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今日のわかちあい
♪Today's Sharing♪

Jan. 2014

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
新春@ブルックリン、NY 実の在るカリフォルニア滞在 喜びの先取り
心かき乱される思い NY地下鉄の健康告知 あいうえおの歌
一度は行ってみたい国
Jan. 30, 2014 一度は行ってみたい国

「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。黙示録21章1-4節

 皆さんは未だ行く機会が無いけれども、一度は行きたい国がありますか?私はイスラエルです。昨日、私の日本の教会の人たちが、グループでイスラエル旅行に旅立ったという報告をFacebookで見ました。私も行きたかったのですが、今回は残念でしたが、いつか一生に一度でいいので行ければと思います。私の両親も晩年に、アメリカ在住の最後の年の夏にイスラエル旅行へ行きました。母は聖書を読んでいる内容が現地に行くと立体的になり、非常に感動したと言っていましたし、父は前回のエルサレム旅行の時に、牧師になるよう神様から呼ばれたといっていました。
 神様は、そんな私にちょっとしたプレゼントを昨晩くれました。エルサレムを旅している夢です。いつも夢で不思議なのは、私の過去に知っている人々がありえない設定で出てくることです。つまり教会の人たちではなくて、以前学校や職場等で自分が関わった人達とエルサレムを歩いていたので、興味深かったです。そして夢というのは、朝目覚めると誰とだったかその詳細も忘れてしまうものです。私の心はエルサレムで旅をしていたようで、非常に満足しました。
 私が忘れてしまっていても、神様は私の祈ったこと(誰々がイエス・キリストを信じて、救われるよう)を覚えていて、夢のなかですでに答えを見せてくださっていたのかなとふと思い、うれしくなりました。神様は私たちが思うとおりの願いを必ずしも、そのとおりにかなえられるとは限りません。なぜなら、私たちが見ている視野、視点は非常に狭いからです。しかし人を創造されて、全てをご存知で、大きい視野にて全てをオーケストラされている神様は、一人一人にベストなものを用意して下さる方です。人が自分の意思で、そのベストを求めず自分で決めた方向をとることも自由です。
 私がエルサレムへ行けなかったとしても、将来新しいエルサレムが見れると、今日の箇所のように聖書に書いてあるので、そちらのほうが想像を超えたすばらしさ、うつくしさであり、よって、どうしても行きたい!と熱心に祈る気もないです。なぜなら熱心に祈らねばら無いことが他にたくさんあり、それらの方が神様の御心(願い)と調和していることだと聖書を通して教えられているからです。一人も滅びることなく、キリストを信じて皆で新しいエルサレムで再会できること、これが神様の願いであります。私が信じているのは宗教ではなく、このような永遠に続く神様との愛の関係であるのが感謝です。普段の生活でこれらを考えている余裕は正直なくなることが多いですが、意識的にその関係のなかにいつもとどまっていたいと願います。
Jan. 26, 2014 "あいうえおの歌"

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」 詩編1章2-3節」

 
 昨今の幼児教育に疎い私は、本日教会の礼拝後、久しぶりに会ったお子さんの成長ぶりに驚き、その子のお母さんと話していて、今はあいうえおを歌で覚えるのだと初めて知りました。(私はせいぜいドレミの歌の世代で、その後関わることがなく今頃。。。)特に海外在住の方は、お子さんのバイリンガル教育でとても苦労していらっしゃる様子です。私は早速Youtubeでその曲を検索。なるほど、これなら2歳でも覚えられる!というような歌いやすい曲でした。同じ文章や事柄でも、ただ丸暗記するより、歌にして覚えると覚えやすく、忘れにくいのはなぜなのでしょうか。歌の不思議です。
 私は聖書の箇所を小さい時暗唱するように、教会で言われてぶつぶつ覚えたものです。今でもおかげでいくつかは覚えていますが、大方正確には覚えていられないのです。大人なってから暗記しようと思っても非常に苦労を要します。そこで一つだけ、歌で覚えてそれ以来忘れないという聖書の箇所が、今日のところです。日本人のどなたかが曲をそのままつけられて、おかげで歌として覚えていられます。
 またこの詩の内容もとても美しい。神様の教えを喜んで、いつもそれを思い巡らしている、その人は水路の植えられた木のように、雨が降らなくても水分があり、そして時が来ると実がなり、その葉も枯れない。その人はこのように何をしても栄えるという内容。栄えるといっても、この世的に金持ちになるとか権力をもつという次元ではなく、実を結ぶと言う点で成功するのです。いろんな実があると思います:他者に仕えるとか、互いに愛し合うとか、赦しあう、伝道した相手が信じる等々、つまりイエス様の教えの実践という面で成功することでしょうか。
 栄える秘訣はその木に水がいつも潤っているということで、水のおかげなのです。木に水が必要なように、私は聖霊の命の水をいつも心に満たしてもらいながら、それが外へ溢れてキリストのような実を結びたいと、これを祈り求めようと思わされ、メッセージの中でも今日の聖書のことばのことを皆様にも奨励させて頂きました。他の聖書の箇所も歌で覚えられたらいいですね。
Jan. 22, 2014 NY地下鉄の健康告知

