アプローズ(喝采)
「いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」 ローマ人への手紙4章4-5節
先日、NYを訪問していた母とバレエを鑑賞しました。ロシアのボリショイバレエ団の踊りは美しく、しばしファンタジーとユーモアのある世界に引き込まれました。あれだけ晴れの舞台で踊れるようになるまで、どれほど稽古を重ねていることかと、その華やかさの影にある彼らのたゆまない努力を思わされました。私は「彼らはよくあそこまで出来るね」というと、母は「プリマにとって舞台での皆からの喝采、それが喜びでしょうね」と。
小学校3年生の時、一年だけ学校内のバレエ部に入ったことがあります。もちろん子供ながら自分には向いてないと一年でやめ、演劇部に転部しました。その時のバレエの稽古風景、学園祭での発表会、音楽はいまでも記憶に残っています。演劇部で演じるのも、舞台に立つのは同じですが、私は別に観衆からの喝采を受けたいとも、人を喜ばせようとも思いませんでした。ただ日常の自分とは異なる、舞台での別人格を演じるのが楽しくてやっていたような気がします。人それぞれ異なると思いますが、まずは自分の好きなことを楽しくできて、そして人をも喜ばせたり、楽しい気分へと実益になればそれはすばらしいことだと思います。芸術の多くがそういう面を持っているのではないでしょうか。
私たちは仕事での成功、芸術、子育て、恋愛。目標にむけて努力を惜しまずがんばる、またはしたくなくてもせざるを得ない状況で、突き進むこともあるでしょう。人これらの活動の背後には誰かに(もしくは自分自身から)認められたい という思いが本人は意識するしないに関わらず根底にありするものです。「すごいね!」と、SNSの「いいね!」ボタンや「スタバなう」のように自分が今どこで何をしているかまで掲載するというのは、デジタル上で皆に自分の存在を確認してもらいたという欲求の表れなのでしょう。それが悪いことだという意味ではないですが、どこまでいったら満たされるのでしょうか。それらは飽くなき追求であることはお分かりかと思います。
人から認められたい(もしくは自分で自分を評価する)という思いから開放されると非常に楽です。余計なエネルギーを使わないし、思い煩いも随分へりました。(完全ではないですが)なぜそう変えられたかというと、ありのままの自分を、神様が認めてくれていると知ったからです。自分は存在価値があると。そこには、自分の存在価値を何かすることによって示す必要も無いのです。ただ聖書を通して、神様が私にしてくれたことを信じ、その愛に感謝していると、今は神様にどう見られるか、喜ばれるかという視点で全て物事をみようと発想が転換されます。もちろん、いまだに人からの評価を気にしてしまうことがあり、フォーカスが外れることもあります が、その時は、聖書のことばに触れ、また祈りを通して神様のほうへ軌道修正されるのが幸いです。
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