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今日のわか ちあい

♪Today's Sharing♪

August 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
  乳離れ 戦後70年 ハンドル操作  
フィリピンに行った話より アメリカの最高裁は世界の判例?! 傍にいること
足元を照らす光 食欲は大事!
   
Aug. 29, 2015 "食欲は大事!"

「イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。』」 ヨハネによる福音書6章35節


 私は以前の仕事より観察したことの一つは、良く食べる高齢者の方は元気であるということです。私の祖母も102歳で亡くなる直前まで、だいぶ弱っていたとはいえ普通に食べ、肉も魚も野菜もなんでも規則的に食べていました。一方、様々な病気のため、食欲がなくなり、機能的に口から食べられなくなってしまうと、経管(チューブ)により体内に流動物を入れたり、点滴をしたりと、なんとか栄養を体に人工的に入れ込む手段をとる場合がありますが、私は病院で寝たきりで、あまり意思表示もできず、チューブにつながれていた患者さんを見ていたことを思い出すにつけ、心が痛みます。本人の食べる意志や食欲、食べる喜びというのは、長く生き続ける、持ちこたえる秘訣のようです。良いものを喜んで感謝して摂取すると、体と心にも直接良い影響を及ぼすでしょう。私は異常なほど食欲があり、どんなに具合悪くても、胃が受け付けなくても、熱があっても食べたいと思う程です。すると逆に太って困るのですが、一方で多少の不具合はあっても、とても健康に保たれていて感謝です。
 一方人は、肉体を保つために食物を食べますが、心、魂とも呼ばれる部分でもいつも満たされたいと思っていいます。心理学者はそれを様々な言葉で定義し、自分の存在を認められたい、受け入れられたい欲求などと説明しています。結局、世の中の成功、恋愛、お金、名誉、プライド、ボランティア(慈善活動)などでは一時的には満足感が得られるかもしれませんが、またすぐ飢え渇いて、もっともっとときりがなく求めてしまうのです。そして仮に、「自分は認められているのか、存在する意義があるのか?」とふと思っても、確実な答えが出ないのでそんなことを考えることはやめて、日常生活をとにかくこなしていくでしょう。しかし、確実な答えを、冒頭の箇所、聖書は示しているのです。
 イエス・キリストはご自分を食べ物に譬えられました。「私は命のパンです」。パンというのは日本でいう主食:コメにあたります。人の体が活動するために必要なエネルギー源であり、なくてはならない食べ物です。パンを食べるように、聖書のことばを確実なこと、真理と信じ、イエス様を信じ続ければ、決して魂の部分で飢え渇くことがないと、ここで約束されています。このパンを食べれば、もっともっとと飽くのでなく、心に満足と安心が与えられます。そして、命のパンとあるように、単にこの世の生命のことだけでなく、永遠の命をえられるとイエス様は続いて言われています。そこには、様々なしばりからの自由と解放があり、人間が作り出した宗教のようなお金を要求したり、洗脳はないのです。自発的に神を信じて、喜んで、その神の愛に応答していく新しい自分が創造されるからです。
 私は自分自身が信じて与えられているこの恵みにより、イエス・キリストを信じて希望を持って生きられる、この命のパンを一人でも多くの方に、分かち合っていきたいなと、朽ちない食物のために、働きたいと思わされます。
Aug, 27,
15
”足元を照らす光”

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」 詩編119編105節

 小学生のころ、学校の夏期スクールが福島県の山の中にある校舎で開催され、毎年1週間弱そこで過ごし、外にテントを立ててその中で寝たり(私には非常に苦痛)、飯盒でご飯を炊いたりしたものです。夜になると星しか見えない真っ暗な外を、懐中電灯一つをもってグループで散歩に行きました。街灯もない山の中ですから、真っ暗で目が慣れるまで怖かったのを子供心に覚えています。懐中電灯はちょっと先までしか照らせないのですが、それでもまっすぐに歩いていけたので、安心でした。
 冒頭の箇所にあるように、聖書のみ言葉というのは私たちが暗闇の中を歩く時の、ともしびであり、道の光です。遠く先までは照らされていないのですが、一歩先を光が照らし、光のほうへ安全に歩めるよう導かれます。
 この暗い世の中での生きていくことは、先が見えない状況やなすべきことがわからないことが多いです。神様に委ねて信仰で、光に照らされたところを一歩づつ踏み出していく、するとまた次の導きがみ言葉で示され、また一歩先へ進めるということの繰り返しのようであります。希望は天国という到着地点・ゴールに向けて、必ずそこへ導かれるという神様の約束を信じて前進できること、聖霊が神様のみ心にそって、私たち一人ひとりの歩みを助けて下さることです。ですから思い煩いは不要です。日々、その神様の導き、約束を聖書を読んで確認し、他の人と互いに励まし合えればと願います。

