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信条・Statement of Faith
♪今日の一言♪



聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



(写真左:支笏湖・北海道)
共同体での役割分担 羊の性質 私的解釈
復活の力 Happy Thanksgiving!

洗礼の意味

ご馳走週間:感謝祭の由来 やることリスト 病気の癒しのための祈り
信仰と行い 言葉のコントロール お店でのちょっとした嫌なこと
信仰がほめられた人 持っているもので満足すること 上からの知恵
基礎と応用 疲れていて眠い時 朝ごとに新しい October 2010
アメリカへ移民した人たちの苦労 人は一人では難しい。。。 戦闘欲への対処
September 2010
その人の向こう側にいるキリストの為に 介護と心の支え 永遠の愛 August 2010
(以下今月分日付順)

Nov. 29, (Mon) "私的解釈"
「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」第 2ペテロの手紙 1章21節 

 ハリウッド映画のSFやホラー映画(例えば「ハルマゲドン」・「セブン」等)を観ると、”あ、これって聖書の黙示録のこの部分を使っているな”と気がつきます。聖書に書いてある預言を部分的に引用し、いくらでも怖い映画が作れるようです。もし、聖書のテーマや全体の文脈を理解していれば、これらの映画が全然聖書の文脈を無視した勝手な解釈と引用にもとづくフィクションであることが明白になるからです。
 今日の箇所でもキリストの弟子ペテロが、すでに初代教会の時代(2千年前)にも聖書に書いてある預言を勝手に私的解釈する人がいたから、そうしないようにと手紙に書いたのでしょう。ましてや現代のようにもっと時間が経っていると、聖書の箇所を自分に都合よく引用する人も多いでしょう。私も自分状況に都合よく合わせて、聖書のある箇所を取り入れる危険性があります。ですから、日々心に与えられている聖霊を通して神の言葉(聖書のことば)が正しく示されるよう、心への日々の糧として下さいと祈ろうと思います。
 神の言葉は人が聖霊の導きによって示されて、書物として書かれ、今に至って聖書として残されているとすれば、これを理解するのも聖霊の助けが必要です。もちろん、読み物として知識だけで表面的に道徳書として理解は出来ます。聖書はもっと心の奥深いところ、魂に問いかけてくるものです。聖霊が、常識では信じられないことを信じられるように人の心を変えるという奇跡をおこすからです。これからのクリスマスのシーズン、そういう奇跡がたくさん起こるように祈りつつ。
Nov. 28, 10 (Sun)”羊の性質”

[そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。…同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」第一ペテロの手紙5章1-2,5節

「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。」エゼキエル書34章23節

 昨日は友人とその息子さんと羊のアニメーションのDVDを観ていました。羊というのは漫画やぬいぐるみにするととってもかわいいですが、実物はあまりかわいいと思えないのは私の個人的意見。以前羊の生態についての本を読んだことがありますが、羊というのは家畜のなかでも非常に世話を要する動物で、羊飼いがいないとすぐ死にます。他の動物のように、自分で水がある場所や草を探しにいけず、同じところで動かずづっと自分の周りの草を食べ続け、なくなっても自分では移動できないそうです。そして、寄生虫も羊毛にたくさんつくのですが、ネコやイヌのように転がって地面に体をこすりつけて取り除くこともできまずそのケアも羊飼いにしてもらう必要があります。そして非常に頑固だそうです。誰かに世話してもらわないと本当は生きていけないのに、その事にきがつかず、”我が道を行くんだ”と耳をかさず。。。羊は誰か(→ME)に似ているような気がします。
 聖書では神様はよく人々を羊にたとえ、イエス様を羊飼いに譬えます。また古代ユダヤ人の王国や現代の教会やでも今日の箇所のように、王さま・祭司や教会のリーダーを牧者・羊飼い:人々を神のことばで養い、世話する者としてたとえられます。(だから教会では”牧師、Pastor”と呼びます)イエス様はご自身を”私は良い羊飼い”とおっしゃり、すべての牧師・リーダーの上の大牧師です。人間全体をケアしてくださる方として、キリストが生まれる約600年前の紀元前に預言者エゼキエル書をとおして、”ダビデ(→キリストを指す)を牧者として立てる”と神様は預言、約束されています。
 私のような教会のなかでの一信徒は、今日の箇所のように牧師(リーダー)や長老を神から建てられた権威として従うようにと書いてあります。(もちろん、彼らが健全であることが前提ですが)教会でなくても、組織においてリーダー批判するのは簡単です。上に置かれた人は責任と能力があってしかりですが、だれも完璧ではなく、同じ人間です。もし教会内で何か問題が起こったら、陰で批判するのでなく、当人と話しあいの時間をもち、キリストにあって和解し、合えるように神様から愛をそそいで頂きたいと願います。

Nov. 27, 2010 (Sat)  "共同体での役割分担"

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕えあいなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によってそれにふさわしく、奉仕しなさい。それはすべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。・・・」第一ペテロの手紙4章10−11節 (新改訳)

 私は5人のアメリカ人と一緒に大きな家をシェアして住んでいます。日本のような家族とのみ住むという文化も、最近は少し変わってきているようで、NHKのTVの特集によると、若い人たちが他人とひとつの家をシェアするスタイルや、他人同士の単身のお年寄りとシングルマザー・子供が小さい家に一緒に住むという形態も不動産の仲介でされているとのことです。
 他人と共同で住むということは楽しい時もあり、トラブルになることもあります。私は本当に恵まれていて、この家はとても住み心地がよく、秩序があるのです。同居人は皆大人である程度のルール(夜中に騒いだり、ちらかしたり迷惑をかけない)を守り、少しぐらいのことはお互い我慢し譲り合い、また共に家を快適に住むための家事の分担・役割も決まっています。また、他者の生活に干渉しませんが、親切なスピリットがあって、何か協力が必要なときはお互い助け合えるので、とっても感謝です。大きな犬4匹が家の中にいるという状況は私にとってチャレンジでしたが、よくしつけられているので、だいぶ慣れました。(私は猫と住んできたので〜猫派です!)
 クリスチャンの共同体である教会も、キリストを信じる信仰が共通項で集まっていて、その組織を維持するために役割・分担みたいなものが自発的に行われ(奉仕といわれます)、秩序が保たれることになっています。しかし実際、クリスチャン:自分が罪人と自覚している人でもその信仰の成熟さや段階は個々人異なり、欠点もあり、自我がでます。聖書の教え:キリストの愛を忘れて、その秩序が乱れ、悲しいことに分裂することも多々あります。
 もし一人一人が、自分の能力や資質がすべて神様から与えられていて、それを自分が誇るためもしくは自分の教会での存在価値でもってするのでなく、他者に=神様に仕えるためにその賜物Giftを用いようという意識を忘れず、すべてのうまく行っていることは神様のおかげなんだというところで一致できるのであれば理想です。実際、自分たちの持ち前の性格や努力ではそううまくいかないからこそ、だから祈って互いに赦しあい、譲り合う点を模索し和解する必要がある。そして大切なのはキリストはどう言っていたか?聖書の教えはどう言っているか?を思い出させてくれるのが、信じる人の内側に住む聖霊(神の霊)です。この聖霊=神さま=キリストの力なくして、教会で平和的に仕えあうというのは困難だと、自身が教会に行っていて経験し、本当に聖霊の力が必要だなと痛感します。

