Praise the Lord 本文へジャンプ
今日のわか ちあい


モンフォーク保護地区NY 2015撮影
♪Today's Sharing♪

 February 2016

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
未来予想図 王の毒見役/献酌官の祈り 早春の鹿@高速道路沿い  
リオのカーニバル 見たくなかった映画の背後にある真実:アンブロークン(Unbroken) ラッキーとか運命について
心の健康診断    
Feb. 26, 16 ”心の健康診断”

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。曲った言葉をあなたから捨てさり、よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。」箴言4章23-24節

企業や自治体により、多くの
方は年に一度健康診断を受けられると思います。最近は通常の健康診断ではカバーしない項目を人間ドックにてさらに精査を受ける人も多くなり、俳優の渡辺健さんもそれで初期の胃がんが見つかり、開腹手術なしの治療ですんだというニュースを見られた方もいるかもしれません。症状が出てからではすでに重度になっていることが多い為、近年の予防医学の一環として、健康診断を受けることは大切な健康管理となることは言うまでもないでしょう。
 一方、こころの健康診断については、まだまだ制度化されていないようです。大手企業ではメンタルヘルスのチェックやカウンセリングを導入しているところがあるそうです。しかしながら、心というのは、血液検査や画像診断のように結果が明らかではなく、自己申告の問診ベースによって検査されるという面があり、正確さに欠けるところがあります。もし人が正直かつ正確に自分の心を申告できたら、もっと早くにうつ病などの症状を事前にスクリーニングできたことでしょう。また、身体的治療と異なり、脳についてはまだまだ未解明の分野がほとんどで、投薬によりある程度症状をコントロールできても、対処療法的治療であり、根本的治療法はいまだないそうです。
 聖書では、心を悪いことから守るようにと冒頭の箇所のように言っています。そして心を汚すのは、悪い言葉、ゴシップ、悪い談話だとも。またイエス・キリストは「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」とはっきり言われました。(マルコ 7:20-24)つまり、これらはほとんど口からでる言葉で表現されますから、相手を傷つけ、傷つけられた被害者も、そのストレスを他者へぶつけ加害者になる可能性があります。要は舌なのです。犯罪の始まりは心の中のこれらの悪い小さな思いが、ことば、行動にでるわけです。
 最近職場で話題になるのが、米国の大統領選の行方について。私はこれについて、他国人の目から見て、アメリカの選挙民の動向を辛口に批判して、時に言い過ぎてしまうことが多いです。私はその手のニュースに時間をさいて読むことが多く、情報が多ければ多いほど、批評も多くなります。世界情勢、時事ニュースを最低限知ることは大切ですが、自分の心を守る工夫を生活の中で具体的にしていく必要があり、それには聖書の言葉を通して、いつも心の健康診断をしようと思わされます。情報量が多い現代において、もう少し心が平安になる、徳の高まること、信仰の成長に益となる情報に情報量の比重をおきたいと思わされました。
Feb. 20, 16

”ラッキーとか運命について”

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。 」第2コリント人への手紙4章18節

 

昨日、あるご婦人を訪問して色々お話しをしていたとき、嬉しい話をお聞ききしました。彼女は戦後、アメリカ人と結婚されてアメリカに移住し、もう60年以上になる方です。その時代に海外に移住した時の苦労話を多くの方々から聞きましたが、彼女は全然苦労しなかったと言うのです。いつも恵まれていて、ラッキーだったので、物事が不思議にスムーズにいったと。また、皆さんのおかげでここまで来られたといつも感謝して、文句や愚痴を言わない立派な方で、現在もボランティアをされて活動的です。

