることに感謝です。Praise the Lord
Oct. 27, 2010 (Wed.)  "旧約・新約とは?"
「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。… しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。・・・・わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。 エレミヤ書31章31-34節

 今日は、教会で開かれているアメリカ人による英語クラスに参加し、テキストの一環で、英語でイエス・キリストの誕生のストーリーを皆で学びました。最後に、生徒さんが「聖書の旧約と新約って何?」と質問されたので、私のほうで簡単にポイントを説明。確かに、古い翻訳?新しい訳のこと?とよく間違われれます。
 説明した内容は:聖書のテーマは全体として一つであり、神様と人間について、そして罪をもった人間が神さまの計画でどのように救われるかが書いてあると、旧約聖書とは古い契約、映画「十戒」にあるように、神様から十の掟、それに付随した様々な決まり(律法と呼ばれる)、このルールを人間は守りなさい、そうすれば幸福になりますというのが、神と人間の間に結ばれた古い「契約」でした。そして律法を破ったときは、それに応じた罰(罪には罰があるように)もあります。
 一方、新約聖書とは新しい契約。古い契約:つまりいろいろな決まりを守ることによって救われるのではなくて、イエス・キリストを信じることによって救われるという新しい契約が、古い契約にとって替わったのです。旧約が最初に与えられたのは、罪とは何かを、人間がいかに自分の力でルールを守ることができなくて罪を犯してしまうことを示すため。だからこそ、イエス・キリストが人となって生まれ、自分の生まれながらの性質では守れなくて、犯してしまう私たち全ての罪にたいする罰を十字架でうけてくれた。このキリストを信じるだけで救われると。要は聖書全体はイエス・キリストによる救いが書かれてあり、私たちはそれを信じていますと。
 今日の箇所は、すでに旧約聖書中でもエレミヤという預言者を通して、神様が新しい契約をこれから与えるよと約束されているところ。つまり旧約と新約はつながっていて、一つの神さまの壮大な計画(天地を創造されたところから、キリストによる人間の救い、新しい天地まで)が書かれています。私は未だに聖書、特に旧約聖書は読んでいてもわからないところばかり。聖書は神様の霊感が与えられた人々が書いた書簡の集大成(旧約39書、新約27書、3X9=27と私は覚える)で、つまり”神のことば”ですから、昔の話しではなく、今も生きている私たちの生活に適用できるから非常に不思議で、毎回読めば読むほど新しい発見、感動、教えがあります。また、牧師が教えてくれる(いわゆる説教、メッセージ)ので、それを聞いて毎回新しい学びがあること間違いなし!ぜひ読んだり、聞いてみることをお勧めです。Praise the Lord
Oct. 26, 2010 (Tue.)  "グローリーとは?"
「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」
第一コリント人への手紙10章31節

 私の好きな俳優の一人はデンぜル・ワシントン、特に彼の出演した『グローリー』(Glory、1989年米映画)では、アメリカ南北戦争にて実在したアメリカ合衆国初の黒人部隊の兵士役を演じていました。このタイトルのグローリー(栄光)とは何かと考えたことがありますか?辞書で調べると”大きな名誉。輝かしいほまれ”とあり、要は何かすばらしいことをした個人やグループをほめるこ時に贈られる言葉。
 私たちは誰かがすごいこと、立派なことをしたら相手をほめます。ほめられた人は、”いや〜大したことないですよ”と謙遜ぶるか”そうでしょう、すごいでしょ”と鼻高々になるか、いずれにしてもその人の功績をたたえます。 クリスチャンはちょっとこれと違うのです。個人や団体がしたことに対し、”〜先生は、〜さんはすごいですね!”と人をほめずに、すべて”神さまはすごい、すばらしいね”となります。それはその個人・団体を通して神さまの力や愛が表される、全て神さまのおかげだと思うからです。
 今日の箇所、キリストの弟子パウロはこの手紙で信者にこう書いています。(10章23-31)”私たちは何でもする自由はあるよ、でも全ての事が益にはなるとは限らない。とにかく何事をするにもすべて神の栄光のためにしようよ”と。では、具体的に何が神さまの栄光となるのでしょうか?イエス様は栄光について「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父(天の父、神様)は栄光をお受けになるであろう。」()は付記、(ヨハネによる福音書15章8節)と言っています。つまり、実を結ぶと神様の栄光となると。実を結ぶとは(今日の一言10月25日参照)神の愛を他者に実践すること。そしてキリストの弟子となる(キリストを主人として従って歩み、学ぶ)ことをもって”神さまはすごい!”と誉めたたえられるわけです。
 やってみようと思えばわかりますが、互いに神さまの愛で愛し合おうとしても、自分の力では出来ないですよ。だから神さまに助けてもらう必要があり、神の愛を下さいと願うと与えられなぜか関係が良くなったり、状況が変わったりする、全て神さまのおかげなのです。折にふれ、これは益になるか、実を結ぶにはどちらの選択がいいかを生活のなかで忘れずに取り入れていけますように、祈りつつ。Praise the Lord
Oct. 25, 2010 (Mon.)  "ブドウの木と枝”
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」ヨハネによる福音書15章5節 

 私の亡き祖父は北海道で小さいブドウ園を持っていました。そして今はその孫(私の従兄)の代が経営していて、ワインを製造販売しています。祖父もクリスチャンだったので、聖書にはイエス様がよくブドウ園に関するたとえ話をよくされていることを思い出して、ぶとうの栽培・収穫をしていたのではないかと思います。 
 当たり前のことですが、ぶどうの木から枝を切り取ってしまったら、その切り離された枝の部分にはぶどうの実はなりません。その木につながっているから生きていて、実がなるわけで、そのように、イエス・キリストがぶどうの木、私たちは枝だと。ブドウの木がブドウを実らせるように、私たちもキリストにつながっていれば、神さまの愛の実を結ぶと。その愛の実とは具体的に、弟子パウロが「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 」とガラテヤ人への手紙5章22-23節で書いています。こういう実が自分の性質のなかにあれば、人間関係うまくいくだろうな〜と。
 私は、キリストにつながっていないと決してこういう実は結べません。気分がいい時、少し慈愛の心を持てればいいほうでしょう。では、キリストにつながるとは具体的にどういうことなのでしょう?とその先の箇所を読み進めると、「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。」(他の訳では、つながる→とどまる、〜のうちにおる)7節、そして「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」12節 つまり、すべて愛し合いなさいということに戻ります。
 私たちが、他者を愛そうとして自分の地の力ではできなくても、「そのためには何でも求めなさい、それがかなえられます」7節と愛し合う目的のためには、神さまに願うとかなえてくれるという約束があるのです。この約束を生活の中での人との関わりで願っていきたいと思います。Praise the Lord
Oct. 24, 2010 (Sun.)  "ジーザスって誰?”
「神はそのひとり子(イエス)を賜わったほどに、この世(人間)を愛して下さった。それは御子(イエス)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネによる福音書3章16節
 