「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。... それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。」 第2コリントの手紙5章1-5節

 年末から引いた酷い風邪がようやく治ったと思いきや、再び風邪を引きました。すると胃もあまり作動してくれません。私の胃は機嫌が悪くなると、甘いケーキ、マフィン、パンは受け付けますが、体に良いうどん(麺類)、野菜、肉はいやいやという、まるで子供の好き嫌いのような反応をとります。ああこれでは余計、体に悪い、しかし後遺症なので仕方がなく、回復を待つのみ。
 最近のNYの地下鉄に衛生局?か何かの告知で、”小さい時から甘いジュースやお菓子を食べ続けると、大人になって糖尿病、脳梗塞の危険が大である”と、大々的に掲示されていました。日本では以前からメタボ検診が始まり、日本人は周知のことですし、日本の公立学校の給食はとてもバランスよく管理されています。医学が発達している割に、アメリカの大衆の食生活は確かに、体に悪いものを幼児の頃から大量に摂取し続けるという恐ろしい現状があるようです。Fat Free (脂肪分ゼロ) Suger Free, Diet Coke, Pepsiなど(砂糖はゼロ、しかし合成甘味料が入っています)の商品は実は糖分が高く、この数十年これらを食べ続けた結果、糖尿病患者がかえって増加という統計があるそうです。一方、ヘルス志向の方々もいて、オーガニック(無農薬)の商品と拘り、アメリカは何につけても両極端なようです。
 イエス・キリストはよく、天のお父さん(神様)に感謝のお祈りをしてからご飯を食べられました。そして、ユダヤ人の慣習で食べてはいけないもの、食べ方、手を洗うとか人が作った細かい規定がたくさんありましたが、「外から入るものは体を汚さないと。逆に人の中にあるもの(悪い思い)が人を汚すのだ」と言われ、事実上何でも食べていいと解釈されています。使徒のパウロも、食べ物や飲み物のことで兄弟を裁かないでくださいと、信者に手紙で書いているのが聖書として残されてます。
 何を食べるか食べないかよりも、感謝していただくことが幸いだと私はそのまま受け取り、食べられるものを頂こうと思います。もちろん、この肉体を適正に管理することは良いことですが、あまりにそれに拘ったり、お金や時間をかけることは私はさんざんやった上で申し上げますが、無意味なことでした。結局、この体は一時的ですから、私は天国でもらえる新しい体に期待することで、色々生きているとありますが前向きに感謝できるのは幸いです。ちなみにパウロは今日の箇所のように今の肉体を幕屋(テント)と、天で与えられる体を住まいとたとえています。テントはアウトドアの時など一時的には楽しいものですが、づっとは不便です。一時的なものでなく、永遠に続くものへ投資したいと願いつつ。
Jan. 21, 2014 心かき乱される思い