Nov. 26, 2010 (Fri)  "洗礼の意味"

「そのことは、あなた方を救うバプテスマをあからじめしめした型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天にのぼり、御使いたちおよび、もろもろの権威と権力を従えて神の右の座におられます。」第一ペテロの手紙3小章2122 (新改訳)

 私は初めてキリストを信じようと決心し、洗礼を受けたのは高校生のときでした。そのときのことは実はそのときのことをよく覚えていないし、洗礼式の日も忘れてしまいました。聖書のこともあまりわからなかったけど、とにかくキリストを自分の人生のなかで救い主として神様としてシンプルに信じようと思い受けました。

 洗礼式のやり方は各教会や宗派によって様々です。中でもカソリックプロテスタントの大きな違いは、カソリックは昔、ローマ皇帝の統治時代、ローマ帝国の国教とキリスト教が定められて以来、その国に生まれた人は自動的にクリスチャンになるという慣例で、幼児洗礼といって、幼児のように本人の意思表示ができなくてもとにかく洗礼を受けさせる、後で大人になってはっきり信じると表明したときに堅信礼といったものもあるそうです。一方プロテスタントは、ローマ帝国以降の中世のヨーロッパ諸国で宗教が腐敗し、聖書の教えとはかけ離れた政治的な堕落したキリスト教となってしまったとき、マルチン・ルターという人がこんな儀式・制度は聖書に書いてない、おかしいじゃなか!と既存の宗教にプロテスト(反対)して、プロテスタントが始まったことは世界史の教科書にものっています。(誤解のないよう、今のカソリックは正当です)プロテスタントでは儀式的なものより、実質的、聖書・神のことばに忠実を目指すので、洗礼も、クリスチャンの家庭に生まれたから自動的に受けさせるのでなく、子供がきちんと信じるという決心が出来るようになった時、本人の意思表明ができるときに洗礼式を行おうという考え方です。どちらが正しいかという議論ではなく、私は幼児洗礼を受けた方があとで、堅信礼で信じることを誓えばどちらも結局同じことだと個人的に思います。

 今日の箇所でも、洗礼はこれを受けたら神様からのお守りとなるとか、清くなるとかいうことでなく、良心の誓いだとキリストの弟子のペテロが手紙に書いています。十字架で私たちの罪のために代わりにしなれ、復活されて今は天国にいるキリストを救い主と信じると公けに誓うことです。中身がわからないことに誓いはできません。しかし、聖書がわかってから、教理がわかってからでないと受けられないという決まりであれば、私は一生受けられないでしょう。シンプルな信仰の告白で受けていいのであって、洗礼はあくまでも受けたら終わりでなく、スタートです。新たな人生の歩み、キリストのために生きる、キリストとともに歩むという始まりで、ゴールはこの地上の歩みが終わった後行く天国です。このゴールを目指して、与えられた信仰が成長するプロセス、互いに神様の愛で愛し合えるような訓練の時期が地上の歩みであります。私もゴールに向けて日々、発展途上です。Praise the Lord

Nov. 25, 2010 (Thu)  "Happy Thanksgivng"

「わが神、主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。それはあなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいをよみの深みから救いだして下さったからです。」詩篇86編12−13節 (新改訳)

 今朝、ハウスメートから「今日は雪よ♪」と言われるまで、日本の友人達とスカイプで話していて気がつきませんでし本日フィラデルフィアは雪の感謝祭、祝日であたりはとっても静かです。雪は積もりませんでしたが、秋から冬への季節の移り変わりを感じます。この家でも、台所からご馳走のいい匂いが漂い、ハウスメートの人とも”Happy Thanksgiving!”と挨拶をかわします。

 感謝祭では誰に何を感謝するかというと、この一年を振りかえり、神様が私のちいさな生活の中でたくさん、良くして下さったことを思い返し、そのことを感謝したいと思います。昨年の今頃は、アメリカに行くことにほぼ決心したものの、これから先、仕事は、健康は、生活はどうするのか?と先行き不透明でした。やはり、ちゃんとすべてのことが、備えられて今があることは、すべて主(キリスト)、神様の恵みです。自身の能力とか展望には期待できませんが、これからの一年も神様の恵みに期待し、感謝をささげたいと思います。

 今日の箇所は紀元前のイスラエル人の王、ダビデが書いた詩篇。彼は、若いときは羊飼い、そして凄腕の戦士、またたくさんの詩を書き、琴で歌うミュージシャンでもありました。彼の人生は決していつも安穏としていたわけでなく、波乱万丈、先の王様から命を狙われ何年も家族と彼の仲間と荒野を逃げ回る生活もあり、時には精神的においつめられてり、失敗することも。彼は、詩に自分の神様への心の叫び、助けを求めることはもちろん、状況が悪いときでさえも神様をほめたたえ、感謝の詩をたくさん作りました。

 人生がうまく行っている時だけ神様に感謝するのでなく、病気・失業・困難・失意のなかでも、そのときの苦しみについてもダビデが詩篇で書いているようにそのまま、神様に祈って窮状を訴えると同時に、もっとも大事なこと:キリストのおかげで私の魂がよみから救い出してもらった、その恵みに目をとめ、それだけでもいつも感謝できるように変えられたいです。Praise the Lord

Nov. 24, 2010 (Wed)  "復活の力"
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。」
第一ペテロの手紙 1章3-4節

