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今日のわか ちあい

The Cloisters, NY
♪Today's Sharing♪

Aug. 2014

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
聞くと聴くの違い 男泣き イラクへの空爆 脅しか愛か
新しい場所:食事つき 識別力 エボラ熱から奇跡的に回復したドクター お誕生日のケーキ
リトリート(退却)
Aug. 28 2014 リトリート (退却)

「わが魂はあなたの救を慕って絶えいるばかりです。わたしはみ言葉によって望みをいだきます。」詩編119編81節

 日ごとに日が短くなり、夏の終わりを告げていく夕暮れ、仕事の後に、ブルックリンという場所にあるボタニカルガーデンを訪れました。以前から行きたいと思いつつも、誰かに誘われないと腰が上がらない者でしてたが、折しもブルックリンの公園等に詳しいお友達が連れて行って下さると誘って下さったのです。ここは、春はみごとな桜、6月は美しいバラと、そして日本庭園までありと充実した庭園で、もう一つのブロンクスにある植物園に比べるとサイズは小規模だそうですが、非常に見応えがあり自然の美しさに感動いたしました。
 車のクラクションと人ごみで無意識にも緊張した、ある種の都会における閉塞感を持つNYで過ごしていますと、緑やおいしい空気に飢え乾きます。その中にもプチオアシスを提供する小さな公園がところどころにあるのは幸いです。しかし、公園の木々や花は一時的には心身を癒しますが、魂の深いところまでは癒すことができないのです。やはり聖書のことばが、あたかも体が必要なものが満たされるように、魂を満たしてくれます。この神の言葉をいつも信じて、心に貯えておかないと、とたんに私の素の性質が顔を出し、不機嫌になったり、落ち込みや失望感や疲れが心を支配してしまいます。聖書のことばにただ触れるだけでなく、それが自分の生活人生にに当てはまると信じたとき、希望が与えられるのが不思議です。希望がないと人は生きていけないでしょうし、目に見える希望ではなくても、見えないものを信じるのが信仰です。
 今週末は3連休があり、NY州郊外のリゾートエリアで開催される教会の修養会に参加する予定です。その場所へは以前何度か行ったことがありますが、NYというと、マンハッタンのような都会のイメージがありますが、実は州のほとんどのエリアが田舎、つまり広大な自然が広がる場所で構成されております。そのような自然の中でクリスチャンの仲間たちと共に礼拝し、祈り、聖書を学び、フェローシップの時が持てるのがとても楽しみです。このような小旅行は”リトリート”とも言われますが、リトリートとは”退却する”という意味です。まさに忙しい日常生活から一歩退き、神様との交わりに専念できる時間を自然の中で持てる、こんな素晴らしい恵みを与えてくださる神様に感謝の気持ちでいっぱいです。ここで心身とも霊的にもリフレッシュして、また再び日常に戻り、地道にがんばりたいと思います。残る夏の日々、みなさんも場所は異なってもそ れぞれ良い休日となりますように 祈りつつ。
Aug. 24 2014 お誕生日のケーキ

