Praise the Lord 本文へジャンプ
今日のわか ちあい

Brooklyn Botanical Garden, NY
♪Today's Sharing♪

Nov. 2014

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
日本の菊展@Bronx Botanical Garden(ブロンクス植物園) One World Trade Centerがオープン@NY
漢字に隠される真理 栄冠を得るための訓練
靴箱→クリスマス・ギフトBoxへ デモ全米拡大 感謝する日: Thanksgiving day
スペイン:サラマンカ談義
11/30/2014 スペイン:サラマンカ談義

「こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。」 ローマ人への手紙15章5-7節

 今日はたまたま礼拝後、席が近くで話をした女性と、スペインのことで話が盛り上がりました。彼女は、今はダンサーという職業でNYに住んでいますが、以前スペインのサラマンカという小さい街に、あるプログラムで滞在したことがあり、なんと私もそのサラマンカに2週間、ホームステイをして語学学校へ行ったことが昔あるからです。スペインというと、マドリッド・バルセロナが観光スポットとしてメジャーですので、こんな小さな街に外国人の私達が住んだ経験があるというのも奇遇で、話はどんどん訪れたことあるラテンの国の話へと広がって行きました。 
 私たちは共通点が何か一つでもあると、親しみが湧くものです。しかしそれ以上に親しくなっていくには、もっと深いところで共通点やきづながないと、表面的な関係となるでしょう。私は今、多人種の住むNYに住んでいて、小さい集会を通して日本人に聖書を学ぶ会を開き、伝道をしていますが、日曜は地元のアメリカ人の教会に行っています。その教会では様々な人種、文化、考え方、年齢層がいますので、一致するにはイエス・キリストを信じる信仰とキリストに関する知識しかないのです。結局、今日の私たちの会話の終わりには、”たとえ家族を離れ、知らない土地に独りで住んだとしても、そこで神の家族:教会を見つけられれば、安心だよね”ということで一致しました。
 キリストの使徒パウロは、ローマの信徒へ手紙を書いた中で、色々違いはあっても互いを受け入れ、心一つにし、それによって神様の栄光を表そうと書いています。この前の文脈では、何を食べるか飲むかで互いに裁きあったりしていた現状が当時あったため、パウロは、”今後、互にさばき合うことをやめよう、それよりも一致しようよ”と薦めます。当時、ユダヤ人のように食物規定(豚、えび、いか、たこ等食べてはだめ)を含む様々な律法を守ってきた民族にとっては、彼ら以外の国の人(異邦人)との一致は、たとえキリストを信じる信仰を持っていても、現実的には違いが目にとまり批判しあったようです。
 「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。 」と聖書にありますが*1、クリスチャンが一致しているのを見ると、世の中の人が、”麗しい、何かこの世にないものがある、彼らが信じている神はすごい”となると、結局外へ影響を及ぼせるでしょう。イエス様ご自身がそうなるようにすでに教会のために祈って下さっていることが感謝です*2。クリスチャン同士が分裂したり、教会内で争っているのを見ること程つまづきであり、結局世の中と一緒じゃないかと魅力がないのです。もちろん、私たちは完全でないし、欠点だらけですが、イエス様のおかげで罪が赦されて、神の子供とされたという、そして今は内側が変えられて行く途上なんだということで同じなんだと、だからお互いを裁かず、キリストだけで一致していきたいと、祈り求めなる必要があると思わされました。自分のことを棚にあげ、他者に批判的にならないよう、気をつけようと。

*1 詩編の133編1節
*2 ヨハネ17章20-21節「わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」
11/27/2014 感謝する日 Thanksgiving day

