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今日のわか ちあい

♪Today's Sharing♪

Apr. 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
足を洗ってもらう 二人の強盗
イベント好き日本にイースター上陸!? 地下鉄内で苦しみでうめき、笑う。そして鳩。。
FEAR (恐れ) の語呂合わせ 現状維持
満開桜@NY、そして散り行く時
Apr. 26, 15 "満開桜@NY、そして散り行く時"

「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。」 第一テサロニケの手紙4章13-14節


 NYは、緯度が東京より高い位置のため、今週末が桜の満開の時期で、ある公園では桜祭りが開催されております。春は、新しい命が生まれる、エネルギーのあふれる時期でもありますが、一方桜の散るはかなさのように、この世での時を閉じられる方もいます。昨年末、病状が悪化して施設に入られたご婦人が、先週、脳出血を起こされたという報告を受け、この火曜日にお見舞いに行きました。彼女はベッドで意識はあっても、ほとんど薬で寝ていることが多いご様子で、私たちが訪ねた時も深い眠りに入っておられました。彼女が移送された病棟はホスピス。ホスピス病棟は他とは異なり、暖かい色の内装で、出来るだけ最後の時を安らかに過ごせるよう工夫されている特別ケアユニット。スタッフの対応も特別親切でした。一ヶ月前、彼女をナーシングホームに訪ねた時はお元気で、一緒に聖書を読んでお祈りをし、「また来ますね」と別れたばかりでしたので、正直これほど早いとは予期を出来きませんでした。そして、その4日後の今日、天に召されました。
 彼女とは私がNYにきてからのおつきあいでしたし、お互い通う教会が異りましたが、この一年近く毎週のようにお会いし、とても貴重な時間をともにすごせたのが感謝でした。彼女が住んでいたところからすぐ近くの場所で、折りしも私がバイブルスタディを開いていたので、去年の11月まで参加されていたのです。彼女は、「自分は長年教会に通ってきたが、こんなに聖書をきちんと勉強するのは今が初めて、うれしい!」「自分にとって今がそういう時期なんだわ」と言っておられたものです。ですから、今回の急変はあまりの早い展開で私もショックでしたが、最後のお元気な時期に、共に聖書を学び、お食事を楽しみ、楽しくフェローシップができたことは、私にとって大きな慰めでした。
 先月は、6年前私が日本からフィラデルフィアでに移住したばかりの時、まだ仕事がなかった私を家に受け入れてくれて、お世話をしてくださったご夫婦のご主人が天に召されました。その方の場合は、アルツハイマーが徐々に進行し、体は元気でしたが、長い介護期間をへて、老老介護で奥様も体力的に限界であった頃合に、予期せずして自宅で静かに息を引き取られたそうです。
 人の寿命は誰もわかりません。しかし、私の周りは天国でまた会えると信じている者同士が多いため、もちろん、死は悲しいですが、心の底ではまた御国で会えるからという希望があり、悲しみに呑み込まれることがないのが幸いです。この肉体の死は冒頭の箇所のようにあたかも、眠りに入るようなものであり、目が覚めると新しい体で天国で目覚め、永遠に生きれるという希望です。もし、この希望がなく、漠然と”あの世で。。”という考えであれば、毎回悲しみが深く、生前にこうしておけばよかった、ああしておけばよかったと後悔が先にたってしまうこともあるでしょう。
 NYの桜の満開の時期、悲しい別れが続きました。それぞれのご家族にお友達に慰めが与えられますよう祈りつつ。
Apr. 25, 15 "現状維持"

「 ただ、各自は、主から賜わった分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである。これが、すべての教会に対してわたしの命じるところである。 召されたとき割礼を受けていたら、その跡をなくそうとしないがよい。また、召されたとき割礼を受けていなかったら、割礼を受けようとしないがよい。 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。 」 第一コリント人への手紙7章17-19節

