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今日のわか ちあい

♪Today's Sharing♪

Setember 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
  約束の実現性 レッサーパンダを見て スケープゴート  
休みの多いフィラデルフィアの学校 おいしい饅頭 ロボット化できないこと
   
Sep, 30,15 "ロボット化できないこと"

「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 マルコによる福音書10章27節

 
 
先日ニュースの記事で、イギリスの大学の研究チームが発表した「2030年に存続している職業、機械化されている職業」という予測が目に留まりました。現在、様々な分野でロボット開発が進んでいますが、その論文で機械化が難しい(存続する)職種としてあげられていたのが、医療・教育の分野:医者、看護婦、公立学校の教員、ソーシャルワーカーなど。これらは対人援助を専門的知識で行う職種で、コンピューターのプログラミングで各患者、生徒達の個性、特異性に対応するには難しいからでしょう。人の心に関する事柄は、人間同士でも困難であり、ましてや機械での対応は不可能だと私は思います。
 不可能なことと思える、つまり奇跡でない限りおこりえないという分野の一つに、人がキリストを通しての神を信じることがあります。信仰とは、信仰の対象が神であり、信仰の内容は聖書に記される神の約束を信じることです。神の約束は神を信じる者への、キリストを通しての霊的祝福・恵みの付与ともまとめられます。ですから、この信仰というのは心のもっと深い部分と関ることで、お金を出しても、洗脳しても、脅しても起こりません。人を創造した真の神だけが信仰を与えることが可能でしょう。一方、神は強制して信じさせることはなさらず、本人の自由意志も尊重しますから、本人が頑として、「神なんか信じられない」と貫き通す場合もあります。しかし、冒頭の聖書のことば「人にはできないが、神にはできる」は、イエス・キリストの言葉であり、非常に力強さと重みがあります。
 4千年前に、100歳で子供が生まれるという奇跡がありました。イスラエル人の祖先であるアブラハムは、このような不可能が可能になる経験をしています。神はアブラハムが75歳の時に、”彼の子孫を通して、その民族だけでなく、神を信じる全ての国民に祝福が及ぶ”という重大な約束をされたのです。実際その約束が成就するまで25年間。彼の奥さんは10歳下です。これは20歳の時から45歳まで待つのとは生物学的にも、精神的にも話が違います。しかし、アブラハムは神の約束を信じ続けました。そしてその信仰により神様は彼を正しいとみて下さり、救われたのです。
 このアブラハムの信仰から学べることが、現代の私たちにあります。例えば、ある人が、家族、友人、同僚の救い:キリストを信じる信仰に導かれるようにと長年祈ってきた場合、現状を見て無理だと、諦めそうになるときがあると思います。人がキリストを信じて救われるという奇跡を、人間的に不可能と思っても、神には可能だという望みを抱き、祈ったことを神様に任せ、祈り続けるという信仰を求めたいと励まされます。その奇跡に少しでも関われることができれば、どんなに喜びがあふれるでしょうか。

Sep, 21,15 おいしい饅頭

「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」 哀歌3章21-23節

今朝家主が 「これ、蒸して食べてね」と饅頭をくれました。これはいわゆる日本の肉まん・あんまんの皮の部分ですが、中国の人は身がなくても これだけでパンのように主食として食べるそうです。ほんのり甘みがあっておいしいですし、一つでお腹がいっぱいになります。
 これを食べてマナという食べ物を思い出しました。マナとは、朝露が乾いたあとに地面に残る薄い鱗もしくは霜のような白い外見で、味は蜜を入れたせんべいのようだとされ、古代イスラエルの民が荒野で食べ物がなく飢えて 文句を言った時に、神様が天から降らせたパンのことです。この時人々は「これは何だろう」と口にし、「これは何?」を意味する彼らの言語が「マナ」なので、そう呼ばれ、その後40年間毎朝(除く土曜)天から降り、荒野での人々の主食となったものです。天から白いパンが振ってくるとは不思議な光景です。
 イスラエルの人々は紀元前にエジプトで400年間、奴隷として虐げられた生活を送った時代がありました。その苦しみの叫びが神様に届き、神様はモーセというリーダーを起こして、多くの不思議な現象を起こし、人々をエジプトから脱出させて、もと先祖が神から与えられた地に導くと神が約束されました。しかし、エジプトを出たとたん、今までの苦しみと神様のなさった驚くべき奇跡を忘れ、「食べ物がない!飢え死にさせるきか!」とつぶやいたのです。そんなつぶやきに対して、神様はどうされたかというと、食べ物を毎日与えられました。狩もせず、労苦もしないのに、毎朝マナが降り、夕方にはウズラという鳥の大群がやってくるので肉も食べれたのです。* 神様はぶつぶつ言う民にも寛容でした。恵み深く食べ物を与えたのです。神様は必要を必ず満たしてくださる方ですから、文句ではなく、信頼して現状を言えばよかったのです、日々の糧を下さいと。文句をいうところに信頼関係はなく、神はいじわるな方だという不信仰が垣間見えます。
 私も時々、ボヤッキーになります。神様の与えてくれている毎日の恵みを忘れ、感謝をせず、神様に対してぶつぶつと祈りのなかで文句をいうのです。ひとつの願いが答えられないと、たくさんの恵みがあるのに、特にイエス様が与えられたというとても大きな恵みに目が留まらなくなって、落ち込んでしまうことがあります。しかし、神様はやさしくて、こんな者にマナ(聖書のことば)を下さり、また不信仰から引き上げてくださいます。フォーカスを神様の恵みのほうへにシフトして下さるのです。そして神様の計画に、タイミングに任せようと励まされます。本当にありがたいなあと涙がでます。饅頭を食べるときだけでなく、朝ごとに神様の恵みを感謝したいと願いつつ。

