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今日のわか ちあい
♪Today's Sharing♪

Mar. 2014

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
腰痛。。。 試練の後、春の到来 3年前、心の癒し NYビル爆発
朝食をとりながら マレーシア航空機はどこへ クリミア編入?!一線を越えたロシア
新しい職場 先延ばしは時間泥棒

Mar. 30, 14 先延ばしは時間泥棒

「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」第一ペテロの手紙3章8-9節
以前、為替相場に関わる業務で働いていたことがあります。相場の動きを先読みし判断するのはプロでも困難であります。欲をかいてもう少し上がるまでと決済を先延しにすると、相場が急落し「ああ、あの時しておけばよかった」と上司達が損をする場面をよく見てきました。
 日本語のことわざで「思い立ったが吉日」というのは英語訳にすると「先延ばすことは時間泥棒」(Procrastination is the theif of time)だそうです。私は個人的に良くも悪くもせっかちで、めんどうくさいのでなるべく早く済ませるタイプですが、ある人は期日が過ぎて催促が来ても、何でも先延ばしにします。優柔不断で決断を先延ばしにする場合もあれば、もっといいオッファーがくるかもと、ぎりぎりまで欲張って先延ばしにする、もしくは忙しすぎて後回しにしておく等、様々なケースがありますので、一概に英語訳のような時間泥棒とまでは言いすぎ感があります。しかし、タイミングを失うと、2度とチャンスはないということもあります。一方おおらかに考えれば、経済的な損失、会社での昇進・仕事や趣味の成功のチャンスを逃すだけです。チャンスを失っても、生きている限り、人はそれでも次のチャンスを求めて生きていくわけです。生きている限り。
 ある牧師*がこんな冗談を話したそうです。悪魔4人がある日地獄で会議をしていました。お題:どうしたら人間が神を信じないようになるか。悪魔A「ぼくが地上に行って神はいないと言うよ」。B「そうはいっても、人々は神を探しているよ」。C「それなら、天国なんかないと言う」。B「それもだめ、誰でも死後の世界があれば天国いきたいと思っている」。D「じゃあ、地獄なんてないって言うのはどう?」。C「しかし人間は良心ってものがあってね、悪いことしたら裁かれると思うから、難しいね。」A「他にもっといい手はないかなあ??」D「これだ!ぼくが皆にこうささやくよ。”急がなくていいんだよ”と」
 私がクリスチャンだと知って、何を信じているかを質問されることがあります。私は出来るだけわかりやすく、簡潔に自分の信じている信仰、イエス・キリストの話をします。すると聞いた方々の反応で、「”あなた”はそれでいいんじゃない。でも、”私”はまだ必要ないな」と情報を聞いても先延ばしにする方がいます。しかし、聞いた時がチャンスだと思います。なぜなら、その後忙しい生活のなかで、そのようなことを考える機会がないからです。もちろん、何年もたってからでも思い出し、機会があってほしいと願います。しかし、今日、神がどれだけ私たちを愛していて、その愛はキリストの十字架に表れているという情報を聞いたら、先延ばしにしないで、自分はどこから来てどこへ行くのか、なぜ神の子であるキリストが十字架で死ぬ必要があったのか、自分と何が関係があるのかを考える機会を持ってほしいと願います。神は待っているからです。神の愛の特徴の一つは忍耐ですから。

*Clarence Macartney 長老派牧師。20世紀に米国フィラデルフィア、ピッツバーグで牧会
Mar. 27, 14 "新しい職場"
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
 ルカによる福音書4章18-19節