 日本に一時帰国している間、アメリカ人の友人で日本の大学で英語講師をしているRさんから依頼され、彼がキャンパスで開いているバイブル・クラス(英語による聖書の学び)にヘルプで参加している。聖書の内容は日常生活で使う英語以外のことばもでてくるため、学生さん達の理解を助ける為、部分的に通訳出来ればと。短い時間のなかで、学生さん達が熱心に聴いている姿に私も参加していて非常に励まされている。
 その流れで先日、そのRさんの家でホームパーティが開かれ、別の大学の約8名の彼のクラスの学生さん等が集まり、食後にRさんが聖書の話しを英語で短くされた。まず学生たちへの質問、「ジーザス(イエス・キリスト)はどういう人か知ってますか?」から始まり、18-19歳の日本の学生さんたちは、”ジーザスって誰?”という反応がほとんど。そのなかでも、「確か、未来を予言できる人」「人々に神のことを伝えた人」という答えもあった。日本のようにキリスト教文化が基盤がない社会で、ジーザス(イエス)は誰なのかという情報を知る機会のない人がほとんどなのだという現実を、今更ながら知るチャンスともなった。
 Rさんはイエス様がなぜ神の子なのに何故この地上に来たか、その目的を本日の聖書の箇所を開いて説明していた:イエス様の地上での活動は、学生さん達が言ったように預言をし、神のことを人々に話され、また多くの病気の人を癒し、奇跡を行った。イエス様がされたことのなかで一番重要なのは、十字架にかかり死なれたこと、私たちの罪に対する罰を代わりに受けるため、十字架刑に処せられた。しかし死んだら終わりでなく、3日後によみがえって天国に帰られたこと。このイエス様を信じる者はひとりも滅びず、永遠の命を得る→この肉体が滅びても新しい不滅の体が与えられ天国で永遠に神さまと生きるというのが、福音(ゴスペル、良い知らせ)なのだと。私たちクリスチャンはこの希望・福音を一人でも多くの人に分かち合いたいんですと。その後、夜遅いので私は早々に帰宅したが、学生さん達は夜中までゲームをして楽しんでいたとのこと。彼のクラスの学生さんたちが、少しでもジーザスとはどういう方かを知る機会がこれからも与えられるよう、Rさんとそのご家族を今後も祈りでもって応援したい。Praise the Lord
Oct. 23, 2010 (Sat.)  ”論争はさておき”
「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。 しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。」エレミヤ書1章5-8節

 11月にアメリカの次期大統領選にも影響を与える上院下院の中間選挙が始まるそうですが、アメリカ人は自分たちの利益・声を反映する政治家を熱心に支持し、選挙に臨む国民。日本人のように低い投票率(国政でも5割いくかどうか)とは本当に大きな違いです。アメリカ大統領選で昔から争点の一つとなる、プロライフ(生命重視、つまり中絶反対)、プロチョイス(産むかどうか親に選択権がある、つまり中絶賛成)。いかにアメリカでは、宗教的価値観と政治志向は密接に結びついているかが見受けられますが、大統領選以前の事としてそもそも聖書ではなんといっているでしょうか。
 今日から旧約聖書の中のエレミヤ書を順次読んでいく予定です。エレミヤとは、紀元前のユダヤ人の王国の預言者で、ユダヤ国が当時世界を制覇していたバビロニア帝国に捕囚につれていかれるまでの激動の時代を生き、若い時に神さまから、”実はあなたの母があなたを身ごもる前から、あなたを預言者として計画してましたよ”と呼ばれた人です。神様から預かった言葉を神さまにそむいていた王や人々に伝えると、暴力をふるわれ、牢に入れられと一貫して拒絶されながらも、最後まで同胞を愛し、神さまからのメッセージ”神さまの方へ戻っておいで”と呼びかけた嘆きの預言者と言われます。
 このエレミヤさんだけではなく、実は神さまは私たち一人一人に対しても誰から生まれて、この世でこういう使命を与えたいと計画されているとすると驚きです。弟子パウロによって書かれた手紙には「神はキリストにあって、…天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(エペソ人への手紙1章3-5節)とあり、この地球が出来る前からあらかじめ救われるよう選んでくださっていると書いてあるからです。一方で私たちはうまれながらに神さまのロボットとしてコントロールされているのでなく、自由な意思が与えられて育つように神さまは人を創造された。神さまを信じるのも、その使命が何かを探るのも、キリストを救い主として受け入れるかどうかも、神さまは信じろと強制されない方ですから、その人の意思も尊重されます。
 私はこの選びについて神学的な論争は興味無く、天国へ行ってから聞けばいいことで。それよりも、私が偶然にアメーバから進化して生まれたのでなく、生まれる前から、神さまが目的を持って私をこの世に送り出したんだということを信じていると、日々の単純な生活を 過ごすことにも意義があり、また困難に直面する時も「わたしがあなたと共にいて、あなたを救うから」と神様がいってくれるので安心です!Praise the Lord
Oct. 22, 2010 (Fri.)  ”総理大臣のために祈る!?”
「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈りと、とりなしと、感謝とをささげなさい。 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。 」
第一テモテの手紙2章1-3節