「女の人生ほど、生れ落ちる時代や環境で左右されるものはないのではないかと、考えさせられた」*1。今朝、なにげなく読んだ記事、アフリカのモザンビークという国で、13歳の女性がすでに2児の母で、学校もやめて正式な結婚ではないが夫と家族で幸せに暮らしていると(一応、この国は義務教育制度もあり、婚姻は18歳からが法律で定められている)いう取材した記者が、ご自身の奥様の人生(35歳までキャリアと学歴をつけた後、結婚して2児の母)と比較してのつぶやきを書いていたのに目が留まりました。
 女性だけではないく、人の人生比較したらきりがないと思わされます。しかし、どうしても人と比較してしまうのが世の常。隣の芝生は青く見える。しかし、自身より悲惨だ、大変だと、自分の価値基準で他者と比較し、「この人よりは自分はましかな」と一瞬思っても、そういう人は決して満足をせず、いつも上と比較してもっともっとと求めがちではないでしょうか。
 聖書を読んでいると、何千年前から人の性質は変わらないと観察ができます。ねたみ、争い、富、奴隷制度、不倫、殺人と自分がほしがっても手に入らないから発展する数々の実行犯*2、いつも自分を創造した神に逆らい、仕舞には神の子を殺してしまう(イエスの十字架刑)。聖書はイエス・キリストのこと、神のご計画や愛が示されている書物ですが、このような人間の醜い部分(これを罪と総じて呼びますが)も克明に記されています。なぜなら、その罪が赦されるために、神の子が代わりになって罰せられ死んだので、まず罪とは、己がどういう者かがわからないと、罪の赦しを信じるに至らないからです。
 キリストの使徒・大宣教者のパウロは、ユダヤ人以外の多くの国でキリストの福音を伝え、そこで各地域に教会が形成されますが、各教会内でやはり様々な問題もおこりました。彼はその地を訪問したり、手紙を書いてフォローしていましたので、その手紙が聖書としての残されています。ですから、聖書はいつの時代も性質が変わらない人間にとって、生活の具体的な指針となります。当時の人々も、比較していました。自分がユダヤ人であるか、非ユダヤ人であるか(割礼の有無)、奴隷か、自由人か、独身か、既婚者か。パウロは、彼らに”キリストを信じたときの状態にしたがって、歩み続けるとよい”と指導しました。
 現代でも、信者になったから、極端に外側の環境を変えようとする人が見受けられます。急に神学校へ行くとか(本当にその人が宣教に神から”呼ばれて”いれば別ですが)、急に学校を辞める、家族を捨てる、会社を辞める等々。たしかに、キリストを信じることは大きな心の変革ですし、人生が変わるはずです。しかしそれは内側の問題であって、何も今の生活状態をがらっと変えることが変革ではない。それが外見にはわかり易いですが、神は心の内側の変革を見られる方です。同じ職場にいても、その人の言動、考え方、態度に変革が現れます。ある人は、目立つ役割:牧師、宣教師を神様から任されるでしょうし、ある人は普通の生活:サラリーマンをしながら教会のなかで小さいことに仕える、家族の中で家族を養い、世話をする等と、人それぞれに神が任せていることは様々です。大事なことは、現状を維持しながら、神から今任されたことを忠実にすること。それが神の命令を守ることでもあります。実は現状維持をすること自体が大変で、神の助けが必要ではないでしょうか。
 私は今でも、自分にないものに対して、不足や弱さを覚え落ち込むことが正直あります。だからこそ、日々聖書のことばに励まされ、教えられ、矯正されることが有難いです。聖霊の助けを求めて、日々現状に感謝して歩んでいきたいと思わされました。

*1 時事ドットコム ”モザンビーク、幼き母たち” 2015年4月26日より

*2 ヤコブの手紙4章1-3節 「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。 」
Apr. 19, 15 "FEAR (恐れ) の語呂合わせ"