 今日の箇所はイエス・キリストの弟子、ペテロが晩年に書いたといわれる、特にローマ皇帝ネロの厳しいクリスチャン迫害下にある信者に宛てた手紙だそうです。ペテロは伝承によると、逆さ十字架につけられて処刑されたと。彼はキリストが生きていたころ、弟子達のなかでもリーダー格でしたが、一方で大きな失敗も:キリストが十字架にかかるのに逮捕された時、自分も逮捕されたくない恐れで「私は(イエスなんか)知らない!」と3回も否定した弟子です。しかし、イエス・キリストが復活された後、直接キリストより赦しを受けて、そして聖霊の力を上から受け、大胆に復活したキリストについて、その4音を伝える大使徒へ変えられました。
 ペテロのメッセージのポイントはまさに、今日の箇所。神様は、十字架で私たちの罪のために代りに罰を受けて死なれたイエスキリストをよみがえらせました。死んだキリストが自分でむくっとおきたのでなく、神様の力で死んだのに、復活させられたのです。イースターではその復活をお祝いするのが由来ですが、私たちキリストを信じる者は、毎日、そのキリストの復活を覚え、それが自分自身にも関係あること、つまりキリストを信じることでその神様の復活をも可能にした力で、新たに生きることができる。キリストにあって地上にいる間も希望を持って生き、また死んだ後も天国での資産を受け継ぐ子供としてくださるという約束が与えられています。私はそんなことを与えられる資格もないし、ふさわしくないのに、ただキリストの救いを信じるだけで。この神様のプレゼント:恵みに今日も感謝します。Praise the Lord
Nov. 23, 2010 (Tue)  "病気の癒しのための祈り"

「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」ヤコブの手紙 5章14-16

 2000年前、イエス様の時代は医療的処置や技術が発達していなかったため、傷口の手当にオリーブ油を塗るのが治療の一つだったようです。今日の箇所でイエス様の弟子ヤコブは、肉体的な病気のためにも、また霊的な癒しも両方、信仰による祈りは病んでいる人を救い、主(キリスト)がその人を立ち上がらせて下さる、そしてその人が罪を犯していたら赦されると、書いています。私も病気になった時、頭に少しオリーブ油を塗って、牧師に祈ってもらったことがあります。祈ってすぐに病気は消えませんでしたが、その病気を通して私の魂が刷新されるきっかけとなりました。
 ”祈ったら必ず”、病気が治る、障害が治る”とは聖書には書いていないようです。祈りによって奇跡的に癌細胞がなくなる人の話しも聞いたことがありますが、そうでない人のケースのほうが多く、祈ってもなくならず手術や治療をしたり、それでも亡くなられる方もいます。実際、私の友人で昨年癌になって、手術後、再発、そして今はあっという間にホスピスケアになられてしまった方がいて、彼女の為にづっと皆で祈ってきたので、本当に彼女のことを思うと涙がでます。でも彼女の魂は、キリストを信じているので、今意識がほとんどなくてもキリストと一緒であり、もうまもなく体の苦しい状態から解放されて、天国にいかれるという希望が一方であります。でも本当に悲しいです。そばにいる家族に慰めが与えら得るよう、祈っています。
 義人はいない一人もいない。と弟子のパウロは書いていますが、一方で、キリストを信じる信仰によって義(正しい)とみなされるともあります。つまりキリストのゆえに正しくない私たちも義人とみなされて、そしてその祈りは力があって効果があるという約束を信じたいと思います。究極的には身体的な癒しがあっても、いつかは私たちの体は死ぬ時がきますから、魂の救い、つまり神様との関係の回復を一人でも多くの人が受け取れること、これが神様の願いです。。Praise the Lord
Nov. 22, 2010 (Mon)  "やることリスト"
「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。 むしろ、あなたがたは『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう』と言うべきである。 ヤコブの手紙4章15節

 自分の記憶力がだんだんあてにならなくなると、近々の予定の中でThings to do(やることリスト)をメモに書いて目立つ所においておき、そして終わったら二重線で消していきます。以前の職場ではPCのスケジュール表に全て仕事の訪問予定を入力しておいて、それを朝来ていざみないと全然思い出せない程、仕事とプライベートをはっきりわけられていたのも感謝なことでした。まれに、あのケースはどうしよう。。。と困難なケースについては家に帰って思い出すこともありましたが。
 今日の箇所、”主のみこころであれば、あの事もこのこともしよう。”その日のやることリストを見て今日やることさえ押さえ、地道にやればいいんだと励まされました。「明日の事は明日が思い煩うから、思い煩うな」とイエス様は言われましたが、本当にその通りだなと。予定は自分でコントロールできないところもあり、状況は変わるもの。今週も、それぞれの家庭・職場・学校において、神様の祝福がありますように。Praise the Lord
Nov. 21, 2010 (Sun)  "ご馳走週間:感謝祭の由来"
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」 第一テサロニケの手紙5章16-18節

 今日は教会で少し早い感謝祭(Thanksgiving)の礼拝があり、みんなで七面鳥(ターキー)の丸焼き、パンプキンパイ等を食べて、この一年間、神様が良くして下さったことを感謝しつつお祝いしました。北米の国等では毎年秋の決まった日に祝われます。感謝祭はの由来はキリスト教徒がヨーロッパから宗教的迫害を逃れるため北米へ移民してきて、地元のインディアンの人々にも助けられて、厳しい状況下の中なんとか翌年の秋、収穫を得ることができ、ともに神様に感謝をささげるためにお祝をしたのが由来だそうです。今度の木曜の当日もお友達の家に招待されてまたターキーを食べる予定、また私の住んでいる家のオーナーも人を招いて家でご馳走を作ると。。まさにご馳走週間です。
 今日の箇所は感謝祭の礼拝で牧師がメッセージで引用した箇所です。とてもよいメッセージでしたので要約をご紹介。私たち生活のなかで必ずしも喜べないときもあるし、辛いことがあったり忙しくて感謝できないときもある。今日の箇所は状況によって悲しい時は悲しむし、喜ぶ時は喜ぶ、決して痩せ我慢して無理に喜べ感謝しろという文脈ではないと。また、祈りはコミュニケーションとして、手を合わせて目を閉じてというフォーマルな形式でなくても、いつでも神様に、話しかけるようにお願いや困った時だけでなく、ありがとうとか、これこれしかじかなんですと、なんでも。キリストのおかげで、気軽に神様にお話しができるわけですから、この特権を恵みとして受け取りましょうと。
 ただ一つ、どんな状況でもいつも喜んで感謝できることが、クリスチャンにとってひとつあると。それはキリストが私たちを罪から救うために十字架で代りに罰をうけるため死んでくれたこと、この十字架の犠牲のおかげで、感謝するときは感謝し、苦しい時・悲しい時は悲しみ、泣きながらも、神様に助けを求めて祈ることができる、そして神様の力でなんとか乗り越えていけるという希望を与えられる事に関しては、喜べるし、感謝の祈りをささげられます、というメッセージでした。本当にこれからの一年も、聖書の言葉を覚えていたいです。Praise the Lord
Nov. 20, 2010 (Sat)  "お店でのちょっとした嫌なこと"
「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった。」ローマ人への手紙6章16-18節

