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今日のわか ちあい


 Monhonk, NY
♪Today's Sharing♪

 December 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
イルミネーション:光の神秘性 羊毛40KG瀕死の羊が発見    
”笑い”が変わる    
     
Dec 18, 15 ”笑い”が変わる

「アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。そしてサラは言った、『神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう』。」 創世記215-6

 

 

最近、思いっきり笑ったのがいつだったかを覚えておられますか。いつも笑っているから覚えていないと言う方は幸せでしょう。医学的研究でも、笑いがもたらす身体的効用について多くの文献が出されていて、体内の細胞での戦い(大雑把にいうと免疫システム)が笑っている人のほうが活発になるそうです。また、笑いといっても、顔の筋肉が多く使われる大笑いだと数値に効果がでるそうです。一方、冷笑、嘲笑、苦笑という言葉があります。この手の笑いはその人の心の苦い思いを表し、あまり免疫システムには効果がないかもしれません。

 約4千年前の現イラクにあたるウルという街に、アブラハムとサラという夫婦が住んでいました。彼らは高齢で、サラは不妊でした。当時の社会で子供が生まれないということは肩身が狭く、偏見もあり、サラは美しい人だったそうですが、辛い思いをしつつ、夫に従っていました。するとある時、神様がアブラハムに「私が示す地へ行きなさい、私はそこであなたを大いなる国民とし、祝福するから」*1と約束されたのです。彼らはその神様の指示に従い、現パレスチナ地方へ多くの家畜と雇い人を連れて移り、そこで寄留生活をしていました。”自分からひとつの国民が起こる”、しかしその時点ではこの夫婦には子孫がいないのです。その後待つこと10年、20年。一向にサラには子供が生まれず。しかし、サラが89歳の時に天使が「来年生まれるから」とこの夫婦に告げに来た時、サラは”ありえない”と心の中で冷笑し、それを天使に見透かされます。その子の名前はイサク(ヘブル語で”笑い”という意味)*2 となりました。この人からヤコブが生まれ、ヤコブの12人の子供が現イスラエル民族になっていくのです。

 一年後。約束通りサラに男の子が生まれたのです!人間的には不可能なことですが、神には可能です。なぜなら無から有を言葉ひとつで創造出来てしまう、全知全能の神なのですから。サラは喜びで泣き笑い状態?その時彼女は生涯で本当に心から大笑いしたでしょう。よってここでの笑いは、今までの冷笑ではなく、とってもうれしい大笑い*3に神様が変えてくれた、周りの人々もきっと喜んで笑うだろうとサラは言っています。笑いが変えられたのです。

 私達は、時々神様が動かれるのを忍耐して待たなければならない時、自分ではどうしようもない事柄があります。忍耐するには希望と、神様への信頼が必要です。一人一人、私たちはサラとは待っている内容もレベルも異なりますが、待てなくて時々落ち込み、自分で動いて自体を悪化させることもあるでしょう。そんな時は、神様を信頼せずに自分で動いたことを悔い改めたうえで、神様が軌道修正してくれると期待し、過去のことでくよくよしないで前を見たいと願います。それには、聖書のことばから神様の約束と祝福を思い出し、無理して作り笑いするのでもなく、あきらめで冷笑するのでもない、楽しい笑いに神様が変えてくださるだろうと期待したいと思うのです。

 

*1 創世記12章1-3節

*2創世記21章3節 イサク yits-khawk 意味:laughter (冷笑、あざけり); Jitschak (or Isaac)