Aug, 23,
15
"傍にいること"

「わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。」 第2コリント人への手紙1章6-7節

  先日は仲の良いお友達とDinnerに行きました。女性で集まると話は尽きません。夕方からスタートし、あっという間に夜が更けてしまいました。NYの都会で異邦人として、家族と離れて生活していますと、日本語で楽しく語りあえる仲間、また時には深刻なことも分ちあえる関係は非常に有難いです。特に信仰が同じでありますと、体に鞭打つような無理な励ましあいではなく、神様に頼って、任せて希望を持っていこうねと同じ土台で励ましあい、慰めあうことができるのが感謝です。
冒頭の箇所での「慰め」という言葉は、原語のギリシャ語で“Comfort”は「助けるためにその人の傍に呼ばれる」という意味だそうです。その人の傍にいること、その為に集まること。特別な言葉は必ずしも必要ない場合もあります。女性は比較的自ずと集まって話しをする性質を持ちますが、男性はなかなかそうはいかないのではないでしょうか。教会では「男性のフェローシップ」と言って、仕事でお互い忙しい中時間を作り(例えば早朝の朝ごはんの会とか)定期的に集まり、男性同士で理解しあえる問題を共に分かち合い、祈り合い信仰を励ましあっているところが多いです。
  使徒パウロはここで、ともに痛み、ともに苦しむ、慰めをともにするということも、教会内での奉仕の一つであると言っています。教会で教えること、目に見える活動が目立ちますが、実は、困難に合ったとき、ただ共にいることが神の家族としての特権でもあります。人は一人では信仰を持ち続けるのは困難なので、神様は互いに慰め合い励まし合う相手を置かれます。自分のプライドもあって、こんなことまで人に話したくない、自分だけで祈って解決しようと思い、抱え込むことも私も以前はよくありました。しかしながら、教会はキリストの体であって、一つの部分が悲しめば全体が悲しむとパウロが言うように、一つの体なのです。痛みも悲しみも共有し、変なプライドを取り去り、人に祈ってもらおうという低くなる態度は実は大切なことなのだと、その経験から学んでいます。
  私は今ローカルのアメリカ人の教会に通っていますが、言葉の壁と引っ込み思案な性格、自分の日本人ミニストリ―との兼ね合いで、ローカルの集会に参加する頻度もどうしても少なくなるため、なかなか、このような深いフェローシップまで到達できないで2年たってしまいました。最近はようやく祈り会に参加し、お互いの必要や問題を分かち合い、祈り合えるような関係が与えられつつあります。私の今の目標は徐々に、ローカルの教会の兄弟姉妹に、傍にいて相手に仕えていきたいなあと、聖書の言葉を通して、相手を励ましたり慰めたりできる者に変えられていきたいと願いつつ、時間と体力的にうまくマネージできる知恵も与えられたいです。
Aug, 18,
15
"ハンドル操作"

