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今日のわか ちあい

Owl's Head Park, Brooklyn
♪Today's Sharing♪

July 2014

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
"映画「炎のランナー」その後" 今更聞けない聖書の基礎知識 「YOUは何しに日本へ? 女の晴れ舞台SP」 に友人が出演 サイバー犯罪
人生の嵐に動じない心 ホテルの部屋に置いてある小さな本 アプローズ(喝采)

July 29, 2014 アプローズ(喝采)

いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」  ローマ人への手紙44-5

先日、NYを訪問していた母とバレエを鑑賞しました。ロシアのボリショイバレエ団の踊りは美しく、しばしファンタジーとユーモアのある世界に引き込まれました。あれだけ晴れの舞台で踊れるようになるまで、どれほど稽古を重ねていることかと、その華やかさの影にある彼らのたゆまない努力を思わされました。私は「彼らはよくあそこまで出来るね」というと、母は「プリマにとって舞台での皆からの喝采、それが喜びでしょうね」と。
小学校3年生の時、一年だけ学校内のバレエ部に入ったことがあります。もちろん子供ながら自分には向いてないと一年でやめ、演劇部に転部しました。その時のバレエの稽古風景、学園祭での発表会、音楽はいまでも記憶に残っています。演劇部で演じるのも、舞台に立つのは同じですが、私は別に観衆からの喝采を受けたいとも、人を喜ばせようとも思いませんでした。ただ日常の自分とは異なる、舞台での別人格を演じるのが楽しくてやっていたような気がします。人それぞれ異なると思いますが、まずは自分の好きなことを楽しくできて、そして人をも喜ばせたり、楽しい気分へと実益になればそれはすばらしいことだと思います。芸術の多くがそういう面を持っているのではないでしょうか。
私たちは仕事での成功、芸術、子育て、恋愛。目標にむけて努力を惜しまずがんばる、またはしたくなくてもせざるを得ない状況で、突き進むこともあるでしょう。人これらの活動の背後には誰かに(もしくは自分自身から)認められたい という思いが本人は意識するしないに関わらず根底にありするものです。「すごいね!」と、SNSの「いいね!」ボタンや「スタバなう」のように自分が今どこで何をしているかまで掲載するというのは、デジタル上で皆に自分の存在を確認してもらいたという欲求の表れなのでしょう。それが悪いことだという意味ではないですが、どこまでいったら満たされるのでしょうか。それらは飽くなき追求であることはお分かりかと思います。
 人から認められたい(もしくは自分で自分を評価する)という思いから開放されると非常に楽です。余計なエネルギーを使わないし、思い煩いも随分へりました。(完全ではないですが)なぜそう変えられたかというと、ありのままの自分を、神様が認めてくれていると知ったからです。自分は存在価値があると。そこには、自分の存在価値を何かすることによって示す必要も無いのです。ただ聖書を通して、神様が私にしてくれたことを信じ、その愛に感謝していると、今は神様にどう見られるか、喜ばれるかという視点で全て物事をみようと発想が転換されます。もちろん、いまだに人からの評価を気にしてしまうことがあり、フォーカスが外れることもあります が、その時は、聖書のことばに触れ、また祈りを通して神様のほうへ軌道修正されるのが幸いです。
July 28, 2014 ホテルの部屋に置いてある小さな本

「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」へブル111

 

この数日間母が日本から訪米していたので、私も休みを取り、母とNY、フィラデルフィアにてよい時が過ごせて、私にとって素晴らしい夏休みとなりました。旅行というとホテルやInnなどでの宿泊が多いと思いますが、その部屋にはたいがい小さな本が置いてあるのに気が付く方もおられると思います。聖書です。これは、ギデオン協会というクリスチャンの実業家等からなる団体により、ホテルや病院、また学校で学生達に無償で配布された聖書で、旅行先や病院で、ふと、時間があるときに読む機会があればと置かれています。
 父は生前、サリーマンの時にこのギデオン協会に入会し、土曜になると、近所の中学や高校の門でこの聖書を学生に配りに行っていたものです。最近は、以前のように気軽に配布を許可されないご時勢となり、学校側と交渉するのに苦労をしていたようです。父は、日本の若い人々が何か悩みや人きることの意味を求めている時に、聖書を読んで、そして信仰に導かれてほしいと祈りつつ、一生懸命校門で一人一人に手渡していました。今度、この全世界にあるギデオン協会のカンファレンスが米国フィラデルフィアで開催され、晩年、父が牧師となって、フィラデルフィアの日本人教会で仕えていたゆかりがあり、その日本からの一行と母も一緒に、そこで2週続けて日曜日に礼拝をすることができたのです。母は約5年振りにアメリカで皆さんと再会し、とても喜んでいました。