「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」 第一テサロニケの手紙5章16-18節

毎年11月の第4木曜は感謝祭の日で、今日からアメリカは祝日で4連休の人が多く、アメリカでは家族や友人達と集まり、お祝いのご馳走(メインは七面鳥の丸焼き)を食べます。今年はNYで通っている教会の牧師さんの家に招いて頂きました。牧師さんの家族はお子さんが5人で、その孫達も含め大家族ですが、プラス教会の数人が家族で招かれ、私のような家族が外国にいる日本人、ロシア人、トリニダード・トバゴ人と国際色豊かなメンバーも含め、皆でこの一年を神様に感謝してご馳走をいただきながら、ゆっくり話すことができました。男性陣はフットボール観戦で盛り上がっていましたが、私は今回ゆっくりお互いのことを話す時間となり、もっと皆と親しくなる機会が与えられ、とても感謝な時が与えられました。
 一年に一度改めて感謝する日があるというのは良いことです。本来はいつも感謝の気持ちを忘れずにいたいと思うのですが、色々大変なことがおこっている最中は、感謝する余裕もなく、自転車操業のように忙しく時を過ごしてしまいがちです。また普段恵まれていることを感謝せず、”もっともっと”と現状を満足せず、”もってないもの”に目が行き、ぶつぶつ言う状態は、本人も幸せでないし、それを聞かされる周りも不愉快なものです。一方、大変なことがあったとしても、それを上回る神様が与えてくださった恵みのほうにフォーカスすると、おのずと感謝が湧き出て、聞いている周りも励まされるものです。
 今日の箇所のように、本当はいつも喜び、神様に何でも祈り、すべてのこと;全てといったら良いことも悪いこともすべて、について感謝することが、イエス・キリストを信じる信仰を基に可能なはずなのです。神様は、無理に喜べ、感謝しろとは言われない方です。しかし、根底に状況に左右されない神様が与えるキリストにある救いの恵みと平安が心にあれば、感謝できるはずです。そうはいっても、私はまだまだ、一時的、短絡的に物事をみて感情が一喜一憂するところがありますが、神様が良くしてくださり、良くないと思えるような状況も、必ず益に変えて下さるという約束*を信じて、これからの一年も感謝していきたいなと思わされました。 Happy Thanksgiving day for All

*「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ人への手紙8章28節
11/26/2014 デモ全米拡大

「 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。・・・ 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」 ローマ人への手紙12章19ー21節

 先日、米国ミズーリ州で黒人青年を射殺した白人警察官の不起訴を受け、全米の各都市で抗議デモが勃発、NYでもおととい夜から、マンハッタンへの主要トンネル・橋はデモのデモの人々により封鎖されました。幸い私は川を越えたを南端のブルックリンに住んでいるので、全くその物音は聞こえませんでした。酷いところでは放火、略奪と、170以上の都市で抗議デモが起きているそうです。道路渋滞で何時間もまっているタクシードライバーにインタビューすると「権利の行使だから当然でしょ」という人もいます。オバマ大統領は声明にて「気持ちは分かるが、裁判の判決には従うように」といっていますが、デモ参加者は全く無視です。多民族国家のアメリカはここが怖いところです。
 アメリカの警官というのは、日本では考えられないほど正当防衛の権利が認められています。相手が手をポケットや懐にいれていただけで、銃を持っているとみなして、心臓めがけて何発も撃つよう訓練されています。今回のこの警官も、18才の丸腰の黒人青年を数発撃ち、死体は数時間道路に放置。万引き、薬物利用と素行の悪かった青年のようですが、そのことで今回の死を正当化できないはずです。私はアメリカの極端な正当防衛のシステムに理解できません。
 権利の行使とは何でしょうか。権利とは義務を守り、法に沿って初めて行使できるものだと、大衆は全く知るよしもないでしょう。暴力に対する暴力は終わりがないのに、人々は感情に任せて騒ぎ立ちます。これは人種差別という大義名分を使った、単なる社会的鬱憤晴らしとしか観察できません。撃たれた息子さんのご両親には確かに気の毒ですし、人種差別もあるのは事実です。アメリカで黒人差別の歴史が深いですが、様々な差別はあちこちに社会の中にあるのです。この世の中は不公平です。絶対的正義というのものはないし、みな個々人、国別に相対的ですし、法制度において、その裁判の構成員により、実行犯が無罪となり、一方冤罪が発生したりと、司法制度も完全ではないのです。
 悪が横行し、権力者が物をいわす世の中。そのため、多くの人々が辛い思い、悔しい思いをするでしょう。しかし、その復讐は、その悔しさは神にもっていけば、神が取り扱ってくださると聖書には約束があります。神は公平で正義のお方ですので、最終的には帳尻を合わせてくださると、私は聖書の約束を信じています。不公平や人種差別、犯罪は人が生み出しているのであって、それを神のせいにするのは責任転化です。また、憎しみや恨みは被害者の当人の心をも蝕むのです。泣き寝入りと神に裁きを求めるとは全く次元が異なります。後者はこの世では結果がみれないかもしれませんが、完全な裁きであり、被害者の悔しい思いも、憎しみも神の力で取り去られ、心に平安が与えられ、神に沙汰を任せられるからです。善を持って悪に返し、心は平安でいる、これはイエス・キリストを信じて、キリストのような性質に変えられていくと、不可能が可能へと不思議なことがおこるでしょう。早く、それに一人でも気付いて、憎しみを止めて、神を信じ、このデモが終わることを願います。
11/23/2014 "靴箱→クリスマス・ギフトBoxへ" 