 先日から、新しい職場で勤務が開始となりました。マンハッタンのオフィスで働くのは久しぶりです。ビルの27階なので、窓からの眺めは摩天楼。しかし、ちょうど隣の敷地に建設中だったが、リーマンショックで中断し、これから建設再開となる大きなビルが建つそうで、あと1-2年したらこの見晴らしが失われます。
 環境はその人の心に非常に影響を与えます。景色の良いところにいられると、気持ちがすがすがしく、心も広々と感じるものです。逆に閉塞感のあるところや、窓から外が見えない場所では、やはり気分が落ち込むものです。以前私は窓のない狭い部屋が職場だったり、窓があっても封鎖されている部屋に住んでいたことがありますので、今職場も家も恵まれた場所が与えられ、良くしてくださる神様への感謝するとともに、例え、今後も環境が好ましくない場所で過ごす経験があるとしても、神様の助けによりなんとかやってこれたことを思い出し、どこででも満足できる心に変えられたいと思うものです。
 コーリン・テン・ブームというオランダ人女性は、クリスチャンでしたが、第2次世界大戦中、彼女とその家族がユダヤ人をかくまっていたことが見つかり、ナチスの強制収容所に長い間収監されました。彼女の著書「私の隠れ家」にその自伝が記されていますが、想像を絶する、劣悪な収容所での虐待経験の中生き延びることができたのは、まさに奇跡的な神様の助けによります。彼女は狭く、汚く、のみだらけ、窓もないような部屋で死を待つのみの絶望状態の場所で過ごしていました。そこでは私物を持てなかったのですが、不思議と小さな聖書を隠し持つことが出来、同じ部屋の女性達に聖書を読んで励ましたそうです。同室の女性達はその後ガス室へほとんど送られてしまいますが、死の恐怖を前にしてどれほど彼女達はコーリーに励まされたことでしょう。コーリーは神様に忠実な女性でしたので、大戦後、自分がどれだけ神様に助けられたか、その証しを世界中を周って講演しました。
 イエス・キリストは囚われている人を開放されるために、この世に来られたことが、今日の読んだ聖書で預言者を通して告げられています。物理的に獄に囚われて人だけでなく、精神が囚われている人をも開放するために。特に心が、人への赦せない思い、苦い思い、傷ついた思いに囚われていると、心の病をきたしますし、また体にもパニック症候群、PTS、心身症等で現れます。コーリーはまさに、その両方から開放された証人です。この本は彼女の本を通しても、イエス・キリストがどういう方か、私たちを”何から”開放して下さる方かを知ることができるので、日本語にも翻訳されていますのでお勧めの一冊です。
Mar. 19, 14 マレーシア航空機はどこへ

「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」 ヨシュア記1章9節

 クアラルンプール発北京行きのマレーシア航空MH370便が3月8日以来消息を絶っています。不思議なことは、機体の場所を確認できる装置(ACARS)が最後の副操縦士との交信より”前に”、オフにされていたとのこと。つまり、オフにされてはいけないものがオフにされていたと知ると、ハイジャックを想像してしまいます。さらに偽造パスポートをもった乗客が2人いたともあり。一方素人の憶測ですが、その装置が切られた後でも、飛行機がまだマレーシアの領空域内なので、位置的に軍のレーダーで把握できていたはず。もしかしたら発表されていないだけで、本当はわかっていることが隠されているのかもしれません。
 私にとって飛行機の旅はあまり楽しみではありません。出発時間は遅れることが多く、(米国では)セキュリティで全身をスキャンされ調べられたり、液体は持ち込みだめ、エコノミーしか乗れない私はあの狭い椅子に日本アメリカ間の13-14時間、じっとしている苦痛。唯一の楽しみは日系飛行機の機内食です。(食べることしかない)
 しかし、一度も墜落やハイジャック等の事故が起きることを心配したことはないのです。今日読んだ箇所のように、目にみえなくても神様がどこへ行っても共にいると信じているからでしょう。だからといってクリスチャン皆に危険・事故が及ばない、病気にならないとは思っていません。聖書を読むと、キリストの弟子達はいつも、危険や困難にあっていることが書かれていてます。しかし、耐えられない試練は与えられず、脱出の道が備えられるとの約束があり、たとえば使徒のペテロが当時の宗教家に捕らえられ、投獄されていたとき、信徒達は必死に皆で彼の為に祈り、奇跡的に出てこられました。
 乗客のご家族はどんなに辛い思いで、毎日ニュースを見ておられるのか、それを思うと心が痛みます。墜落していなくて、どこかで皆さんが奇跡的に生き残っていることをお祈りしています。
Mar. 18, 14 "クリミア編入?!一線を越えたロシア"