娘から見て、両親の結婚生活は波乱万丈でしたが、いつも神様に全てゆだねて、先がどうなるか不透明でも、二人共まだ見たこともない天国を目指して、地上に生きている間神様に喜んで仕えていたなあと。(残された母は今も、これからも!)今回の旅を通して、両親の信仰の軌跡を見せられたようです。その両親を通して、今の自分が米国にいるという面もあり、神様が不思議と今まで導いて下さっていることを改めて思わされました。私のような小さい者がする働きでも、神様のためにがんばろうと励まされました。

July 17, 2014 人生の嵐に動じない心

「わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。」 ルカによる福音書6章47-48節

 「陽子、私あなたに言ってなかったけど。。私癌になったの」しばらく話していなかった教会の友人から今日突然言われ、私は愕然。彼女はいたって平穏で、確かに少し痩せたようだが、むしろ私が久しぶりに会ってきがついたのは、まだ若い彼女の黒髪に白髪がたくさん混じっていたことだった。めったに来ない彼女の母親が教会に付き添って来ていたのも心配してのことだったのであろう。彼女は最近大腸がんが見つかり、そして肝臓にも転移していたとのこと。彼女の主治医はこの状況で外科的手術が難しく、キモセラピーで対応することに。「不思議とね、自分が癌だと診断されてもそんなにショックじゃなかったの。ただ、キモセラピーした後痛みがきつくてね。神が共にいてくれるから大丈夫、また来週の火曜から次のラウンドのキモが始まるのでお祈りしてね」
 私も6年前に胃がんを患い、神が良くしてくれたことと、またフィラデルフィアの教会で、癌を患ったことのある姉妹たちと聖書の学びのグループが一緒で、ある人は何度も癌を患っているにも関わらず皆明るくて、キリストにあって平穏な様子に、自分が励まされたことを彼女にシェアした。もっと早くに彼女の様子を知りたかった。私はこのところ自分のことで精一杯で、日本からお客が来ていたり、その集会のコーディネイトで忙しく、彼女も教会に来られない時もあったためお互い行き違いで、最後に話したのは5月末だったという始末。教会へ通っていても、相手の状況を確認もできずにいたとは。。。なんと自分は外れているんだろうと、そのことを自覚する機会でもあった。
 人生において嵐は誰にでも起きる。しかし、嵐が起きた時にも動じず、平静でいられる人がいる。彼らはキリストを信じる信仰が土台となっている人々である。彼らはキリストの言葉を聴いて、信じ、どんな状況でも神を信頼して任せていて、それが行動や態度に表れる。そして究極的には死は怖くなく、永遠の天国での命を与えられる確証があるため、この肉体で生きることや時間に拘らないでいられる。キリストを信じる者は、キリストが死んで復活されたように、キリストを信じる自分もキリストのゆえに、死に勝利し、新しい体が与えられて生きると信じている。もちろん、余命に限りがあるとわかり、感情的には家族を残して先にいくのが辛い。しかし本人自身には深い心の部分で平和がある。
 彼女が癒されるよう、治療がうまくいくよう祈りたいと思う。肝臓に転移しているというステージは厳しい状況かもしれないが、ちょうど今日読んだ聖書の箇所が、まさに彼女の人生に困難なことが起こったときの態度に表れてた。私はすぐに小さいことで落ち込んだりする。まだまだキリストという岩の上にを深く土台をすえきってなくて、揺れてしまう信仰の薄い者。ぼやけていた私は、彼女の信仰に触れて、少し目が覚まされたようであった。
July 13, 2014 "サイバー犯罪"

「主はもろもろの民をさばかれます。主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください。どうか悪しき者の悪を断ち、正しき者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。神は義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神である。もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、その弓を張って構え、また死に至らせる武器を備え、その矢を火矢とされる。」 詩編7編8-13節