「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」使徒の働き17章16節

 またやってきましたストームが。今朝から雪が降り続き、だんだん積もってきているようです。このような時外出しないのが一番。仕事や学校も、休みにするところが多いようです。そんな中、家でネットを通してニュースを見ていると、世界も日本国内も悲しいことばかり、”どうしてこんな酷いことが!”と憤りというか、悲しみを感じるのです。一方ユニークな和み系のニュースも見たりして、無意識にそれでバランスを取ろうとしているのでしょうか。しかし現実は両方あるのです。
 本日読んだ箇所はパウロと言うキリストの使徒が宣教旅行をヨーロッパへ開始し、どこへいってもその町にすむ同胞のユダヤ人(ユダヤ教信者)たちから迫害を受けて、街を命からがら逃げて他の街へ行ってまた伝道するというところでした。そしてアテネに着いたとき、彼が感じたのが憤りです。その町が偶像(人が作った様々な神々の像)が満ちていて、人々が拝んでいるからです。
 この憤りは、アテネの人々に対してではないのです。(”人を憎まず悪を憎む”というのに近いかな)つまりアテネの汎神論的な、何でも神様になってしまう状態に対してでした。日本でも「いわしの頭も信心」からというように、なんでも神として拝んでおけばご利益がある、亡くなったご先祖様が神様になり、その根拠を確かめようともしないで、先祖代々信じているから仕方ないと続けている、人々が盲目的に拝んでいる状態。パウロはこの人達は何も知らないでこのまま滅んでしまうという非常な切迫感のある、心かき乱される悲しみに近い憤りを覚えたのでしょう。
 私は11-12月の昨年日本に滞在してました。地下鉄や電車にのっている時、駅の雑踏を歩いている時、果たしてこの中で何人の人が神を求めているんだろうと思ったものです。すると心が痛みます。私は何もできない小さい存在。しかし神はこの一人一人を愛していて、たとえ無視されて、否定されても、そんな彼ら(自分も含め)のために、十字架にかかって苦しまれ死なれたんだと思うと、だからこそキリストの愛を知ってほしいと心の中で祈るだけです。
 しかしながら、こういう悲しみ、憤りを持つこと自体が、ある意味普通ではないのかもしれません。自分の通常はもっと別のこと、不当な扱いをうけたり、いやなことを言われて相手に怒る程度、ニュースにもならない些細な個人的なことです。だから、こういう思いは忘れないでいようと:もっと大切なことを知って欲しい。真の神がいて、それは人間に作ってもらわないと存在しないような、人間と同レベルの思考回路をもつ頼りない神ではなく、最初から存在する全知全能で、人を愛するために造られた、意思をもった人間と愛する関係をもちたいと思って創造された、今それが崩壊してしまっている状態なので、それを回復させるためにキリストをおくったんだ、というメッセージを機会があるごとに伝えたいと強く思わされました。
Jan. 17, 2014 喜びの先取り

「いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。」 ハバクク書3章17-18節

 2ヶ月間日本に帰国していたため、再び就職活動をNYで始めています。ジョブ・エージェンシーに登録に行き、面接に行ったりと、またこの作業を繰り返すのか。。とちょっと思ってしまうのは、採用が決まるまでは決して容易な道のりではないからです。会社から選ばれる立場、そして自分もエージェンシーから紹介された仕事が自分の身丈にあうのか、雇用形態が自分の望みでなくてもとりあえず受けてみるかと様々な選択に迫られます。
 そんな時、夕方に教会のバイブル・スタディにてタイムリーにとても励まされるメッセージを聞くことができました。テキストはイスラエル人、アラブ人の先祖であるアブラハムの箇所で、彼が75歳のとき、神から私が示す地へ行きなさいと突然言われ、自分の故郷(現イラクのあたり)を離れ家族といっしょにカナンへ(現パレスチナ地方)旅立つのですが、彼の甥も一緒についてきたため、二人の所有物(家畜の群れ)があまりにも多く、一緒の空間に住むには狭く、争いが起こってしまう状況となりました。するとアブラハムは甥に「あなたの好きな土地を取って、そちらに行って離れて住んで下さい。」と選択権を彼に渡しました。そして甥は見た目に非常に潤っている肥沃な土地を選び、彼と彼の家族、家畜の群れはそちらへ移動していったのです。つまりアブラハムは残った部分を取るしかないのですが、彼は「甥がどこを取ろうとも、残った土地が神が自分を祝福して与えようとしている所だ」と神への信頼を元にとった行動であると学びました。
 私たちはいつも生活の中で選択を強いられます。大きいことも小さいことも。その選択は通常自分に利益になること、見た目によいものを選ぼう、他の人を蹴落としても自分はゲットする、ゲットするために行動を起こします。そうすることで競争社会の中で生き抜く、そのように小さい頃から教えられてきました。人に譲るという行為は、よほど自分に余裕があるときくらいでしょう。電車の中で、優先席などかまわず席をゲットする人々をみると非常に分かりやすいです。(笑)
 そこで、「私の仕事は神が与えてくれる、私にちょうどよいものを、だから履歴書をだして面接をうけていけば、神のタイミングでベストが与えられる」と、肩の力を抜いて信仰に立とうと思いました。ですから、まだ決まらない現状を見て落ち込まず、むしろ将来のこと、神の目的のためには自分を祝福してくれるし必要を備えてくれるということで 今日の預言者ハバククの言葉のように、かえって喜ぼうと。もちろん感情では悲しみとか落ち込み、いらつきがあります。しかし、心の深い霊では将来与えられることを思って楽しんで、喜びがあるという不思議な状態を、私たちイエス・キリストを信じる信仰者は味わうことができるのは幸いです。
Jan. 12, 2014 実の在るカリフォルニア滞在