 今朝の朝日新聞(2010/10/22)「受難 中東キリスト教徒:武装組織暗躍相次ぐ」という記事で、アルカイダ系武装組織による中東諸国に住むキリスト教信者への暗殺・誘拐相続が増大し、欧州めざして続々とキリスト教信者が脱出しているとのこと。物騒な話しである。
 日本やアメリカという民主主義の平和な社会に住んでいると、一部のカルト集団による反社会的行為以外は非常に平和であって、とても個人の信条のために命を狙われるというような体験は想像できない。しかし、人は自分たちの中で正しいと思う”正義”や信条を名目に、人を殺す。キリスト教の歴史も残念ながらそうだった。カトリック 対 新教(プロテスタント)という戦争、十字軍としてイスラム教徒への戦い。結局キリスト教という名目を政治に利用して戦争や争いをしてきた。つまり、中世の”キリスト教国”と称していた国々の争いは、現代のイスラム武装組織の活動と変わらない。そして現代の戦争も同じである。
 キリストの教えは「敵を愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」「赦しあいなさい」なのですが、結局人間はその教えを守れず、キリスト教と称する国、また個人の活動に反映されるどころか、全くかけ離れているのが現状です。今日の箇所では、自分の国の王、政治家や大統領のように上に立っているすべての人々のために祈りなさいと、キリストの使徒パウロは同労者テモテへ手紙で書いています。必ずしも民主的な政治体制でない、独裁者政権のもとにあっても、かれらのために祈れというのです。当時、2千年前はローマ帝国が世界を支配、つまり皇帝による独裁です。クリスチャンが迫害されていたとしても、革命を起こして自由を得よではなく、祈れ、とりなしなさいと。無意味な、無力な活動に思えるかもしれませんが、神さまのやり方:キリストの教えは戦わず、”自分を脅かす権威であってもその人のために祈る”が霊の戦いの武器なのです。これは驚くべきことです。
 私は普段、アメリカの大統領や日本の総理大臣のために祈っていませんが、ここを読むと彼らのために祈ろうと思い出させられます。私の地の性質では、「こんな政治・政策なのに〜!」と色々文句をいいたくなりますが、私の心に住む聖霊が彼らのために祈ることを可能にしてくれるのです。私の小さい祈りと、大きな政治の変化とは無関係に思えますが、生活の中でそうすることが神の前に良いといわれていますからやってみようと。Praise the Lord
Oct. 21, 2010 (Thu)  ”否定的な思いが来る時
「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。”キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。”」第一テモテの手紙 1章15節

 時々、ふと昔以前自分が犯した過ちや恥ずべきこと、人を傷つけたことを思い出し、いや〜な気持ちになります。そして、キリストを信じてから、それらがみな赦されたと受け取っていたはずなのに、「今、そんなえらそうなこと言っているけど、昔のあんたはひどい・みじめな女だったくせに!今もあんたは何も変わってないよ!善人ぶるのはやめろ!」と責める思いがわいてきます。そのとおり、私は今でもみじめであわれな女です。だからこそ、イエス・キリストが今でも必要で、外側は変わらないけど内側は以前の私ではないのも事実。しかし、信じた後も多々失敗する時、この否定的な思いには結構カウンターパンチを食らいます。
 そんなとき、今日の箇所、キリストの使徒パウロが同労者テモテへ書いた手紙を読んで励まされ、否定的な思いを葬りさって下さいと祈ります。パウロはキリストに出会い信じるまで、逆にクリスチャンを迫害し熱心に彼らに暴力をふったり牢にいれたりしていましたが、”これらのことを信仰がなかったとき、無知なためにしたから”、神さまが彼を赦し、さらにそんな元クリスチャン狩のリーダーだった人を神さまは使徒・大伝道者として用いられたのです。本当はいくら悔い改めてキリストを信じたとしても過去にしたことは事実で、それに対する償いというか罰を私がうけるべきだったのに、それが無罪放免として赦され、なかったことにしてくれる。これを神さまのあわれみといいます。キリストが代わりに罰を受けてくれたから。
 さらに神さまはあわれみを下さるだけでなく、私にたくさんの恵みを増し加えてくれました。私はそんなに良くしてもらう資格もないし、ふさわしい者でもないのに。もらうにふさわしくない資格がないのに、与えられる神様からのプレゼントを恵みといいます。イエス・キリストがこの世に来てくれたのはまさにこのあわれみとめぐみをダブルで私に下さるためです。だから、すでに神さまが赦して忘れてくれた過去のこと、例え他人は覚えていて赦してくれないことでも(会って謝る機会があれば謝りたいですが、なかなか昔の人と会うチャンスは少ないのが現実)、この神さまの憐れみと恵みを感謝して後ろを振り変えず、与えられたものをそのまま信じようとすると、不思議とその否定的な責める思いが消されます。そして目標に向かって前進しようと思わされるのです。Praise the Lord
Oct. 20, 2010 (Wed)  ”コミュニケーション能力と神の力
「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。…それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。 」第一コリントの手紙2章1-2,5節

 今朝の朝日新聞に鳥飼久美子さん(立教大学教授、言語コミュニケーション論専門)の「これからの英語」というコラムが載っていた。英語は国際社会のでのコミュニケーションの手段、もはや英米国4億人だけの母国語でなく、英語を公用語やビジネスで使う世界の国の人たち合わせて約10数億人へ通じる共通語。だからその10数億人向けに、共通語として機能する英語であればいいという時代に入ったと。もちろん英語の基本の文法や発音は守られる必要はあるが、今までのように、アメリカだけで通用する英語を学ぶ必要はなく、多少アクセントや発音もパーフェクトでなくても、文脈で通じればいいでしょうと。これは私のような英語がうまくない人の負け惜しみではなく、実際通訳者としてかなりアメリカ英語を実務で駆使され、言語コミュニケーション論を研究してきた方の考察で、非常に実用的な意見だと思った。
 コミュニケーションは相手との感情、意思、情報などを、受け取りあうこと、伝えあうこと。確かに難しい言葉や専門用語をやたら用いるより、皆にわかりやすい言葉を使ったほうが相手によく伝わりますね。 今日の箇所でイエス・キリストの弟子パウロがローマの信徒へ宛てた手紙に書いているように、彼は人々にキリストの福音を伝える時、難しい言葉を使わなかったようです。彼は外国人(ユダヤ人以外)に向けて主に伝道していたので、第二外国語(ギリシャ語)でシンプルに十字架につけられたキリストについて、キリストを通しての神さまの人間への愛と罪の赦しを伝えていたのではないでしょうか。
 このパウロに与えられたコミュニケーション能力も大事でしたが、2千年前のITが発達していない、聖書も出版されていない状況の中で、キリストが世界中に勢いをもって広まったのは、コミュニケーションの方法や人の知恵を超えた次元で、神さまの力によって一人一人が信仰に導かれるのだと、今日の箇所からも教えられました。Praise the Lord
Oct. 19, 2010 (Tue)  ”福祉制度のベース”
「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。」イザヤ書58章6-8節

