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信条・Statement of Faith
          ♪Today's Sharing♪

Dec. 2013

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言

新島襄の伝えたかったこと チラシ配り(ポスティング) 人の醜さを愛する@ドラマ: リーガルハイ” 虹の約束
Nov. 2013
Dec. 21, 13 "虹の約束"

「すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。」 創世記9章13-15節


 先日冷たい雨が1-2日降り続きましたが、その合間の朝ふと目をあげると、とても大きな180度に広がる虹をほんの数分間ですが見ることが出来、久しぶりに感動しました。誰でも虹を見ると、いいことが起こりそうな予感を持てたり、その神秘的な美しさにただ感嘆したりします。私はちょうど神様に幾つかのことを祈った直後に見たので、あたかも「おまえの祈りは聞かれているよ♪」と虹を見せることによって励ましてくれたようでした。
 聖書で最初に虹が出てくる箇所は、地球に大洪水が起こった後です。箱舟にのったノアと言う人の家族と、つがいの動物達以外は死んでしまいましたが、水が引いて、残された者たちが新たに世界を始める際、神が虹をノアに見せ、ある約束をされました。「このような大洪水がすべての肉なるものを滅ぼすことは決してない」と。
 今日は教会主催のJazz/Gospelクリスマスコンサートが開催され、開催場所が駅ビル上の為、通りがかりに配られたちらしを見て来て下さった方々もいました。軽快なジャズの生演奏と、牧師によるクリスマスのメッセージが語られました。メッセージの内容は”最高のプレゼント”について。
 はるか昔、神がなされた人に対する虹の約束は、人がどんなに悪であっても、神の裁きがあるとしても、洪水から救い出されたノアたちのように、キリストを信じる者を滅びから救うということを示す約束でもあります。洗礼式(バプテスマ)という儀式はまさにその型であり、イエス・キリストを信じて、古い自分は水の中に沈めて一度死に、水から上がると新しい自分が再び生まれるという象徴だと聖書に書かれています*。もちろん、本当に洗礼式で体が死んで生き返るのではなく、霊的な次元のことです。神からの最高のプレゼントとは、まさに、この約束のために必要であった、イエス・キリストのことです。彼ご自身がプレゼントで、すべての人に提供されていて受け取れるのです。誰でも。プレゼントはただですが、受け取らないとその人のものにはなりません。つまり、キリストを信じることが、そのプレゼントを受け取ること。
 このクリスマスの時期、一人でも多くの方が、本当のクリスマスの意味を知り、プレゼントを受け取って欲しいの願いつつ、虹の約束に思いをはせます。          *第一ペテロの手紙3章20-21節
Dec. 19, 13 人の醜さを愛する@ドラマ”リーガルハイ”

「しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」 ヘブル人への手紙9章26-28節

昨晩観たTVドラマにて(内容はえげつなく非現実的ですが)主人公弁護士が相手方の、”みなの幸せ求める”理想像をかかげたエリート検事に対し、「あんたには欠けてるものがある。それは人の醜さを愛することだ」といったせりふが興味深かったです。つまり、裁判において奇麗事ばかりいってないで、人に醜い部分があることを認め、それと向き合えという意味あいでしょう。
 この主人公の意味合いとは全く次元が異なりますが、私は常日頃から自分を含めて観察することは、人の心にある深い暗闇、みにくい部分、人に知られたくない部分に対しては、目をそらし、ふたをして秘めておくものだと。それが何かのことで強制的に明るみに出されたり、次の問題を生み出し大騒ぎになるのです。しかし、そこを隠さず光にだす、つまり自覚し悔い改めることは、たとえ痛みを一時的に伴ったとしても、長期的には責めや負い目から自由になると思わされます。
 人は心の暗闇を好みます。暗闇を持っていたいという面があり、それがある意味心地よいのです。暗闇の中にづっといると、突然の光はまぶしく、目が痛いから出たくないのですが、もし、光に一歩踏み出すと、その痛みは光に慣れてくるとおさまり、そして光の中ではっきり見えるようになります。
 イエス・キリストは全ての暗闇を照らす真の光としてこの世にこられました。彼は人々を暗闇から光に出すため、自由になるために来られたのです。人はその光を嫌い無視します。なぜなら暗闇の状態でいたいから。しかし、一時的には自分のプライドが傷つき、悲しい思いを伴うかもしれませんが、自分の内側の暗闇、罪があることに気がつき、これをどうでもいいとうやむやにせず、向き合おうとする時、有能な弁護士が登場します。その人は人の全ての醜さを受け止め、弁護し、暗闇から救い自由にすることができるのです。イエスは、優等生のような立派な人のみ愛するのではなく、神の存在を拒否し、みにくいままの全ての人とも向き合うためにこの世に人となって2千年前に来られました。それがクリスマスの意味です。
 ご自分が品行方正で、何も悪いところがないという、もしくは神なんか関係ないという方には関係のない話でしょう。しかしそういう人は、いつか死んだ後、全ての人がうける神の裁判の時に、ご自分で”全て自分は正しかった”という申し開きをする、つまり自身で弁護する必要あると聖書には書いてあります。「それができない、無理だ、自分は神の前に正しくない」と認めた人は、イエス・キリストという弁護士を要請できるのです。するとその弁護人は、ドラマ以上に奇想天外な弁護をしてくれるのです。弁護人はこう言います。「彼は確かに完璧ではなく、正しくないことがあった、彼の人生ではこれこれのことをしてきたのは事実。しかし、これらに対する罪はすべて弁護人である自分が、十字架でおって罰を代わりに受けておきました。よって彼に対する罰は帳消しとされており、恩赦となり、正しいとみなされます!」そして、裁判官である神の判決は「ではその人の罪を認めない」となります。イエス・キリストは一度は人となって生まれ、十字架で死なれましたが、今は復活され天で、日々私達を弁護してくれています。このことを信じてほしいと願われておられます。
 裁判ものドラマはとても面白いですが、聖書に書かれる裁判ものは想定外の、単なる人情ではなく、情け深く哀れみ深い神の愛に溢れた、現実の自分の人生と直接関わっています。
Dec. 9, 13 チラシ配り(ポスティング)

「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」 第一ヨハネの手紙 4章9節

 冬の寒さを少し感じる師走の日、久しぶりにチラシ配りをしました。バイトではなくて、教会で開催するクリスマス・ジャズ・ゴスペルコンサート*のチラシです。私の属する東京の教会では、定期的にイベントを開催します。そのたびに人海戦術で国分寺の駅の周辺にそのちらしを一軒一軒、ポストに配り、イベント当日の直前には駅前でバンドが演奏しながら、ちらしをまきます。するとその演奏に耳を傾ける人々や、チラシを見てコンサートに訪れる人が結構います。
 ちらしの宣伝効果は1000枚配って3人の効果と統計的にも言われるように、チラシを見て来るという人は本当に稀少です。今日はペアになって配りに行ったのですが、その方はなんと以前チラシを受け取って、一度捨てたけど、なんだかきれいなチラシだったので、またゴミ箱から拾いなおし、気が変わって、クリスマスコンサートに行ったという珍しい方でした。教会とは縁のなかったその方は、今ではキリストを信じて、ちらしを配る側に回っているのも不思議です。もう一人の男性も、以前なにげなく家のポストに入っていたこの教会のイベントのちらしを見たことを覚えていたと。(その時は捨ててしまったそうですが、後に会社の同僚から紹介され、やはり信仰に導かれています。)
 クリスチャンの人口は日本で1%以下と言われています。クリスマスはプレゼントをもらえる日、デートの日、ケーキを食べる日という意識しかない日本人に、クリスマスの意味をどうにか知って欲しいと願いつつ、一枚一枚ポストに歩きながら入れていきました。たとえ捨てられてしまったとしても、鮮やかな赤と緑のちらし上の短いコピー 「あなたを愛している方がいる」を一目見て、「これって何?」とふと目に留まってほしいなあと。それを信じるか、信じないかはその人の自由。そこには勧誘や洗脳もなく、自分で決めることで、そのためには正確な情報は必要です。
 イエス・キリストは十字架で死ぬために、2千年前にこの世に生まれてきました。それが自分と何の関係があるのだろうか?ゴスペル(黒人霊歌といわれるけど)は何を歌っているのか。歌にはメッセージ性があり、伝えたいことがこめられています。今年のクリスマス、音楽を通して伝えたい、この大事なメッセージ。