「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。」 ルカによる福音書8章16-17節

 8月の初旬、私の職場の社長(オランダ人)の誕生日があって、彼の国ではお誕生日に本人がケーキをご馳走するという習慣があるそうで、その日職場の皆でお祝いしました。社長が美味なフレンチのケーキを皆に振舞って下さり、「ここはアメリカだけど、自分の国の良い習慣:自分の誕生日の喜びをわかちあい、ごちそうを振舞うことをしたいんだ!」と。この社長の陽気さは職場の皆に笑いやユーモアをいつもわかせてくれます。その流れで、私の誕生日も先日でしたので、社長は「今日は君の誕生日だろ。今晩はパーティで楽しく盛り上がるのかい?」と聞かれました。普段個人的なことは社長と話す機会がないのですが、聞かれたので、私は「特に今日はパーティはありません。でも毎週金曜の夜は教会の皆と集まりがあって、それをとても楽しみにしています。」と答えました。「君はクリスチャンなんだ?どこの教会いっているの?」と話が続きました。社長は、カソリックで、日曜は奥さんとミサに行き、時々土曜にホームレスのための炊き出しの活動のためにプロテスタントの別の教会に行くとのことです。職場では仕事中ですし、なかなか個人的なことは話す機会がない中、社長に自分がクリスチャンであること、また社長もそうであることを知る機会が与えられ、私の誕生日プレゼントとして、この分かち合いの機会を神様から今年は与えられたこと、感謝です。そしてもちろん、その日聖書の学びの会でも、皆さんにお祝いをしていただき、この上ない感謝です。
 近頃ほとんどが暗い、悲しいニュースばかりで、日々心が痛みます。この世でなぜこんなひどい悪がはびこるのかと。もちろん人々による良い行いもたくさんなされていますが、圧倒的に暗闇の活動が目立ちます。そんな時、イエス様は「私は世の光である」*と言われたことを思い出します。光というのは、それが小さいロウソクの火でも、暗闇のなかで輝きます。暗闇はどんな小さな光でも完全に消すことは出来ないのです。イエス様は「あなたがたは世の光です。」とも言われました。私たち自身には何も良いものもないし、慈善の行い、親切な行為も自分に余裕がある時しかできないものです。キリスト抜きの慈善事業は、やっている人達が偉いともしくは、その活動を通して”自分の存在価値”を自身で認めるとなりますが、ホームレスの炊き出しをなさっている社長ご夫妻は、彼らが偉いといわれるために良い行いをしているのではなく、天の父(神様)が偉いといわれるため、つまり彼らの中に持っているイエスの光(良い行い、イエスの愛の性質)がその人を通して現わされるために、人ではなく、”神がすばらしい”といわれるために良い行いである光を人々の前に輝かされるのです。キリストを信じる者は自分ではなく、キリストの光が出るように、彼らが信じている神は愛の方だなというのが表れるためにしています。そこが大きな違いです。
 私は普段全然、イエスキリストの愛の性質を現わせてない、良い行いも伴わないだめなものです。一方で上記の箇所にあるよう「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」ともイエス様は言われていますように、こんな者でも、イエス様を信じる信仰と聖霊の助けにより、ほんの少しのキリストの愛の態度が、隠されたままでなく、世の人達にあらわされていくものです。私を通しても職場で、キリストの光が輝くように求めていきたいと、機会を与えてもっと与えてくださいと願います。
 *ヨハネ9章5節
Aug. 23 2014
エボラ熱から奇跡的に回復したドクター

「イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、・・・宿屋に連れて行って介抱した。・・・「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。ルカによる福音書10章30-37節

