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今日のわか ちあい
♪Today's Sharing♪

Dec. 2014

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
ユニークな車内アナウンス クリスマスは12月25日なのか
狭い門 0℃の中のクリスマスキャロル
塩味をきかす 朝から切れられる
”朝から切れられる”

「自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。」 箴言25章28節

 今朝の地下鉄での通勤途中、通りすがりの知らない女性に酷い言葉を言い放たれ、私は一瞬、「えっ、私に言ってんの?」と電車を降りてから気付き、そして腹が立ちました。その相手は電車でいってしまったので、姿も見れませんでしたが、その直後、私の空想のなかで 相手をにらんで こう言い返えしてやればよかった!と思ってしまいました。そしてその直後、「主よ すいません」と神様に心のなかで謝り、怒りをおさめました。「(愛は)いからず、人のした悪を思わない」*という聖書のことばが浮かんだのです。NYは都会ですから、そういうことは日常茶飯事で、中には身体に怪我を負うほど怖い目に通り魔にあうこともよく聞かれ、その被害に遭われた方々は本当にお気の毒です。絡まれたりされず、単に言葉だけで済んだのは幸いです。私のとっさの反応において、以前の自分の悪いところがまだまだ出てきてしまう、成長していないなあと、自分にがっかりします。しかし、思ってしまったこと、してしまったことはもう取り返しはつかないので、すぐに悔い改めて神様にまず謝るのが大切だと思うのです。
 「切れる」という言葉は、なにかぶちっと音を立てて心の平常心をコントロールしている綱が切れたかのように、感情を吐露することを表現のようです。感情を制止できない状態で、酷いことをわめくか、暴力となるか。ある人は、現代人は砂糖の取りすぎ、ゲームのしすぎで切れやすいのだと言う人がいますが、この聖書の箴言が書かれたのは数千年前ですから、食べ物や環境というより、昔から切れる人はいて、それは愚かなことであるという箴言がのこされている。つまり、変わらない人間の性質なのでしょう。
 古代都市は城壁をつくり、それにて外部からの敵の攻撃を防いでいたそうです。ですから、その城壁の一部でも壊されれば、もしくは抜け穴がみつかれば、そこから入り込み街を攻略できるのです。大きい穴は要りません。ほんの小さな穴、割れ目さえあれば、あたかも小さいダムにできた割れ目から、水が漏れてすぐに大きな穴に破裂して水が怒涛のように流れ出し、崩れてしまうように。城壁がない、もしくは壊れた城壁は非常に危険なように、心の制止力とは、街にとっての城壁のようなものだと。何で制止するのでしょうか、その人の良心、理性、もしくは自分の意思の力でしょうか。
 私にとって、心を制してくれるものは、心におられる聖霊と聖書のことばを思い返すことです。私の良心や意思ほど頼りにならないものはない、不完全だからです。自分が他者に切れないことはもちろん、相手から切れられても、怒っても罪をおかさず、怒りを納めさっさと忘れ、もっと大切なこと;聖書のことばを思い巡らさなければならないと、それが一番の心を制する秘訣ではないかと、この年の瀬に思わされました。今年も終わりです。皆様も平安のうちに、よいお年を迎えられますように。

  *第一コリント人への手紙13章5節
Dec. 23, 14 "塩味をきかす"

「塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」 ルカによる福音書14:34-35

 レストランに行くと、時々テーブル上に”どこどこの塩”とか、市販の安い塩とは異なる、ちょっと高級感のある塩が置いてあったりします。そしてその味は、やはりおいしい塩ですし、塩味は食事の決め手となります。
 塩(Salt)というのは古代から貴重で様々な効用(調味、保存、殺菌)があり、歴史家によると、ローマ時代の兵士は塩でお給料をもらっていたことがあり、Salary(給与)は塩(salarium: ラテン語)から派生しててるそうです。また当時は精製技術が発達していなかったので、不純物が混じっていて、しょっぱくない塩も存在していたようです。以前は塩は全て塩味がするものだと思っていました。
 イエス様はたとえで多くのことを語られました。ここでの塩は何を指すのでしょうか。塩味とはキリストを信じる者、そしてその集合体の教会の社会に対する影響力を指します。これは政治的な影響力を持つことではありません。クリスチャンはこの世ではマイノリティなので、多数派が影響力を占める政治と結びついた時点で塩味が失われます。クリスチャンが世の中のキリストを知らない人と、同じ考え方、同じ行動様式をしていたら、なんの影響力もない、塩は少量でも効き目がある。一味違うから、[何かこの人が言うことは違うなあ]と。なぜならキリストを信じて従おうとする人は、キリストの教えにも基いて物事の決断をしようとしますので、世の考え方とは全く反対のこともあるからです。また、教会の存在がその地域の腐敗・悪の防腐剤の役目として働くべきです。教会が塩味・防腐の役割をはたさないと、「なんだ教会といってもこの世と変わらないじゃないか、いやもっとひどい」と地に投げ捨てられてしまうのです。
 昔の兵士は怪我をした時、傷口に塩をぬって殺菌消毒しました。傷口に塩をぬると、異常に痛いです。しかし一時的に痛くても、塩のおかげで化膿を防ぎます。このようにイエス様の教えは厳しいことも多いです。耳が痛い内容、認めたくない罪、触られたくないトラウマが光に照らしだされる、つまり傷口に塩を塗られるような一時的な痛さ、悲しさを感じることがあります。それが嫌で拒否する方もいます。しかし、イエスを信じて悔い改めることにより、罪が赦されて、悪い行いから解放され、また心の傷も癒されて、たまっていた膿の排出、デトックスとなるのです。
 最後に、塩というのは喉の渇きも起こします。つまり、塩味を持つ人と会話していていると、なんだか真理についての飢え渇き、求める心がわいてくる、この人が信じているイエスというのは何だろうと。飢え渇きがない人は、神を求めないし、現状維持で変わりたくない、多少大変なことはあっても何とか自分でやれるからと、真理を求めるなんてどうでもいい、目の前のことで頭がいっぱいで必要ないのです。イエス様は「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。*と言われました。この生ける水とは神が与える聖霊をさしていて、キリストの所へいけば飢え渇きが満たされ、聖霊が与えられ、自分だけでなく外側に流れ出て影響力を持つようになると。私はキリストに習って、外に向かって少しでも良い影響力を持っていきたいなあと、日々祈り求めようと思わされます。
    *ヨハネによる福音書7章37-38節
Dec. 21, 14 ”0℃の中のクリスマスキャロル”

「するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、『いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』」。 ルカによる福音書2章13-14節

 12月のNYCはクリスマスの時期のため、一番観光客で賑わう季節です。セントラルパークの入り口にクリスマス向けの商品の架設ブースが立ち並び、沢山の人が通りを歩いています。そんな場所(Columbus Circle)で、私の教会はちょうど銅像があるエリアのコーナーを陣取り、約1時間クリスマスの歌を数人で歌いました。毎年色々な場所でやるそうですが、私は今年が初参加。マイクなしなので、”もっとく大きな声で!”と副牧師の音頭のもと、ギターの演奏と共に皆でクリスマスキャロルを歌いました。多くの通りがかりの人が足を止めて笑顔で聞いてくださり、また写真をとっていました。歌っている横で、牧師やスタッフの人が日曜日のクリスマス礼拝のちらしを配り、聴衆の中には一緒に並んで歌う方々もいて、皆で共にキリストの誕生を祝う賛美を歌えたことは、とても嬉しかったです。
 ちょうどお昼時で、気温は零℃でしたので、厚着をしていてもだんだん手足がかじかんできました。私はなんとか体を左右に動かしたり寒さに負けじとがんばりましたが、もっと大変だったはギター陣。指がかじかんでギターをひくのが限界になってきて、一時間が限度でした。教会に戻り、建物内の金属の手すりを触ると”熱い”と感じる程、体は冷え切っていました。そして歌った後はホット・チョコレートとケーキで、ほっと一息。今朝の日曜礼拝では新しい方々も来ていたようですが、この時期ぜひ普段教会に行く機会がない人も訪れてくれれば幸いです。
 私は小さい頃、母の教会が中野にあり、その近所で毎年クリスマスの寒い夜に、歌を歌って一緒に周ったことを思い出しました。そして教会に戻るとお汁粉が待っていて、心も体も暖まったものです。NYではホットチョコレート、日本ではお汁粉と、所違えど賛美を歌った後の皆で頂く暖かい飲みものはなんと美味!
 この聖書に書いてあるような大勢の天使が歌う賛美のコーラスには負けますが、通りすがりで聞いてくれた方々が一人でもクリスマスの意味を思い返してほしいなあと心を込めて歌ったので、神様も上から見て喜んでくれると期待しつつ。天使の賛美の内容は、天では神がほめたたえられ、地では平和がありますようにと。この地上で平和を得るには、まず神様と人との間に平和がもたらされる必要があり、そのためにイエス・キリストが人としてお生まれになったのです。キリストを信じて神との平和がある人は、人との関係でキリストの持つような愛を実践しようとするので、地でも平和につながるからでます。
 今の世界事情では残念ながら平和がないところが多すぎて、毎日のように心を痛めるニュースを目にします。そんな暗いところにも、キリストの光が照らされますように祈りつつ。
Dec.15, 14 ”狭い門”