「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」 伝道の書12章13節


 英語でも語呂合わせはよくされるようですが、今朝読んだデボーションメイルで なるほどなあと思ったので、その語呂合わせをご紹介します。* FEARの語呂合わせを通して、「神を恐れる」ということは具体的にどういうことなのかを教えられました。恐れるとは、たんに怖い、恐ろしいではなく、もっと異なる次元、具体的なことのようです。
 英語で恐れはFEARで、これのFは Faith 信仰を表すと。つまり神が存在することを信じる信仰。神を恐れない人は、自分で、これくらいいでしょと思う裁量で、誰も見てなければ不正も、ひどいこともしてしまいます。最近は誰も見てないと思っても、携帯電話で動画を撮られていたりします。しかし、誰も回りにいなくても、神がいつも見ておられると信じる者にとっては、それは守られているという平安、安心があります。一方で神が見ておられるという意識をもって、何をなすべきか、してはいけないかが判断されるのではないでしょうか。
 次の文字E はExperience 経験。つまり神の恵みを体験すること。神のご性質を自身が経験することなしに、神を恐れることはないと。それには罪が赦されたという経験です。この認識がないと神の恵み、憐れみを理解できないからです。ご利益宗教には罪の赦しはないです。何かお金を払って、厄除け、つぼの購入、もしくは修行や慈善活動をもってしても、その人の生まれつき神に逆らって生きてきた罪があがなわれることはないからです。しかし、真の神の子であるキリストによってのみ、罪が完全に贖われ、こんな自分が赦され、そして今後は新しい、神の目的のために生きれるように、内側が変えられていくという経験をしたとき初めて、真に神を恐れるようになるでしょう。
 A は AWE 日本語でいう畏敬に近いことでしょうか。神が最初から存在して、この宇宙すべてを創造されたこと、また永遠に向かう計画を最初からもたれていること、それを聖書を通して理解は全部できなくても、その計り知れない力と知恵、包括的摂理、を知ることが、神を恐れる一部でしょう。
 R は Resolve 解決する。 結局のところは神の命令に従うこと、これが神を恐れる人が具体的にすることだと。神が最初に自分を愛してくれたことを知ると、その愛に応答したいとおのずと思います。神への応答、つまり神を愛するとは、結局神の命令を守ることだと聖書に書かれています。(第一ヨハネの手紙5章3節)そして、その神の命令を二つに集約すると、神を愛し、人を愛する(マタイによる福音書22章36ー40節)となるとイエス・キリストが言われました。これらは自分の力や持ち前の性格で実際やろうとすると、不可能だと思わされます。(やろうとしなければ、出来るようような気がしますが)だから聖霊の助けが日々必要です。
 神を恐れるということ, 特に四つ目の命令に従うことを日常生活で助けを求めながら、学んでいきたいと思わされました。

*内容要約、引用  this day's Daily Devotional from Pastor Ray Stedman, Apr. 19, 2015
Apr. 15, 15 "地下鉄内で苦しみでうめき、笑う。そして鳩。。"

「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください」 118編24-25節


 今朝駅まで歩く途中に、突然目の前に真っ白な鳩が私の前に舞い降り、私に首をかしげました。この辺りでこんな綺麗な鳩は珍しいですし、本日は体調が悪く仕事に行くのもきつかったので、なんだかその鳩を見て励まされました。朝から神様の祝福を感じつつ、「大丈夫だよ」と、送り出して下さったようでした。
 昨晩、食べたものにあたったのか、帰りの地下鉄の中で嘔吐と下痢にさいなまれ、うずくまってしまいました。「神様助けて。。。なんとか家まで帰れますように」と心の中で祈りながらこらえていると、横に座っていたおばさんが、私に構うわけでもなく「ジーザス、ジーザス」とぶつぶつ独り言を言っていたので(アメリカでは、必ずしも”ジーザス”というと、イエス様を呼んでいるとは限らない)、なんだか苦しみの中で笑いそうになりました。そして、なんとか人様には迷惑をかけず、家にたどり着き、ベッドに転がり込みました。よく眠れないので入眠薬も仕方なく飲み、なんとか朝までもちましたが、まだ本調子ではなかったのです。
 冒頭の箇所は、ユダヤ人がお祭りのときに歌う歌(詩篇)の一部で、待望の救い主を喜び迎え、”救って下さいと、そして栄えさせてください”と歌う箇所です。神様は昨晩のような危機的状況からも救って下さいますが、根本的には私自身の罪から解放し、救ってくださる方であります。今までの罪がキリストのおかげで赦され、もはや罪の奴隷ではなく、また今後も罪を犯さないように聖霊が導き、内側を変えてくださるという約束が与えられていることが、私にとって大きな救いであり、しばし辛い時、落ち込む時も、イエス様の愛でささえられ、感謝です。
 私は神様の声を直接聞いたことがないのですが、通常は聖書のことばを通して、また時には鳩を通してでも神様は私に語りかけてくれます。ああ、今日も聖霊(聖書では鳩は聖霊の象徴であります)が共にいて下さるからなんとかなると。お腹はまだ痛いですが(食いしん坊の私は、その割には、3食しっかり食べてしまいました)、今晩はよく眠れそうです。
Apr. 5, 15 "イベント好き日本にイースター上陸!?"

そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。 あなたがたは、これらの事の証人である。』」。 ルカによる福音書24章45−48節

 本日、アメリカはイースターです。キリストが十字架で死なれて、3日目に復活したことを祝う重要な日です。その日は子供のイベント日でもあり、お菓子のはいった卵形の入れ物が庭のあちこちに隠され、それを子供が籠を持って探しまわるという催し(エッグハンティング)が行われ、子供たちは晴れ着を着て、教会に集まり、イースター・バニー(うさぎのぬいぐるみ)、お菓子等をもらって、ゲームをしたりします。厳密に言えば、キリスト教の復活祭が、異教の春のお祭りと混ったという歴史があり(春は新しい命が芽生える時期なので、うさぎ、ひよこ、卵)、そこを混同させないため、子供のイベントはしても、エッグハンティング、うさぎは敢えて取り入れない教会も多いです。クリスマスも異教の冬至の祭りと混ぜた慣行が行われているのと同様です。もみの木、プレゼント交換などは実は他宗教からでした。
 日本では、商業的になんでもアメリカで流やるものを取り入れ商品化、イベント化する傾向があり(クリスマス、ハロイン)、イースターは小さいお子さんがいる家で今年から取り入れられているそうです。たとえ商業化されても、日本にキリスト教で重要なイースターが上陸したことは、私たちクリスチャンにとっては朗報です。イースターって、そもそもなんだろう?と疑問に思った時、キリストの復活のお祝いなんだと知るだけで、「キリストって復活したの?」と情報が入るからです。
 キリストが実際復活した姿をみたのは、2千年近く前、少人数の弟子や女性たちでした。彼らがその後、エルサレムから始まって、今では全世界にキリストが復活したという証人として福音を述べ伝えていきました。残念ながら現代では、クリスチャンと自称している人の中で、キリストが処女マリアから生まれたこと、復活したことを信じていない人がアメリカにはいるという、悲しい統計があります。キリストが復活したことは、それを信じる人にとって、将来この体が死んだあと、新しい体で復活し、天国で永遠に生きるという約束も意味するからです。これを信じないのであれば、キリストがそもそも人としてクリスマスに生まれた意味がないのです。イエス・キリストは人が犯した罪が赦されるために、十字架でかわりにその罰をうけて、死に、3日後によみがえって、天に帰り、今でも生きて、私たちの祈りを聞き、いつか天で向かえてくれようとしてくれている。この希望が、日本でも宣べ伝えられることを願いつつ。
Apr. 3, 15 "二人の強盗"

「もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。 ルカによる福音書23章40−43節

 今晩は、25分くらいの短編映画を観ました。キリストと共に十字架刑に処せられた二人の強盗の話です。これはフィクションですが、Good Friday(キリストが十字架に架けられた金曜日AD33年4月3日という説がありますので、まさにちょうど約2千年前の今日)にふさわしい映画でした。このストーリーでは、二人の強盗はもともとは普通のユダヤ人の市民でしたが、色々あって盗みを犯すはめになり、逮捕され、ちょうどイエス様と同じ時に処刑されることになるのです。十字架刑というのはある意味半殺しの状態でさらされて、長時間の苦痛と出血多量、心臓破裂で死に至るそうで、数日かかって息をひきとることもあるという残酷な処刑方法です。(イエス様の場合、その日のうちに息をひきとられ、埋葬されたと記録)壮絶な苦しみの中でも、横に並んで、十字架の上で会話が出来てしまったりするのでしょうか。二人は最初はイエス様を嘲笑します。「お前が救い主(メシア)なら、自分と我々も救え!」と。しかしそのうちの一人は、イエス様が苦しみの中で、人々に嘲笑されながら「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と天の父なる神様に言われた言葉を聴き、”この人は普通の人じゃない。やはり、神の子、救い主だ”と急に信じる信仰が与えられます。そして短くですが信仰を言い表し、イエスはそれを受け入れられたことばが冒頭の箇所です。
 そのフィルムを観て、イエス様の十字架の苦しみと死をビジュアル的にも思い浮かべ、賛美礼拝をし、聖餐式も受けました。聖餐式とは、イエス様の十字架上で裂かれた体と流された血を思い出すために、パンとぶどう酒を共にいただく大事な式です。私は、イースター(イエス様が3日後の日曜日に復活されたことを祝う日)を教会で今まで祝ってきましたが、アメリカに来て初めて、Good Fridayの礼拝に参加して、イエス様の受難を真摯に改めて受け止め、本当に申し訳ない、ありがとうと感謝の思いを捧げる時が持てました。
 帰りの地下鉄に乗っていると、様々の人種の人々やホームレスの人、酔っ払ってふらふら歩いている人とすれ違うたびに、ああ、イエス様はこの人達の為にも、十字架で苦しまれ死なれ、復活されたんだと、どんな人でも、すべての人のためになされた大きな犠牲を思わされた夜でした。
Apr. 2, 15 足を洗ってもらう

「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。 ・・・夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。」 ヨハネによる福音書13章1, 4-5節

人に足を洗ってもらったことがありますか?日本で、リフレクソロジー(足裏マッサージ)のお店は駅周辺のどこでも見かけられます。私もお金に余裕があればやってもらいたいです。足を洗ってもらって、オイルをつけてマッサージをしてもらうと、たとえ一時的であっても、非常にリラックスしますし、気持ちがリフレッシュします。
 足を洗うことについて聖書では、非常に深い意味があります。今日はこよみでいう(木曜日)と、イエス・キリストが十字架にかけられる前の晩、絵画で有名な「最後の晩餐」をイエス様が弟子たちとされる時で、イエスご自身が、弟子の一人一人の足を洗われるシーンが描かれています。当時、ユダヤの人々はサンダルで歩いていたので足が汚れるため、家に帰り食事の前には足を洗っていたのでしょう。裕福な家では主人の足を洗うのは僕のする仕事でした。「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」*1とイエス様は弟子たちに言われました。
 これを現代に適用すると、足を洗い合うとは具体的に何でしょうか。主人というのは、僕に仕えられる存在であって、僕が主人に仕えてもらうことはないです。しかし、イエス様は神の子であるのに、人となって地上に来られ、仕えられるためでなく、人に仕えるために来たのだともいわれたとおり*2、まさにイエス様は人々の必要に休む暇なく仕えていた様子が福音書に書かれています。だから、あなたがたも互いに僕が仕えるように低くなって相手に仕えなさい、必要を助け合い、支え合いなさいということでしょう。
 ある人々はこれを文字とおり洗足式といって、教会内で足を洗いあう儀式をするそうです。聖書には、初代教会の信徒の間でそのようなことが行われていた記録がないので、これは象徴的にイエス様が低くなって互いに仕え合いなさいと言っているのだという解釈に私は同意します。その他の解釈もあるかもしれません。イエス様が様々な病気の人を癒し、お腹をすかしていた群集にパンを増やして給食したことなど身体的必要に仕えられました。ですから、私たちは、たとえばお年寄りの家で力仕事をする、芝刈りを手伝う、引越しを手伝う、お食事をデリバリーする等、様々な相手の必要に仕える機会はたくさんあると思います。
 もちろん、イエス様は人々の魂の救いのための活動が中心でした。神の国について語り、多くのことを人々に教え、最後には十字架の死をもって、人々が救われるために、命をもってして仕えて下さいました。私たちも、互いの霊的に必要に、聖霊の力により相手に勧めたり、励ましたり、祈ったりして仕えることができるでしょう。しかし、低くなって他者に仕えるということは、簡単なことではありません。ですから、イエス様にその仕える心と意欲も頂いて、機会があれば喜んでできるように成長させてもらいたいと、グッドフライデー(イエス様が私の罪のために、十字架に架かって死なれた日)の前日に思わされました。

*1 ヨハネによる福音書13章13-14節
*2 マタイによる福音書20章28節
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