 日本ではお子さんのお受験のため、親御さんたちは大変御苦労されていると聞きますが、そのなかで”ミッションスクール”とはそもそもどういう意味かを知らずに、偏差値とか有名度でお子さんたちを学校に行かせている親御さんもいるのではないでしょうか。キリスト教を知ってもらいたいから、その”手段”として学校を設立したというのが創立者の志し・ミッションなのです。現代でも開発途上国のアフリカ・東南アジアにて、ミッショナリー(宣教師)系の学校・病院・施設がクリスチャン達によって創設され、運営されているのはみな同じ目的です。
 社会福祉の歴史を学ぶと、西欧社会でキリスト教・聖書の教えをベースに教育・福祉が制度的に確立されてきたことが分かります。日本では独自の地域での助け合い制度が江戸時代に発達してきましたが、幕末の日本が開国して以来、少数の日本人がアメリカに渡り、教育や制度を学んで政治・経済・教育そして福祉制度が日本に取り入れられてきたことは事実です。
 今日の箇所は紀元前8世紀くらいのユダ王国の預言者イザヤを通してのメッセージ。当時、王様を頭にユダヤ人社会全体は堕落、民も不正行為を行い、労働者を虐げ、弱者を搾取する一方で、形式的に断食という宗教行事をしていたことに対し、「そんな心の伴わない宗教儀式じゃなくて、困った人、虐げられている人に手を差し伸べることを神は求めているんだよ!」と。聖書では神様が他の多くの箇所でも、社会的弱者によくするようにと言っていて、これが現代の福祉制度のベースとなっています。
 私は自分の生活の収支の現実に目を向けると、人の事、もっと身近なことを言えば自分の身内にさえも構う余裕がないとなりがちです。しかし自分の状態がどうであろうと、神さまが自分にしてくれたことへの感謝として、目に見えない神さまにするイコール目に見える他者に何かしら小さいことでも良くすることをしていきたい。すると、自分自身が逆に癒され、そして何かしたことに対する手柄は自分にいくのでなく、神さまの栄光となる(手柄は神さまへ)。この聖書の約束は現代に生きる私たちにとっても適応可能、なんというか、強制感・義務感がなく、肩をはらずにやろうと思えるのは感謝です。Praise the Lord
Oct. 18, 2010 (Mon)  ”パッション”

「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと」イザヤ書53章6-8 (とが→罪科、過ちのこと)

 2004年上映の"Passion 0f the Christ"(パッション:邦題)というメル・ギブソン監督の映画を見たことがありますか?そのあまりの残酷な描写もあり、様々な意味で話題となりましたが、イエス・キリストが十字架で処刑されるまでの12時間が描かれたリアルな映画で、特にアメリカではこれを観て多くの人がキリストを信じるように導かれたそうです。
 今日読んだイザヤ53章は旧約聖書の中で最も有名な箇所の一つで、キリストが生まれる約700年も前(紀元前8世紀頃)に、当時ユダヤ人の預言者イザヤがメシア(救い主)がどのような死に方をするのか、それは何の為なのかを預言した個所。これが現代に生きる私たちとどう関係があるのか?聖書は神の霊感によって人を通してかかれたものなので、神から人への”神のことば”。だから現代に生きる私たちへのメッセージ。
 例えば私一人の人生分、生まれてから死ぬまでに犯しうる全ての罪(罪とは、刑法上の犯罪だけではなく、もっと根源的な心の性質:人を創った神を否定し、自分勝手に生きたいという思いも含め、神の基準から外れる状態)だけでも、もしそれに対する罰を累積したとしたら、軽度の刑ではすまないと思う。それが全人類分の罪に対する罰だとしたら、もう想像を絶すると言うか、それをイエス・キリストは痛みを感じる人間の体で受けて、死なれたのだとすると、パッションの映画で描かれた残酷さ以上ではないかと、私は映画を見て涙がとまらなかった。
 罪はそれ自体重大なこと。私たちは罪がどんな結果を生じ、どんな影響を他人に与え、どんなに神さまを悲しませているかを知らない。神さまは愛の神さまだから、罪を犯している私たちをも愛していて、そのために神の子キリストを犠牲にして罰をうけさせ、それを信じれば、私たちがその罰を受けずに赦されてしまうというなんとも不思議なやり方で、その愛を示されました。でも罪自体に対しては厳しい方。今日もこの箇所を読んで、その大きな犠牲、私のために残酷な刑を苦しんで死なれたんだと、厳粛な気持ちで、”ありがとうございます”と祈りたい。Praise the Lord
Oct. 17, 2010 (Sun)  ”地下700Mでの精神的支柱 ”

「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 …しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。 ローマ人への手紙8章34-39節

 チリの鉱山落盤事故により地下約700Mに閉じ込められた33人が、69日ぶりに無事救出されたというニュースは世界中の人に感動を与えたであろう。例え彼らを個人的に知らなくても喜んだ。この33人、一人一人のドラマがある。毎日新聞で一人一人の紹介が一言づつ書いてあった。"ホセ・エンリケス(54) キリスト教福音派牧師。精神的支柱に"という1行に目を留めた。やはりいたのだ、クリスチャンが!それも牧師。(南米だからフルタイムの牧師でなく、鉱山員との兼業もありうるだろう)おそらく、絶望の淵の中で、彼が神に救出を願って祈ろうと皆をリードし、希望をもつことを励ましていたと推測する。
 今日の箇所、使徒パウロがローマ人の信者へ宛てた手紙のなかで、パウロ自身、伝道旅行中に多くの危険に直面したことが他の書簡にも書いてある。その一つは、パウロがキリストを伝えていたことで、ユダヤ人から訴えられ囚人として船に乗せられてローマに向かっていた時、その船が大嵐に遭い船が何日も流されるままになったこと。同船の他の囚人や船員は神を信じていなかったし、絶望していた。が、この時パウロが嵐のさなかで、みな元気を出すように、必ずどこかの島に打ち上げられるからと一同を励まし、船は難波したが最終的に全員276人の命が助かったことが記録されている(使徒言行録27章)。
 今回のチリの場合もそうであったが、どんな患難、苦悩、危険が起こっても、必ず神さまは一人誰かをその中に送り、神さまからの希望のメッセージをそこにいる全員へ伝えるのだなあと。重要なのは信仰・希望・愛、いつまでも残るのは愛だとも聖書の約束です。Praise the Lord
Oct. 16, 2010 (Sat)  ”収穫の働き人募集!”

「イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。マタイによる福音書9章38節

 今日本では野菜も果物も高い!実りの秋と言われるように、例年この季節には安い果物等がたくさん店頭に並べられ、どの国でも収穫祭が地域で祝われます。今年はなんだか全てのものが小さくて、一個当たりが高いのです。私は仕方なく野菜ジュースを買ったりして。。。
 今日の箇所はイエス・キリストは作物の収穫で例えて、人々の魂のケアに対する働き人が少ないことをいわれています。2千年前は医療・福祉制度もない時代、また政権が独裁的な時代、多く人が生活の中で不安定で、病気になったら治る見込みがない、困っている人が多かった。現代社会はこれらの点ではかなり充実していますが(もちろん今でもアフリカやアジアでは2千年前とあまり変わらない農村もある)、心の病気は急激に増加、社会問題の多様化の中で、異なった次元の”飼うもののない羊のように弱り果てて、倒れている人”が多いのではないでしょうか? 
 キリストはそれを見て今でも深くあわれんで下さって、「私のところにおいで」と手を広げて招いて下いるのです。
 また、全て神様のスーパーパワーで様々なことを完了させることが出来るのに、なぜか神さまは不完全な人間を使おうとされるのです。天の神様にお願いして、人々をケアする働き人をもっと送って下さいと願いなさいと、イエスは弟子達に言われました。私も祈ろうと思います。牧師や宣教師という職の人だけでなく、私のような欠点だらけで不完全な人にも、普通の人にも、イエス・キリストを信じた全員に神さまは「行って福音を述べ伝えなさい」(マタイによる福音書28章19-20)と言われたので、同じ志で働く人を身近にもっと与えられたいです。言われたからやるというより、喜んで、うれしいことGoodNews:福音を他の人にシェアしたい(伝えたい)から。 。Praise the Lord
Oct. 15, 2010 (Fri)  ”完璧なアフターケアー”
「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」イザヤ書46章4節

 1998年に日本で、こんにゃくゼリーを喉に詰まらせ男児が窒息死し、親がメーカーを提訴した事件を覚えていますか?これはいわゆる製造物の欠陥により損害が生じた場合の製造業者等の損害賠償責任について定めた製造物責任法(PL法)にもとずいたケース。物を作った人はその製造物に対して責任を負うべきということです。皮肉なことに、企業側は訴えられたら困るからと、厳重な製造工程のもと安全な商品を作らねばと留意し、私たち消費者は守られ、安心できる面もありますね。
 創世記という聖書の最初の書簡に、神様は何もないところから、ご自分が天と地と人間、他生物を創ったと書かれています。神様は人に自然界を治めることを任され、またアダムとイブという最初の人をロボットのように造らず、彼らに意思を与えました。その結果、神様に従わないで、自分の好きな通りに生きることを彼らは選び、それ以来、人は生まれながら神様に逆らう罪が入ってしまい、好き勝手に人間は歴史上生きてきました。
 今日の個所はイザヤという紀元前の預言者を通して当時のイスラエル人、そして現代に生きる私たち全員に”わたしは創ったゆえ、必ず負い、持ち運ぶ、かつ救う”という完璧な責任とアフターケアーの約束を下さいました。神様はご自分が創ったもの:人に対して責任を負って下さり、人間のしでかしてきたことの損害賠償的なことプラス救済のため、大きな犠牲を払うことを決められました。それは神の子、イエス・キリストの命を犠牲にして、人のしてきたことの尻ぬぐいをするという方法でした。
 その救いのために、神の子、キリストをこの世に送ってくれて、十字架で私たちの罪に対するすべての罰を一挙に負わせ、罪によってアダム以来神様と壊れてしまった関係を修復してくれるようにしてくれました。こんな出来そこないの私のために。。と本当にありがたいです。さらにメーカーというより、”天のお父さん”と神様を親しく呼べる親子関係がキリストを通して与えられ、祈りを通して色々相談できるのが安心です。Praise the Lord
Oct. 14, 2010 (Thu)  ”誰が偉い?”

「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、”いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか”。 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、”よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。” 」マタイによる福音書18章1-3節

 幼子(未就学時位の子)のように低くなるとはどういうことなのでしょう?幼稚園くらいの子は体も小さいし、知識の面でも、技能の面でも大人には立ち向かえないし、知らないことがたくさん。。一方、幼稚園児は素直にいろんなことを疑わずに信じる傾向性があります。そしてだんだん、知恵がついていくと、そのままを信じられなくなっていき、目に見える証拠を求めていくものです。
 イエス・キリストを神の子と信じるとは、知識のある人にとって、非科学的な馬鹿げていることに思えるかもしれません。でもイエス・キリストは「私を通してでなければだれひとり父のみもと(天国)に来ることはない」(ヨハネによる福音書14章6節)とはっきりおっしゃっています。”心を入れ替える”とは、Before:なんらかの自分なりの”神”をもしくは”自分”を信じていて、自分はそんなに悪くもないから天国に入れる資格がある、別にキリストは関係ないと思う心から、After:自分が罪人だ、神様の前に正しくない、天国に入るのに全くふさわしくないと思う心にConverted(変えられる)こと。そう心がいれ変った時、素直にイエス・キリストが必要だと思えて、その罪から救う救い主だと信じられます。そして信じた時からが、低くなるとはどういうことかを学ぶスタートだと、私は思います。信じること、それで終わりでなく、霊の部分がキリストのおかげで新しく生まれ変わって、新しい歩みを始める。そしてゴールの天国へ向けて、キリストというモデルに従って一生かかって学んでいく。自分の力ではなく、神様の力と愛が注がれて、聖霊の助けで。”誰が偉いんですか?”→”私は多少はましでしょ”という驕りも削られていってほしいと思います。Praise the Lord
Oct. 13, 2010 (Wed)  ”夢中になるもの”

「あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、 そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。 」第一テサロニケ人への手紙1章9-10節

 私が10代の時、好きなアイドルがいました。ファンクラブには入る程でなくても、その歌手の歌を何度も聞いたり、TVでみて”かっこい〜”、”こんな人と結婚したら楽しいだろうな〜”とそんなあほな空想、ファンタジーまで広げたほど。でもアイドルはアイドル。一時的な興奮・楽しみで、決して私の心をづっと満たしてくれるものではないと子供ながらに次第に気がつき、夢中になることをいつのまにかやめていったものです。
 このアイドルとはidle, 偶像という英語が語源で、まさに太古の昔から人が何か拝むものを自分たちで木や石で作り、神として拝んできた対象でした。現代でもある宗教にも拝む像がありますが。結局、偶像とは何も”像”だけでなく、何か夢中になるもの、自分の心を満たしてくれるものとして、第一にするもの、例えばそれがお金、異性、名誉、スポーツとそれ自体が悪いことでなくても、それで心を満たそうとしあくまでも求め続け、しかし決してそれで心の奥底は満たさず、一時的な充足感で日々つないでいく、それがむなしいと気がつかず追求し続ける対象が偶像ではないでしょうか。
 今日の箇所で、キリストの弟子パウロは手紙から、テサロニケ人が以前は偶像を拝んでいたけど、人間が造りだした神ではなく、全てを創造された方、真の生きている神様を知って、信じ、その福音を”これこそ、本当に自分たちが求めていたものだ!心の深いところを満たしてくれる真理だ!”とうれしくてうれしくて、言い広めていたのを書いていると思います。
 フランスの数学者・哲学者のパスカルが彼の著書で、”人には心のなかにぽっかり空いた穴があいている、それを埋められるのはキリストだけだ”と書いているように、キリストの愛が私の心の穴を埋めてくださったので、もはや偶像を求めることに関心が行きません。もっともっと満たされていきたいです、キリストの愛の性質で。
Praise the Lord
Oct. 11, 2010 (Mon)  ”竜馬みたいなリーダーだったらついていける?!”