 昨年9月、日本でスマホの電池が長持ちすると「電池革命」といういんちきなアプリ広告により約8000人にも及ぶ人がだまされてインストールし、支払いをしたとのこと。IT革命により、世界中で瞬時に情報が広まり、お金の決済もできてしまう世の中。サイバー犯罪は年々ものすごい勢いで巧妙化複雑化し、個人から政府にいたるまでありとあらゆる手法です。
 この5月に新しく購入したPCが最初から不具合があり、ブラウザーのダウンロードをすると次々と他のソフトをインストールするようサイトがポップUpし、そして勝手にインストールされる。一方、PCの基本的なことが作動ず、システムの復元をして、一からやりなおさざるを得ませんでした。そして新たにブラウザーをダウンロードをしなおすと、やはり、知らぬ間に「PCの問題を修正する」というソフトがインストールされていて、「このPCはこれこれの問題がある、このソフトを買えば問題を直すから、買え」のような指示がしつこくでてくる。またそれがそう高くない値段なのです。一方必要なソフト(文書作成ソフト)をダウンロードしても、最後のところでエラーがでて、何度やり直してもインストールできない。つい何の知識のない私は、「この修正ソフトをダウンロードすれば、直るのかな?」と思いました。しかし、いや待てと、辞めました。これは詐欺です。
 結局今まで何時間も費やし、嫌になって、返品するか捨ててしまおうかと思いましたが、同様の問題を抱えている人達の解決方法を参考にし、他の方法でやっとソフトを稼動させることができて感謝です。悪はどこまでも悪。詐欺をする人達には最初は「これくらいいいでしょ」から始まって、良心が麻痺し、エスカレート、そして「だまされるほうが悪い」と開き直るまでいってしまいます。ITの知識のない人間は格好の獲物です。おれおれ詐欺もしかり
 聖書には、神の性質、愛が書かれています。一方で、神は正義の神でもあり、悪に対する裁きもはっきり書かれています。もしかしたら、この世では、ある人達は悪行をしていても良い思いをして死んでいくかもしれません。しかし死んだら終わりではなく、死んだ後にも神がその人のしたこと全ての帳尻をあわせる裁きの時が来るとはっきり書いてあります。しかし、どんな悪をしたとしても、その人が死ぬ前に悔い改めてキリストをしんじれば赦されます。イエス・キリストがどんな罪でも、それに対する神の怒り、裁きを代わりに十字架で受けてくれたからです。これは調子の良い、不公平な話のように聞こえますが、神は非常に寛容で情け深い方なのです。しかしこの神の大きな犠牲を無視し、最後まで悔い改めず、信じない人は、滅びてしまいます。神は忍耐をもって何千年も人が神を求めて信じるように待っておられます。神の愛の性質の一つは忍耐だからです。私は犯罪は犯さなかったとしても、神の怒りを積むことをたくさんしてきたにも関わらず、憐みをうけ、赦された者として、このような犯罪を犯す人でも自分のしていることが悪いことだといつか気付き、悔い改め、それを赦す神がいること(たとえ人が赦してくれなくても)を信じて欲しいと願います。
 しかし、我々も詐欺については無知であってはいけないと、今回のPCのことで思わされました。
July 9, 2014 「YOUは何しに日本へ? 女の晴れ舞台SP」 に友人が出演