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」 ピリピ人への手紙4章6-7節」
 

 真夜中にNYのJFK空港を降り立つと、雨が降っていて、先日までの残雪が洗い流されていました。昨今のNYの大寒波(北極状態の寒さ)の折、私は幸いにも温暖なカリフォルニアでMission Conferenceに5日間参加していたため、その寒さから逃れることができたのは感謝です。場所はMurrietaといって、温泉(日本の温泉のように熱くなく、水着で入ります)がでるCalvary Chapel Bible Collegeがある場所でのカンファレンスで、宿泊施設も備わった、非常にすてきな場所でした。今回たくさんの人との出会い、多くのことを学ぶことができ、私にとって貴重なミッショナリーのための研修でした。
 世界各国のフィールドで実際働いている宣教師、またこれから行く人、行きたいと祈っている人達が参加していて、食事のたびに新しい人と出会いがありました。会話のスタートは「あなたの宣教の地はどこですか?」から始まり、短い間ですが私には想像がつかない土地での働きをしている人々の話を聞くことができ、驚きとともに、この人達を通してなされる神様の業に非常に励まされました。
 私の宿泊部屋には、中米コスタリカで人身売買から子供を救う活動をしている60才代の方、メキシコの孤児院で働く方、アフリカ・ケニアからの方等と、やっていることはヘビーで大変だと察しますが、とても愉快なルームメイトに恵まれました。私は、「日本からNYCに送られています」というと、この教会のグループがアメリカベースのため、ユニークで驚かれ、そして「アメリカも(今までは送る側だったけど)宣教師が必要な土地だよ」と言われます。アメリカは多くのの宣教師を世界中に送ってきたという歴史があり、異なる言語、文化、気候の中、壮烈な苦労をして聖書を翻訳し、伝道し、現地の人に教会を引き継いできています。そのアメリカが、昨今どんどんアンチ・キリスト教に文化的にも、政治的にも変わってきているのという、悲しい現象があります。
 アメリカのような豊かな国で、同じ日本語で伝道できるという点で、私のような小さな器でも神様はそれなりに用いてくださると神様にあって期待し、NYに2ヶ月振りに日本から戻ってきました。しかし、まず再び仕事探しと一から生活の基盤を立てていく必要があり、よく考えると無謀というか、あてもないのによく独りで行くよねと、人ごとのように思う時があります。しかし他の人達の話を聞くと、みなゼロから始めているのには驚かされます(もちろんチームで送られますが)。彼らには各々神様から与えられたミッションがあるので、たとえ最初は何もあてがなくても、送り主である神様がことをなしてくれるという生きた証を聞けるのです。
 このカンファレンスで心に一番残ったことは、この聖書の箇所でした。神様は物質的にも、霊的にもまた成長という面でも必ず必要を備えてくださるので安心して、自分が与えられたことを進んでいくということでした。私のようなかけだしでも、時間はかかっても、そのステージステージに応じて、成熟も神様が与えてくれる、様々な状況の中でも心が守られるという、神様にあって超楽観的な思いに支えらます。正直、生きていると思い煩いはやってきます。しかし、神様に”イエス・キリストを与えてくれて有難う”という感謝はいつも持てるし、必要を祈り願えば必ず道が開けると信じる信仰が強められたいと思いました。
 それにしても、青い空、椰子の木、広い土地。。カリフォルニアはいいなあ。信仰的なことをおいておいて、私の自己の願望は温暖なところにのんびり住みたい。。まっ、CAはたまに行くからいいのかもしれませんし、やはり今の私はNYCのギャップ(華やかなきれいな場所とこの私の質素な生活空間)とそこに住む人が好きです。
Jan. 4, 2014 新春@ブルックリン、NY