 「妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。 夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。コロサイ人への手紙3章18-23節

 ”竜馬伝”というドラマを見ていると、坂本竜馬みたいなリーダーシップがある人が上司だったら、夫だったら、親だったらついていけるかも〜なんて思えるほど、かっこいいですよね。しかし現実はそうではない人が自分の上に置かれる場合の方が多いと思いませんか。家族、職場、学校、地域とそれぞれが所属しているグループで、必ずしもリーダーとして置かれる人が、いい人で、能力があるわけでなく、逆に”こんな人についていけない”という人が自分の上に権威としておかれる場合もあります。そもそも、子供を見ているととても分かりやすいのですが(また自分が子供だったころを思い返しても)、誰も教えなくても自分の上に置かれた権威(親、学校の先生、サークルの部長)に”逆らいたい”という習性があります。”従う”という言葉が元来嫌いです。怖いから、仕方なく従う等、大人になればもっと、私だって特に欠点がある人、理不尽な人に従いたくない。しかし、自分がその立場になったらそんな能力や人格がないくせに棚に上げて。
 聖書はここで人間関係の権威について教えてくれています。しかし、こんな夫を尊敬できないし、従うなんて無理!と思う妻の方。でも夫はもっと大変です。キリストの愛で妻を愛せなんて、無理という夫の方!子供からすると、どんな親でも、親であるという事実だけで従わないといけないわけです。じゃあ虐待する親を?理不尽なことをいう親にどうやって従うのか?父親は、自分が親だからという立場でつい、悪気なくても子供をいつも苛立たせてしまう。また会社では(この当時のしもべにとっての主人と適用すると)こんな上司には従えない!会社やめてやる!と問題がいっぱい!
 神様は相手の欠点・理不尽なところに従え・敬えとは教えていません。神を愛するとは神の命令(互いに愛し合いなさい)を守ること。これを一番の優先順位に考え、この愛に反することを自分の上に置かれた人がするならば、”その部分”には従う必要はないのです。その点は神様の方に従う。でも秩序という観点でも今日の箇所の原則を人間関係に適用するとやはりうまくいくのではないでしょうか。いろんな理由で皆が皆逆らって平等を叫んでいたら何もうまくいかないことは事実です。男女は平等だけど、役割はそれぞれ異なると私は思います。逆にそういう苦しい人間関係にも神様に助けを求めると、不思議な突破口というか、置かれた位置は変わらなくても私たちの内側が変えられて、相手もなぜか変わったり、状況が変化したりすることがあると、私も経験ありますし、そういう証し(話し)を他の人から聞き、励まされます。様々な家族・職場状況もあり、仕方なく離婚・転職だってありえると思います。大前提は神様を第一にしていると、平和が与えられるとの約束を信じる。(「神は平和をえさせようとしてあなたがたを召されたのです」第一コリント7章15節)
 これって現実やろうとすると簡単でないし、何も変わらない時が長く続くこともあり、あきらめたくなります。ただ”約束を信じてやっていこう”と決めて、神様に助けを求め、不思議な変化が起こることを信じて、前に進んで行きたいです。Praise the Lord
Oct. 10, 2010 (Sun)  ”天国への引っ越し"
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」
ヨハネによる福音書14章1−3節(イエス・キリストの言葉)
 子供に先立たれる親御さん程辛いものはない。今日、約半年前に40歳の娘さんを亡くされたお母様とお話しする機会があった。「とっても、いいお葬式でね、まるで結婚式のような明るい式だったの!娘は、結婚したかったと言っていたし。皆さんへのお礼状は”天国へ引っ越しました”という明るいカードをだしたの。私も主人も年を重ねてきてるので、もうすぐ天国で娘とあえるねと、励ましあえるんですよ」とまだ日が浅いのに、本当に平安に満ちた笑顔で静かに語られた。もちろん、感情では悲しいしショックだったと察するが、感情よりももっと心の深い部分で、今日の箇所の”神を信じ、またわたし(キリスト)を信じ”ているから、天国で会えるという希望がはっきりあるのだ。
 天国への引っ越し。クリスチャンにとって、この肉体が死んだ後も永遠に天国で生きるとすると、この世での生活はほんの短い時間。キリストは、父の家(天国)に住まいを用意しておいて、迎えようと、また別の箇所でも、死んだら新しい体が与えられて結婚もなく、天使のようだ(マタイ22章30節)と言われました。天国では「もはや死もなく悲しみ、叫び、苦しみもない」黙示録21章4節。そして、今の生きている時も聖霊が心に住んで下さって、地上での歩みを助けてくれる。”そこは、愛がある住まいなんだ”と、今日の礼拝で牧師が言っていたのがすごく嬉しかったです。Praise the Lord
Oct. 9, 2010 (Sat)  ”%以上の出会い”
「そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。」コロサイ人への手紙1章6節(イエスキリストの弟子パウロがコロサイにいる信者へ宛てた手紙)
 
今参加している介護支援専門員の講習会で、ご主人の駐在で中東(リビア、クエート等)に住んだ経験がある方と知り合いになり、お話する機会がありました。私にとって中東の国イコール、イスラム教で、女性は顔を隠さないといけない、女性に対する差別や待遇が酷いというイメージ。もちろん、外国人にそれを強要はしないそうですが、とにかく文化的違いにより駐在生活が大変だったとお聞きました。
 近年このイスラム教国で、何十万人のイスラム教徒がキリスト教を信じるようになってきたという記事を読みました。日本は仏教国・神道国だから人口の1%未満しかクリスチャンがいないと、外国からもそう理由づけされますが、どうもこの熱心なイスラム教徒の国でさえもクリスチャン人口の%が日本以上に増加しているという例もあり、つまりその国の文化・宗教は福音が広がるのに決定的妨げにならないようです。また今一番勢いがあるのは、共産主義により徹底的に無神論を教え込まれた中国、それも貧しい農村地域で増加し、中国政府で公式に認められていない”家の教会”等を含めたクリスチャン人口が1億2500万名を越え、これは中国全体の13億の人口内で'10人中1人'だという記事も。
 ではこの文化・宗教を超えて、ある国では迫害されてまでもイエス・キリストのを信じるのはなぜなのでしょうか?今日の箇所にあるように、”神の恵みを知った時”人は、福音(GoodNews)を人に伝えたくて伝えたくてしょうがない思いに駆られ、どんどこ人から人へNewsは伝わり、キリストを信じる信仰が広まっていくようです。私も伝えたい思いに駆られます。でも、聞きたくない・興味ない・必要ないという方には無理にお伝えしません。いつかその方が、興味を持たれた時、ゴスペル(福音)をわかちあえたらなあと祈っています。そして、120人もいる講習会場でたまたまお隣に座った方が、中東に住んだ経験があり、またクリスチャンであると、2人とも驚き!日本で%以上の出会いでうれしかったです。Praise the Lord
Oct. 8, 2010 (Fri)  ”ノーベル賞受賞とその適応”
「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。」 ピリピ人への手紙4章9節 (イエス・キリストの弟子パウロがピリピの信者に宛てた手紙)