 アメリカに住んでいるととにかく、日本と文化が全く異なることがたくさんあり、自国の文化や国民性を基準に相手を推し量ると苦い思いになり、楽しく生活ができないことがあります。日本在住の外国人もそう思っているでしょう。また、国民性というより、ようは人によるのです。個々人の性質はお互い全く異なるわけです。
 昨日、コピー屋で教会の印刷物を牧師と一緒に印刷していって、私は幾つかあるコピー機を使っていたおばさんが去ったので終わったのかとうっかり思い、それを使おうとしたら、そのおばさんがやってきて「てめーなにするんだ、人が使っているのを台無しにしやがって、おまえは台無しにした、ばかやろう、ふざけんな」とこちらが謝っても謝っても1-2分間罵倒されました。ここでいつもの私ならいいかえしてやろうと思うのですが、やめました。私が悪かったので、謝り、何も物理的に損害を与えていませんから黙っていました。それに対して赦そうともせずいつまでも罵倒するのは相手の罪。それに関わる必要はないのです。
 以前のキリストを信じる前の私は罪に支配されていたので、自分の罪や相手の罪をいつまでもひきづって、苦い思いが残り、“だからこういうアメリカ人はいやなんだ”とか相手をバカにしたり、攻撃的にいいかえしたりしていました。それは死に至る罪の奴隷状態。いいことはないです。しかし、感謝なことに、キリストを信じ、神の霊(聖霊)が心に与えられているので一瞬ぐっと衝動はわいても、ストップがかかり、主よ、すいませんと謝れます。平和的に生活するには、神様の義(正しさ)の基準をもとに行動し、考えようよと聖霊が教えてくれるのでありがたいです。Praise the Lord
Nov. 19, 2010 (F)  "言葉のコントロール”
「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」ヤコブの手紙3章2節

 私は仲の良い妹がいます。2人で話しているとエンドレスに話しが続き、2人ともおしゃべりでそのペースと切り返しが速いので始めてみた人は驚くようです。話しのテンポが速いのでついていけないといわれたことがあります。一方、家族だから言いたいことは言い合うとはいっても、お互い“これは相手に言うべきではない”という節度はきちんとわきまえ、配慮もしています。
 福祉の相談員の仕事につくようになってから言葉について特に気をつけるようしています。また自分が話すのでなく、相手のニーズ・思いをひきだすため、相手に話させなければならないのですが、これは私のようにおしゃべりの者にとっては最初は大変でした。一方、利用者さんでも一方的に話しだすと1-2時間連続で止まらない方々もいます。そういう場合の話しの切り替え、問題に焦点を戻す時などは、ただ聞いているだけでは仕事になりませんから、うまく切り込んでいく時におしゃべりが少しは役に立つかもしれませんが。とにかく、どの仕事であっても口:言葉をコントロールするというのは重要だと思います。会社等でも、対人関係が発生する場所では、コミュニケーション能力は不可欠でしょう。
 今日の箇所“言葉の上であやまちがない人は完全な人“、そんな人はいないでしょう。というのは続く箇所でも 「ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている」8節と書かれています。ですから、ここで神様の助けが必要になってくるわけです。特に苦手な相手と話す時、過去に嫌なことを言われたりされたり、不当に扱われたことがあれば穏やかではないですし、心にあることを人は言うので、心自体に、苦い思いやねたみ、不信感を持たないようにするのは限界があります。仲が良い相手に対してでさえ、悪気がないのに余計なことを言ってしまって失敗してしまうこともあるでしょう。口からでてしまったことは二度と帰りませんので、ことばを使う時に知恵が必要と思わされます。
 キリストは「互いに愛し合いなさい」と言われました。これは苦手な人に対しては無理、だからこそ愛を上からもらわないと、口・心を制御するのも不可能です。しかし”神によってすべて可能になる“とキリストは言われました。「私が愛を注ぐからやろうとしてごらん」と、日々チャレンジして下さっている声に耳を傾けたいと願います。
Praise the Lord
Nov. 18, 2010 (T)  "信仰と行い”
しかし、『ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある』と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。」ヤコブの手紙2章18-19

 WWJDというロゴを見たことがありますか?(アメリカでは時々そのステッカーや小物を見かけます”キリストだったら(この場面で)どうするでしょう?“の意味で、これは私も日常生活ですっかりキリストのことを忘れてしまうので、とてもいいリマインダーだと思います。
 中世時代に堕落したキリスト教の宗教改革を行ったあの偉大なマルチン・ルターは、このヤコブの手紙でいう“行いの伴わない信仰は死んだも同然”(2章1-17節)という教理に疑問をもち、ヤコブの手紙をわらの書と言ったそうです。つまり同じキリストの弟子であるパウロがローマの手紙等で、信仰:信じるだけで義とされる(つまり神様から、キリストのおかげで正しくない私たちが、正しいとみなしてもらえる)という教義とヤコブの行いを含む教義は矛盾すると。
 聖書は、神様の計画の全体として総合的に読むものであり、ある箇所をことさら強調して教義とすると、新しい宗派ができてしまうものだと以前教えられました。ヤコブは、その救いをもらった後の心の態度を指摘しているから矛盾はしないわけです。たとえば信じた後はなんでもしてもいいでしょうと、放縦主義に走る人への戒めだと思います。当時の初代教会のクリスチャンのなかでも、信仰があるといい、教会に集まっていながら、貧しい人達を軽視したり、自分が富んでいても全然憐れみの心もない状態の人々に対して、ヤコブはそれっておかしいよね?キリストだったらどうしてた?といやみも含めて書いたんのではないかと思います。
 もちろん、パウロが言うように救いは行いによりません。私たちは何かしたから、資格があるから救われるのではなく、一方的な神様の憐れみと恵みでキリストの十字架の犠牲のゆえに、それを信じれば罪から救われ神様の子とされる特権を頂けます。だから私たちは信じるだけで、救われるのです。しかし、 神様を本当に信じていたら、神様がこれほどまで自分を愛して救ってくれたその愛に応答して(義務ではなく)、キリストの教えに従おうと変えらていくはずです(これは現在進行形)。何かをする・しないという以前に、心の状態が新しくキリストのように生きると決めていたら、少なくともおのずとその自由や権利を濫用するほうに行かないし、他者に対する憐れみの心や親切にしたいと、実際できなかったとしてもその人のために祈ることもできると思います。ヤコブの手紙はいつでも、すぐ基本を忘れてしまう私への教訓です。