*出エジプト記16章12節
Sep, 14,15 "休みが多いフィラデルフィアの学校"

「このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。』」  ローマ人への手紙4章16-17節

 「9月は学校のお休みが多い。」とフィラデルフィアに在住で公立の学校に子供を通わせる友人が話していました。アメリカでは9月には国民祝日の他に、州によって(地区によって?)ユダヤ人の祭日も休校となり、更に今年はローマ法王訪米の為、その期間も学校は数日間休みとなるそうです。長い夏休みが終わって新学期が始まってすぐ、このように休みが多いと子供も大人も生活のリズムが乱れて困るかもしれませんが、子供達は意外と嬉しいかもしれません。
 ユダヤ人といわれても、日本ではピンとこないでしょうし、接する機会は稀かもしれません。しかしアメリカに住んでいると、地区によってはユダヤ人地域があちこちにあり、彼ら専用の食品(コーシャ―)も普通のスーパーで売られています。また彼らの存在は社会的・経済的にもアメリカでは影響力があり、約4千年にわたり存続するこの民族は、様々な誇りを持っています。特に、アブラハムという人が彼らの祖先であることを誇りにしています。ユダヤ人と言っても、保守的なタイプから自由なタイプ(他民族と変わらない生活習慣や考え方をしている)もいて様々です。アブラハムという人は、最初からユダヤ人であったわけでもなく、ただある時、突然神から呼ばれて、神が彼にこう約束したのです。「おまえの子孫が空の星のように増えて、祝福される」と。アブラハムは、まだなんの確証も兆しも(子供も)なかったのにそれをシンプルに信じ、その信仰が神様から認められた最初の人でした。* そして彼の孫のヤコブ(後のイスラエル)から12人が生まれ、それらが12部族の先祖となる、そして今世界に離散したり混じったりしていますが、現存している1部族がユダヤ人なのです。
 このアブラハムが、実は日本人と(全ての民族と)関係があるということが、聖書に書いてあるのです。ユダヤ人は神から律法という法律と、多くの預言者、そして救い主がその民族から生まれるとの約束も与えられていました。しかし、残念なことに、彼らはその救い主が生まれて来ていたのに、その方を拒絶し、十字架にかけてしまったのです。それがイエス様であり、彼が苦しんで、十字架にかけられて3日後によみがえられたこと、神の子であり救い主と信じているのがクリスチャンです。ですから、真の神はユダヤ人だけの神ではなく、全ての人の、日本人の神でもあります。なぜなら、他の民族、国民も、今聖書を通して与えられている神の約束を信じると、アブラハムが信じて義(正しい)と認められたと同じように救われると聖書に書いてあるのです。
 フィラデルフィアの子供たちは、ユダヤ人のお祭りだからということで学校がお休みになるという祝福を、信仰の有無に関らず、何人であっても、ある意味先取りし享受していると気が付かされ、これも興味深いと思わされつつ、多くの人がアブラハムが受けた祝福を、イエス・キリストを信じる信仰によって受け取ってほしいと願います。