「・・・「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。」使徒の働き16章30-32

 私の教会の友人で、アメリカ人のジョセフとエイミーがなんと民放の番組から密着取材を受けた番組がTVで放映されました。早速FBで見ることができて感謝!番組では二人の出会いや、何しに日本に来たか、そしてちょうど彼女が子供を出産する時期だったので、出産まで密着取材。二人はカリフォルニアのモンテベロー市の教会で出会い、すぐには一緒にならなかったけど、二人とも申し合わせたわけでもなく、それぞれが神様から”日本人に伝道したい、日本に行きたい”という思いが与えられていて、機会を祈っていました。私はちょうど日本に在住の頃で、二人が別々に何度も日本へ短期間来てくれたことを思い出します。そして数年後、二人が結婚して、本格的に日本の大阪で牧師をするということになり、現在街の会議室をかりて礼拝をしています。教会の様子もちょこっと出てきました。取材の方に福音を話したり、教会の様子ももっと撮ってましたがほとんどカットされていたのが残念ですが、皆が円陣組んで、エイミーの無事の出産のために祈って”アーメン”といっていたのがテロップで強調!されていたので、安心。
 日本人はキリスト教、教会といわれても???で、イメージがあまりないと思います。ですから、これを観た人で教会を知らない人々が、教会って形じゃないんだ、会議室でだって礼拝ができる、暖かいクリスチャンの集合体なんだなと知ってもらう、チャンスだと。教会はいわゆる立派な建物とか、ステンドグラス、マリア像とかのある建物、つまり形でなく、キリストを信じる人の集合体です。一世紀頃の初代教会は、人の家に集まって礼拝していました。二人は神に呼ばれたから、それに応答して、日本に来てくれました。TVの取材班が成田空港で偶然ジョセフに声をかけたのは、偶然ではなく、必然、神の導きだと信じます。
 今日読んだ箇所は、キリストの使徒のパウロとシラスがユダヤ人以外の土地、外国でキリストを伝道し始め、迫害により鞭打たれて牢にいれられます。ところがそこの監獄の看守が色々あって、二人にどうしたら救われますか?とダイレクトに聞いたところです。彼はちょうど、地震がおきて監獄のドアがあき、囚人が逃げてしまったと思いその責任をとって自殺しようとしたところを二人に止められた後、出た言葉です。答えは、キリストをシンプルに救い主として信じるだけで良いと。そして看守の家にいってから、本人とその家族に更に詳しく神の言葉を伝え、皆がキリストを信じたという箇所です。日本のようにキリスト教が知られていない国でも、家族の中で一人が信じると、その人の家族への波及効果が神にあって期待できます。もちろん、最初は反対されるか、相手にされないかもしれません。またこのことは親が信じたから子供も自動的に信仰が与えられるという意味ではありません。結局、個々人がキリストに関する情報を聞いて、信じる必要がありますが、まずは家族の中、親族の中で一人から。ジョセフとエイミーも、こつこつと小さい集会で一人一人をケアし、神の言葉を宣べ伝えている様子が、図らずも日本で放映されたのは、偶然ではないと思いました。
 しかし、分娩室に出産直後にカメラを入れさせるというのは、アメリカ人ならではの大胆さ!二人がシェアしてくれたこの感動の二人のJourney(旅)を主にあって感謝!(美しい赤ちゃんの名前はJourney Ai:ジャーニー・アイ(愛)だそうです。
July 7, 2014 "今更聞けない聖書の基礎知識"

「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」 第2ペテロの手紙3章18節

 この独立記念日の連休は、日本の教会から牧師に来て頂き、特別集会を開催しました。テーマは”今更聞けない聖書の基礎知識「信仰と愛」”として、信仰・愛についてより深く学び、またその学んだことを実践するところまで行きたいねと、お互い励ましあう非常に恵まれた機会となりました。
 「クリスチャンホームで育った人は、いいわよね。」(つまり、知識があるから信じ易い)と言われますが、実はキリストを個人的に信じることは、家がクリスチャンだ、仏教だと関係がないのです。例えば、アメリカでは小さい時教会に通っていても、大人になって全くいかなくなる人がほとんどです。逆に、家が仏教で教会にいったことがない人でも、その人がある時点で、神を求めた時、キリストに出会えます。信仰は親の信仰をもらうわけではなく、結局個人個人で信じるか信じないかを問われる時が、どんな国にいても、どんな家庭にいても長い人生のなかで、チャンスはあるはずです。
 また知識は重要ですが、知識だけでは救われません。教会に長年通っていて聖書の知識があっても、彼らの信仰がカルチャー、宗教儀式、慣習になって、まったくキリストに従おうとしない人々が”クリスチャン”と自称する場合があります。かくいう私も以前そうでした。そういう場合、クリスチャンじゃない人から観察されて、「この人はクリスチャンっていっているけど???」と、その人の普段の言動でばれてしまうものです。実は、本人も心の深いところで平安がなく、神を信じているといっても、世の中の人と同じ考え方をしていて、心は二股状態、なんだか変だと思いながらも、惰性で過ごしてしまうこともあります。
 神様は、そういう二股状態の人をも、キリスト教に今まで関わりがなかった人も、ある時恵みにより信仰さえも与えてくれます。信仰は神からのプレゼントなので、知識を本人が得る得ないに関わらず、与えられるものです。逆に神の恵みのゆえに、素朴に信じようというところからスタートします。いくら知識があってもキリストを信じることができない人は、神の恵みを受け取れないでいるのでしょう。神の恵みとは、受けるにふさわしくない者が受ける、神からの一方的なプレゼントのことを言います。この、”受けるにふさわしくない自分”を自覚できるかどうかが、恵みをうけとれるかどうかのポイントでもあります。これは、その人の心の深いところで、自分の心が貧しいと分かる瞬間から始まります。行いや自分の性格、能力を誇る人は、今ある自分は自分の努力のおかげ、ラッキーだ(幸運とはなんでしょうか、そもそも非科学的)もしくは自分は悔い改める必要のある悪い人間でない、神の存在は別にいらないという人は、恵みがわからない。しかし、神の恵みがわかると全ての見方が変わるのです。偶然とか運でないと。
 もちろん、信じる際、最低限の情報がないと信じようがありません。また信じた後に、もっと知る必要があります。なぜなら、信頼するお方を、知ることなしに、どうやってキリストとの信頼関係が深まるのでしょうか?そのために、聖書の学びが大切となってきます。キリストがどういう方か、神様がどういう方かを聖書のことばを通して知るように、デザインされているからです。キリストの恵みと知識によって成長する必要があると。私は小さいグループですが、一人でも多くの人がもっとキリストを知ってほしいという素朴な願いを持って、聖書の学びを開いているのも、この為でもあります。
 7月4日は聖書の学びの後、思いがけず、ある方のおかけで、ウォールストリートの47階の高層ビルから花火を見ることができ、今までで最高の花火鑑賞の時でした。今年は学びと、花火、そして皆で食べるおいしい食事とすばらしい連休を与えられ、神様にただ感謝がつきません。これも恵みです。こんなビルに入館できる資格がないのに入れましたから。
July 1, 2014 "映画「炎のランナー」 その後"