 そんな彼女が、最近人生観が変わったというのです。彼女は自分が今迄このように生きてこられたのは、ラッキーとか運が良かったとずっと思っていたそうです。しかし、私の開く聖書の学びに参加されて2年近くなりますが、90歳代になって初めて聖書を学ぶ機会を得たとのこと、そして聖書を学んでいるうちに、自分が今迄生きてこられたのは、ラッキーとか運のせいではなく、背後で神様が働かれ、守られ導いてこられたんだと、はっきり思えるように変えられたと、そして、神様に感謝できるようになったと言うのです。
 運とか幸運ということばは、多くの人が意味をよく知らずに使っています。これは目に見えないし、予測可能な確かなものではありません。例えば、自分の努力でやってきたことが評価され、結果につながるときは、運が良いとは言わず、努力の結果だと思います(謙遜な方は、心の中では努力の結果と思いながら、ラッキーだったと言われますが)。ところが、自分の努力とか能力以外のところで、思いがけなく高く評価されたり、成功したりする、もしくは逆にうまくいかなかったとすると「運がよかつたんだ/悪かったんだ」「ラッキー!/(運が)ついてないなあ」と、終いには「運も実力の内だ」と意味不明です。要は原因と結果という理屈で説明がつかない現象が起こった時、また全てそれだけ決まるとは想定できないし、思う通りにことが動かないと知って、それを超自然的な、流れみたいなの要因にのせいにして、それを運と呼ぶわけです。しかしながら、運とはある意味非科学的であり、説明がつかないことへのこじつけに過ぎないということを人は考えもせずにこの言葉を使っているように思えます。
 クリスチャンになると、この運と表現されてきたことが、人を創造され、全てを無から有へと作られた全能の神様の摂理だとわかってきます。全ての現象、出来事には背後に神のみ手や導きがあり、神が全体的に私たちにとって良いことも悪いことも合わせてコントロールされていると信じるからです。私たちは努力をしますし、全て神頼みで何もしないのではありません。しかし、自分自身のするべき責任と範囲を理解し、果たしながらも、その背後には神様が最終的には結果を導くと、そしてそれが私が思う以上に大きな総合的視点でベストであるということを、聖書の中の証言、約束により、そしてそれが実際自身の体験として適応されているから、信じているのです。全ては偶然ではなく、全て神様と自分の意志を働かせてしたこと相まって必然なのです。偶然に私は存在するわけでなく、神様がメーカーとして目的をもって私に命を与え、私の意志を尊重しつつ、この世での生活を神様のご計画にそって喜んで生きれるということは、本当の意味で幸せです。どこからきて、どこへいくのかという、長期的先行きがはっきりしているので、運命とか偶然というような観念にもて遊ばれることなく、不安は取りさられます。
 この方とは以前より共に聖書の学びをする機会が少なくなりましたが、図らずも、今彼女が通っている教会の親しい友達から、その教会の朝の礼拝前の聖書の学びに一緒に出ようと声をかけられ、英語だけれど行っているそうです。いつも向学心をもって、聖書を学びたいという彼女に、神様は学ぶ機会を絶やさず、すっと用意されている、このこともについても、彼女自身が「これもね、神様が用意してくださっているのよ!」と喜んでおられました。彼女と神様の信頼関係が徐々に築かれ、信仰が成長されている様子を知るにつけ、私自身も励まされ、私ももっともっと信仰が強められ、成長させて頂きたいと願うものです。 

Feb. 13, 16 ”観たくなかった映画の背後にある真実:アンブロークン(Unbroken)”

「イエスが言われた、『ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか』。シモンが答えて言った、『多くゆるしてもらったほうだと思います』。イエスが言われた、『あなたの判断は正しい』。…「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない』」 ルカによる福音書7章41-47節

 