今年もノーベル賞の受賞者が日本からも科学分野で2人、日本人としてもとても嬉しいニュースです。何を研究して受賞したのか、その内容が化学という私のような素人には元素がとか説明されてもよくわからない人にとって、一番分かりやすのは、彼の研究内容が実際の生活の中でこういうものとして使われているよ(つまり適応)と説明されることです。例えばディオバン(商品名、血圧降下の薬)、日ごろその薬を服薬されている人を知っているので、とても身近で、彼らの功績が理解できます。
 弟子のパウロは、信者たちに、本日の箇所で、”実行しなさい”と書いています。これは耳が痛いです。聖書に書いてある教えは、別にクリスチャンでなくても、人間関係にとって良いこと、愛、徳となることが書いてあるとわかると思うし、でもそれを聞くだけで、(恵みを)受けただけで、見ただけで、”ああ、今日もよいお話でしたね”で生活への適応がないとは意味がないと。でも、これを自分の力でやろうとすると、ある程度気分のいい時は私はできるかもしれせんが、限界があります。私は信じていてありがたいのが、これを自分の力でやれと神様はいっておらず、聖霊の力、神様が力を与えるから求めなさいというところに、安心があるからです。いつも、自分の地の性格や能力でやろうとして、バーンアウトするわけで、そんなことを何度も繰り返し失敗しつつも、きずいて、”あっ、神様すいません、あなたにお願いするのを忘れてました!”と。そんな私を責めず、またやっているなあと、暖かい目で見守ってくれていると思うと、祈って力を得て、生活に少しでも適用していきたいと励まされます。Praise the Lord
Oct. 6, 2010 (Wed)  ”蟻と人の知能”
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」ピリピ人への手紙 2章9節(弟子パウロがピリピの信者に書いた手紙)

私は昆虫が苦手です。特に群をなすもの。ある日、台所に蟻の行列(それもアメリカの蟻でかい!)が出来ていたのを見つけ、キャーと悲鳴をあげると、なんとその一匹の蟻が振り向いて口をか〜っと開いたのです。その蟻は私の奇声に反応したのでしょう。私の勝手な想像は、この宇宙や人間を創った神様の知能と人のとの差は、人間の知能と蟻の差ぐらいなのかな〜、蟻は月面にいく知能はないし。しかし、それ以上の差に違いない、というのは神様は同時に何人もの人間のことが有史から分かるわけで、人間からのコミュニケーション:祈りもいつでもどこでも聞いているとすると、地上に存在する生物とは比較しようがない、想像を絶するものです。
 仮に、私が蟻とコミュニケーションするために蟻に生まれ変れるとしても、絶対なりたくない。不自由だし、すぐ死ぬし。今日の箇所は、キリストは全能の神なのに、嫌だと思わず、人間として生まれてくれて、罪は犯されなかったが、人間として普通に生活し、体の限界、誘惑、不自由さ、悲しみ、痛み、十字架刑にいたるまでの、さげすみ、拷問、そして死を全て味わってくれた。神様がなぜかキリストにそうさせることで、私たち全部の人間の罪を負って罰をうけ、救うという計画をたて、子であるキリストは父なる神様に従った。本当にありがたいと思う。こんなレベルまで降りてきてくれて、それも、人に”おれが神だ!従え〜”と権力をふるうのでなく、人に仕えるために来て下さった。それは人に謙遜とはこういうことだよと身を持って手本を示すためなんだなあと。私はキリストが自分の罪のために二千年前に死んで下さったことを信じて、そして手本を示してくれるキリストに従いたいと思います。もちろん、日々失敗するけど。Praise the Lord
Oct. 5, 2010 (Tue)  ”裁判制度と恩赦”
「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。マタイによる福音書12章37節(イエス・キリストの言葉)