Nov. 17, 2010 (W)  "上からの知恵”
「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。」 ヤコブの手紙15-6

 新しい職場にきて今日で3日目。始めての分野での仕事プラス、11年振りにアメリカで働くので不慣れなのですが、やさしい上司にも恵まれ、楽しんで働いています。職場でも知識も蓄えて行く必要もあり(頭がついていかない)

 今日の箇所、ヤコブの手紙は、イエス・キリストの異父兄弟でもあり、当時の弟子のなかでもリーダー格であったヤコブがその晩年に信者むけに書いたと言われています。彼は後の章で、知恵には二種類あって、上から(神様から)の知恵と、ねたみや苦みを含む肉に属する知恵とがあると。「上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。」(317節)こういう知恵がほしいです。これらは、不足していれば求めれば神様が惜しみなく与えてくれるとのこと。毎日の生活の中で、知恵があったらなあ〜と思う場面がたくさんあり、その時は下さいと求めようと思います。

Nov. 16, 2010 (T)  "持っているもので満足すること”
「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 だから、わたしたちは、はばからずに言おう、『主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか』」へブル人への手紙13章5-6節 
 
 私はよく、「家族にどうしてもっと身なりにお金をかけてきちんとしないの?」といつも執拗に言われます。(あまりしつこいので超、むかつきます→すいません)家族は私の事を思っていってくれるのはありがたいのですが、社会生活をするうえで最低限の身なりをしているつもりで、センスはよくないかもしれませんがカジュアル・シンプルなスタイルを好み、洋服やバック等にあまり興味がないのです。だいたい必要な時に買うだけで持っているもので満足できるのです。私がお金を使うとしたらほとんど食事代で、特に人と会って食事したりカフェでお茶するのが楽しいので、自分が楽しいと、価値を見出すものにお金を使います。それが私の場合は洋服・バック・化粧品ではないだけです。
 人それぞれ、気になるもの、頭を占めてしまうものは異なると思いますし、もちろんそれ自体は悪いことではないです。ただ、どうしても”もっともっと”と、欲してしまう傾向性が誰にでもあるので、その”もっと”を追い求めると他の生活の部分(例えば家族とのコミュニケーションの時が減る、他の人のために時間をつかう、無駄使いしていまう)にしわよせがきます。夜遅くまでパソコンでネットサーフィン、相場のチェックをして寝る時間を削ったり、ゲームを一日何時間もすることは心身によくないですし、その心身のダメージが他者との関係にも影響するでしょう。また直接的に社会問題となっているのはカード地獄:多重債務。
 持っているもので満足する、嫌なことを家族に言われてもムカつかないこと、これらはキリストの愛の性質と関係あると思います。キリストの弟子パウロは「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」 とガラテヤ人への手紙に書いています。これらは自分の持ち前の性質ではこのリストを日常生活で実行するのは私にはお手あげです。今日の箇所でもキリストが「決してあなたを離れずあなたを捨てない」と言ってくださるので、キリストからこれらの愛の性質を心に注いで下さいと求めようと思います。Paise the Lord
Nov. 15, 2010 (Mon)  "信仰がほめられた人"
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」へブル人への手紙11章6節
 
 聖書を読むとイエス様が地上で宣教されていた時、信仰をほめられた人は2人だけ。一人は当時ユダヤ人を占領していたローマ軍の百人隊長、もう一人はツロ・シドンの地に住むユダヤ人にとっては外国人の女性。逆に弟子達は「信仰の薄いものよ!」と何度か言われていました。
 神様・イエス様が私たちの信仰を喜ばれるのは、何か慈善の行いをしたからとか、信心深いからではないようです。ほめられた2人は別に聖書のことも知らなかったし、ただシンプルにイエス様に力があることを信じて、百人隊長は彼の部下の病気、女性は自分の子供の病気を癒して下さいと、低くなってイエス様にお願いしていたことが書かれています。彼らの低い態度がポイントなのでしょう。百人隊長は自分がローマ軍の軍人でイエス様に自分の家に来ていただく資格がない(当時、ユダヤ人は外人とつきあわないし家にもいれない、食事もしない慣習あり)から、イエス様が言葉だけで命令しくれれば癒されるという信仰をもっていた。この女性も、自分も外国人だしお願いする資格ないけど、ひれ伏して、犬が主人の食卓からこぼれたパンは頂けるように、外国人にもおこぼれで癒して下さいと必死にお願いしていた。そうしてイエス様が2人の信仰をほめ、彼らの病気はすぐに癒されたのです。
 私は今日示されたのは、時々自分が気付かぬうちに、神様に何かをお願いし、答えてくれるのが当たり前、答えてもらうのにふさわしいと思ってしまう危険性があるということです。そして、何度も長期に祈って自分の願いがかなえられないと”神様、意地悪!”、”どうせ私は行いが悪いからだめなんだ”といじける。そういう傲慢な姿勢を、神様は悲しまれるだろうと。そして”信仰”という漢字からするとキリスト・神様を信じて仰ぐ、礼拝するという意味が含まれているように、信仰があれば低い姿勢がともなうはずです。それなのに、かなえてよ〜という、態度は全然信仰がなく、困った時の神頼み、単なる自分の願いをかなえてくれる魔法使いジニ-にお願いしている感じです。
 自分がそもそも、罪があって神様にとても近づけない、神様に祈れる資格がない、者であったのに、イエス・キリストの十字架の犠牲のおかげで、罪が赦されて、神様に祈ったり近づけるようにして頂いたということを信じて始めて、低い姿勢になれるのだと思います。この最初の救いによる憐れみと恵みを忘れないように聖霊(神の霊)に日々示して頂きたいです。Praise the Lord
Nov. 14, 2010 (Sun)  "朝ごとに新しい"
「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」 哀歌3章22-23節

