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今日のわか ちあい

♪Today's Sharing♪

Feb. 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
まるで映画の世界;進化した子供の義手
平和の国ブータン 春節と獅子舞
バレンタインデーの訪問 隣の騒音
神はどこに? 続くISISの残虐行為 零下の日々
エスカレーターか階段か 手をかざすだけでIDに チップによる認証システムの導入 本当ですか?
Feb.27
2015
” まるで映画の世界;進化した子供の義手”

「また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。」 イザヤ書58章9-10節

 私の以前のルームメイトの一人は、生まれつき右手の肘から下が欠損していましたが、とても陽気でおしゃべりな方でした。彼女は、小さい頃から訓練されてきたので、何でもうまく肘と片方の手を使って料理も家事も、仕事も出来、子供二人を育てていました。現在アメリカでは、千人に一人の割合で指が欠損した子供が生まれてくるという統計があり、さらに健常で備わっていた指も、芝刈り機を扱った事故で毎年9千人の子が指を失うそうです。* そんな子供達に従来の義手はあまりにも高価で、成長期にあわせて何度も作り変えなければならないので手が届かない状態でした。自分の指がほしい!と涙ながらに頼まれると、親もなんとかしてあげたいという思いに駆られます。
 そんな子供達に朗報!3Dプリンターで今までとは違う義手が安く手に入るとのこと。材料費は100ドル以下で、組み立てもYou Tubeで指導されてただ。デザインもWeb上で色んなカラーを選べる、つまり人の指のように作られておらず、映画にでてくるサイボーグのような形状なのです。3Dプリンターは印刷(立体なので印刷?というイメージではないですが)に20時間、組み立てに2-3時間を要するのですが、非営利団体がそのプリンターを廉価で貸してくれれば、多くの子供が漫画のヒーローのような手を装着することができ、実際物をつかむだけでなく、自転車にのったり、サッカーのゴールキーパーも出来る。5指がない状態でも手首の部分からその義手をつなげて動かせるという、科学の進歩には驚かされます。子供同士では、最初はその義手を見てからかわれるそうですが、すぐに周りも認めるようになり、逆に”Cool!(かっこいいじゃん)”となるそうです。
 身体に不自由がある人々が、医学・科学の進歩により、自分で自立して生活を送られることはすばらしいことです。神は子供達の叫びを聞いてくださってます。それと同時に、周りの子供達が、幼い頃から相手の自立を尊重しつつ、更に協力して助けるパートがあることを生活の中で学べれば麗しいと思います。子供の頃のそういう環境は大人になって社会に出た時に重要となってきます。私も高校生の時に、短期間ですがボランティアで知的障害児の子供達の付き添いをした経験は、後の私の人格形成や考え方、職業選択へ影響を与え、貴重です。障がいのあるなしに関わらず、私たちは互いに欠けのある部分、得意・不得意部分を持つものとして協力しあい、チームワークの気持ちで付き合えたらなあと。
 イエス様が”互いに愛し合いなさい”といったのは、人間関係は一人ではできない、”互いに”というからには二人以上を前提としていて、そこで愛を表しなさいと言われています。一人では愛は表せませんし、成長もないでしょう。神様は困っている人の叫びを聞かれ、直接助ける場合もありますが、このような愛し合う関係を構築するために、人を用いて、人を助けられるからです。それには助けてもらう側も、助ける側も謙遜な気持ちで、キリストの愛(寛容、親切)をもって仕え合えられればいいなあと思わされました。そうすることによって、結局神様が喜ばれ、その人を通して神の光が暗い世の中に輝きでると冒頭の箇所に書いてあるのが幸いです。

*2/17/15 ニューヨークタイムズ紙
Feb.26,
2015
”春節と獅子舞”