*創世記15章6節
Sep, 8, 15 スケープゴート

「わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない。」 へブル人への手紙8章12節


 私はまれですが、嫌な夢を見ることがあります。その内容はたいてい過去に自分が犯した恥ずべき事とか、思い出したくないこと、また心の傷に関わったその相手が出てきます。なぜ今頃?もう忘れたことなのに。キリストを信じる前はそんな自分を嫌悪し、でもその状態からぬけらない、そして諦めが入りと、いつも心の奥底に暗闇がありましたが、キリストを信じて救われてなくなった!と大喜びしていました。ところが死んだと思っていたのに、ゾンビのように一時的に夢にでてくるとショックです。そういう朝はすぐに神様に祈ります、すると夢の内容も忘れてしまうのは幸いです。
 スケープゴートという言葉を耳にしたことがありますでしょうか。これは他人の罪や責任を個人もしくは社会から背負わされる者のことを言います。日本の政治の世界ではある代議士の汚職が発覚すると、「全て秘書がやった」と言って 責任をなすりつけたり、失敗や問題が起こった時に、ある人が辞職してその責任を取ることも会社という組織ではよく行われることです。もしくは社会の不満や憎悪が増大してくると、国が社会的弱者のグループに対して何か責める口実を作り、国民の不満、憎悪、責任をそこに転嫁するという悲劇も歴史的にありました。しかしもともとは 聖書用語で、古代ユダヤで人の罪を負って荒野に放たれたヤギのことを指し、贖罪(しよくざい)のヤギとも言われます。
 この儀式は、年に一度人の犯してきた罪を、神の前に動物が犠牲になって贖うためです。2匹のヤギが用意され、1匹は人間の犯した罪を背負って、いけにえとして殺され、そのヤギの血を、贖罪の蓋というところに振りかけられます。神はその贖いの蓋の上の血だけを見て人々を受け入れました。この儀式を通してでは完全に人の罪が赦されるわけでなく、一時的に覆われるだけでした。もう1匹は荒野に放たれます。それはこのヤギも人間の罪を背負って遠く離れることから、罪が遠く忘れ去られるということの象徴です。困ったことに、荒野に話したヤギがメエエとまた戻ってきてしまう場合もあったそうです。
 古代のユダヤの儀式や祭りはすべて、そのあとに来るイエス・キリストを指し示しています。ヤギの1匹目は十字架で死なれたイエス様を、もう1匹は、イエス様を救い主として信じた人の状態:罪がなかったように忘れ去られることを象徴します。イエス様の贖いは完全なので、一度に人類全員分の犠牲のヤギの流す血となり、罪に対する神の怒りがなだめられ、全ての人の罪が赦されるわけです。これを信仰で受け止めた人にだけ、もう一匹のヤギのように その罪が遠くに忘れ去られてもらえます。例えば、NYは、私にとってトラウマの場所でした。30代前半のそこでの2年半はあまりにも酷いことばかりで、人生のどん底、二度とNYには近寄るものかと思って日本に帰国した程です。ところが 今は過去のことは忘れ、平気でまた生活し、エンジョイしています。それもスケープゴート:イエス様のおかげです。今後も、荒野に放たれたはずなのに、メエエと自分で勝手に戻ってくることがないように、心を守ってもらいたいと願います。
Sep, 4, 15 "レッサーパンダを見て"

「神はまた言われた、『水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ』。 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。」 創世記1章20-21節


 秋晴れのすがすがしい午後、お友達とセントラルパーク内の動物園に行ってきました。たくさんの子供たちが来ていて、動物をみて興奮していました。とても小さい動物園ですが、あしか、レッサーパンダ、ペンギン、豹、クマなどなど。特にレッサーパンダは見たことがなかったので、私も大はしゃぎ!なんとかわいいのでしょう!動物園という狭い空間に置かれて、本当は野生であるべき動物たちの姿から考えると気の毒ですが、なんだか どの動物もマイペースでどうどうとしていました。彼らは本当にそのままで美しいのです。毛並みといい、形といい、何も飾らなくても、神様がそれぞれの種に応じてデザインされた被造物だなあと感心してしまいます。ましてや、人間は動物以上に精巧に創られていて、知的能力も与えられ、また神を求める心が失われた形であったとしても残っています。動物が何かを拝んでいることは観察されないですし、そんな遺跡もありません。人間はどの民族でも、誰も教えられなくても良心というものがあり、また崇高な対象(神)を拝んだり恐れたりする思いが誰も教えなくても持っているのは文化人類学が説明してくれます。
 一方ダーウィンの進化論:人間が猿から進化したという仮説を、あたかも科学的に証明された法則のように授業で教えられている日本人が気の毒です。アメリカではもちろん、学校では仮説として紹介します。もしダーウィンの進化論が科学で証明されていたら 「進化の法則」になっているはずです。(たとえば万有引力の法則など) しかし何年たっても進化の法則にはなれないのです。同じ種(鳥なら鳥類)のなかでは変異がおこりえたとしても、別の種への突然変異は証明できないのです。
 たとえ聖書やキリスト教の情報が手元になくても、人は自然を見れば神の存在が自ずとわかるはずです。また科学的に考えてみても宇宙や人間のミクロの細胞の世界をみても、これらが誰もデザインすることなしに、時間がかかって偶然に出来上がるということを証明するのは、統計学の確立を計算しても不可能でしょう。しかし神の存在を信じたくない人は、進化論は科学でないのにそうだと信じます。自分は自分だから、創ってもらった覚えもないと。また、ただ神の存在を信じるのでなくて、何のために神が自分を創られたのか、この世に生あるもとして送ったのかを考えますと、人がどう思うと、自分が自分を好きになれないとしても、ありのままの私を受け止めて下さり、また大切に思ってケアしてくださる愛のある神さまがおられることを、聖書を通して教えられます。自身に起こった奇跡を見ても、動物を見ても感動し、空の星、山々の壮大さを見ても、神が創られて 「良し」と満足された美しさに心を打たれ、畏敬の念が与えられます。とにかく今日はレッサーパンダの存在に心癒されました♪
Sep, 1, 15 "約束の実現性"