 2ヶ月振りにフィラデルフィアに戻ると、すっかり紅葉の美しい景色へと変わっていた。着いてすぐに以前住んでいたところから別の家へ引っ越し、そして仕事の面接とスケジュールが立て続けで、さらに時差ボケともともとの方向音痴で車1時間近く迷って運転し、もうくたくたになりました。しかし翌日の朝、目が覚め窓を開けると、ひんやりとした空気が心地よく、今日も新たな力を得て開始!
 朝起きるときに、なぜ聖書のことばで励まされ、力を受けることができるかというと、今日の箇所で書かれているように、神様の慈しみやあわれみは絶えることなく、毎朝新しいのです。以前読んだことのある聖書の箇所も、別の日に読むとまた新しいものを霊の部分で受けられ、一日がスタート出来るのは幸いです。
 今朝は久しぶりのフィラデルフィア日本人教会での礼拝。楽しみです。Praise the Lord
Nov. 10, 2010 (Wed)  "疲れていて眠い時"
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」ローマ人への手紙8章26-27節

 1日が終わると非常に疲れていて、眠くて仕方なくて、PCの前で居眠りすることもある。特に私は早寝で夜中まで起きていられない。そんなときに、神様に祈ってから寝ようと思っても、そのまま寝てしまう。また、朝起きていても祈りに集中できなくて、頭の中でいろんな思いがよぎる。そうすると、あれ、今何を祈っていたっけ?とすごい勢いで忘れてしまうのである。
 祈りとは霊的なことなので、自分の肉的な欲求や思い(眠い、お腹すいた、疲れた、不安、イライラする等)と相反するため、そういう時は祈れない。今日の箇所、神の霊(御霊・聖霊)がどのように祈ってよいかわからない状態の私をとりなしてくれると。神様の願いにかなう祈りをかわりにしてくれると。聖霊には人格がある。エネルギーの塊やお化けではない。キリストを信じると、私たちの霊という深い部分に聖霊が与えられる。聖書には、聖霊は喜ぶし、悲しむし、”〜へ行くな”と弟子のパウロに命じられたことが書いてあるので、意思もある。正直、今日はこのまま寝てしまうかもしれない。そんな日も、内に住む聖霊に祈ることに関して、お願いしようと思う。Praise the Lord
Nov. 9, 2010 (Tue)  "基礎と応用"
「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。 」へブル人への手紙6章1-2節
 
 今日の箇所は結構私には耳の痛い箇所です。私は何年も教会にいっていても、これらの初歩の教えをきちんと理解し人に説明できるかというと、全然不十分だからです。以前牧師からこの初歩の教えを詳しく学ぶ機会がありました。すると、確かにこれらの初歩の教えは最初に信仰を持つ上でのプロセスとしてちゃんと順番通りになっているのです。これらベースの教えを踏まえて、次のステップへと成長していこうよ、と著者は励ましています。では、次のステップとは何でしょうか?
 例えば化学や物理の研究にしても、ただ机の上で基礎研究を繰り返し学んでいるだけでは実用的ではない。それを応用、適用して始めて意味をなすのだと思います。基礎研究という基本があるから実用化が可能、そして更に新しいことへの挑戦へと研究は展開していきます。
 信仰も同じく、基礎や初歩を学び、その後は適用・応用していく必要があります。これが次のステップ。例えば”互いに愛し合いなさい”というイエス様の教えを生活の中で適用しようとする。すると全然出来ないことがわかり、祈って助けを求めると、神さまの力で不思議と状況が開かれていく。このように、聖書に書いていある約束や励ましが、生活の中で自身の体験として自分のものになっていくと、本当に神さまは生きていて働かれているんだと信仰がさらに強められます。自分の心の課題が一つづつ、これらのプロセスを通してパスできたら、また次へと、内側が変えられていく、完成を目指して進もうというわけです。このプロセスは一生です。 
 私の場合、初歩の教えもよくわからずに同時進行で適用もしようとして、失敗を重ね回り道をしてきたため、成長も非常にゆっくりです。しかし、神様はそんな私でも愛して下さり、忍耐して見守り、導いて下さっています。自分の失敗にはまって立ち往生せず、キリストに目を向け、キリストにつながって前進したいと願います。キリストが自分のこの罪のために十字架で罰を受けて下さった、そして、3日後によみがえられて今は天国で私たちのために日々とりなして下さっている、だから私は罪が赦されて、神様の子供として天国へいけるという恩恵への感謝と、地上に生きている間も、神様の力で心の内側が変えられていくという希望を持ちつつ、初代教会のクリスチャン達のように、知らない方へ福音を伝え、日々神のことばを学び、集まって励ましあい、パンさきをし(聖餐式)、祈りを続けていきたい。そして軌道修正をしてくれるのが、私たちの内に与えられた聖霊(神の霊)です。Praise the Lord
Nov. 8, 2010 (Mon)  "戦闘欲への対処"

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。へブル人への手紙4章16節  
(”この大祭司”→イエス・キリストのこと) しかし後者はいかがなものか?

 昨日、介護の話し(高齢者向け)を私が社会福祉士として講演した際、質問というか、意見がいくつかでた。一人はご自身が介護認定を受けている方、もう一人は介護をする側の家族の方。お二人とも、ケアプラン(介護の計画書)を作成し、介護のサービスをコーディネイトするケアマネージャーに対する意見である。要は、自分たちの言うことを聞いてくれない、そういう場合はどうしたらいいのか?という質問。(ここでは詳細にふれませんが)不当な扱いを受けていることを訴えるのと、自分の思う通りに動いてくれないと訴えるのは異なる。前者については遠慮なく苦情対応部署へ報告すべきですが。
人は自分の思う通りにならないと、相手を責め、自分の権利を主張する。一歩進むと裁判等で相手を訴える。話しあいによって、その限られた条件の中で、双方が歩みよれればベストである。感情がこじれると、片方もしくは双方が話しあうことを避け、第三者に訴えるまでこじれてしまうのは、悲しいことである。イエス・キリストの弟子、ヤコブが書いた手紙に「何が原因で、あなたがたの間の戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」(新改訳4章1節)とあります。個人差や表れ方に差があるとはいえ、人には”戦いたい”という欲望が本能的あることを指摘しています。
 わたしもどちらかというと、表に出てしまう”戦い系”です。自分の傾向性は相手を責めて自分の主張を通したい。しかし、キリストを信じる信仰が与えられてからは、ふと我に帰って聖書のことばを思い出します。するとなんとか、口に出すことは止められて、しかし心のなかでふつふつと、「あ〜言ってやればよかった。。」と尾を引くこともあります。そこで、イエス様に祈って、心からこの苦い思いを取ってください、私の寛容でない心に神さまの愛をそそいで下さい、そしてこの問題をなんとか折り合いがつくように助けて下さいと。そんな程度の私の小さいな祈りも遠慮くなくすることにしています。すると、気がつくとその苦い思いはとり去られて、すっかり忘れていたりして。天地を創造された畏れ多い神さまにも、キリストを通してであれば、なんでもはばかることなく祈れるのは本当に助かります!Praise the Lord
Nov. 6, 2010 (Sat)  "人は一人では難しい。。。"