「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。 ルカによる福音書4章18-19節

 先週末、近場の中華街にお友達と飲茶を食べにいきました。折りしもちょうど中国の新年、春節の時期で、街ではパレードやお店の中でも中国の赤い獅子舞(ライオンダンス)が披露されていました。今回初めて身近で獅子舞を見ることができ、興味深かったです。近年は日本でも、春節は経済効果に貢献しているそうで(「中国客、春節買い物旋風 百貨店免税売上高2〜4倍 」*)、日本にとっても有難いことです。
 日本の獅子舞とかなり形状が違う中国版のを見て、その由来について調べて見ました。獅子舞は中国本土で始まり、アジア各国へ華僑とともに少しづつ形も変わり伝播していったそうです。日本のある言い伝えでは、獅子が人を食べて怖れられていたので、日本の古代の神が、獅子に人を食べる代わりに悪魔を食べるよう諭したという説があるそうです。古代の神道に悪魔という存在があったのだろうか?と不思議な説ですが、お祭りの風習には何かしら宗教的な関連があるものです。
 聖書では獅子は良い形容にも悪い形容にも使われています。獅子が人を襲って食べたことは幾つか書かれています。また、神道の伝承と逆なのですが、イエスの弟子・ペテロは「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」*1と書いています。だから油断せず、悪魔に立ち向かうには神に従いなさいと、霊の戦いの話しにも獅子の形容が用いられています。一方、百獣の王である獅子を、力あるキリストの形容にも用いられています。
 霊とは目に見えない世界でありますが、実はこの世は目に見えるものばかりではないと、霊の目が開けると理解できるようになるものです。それは必ずしも恐ろしい体験話や霊が見えるとかではなく、もっと日常的なこと:子供が殺人のゲームにハマルとか、最近の川崎で起きた事件のように、人をいじめてついには殺してしまう背後の”存在”に気づくことです。もちろんこれらはやっている彼らの責任ではありますが、それを唆し、煽り、人間同士で破壊させようという目に見えない存在:悪霊の働きです。
 一方 こんな弱い私に対しても、超自然的な力を持つ悪い霊は手出しはできないし、何か害を及ぼしたとしても、私の魂に対しては何もできないのです。なぜなら、悪霊よりも強い、神の霊:聖霊に守られているからです。そしてイエス・キリストを信じて従うと、悪魔は逃げ去るという約束があり*2、勇気づけられます。私には悪を退治してくれる獅子舞や厄除けは必要ないのです。
 日々悲しいニュースがある中、悪に心を支配されて残虐なことをしてしまい、悪霊に捕らわれている人々が、キリストに出会い、悔い改めて悪を止めるよう、また心が病んで傷ついて閉じこもっている人々がキリストにより開放されるよう祈りたいと思います。

*1,2 ペトロの手紙一 第5章8−11節
Feb.25,
2015
平和の国ブータン”

「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。」
エペソ人への手紙2章3-6節


 ブータンに行ったある日本人の旅行記をたまたま読みました。その人によると、貧しい国ですが、仏教国なので殺生をしない平和な人々で、「悔い改めれば人殺しも赦されからと戦争しているキリスト教国より、平和な国」と記されています。ブータンという小さな国は、仏教を国教とし、軍隊は皇室を守る近衛兵を含むたった7千人の陸軍のみ。この国の歴史を見るとヒマラヤ地域に近いインドの東の内陸に位置し、西欧の植民地化時代も一時イギリスの侵攻を受けましたが、比較的外部との関わりや紛争が少なかったようです。しかしながら、全く戦いが無い国かといえば、歴史を調べると国内政治での権力争いや外国人の排除政策等、彼らだけ特別平和な人間ではないようです。比較の問題でしょう。
 「悔い改めれば人殺しも赦されるから戦争する」との文言が、一般の人のキリスト教の一つの捉え方なのかと、ふと思わされました。歴史的にも、信仰が個人ではなく、国家的に宗教が統括され、信仰を持たない人、キリストの教えを守ろうともしない人が、クリスチャンと一くくりにされ、国家単位の大義名分のもと戦争が行われてきました。中世の十字軍、新教と旧教の戦争、そして現代も先日のニュースで”イスラム国と戦うキリスト教徒義勇軍が結成”と先日報道されていました。* しかし実際のキリストの教えでは”殺すな”とされ、さらに”敵を愛しなさい”という、人間の性質に抗う教えが聖書に書かれて、“赦されるから殺してもいい”という教えはありません。さらに、”殺す”という実行犯だけでなく、心で怒って恨んだだけでも、罪として裁かれる程、キリスト教の神の罪の定義基準は高く、これではどの国民も誰も救われようがない、赦されようが無いのです。
 しかし、人である以上、行いには出さないとしても心の思いはどうしようもない、そのどうしようもないことをなんとかするために、神の子であるキリストが十字架で代わりに全人類分の罪のために罰せられ、そのことを信じて悔い改める者が、罪を赦され救われるというのが福音です。その結果、信じた者が過去にした殺人さえも赦される。そして本当に信じた者はキリストの基準で生きようとするので、『赦されるから何をしてもよい』という思いはありえないのです。また神の不思議な助けにより、不可能を可能にしてもらうために、日々祈って求め、神がどういう方かを知ろうと聖書を学び、信徒同士で集まって励ましあうのです。信仰は成長していくもので、最初から出来上がった聖人ではなく、一生かけてキリストのような愛の性質を持てるようにと求め続ければ、変えられて行くという約束に望みがあります。
 偏見を持たれてしまうこの世にあって、信仰は国とか団体、教会の組織ではなく、個人と神との関係なのだということを、一人でも理解していただくには 信じている自分自身が平和な状態、まずは一人から始めなければと思わされました。これは私の性質では不可能でして、神の助けを日々求めようと思います。先ほども、帰り際駅員に超意地悪をされ、怒り心頭。しかし怒ってはいけない、憎たらしいけど相手を赦します、忘れさせてくださいと祈ったばかりです。私はこんな低次元のレベルですが、以前だったら、怒ったままでしたので、少しは変えられていて神にただ感謝です。