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」 箴言3編5-6節

 私は毎日Eーメイル等にて、3か所からその日の聖書のことばとその解説(分かち合い)を受け取り、また一年をかけて少しづつ聖書を最初から最後まで読むという通読をしています。朝ボーっとしていて、頭に入らない時もありますが、聖書のことばは、体が食事を必要とする以上に、私の魂の糧として必須です。寝坊した時は、スマホにて電車の中で読んでいます。以前のように重い聖書を持ち歩かなくて済み、ITの発達により感謝しております。しかし、人混みの電車の中より、朝の静かな時間に自分の部屋で、「今日は何を神様私に語られるかな」と楽しみにして、神様との時間を持つのがベストです。
 先日、冒頭の聖書の箇所が、続けて違う人(日々のデボーションメイル)から送られてきました。こういう時は大概、タイムリーに強調して、何か神様が私に語られていることが多いのです。また、牧師のメッセージを聞いていて、同様の箇所から励まされる場合もあります。つまり、重なることは偶然ではなく、神様は一人一人の心の状態をご存じで、たとえその声が聞こえなくても、聖書のみ言葉を通して、私に語ってくださるのがありがたいです。一方、イスラム教徒の人達がクリスチャンになる時、夢にイエス様が現れて、身の危険を承知で信じるきっかけとなったという証をよく聞ききますし、ある人には、心の中の声のように、はっきり神様の語りかけが聞こえてしまうそうです。
 「自分の悟りに頼るな」 イエス様を信じる前は、これと逆のことを社会から叩き込まれてきました。”自分を信じろ、自分の人生、努力して頑張れ、自分で考えて実行せよ、成功を目指せ” という自信モードで自らを奮い立たせなければならず、車の運転に例えると 自分がいつも運転席でハンドルを操作していました。もちろん、目標に向かって努力することは良いことですし、例えば早起きなどの良い習慣は続けないと身に付きませんから、努力も必要です。ただその目標が、もはや、自分の成功や自己実現でなく、神様のなさりたいことのために、自分を使ってくださいと差し出し、神様にハンドルを委ねて、私は助手席に座りなすべきことを行うようなものに、変えられているのは不思議です。「そんな主体性のない!」と言われるかもしれませんが、私は自発的に自らの意志で、自分を愛してくださる神様の、その愛に応答してイエス様にハンドルを明け渡しているので、それが私の主体でもあるのです。ただ、そうしたいと思っていても古い自分の癖がまだ残っていてるときが多いので、自分で突っ走って道から外れることがあります。すると、みことばにて軌道修正がかかってくれるので、安心です。
 自分が日々の生活でどれだけ 全ての面で神様に依り頼んでいるか。何か困難なことが起こると、まず神様に助けを求め、その結果も委ねているか。それとも、祈っているつもりで 思い煩い、ばたばたして人に頼っていないかどうか、心を探られます。神様がまっすぐに道を整え、導いて下さることを信頼して、今抱えている問題全てを、静かに神様がどうされるかを待とうと励まされました。
Aug, 11,
15
"戦後70年"

「その咎が赦され、その罪がおおい消される者は幸いである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人は幸いである。」  詩篇32編1-2節

 今月は終戦から70年という節目。昨今の日本のニュースによると、総理の戦後70年談話の内容がとうなるのかについて物議が醸されています。私は検索して、戦後50年、60年の時の総理はどんなスピーチをしたかをチェックしてみました。これは日本人だけでなく、特にアジア周辺諸国に注目される内容であり、過去のことや、現在の世界情勢と日本の外交的立ち位置も踏まえて、未来をどう願うかまで盛り込まれるであろう、日本国代表として重要な談話ですので、総理とその周りの方々に知恵が与えられるよう、祈ろうと思います。
 国家・個人間に関わらず、相手から過去にしたことを責められ、謝ったとしてもそれで済まされるという保証もなく、未来永劫責任や賠償を問われ続けるのは厳しいことです。被害を受けた側からは、当たり前だと言われればそれまでですが、犯した罪・過ちの大小を問わず、お互いの赦しが平和のキーだと、容易なことではないですが思わされます。
 一方聖書の神様は、赦しに関しては非常に寛容な方です。神様の取り扱われ方は、人間的には「そんなところまで問われるの?厳しすぎる」という神の基準の高さと、「そんな酷いことした罪が赦されて天国へ行けてしまうなんて?ずるい」といわれがちな程、憐れみ深さという両面があります。聖書は、神様にとっての不義(罪)はなにかをはっきり示していますが、人同士と異なり、罪が示されるのは責めて罰するためでなく、赦されて徐々にですがキリストのような愛の性質に変えられていくためであります。それも悔い改めれば確実に赦されることと、自分の頑張りや修行で矯正されるのでなく、聖霊が助けてくれるという保証が約束されています。
 神様のご性質である人に対する愛(赦しと恵み)と正義(不義を裁く)は、どう両立されるのかというと、神の御子であるイエス・キリストが十字架の死と復活をもって成り立ちます。イエス様が私たちの不義の裁きを替わりに受けて下さったから、罪に対する神からの怒りや罰もなし赦されてしまうのです。これは、過去の罪、現在の、また将来のも(徐々に犯さなく変えられていきますが)全てをカバーするという、なんという大きな憐みなのでしょうか。このことをイエス・キリストが可能にしてくれたと信じれば、あたかも何もしなかったかのように正しい(義)と見なしてくれるという、そんな良い話(福音)を、私はできるだけ多くの人に伝えたいのです。神様はいつまでも私のしたことを覚えていないし、もう責めも恥も罰も皆イエス様が2千年前に負ってくれたので、罪の縛り、罪責感から本当に自由になり、生きる希望が与えられるからです。この神様の愛を受け取り、自分は何も神様にお返しはできないけれど、その愛に応答してこの世において、不完全でも聖霊の助けによりイエス様の道を歩んで生きたいと思わされます。
Aug, 8, 8
乳離れ

 「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません。かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。」 詩編131編1−2節