「そのように、 わたしの口から出るわたしのことばも、 むなしく、わたしのところに帰っては来ない。 必ず、わたしの望む事を成し遂げ、 わたしの言い送った事を成功させる。」  イザヤ55章11節

 約束・契約。皆さんは人や会社、学校との間においてなされた約束ごとが、確実で、未来永劫続くと思われるでしょうか。契約書には細かい条項があり、年数がたつと条項が一部変更されたりして可変的ですので、ぼーっとしていると損をする世の中というのが現実です。また個人間の小さな約束に関しても、お互い忙しい突発的なことも起こるので、約束したことを忘れられてしまったり、相手の環境・状況が変わりキャンセルされたりすると、がっかりします。例えば幼い子にその親が「今度の土曜はディズニーランドに連れて行くよ」と約束したら、親は必ず連れて行ってくれると子は素直に信じて楽しみにしている。ところが、当日親に仕事が急に入ってしまい、「ごめん、行けなくなっちゃった、また今度ね。。」と言われてしまう。このようなことが続いていくと、子供はだんだん、約束に対する確実性や、期待も半減していき、「あてにならない」と諦める大人になっていくとしたら、これは非常に残念です。しかしこれが、現実でしょう。

 一方、神様はご自分が人とされた約束に関し、人の側の事情で色々不履行・不可能な状況になったとしても、神様の側は決して忘れず、無効にもされず、約束を何千年もかけて最終的には果たされる、誠実な方だと聖書を読んでいて知ることができます。例えば、聖書の中の一番大事な約束(契約)の一つに、”イエス・キリストが私の罪のために、代わりに罰(神の怒り)を十字架で受けて死んでよみがえって下さったから、それを自分のこととして信じて受け取れば赦され、その信仰で正しい(義)と神が見なしてくれる”とあります。つまりもう罰も神の怒りはないのです。もし、これを信じてクリスチャンになった後に、まだ罪をまだ犯してしまい、「ああ、またしてしまった。神は今度こそ怒っているし、赦されないだろう」と思うのであれば、神のなされた誠実な約束を信用していないことになります。赦すといったら、赦されているのですし、全ての罪(現在過去未来)に対する怒りはもうキリストが先行して受けて下さったから、もう罪に定められないとはっきり書いてあるのです。信仰とはこの約束を含めて、その他の霊的祝福や徐々に変えられていくという約束を疑わず信じ続ける(現在進行形)ことなのでしょう。すると突然清い人にはなれなくて時間がかかっても、良い行いをするチャンスや動機でさえも、自分で作り出そうとせず神様から与えられるともあり*、なんでもプレゼントなのです。それを素朴に幼い子のように受け取って、神に信頼していきたいと願います。
 このように神様がすでに私のためになさったこと(義:正しいと認めてくれたこと)を信じて受け取っていくだけでいいのですが、私のパート・責任もあります。それは、その神様の大きな愛に応答して、消極的には罪を犯さないように、積極的には神様のために、人に仕えることに自分を捧げられるように、神の力で変えられていくことを祈り求めることが、この恵みを放縦に変えない生き方(聖化)だと、使徒パウロはローマ人への手紙で勧めています。私もアップダウンがあり、落ち込んだ時は超悲観的になりがちです。しかし、私の行いや思いがどうであれば、神様の約束は変わらないことを信じ続けることが大事で、イエス・キリストにあって現状がどうであれ楽観的でありたいと願いつつ。 

*エペソ人への手紙2章10節

   
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