*2/16 ロイター通信
Feb.17,
2015
隣の騒音

「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」第一コリント人への手紙10章23-24節

 ある方が隣人の騒音のことで困っておられました。隣人が昼でも夜でも大音響で音楽を流しているので、その方は家にいられないくらいだというのです。そこでアパートの管理人に電話して、その人を通して音を下げるようにつたえてもらうと、その瞬間は少し音が下がりますが、それでも夜中に低音が響く音楽をかけられ不眠にもなり、この状態が4ヶ月近く続いているとのこと。引っ越すしかないのだろうかと。この隣人はおそらく自分にとっては大音量ではなく、迷惑をかけているつもりはないのでしょう。NYに住んでいればこのように人のことをかまわず、ゴミは投げ捨て、音楽は所かまわず大音量で流す人が五万といます。一方、私も含めて多くの人々は静かに寝たいのです。そういう人同士の地域に住むしかないので、私も引越しの時は、隣人がどの程度騒音を立てるか確認していますが、住んでみないと分からないことは沢山あるものです。
 すべてのことはその人の自由です。何の音楽を聞こうが何を食べようが、何の仕事をしようが、何を勉強しようが、その人の自由です。昔の日本人のように人様に迷惑をかけないように、という美徳は他の国では全く通用しません。
 キリストの使徒パウロは、いつも他者のことを考えていたことが、彼の信徒あてにかいた手紙からもわかります。なぜなら彼の信じているイエス・キリストがそうだったからです。コリントという街の信徒が互いに、何を食べるか飲むかで裁きあっていたように対して、基本的にその人種によって慣習がことなるのだし、神の前では感謝して食べれば人からそしられる筋合いはないだろうと。しかし、自分は自由だし、神の前にもやましいことがない分野だとしても、一緒に食事をしている相手に配慮すべきで、全て相手にとって益になるか、相手の徳を高めるかを考えて飲み食いしようよと薦めいています。これはあいてをつまづかせないためだと。
 私たちは、誰も教えなくても、自分自分、ME、MEと自動的に自分のことしか幼い頃から考えません。それで相手をつまづかせ、相手の権利を奪い、相手のものを取る(幼い子がおもちゃのとりあいをするのは非常よくあることです)。全てのことが許されている、しかし全てのことが相手の益になるのか?という視点はもともと持ち合わせていませんので、それが神の愛の側面なんだなあと日常生活の様々な場面で思い出したいと思わされました。
Feb.16,
2015
バレンタインデーの訪問

