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Oct. 31 |
いつくしむ眼差し
「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。」 マルコによる福音書10章21節
ある日の夕方、スタバのレジで待っている時、突然前方のおじさんが、何か店員と言い争いをした直後、私の方向にむかって買ったばかりのコーヒーをフロアにぶちまけ、店を去るという光景に直面しました。あと10センチでコーヒーがひっかかる距離でした。この人は、ちょっとしたことで怒ると自分をコントロールできず、まわりにひどい八つ当たりをしてしまう程、いつもいらいらし、苦い思いが顔にでている男性でした。以前の私だったら、「ふざけんな〜!やけどしたらどうすんだよ!」と心の中でまず怒りが沸くはずです。ところが、その時とっさに私は彼を”かわいそうな人だなあ”と思えたのです。もちろん、いつもこのようには思えないし、私のもともとの性質ではありえない反応です。これは私の心に住む聖霊がそういう思いを与えたんだと思います。何かおこると、子供も大人もぼそっとFワードをつぶやく、ひどい場合は相手に向かって、暴力的な言葉を言い放つのを街中でも耳にし、そのすさんだ心の表れにふれるにつけ心が痛みます。
イエス様は2千年前、ある金持ちの青年との対話にて「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。」とマルコは記録しています。そばで見ていた弟子達はイエスの言われることがその時は理解できなかったとしても、彼のやさしさ・きびしさ、つまり愛と正義が両立する人柄(神柄)を観察していました。この青年は様々な律法を守り、品行方正でしたが、たくさん財産を持っていたので、イエスの弟子としてついていく決心ができなかったのです。
イエス様についていくことの方がこの世の富を持つことよりも、永遠の視点で考えるともっと重要なことと信じられるか、と今日に生きる私達一人一人にも問われます。何も全財産をささげて宗教活動をしろという意味ではなく、心の態度がキリストに従って生きるか、自分のしたいように生きるかこの2者選択ということで、中間はないのです。私はなぜキリストに従って生きたいのかというと、強いられてではなく、洗脳されてでなく、自分の意思で自分をこれほど愛してくださっている神の子であるイエス様に、何もできないけどついていきたいと思うだけです。私はイエス様のような慈しみをもった眼差しをもてないし、感情の起伏が激しい、失敗ばかりの者ですが、イエス様は決して私を責めないのです。逆にその弱さを赦して下さる愛の方であるので、いつも安心できるところに戻れて、仕切りなおせるのが感謝です。
ところで私はこの青年のように財産を持っていないのですが、少ない手持ちについて頭の中で自動的に損得を計算してしまうのがくせです。そんな計算よりももっと内側の徳が高まるようなことを思い巡らしたいと、以下の箇所を本日読んで思わされます。「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。
金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
」*これは使徒パウロがクリスチャンに向けて書いた箇所です。クリスチャンになってもお金の誘惑はあるからこそ、このみことばを覚えていたいですし、もっともっとと生活の豊かさを求めるより、現状に感謝できるようもっと変えられたいです。
*第一テモテへの手紙6章7-10節 |
Oct. 24 |
久しぶりのフィラデルフィア
「神は天から送ってわたしを救い、わたしを踏みつける者をはずかしめられます。セラ
すなわち神はそのいつくしみとまこととを送られるのです。
わたしは人の子らをむさぼり食らう獅子の中に横たわっています。」 詩篇57章3-4節
私の弱点は眠気に勝てないことです。おかげで、今まで非常に危険な目にあいました(運転中の居眠り)、そして話をしている先生方に失礼をたくさんいたしました(目の前にすわって一生懸命話を聞くつもりがあっても、疲れている時瞼が。。).電車のつり革につかまって立ったまま寝る、家庭教師で生徒を教えている間、瞬間にジェットコースターに乗っている夢を見て、生徒にわけのわからないことを話してしまったりと。。。いくら、つねっても、たたいても眠気が襲うとコントロールが聞かないのです。一方、多くの方々が不眠で悩んでいらっしゃることを聴くにつけ、私は眠れれることを幸せに思えます。それだけ心の緊張が緩い状態でいられるから眠れるので、ありがたいなあと。