先週の日曜の午後、友人達とランチをしていて、その内の一人から2014年に公開されたアンジェリーナ・ジョリー監督の「アンブロークン」(Unbroken)を観た内容について聞きました。以前私はNYの地下鉄で、傷だらけの痩せた男性が重い材木を掲げている映画の広告ポスターを見て、何だろうと思い、後から「あれは旧日本軍による捕虜への酷い拷問の話で、反日的内容の映画」とある日本人から聞きました。これはあたかも、ドイツ人が「シンドラーズリスト」等のドイツ・ナチの残虐な映画を観る時に感じるであろう複雑な感情と似ているかもしれませんが、私は残酷な映画、それも旧日本軍の残虐は見たくないというのが正直なところでした。第2次大戦中に旧日本軍のしたことは、他の国々も今迄の戦争下でしてきたように、2度と繰り返してはならない歴史だからです。しかし、現在でも地球のどこかで、残虐な行為が行われているのをニュースで知るにつけ、悲しみが込み上げます。
 この映画は、第2次世界大戦下、旧日本軍の捕虜となった元オリンピック選手のルイス・ザンペリーニというアメリカ人の実話をもとに作られ、彼が戦争終結まで生き延びれたことの内容です。この映画のメッセージは、人間は何でもできるということ、肉体的精神的限界の中で決してあきらめずに頑張れる、また人は相手がどんな人であれ赦すことができる、という人間の強さ、回復力というテーマや、このような戦争を2度と繰り返さないという監督の思いが込められているそうです。映画は終戦で彼が解放されたところで終わってしまうのですが、実は、映画で触れられていない重要な真実があるのです。

 ザンベリーニ氏は、戦後アメリカにヒーローとして帰りますが、捕虜キャンプでの恐ろしい拷問のトラウマから立ち直れず、毎日悪夢を見、酒に溺れ、結婚生活もうまくいかず、奥さんに離婚されます。1949年のある日その別れた奥さんがクリスチャンになり、彼女に「ビリー・グラハムというキリスト教の伝道者の伝道集会に一緒に来てほしい」と頼まれ、彼女とやり直したいと思っていた彼は、渋々その集会に行ったそうです。そしてそこで彼は、イエス・キリストを信じ、人生が全く変えられたそうです。彼はもう悪夢を見なくなり、その彼を拷問し続けた渡辺氏という鬼軍曹を赦せたという奇跡も体験しました。そして戦後、彼は渡辺氏に会いに日本に行きましたが会うことはかなわず、一方他のその捕虜キャンプの元兵士達の幾人とは会うことができて、彼は元兵士達にキリストの福音を証しし、自身はキリストのゆえに彼らを赦すと伝え、そしてそのうちの一人が信仰に導かれたそうです。ザンペリーニ氏は、残酷にならざるを得なかった、心の暗闇を持つ渡辺氏にもキリストを伝えて、光に招き自由になって欲しかったかったのでしょう。これが、映画監督のメッセージ以上に、主人公の本人が世界に伝えたかったことだと、彼のインタビューを見て感動しました。*1 