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」 イザヤ書9章6節

 ニュースを見ると、ロシアが再びきな臭い動きを始めたようです。ロシアのプーチン大統領はクリミア自治共和国側が要請したという建前で、クリミアをロシアに編入する条約に署名しました。これによりウクライナ・西欧諸国連合との冷戦後の熱い戦いのきっかけにならないといいのですが。
 人々は平和を求めますが、いつも世界のどこかで戦争があるのは悲しいことです。兵器会社が世界の富と政治をコントロールしているという国際情勢の構図のもとに、必ず戦争は起こされ、誰もそれを阻止できないのです。兵器消費国であるアメリカが対テロとして戦争を続けてきましたが、今度は対ロシアという格好の理由を見つけたのではないでしょうか。それともこれも計画的?
 人は生まれながらに平和を求めるのに、なぜそれが実現できないのでしょうか。それは簡単にいうと欲です。世界の富の不均衡も全て欲、金儲けから起因します。聖書では人間のこの状態を「欲がはらんで罪を生む」*といいます。もちろん全ての欲が悪いのではなく、食欲は体を保つのに必須です。しかし欲が加速し、むさぼりになると罪や悪となります。つまり人が死んでも、兵器を作って戦争で使う、人の健康が損なわれても、体に悪い食品を宣伝し市場に売り込む。極端な言い訳は、結局自分が生き残るために、他者を犠牲にしても仕方ないと。一方、平和主義を唱える人の家庭内ではどうでしょう?全ての人との関係は平和でしょうか?人はそんなに善人をまっとうできないのが現実です。キリスト教は性悪説だと言われますが、そのとおりで、一方性善説の面もあり、心の中に生まれつき良いもの、平和を求める心も持つ存在でもあります。なぜならもともと神が人を”良いもの”として創造したので、それが心に残っていると聖書に書いてあるからです。良かったところに”罪”が入り、それ以来世界は壊れてしまい、欲により悲惨な戦争や殺人が起こると観察されます。
 「シャローム」というヘブル語は平和という意味です。日本人が「こんにちは」というように、ユダヤ人の間で交わされる挨拶です。このシャロームはもっと深い意味:完全、完成されたことば、完成、安全、健康を含むそうで、神との調和を持つ生活から由来するそうです。今日の箇所は、イザヤという古代ユダの預言者がイエス・キリストが生まれる、約800年前にメシヤ(救世主)のことを預言した箇所です。イエス・キリストが”平和の君”と呼ばれるわけは、私たち人間が憧れ、追求する平和の源であるからでしょう。
 平和は、究極的には人が皆聖人にならない限り、つまり罪のない人間の世界でしかありえません。自分の意思や能力では罪の性質を取り除くことができない、だからイエス・キリストがこの世に送られました。”罪から救う”とはこのような根源的な人の問題に関わります。今はまだ完全な平和に向けての途上で、今度再びキリストが帰って来られる時にようやく成就すると聖書に預言されています。私は未だ罪の性質を持つこの体で、不完全で罪を犯しますが、同時に信仰により霊的には救われていてキリストにある平和を持つことができるのが奇跡です。本当にキリストを信じる者は小さい存在かもしれませんが、戦いを避けようとし、他者との平和を求めます。私は先行き不透明の世界に生きる中で、それを真摯に受け止めて不安に陥るのではなく、キリストにある平和、真の神がもたらす平和を持てるということを聖書を通して伝えたいなあといつも思うのです。

*ヤコブ書1章14-15「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」
Mar. 14, 14 朝食をとりながら