 最近のニュースで、アメリカ人のドクターでアフリカ・リベリヤの病院でエボラ熱に感染し、アメリカで治療を受けていた医者が、3週間ぶりに病院から退院したとのこと。彼は“サマリタンパース”といって米国のクリスチャンの人道支援NGOから現地の病院へ派遣されていましたが、今回まだ臨床試験初期段階の未承認薬を特別に投与されてもう菌が体から検出されず完治したという驚くべきケースでした。死ぬか生きるかですから、未承認薬であろうと、その柔軟な対応に感謝します。暗いニュースが多い中、彼の声明にあるように本当に神様に感謝しつつ、これを機会に早くエボラ熱に対する開発プロセスが進んでほしいと願います。そのドクターは会見で、「どうか、エボラ熱で苦しんでいるアフリカの人達のために祈って下さい」と言っていました。全ての人がこの薬で命が助かるかどうかは分かりません。しかし、神様は今回のこの恐ろしい悲しい事件を通しても、神さまの大きな計画のなかで人々の魂が救われることを願われ、様々な事柄をオーケストラされていると信じます。
 創薬は通常10年以上の年月と、莫大なコストがかかる事業です。商品化されてからその費用対効果に見合う価格で市場に販売され、その長い独占販売期間がおかれて、ようやくジェネリック薬が製造可能となる。その臨床治験プロセスは、人間の命にかかわるので非常に慎重に行われます。エボラ熱の発症は1970年代からすでにアフリカで発見されていましたが、それ以降ワクチンなどの薬剤開発が進まなかったのには理由があります。アフリカのような1地域での発症となると、治験に参加してくれる患者の数が基準に満たない、薬の開発に対する費用対効果が見合わない等の事情があるからです。
 サマリタンパースは世界各地で災害が起こると支援のために人(医療従事者も含み)と物資を送っていますが、2011年の日本の震災直後にも現地に入り、被災地で多くの支援をしてくれた団体です。その名前の由来は、上記の箇所にあるような良きサマリア人といって、聖書にからの教えで、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というイエス様の教えにもとづき、彼らは世界の特に困っている全ての人々が、”隣人”であり、イエスの愛をベースに救済活動をおこなっています。
 ”隣人”とは自分によくしてくれない相手も含むし、全く会ったことのない人でもありうるし、利害のある職場関係の人でもありうると思います。とても私たちの素の性質では隣人を愛するなんて、不可能です。私は世界的な活動はできなくても、自分の身近におかれた”隣人”に対して、相手に親切に出来るよう、聖霊の力を求めたいと日々思わされます。
Aug. 18, 2014 識別力

「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」 ピリピ人への手紙1章9-11節

「陽子ちゃんは識別力を身に着けていかないと。」先日、私が経験した恐ろしい出来事を東京の牧師に報告すると、こう言われました。そして「識別する能力を身につけるには、@良いモデルを知るA痛い目にあってそこから学ぶ。 この二つで見極める能力をつけていけるんだよ」と。そして「これこれの宣教師の本を読んで、良いモデルから学びなさい。今後こんな時間の無駄をしないように」と.  涙。。私は人が親切に手伝おうと言ってくれれば、そのままうけとってしまう方で、それでもある程度は見極める目(疑う目も)を持っていると思っていましたが、結果そうではないようです。
 ある6月の夕方、私がカフェで聖書を開いてバイブルスタディの準備をしていると、アジア系の牧師が話しかけてきました。ちょっとの会話でお互い自己紹介して、そんな変な人に思えなかったので、「今度一緒に週一回でも聖書を学びませんか、あなたのミニストリーの助けになりたいから」と言われ、とても親切なかんじだったのです。その牧師の奥さんとも、その後会って話す機会がありましたが、やさしい信頼できそうな女性でしたし、まずはどんなかんじか聞いてみよう、もしかしたら協力できる相手かもしれないと、カフェで一緒に会いました。
 ところが!私は経験も知識も足りない、他の牧師達から学びながらの駆け出しですが、一応聖書を人に教えている者なので、彼の教義のポイントが、ちょっと偏っていることに2回目から気が付きました。いつも次の約束を決めされられるので、もう一度いってまた同じようだったら辞めようと決め、やはり3回目も同様だったので、それから一ヶ月忙しいからと連絡を絶っていました。するとその後すごい勢いで電話とテキスト攻撃、どうして辞めるんだと。「この学びを続けるかどうか、日本の牧師に相談したい」というと、「相談なんてするな。神の声を聞け、人の声をきくな。自分以外の牧師は皆聖書を正しく解釈できてない、真理をきちんとわかっていないんだから、そんな教会をやめて、自分のところに入ればいい」と。本音がでた。ようは手伝いたいなんて嘘で、自分の教会に引き込んで自分の教義の駒にしたいだけなのである。彼が見せた本性;独善的で、高慢な態度からはイエス・キリストの愛の性質の微塵もなく、自分の解釈だけが正しい、自分から学ばないと裁かれるぞモードが露呈。畳み掛けるように、聖書の箇所をバンバン言って、これの意味を知っているか!説明できないだろう!だから、俺から真理を学べ!とすごい勢いで、私に聖書の学びを一緒にするように強要、心の中で「神様助けてください」と叫んだ。日本語だったら、「あんた狂っているよ!ふざけんな」といってやれたのにと、悔しい思いをしました。でもある種、反論で出来ないような洗脳モードがありました。「とにかく、また連絡するから今日はもう帰らないと」と、命からがら、逃げてきた。電話を着信拒否に設定し、連絡がとれないようにして。こんな時、誰も助けてくれる人はいない。2晩ねむれないほど緊張して、神様に祈ってからこの男と会って対決したが、全く敗北。しかし、この会合でこの男から本音を白状させて、早期に彼の本性が露呈され、神様に守られた、よかった〜と感謝。
 「神様なぜこんな人を私にあわせるのですか!」と 文句をいいたくなるが、用は私が識別能力がないからそのための訓練としてこのへんてこりんな牧師を関わらせたのです。私は一瞬思いました。こんな怖い思いするのはもういや、宣教師なんか無理、誰も助けてくれないし、普通の生活に戻る!私はそういう器ではない、気弱で、頭の回転も遅いし、だめなんだ日本へ帰ろうと。しかし、こんな弱いだめな私がNYで一人で小さいながらもキリストを伝える伝道活動をしている自体が奇跡、神の力によるのです。そして神にだけ頼れという、訓練です。自分を見ると絶望し逃げ出したくなりますが、神の力に期待して、こういうテスト、試練はきついけどがんばろうと思います。
 ”手伝う”という言葉には要注意。手伝うというからには、相手が主で、その人のミニストリーでのリーダーシップを認め、自分は協力する側、という認識は誰にでも通用しないようです。”軒をかして母屋を取られる”ということわざに似ている点もあり、その人に神様が与えたビジョンなのに、手伝うといって自分のものに摩り替えてコントロールしようとする人、自分のために利用する人は、実は教会の世界ではよくあるものです。そういう人を見分けるまで、ほいほい自分を任せないこと、識別力を与えてください、テストにパスできますようにと祈るのみです。何事も訓練は不可欠ですが、その訓練にみあう成長をしたいものです。
Aug. 16, 2014 新しい場所:食事つき