 ハリウッド映画という一般向け映画のため、ルイスさんが人として成し遂げたかのように描かれる彼の人生の数々の軌跡は、神様によって導かれ、イエス・キリストを信じる信仰によって、その後の彼の人生が大きく用いられ、多くの人々に影響を与えるためであったのです。神様は最初から彼を選び、助け、導き、そして神様を信じることで、過去のトラウマから救われ、人生が変えられ、拷問をした相手をも赦すことが出来、自分が体験した解放を他の人にも伝えたいうことが、映画の背後にあるメインポイントなのです。
 なぜ、クリスチャンが人を赦せる力が与えられるかというと、自分が神様から赦された者だと分かったからです。それがわからない人は、真にキリストによる救いを受け取ることができず、単なるご利益宗教となってしまいます。多くの人は、自分は神に赦されなければならないような、酷いこと、犯罪や道徳的な悪いことをしてないし、人に迷惑もかけてないと思われるでしょう。しかし、聖書でいう根源的な罪とは、真の神と、その神の子であるイエス・キリストを信じないことだとはっきり書いてあります。*2
「神なんかいない、神は色々いて、それを選ぶのは人それぞれだ、自分の人生は自分のもので、死んだら終わりだ」という結局自分自身を神のように考えている人、神に背を向けている人々を、神様は天国で迎えたいと、しかし神さまを否定し続ける罪を持ったままでは神様のところへ行けないので、イエスキリストという救い主をこの世に送ってくれたのです。つまり、彼が私たちの”神なんか信じない!”という罪に対する罰、神の怒りを全て代わりに十字架で負ってくれたゆえに、それを信じることで神様と和解でき、人をそもそも創られた神のもと:天国へ、神の子供として行けるという恵みが、福音なのです。
 映画のシーンで、「これを持ち上げられなければ撃つ」と脅され、よほど健康でジムで鍛えている人じゃないと担げないような重い材木を、瀕死状態で担ぎ上げたルイスさんの映画のシーンを見て、十字架にかけられたイエス様を思い出しました。実際、ルイスさんは担ぎ上げる力も残っていなかった、撃たれて死んでいたはずだった。それを可能にしたのは、彼の火事場のばか力やど根性ではなく、神様が彼を通して戦後キリストを証しする器として用いるために、神が力を与えたのだろうと、ふと思ったのです。ルイスさんはとてもユーモアのある方で、インタビューでも深刻な話なのにところどころに笑いを取り入れて話されることがあり、彼は少しでも、イエス様の十字架を担がれたその苦しみを理解出来た人の一人ではないでしょうか。今天国でイエス様と微笑んでいるでしょう。

 

 

*1 700 club & Louis Zamperini Interview at Harvest Christian Fellowship by Pastor Greg Lurie

*2  ヨハネによる福音書16章9節

 

Feb. 10, 16 ”リオのカーニバル”

「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。 祭りの献げ物の香りも喜ばない…お前たちの騒がしい歌を わたしから遠ざけよ。 竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ。」 アモス書5章21-24節

 職場で同僚が「ブラジルの人は今カーニバルで休みを取っているのか、この2週間全然メイルの返事が来ないから仕事がすすまないのよね。いつ終わるのかしら」と言われたので調べてみると、今年のリオのカーニバルは2月5-10日で、そのブラジルの相手方もズバリ、10日迄お休みだったそうです。ブラジルのリオのカーニバルというと、半裸同然の女性たちが羽のついた衣装を着て踊るというイメージがありますが、その由来を調べてみました。日程は太陰暦なので毎年変わり、クリスチャンのイースターのお祝いの日より51日前に、6日間のカーニバルが終わり、終わった日からレント(断食;ご馳走を食べることを控える時期)に突入するので、その前までご馳走(主に肉)を食べまくって、お祭り騒ぎをするのが由来のようです。Carnival(カーニバル)は”肉を控える”という原語が由来なのも、納得できます。
 本日NYの街で、額に黒い十字架の記を付けた人が、カソリックの教会堂からぞろぞろ出てきたところをちょうど見かけた別の同僚が、「柴川さん、あれは何ですか?」と私がクリスチャンなのを知って驚いて質問してきました。カーニバルが終了する日は”灰の水曜日”といって、灰で額に十字架のマークをする儀式が一部のキリスト教の宗派で行われます。この由来は、最初に創られた人間が神に逆らい罪を犯した後、神が「あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3章19節)と人間に言われたところから、塵を灰で表すそうです。そしてその罪が赦されるために、神の子イエス・キリストが地上に来られたのですが、そのイエスが最初に言われた言葉「悔い改めて福音を信ぜよ。」(マルコによる福音書1章15節)を思い出すために、額に十字架をマークするそうです。私が通う教会ではこの儀式はなされない為、質問されるまでよく調べなかったので、同僚に感謝です。
 儀式や祭りというのは、聖書で神が人間に行う様に定めたものと、人間が後から定めたものとがあります。例えば、洗礼式、聖餐式は聖書でこれらの儀式をするように書かれています。そのほか多くはローマ帝国時代のキリスト教の伝統でたくさんの儀式や祭りが教会により制定されいていて、今でも続けられています。一般的に多くの儀式・祭りというのは、宗教と関係があり、それらの意味を理解したうえで、参加し行うのであれば意味があることでしょう。かえって、これらの意味や由来が分かると、例えば日本の七五三、初詣が神道の、盆踊りが仏教の宗教行事であると知ってからは、私は参加したいと思いません。お祭りを楽しむことが悪いと言っているつもりはないのですが、カーニバルのように信仰もなく、ただの慣習として、断食だ、その前に謝肉祭で肉を食べて飲んで踊りまくり、酔った勢いの犯罪も多発という現象は、本来の儀式や祭りから全くかけ離れてしまっていて残念だと思わされました。
 聖書でも、古代イスラエル人たちが心の伴わない宗教儀式をしながら悪を行っていた状態に対し、預言者を通して神様は”そんな宗教儀式はいらない!それよりも”「悪を行うことをやめ善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ。」(イザヤ書1:11-17)と冒頭の箇所も含めて言われています。現代でも、私も含めて人は教会に行っていること、奉仕していることで、後の自己中心的な生活が相殺されると勝手に合理化し、神様を悲しませてしまう危険性があります。そうならないためにも、特定の季節や行事の時だけ思い出すのでなく、365日、毎日イエス・キリストの十字架の犠牲が、自分の罪が赦されるためだったと感謝し、そしてイースターの日に復活されたイエス様の愛を覚えていたいと願うものです。
Feb. 6, 16 ”早春の鹿@高速道路沿い”