*クリスマス・ジャズ・ゴスペルコンサート
 12月21日 (土) 1:30PM~3:30PM (開場1:00)
@セレオ国分寺(JR国分寺駅ビル)8階 エルホール
12月22日 (日)クリスマス礼拝・ランチ 10:30AM~ 14:30 (@教会)
主催:カルバリチャペル国分寺、Jesus Community
http://www.calvarykb.org/ 
Dec. 2, 13 新島襄の伝えたかったこと

「わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。」エペソ人への手紙3章7-9節

NHK大河ドラマ「八重の桜」を観ています。昨日新島襄が天へ召された時のシーンに涙を流した。彼の最後のことば「グッバイ、また会わん」と言われたように、彼は信仰により再び最愛の妻・八重と天国で会えることは確信していたでしょうが、やはり別れは辛いものです。新島襄は日本にいる時から宣教師を通してキリスト教に触れ、アメリカに渡り、日本で初めてアメリカの大学を卒業した日本人となったそうですが、彼が同志社大学設立のため命をかけて奔走していた様子の根底に、彼の本当に伝えたかったものを感じ取りました。
 図らずも2008年9月にボストンに知人を両親と訪ねた時に、新島襄が卒業したアマースト大学に立ち寄る機会がありました。アメリカ郊外にある歴史あるキャンパスに立った時は、「同志社大学を建てた、明治時代のクリスチャンの人がここで学んだのだ」くらいにしか思いませんでした。もしこのドラマを見た後に訪れていたら感慨深いものがあったでしょう。
 彼が日本人に最後まで伝えたかったものは何か。それは表面的にはもちろん教育、近代思想、看護等社会的に必要なものでしょう。彼が死の床で最後に「聖書を呼んでください」と頼み、そしてその後妻とことばをかわし息をひきとりました。その読まれた箇所がこのエペソ人への手紙です。人が死ぬ時に最後に思うことが、その人が一番大切にしていたこと、志していたことではないでしょうか。彼はイエス・キリストの福音を、神の愛を日本人に伝えたかったのです。
 キリスト教は決して西洋の宗教ではない、全ての国民のためで、人がこの世だけで滅びず、永遠の命を得られるように、そのためには神様を信じず自己中心的に生きるという罪を認めてそれが赦されるためにキリストが十字架でしなれたこと、ここに神の人に対する愛があるという情報(福音)を知らなければ信じようがない、だからかれは伝えたかったのです。他の社会的なことはあくまでもツール、手段であって、結果的にそれが人の為にはなりますが、それら自体は人を救いに導きません。新島襄は死を目前にして自分の務めを「世々に隠された奥義にあずかる勤めがどんなものであるか」というこの聖書の箇所の著者パウロと同じ気持ちになったのだと思います。キリストの使徒パウロもその信仰の故に牢獄に入れられ、いつ死刑にされるかわからない時に、エペソの信徒宛に書いた手紙が聖書として残されているからです。
 私達は彼らのように大きなことを歴史の中に残せるものではありません。しかし、キリストを信じる者の希望とある意味この世での野望は、どんな小さいことでも、神の福音のために忠実にすること。このことは神の前に覚えられますし、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛、中でも大切なのは愛」と聖書に約束が書いてあります。人からの評価は、お金も名誉も家族もこの世だけのもので、死んだ時にもっていけないからです。一時的なことではなく、永遠に続くもの、残るものに生活のなかでも目を留めていたいと思わされました。
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