「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」第一コリント人への手紙10章31節

「先生、ジャップだけは、この”敵”に入らないですよね?」第2次世界大戦時、在中国のアメリカ人宣教師達が日本軍に拘留されていた時、子供達に聖書を教えていた、宣教師のエリック・リデル (Eric Liddell)は、こう質問されました。彼は、学生の時イギリスの陸上競技選手で1924年パリ オリンピックに出場し、男子400mで世界新記録にて金メダルを獲得。当初出場予定だった100mが日曜日に行われると知り、クリスチャンなのでその出場を断念し、急遽400mの練習に切り替えたにもかかわらず勝利。そして200mでも胴を獲得。彼の活躍は「炎のランナー」という映画で描かれています。彼は自分の記録のために走るのではなく、「神に栄光が帰るために走るんだ」と(つまり彼の信じている神がすごい!)。得意の100mで金を獲得したら、彼の努力のおかげ。しかし想定外の結果は神が勝利をもたらしたと、彼は神に栄光を返しました。
 大学卒業後、宣教師として中国に渡り、大戦中日本軍に収容所に拘留された際、折りしも聖書の「汝の敵を愛せよ」というキリストの教えを子供達に教えていました。彼は正直に「私も最初日本軍だけは愛せないと思ったよ。だけど、祈り始めたんだ。すると自分の内側が変えられてきたんだよ。だから君達も日本軍のために祈ってごらん」と。後年、その内の一人が日本の津軽で宣教師になったそうです。敵を愛せというのをまさに実践できるよう、”心が変えられた”生き証人です。
 私もキリストを信じてから、仕事についての考えが変えられました。仕事は自分の成功や自己実現のためではなく、職場で与えられたことを誠実に遂行し、職場の人に仕えようと思えるように心が変えられました。見えない神に仕えるように仕事でも上司に仕えなさいと聖書の教えにもあるので、こういう形で職場でも神の栄光が現れてほしいと願います。例え、そうできにくい職場の人間関係だったとしても、リドルのように神に祈って頼れば、自分の心が変わり、何か変化がおこり”神のおかげだ!”と栄光が帰ることを期待し、神に従おうと思います。
 一生取り組むべくは、自分に良くしてくれない人、むかつく態度をとるひと(つまり敵)を愛そうとすることでしょう。これはキリスト抜きで、自分の力や持ち前の性格でやろうとすると不可能です。が、出来ないから「助けてください」と祈り始めると、神が心を変えてくれて、リデルやこの津軽の宣教師のように、可能になると励まされます。また、なぜそこまでイエスに従おうと思うかというと、私はイエスに敵対していたのに、イエスは私を愛してくれたからです。命を懸けて。それを思うと、自身が不完全で、出来てなくても、とにかくイエスの愛に応答したいなあと。
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