「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。」詩編42編1-2節


 本日、フィラデルフィアへ向かう高速バスに乗っていると、素敵な光景を一瞬ですが見ることができました。先日降った雪がまだ地表に残る、高速道路沿いの林に、3匹の鹿が寄り添って地面の上の何か食べるものを探していたのです。冬なのでまだ地表には青草も生えていないと思うのですが、それでも何か食べるものを見つけることができるのでしょうか。この暖冬により、春に芽を出す草がもう顔を出しているのかもしれません。
 聖書の中で、詩編という、誌が書かれている書簡があります。とても美しい歌で、この詩自体が、神様への祈りになっています。鹿が谷川で水を慕い求めている情景を見て、私たちの魂も渇いていて、神様を慕い求めるということを詩編の作者は冒頭で歌っています。
 体の飢え渇きは、水分を取れば満たされます。しかし再び渇き、生きている限り延々と水を体が欲します。では魂とか心の飢え渇きは何で満たされるのでしょうか。人は、それぞれ様々なことで自分の内面の渇きを満たそうと無意識にしているでしょう。ある人はお金で、ある人は地位とか社会的名誉、仕事の達成感、ある人はボランティアをして人のために尽くすことで、またある人は夫婦や親子等の人間関係で満たそうとするかもしれません。しかし残念なことに、やってみられた方はわかりますが、これらをもってしては、自分の思う通りに満たされないし、一時的であり、長く続くものではなく、虚しさはどこかに残るものです。しかし、人間を愛するために造られた神様はそのメーカーとして人間を良く知っていて、その魂に何が必要なのかをご存知です。そして神様の愛でもって心の中にあたかもぽっかりと空いている空洞;それはハートの形?!を永続的に埋めて、心の渇きを満たしてくれるのが、イエス・キリストの十字架を通して示される愛なのです。
 「聖書は、神様から人へのラブレターだ」という表現があります。聖書を通して、人が何のために存在し、また価値のあるものとして、大きな犠牲を払ってまで人を愛されている神様が存在することがわかり、それを受け入れ、信じると不思議と心の穴が満たされます。これは私が何か立派なことをしたから、修行をしたからとか、私の成果でいただけるものでなく、全て神様からの一方的なプレゼント、恵みであり、感謝してその愛を受け取る・信じるだけであるということは幸いだなと、谷川ではなかったですが、高速道路沿いの鹿たちを見て思わされました。
Feb. 3, 16