「 イエスは、言われた。『子供たちを、来させなさい。 わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国は、このような者たちのものである。』 」マタイによる福音書19章14節

年末になると、生活に困っている人達、特に子供向けに寄付やプレゼントを集める活動が行われ、ここNYでも街中で見受けられます。日本ではいわゆる「歳末助け合い運動」というところでしょうか。私の勤めているビルでも、NYの貧しい子供達への食料品(缶詰めや長持ちする食べ物)を集める箱が入り口に置かれたり、12月は子供達へのおもちゃのプレゼントを募る箱も置かれるそうです。アメリカは第3世界の国と比べれば豊かなはずですが、都市部には様々な事情で食べ物をろくに与えられていない貧しい子供達がいることを知るにつけその貧富の差に驚かされます。私達はまず、困っている人の中でも、社会的にもっとも力のない子供達へ手を差し伸べたいと思うものです。
 面白いアイデアとして、子供達へのプレゼントを靴の箱に入れて送ろうという活動があることを今回知りました。これはアメリカのサマリタン・パース*というクリスチャン救助団体が21年前から始めた活動で、第3世界の子供達にプレゼントをする方法です。靴箱というのは広い収納を持っている家ならともかく、購入した後再利用しないで捨ててしまうものです。しかし、これを利用し、学校の用品、洗面用具、靴下、小さいおもちゃ、そして手紙を添えて、男女別年代別に箱に詰め、送りたい国を指定してこの団体に送ると、そこから全世界に発送してくれるわけです。先進国の小さい子供でも、この活動を大人と一緒にできます。皆でパッキングをする前に、今まで箱を受け取った子供達の様子のビデオを観て、ああこういうふうに喜んでくれるんだと想像をしつつ、1箱づつ短い手紙を添えてその対象年齢にあう物品を箱に詰め、皆でこれを受け取るであろう子供達のために祈りました。私の手紙に書いた文言は

 「私のお友達へ、 このプレゼントをイエス様のあなたへの愛として受け取ってくれたらと願います。イエス様はあなたをとても大切に思っているんだよ。あなたとあなたの家族の祝福を祈っています。」