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」 マタイによる福音書7章13-14節

 「狭き門」。。受験勉強、就職活動にてよく使われる言い回しですが、これは一般的に選ばれる枠が限られているのに対し、人気があって大勢が入ろうとするから狭くなります。狭き門から選抜された人は、世の中的に「あの人は優秀だ」「エリートだ」と評価されるでしょう。
 一方、今日の箇所でのイエス様が言われる”狭い門”はそれと異なり、枠もなく、誰でも入れる門です。しかし、”努力して入りなさい”とあるように(原語のギリシャ語のニュアンスですと"苦悩して入る")、楽な道に通じる門ではないため皆が行きたがらない門です。逆に探さないと見落とされがちな地味な門であるかもしれません。では”人生は人と同じようではだめだ、苦労すべし”のような、人生訓をイエス様は述べているのでしょうか?
 イエス様はご自分を「わたしは(羊の)門である。わたしを通って入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」*1と言われました。人間を羊に、イエス様を門にたとえ、イエス様を通る人は救われると。またイエス様は「私は良い羊飼い・・・羊のために命を捨てる」*2とも言われました。これは人々の罪が赦されるためのイエス様の十字架での死を指します。つまり、狭い門に入るとは人生訓ではなく、信仰の話です。イエス様を救い主と信じてだけ救われる、また続く信仰の歩みは楽でないけれども、永遠の命の道につながるという希望があります。そして、その狭い門:イエス・キリストを探し求めれば、誰でも見つけられ、たたけば、門は開けられるとも約束にあり、誰にでもオープンなのです。
 ある人にとっては「そこまでしてなぜキリストを信じるのか」と。ご利益宗教のほうが楽そうだし、もしくは自己実現で自己啓発してがんばる道等のほうが魅力的で、説得力があるかもしれません。しかしそれは滅びの道だとイエス様は言われました。なぜ、ある人はキリストを信じる道を選び取るのでしょうか。それはその人がキリストを通して表された神の愛を受け取り、嬉しくて嬉しくて、喜んでその愛に自発的に応答したいという思いにより、キリストに従う道を取ろうと思える、「そこまでイエス様が自分を救うためにしてくれたのか!」と個人的に信じて感謝すると、不思議とそういう気持ちになります。この信仰も、求めれば与えられ、信じると聖霊が与えられて、もっと神の性質、計画、願いが聖書を通して理解できるように導かれます。そして神様は、ご自分の御子であるキリストを信じることを通して、人間が作り出した神ではなく真の神を信じてほしい、滅びないで命を得てほしいと、づっとづっと有史以来願っておられることを知るのです。クリスマスの時期、イエスという神からのプレゼントを一人でも多くの人が受け取られることを祈りつつ。
 *1ヨハネによる福音書10章9節
 *2ヨハネによる福音書10章14-15節
Dec.14, 14 "クリスマスは12月25日なのか"

「さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」 ルカによる福音書2章8-11節

 この季節アメリカでは、とてもへんてこりんな現象が観察できます。12月はクリスマスのシーズン、昔からキリストの誕生日のお祝いとして、クリスマスの歌が街角に流れ、「メリークリスマス」と人々は挨拶し、24日のイブには教会へ行く人も多く、25日の祝日は家族で集まったものでした。しかしもはや、「メリークリスマス」とは人々は言わず、「Happy Holiday」(ハッピー・ホリデー)と言います。つまり、全ての人がクリスチャンではないので、他の宗教の方々を考慮するためだそうです。釈迦の誕生日を全世界が祝日としないのに、本来のキリストの誕生日の意味を避けて、中途半端に商業的クリスマスだけを祝日にするのは矛盾ではないでしょうか。聖書の記述と全く関係のない、プレゼント交換や、サンタクロース・となかいの歌、ラブソングを歌う。キリストの誕生という本来の意味を故意に避け、挨拶まで変えるのなら、そもそもクリスチャンでない人は祝日にする意味もない。しかし、伝統・習慣というものは一度確立したらなかなか変えることは難しく(この挨拶は見事に変えましたが!)、また様々な祝日がありますが、その一つ一つの祝日の意味に同意して祝う人は少ないでしょう、人々はお休みを単に享受しています。
 天文学者のD.ヒューズが、聖書の記録やその当時の天文的観測をもとに、キリストが生まれたのは9月だったと推測しているそうです。確かに、羊飼い達が野宿をしているところに、天使がイエスの降誕を知らせに来たという聖書の記録がありますが、羊飼い野宿は9月まで。10月以降春までは寒いので行われないというのと合致します。そして、クリスマスを12月としたのは、AD4世紀に当時の教会が異教のミトラ教の習慣、冬至のお祭りにキリストの誕生日をくっつけたのが由来だそうです。その宗教ではもみの木の下でプレゼント交換をし、大宴会を催して冬至を祝ったそうです。
 しかしながら、大切なことは、キリストが生まれた日がいつなのかと議論したり、他宗教と混じったクリスマスの習慣の廃止を唱えたり、メリークリスマスを言わなくなった世の中を憂うことではないかもしれません。キリストがこの世に降誕したということを、一人一人が信じるかどうかが大事で、そのために、少なくとも年に一度は、この行事化したハッピー・ホリデーを通してでも、キリストが”自分を救うために生まれたんだ”と信じ、その大きな喜びを受け取れるきっかけとなればと願います。たとえ挨拶を変えたとしても、街に流れる音楽はいまだにキリストの降誕の賛美歌が流れるように、クリスマスの真の喜びをこの世から消そうとしても不可能なのです
Dec.8, 14 "ユニークな車内アナウンス"

「また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。」ルカによる福音書14章12-14節

 NYの朝のラッシュ時の地下鉄は東京並みです。さらに、何の説明もなく、突然5-10分と電車が途中で止まることがあり、皆忍耐してじっと車両が動くのを待っているのです。しかし時々いらいらが募り、ちょっと押した、押されたで口論が始まります。車両のなかという、その場を立ち去れない状況の中でこのような朝の喧嘩を聞かされるだけでも非常に疲れるものです。
 今朝は月曜日で、地下鉄は遅延、狭いホームには人がはみ出そうな程集まり、ようやく来た電車に乗ると、ユニークなアナウンスが流れました。「おはようございます。この季節とても車両は込み合いますが、皆さん、スマイル、スマイル!少なくとも皆さんは世界の95%の人々より裕福なのですよ。MTAは皆さんの安全を第一に運行しています。よい月曜日を!」どんよりしていた乗客の数人に、笑顔がこぼれました。私にも。日本では考えられないアナウンスです。この車掌はこの後何度も、乗客がスムーズに乗り降りできるよう、きまり通りのアナウンスに一言付け加えていました。そして私がちょうど降りる駅で、突然一人のお年寄りの乗客が気分が悪くなり床に倒れてしまいました。皆でワン・ツー・スリーと起こして、その方をその駅におろしていました。いやいや、通勤では何かしらドラマが起こります。
 アメリカは多人種国家で、様々な問題があり、日本では考えられないアンビリバボーなことが日常茶飯事でおこり、犯罪は半端なレベルではありません。一方で、私はアメリカのこういう型にとらわれないユニークさや、見ず知らずの人への親切な行為にいつも心を打たれます。先日もホームレスみたいな人が地下鉄に乗っていて、床にうづくまっていました。彼は杖をついていて、いすからずれ落ちてしまったようです。すると、次の駅に電車が止まるまで待ってから、周りの皆が力をあわせ彼を持ち上げて席に着かせていました。席の譲り合いはあたりまえです。
 イエス様はある時、”人を食事に招待する際に、お返しができない、その辺の困っている人を呼びなさい”と言われました。私たちは気の合う人同士で集まり、食事をし、助け合うものですので、これは非常に耳が痛い言葉です。しかし、キリストを信じる信仰を持って、見返りを求めずに見ず知らずの相手にも良くすると、天で神様が報いてくださると。イエス様は無償の愛、見返りを求めない愛を、神に背を向ける人々も含めて全ての人に十字架上で注いで下さった方であります。そのイエス様の愛を受け取り、自分が違う形で小さいことでも他者に流していけるものに、聖霊の力で変えられていきたいと願います。
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