*3 創世記21章9節 tsaw-khak、語源; 大笑い(陽気に もしくは嘲って); 笑う、嘲る、遊ぶ 

Dec 10, 15 羊毛40KG:瀕死の羊が発見

 「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」 ヨハネによる福音書10章10-11節

 今年の9月に、オーストラリアで体の羊毛が約40KG(セーター30枚分)の状態で迷い羊がで発見されたという、衝撃の映像を見ました。この羊は、飼い主から離れ長期間さ迷っていたため、その間増えていった羊毛の重さで皮膚が剥がれ落ちる寸前、あともう少し発見が遅ければ死ぬところだったそうです。羊は、野生化できない家畜で、人間に毛を刈ってもらい、世話をしてもらわないと生きていけない動物です。古代から羊飼いという職業は存在し、羊飼いは野外での肉体労働を伴う大変な仕事です。
 約2千年前の夜、ユダヤのベツレヘム近郊(現パレスチナ地方)も、羊飼いたちが夜、野宿で羊の番をしていました。すると、突然夜空がぱっと明るくなり、大勢の天使たちが現れ、羊飼い達にキリスト(救い主)の誕生を告げたと聖書に記録されています。彼らは当時社会的に身分は低かったけれども、生まれた直後の飼い葉桶に寝かされているイエスの誕生をお祝いをすることが出来た唯一の人々でした。神の子が人として生まれるにしては、なんと地味な環境。なぜなら、イエスをお腹に宿した臨月のマリヤとその夫ヨセフが、ベツレヘムという街へ人口調査のために遠くから旅をしてきた時には、宿屋はいっぱいで、馬小屋しか空いていなかったのです。その誕生は、低くなって人に仕える、 人々の罪のために代わりに十字架で苦しまれて死なれるイエスを暗示しているようです。
 当時のほとんどのユダヤ人たちは、政治的独立を果たしてくれる救い主を待望していました。しかし「罪から救う」、神の子イエスを求めていなかった。現代も同様です。人々は政治的な、社会的な、また個人的な問題を解決してくれる救い主を求めており、罪から救う存在を求めていないのです。人々にとって罪という概念自体が相対的であり、犯罪でも犯さない限り、日常的には考えない事柄だからでしょう。しかし、罪とは聖書では、神を知らないことです。*1 神を知らず、神を恐れない人は、好き放題なことを行い、発言します。彼らを引き止めるものは法律と、個人差のある良心でしょうが、その結果が今の世の中です。
 イエスは、冒頭の箇所にあるように、ご自身を良い羊飼いだと、羊の世話をし、守り、そして羊のために命をすてると言われました。そして羊は人だと例えられています。羊が一人で生きていけないように、人も神様のケアなしには生きていけないのです。お金とか、慈善行為とか、修行などの見返りを求めず、一方的な無償の愛で自分を愛してくれている方がいるということを知り、それがイエス・キリストであることを信じられることは幸いです。きっかけは、自分の問題を解決し、救い出してほしいというところから、神を求めるかもしれません。ある人はなぜ自分は生きているのか、そして死んだらどこへいくのかと。神は愛であり、優しい方なので、今ある問題の解決へも導いてくださる方です。ただ人が想定した通りとは限りません。なぜなら、救いは自身の内側の変革から始まるからであり、外的な環境的要 因が単に変わることだけではないからです。しかし必ず答えて下さる方です。なぜなら、キリストとは救い主というタイトル、称号で、そのとおりの方だからです。

*1「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。」 ヨハネによる福音書16章8-9節  (”それ”とは聖霊のことを指す)
Dec 3, 15 イルミネーション:光の神秘性

「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」 (”彼”とはイエスを指す) ヨハネによる福音書1章9-10節 

 夕方以降街を歩いていると、クリスマスの到来を感じる季節です。NYの街はあちこちで美しいイルミネーションが照らされ、ツリーの点灯式が行われ、観光客も含め多くの人で賑わっています。イルミネーションは明るい昼間には目立ちませんが、周りが暗いからその光が際立って見えます。暗闇の中の光はどんなに小さくても、遠くからでも見えますし、その存在を消すことはできません。夜空に輝く星の放つ光もしかり、光の存在というのは神秘的です。

  なぜ、クリスマスの時期はそもそもイルミネーションがこんなに灯されるのでしょうか?これは、非常に象徴的なことだと気づきました。クリスマス("キリストを礼拝する"と言う意味)のお祝いの対象であるイエス・キリストは、地上に光として来られたと今日の箇所にあるよう聖書は記しているからです。この世は神の光からみると本当に暗黒です。この暗いという意味は、物理的というより心の暗さのことです。人々は、自分の基準で好き勝手なことを行い、自己中心的なため小さい家庭の中から、世界の国々に至るまで、争いは絶えないことは、日々のニュースからもわかります。自分のご利益で宗教(神々)をつくりあげ、それで商売や詐欺をする人々がいます。これらの事件や争いを人ごとのように思いますが、程度や表に出るか出ないかの違いで、光のない人の心は皆暗いのです。もちろん、人は良い事をしたり、楽しみで一時的に明るくなれます。しかしそれは一時的であり、根本的にはいつも暗いということを、忙しさで気が付かないのではないでしょうか。

 希望があるところに光もあります。真の神の子であるイエス・キリストという光を知り、その光の中に歩もうとすれば、この暗い世の中でも平安のうちに、希望を持って生きれるということがクリスチャンの与えられている信仰です。イエスは神であるのに、人類全員の罪に対する罰や神からの怒りを代わりに、十字架の死を持って受けられるために、わざわざ人として生まれ、葬られ、そして3日後によみがえられました。私たちのこの暗い心:罪の性質の状態から救うため、その罪を赦すための救い主としてイエスを信じれば、彼がずっと共にいて、光の中を歩めるように助けてくださる、生きる希望が与えらられるというのがゴスペル(福音:良い知らせという意味)の内容です。その救いが自分のものとなるのは、ただ信じるだけです。

 イエスを信じるところから光の生活、人生が始ります。また、聖書のことばは、足元を照らすランプの光のようだと表現されているように、先の先までははっきり見えない状態ですが、それでも”神が私達と共におられる”(インマヌエル:ヘブル語)*ので、暗い中も、困難の中も、先行き不透明でも、今の状況が辛くても、将来の希望を持って日々歩めるように聖霊が助けてくれます。その希望とは、この地上での生活は一時的で、いわば旅路のようなもので、天国という、もはや暗闇がない世界に向けて歩んでいけることです。この福音を一人でも多くの人が知り、本当のクリスマス・プレゼント:イエス・キリストご自身を受け入れることをこの時期に特に祈りたいと願いつつ。

* 「すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。」マタイによる福音書1章22–23節  (”この男の子”とはイエスを指す)
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