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」第一テサロニケ人への手紙5章16-18節

 私の教会では月に一回、土曜の午前中に朝ごはんを一緒に食べて、その後お互いの必要や教会のためにお祈りする会があります。(平日夜もあります)朝ごはんは牧師、副牧師自ら用意してくださいます。アメリカン・ブレックファストですので、パンケーキ、ソーセージ、もしくはフレンチトースト、ベーコン、ベーグル、コーヒー、オレンジジュースと私の好きなものばかり♪私たち信徒は土曜朝早くにおきれない人が多く、朝ごはんが出来上がった頃あいに教会に到着するという、なんともお気楽なスタイルです。他では、もしかしたら牧師先生と他の皆様のために、女性達が集まって食事の用意をするとか、もしくは断食して祈るため食事なしとか、厳しいところもあるかもしれません。しかし、神様はどんな形であれ、教会では集まって祈る、集まって食べるということをとても喜ばれます。私の教会で牧師は、先生と呼ばれて仕えられるのではなく、”仕える”側という意識をされているのでしょう。イエス様がいつも弟子たちや他の人たちとも食事を楽しまれていたし、人々に仕えていたので、それに従っているようで、ありがたいです。
 しかし祈りの内容は真剣です。教会が地域に仕えることができるように、福音を伝えられるように、また個々人の必要:家族のこと、仕事のこと、病気のことも祈ります。私も、先月は仕事が与えられるように一緒に祈ってもらいました。互いの個人的必要を知り祈りあうのは、お互いを知り合えます。話したことない人であっても、キリストを信じる信仰だけで一致しているので、他は何も共通点がなくてもそこだけで一体感があるのが幸いです。
 先日の聖書の学びで、この箇所「絶えず祈りなさい」とあるのは、一人の祈りというより、ギリシャ語(原語)では主語が複数になっていて、みなでいつも喜びなさい、みなでいつも祈りなさい、みなでいつも感謝しなさいという、集合的にすることを神様が望んでいる、つまり教会で共に集まって礼拝する、祈ることの大切さを学びました。クリスチャンとは、一人で「私は神を信じているから、いいのよ」と教会にも行かず、他の信徒とのつきあいがない信仰の持ち方ではありません。確かに、信仰以外何も共通点もない人の集まりですから、気が合わない人もいます、何を話していいかも話題に困る人もいます。でも互いにつきあわないと、知り合えないし、誰とも関わらなければ、気楽でいいですが、結局ひとりよがりの信仰となってしまいます。だから聖書は集まることを勧めます*。集まってともに祈ることで共通点が出来てきて、お互いの関係ができあがっていくからです。日本語だと、複数というのが訳されませんので、私はこの箇所をづっと、私個人がすることだと思っていました。もちろん一人の祈りも大切で、イエス様は自分の奥まった部屋で戸をしめて一人で祈りなさいともいわれました。(文脈は当時の宗教家のようではいけないということです*2。
 教会では月に数回食事持ち寄りの会があってそれが楽しみでもありますが、私のような食べることがすきで、人と集まることが好きな人は、非常にありがたいです。私の家族はみな東京、NYで単身ですので教会の仲間というのは本当に大切で、孤独に弱い私はこのキリストにあるつながりによって、励まされているのが感謝だなあと。この仲間が日本人にも広がっていって欲しいと、願いつつ。 

*1 ヘブライ人への手紙 10章22節
*2 マタイによる福音書6:5 ~ 8「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだから 」と対比してのこと
Mar. 13, 14 "NYビル爆発"

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」  第一コリント人への手紙10章13節

 昨日、在宅中にルームメイトが「大変なことがおこっています!」というのでTVをみると、マンハッタンの東ハーレムにあるビルがガス爆発で倒壊し、消防隊が消火活動を行っていました。日本人として、先ず最初に「日本人の被害者にいるのではないか」とふと思いがよぎりました。
 ニュース筋によると爆発をおこした建物はスペイン語のキリスト教会(上の階に高齢の信徒達が居住)でしたが、なんとこの爆発により隣接の倒壊したビルは日本人女性が所有で、一階にピアノ販売のお店を開いていたと知り、そのお店のホームページに飛びました。写真を見ると素敵なお店で、英語のHPのTOPに火事のことが一言書かれてありました。NYで自分でお店を出すまでの事業を成し遂げたのに、どんなにショックだったことか。本当にお気の毒です。おそらくNYエリアで、日本人でピアノを弾く方々はこのお店に関わったことがあるはずで、心を痛めていることでしょう。
 NYの古い建物はメンテナンスも不充分、ガス漏れ警報・火災報知器もきちんと取り付けてなかったりすることが予測されますし、安全面については懸念事項が多いので、今後再発防止に対応策を自治体は急いでほしいです。この事件で亡くなった方々、またそのご家族に、負傷された方々に神様より慰めが与えられるよう、また今回のことで住むところや事業を失った方々が、早く立ち直れますようお祈りしたいと思います。
 このスペイン語教会の牧師さんは「建物はもはやない。しかし我々はここにいる、これからも前へ進んでいきます」とレポーターに述べていました。ここはスペイン語を話す信者が集う、NYで80年続いた福音派の教会だそうで、それを一挙に失ってしまったことは彼らにとっても試練でしょう。しかし教会は建物でなく、信者の集まりですので、ビルを失ってもどこでも集まるところさえあれば続けられますし、「耐えられないような試練にに合うことはないという」聖書のことばが彼らに励ましと希望を与えると思います。
 今回の事件で、この日本人の事業家の方が、邦人同士のネットワークで協力しあい、支えられて、早くピアノ販売店が再開されることを願います。またこの事件を通してスペイン語教会の方々と関係者の間で、平和的に事後処理がされますように、そしてスペイン語教会の人々がキリストの愛をもって、日本人を含む被害を受けた方々と接することができるよう祈りつつ。
Mar. 11, 14 "3年前、心の癒し"