先日、以前フィラデルフィアにいた際通っていた教会、カルバリー・チャペルの水曜礼拝に出席することができました。ここは大きなアメリカ人の教会ですが、日本が震災時に多くの義援金を送ってくださり、また祈ってくれた教会です。ここには日本人の友人は一人だけで、もう一人のアメリカ人は震災時、日本に自分の仕事をやめて救援活動に来てくれた若者で、彼らと牧師さんと一年振りに会うことが出来て感動!牧師さんは再び日本のために、また私のNYでのミニストリーのために祈ってくれました。
その牧師がちょうどメッセージをしてくれた箇所が、本日の箇所です。古代イスラエルの王、ダビデが王になる前20代のときに書いた詩です。彼は先の王に命を狙われて数年にわたり逃亡生活でしたので、いつも不安定な状況でした。しかし”人をむさぼり食う獅子の中”(というほど、敵に周りを囲まれている状態)にあっても、安心して眠れるほど、神が彼を守り、慈しみと真を天から送ってくれていたことの感謝を詩に書き表しているところです。これってすごいと改めて思いました。目の前の問題、危機にも関わらず、眠れるのです。様々な思い煩うことがあったとしても、寝ることができる。私もよく眠りが与えられるのは、神様との信頼関係によるのだと改めて感謝。もちろん昼間眠くなるのは困りもので、これは私が自分を制止なければならない分野です。
眠りは人間に必須です。もしよく眠れない方がいらっしゃったら、すべてをご存知で、なんとかしてくださる真の神がいるということ、その神がごご自分の子イエスの命を犠牲にするほど私達を愛している、一人一人をケアしていることを知ることによる、平安が与えられますように祈りつつ。
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Oct. 20 |
挑戦!ぷちロック・クライミング
「主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
『静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる』」。詩篇46章9-10節
紅葉の美しい秋晴れの週末、NYの山のほうに教会の皆さんとハイキングへ行きました。「ハイキングといっても、ちょっと岩を登る大変なところがあるよ。でも無理なら、迂回路もあるからね」といわれまあ大丈夫だろうと高をくくっていた私。いざ目の前にそびえ立つ岩壁「え?これ登るの?」と腰がすくんでしまいました。普段全く体を鍛えていない私は、腕の力もないし、足腰もこんな岩のぼり落ちたらどうしよう。。。とにかくやってみようと挑戦。
途中で怖くて怖くて、バランスを何度か失いそうになることもありましたが、「重心をできるだけ岩のほうにかけるんだ。スパイダーマンのようにね」。そうか、スパイダーマンが、あんなかっこしてビルを登っていたのはわけがあるのかと納得。すると確かに安定して登れたりする。それでも、「これどうやって上がるわけ?私の足短くてとどかないよおおお。」「両腕で体を押し上げるんだよ」無理。無理〜みたいな場面がありましたが、皆さんのアドバイスと助けにより、悪戦苦闘しなんとか頂上へたどり着いたときは、「I
made it!」 やった〜!と叫びました。頂上からは周りの紅葉で色とりどりの山々が連なる美しい風景が360度広がり、本当に感動しました。
頂上でお昼ご飯を食べてから、牧師さんが聖書から短くメッセージをしてくれました。途中、とんびが我々の上を大きく羽を広げて旋回していました。野生のとんびを真近で見たことない私は興奮。鳥にむかってつい「ハーイ」と声をかけてしまい(失礼、お話の途中なのに)、とんびは、ぎょっと首をかしげてわれわれを見てまた優雅に飛んでいきました。帰りは迂回路でしたのでほっとしながら、山道をおしゃべりしながら降りてこられました。往復の車の中でも始めてあった方々とご一緒だったので、いろいろ互いに話が弾みました。自然の美しさに触れるにつけ、本当にこれを造られた神様はすばらしいと、おのずと賛美の歌がわきあがります。