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」 第1コリント人への手紙13章4-7節


 先日、アメリカではバレンタインデーで多くの人々が家族やカップルでお祝いをしていました。日本とは異なり女性が男性にチョコをあげる日ではなく、互いにプレゼントをあげたりしています。私はその日、ある日本のご婦人で原爆症であちこち体の具合が悪くなり、外出が一人で困難な方の家に他の方々と共に訪問しました。彼女は立っているのも辛いのに、私たちのためにたくさんのおもてなしを用意してくださって、頭がさがり感謝でした。
 互いに楽しいお話を交えつつ、戦後の豊かな時代に育った私にとって、高齢の方の昔の苦労した話も聞くのはとても益になります。平和ボケしている私は、身が引き締まる思いでお話を聞き、将来日本は戦争に参加してはならないと肝に銘じることができるからです。彼女は戦時中、鬼畜米兵と戦うべく、女性で竹やりで”えいやー”と戦う訓練をさせられ、広島で被爆し、死体がごろごろ転がっている中裸足で歩いて家まで帰り、生き延びた方です。
 彼女は、戦後、日本が戦って負けたアメリカとはどういう国なのか、この目で見てやりたい!と敵意をもって、貨物船に単身乗り込んで米国のシアトルまで渡ったそうです。ところがその途中でひどい嵐となり、彼女を助けようと船長が彼女の体を柱にくくりつけ水で流されないようにして、他の人々の救助に指揮をとったという話を聞きました。船長室に聖書がおいてあったのも見たことは、彼の献身的な行動と共に、彼女の心に深く残ったそうです。そしてようやく米国に足を踏み入れると、見るもの全て近代的でその大きさに驚愕し、「こんな大きな国と、日本は戦っていたなんて!それも竹やり?!。。。」。何よりも彼女が一番驚いたのは、その船長が連れていってくれた教会の人々が皆親切で、良くしてくれたこと。敵国だった国の子供のような痩せた彼女に良くしてくれた人々の愛に触れられて、キリストを信じる信仰に導かれたそうです。
 男女の愛や家族、友人の愛を示すのには、バレンタインデーや誕生日のプレゼントが一つの方法でしょう。しかし本当の愛は犠牲的で、相手のために無償でつくす、そしてやられてもやりかえさない、人のした悪を思わない愛、忍耐する愛、これは人が持ちえることのできない愛です。それは真の神にしか表すことができない愛。このキリストを信じている人々の神から注いでもらった愛が、被爆して敵意を持って訪米した若い女性の心に触れたのです。このような生きた証しを聞くにつけ、やはりイエス・キリストは今も生きて私たちを救いに導いておられると思わされました。
 政治は大義名分を作っては、軍事力を増強し戦いに兵を送ります。日本が戦後70年もの間平和憲法を守ってこれたのは、常時戦争をしている人間の歴史において奇跡です。理由が何であれ、これを破ってはならず、われわれは大切なことを継承していかなければと思い、国の政治家達に知恵が与えられ、正しい判断が与えられるよう祈ろうと思うのです。
Feb.12,
2015
”本当ですか?”