「良い地に落ちたの(種)は、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」 ルカによる福音書8章15節

食事というのは皆と食べると楽しいものです。先月から毎週金曜日に私が開催しているバイブルスタディに、新しい場所が与えられました。マンハッタン内の非常に交通の便の良い場所にある高級コンドミニアムに住むご婦人が、ご自分のリビングルームを学びのために解放してくださるという有難いオッファーを下さいました。学び自体は、それがカフェ、教会、貸会議室であろうと騒音がないところであればどこでも出来ますが、どなたかのご家庭で出来るのは特別です。おかげで、アットホームでより楽しく、リラックスした雰囲気で、学びの時がもてて、本当に感謝です。
更に場所を提供してくださるだけでなく、そのご婦人はご高齢にも関わらず、私たちの食事まで毎回用意して下さるのです。私としてはご負担になるといけないので〜と申し上げていますが、本人が喜んでなさりたいというので、(毎回期待してはいけませんが)そのご好意を感謝して受け取らせて頂きご馳走になっております。今迄は、パブリックの場所でしたので、各自食事をすませ集まったらすぐ聖書の学び、時間が締まるからすぐ帰るという感じでしたが、家ですと、まず一緒にお話をしながらお食事をして、そして聖書を学んで、それで時間がないからとばたばたしなくてすみます。”神様はみ心に叶う祈りはかなえる”という約束が聖書に何度も書かれています。聖書の学びの場所に関しては、昨年秋から良い場所を与えて下さいと祈っていましたが、必要以上のすばらしい場所を与えられ、ああやはり神様は聞いて下さる、備えて下さる方だと、益々神様に対しての信頼が高まります。
ここで、参加する方々の魂が養われ、イエス・キリストについてもっと”知る”ことができるように、私はこつこつと聖書のみ言葉を通して仕えていきたいと切に願います。私自身はただの人で、神様のことば、聖書を伝えていく、管にすぎません。私の中には良いものとか何もないのですが、管自体はしょぼくても その中に流れる神様の恵みと祝福、愛が聖書のことばを通してスムーズに流れてほしいと。私が気をつけなければならないことは、その管がつまらないよう、詰まるものをいれないよう自分の心を常時、聖霊にみてもらう必要があります。そうでないと、すぐに変なものが心の中からでてきますし、外部の情報からも入ってきますので、良い心で自分も心にみ言葉を保ち、守り、耐えしのんで、実を結ぶまでいければなあと願っております。しかし、人が作ってくださる食事は美味♪ 毎週金曜夜はお腹も心も満たされております。
Aug. 12, 2014 脅しか愛か