 私の知り合いで小さいお子さんを持つ方が、3歳になってまだ「オッパイ オッパイ!!」と母親に向かってねだる、乳離れしないわが子に困っていた様子を見かけたことがあります。幼子にとっては授乳をやめることは、”なんで?どうして?もっと欲しいのに、もうくれないなんてひどい!”と泣き叫ぶのですが、一度離れると大丈夫になり、次の成長段階へ進めます。乳離れの時期は個人差がありますが、必ずしなければならないプロセスです。
 今日読んだところは古代イスラエルの王、ダビデが書いた詩で、神様の前に自分の魂が静まり、安からな状態を、乳離れをようやくして安らかに、次の成長ステップに向かっている幼児に例えています。神様、イエス様を信じたばかりの人は、誰でも霊的赤ちゃんです。なぜなら、信じて洗礼を受けたときは、古い自分のお葬式とキリストを信じて歩んでいく新しい自分の誕生日で、新しいスタート、成長していかなければならないからです。子供が親のしつけや教育で、社会の中で生きていくのに必要なことを学んで成長していくように、霊的にも最初は乳のような初歩の教えを学ぶ必要がありますが、徐々に固い食物を食べる必要があると書かれています。☆ ある人は救われたばかりの状態にとどまり、成長する方向に一歩踏み出そうとしません。
 霊的な固い食物というのは、この世の生活において、主イエス・キリストに従っていくということでもあります。これは容易なことでないですし、自分の古い肉の部分も残っているので、自分の力では無理です。だからこそ、うちに住む聖霊の助けて頂き、神が良い方であることを信じ、一つのことを決断するのに、自分のしたいことをとらず、神の喜ばれることや、神が正しいとすることを選び取るように変えられていくこと成長です。また自分を満足させることばかり、自分の願いばかりを祈るのでなく、他者のために祈り、実際仕えるモードに変えられていくことや、自分に良くしてくれない人に親切にすること、自分の敵を愛し迫害するもののために祈るというイエス様の教えも、超固い食物系です。
 「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」(IIペテロの手紙3章18節)と 使徒ペテロは勧めています。私も現在、固い食物摂取にて失敗しながら、訓練中ですが、徐々に変えられて、さらなる魂の平安が与えられることを願いつつ。

☆「あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。・・・・」  へブル人への手紙5章12節―6章2節
Aug, 4, 15 "アメリカの最高裁は世界の判例?!"

 「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。  マルコによる福音書2章16−17節

 この6月にアメリカの最高裁判所で、同性による結婚が認められる判決がなされました。これを受けて、日本でもまずは世田谷区など市区町村レベルで、同様の申請を認める条例が認められました。日本という国は、戦後敗戦国となって以来、なんでもかんでもアメリカに追随する傾向性があります。もちろん、近代化・民主化という点で西欧は長い歴史の中で先進国ですし、私は左でも右でもなく、良いものは良いとして認めていますが、西欧諸国のもたらす悪影響もたくさんあると観察します。日本も暴力的なゲーム文化を輸出しているという点で、同罪でしょう。一方、アメリカの最高裁判所の決めた基準は、所詮、時代を反映したもの、相対的であり、それにも関わらず世界の法基準・判例とされるべき根拠は何処からか。単にアメリカがそうだから、でしょう。
 この世の中で、何が正しくて何が悪いのか、時代・国・個人によって異なり、善悪の基準というのは相対的であります。そんな相対的な世の中で、確実な正しさを知ることなしに生きるのは、争いも避けられず、非常に疲れますし、希望がありません。普遍的な、絶対的な義や善があるとしたら誰が決められるのでしょうか。もし人間を創造したのが神であれば、メーカーは被造物のことを一番良く知っています。すると、神の定義する正しさ・義が人間にとってベストでしょう。
 キリスト教の歴史ははっきりいって、同性愛の人々に対する対応を含め、彼らの中で聖書の教えに反するとみなす人々を異端とか、罪人とみなし、その対応に全く失敗してきています。神は同性愛の人も愛していますし、人はみな、生まれつき罪があって生まれてきたという聖書の教えにもとづくと、一部の外の目立つ罪を犯す人を差別したり、断罪するのは、神の愛を信じて従う者のすることではないでしょう。
 2千年前、この世に生きておられたイエス様はどうなさったでしょうか。イエス様は当時、社会から差別されていた人々(罪人や売春婦、取税人など)と食事を共にされました。彼らにも神の国のことを教え、彼らを愛しました。その愛に触れられて、多くの人が悔い改めてイエス様を信じ、人生が変わっていくことが記されています。イエス様は、彼らの今までしてきたことを”OK”と許可はされませんでした。ただ愛をもって接され、そして「今後は罪を犯さないように」と、姦淫の罪で訴えられた女にもはっきり言われました。
 聖書で結婚の定義が記されています。男と女、それぞれが親から離れて二人は一体となると書いてあります。☆ 神を信じる者はこれが正しい結婚だと信じます。一方、神を信じない人たちはその神の基準を受け入れる所以がないので、よってクリスチャンの彼らへの対応は責めたり、差別したり、論争するのではなく、また「これは現代はOK、罪じゃない」と、多くのアメリカの教会のように聖書の解釈を勝手にかえることではない。彼らがイエス・キリストを通しての神を信じるように祈り、福音を伝えることが取るべき対応だと思うのです。本当の愛とは、いいよいいよと何でも許可することではなく、本人のためを思って言いにくいことも、愛をもって戒めることではないでしょうか。WWJD → What would Jesus do? イエス様だったらどうされるか?