 「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」第2テモテへの手紙3章16節

 アメリカのサプリメント販売に関し、驚くべきニュースが先週報道されました。大手スーパーの自社ブランドのサプリメントのうち、数種類が詐欺であったことが発覚し、該当商品が陳列棚から一挙に撤去。それは例えばハーブと称して、中身は小麦粉で実際のハーブは入っていなかったそうです。それも一社でなく数社がそのような商品を販売し、消費者はそれを信じて購入していたのです。アメリカではFDA(日本の厚生労働省のようなところ)が医薬品に関しては厳正な審査を行いますが、サプリメントは対象外なのが問題なのでしょう。日本でも食肉の偽装事件がありましたが、世の中何をどこまで信じてよいのか分からない時があります。
 このようなご時世、自分が信じていたものを、他者から「それって本当なの?」と聞かれると、疑いが起こるものです。聖書でも最初の人間、アダムとエバが、この手にひっかかりました。神は彼らにを楽園に置き、そこにある全ての実を自由に食べていいと、ただし園の中央の木の実だけは食べないこと、食べると死ぬからと言われました。するとそこへ、人と神の関係を壊そうとして悪魔が蛇としてやってきて、エバに「本当に神はそういったの?食べても死なないよ。」と誘惑しました。そしてエバは食べてしまい、夫のアダムにも食べさせ、それ以来人に罪が入り、彼らの中にあった神の霊が死んでしまったのです。彼らはもはや神に近づけなくなり、楽園を追い出され、今の世の中に様々な呪いを背負って生き始めたとというストーリーが聖書の最初の書簡:創世記に書かれています。
 疑いが起こった時、誘惑にあった時の方策は?神であるイエスご自身が、人として生まれて、人と同じような体を持たれた時、悪魔が3つの誘惑;食欲、名誉欲、神を試したいという欲でイエスにチャレンジしました。しかしイエスは全て、「〜と聖書にかいてある!」とその誘惑を撃退。信仰とは目に見えない神を信じているので、「聖書に書いてあるから」本当だと確信を持てることは幸いです。聖書の信憑性を疑う人々もいますが、聖書は人間が神の霊感を受けて書いたと、これも聖書に書いてあるのです。聖書を神の言葉として信じるか信じないかのどちらかで、その信仰とは説得や論理的証拠でもって信じる世界ではなく、神を求める時、信じる心をも与えられます。
 信じた最初の頃、私もふと、自分が信じている神が本当でなかったら、人の作り上げたものだったら?と思ったことはあります。しかし、聖書を読んで、神に祈ると、信じていて大丈夫だという不思議な平安が与えら、疑いは消えます。また、多くの人の人生が、キリストを信じることで劇的に変わっているという生きた証しを見みる時、これは本当だと思わされるのです。アダムとイブ以来、生まれつき神に逆らい、神の存在さえ否定する自身の罪を認め、その罪の赦しと救いをイエス・キリストを通して与えられると信じた時、死んでしまっていた神の霊(聖霊)が与えられ、新しく生きることなります。
 多くの人は、”神なんかいない、死んだら終わりだ”、”結局自分だけを信じて生きるしかない”と思っているかもしれません。本当ですか?その確証、よりどころは何ですか?ご自分に深くと問うてみることをお勧めします。
Feb.11,
2015
”手をかざすだけでIDに チップによる認証システムの導入”

「人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」 第二ペテロの手紙3章9-10節


ペットを認識するために、皮膚下にマイクロチップを埋め込むという方法が最近普及していますが、とうとう、それが人への利用が適用されたと本日のロイターニュースが報道していました。スウェーデンの某企業は、米粒サイズのチップを手の脇に注射で埋め込むことで、手をかざすだけで本人のIDとなり、入室などが可能なシステムを社員に導入し始めたそうです。このチップを開発した会社は、「このチップにより、健康管理など様々な可能性がある」と目を輝かせて語っていました。個人情報がこのチップですべて把握されうるとすれば、例えばクレジット管理、入国管理等も網羅されると、もはやクレジットカード、パスポートもいらなくなるでしょう。一方、悪用されることも確実。その人の個人情報が全て国家等に把握されうるし、逆に、本人でなくても、埋め込まれたチップの情報で”その人”と認識されれば、本人の体は関係ないのです。
 聖書にこのことが預言されていると解釈できる箇所があります。終わりの時代には、悪魔の勢力(“竜と獣“と記されている)が世界を支配し、彼らに従い、神として拝まないと、殺され、物の売買ができなくなると。そして従う人々は額か手に刻印がおされる。* つまり、チップ埋め込みで、この人は反体制派かどうかも認識でき、経済活動ができなくなり、殺されるわけです。まるでSF/スパイ映画のようですが、人の瞳や指紋認証というシステムもあわせて、だんだん現実味を帯びてきたようです。
イエス・キリストは2千年前に、この世の人々を救う為に、十字架で人々の代わりに罪の罰をおって死ぬ為に、人として生まれてこられ、復活して天に帰りました。しかし、そのキリストはもう一度来ると預言され、2回目は信じない人々を裁きに来られます。それがいつになるかわかりませんが、その時はまず、地上で生きているクリスチャンはある時突然天に上げられ(携挙)、続いて大患難時代といって、天変地異がおこり多くの人々が亡くなりますが、それでも神を信じず、人々は悪に傾いていくと書かれています。その大患難中でも、キリストを信じる人達もおこり、かれらは世界の政治権力を握った、悪魔の化身竜や獣を拝まないため、迫害にあい殉教する人もいますが、最終的には後から天にいくことになります。
 神様は、真の神に逆らっている人々が神を信じ、救いのために送ったイエスを信じてほしいと数千年も忍耐しています。一人でも多くの人が、神の愛を受け取り、そしてこの大患難から免れ、滅びに向かわないように、今、キリストを信じられるよう、祈りつつ。