「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。それについて、こう言われている、『きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』」。へブル人への手紙3章13-15節

 私は家族がクリスチャンだったので小さい頃から教会へ行っていましたが、大学受験の頃から教会に行かなくなり、以後すっかり神さまから離れてしまいました。一番の大きな要因は、教会に行かないと、聖書に触れないのでその教えも聞く機会がない、そして困った時の神頼みの時しか祈らなくなり、他のクリスチャンと交流がなくなったこと。この状態が長ければ長いほど、心がかたくなになって、神様は存在するだろうけど、キリストを信じるという意味が聖書の知識はあっても自分の中でリアルでなくなってしまったのです。そして、罪の惑わしに陥っていきました。
 今考えると、よく立ち帰れたなと思います。自分はもう無理だとあきらめていましたから。しかし神様の不思議な方法で、再びキリストを私の個人的な救い主として信じる信仰、そしてキリストにあって生きる喜びを与えられました。それは本当に神さまの憐れみです。私は散々、罪に陥って神さまを悲しませ、人をそして自分を傷つけることをしてきたのでどうしようもなかったので、信仰が再び与えられたのはまさに奇跡でした。私のように、信じた後また以前の自分の生活に戻って(英語ではバック・スライドいうそうです)、色々あって、再び神さまの恵みに迎えてもらえた方の話しをよく聞きます。避けられるものなら、バック・スライドを経験しないで順調に成長していくクリスチャンのほうが、ベストです。しかし、両者への神さまの愛は変わらないのです。
 人は一人では信仰を持ち続けるのは難しい。それ程強靭な心ではないのです。教会から離れれば離れる程、クリスチャンの友とつきあいが疎遠になればなる程てきめんです。そのうち、”神様は信じているし、寝る前にお祈りするよ、教会もたまに行くし”といって、自分が知らぬ間に神さまから離れているのが分からなくなります。以前の私がそうだったからはっきり言えるのです。
 今日の箇所は、この手紙の筆者がへブル人*のクリスチャンへ、キリストを信じた後、不信仰になって、神から離れないようにと警告が書かれています。キリストにある姉妹・兄弟と交流し、そうならないように信仰を持ち続けようと、”日々励ましあう”ことが大切なんだなと、約2千年前に書かれた聖書を通して反面教師として学べることは感謝です。”今日”という日、自分が神から離れていると気がついたら、自分の状態を認め、悔い改めて祈れば、消えかかっていた信仰であれば神様はまたそれを与え、弱まっている信仰であればそれを強めてくれるのがありがたいです。Praise the Lord
 
Nov. 5, 2010 (Fri)  "アメリカへ移民した人たちの苦労"

「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」へブル人への手紙 2章18節

 先日、日本人がアメリカへ移住して99年経ったということでそのドラマを観たので、少し日系移民について調べてみた。彼らが当時、どんなに差別を受け、排斥され、それを耐え忍んで、農園等で休まず働き、第2次世界大戦前からも”ジャップは人でない!”と排斥運動が酷く(家を焼かれたり、女性はレイプされたり)、そして大戦に突入すると財産没収、強制収容所へと。一世紀前アメリカへ移民した日本人と2世の知られざる歴史を一部ですが知る機会となり、心を痛めました。
 人間は本当に罪深いなあとつくづく、自分のことを棚にあげないようにしつつも、思わされた。自国内でも状況が悪くなるとまず外国人を排斥、ヨーロッパでも外国人排斥デモ等は昨今も激しい。大戦前は日本・欧米人も人の国や土地までいって武力で植民地とし、戦争中の残虐さは恐ろしい。人の歴史は昔から戦争の歴史。自分がほしいと思うこと、自分の権利を守るため武力で戦い、またマイノリティ(少数派・在留異国人)を差別することで自分たちの不満を解消してきた歴史である。
 今日の箇所へブル人への手紙のポイントは初代キリスト信者がローマ帝国時代に迫害に合っていた時に、キリストにある希望を持って耐え忍ぶこと、励ましが書いてあり、またメインテーマはイエス・キリストについて書かれていますが、特にキリストは神様と人間との仲介者という役割が書かれています。
  迫害・差別・生命の危険にさらされた時の苦しみは、実はイエス・キリストはすでに2千年前に体験されているのです。キリストは神さまの子であるのに、わざわざ人となって生まれて、十字架で処刑されました。当時の宗教家達からはイエス様は迫害され、そして十字架刑に至るまでの拷問、辱めを黙って受けられた。だから、人間で苦しんでいる人たちの痛みを同情できるのです。なぜそんな苦しみを受ける必要があったのか?それは、私たち人間すべての罪の罰を一挙に代りに受けることで、私たちがキリストを信じれば赦される、そしてキリストが死んで3日後に新しい体でよみがえられて天に戻られたように、信じれば私たちも同様に死んでも永遠に天国で神さまとともに新しい体が与えられて生き続けるという特権が与えられるために、そういう方法が取られたのです。このキリストの犠牲があって、私たちは神様の恵みが受けられる。本当にその犠牲を思うと私はなんと小さいことでくよくよし、文句をいい、自分の権利を主張し、神様のしてくれたことへの感謝を忘れてしまうことか。。
 あえて、お人よしになって損しても気にせず、キリストにある喜び、感謝を持てるように変えられたいと本当に願います。すぐに変わらないんですが、私が努力して自分で変わるのでなく、変わりたいと願えば神さまの力で変えてくれるというのが約束だから希望があります。私は自分の力ではそんな高尚な人間になれないと知っているから。神のみ心のためには何でも祈りは答えられるというイエス様は言われました。時間がかかるかもしれませんが、忍耐を持って、状況も、自分の性質も変えられていくという励ましを今日も受けようと。Praise the Lord
Nov. 3, 2010 (Wed)  "永遠の愛"
「主はこう言われる、『つるぎをのがれて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルよ、出て行って休みを得よ。』主は遠くから私に現れた。『永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた。」エレミヤ書31章2-3節 (新改訳)