「・・・わたしは主であって、あなたを癒すものである」。出エジプト記15章26節

 この週末、NYでも東日本大震災の犠牲者を偲び、また今後の復興についてのシンポジウや集まりが開催されていました。生き残られた方々は今でも家族を失った悲しみ、ご自分の体験された辛さ、ショックを抱えながら前向きに生きようと努力されていると察します。私は影ながら皆様の心が癒されて、希望をもてるようお祈りを続けていきたいと思います。
 昨日の聖書の学びは(女性だけのグループ)、折しも私の人生では聞いたことのないかなりヘビーな辛い話を聞きました。ちょうど聖書の箇所が、”癒しを与える神”(ヤウエ・ラファ:ヘブル語)というテーマでした。そのグループディスカッションの中で、「どのようなことを過去に神様によって癒されたか」という問に対して、一人の中高年の白人女性が話り始めました。詳細は言えませんが、彼女は今でもその話を涙なしには語れない様子で、被害を与えた相手は既に亡くなっていますが、とにかく相手が自分にしたことについて相手を赦すのに時間がかかったけれども、傷ついた心は結局神様によって癒され、心はその辛さから開放されているという証しでした。
 アメリカでは恐ろしい虐待、強姦、猟奇殺人とあまりにも聞くに辛すぎる話があります。ましてやその被害者(加害者自身が以前被害者だったりもする)の心中はいかなるものでしょうか。心理療法カウンセリングでは心の傷を治すのには限界があると、経験されている方はご存知だと思います。私たちの心はデリケートに出来ています。どんなに強い人でも何かのきっかけで簡単に心は壊れてしまうもので、心の弱い人だけの問題ではありません。癒されるべき傷があっても、心の奥底に蓋をして隠している方も多いと思います。しかし、もし人を創造された神がいるなら、メーカーであるので、人間心の癒し方を知っているはずです。また自分が造って大切にしたいと思う神は、傷ついた心を癒したいと願っておられるのです。イエスはそのために2千年前にこの世に送られました。
 この世では修復不可能なことは多いです。しかし、その傷ついた心を、神を認めて癒しを願えば必ず神は答えてくださる方だと、多くの人のこのような証しを聞くたびにやはり本当なんだと思わされるのです。彼女の証しを聞いて、こんな辛い恐ろしい経験をされていても、みなの前で話せて、そして神が癒してくれたという希望のある話を証しできる勇気はすごいなと、神様をあがめました。
Mar. 9, 14 "試練の後、春の到来"