* ヨハネの黙示録13章15-18節 「それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。」
Feb.10,
2015
”エスカレーターか階段か”

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 」 ピリピ人への手紙2章13節

日本ではエスカレーターに乗る時、歩く人は右側、止まっている人は左側と決まっているようです。欧米と日本の関西は逆です。同じ日本でも異なるとは興味深いです。しかし本来エスカレーターというのは止まって乗るものと設計されていて、その上を歩くこと危険だそうです。それが原因で転落したという事故は聞いたことがないので、そのまま良しとされているのでしょう。
 私の利用するNYの地下鉄(Eライン)は地下3-4階位の深さのため、もし徒歩で階段を上がると、息が切れます。そこで、多くの人は(私も)、並んででもエスカレーターを利用。健康のためにも筋肉と体力をつけるには、階段利用なのだろう、と日々痛感しつつ、習慣というのは、なかなか変えられないものです。
 信仰もエクソサイズが必要です。自分の筋力をつけるのに、誰かに代わりにやってもらうことができないように、自分の信仰も、エクソサイズ(Work Out, 働かせる)をしないと、信仰の筋肉がついていかないし成長しないのです。自分に与えられた働き、志し、目標は信仰を働かせて、一歩踏み出していく。それは簡単なことではないですが、一歩踏み出せば、神が次のステップを不思議と備えてくれるという経験を積み、そのたびに信仰が強められる。これは聖書の様々なストーリーを読んでいても、現代に生きる他のクリスチャンの証しを聞いていてもそのようです。私のような未熟な者でも、生活の中の小さい事ですが、これを体験しつつ、やはりこれは自分にもあてはまるんだ!と喜びが与えられています。
 一方、どの働きにおいても、まず神が私たちの思いに働きかけ、神のためにこうしようという願いを起こさせてくれると、今日の箇所に約束が書いてあります。ですから、自分で全部やるのではなく、結局は神が実現に至らせてくれるので、自分はそれに添って与えられた、任されたことをこつこつと忠実にやっていこうという態度が必要だなあと。
 信仰の歩みも、キリストという土台さえしっかりしていれば、各々の志したものは倒れないし、途中で中断しても、また再開できるのが励ましです。そしてエクソサイズの動機は”神が喜んでくださる”から。それが燃料で人生の工程を走り続けられるのは幸いです。毎日の歩みは、階段をこつこつ自分で登っている側面と、実はエスカレーターの上を登るように、階段自体が動いていてる、神様の流れに乗っているという側面があるのではないかと思わされました。
Feb.5,
2015
零下の日々

「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。」 詩編 37編4ー7節

 NYは本日マイナス13℃です。外を歩いていると冷凍庫の中にいるようです。外の液体は全て凍っているので、とにかく滑らないよう気をつけて歩いています。アラスカ、北極などでは、日常が日々冷凍庫+アルファの生活でしょう。それにも関わらず、人は住み続けているというのは非常に不思議です。先祖代々住んでいるから、もしくはビジネスでそこに住まなければならない等理由は様々ですが、人はどんな過酷な環境でも住居を構え、それなりに工夫して生活しているというのは、素敵です。
 感謝することや喜ぶこと、そういうったプラスの感情は、精神衛生上とても重要だと、ある心理学者がリサーチの結果検証しているという記事を読みました。それもただ漠然と”感謝”する”のではなく、感謝する対象がはっきりしていて、その人のよりどころとなっていることがポイントだと私は思います。私は日々、小さいことですが、朝起きれたとき、満員電車の中席が与えられた時、仕事がスムーズに行った時、私の開催している聖書の学びが、たった一人の参加者しかいない時にも神様に感謝しています。
 今日、上司が「全てのことにはプラスの面とマイナスの面があるんだよ。プラスの面にフォーカスしなくちゃ!ある意味マイナス面は新たなチャンスでもあるんだ」と他の同僚に言っていたのを横で聞いていました。日常で当たり前だと思っていること、しかしそれは神様から与えられる恵みなんだと 実はこれは当たり前ではないことに気付く時、自分のおごり高ぶりが削がれ、神様への感謝が自ずと湧き出ます。これはいわゆるプラス思考とは違います。プラス思考とか自己啓発は、あくまでも自分の思いの中の操作です。しかし信仰は、自分以外の崇高な存在を認め、信じ、状況が良くても悪くても全て神に委ねることです。
 想定外のことが起こっても、神様に感謝することを忘れずにいたいとおもわされました。
Feb.4,
2015