 聖書はイエス様が子供を特に愛していたことを記録しています。2千年前のユダヤ人社会では子供と女性は社会的に下に見られて、点呼するのに人数にも数えられません(男性だけ)。そんな子供たちを近くに来させてイエス様は祝福し、周りの大人にこう言われました。「天の国はこのようなもの達のものである」と。これは子供が自動的に神の国に入るという意味ではなく、へりくつを言わず疑わずにシンプルに、子供のように素直にイエス様を信じる者が天国へ入れるのだという意味です。クリスチャンは単なる慈善でプレゼントを用意するのではなく(そのこと自体は良い行いですが)、目に見えなくてもイエス様という方がおられ、一人一人を愛しているんだということを、このプレゼントを通して知るきっかけとなってほしいと伝道活動の目的でするものです。この地上では会うことのない子供達と、天の国で会えることを期待しつつ。

*サマリタン・パース HP: http://www.samaritanspurse.org/what-we-do/operation-christmas-child/
11/19/2014 栄冠を得るための訓練

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 」 ヤコブの手紙1章12節

 運動をしている方であれば想像つくと思いますが、競技をする人は、結果を得るため、栄冠を目指して、練習し、鍛えて、レースに望むものです。その為の訓練は非常な忍耐が必要です。才能もありますが、適当に練習して、結果を出せる人はいないはずです。忍耐は辛いものですし、”忍耐が楽しい♪”という人には会ったことがありません。しかし目標があるから耐え忍べるのです。
 個々人の人格的成長も、順風満帆の人生ではおこらないものです。ある状況を忍耐をし続けることで、その人の性質が練られ、様々な状況に対応できるよう成長するでしょう。子供の成長においても、もし大人が子供のやりたいことを全てOKといって許していたら、その子は我慢するとか、人に譲る、待つ、練習するということを学ばずに、自我が膨張したわがままな人となり、社会で適応不全、周りの人間にとっても迷惑となるでしょう。
 同様に、キリストを信じる信仰の歩みも忍耐が必要です。天国に向かって走る、栄冠を得るために走り続ける競技のようだと、キリストの使徒パウロは例えています。単に自分が成長するため、記録をだすためだけに忍耐し続けるのであれば、結局自己満足で終わってしまい、後は過去の栄光に生きるだけです。しかし、その忍耐によって、神様から約束のものを得られるということを動機にすると、生きている限り耐え忍ぶことが可能になります。約束のものとは、天国に行って神の子となり、祝福を得られることです。つまり生きている間だけのことでなく、死んだ後のことにつながり、終わりがないのです。
 神様は全ての人に天国まで走りぬきゴールで栄冠を受けとってほしいと、そのために一人でも多くの人がその神の愛を示す、イエス・キリストを罪からの救い主として信じてほしいと願われています。神様は、個々人が天国、また地獄もあることを信じ、自分の意思で選んでイエス・キリストを信じて、永遠に生きる命の冠をもらってほしいと。人が考える天国・地獄とは、生前の行いが良い悪いでなんとなくいけるかなと思う程度で、何によって確信を持てるのでしょうか。聖書では行いではなく、信仰があれば、救われると約束されています。怠け者の私は忍耐とか体育会系的なことは苦手ですし、信仰を持ち続けるということ事態が容易ではなく、忍耐のいることです。しかし、たとえ途中で何度も転んで、立ち止まったとしても、信仰さえあればゴールにいけるというのが励ましです。そして地上での良い行いさえも、信仰を持ち続ければ備えられる*というのも約束だから嬉しいです。
 今のことは一時的で、天がゴールだから忍耐しようと自分を励ませます。これは聖霊が励ましてくれるんだなと、本当に感謝しつつ、相変わらず自己中心的・ぐうたらな者ですが、徐々にキリストのような愛の品性に変えられていきたいと切に願います。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」 エペソ人への手紙2章10節
11/18/2014 漢字に隠される真理