山上でのメッセージは、時間に追われる忙しい生活の中で、「静まって」神様との時間をとること、これを大事にしようというタイムリーなメッセージでした。ニューヨーカーは東京の人並みに忙しいようです。だからこそ、週末都会の喧騒から離れ、体を動かし自然に触れ、聖書のことばを思いめぐらし、ほんと貴重な時間が与えられ感謝でした。またこれに登りたいか?というと、わかりませんが、仲間とのハイキング・フェローシップはお勧めです。
@The Mohonk Preserve, NY
これに登るんですかア?やったあ!頂上到達 |
Oct. 18 |
山でしゃこを追う
「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」
ローマ人への手紙5章3-5節
しゃことは何かご存知ですか?私はえびの一種、甲殻類かと思っておりましたが(これはえびよりさっぱりして美味しく、よく寿司ネタやフライにするそうです)、しゃこはキジ科の鳥でもあり、南西ヨーロッパとイスラエルにも生息するそうです。鳥好きの私としては、写真を見てかわいいなあと、彼らは短距離しか飛べず、地上をすばしっこく走るとのこと、彼らを捕まえるのは大変そうです。
古代イスラエルの王であったダビデは、先の王サウルに命を狙われ何年も荒野を逃げ回ったというつらい時期がありました。彼は何も悪いことはしていなかったのですが、サウル王は自分の王位がダビデにより取られるという、ねたみが理由でした。彼が軍隊を総動員して山の中をしらみつぶしにダビデを探しても、なかなか捕まえられない状態を、「山でしゃこを追うように」と表現されてます。しゃこは鳥であっても、高く飛んで逃げられないという限界があり、敵から追われたら必死です。でもそのすばしこさは、神がしゃこに与えている能力なのです。
後にサウル王が戦死し、ダビデが実際自身が王位につくまでの長期にわたる逃亡生活、どれほどつらかったことか、彼はそれを神様に詩という形でよくぶつけました。「主よ、いつまでですか?」(詩篇13章1節)と。しかし詩の最後にはいつも神様を信頼し、ほめ讃えているのです。苦しい時期が続く中、彼は知っていたのです、必ず神が助け出してくれると。彼は王となった後、失敗もたくさんしますし、彼の失敗のおかげで多くの民が死んでしまうこともありました。不倫をして相手のだんなさんを殺してしまい、自分の家族もめちゃくちゃになりと、決して聖人君主ではなかったと聖書は記録しています。しかしながら神様を信じ続け、悔い改めました。神様は憐れみ深く、忍耐深い、愛の方であるので悔い改めれば赦して下さいます。そして赦すだけでなく、ふさわしくない者でも神の計画のために用いてしまうのです。ダビデ王の家系から、イエス・キリストが人として生まれるようにされ、そのキリストが天で永遠に王としても治められると聖書では預言されています。
人にはそれぞれ、問題を抱え、それが長期にわたって解決しない、苦しい状態があるかもしれません。その中で絶望ではなく、希望を持ち続けるにはやはり神に信頼するしかないと思います。神がなんとかしてくれるという信頼関係において、”どうしてですか?あなたはこれを通して何をしめされたいんですか?いつまでですか?”とぶちまけてもいいのだと、ダビデの書いた詩より、私達も励まされます。その試練、苦難がただ意味もなく起こるのではなく、それを潜り抜ける過程でその人の品性が強くされ、神様にもっと近づくことで、その人に希望を生み出すと、今日の箇所は示しています。
真の神は、私達の天のお父さんで、その子供を愛してくれている、その子が苦しんでいるのを意味もなく、ほおっておかれません。イエス・キリストを通して、その名で天の父に祈りという形でアクセスできます。ただ、神のタイミングと計画は私達のものと異なるので、そこで信頼して、待つ、これができない。だから、その忍耐する力、品性もくださいと求めれば与えられるというのが今日の箇所の約束です。愛は忍耐*であると、そしてその愛は願えば、注がれるからと。 そのような神様との信頼関係が一人一人に与えられることを祈りつつ。
*第一コリント人への手紙13章7節 |
Oct. 17 |
金のプレート
「民衆がみな聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、
また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。