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」 ヨハネ14:27

 日本でもアメリカでも、時折路上で、大きな声で叫んでいる人がいて、何を言っているのか耳を傾けてみると、裁きとこの世の終わりを聖書の箇所から引用して、「神を信じろ〜」とプラカードを掲げている人を見かけます。誰がこれに応答するだろうか?といつも横目で見てしまうものです。しかし、ある牧師は横目で見るだけでなく、そののところに行って、「神を伝えるんだったら、神が人を愛していることも伝えないと」と言うと、その男は逆きれし、「黙れ、お前は地獄へ行く」といわれたそうです。この男にはキリストの愛はなく、ただ人を脅しているというのが露呈します

 クリスチャンとはいっても、色々な方がいますし、確かに聖書には裁きのことも書いてありますし、それももちろん情報開示が必要ですが、福音の強調点は、神は人を愛するために創ったのであって、その愛の表れが十字架にかかった、神の子イエスであります。ちなみに、神の愛のメッセージもなく、いきなり「滅びるぞ!」との預言者の一言で、その悪行を悔い改めて、裁きを免れたアッシリア人の話は聖書にでてきます。このアッシリア帝国は、残虐な軍事国家で周辺国を支配し、まだイエス・キリストが来られる前の時代でした。一方、現代はポスト・イエス・キリストの時代、自分の罪の悔い改めは必要ですが、神の愛と恵みを受け取って救われる時代なのです。
 今日、たまたまある牧師と話す機会があり、とても聖書の知識がある方なのですが、強調点が、さばき、この世の終わり系で、話していて平行線で疲れました。こういう方とは、一致して一緒に何かをすることはできないのは明らかですが、こういう人に限って、相手を自分の信条を説き伏せようと惜しみない努力をされます。そんな時間とエネルギーがあれば、クリスチャンとしてやるべきことは他にたくさんあるはずです。私はキリストにる愛、喜び、平安を強調して、人々に伝えていきたいのです。
 イエス様はたくさんの約束を私たちに残されましたが、冒頭の箇所のように平安を私たちに与えると約束してくださいました。この世の与えるものとは異なる、イエスを信じる者に与えられる平安です。この平安があると、「お前はこのままだと裁きにあう」と人に言われたとしても、動じません。また、日常生活での様々な局面から、平安がかき乱されることが起こり、信仰が試されますが、イエス様を信じる信仰を土台としていると、心が騒がされないのが、感謝です。信仰のテストは嫌ですが、金が火で精錬されるように、信仰成長ためには、避けてとおれませんそのにいつも、この平安が心にあって、「やはり神様は約束とおりの誠実な方だ!」と実感していきたいものです。
Aug. 9, 2014 イラクへの空爆

「だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」 マタイによる福音書10章26-28節

 アメリカが再びイラクに空爆を開始したというニュースを見たとき、深い嘆息をつきました。今回の大義名分はイスラム過激派グループのイラク内での虐殺を拡大させないため、在住のアメリカ市民を守るためという声明。折りしも今週の初めに、イラクのイスラム過激派によるむごたらしい虐殺の様子(子供の首を串刺しにしてさらず等)をニュースで読み、非常にショックを受けていたところでした。日本国内でも高校生による恐ろしい殺人が長崎でおきたこともまだ記憶に新しく、そのショックも生々しいのですが、海外のあちこちで残虐行為が組織的に行われて、彼らに精神鑑定など無縁の世界です。この過激派に限らず、実は人の残虐性は歴史的に、どの民族にも存在し、どんなに人権・平和という発想が出てきたとしても、一部の人達の間で繰り返されます。
 だからといって、アメリカの彼らに対する空爆は火に油を注ぐようなもので、武力で武力を制圧してはならないのです。そもそもアメリカの他国への軍事行動や政治的介入が、ますますこういう過激派を助長してきたのです。しかし戦争の決断をする人達の背後には必ず兵器会社がいますので、彼らが儲かるため定期的に何かを理由をつけて(時には理由をCIAが作り上げます)戦争をおこすという構造があることを。表には出ない話ですが、要は人の命よりお金。アメリカが本当に命を狙われている人を助けたいのであれば、空爆より、生命の危機にあるクルド人をアメリカに難民として受け入れるとか、アメリカ市民を全員すぐさま引き上げさせるとか他に出来ることがあるはずです。高額なミサイルに支払う資金と比較すれば、たいした費用ではないでしょう。
 今回イラクのクリスチャンがイスラム教への改宗を迫られ殺されました。2千年前のローマ帝国時代も、残虐な処刑がネロ皇帝等により行われましたが、当時のクリスチャンは武力で抵抗せず、黙って死んでいったようです。なぜなら、彼らは天国にいけるという希望もあり、イエスの教えでは「敵を愛し、祝福を祈りなさい」、これに従ったからでしょう。平和ぼけしている私には、このことは想像を絶する状況です。私はこの世界の情勢に何もできません。祈ることしか。イラクの過激派の人達の中で一人でも、自分達のしていること気ずいて、そして悔い改めて、今していることを止めることを祈ります、後は神の義に委ねようと思います。この世の悪は結局、体しか殺せません、魂に対しては何もできないのです。聖書では、イエス様はクリスチャンは迫害を受けることを予告していることがかかれていますが、実際目の当たりに聞くのは、(自分に対してでなくても)心が痛みます。本当に痛みます。主よ 助けてください。
Aug. 6, 2014 男泣き

「主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。」 ルカによる福音書7章13-15節

 先月、日本の沖縄から来た牧師の話を聞く機会がありました。彼は男性というのもあり、めったに泣いたことがなく、奥さんから「あなたが泣くところを一生の内見られるかどうか?」と言われる程だと。しかしその彼がぼろぼろ泣いてしまったことがあるそうです。彼がアメリカの神学校で学んでいた時、子供専門病院での研修があり、彼にとって非常に気が重かったことは、期間中、子供の死に直面する可能性があったからです。彼は、病院専属のチャプレン(アメリカの大手病院では牧師を常設させ、患者や家族の心のケアを担当)に付いて、病棟を回って幼い患者と家族から話を聞いたりしていました。
 いよいよ研修最後の日に、「何々君が病棟で急死したからすぐに来るように」と言われ、その病室に急行。そこでは母親が、亡くなったわが子の前で獣が叫ぶような号泣。彼はどうしてよいか、何を言ったらいいかわからず、その様子に圧倒され、ただその母親の横で一緒に泣いてしまったそうです。しばらくしてお母さんは、彼に一言「ありがとう」と言ったそうです。何に対してのありがとうでしょうか。つまり、共に泣いてくれたことに対してだと。これは彼の神学校生活で心に残る実習だったでしょう。
 イエス・キリストは地上にいた時、多くの人々にコンパッション(他者の痛みを自分の心で感じる:同情)を持って仕えられました。上記の箇所は一人息子を亡くした未亡人を見て、イエス様がかわいそうに思われ生き返らせました。そしてラザロという人が死んで4日たった時、皆がその横でおいおい泣いている様子をみて、涙を流されたと。そして彼を蘇らせました。イエス様はその時100%人であり神であったので、人の気持ちに同情できる方で、死がもたらす人々への絶望、悲しみに対し、涙を流されたのでした。「Jesus Wept」*という英語だと聖書で一番美しい短いセンテンスだと言われます。しかしながらこれらの人は、やがて死にました。しかしイエス様ご自身は十字架の死を克服して3日目に復活されたのです。これを信じる者にも、キリストにあって自分も死に勝利できるという希望が与えられます。
 私は人一倍涙腺が弱いので、これを書いている間にも涙が出るほどですが、だからといってどれだけその人の痛みを自分の心で受け止められるかというと、一時的・部分的で限界があります。イエス様のような人の痛みを親身になって共に悲しめる、そのような愛が自分にはないので、これを求めたいと思います。気が付くと自分のことばかりだからです。また、この肉体の死で終わらないんだということを、イエスにある希望を分かち合う機会が与えられたらとも願います。
*ヨハネによる福音書11:35
Aug. 2, 2014 聞くと聴くの違い