”神はどこに? 続くISISの残虐行為”

「主よ、なにゆえ遠く離れて立たれるのですか。なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。悪しき者は高ぶって貧しい者を激しく責めます。・・・
 悪しき者は自分の心の願いを誇り、むさぼる者は主をのろい、かつ捨てる。悪しき者は誇り顔をして、神を求めない。その思いに、すべて「神はない」という。彼の道は常に栄え、あなたのさばきは彼を離れて高く、彼はそのすべてのあだを口先で吹く。・・・
 主よ、あなたは柔和な者の願いを聞き、その心を強くし、耳を傾けて、みなしごと、しえたげられる者とのためにさばきを行われます。地に属する人は再び人を脅かすことはないでしょう。」 詩編10編

 今日もまた悲痛なニュースに深いため息が出ました。「いつまでこれが続くのか。。」昨今、日本人の2人の人質がイスラム国に殺害され、さらにイスラム国が捕らえていて、人質の交換条件に出されていたヨルダンのパイロットが、生きたまま焼かれた動画がネットに掲載された。このような残虐行為が続き、いつまでこの悪がのさばるのでしょうか。
 古代アッシリア帝国という軍事国家が、紀元前に今のイラクの北部あたりで勃興し、周辺の諸国を制圧して一時世界帝国を築いたという歴史があります。彼らの侵略の仕方は非常に残虐で、捕虜の鼻と耳をそぎ、体を串刺しにしてさらすことが遺跡の壁画等に残されています。周辺諸国はその恐怖で降伏していったそうです。現代は、国連の存在や、国際条約による人道的取り決めが加盟国間で了承されています。しかし、歴史を遡って見ると、どの民族も戦争時は、イスラム国がやっていることとそう変わらなかったでしょう。イスラム国の蛮行は今に始まったことではないのです。
 一方、古代イスラエル王国のダビデ王は、彼が王となる前に先の王から命を狙われ、何年もの間逃亡生活を強いられた時、真の神へその心の叫びを詩につづっています。今日の箇所も、「私が悩んでいる時、どうして遠く離れてしまうのですか?なぜ悪者が栄え、あなたは彼を裁かれないでているんですか?」と神に訴えています。そういう時、神はどこに?と遠くに感じます。私たちも、短い視点で見ると、「なぜ?」と思うことが解決されないまま、または蛮行が行われ、裁かれない状態が続くように思います。
 しかし、詩の最後には彼は神に信頼し、希望を持てることで完結しています。なぜでしょうか?それは神を近くに/遠くに感じるかどうかは、私たちの感情がベースではないのです。神に対する信仰を働かせて、聖書に書いてある約束、預言を信じれば、神が傍にいて働かれていると思い、絶望しません。そして復讐、裁きは神がなさることです。神様は必ず最終的には悪を続け、悔い改めない者に裁きを下されると書いてあるからです。その裁きは、永遠の裁きですので、この世で生きている間に受ける刑罰の比ではないのです。もちろん、神は最後まで悪人が悔い改めてキリストを通して、神を信じることを願っています。忍耐して祈りつつ、神様の時を待つと共に、亡くなられた方々の遺族・友人に慰めが与えられるように、またテロリストの対応策において、各国の指導者達に知恵が与えられるよう、祈りたいと思います。
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