」 ルカによる福音書20章45節〜21章4節
私が日本で在宅の高齢者向け相談員(ソーシャルワーカー)をしていたころ、自転車で三鷹の市内を訪問で周っていました。ある時、お寺の横をとおり目についたのは、壁に人の名前がづらりと書いてあるのです。なんだろうと見てみると、ようはお寺にお金を寄付した方々の名前が彫られていました。ほお〜、そうかこれだけ貢献したことを、お寺が相手に感謝・敬意をしめすためなのでしょう。そして、今度は所かわって、アメリカにあるキリスト教のいくつかの教会で、「だれだれが寄贈、だれだれがこの補修のお金を献金しました」と、これまた金のプレートに彫ってあるのが掲示されてるのに目がとまりました。人というのは、とにかく自分がしたこと、捧げたことを他者から評価してほしいという思いがありますし、それに対して感謝を示すために名前をほっても別に悪いことではないです。しかし、こと神様にむかってすることであっても、人からの評価を期待してしまうのです。神様はそういう偽善は好まれないと、聖書にかいてあるのですが、他の宗教は別として、教会なのに??マークが飛び交います。人は弱いものです、私は人をさばく立場にはありませんが、人はどうでも、自分は聖書に従いたいと願います。
イエス様は2千年前、当時のユダヤ教の宗教家達が、表面的に儀式や神の戒めを守っていても心が伴わず、腐敗していた状態を見抜かれ、公然と偽善者だと指摘されました。また人目よがしに、神殿の献金箱にたくさんじゃらじゃら〜んとお金を入れている金持ちを見て、同時に、貧しいやもめ(当時女性は今のように自由に働く機会がないので、夫を失うと生活が大変でした)が自分の本日もちあわせのすべて、数百円の小銭をそっとささげるのもご覧になり、弟子達に「このやもめが誰よりも多く捧げている」といわれました。金額ではなく、やもめの信仰に目を留められたのです。(今日持っている小銭すべてを神様に捧げても、明日は神様が養ってくれるという信仰)また宗教家のように人前で善行をみせびらかすなと、そういう人たちは、人から評価されるのを意識しているからだと。人からの評価を得てしまったら、天からの報いは、もうないよと。「右の手のしたことを左手に知らせるな」ともいわれたのは、神に向かってするのであれば、隠れてやれと、すると隠れたところで見ておられる天の父が報いてくださるとイエス様は言われました。
マザーテレサという偉大な修道女もインドの貧しい人たちに仕えましたが、彼女は彼らの背後を通して目に見えないイエス様に向かって仕えていたそうで、結果的にノーベル平和賞用を授与しましたが、彼女は人からの評価を意識しませんでした。彼女は地味にこつこつと、反対にあいながらもインドで貧しい人たちに仕えることで、天国での神様が下さる報いを期待していたでしょう。
しかし、こと救いに関して、つまり人が罪から救われて天国にいけるのには、地上での行いと関係ないのです。キリストを、自分の罪からの救い主だと”信じるだけ”で救われ、他の条件や資格は問われず、行いではないのです。ですから、救いは神の恵み・プレゼントと言います。救われたあと、結果として神様のために(つまり人に)仕えたことは、神さまはもちろん覚えておられ、天国で報いはあると。具体的にはどんな報酬なのかは聖書に書いていませんが、イエスさまのたとえ話によりますと、多くの町を任せると言うように、天国でも何かお仕事はあるみたいです。しかし天ではもはや罪のない世界、新しい永遠に生きる体が与えられるので、お互い”あの人はたくさん任せられていいなあ”と比較したり、ねたみも卑下も、競争もないのです。
私はマザーテレサのような人にはとうていなりません。しかし、キリストのような(キリストのような愛のある性質)に聖霊の力で徐々に変えられるという、聖書に書いてある約束を信じます。自分の内側が変えられていくことは、地上で生きているときから喜べる、価値あるうれしいことと、感謝を思わされました。 |
Oct. 14 |
バーコード頭
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」エペソ人への手紙2章14-16節