「時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。」 創世記12章1-4節

 3月に入り、すっかり陽気は春ですが、まだ寒さが残ります。今年に入ってから気候的にもNYは厳しい冬でしたが、個人的にも試練の時でした。昨年日本に一時帰国し、NYに1月に戻ってきて、生活の基盤:住むところ、働くところ、そしてバイブルスタディの開催場所と中々決まらずに 貯金も底をついて、信仰では必ず大丈夫と思いつつ、前回書いたように体には色々症状が出てきてしまい、辛い時期でした。
 今日の礼拝での聖書の箇所は、私が5年前、未だ闘病中にアメリカでの永住ビザの機会が与えられて、実際今から日本の全てを置いて、新たにこの年齢でアメリカに単身で移住するかを決断する時に与えられた聖書の言葉でした。つまり、アメリカに行けという確証が聖書のことばを通して与えられたから来たのです。この聖書の箇所は一度だけでなく、続けて2回、自分が選んだわけでなく、別々にタイムリーに、祈りの答えとして示されました。
 アメリカに来て5年目、振り返ると生活はいつも不安定、病気になっても病院もいけない、何度も引越し、何度も職がない時期もあり、そのたびに日本での生活のほうが楽なのにと思うことはありました。しかし、いつも助けられてきました。私の根底で、アメリカでがんばろうと思えるのは、神が行けと、アメリカで私に任せている計画があるから、祝福するからと、この聖書のことばにバックアップされたことを信じてきたからです。
 これからも、安楽な道ではないことはわかっています。しかし、私はお気楽な人生を望むのではなく(もちろん感情では楽したいですよおお)、キリストのために行きたいと、神の私の上にある計画をキャッチし、小さいことでも忠実にやろうと思う心が与えられているのは幸いです。そして5年間の辛かったことは忘れ、かえってその試練も益に変えてくださり、神がどれほどよくしてくれて、祝福してくれたかを思い出すと、感謝で涙がでます。ああ、本当に神は誠実な方で、決して私を見捨てないと。
 木々はもう芽を膨らまして、春の準備を整えています。住む所も今迄でベスト、バイスタの場所もよい場所を与えられ、そしてやっと仕事も決まり、今回の私の冬も終わりました。この試練により、私の信仰上で、自分の資質上では見込みなし、もう神により頼むしかない、神がベストのものを下さるという、信頼関係を強められました。アブラハムは75歳で、神から呼ばれた、私はそれに比べればまだまだ若いです。神様にあって、これからも大いに期待したいです。
Mar. 4, 14 腰痛。。。

 「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を」 詩編27章14節

 再び腰痛が起こってきました。私はスポーツクラブで若い時から筋力を鍛えてきましたし、幸い怪我も無くどの運動も問題なくこなし、最近になるまで腰痛を経験することはありませんでした。しかし歯科助手という職務について、無理な姿勢を続けたためとうとう腰痛を経験。その後事務職に変わっても、同じ姿勢でPCに向かうためか、やはり腰痛は時折でてきます。最近引っ越しをした後、痛みが始まりました。今日は特に痛くて、PCにも向かうのが辛いほどです。
 からだの病気、障がいは長期戦で、忍耐が求められます。私の腰痛よりももっと深刻な痛みを抱えている方々にとって、痛みのコントロールはもちろん、これらをどのように乗り越えるか精神的強さが必要であると思います。クリスチャンは即座の痛みの緩和、病気の癒しを求めて神に祈りますが、癒されることもあるし、治らないこともあります。聖書の神さまは、ご利益宗教の神ではないので、単に祈ってお布施を払えば癒してもらえるという類ではなく、私たちはこの生物学的体の健康”だけ”を求めませんので、治らなくても受け止めなければならない時があります。一ヶ月前は、原因不明の顔の発疹に悩まされ、先週は食べ物にあたったわけでもないのに下痢が4-5日続き、そして今度は腰痛。次から次へとあちこち痛みはやってきます。精神的に軟弱で、プレッシャーに弱い私は、なかなか仕事が決まらないことへのストレスが体に出てしまっているかもしれません。
 神様に信頼して、全てのことを待ち望め、と自分の魂を今日の聖書の箇所から励まそうと思います。そしていつもイエス・キリストが与えてくれた魂の救いを喜び、今与えられていることにフォーカスして神様に感謝したいと。そうしているつもりですが、体は正直です。そうしてないから、体にでるわけで、信仰を強めてもらって、神さまが、全てのことを合い働かせて、益にしてくださると信じ、その約束において希望を持ち、心を強くして乗り越えて行きたいと思わされます。ストレスに強くなりたいですし、春が待ち遠しいこの頃です。
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