☆創世記2章20−24節
Aug, 2, 15 "フィリピンに行った話より"

 「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」 第一ヨハネの手紙2章15−17節

 先日、フィリピンのリゾート地へ旅行へ行った方から話を聞きました。ホテル滞在客の9割は韓国人だったそうです。青い海と空、豪華なホテルと対照に、ホテル・観光客が行くショッピングモール以外は、貧民街。それも路上生活をしている子供たちがわらわらと食べ物をくれと集まってくるそうです。地元のガイドより「絶対、奴らに物を与えるな、危ないから」と言われたのですが、彼女は同じ年頃の子供を持つ母親として、胸が痛みアイスクリームなどを買ってあげたそうです。路上生活といっても、NYにいるホームレスとは異なり、フィリピンの子供達は明るくて、たくましいそうです。NYでは大人が路上に座ったまま、じっと暗い顔をして物乞いをしていますが、フィリピンでは毎日降るスコール(夕立)をシャワー代わりにして体を洗い、気候が温暖なので、路上の端っこに集まって夜は寝る、昼は積極的にかたことの英語とジェスチャーで、”お腹がすいている”と観光客に食糧をねだってその日暮らしをしているとのことです。もちろん、彼らは親がいないし、学校も行っていないのです。
 先進国に住む彼女はこのような光景に直面し衝撃を受け、「神様はなぜこの子供たちをこんなめに合わせるんですか?」と私に質問しました。私は「神様のせいにするのはおかしいでしょ。人間の欲と自己中心が社会の貧富の差を生み出しているのであって、神がそうさせているのではない。聖書では”孤児とやもめを養いなさい”と書いてあるし、貧しい人に施すことや、また7年ごとに債務者は債権者の借金を免除することなど、貧富の差を生み出さないような法律をイスラエル人(神が起こされた民族、その民族の子孫からイエス・キリストが人として生まれるようにした、ユダヤ人もその一民族)に与えてましたよ。」と説明しますと、「ああそうか。人の欲が、社会が悪いんだ。。」と納得され、自分は今まで世界の貧困の現実を目の当りにしないできたが、今回自分にできることは僅かだったが、いい経験だったと。
 資本主義の権化の国、アメリカに住んでいると、貧富の差をいつも生活の中で感じます。社会のシステムがそうなっていて、このNY市でも何万人の子供がホームレスで、劣悪状況のシェルター(一時宿泊施設)から学校に通い、その親も仕事に通うという現実です。(大人は携帯電話は持っている!)NYの家賃が今異常に高騰し、払えなくて退去せざるを得ない人が多く、賃金は低いまま。市の行政はそれに対して何も対策を講じないのです。この原因はロシヤ人・中国人の富裕層が投資のために破格の値段でNY市内の家やマンションをキャッシュで購入するためで、全体的に相場がウナギ上りとなり、一部の金持ちと会社が家賃を支払ってくれる人しか、マンハッタンには住めなくなっています。私はちなみに、マンハッタン島から川を越えた、移民の人々が住む町で、大屋から一部屋を間借りしてなんとかこの物価高のNYで生活ができていること、本当にありがたいです。人がもっと欲しいという欲はきりがありません。私も時々、税金や医療保険が高く稼いでも手取りがほとんどないアメリカの生活で、文句を言いたくなります、ああ日本だったらまとまな良い生活ができるのに。。。と。
 すると今日の聖書の箇所には目が覚まされます。そうではなくて、状況が環境がどうであろうと、神様に感謝して満ち足りた心をいつも持ちたい、キリストを信じて従おうとする者は、この世の物欲に目をとめず、神の御心、神の性質:愛 が互いの間に、社会の片隅にでもあるように祈りながら、出来ることをしていきたいと思わされます。
   
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