先日、アメリカ人の友人が、私が日本人だということである質問をしてきました「日本でバーコード頭ってことばがあると聞いたんだけど、ほんと??」。日本に縁もゆかりもないアメリカ人が、どこからこのことばを聞いたというのが笑えます。「アメリカでは、昔マイケル・ジョーダンというバスケの選手の影響もあってスキンヘッドはかっこいいと、ファッションだけど、日本では禿をかくすのかな」。ずいぶん前私が大学生のころ、この髪型をしていた教授がおられたし、職場でも上司でそういえばいたなあと。最近はあまりみかけませんが、日本人以外にいわれると、なんだかレトロでもおかしいです。
この8月から定期的にアメリカ人の教会に通い始め、最初は一人も知りあいがなかったのですが、NYという場所柄外国人も多く、比較的入りやすい雰囲気の教会でしたので、何かしらミーティングがあるたびに、個人個人と話をかわすことでj徐々にこういうくだらない話題も含めて、互いに知り合っていき、親しくなっていくことができて感謝です。お互い文化や人種を超えて未知の世界が広がるのはエキサイティングです。もちろん日本語で流暢に話していられる仲間といつもいるのは楽です。でも、それ以上にイエス・キリストを信じているということだけを共通点にして集まっている集団(教会)は心の深いところで安心感があり、喜びがあります。
キリストの使徒パウロは、今日の箇所で長い歴史の中で構築されてきたユダヤ人と非ユダヤ人の間の隔ての壁を壊して、キリストを信じる信仰で一つにされたことを説明しています。アメリカに住んでいると、日本では気がつかない人種間の隔ての壁を感じますが、それらは信仰が一致していると一つになれるのが幸いです。そして一つの目的で同意して教会の中でも、外に向かっても活動していけるというのがいいなあと。もちろん問題のない教会はありません。人が集まるところですし、クリスチャンは自分たちが欠けのある、神の前に正しくない、聖人ではない人のの集まりです。だからこそ、自分たちの罪、咎、恥をイエスキリストが十字架で負ってくれたことを信じられるのです。
”教会は聖人の博物館ではなく、罪人のリハビリ病院”であるというのはある意味、近い表現の仕方がかもしれません。(ご自分が品行方正で、正しいと思っておられるクリスチャンのかた、ごめんなさい!)しかし、もともとイエスキリストご自身が「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」*といわれましたので、自分が特に悪くないし、罪人呼ばわりされる筋合いないという人はキリストとは無関係なのです。しかし、罪とはギリシャ語で”ハマルティア”といって”的外れ”という意味です。神の基準(的)から外れている状態を罪といいます。聖書を読めば、神の基準はかなり高いとわかります。
的外れのもの、不完全なものが、神の前に悔い改めてキリストを信じてその的外れを赦され、時間はかかりますが自分の力ではなく、聖霊の力で罪を犯さないように変えられ、キリストのような愛の性質が持てるように変えられていくと聖書に約束が書いてあります。開発途上でも、同時に新しく加えられた人にも仕えていく、ギクシャクするところがあったとしても、でもキリストが命をかけて愛してくれたんだから、お互い様だと赦しあえる、譲歩しあえる仲間が教会のなかで形作られていくことを願いつつ。 *マルコ2:17 |
Oct. 6 |
"尊敬する牧師の引越し"
「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。」 第一コリント人への手紙2章4節
”チャック・スミス牧師、(天国へ)引越し” 何気なくインターネットで他の牧師のメッセージを聴こうとしてPCを開くと、突然このアナウンスが耳に入りました。このところPCの調子が悪く、仕事の帰りも遅くてあまりニュースにアクセスできず、この知らせを知ったのは彼の亡くなった二日後でした。肺がんで闘病されていたのは知っていたので、ああ。。。と涙がでました。私はチャック牧師に個人的に会ったことはなく、CAにミッション・カンファレンス(宣教会議)に言ったとき、壇上で話しているのを見ただけでした。しかし、私の日本の母教会の牧師は彼の話をよくしていたし、チャック牧師のメッセージは非常に分かりやすく、ゆっくりと話される英語のため私にも理解することができ、彼のメッセージを通してどれだけ聖書を深く学ぶことができたことか、感謝しています。