昨日、Oさんという政治家が強制起訴されたことで、日本のニュースは持ちきり。私は昔から、、アメリカの裁判制度で多数決を導入してい陪審員制度というのに疑問。法律の専門家達によってでさえも、ウソをつく人もいるし、数少ない証拠や証言を通して、起訴されたある人を無罪・有罪と判決を下すのには限界があり、そのために三審制をとっていて、それでも冤罪が発生してしまう。つまり完全に人が人を裁けないのは、そもそも、究極的にはその事実を知っているのは犯人・被告、そして神のみぞ知る。裁判で有罪となると、被告は罰金か懲役等が科される。罪には罰が伴うのは、いわゆる子供のしつけのレベルでも、悪いことをしたら、するなと教えられ、叱られる、それでも続けるならば時にはお仕置き(押し入れにとじこめられて反省とか。古いね。もちろん過度の折檻は虐待でX)。そうして学んでいく面もあります。
 聖書では神様と私たちの間の関係をわかりやすく、法廷の場に例えることがあります。イエス・キリストは私たちの心の罪も含めたすべての罪を、責める為に来たのでなく、その全ての罪から救うために来ました。キリストが私の弁護人かつ、罰請負人になってくれます。私はその裁きの日に(聖書には世の終りに全ての人が裁かれる日があると書いてある)、自分の生まれてからこのかた全ての言葉や行動で、神様の基準に従って罪ありと裁かれますが、それをキリストはこう弁護してくれます。「確かに陽子はこれこれをした、しかし私を信じて悔い改めています、そして私が罰を十字架で請け負ったので罰は済んでます、恩赦にしてください」と、裁判官である神様に申し立てると、「分かった、じゃ、罪がないものとみなそう」と判決。変な話しですが、これを憐れみと言います。キリストを必要としない方は、この今日の箇所のとおり、自分で言い開きをし、自分が正しいことを神様の前に証明しなければならないとすると、大変です。神様は一人でも多くの人が、キリストの愛を知って、信じてほしいと願っています。憐れみを受けている私も。。Praise the Lord
Oct. 4, 2010 (Mon.) ”無力を感じる時”
「 すると、イエスは言われた、”このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない”」。 (イエス・キリストの言葉)マルコの福音書9章29節
 先週からづっと胃腸の調子が悪く、さらにひどい風邪をひき、そうなると、だんだんイライラしてくるのが私の悪い傾向性。具合悪い時に限って”〜をやって下さい”とか面倒くさいことを次々に依頼されたりするもので、容量が一杯になる。(依頼した相手は私の状況など全く知らない)基本的に、私はNoと言えない日本人で、頼まれたら断れないし、断るとものすごく罪悪感。そして自爆。一方、自分が好きなことについては熱があってもそのために出掛けて行く。そんな自分が嫌になります。以前はもっとそれが顕著だったので、その以前の私を知らない人は、"陽子さんが、イライラして短気だったなんて全然しらなかったわ〜"と言われますが。知る人ぞ知る。
 今日の聖書の箇所で、Osward Chambersと言う人は、こういうコメントをしていた。特に神様に仕えること:奉仕に関して、(例えば教会の小さな役割や、人に自分の信仰の証しをする等何をするにしても)もしあなたとキリストの間に何か(妨げるもの)があって、キリストにフォーカスしていなければ、無力だと。またその間にある問題を無視しないで、ちゃんと直面し、キリストのほうに持っていくようにと。もしこのプロセスをしないで活動だけやってもこの弟子達と同じで追い出せない、つまり力がないのだと。こんな、情けないことでイライラする、私のためにキリストは十字架にかかってくれたんだと思うと、本当に申し訳ないです。イライラの原因を委ねようと思いました。Praise the Lord
Oct. 3, 2010 (Sun) ”聖餐式の意味”
 「食事ののち、杯をも同じようにして言われた、”この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい”。 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」第一コリント人への手紙11章26節

最近はいろんなことを忘れてしまうので、よくメモに書き留めて、終わったのから消して行ったり、スケジュール帳・カレンダーに予定を書き込んでいきます。教会で、パンと葡萄酒(ぶどうジュース)が配られているのを見たことがありますか?あれは、2千年前から弟子たちが、パンと葡萄酒(ぶどうジュース)を頂き、イエス・キリストのことを思い出すためにこの儀式を行ってきています。今日は聞くところによると、10月の第1日曜日で世界聖餐主日というそうで、おそらく世界中の教会が聖餐式をしているかもしれません。私も受けてきました。
キリストの何を思い出すかと言うと、キリストが私たちの罪の罰を代りに受ける為に、十字架刑で苦しまれ死なれたこと、その犠牲のおかげで、キリストを信じるだけで罪が赦され、今まで断絶していた神様との関係に和解が与えれるという、その大きな恵みへの感謝、そして生きている間、キリストが死から復活されて新しいからだを得た、それと同じ神の力で、私たちの内側の性質がキリストのように変えられていくという希望。生活の中ですぐ、キリストのこの犠牲と愛を忘れてしまいます。忘れっぽい私は思い出すために毎日聖餐式をしたいくらいです。Praise the Lord
Oct. 2, 2010 (Sat) ”人をもてなすの意味”
「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」
第一ペテロの手紙4章9節(イエス・キリストの弟子ペテロが信者にあてた手紙)

聖書は二つの部分:旧約聖書と新約聖書から構成されていて、旧約はへブル語で、新約はギリシャ語で原本は書かれています。この”もてなし”のギリシャ語の意味は「見知らぬ人を愛する」だそうです。私はもてなすというと、大体、すでに知っている人を家に呼んで食事等を用意して楽しい時を持つというイメージ。。「もてなしは基本的には、見知らぬ人も、敵ではなく友として入ってこられる、自由な空間を創ることだ。もてなしは相手を変えることではない。むしろ、変化が起こる空間をその人たちに提供することだ。」とヘンリ・ナーウェンと言う人が書いています。その変化を起こすのは神様の不思議な力だと私は以前の職場の人間関係で体験したことがあります。
 現代の都市社会において、全くしらない旅人をもてなす機会というのは少ないと思いますが、すくなくとも家に招くという意味でだけでなく、”見知らぬ人を愛する”と置き換えると、日常生活に適応できるかなと思いました。通りがかりの人への親切や、長時間待たされる病院の待合室、バスの停留所で居合わせた人と、何気ない会話をかわすことなど。(もちろん、話しかけれて迷惑な人にしたら失礼ですが。)つぶやく、不平・批判を言うのは簡単、私は妹にボヤッキーと言われるほど、すぐつぶやがちです。そして”相手”が変わればいいのにと。自分にとって苦手な人を”もてなそう”とすると、何か変化を神様が起こして下さると期待し、大きなもてなしでなく、挨拶すること、ちょっとした言葉をこちらかかけること。つぶやきそうになったらそちへシフトしてみようと思いました。。Praise the Lord
Oct. 1, 2010 (Fri) ”畑を耕す二頭立ての牛”
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 (イエス・キリストの言葉)マタイによる福音書11章28-30節

 日本にいると、日本の社会問題をクローズアップした特集:就職難・児童虐待・介護等の番組を観る機会がある。重荷や苦労が一杯(もちろん良いこともたくさんあるけど、多く報道されるのは事件や問題)。
 クリスチャンになったからといって、お気楽な人生ではない。同じように困難や苦労・病気にも直面する。ただキリストを信じている人は、問題に直面した時まず、祈ってキリストのもとに行く、そうするとなんとかなるという心の休みが与えられる。それにとどまらず、問題に対応していけるようキリストから学んでいくというプロセスがある。つまり、問題が起こる時がキリストを信頼して任せる機会でもあり、そこで学んで一歩先へ行けるわけです。見えない神は見える人のネットワークや支援を通しても助けを与えられます。
 キリストが一緒に”くびき”(牛が2頭立て畑を耕す時にはめられる首輪、ベテラン牛と若い牛をペアにし、まっすぐ進めるようベテランがリードする仕組み)を負ってくれて、その比重はほとんどキリストにかかっているから軽いし、ベストの道への方向へひっぱっていってくれるんです。私も過去なんど引っ張っていってもらったことか。時々途中で立ち往生してしばらく止まっていることもあり、でも忍耐して待ってもらいました。そしてこれからも。Praise the Lord


   
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