「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。 』」 ヨハネによる福音書1章29節

 日本人であれば何気なく使用している漢字。それぞれのパーツに意味があり、それらが組み合わさって漢字が構成されています。以前から聞いたことがあるのですが、この漢字のなかで聖書の内容が表されているものがあるのに驚かされました。例えば”義”という字。ウィクショナリー(Webの辞書、”義”)によると、”「羊」+「我」。「我」はのこぎりであり、羊を神などに供える(「犠」)ためのこぎりできちんと分けること。「きちんと分ける」こと又は「神に捧げられたもの」の意から、「ただしい」の意が生じた。”とのことです。
 羊を犠牲に捧げて自分(我)が神の前に正しい(義)と認められるという発想は、まさに聖書的考えで、古代イスラエルの民族では、人が神の律法を破り罪を犯した際、その罪を生贄の羊に乗り移させて、羊が神の怒りを受けて血を流して屠られ、それでその人は罰をうけなくて済むという制度がありました。この制度では不完全な人間の祭司のもとに行われ、一人の人が何度も罪を犯すので、毎年この生贄の儀式をやり続けなければならず、この方法によっては人は完全に神の前に正しいとされなかったのです。
 そこでこれを完成するために、完全な祭司として、また小羊として代わりに捧げられたのが、神の子イエス・キリストです。このイエスが自分の罪のために変わりに死なれたことで、自分が罰を受けず赦されること、そしてイエスが復活されたとシンプルに信じるだけで、罪と死からの救いが自分のものとなる。その信仰により神の前に義とされ、これが、ユダヤ人だけでなく全ての国民の救いとして、神の愛として提示されています。
 私は教会に長いこと行ってはいても、「義と認められる」という用語の意味が全く分からず、説明されていても理解できませんでした。結局はこの意味がわかるようになるには、聖霊の働きが必要でした。なぜ自分は神の前に生贄を捧げなければならない程、どこか悪いのかがわからなかったのです。”聖霊が義について、罪について、裁きについて示す”*とイエス様は言われましたが、単なる知的理解では納得できず聖霊が示してはっと、わかることなのです。
 この他、”油断”という言葉は”油を断つ”と構成されていますが、油は聖書で聖霊を示し、聖霊を保ち続けるように注意することとつながり、漢字の成り立ちの課程においても、多く影響しているのだなあと、とても興味深いです。聖霊は東洋人のことばの中にも現れる、まさに生きた神のことばの働きであると感動しました。

*「それ(聖霊)がきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。 」 ヨハネによる福音書16章8節
11/10/2014 "One World Trade Centerがオープン@NY"

家造りらの捨てた石は、隅のかしら石となった。これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。」 詩編118編22-23節