神はチャック牧師を大いに用いられました。彼を通して60年代後半、アメリカですさんだ生活をしていたヒッピー達が、チャック牧師の教会に口コミで行きだして、どんどん救われ、CAのビーチで大勢の人が洗礼を受け、雑誌のTimeに”ジーザス・ムーブメント”として掲載されたほど話題になった程、大勢の人が彼を通してキリストを信じました。そしてアメリカ国内だけでなく、海外にもこのカルバリのグループの教会が広がっていき、私も東京にある、カルバリー・チャペル国分寺(ジーザス・コミュニティ)に行くようになって人生が変えられた者の一人です。私は今まで他の教会にいっていたのですが、信仰が不安定で、魂は死んだも同然の状態だったので(もちろん教会のせいではなく自分の罪のせいですが)、この教会を通して回復が与えられたことは、私の人生にとって大きな転機でした。
チャック牧師は、聖書を最初から順々に説教していきます。聖書を神のことばとしてそのまま、世の中に妥協して解釈を付け加えたり差し引いたりせず、愛をもってストレートに語る、世論をはばからずに説教をした方なので、かなり反対勢力も起こりました。しかし、彼のもとで多くの牧師達が育てられ、その彼らが牧師として送り出されて、まずは数人の聖書勉強会から初め、大きな教会へとどんどん成長していきました。フィラデルフィアにいたときも、その同じグループの教会に通っていましたが、こんなにたくさんの人がキリストを信じて人生が変えられ、喜んで礼拝をしている、奉仕をしている姿を見るにつけ、まさに”聖霊と神の力の現れ”の生きた証拠だと思わされます。私はチャック牧師のメッセージをいつも聞き、その聖霊に満たされた教えの深さ、知識の深さ、そして謙遜な態度を見習いたいと思いながら、自分の開いている小さな聖書の学びも彼の方式で、順々に学んでいます。
私達クリスチャンはこの体が生物学的に死んでも、魂はもっとよい場所:天国へ引越しなので、悲しいけれども、本人にとってはベストの場所です。地上でのキリストのために生きるという勤めを終えて、新たなライフが永遠に始まります。私もいつか引越ししたときにイエス・キリストにじかに会えることがゆるがない希望です。また多くの地上では会えなかった神の家族や、私の父ともまた会えるのが楽しみであります。チャック牧師のご家族に神様からの慰めが与えられるよう祈りつつ。 |
Oct. 5 |
かえるのお帰りコール
「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。
」 ピリピ人への手紙1章6節
NYは10月に入り、インディアン・サマーといって一時夏の暑さが戻ってきましたが、再び気温が下がったとたんに家の周りの木々の紅葉が始まりました。今週は仕事と教会のバイブル・スタディ等で帰宅が毎日遅くなる日々が続き疲れがたまります。2時間余りの通勤時間をなるべく利用しようと思いますが、やはり席を得ると疲れて居眠りし、最近よく乗り越ししそうになります。こちらの郊外は日本と異なり、電車やバスの本数が少ないため非常に不便で、多くの人は車で移動です。約半年間、自然に囲まれた郊外からシティへの通勤をがんばってきましたが、冬になる前にシティへ引越しを考えようと、今のルームメートに引っ越すことを伝えました。ルームメイトはショックを受け、なんでもっと早く言ってくれないのか(規定の一月以上前から一応告知していますが)といわれ、良い方々でしたから残念ですが、そうはいっても、バスが9時PM代で終了、それ以降は駅から徒歩30分は容易なことではないのです。夜中に歩いているのはいつも私だけで、時々遭遇するのは近所に生息する野生のスカンク殿!、ウサギさん、そしていつも見かけるリス君、プラスかえるの合唱によるお帰りコールです(笑)。
私は部屋探しでも何でも、あちこち見て探して決めるという労苦がいやで、だいたい1−2件みて、面倒くさいので即決、もしくは友人から紹介されたところをそのまま決めてしまうタイプです。もちろん知り合いの紹介が一番安心ですが、NYは住宅事情が厳しく、他人と生活空間をシェアするのでトラブルが多く、私の友人たちも苦労しています。シティはルームシェアでも家賃が高く、マンハッタン島から川を越えたクイーンズ、ブルックリンエリアでも安くはありません。前回はルームメイトが与えられましたが、次でも、家賃が手ごろで、静かで、お互いトラブルがないルームメイトが与えられるように探しつつ、祈っていこうと思います。すべてを望みませんし、住めば都で満足すべきなのですが、最低限の安心して住めるところが与えられるように。