「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。」 ルカによる福音書8章5-7節

 今職場では、下の階が工事中のため、時折ものすごいドリルや工事の音が聞こえます。しかし、その音が響いていても仕事で必要なことは聞き取れます。(あまり大きすぎると困難ですが)人の耳というのは非常に精巧にできていて、音の聞き分けができる構造を持つそうです。つまり自分の意志で、集中力を持って、同時に聞こえてくる様々な音の中から、自分に必要な音を選び出して“聴く”ということを無意識にしています。この“聞き分ける力”はおぎゃーと生まれた赤ちゃんの時から(いやもっと言えば母体内の中の時から)備わっていて、発達の過程において聞き分けて言葉を覚え、様々な音を認知していくそうです。更に、聞くと聴く違いについていえば、一般的に‘聞く(hear)’は耳で音や声を感じ取ることを意味し、‘聴く(listen)’は耳を傾け、注意して聞き取ることを意味するそうです。つまり聴くというのはぼーっとしていても入ってくる音、そのなかで更に特定の音を聴こうとすると、そこにその人の意思が関わってくるというわけです。音楽会やコンサートでは聴き、カフェのBGMは聞く、といったところでしょうか。
 イエスは「聞き方に注意しなさい」(8:18)と上記のたとえ話をした後に言われました。イエス様は神の国はどんなふうなのかと、よくたとえを用いて話されましたが、その中のひとつがこの種蒔きのたとえです。種をある人がまいていると、4つの種類の土地に落ちました。一つは道端、岩の上、茨の中、そしてよい土。最初の三つは様々な事情で、根付かず、実がなるまで行かないのです。しかし良い地に落ちた種は、根が生え出て百倍の収穫のとなると。種は神のことば(聖書)、土は人の心の状態です。せっかく種がまかれても、心が種を発芽させる状態でないと、実を結ばないのです。つまり聖書のことば(神のことば)は聞くこと(種がまかれる)から始まり、その後どうなるかは、それを聞いた人の心の状態次第となります。このたとえでは、実(み)は聖霊の実といって、具体的には、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制*1を行っているのがを実を結んでいるという意味です。またイエス様の福音を知らない人に伝えることも、もちろん。イエス様とつながってれば、その人は実を豊かに結ぶようになるとイエス様は言われました。*2
 私は日常生活で聖書を読んで、どれだけ「聴いている」かが問われます。右から左とはよく言ったもので、読んでも心に残らず、忘れてしまうのことが多いのです。ちゃんと意識して注意して聴き、さらにそれが心にとどまるよう、心の中の状態をメンテナンスしていおかないと、実を結べません。何が心を占めていて、聞いたみ言葉を忘れさせてしまうのか、その要因をはっきりさせ、それを取り除いてくださいと、神様に願う必要があるなあと思わされました。
*1ガラテヤ人への手紙5:22-23 *2 ヨハネによる福音書15:5
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