「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」 ミカ書6章8節


 年が明けて2日の夕方、NYのJFK空港を降り立つと久しぶりに感じるこの冷たい空気が、熱のある自分には心地よい。2ヶ月振りにまたNYへ戻ってきたという実感を体で感じます。外気は冷凍庫と同じ温度、そして今晩から吹雪が来るという予報を耳にし、フライトが今日で助かったと感謝しました。すでに多くの国内線が遅延、キャンセルが出ていたからです。
 年末から酷い風邪をひき、熱が下がらず、咳もひどくて危うく飛行機に乗れるかどうかという体調でしたが、薬を飲んで無理やり出発なんとか到着できました。明けて朝窓から眺める景色は一変して銀世界。2014年はブルックリンという街に住む場所が与えられ、ここから新たにスタートです。駅から徒歩1-2分、その割りに静かな環境の一軒家にお部屋を借りられました。当初NY都心エリアは良くて安い住宅を見つけるのは非常に競争率が高く、日本にいる間に決めるのは難しいと思っていましたが、親切な友人が私の代わりに手ごろな部屋を見に行って契約をしておいてくれたので、飛行場から直行でき、特に体調が悪かったので非常に助かりました。以前のように2時間もかけて郊外からマンハッタンからへ通わなくてすむと思うとどんなに恵まれていることでしょう。
 今回、日本に帰国し、改めて日本の母教会から、NYでの宣教師として自身を送り出して頂き、祈りとサポートを与えられたことは、本当にこんな私なのに?というほど、タイトル負けしそうですが、これを恵みとして感謝して受け取り、ミッションを持って心を引き締めて新たに始めていこうと励まされました。日本滞在中にたくさんの学びの時と、教会の皆さんとの交流、祈りと非常に貴重な時間が与えられたのは神様からの大きなプレゼントでした。帰国中生活の為に一ヶ月アルバイトもしていたため、後半忙しくなりその疲れが年末にでたようで、体はぼろぼろですが、心は新たに。今後NYでも、生活のために働きながら、伝道活動をするのですが、NYでの日本人伝道を地道にやっていくという志を抱きつつ、日本の教会の皆さんが祈って後ろ盾してくれていることが非常に感謝で、安心です。
 年始にはいつも年間の指針となる聖書のことばを祈り求めます。今年与えられたのが、今日の箇所。私は自分がNYでしたいことではなく、神がNYで私を通してなさりたいことを求めていきたいと強く思わされました。このみことばにある、生活のなかで公議を行い、誠実を愛すというのは自分の持ち前の器量では難しいです。また様々な局面で何が正しいか、何が相手にたいして誠実かという判断基準は私の持っているものではあまりにも相対的ですし感情に左右されます。ですから、相対的ではない基準が記されている聖書から今年もガイダンスを頂き、そして謙遜に神様に従って歩んで生きたいと(もちろん、聖霊の力によって)思わされ、今年も新たな気持ちでブルックリンで新生活を展開していくのが、楽しみです。ちっぽけな自分には期待できないですが、神が伝道において何か不思議なこと、想定外のことをしてくださるかな〜と非常に期待しつつ、地道にこつこつと基盤を固めていきたいと思います。
 皆様 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
  
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