日本からアメリカへ、そしてフィラデルフィアからNYに引越した時も、神様が導いているからと、何も保障も予定もないけど行こうと信じて単身スーツケース一つで約3年前に渡米しました。必要は必ず備えられるという信仰が与えられてるので感謝ですが、またジプシーのように移動し落ち着くまで苦労するのかと思うと正直楽しくはないです。しかし、神様がNYの地で、どれだけの期間がわかりませんが、キリストを伝えるために私を用いて、何かここで始められたのなら、それを完成させてくれるのもキリストである、という今日の聖書のことばに励まされて、がんばろうと思います。私は怠け者ですし、忍耐がない者ですが、、神様は私に対してづっと忍耐してくださり、私の欠点による失敗も、いつも軌道修正してくださるので、そのような方に依り頼めるというのが安心です。 |
Oct. 2 |
地下鉄の中での大喧嘩
「しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるからです。これらは、人を汚すものです。しかし洗わない手で食べることは人を汚しません。」
マタイ福音書15章18-19節
私が通勤で利用している地下鉄のラインはBronx(ブロンクス)というエリアを通ります。このエリアでは公共の場所でのマナーというのが皆無、切れやすい人々を多く見かけます。日本でも酔っ払いやマナーのない人たちがいますがそれと比類のないほどです。もちろん、席を譲る親切な人・普通の人たちもいますが、比率的にはおかしな人が目だってしまうのが残念です。
昨日も疲れて帰宅途中、ようやく席を得てゆっくりしようかなと思った矢先、乗客の女性同士が、どちらが最初に眼をつけたか知りませんが壮絶なののしりあいが始まりました。そしてそれぞれの彼氏がつかみかかろうとする女性を抑えていましたが、どんどん白熱。私はちょうど狭間に座っていたので、片方が相手にけりをいれようとジャンプしてきたので、私まで巻き込まれる寸前、するりとにゃんこのように逃げて他の車両に移りました。互いに興奮して、悪いことばを叫び続け、周りも唖然、というかそれを見てニヤニヤし、野次を飛ばす人もいる始末。私はこういう光景を見るたびに彼女達を気の毒に思います。こういう公共の場での争いは1度や2度遭遇するものではなく多発、ちょっと体にぶっかっただけで発狂される(私もそれを食らいました)、先日も路上で男女がつかみ合いの喧嘩をしていたという有様。幸い、銃の撃ち合いには未だ遭遇していませんし、私のアパートのエリアは静かで安全ですが、通過地点があまりよいエリアではなく、引越しを考えています。
若い時、自分が信仰を持つ前は感情的にむかついたりすると、独り言で悪いことばを使っていたことがあります。他人に対しては悪いことばで口論はしませんでしたが、身内には使ってしまっていたことがあり。今は悪いことばは使いません。それでもまだ時々ふと出そうになることがありますが、その場ですいませんと神様に謝ります。また、いっぱいいっぱいのとき、色々言われると、きつい言い方で相手に返してしまうのが、欠点です。しかしながら私はイエス・キリストを信じているので、失敗は多く、性格ばっかりはどうしようもないのですが、それでもイエスさまの教えに従いたいと思い、気をつけようと思うのです。イエス様に従うことは、神に忠実なだけでなく、結果的に人に対しても嫌な思いをさせないことになります。イエス様が「心からでる者→ことばが相手を汚す」といわれ、また使徒パウロも「悪いことばを一切言うな、むしろ相手の徳となることばを言え」といっています。悪いことばは相手を傷つけ、ひどい口論は殺傷事件に発展します。
今日の箇所は、イエス様の弟子達が彼らの慣習で食事前に手を洗うところを、洗わなかったのを見つけられ、ユダヤ人の宗教家達に責められました。すると、イエス様は「手を洗わないことが人を汚すのではなく、口から出ることばが人を汚すのだ」といわれました。口を制御することは難しいとも聖書にはあり、悪いことばでなくても、何気なく言ったことばで相手が傷ついてしまう場合もあるし、言い方ひとつで正しいことを言っていたとしても、関係がこじれますから、日々気をつけなければと思わされました。口をコントロールするというのは、地上で生きている間の課題で、自分の努力も必要ですが、最終的には聖霊に助けていただくしかないと。自分の変わらないところをあきらめずに祈り続けようと思います。 |