 先日、NYのツインタワーの跡地に建設されたOne Word Trade Center ビルがオープンしました。総フロア面積は東京ドームの6倍、現時点でアメリカで一番高いビルで、新しいテナントも入り始め、今後は展望デッキも作られる予定。これだけの高いビルの建設には、当たり前のことですが、土台作りに非常に時間をかけたそうです。土台が建物の要であるのは、昔から言われているところで、古代から日本は木造建築ですが、西欧の石作りでは、Cornerstone(隅の頭石)というのが土台に据えられ、大きな神殿や、建物を支えていたそうです。
 聖書では、この頭石はキリストを指します。つまり、キリストは後に教会を建てられ(使徒・弟子達を通して)ますが、教会とは建物ではなく、キリストを信じる者の集合体です。つまり、信徒の一人一人が組み合わさってキリストの教会を構成しています。使徒パウロは、教会をキリストの体とその器官とも例えています。聖書の預言では、この頭石が一度捨てられるとされ、実際そのことが実現したのが、ユダヤ人たちが当時神の子、救い主であるイエスを拒否し、十字架につけて殺したことでした。つまり、ユダヤ人たちはイエスを認めないので、彼らにとっては邪魔な躓きの石でしかありません。しかし何人、日本人であっても、イエスが罪からの救い主だと信じる者にとっては、イエスが頭石で、イエスを信じない人にはつまづきの石となるのです。神は一度捨てられ、殺されたイエスを3日後によみがえらさせてから、教会のかしら石(土台)とされたというのが、なんとも不思議な神の計画です。もちろん、ユダヤ人の中から後で”自分たち(の先祖)が殺したイエスが、神が約束されていた救い主だった”と信じる人達も起こされるとも預言されています。
 教会というのは、不完全な罪人の集まりです。ですから、信じていない人から見ると、”あんな人がクリスチャンだなんて、それなら、なる価値ないな。。。”とつまづいく方もいるかもしれません。クリスチャンの歴史なんて戦争じゃないかと。一方、キリストの教えに従って良い行いをした人もたくさんいます。しかし人ではなく、”キリストがどういう方であるか”を信じた時、神であるキリストとその方との信頼関係が聖霊によって与えられ、人はどうでもよくなり、不完全な人を裁く視点でなく、完全なキリストに目がいきます。これは非常に助かります。私も不完全で、他者から見ると、信じる前の私を知っている人からすると ”あんな人がねえ”と見られるからです。しかし、私個人の欠けにより、キリストの性質が否定されることはないのです。
 いきなり聖人になれないクリスチャンは発展途上で、徐々に聖霊によって変えられていくという、希望があります。ごつごつしたクリスチャン同士が、きちんと形が整えられ建物(教会)に組み合わされるように。このことが聖書に約束されているのが慰めであり希望です。キリストを土台にしていれば、何がその人の人生に起こっても決して倒れないのです。今回この聖書の箇所をちょうど学び、非常に励まされました。私は、高いところに登るのは苦手なので、NYのこの新しいビルは遠くから眺めるだけで充分です。(笑)
11/3/2014 ”日本の菊展@Bronx Botanical Garden(ブロンクス植物園)

「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 」 ルカによる福音書12章27-28節

  秋も深まる週末、日本の菊展がBronx Botanical Gardenで開催されていたので、お友達に連れて行っていただく機会が与えられました。日本でもなかなかそのような催しに行く機会がなかったのですが、普通の温室の一角に見事に形を整えられた日本菊がたくさん植えられているのを見て、その美しさに感動しました。これらは、自然に菊が生えてあのような形になるわけでなく、人の手がかかった、まさに菊を用いた華やかな芸術作品でした。その日、多くの人がこの植物園に訪れていましたが、この植物園はトラムに乗って周るほど広く、トラムにゆられながら紅葉の始まる美しい自然にしばし浸ることが出来ました。折りしも昨日、マンハッタンの街を歩いていると、先日菊展で見たのと同じ菊が、歩道にシンプルに植えられているのに目が留まりました。これも充分美しいなあと。”シンプル・イズ・ベスト”とは良く言ったものです。
 イエス様は弟子達に、野の花が、何もしなくても美しく咲き、それも短期間であっても神が装ってくれるから、ましてや神は人のことを大切に思って良くしてくれると、だから、何をたべようかと命のことで思い煩い、何を着ようかとからだのことで思い煩うなと、そういうことを心配しなくていいんだよ、と言われたのが今日の箇所です。
 食べることにとても興味がある私は、何を食べようかなと考える事自体が楽しいです。ただ、これがあまりにも、健康のためにこれこれを食べないとと、こだわりすぎると、食べるために生きるになってしまうでしょう。(本来は生きるために食べるのに) ある人は、着ないのにたくさん洋服を買う、おしゃれが好きな人は、とりあえずたくさん蓄え、何を着ようかと考えるのが好きなのでしょう。しかし、何事も思い煩う、つまり頭でそれらを考える時間があまりにも占めてしまうと、きりがなく、不安になったりします。もっと買っておかないと、もっと何々しておかないとと。するともっと大切なことに心を留めることができなくなります。
 大切なことは、良くしてくれる神様のことを思い巡らすこと、そうすれば、心配しなくても必要なものが与えられるという約束が書かれているので、それを信じて、シンプルに行こうと。歩道の菊を見て、神様に感謝しつつ思わされました。 
inserted by FC2 system