 日野原重明先生(聖路加病院の理事長)の「99歳 死の舞台 アメリカ挑戦」というNHK番組を見た。彼がプロデュースしたミュージカル”葉っぱのフレディ”についてがメインであったが、私にはこの番組の中で、あるホスピス病院で彼が医師として患者さん達を診察されている様子が印象的だった。末期がんで、死の受容をしようとして、それができなくて苦しんでいる患者さんと向き合って話す。この番組で何度も出てきた言葉が、”永遠”ということば。もちろん、聖書でいう”永遠”のことや、キリスト教的なことは全く言及されていなかったが、死んだら終わりでないということを案に示す番組内容であった。元気な日野原先生はご自身もその年齢上、やがてくる死と向き合っておられる様子。
 聖路加病院は、米国聖公会の宣教医師として日本に派遣されたルドルフ・トイスラー医師が明治35年(1902)に東京築地に建てた小さい診療所が今の総合病院になったとのこと。病院のホームページのTOPには、”キリストの愛の心が 人の悩みを救うために働けば 苦しみは消えて その人は生まれ変わったようになる この偉大な愛の力を だれもがすぐわかるように 計画されてきた 生きた有機体がこの病院である”(聖路加病院HP Homeより)と表記されていた。
 末期がんの痛みや死への恐怖は私の想像を絶するほどの苦しみ、また病気でなくても様々な事情で生きるのが苦しいと感じている人もいるかもしれません。キリストの偉大な愛の力はこの両方とも消すことができると、このトイスラ-医師も信じ、遠い異国日本で医療を通し実践され、それが今もこの病院に理念として受け継がれているのであろうと思った。
 今日の箇所では、神さまは永遠の愛で愛してきたと、紀元前の預言者エレミヤがバビロニアによる捕囚の憂き目にあうイスラエル・ユダの民に告げている。この神のことばは現代の私たちにも語られています。この神さまの恵み、偉大な愛を多くの人が、キリスト教理念に基づく病院等を通して、また様々な機会を通して受け取って下さればと願います。Praise the Lord
Nov. 2, 2010 (Tue)  "介護と心の支え”

「主はこう言われる、『バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。』」エレミヤ書29章10-12節
 
 今日は、母と妹と3人で近所の美術館と公園へ限られた時間をぬって出掛けた。2人ともいつも家族の介護をしているため、こんなにのんびりと自由に、美術館で絵を鑑賞したり、公園の緑の中で散歩するのが久しぶりだと喜んでいた。介護する家族は息抜きが必要と一般的に言われているが、当人たちにとってその時間をとるのが物理的・心理的に困難なのでしょう。また、介護が長期に渡り、先行き不透明なので、ご自分のなかで何か希望や心の支えを持つの非常に大事ではないかと察します。
 11月7日に母の中野の教会で介護の話(高齢者向け)を、社会福祉士としてお話をする機会が与えられた。この時に介護サービスの内容や相談はどうしたらいいかという具体的な内容と介護者と被介護者両者の気持ちにそってメンタルの話しにも触れる予定。({知っておくと安心介護のお話}11/7 13:30〜15:00 
詳細はこちら http://praisethelord.web.fc2.com/sub7-1.html)
 今日の箇所は紀元前のユダヤ人の国民が、バビロニア帝国により捕囚としてバビロンの地(現在の)へ連れていかれて時代。エルサレムに残された預言者エレミヤが、バビロンに連れ去られた人々に手紙を送るった内容。人々は捕囚の身でもう祖国へは帰れないし、いつ殺されるかもと絶望状態。希望もない。そんな人々へ神さまはエレミヤを通して、バビロンの地で普通に生活し子孫を増やしなさい、70年後に祖国のエレサレムに帰還できるから希望を持ちなさいと言われたところです。
 神さまの私たち一人一人にたいする人生の計画は途中に困難を通過したとしても、希望を与えようとするものだと、その希望は神様が私たちの祈りを聞いて下さる存在であることを信じることから生まれる。わたしたちが神さまを訪ね求めれば、神様に会えるという約束を、介護のなかで辛い状況を通っているご家族及び本人へ伝えられたらと願います。Praise the Lord
Nov. 1, 2010 (Mon)  "その人の向こう側にいるキリストの為に"

「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 」マタイ6章3-4節

 札幌へ先週末旅行へ行き、ハンガリーからの宣教師夫妻(奥さんは日本人)と、カナダからの宣教師の方と会う機会がありました。彼らはブライダル専用のチャペルで結婚式の司式をしたり、ゴスペルコンサートを公園でしたり、様々な活動を通して、自分たちで一から喜んで伝道をしている様子をうかがうことができました。私に対しても、お客さんとして非常に親切にして下さり、私が恐縮していると、「こちらは喜んで仕えているので、どうぞ、どうぞ、気にせずに」とお世話をして下さいました。
 また、フィラデルフィアで知り合った日本人の方のお宅にも大変お世話になって、ご夫婦で私にとても良くして下さり、感謝でいっぱいです。おかげで今回の旅行ではたくさんの恵みを頂いて帰ってきました。彼らを通して私にすばらしい旅行の機会を与えてくれた神さまに感謝です。
 今日の箇所はイエス様が、慈善をするときに人に吹聴しないこと、そうすれば天の父・神さまがその良い行い・人に対する親切や慈善を見て、それに報いてくださるからと教えられました。つまり、人に「〜してんのよ!」と言ってしまうと、「偉いわね、すごいわね!」と人から褒められ、そのことで、すでに”ほめられるという報い”が終了してしまうわけです。どうせ褒められるなら、後で神様にほめられたい!と、私は思います。ある方から、「私は毎年どこどこにお金をサポートしています!」と言われてしまうと、聞いた私は「ご立派ですね。。。」と逆にそう応対しないと相手が気分を害されてしまうので、仕方なく答えることがあります。話しの流れでこちらから質問したわけでもない場合、なんのために自分からわざわざ他人に言うのでしょうか?(もちろん、生計を共にしている家族内、先方の会計担当者等必要最低限の相手とは情報は共有するでしょう)
 「何をするにも、主に対してするようにしなさい」と弟子パウロが手紙に書いてありますが、私自身も、目の前の相手にする場合、その向こう側にいるキリストの為に喜んでしよう、キリストから褒められるんだ!という意識がもっともっと与えられたいと思いました。Praise the Lord


   
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