 ”王の毒見役/献酌官の祈り”

「王はわたしにむかって、『それでは、あなたは何を願うのか』と言われたので、わたしは天の神に祈って、 王に申しあげた、『もし王がよしとされ、しもべがあなたの前に恵みを得ますならば、どうかわたしを、ユダにあるわたしの先祖の墳墓の町につかわして、それを再建させてください』」。ネヘミヤ記2章4-5節

 

    昨年、メキシコの刑務所(独房)から脱獄した麻薬王と呼ばれている男が再び捕まり、刑務所に戻ったそうですが、先日彼に関する興味深い記事を読みました。彼は囚人ですが、犬が彼の食事の毒見をするそうです。なぜなら、彼は様々な方法で殺される可能性が高いため、「囚人の健康を守るのも、刑務所の仕事だから」とのことです。毒見役は通常、王や上の地位にある人が命を狙われる可能性がある為、その家臣が食事の安全を試すという大変な仕事です。王は王でも麻薬王のためとは、お役目の犬が気の毒です。
 古代ペルシャ王国にも、献酌官といって王にお酒を注ぐ役が毒見も兼ねていたそうです。ある時、アルタシャスタ王の治世に彼の献酌官をしていたネヘミヤというユダヤ人が暗い顔をしているのに王は気づき、「病気でもないのに、どうしてそんなに悲しい顔つきをしているのか?何か心に悩みがあるのか?」と彼に尋ねました。すると、ネヘミヤは、その当時、彼の国が先のバビロニア王国に滅ぼされ、捕囚となってペルシャの地にそのままいた時代で、折しも彼の故郷のエルサレムが廃墟となっているという知らせを聞いてショックを受けていた直後であり、よって悲しい顔を王の前で隠せなかったからだと王に説明しました。このペルシャの王はネヘミヤとは常日頃から良い信頼関係があったのでしょうか、王は家臣である彼の心配ごとにも気にかけてくれたのです。毒見役が変な顔をしていたら、何か自分に害があるのかと、通常自分の安全のことしか王は興味がないのものです。これは想像ですが、日本の戦国時代の織田信長だったら、「そなたは何故、辛気臭い顔をしておるのか!」と怒鳴るところでしょうか。

 すると王は「では、あなたは何を願うのか?」と彼の願いまで聞いてくれたのです。そこでネヘミヤは、瞬時に天の神に祈ってから、「もしも、よろしければ、私をその街に帰らせて、そこを再建させてください」と大胆に申し出ました。なんと、王はその願いを聞き入れ、その費用まで出してくれるというのです。これは驚くべきことでありますが、世界史もつかさどる神様は、異教徒の王であっても用いられるわけです。「私の神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくれた」(8節)とネヘミヤは記録しています。
 私たちはじっくり祈る時間がある時と、このネヘミヤのように瞬時に心の中で神様に祈らなければならない時とがあります。幸いなことに、私たちの信じる真の神様は全能なので、祈る場所や方法、時間は関係なく、どこででも私たちの祈りを24時間365日聞いて下さり、神様のタイミングで、タイムリーに答えて下さる方です。「今はお休み」、「忙しいから後で」という人間の想像するような人間っぽい神だったら、この世の中はいったいどうなっていることでしょうか。現代でもイエス・キリストを信じる者は、彼を通して大胆にこの神様にいつでもどこでも、目をつぶらなくても、願いと訴えを聞いてもらえるという、その大きな恵みに感謝しつつ、ボーっとしてないで、電車に乗って立っている時など、もっと天の父なる神様にお祈りしようと思わされました。

Feb. 1, 16 ”未来予想図”

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。わたしはあなたの正しいおきてを守ることを誓い、かつこれを実行しました。わたしはいたく苦しみました。主よ、み言葉に従って、わたしを生かしてくだい。」
詩編119編105-107節

 私の学生時代に、「未来予想図」という歌が流行りました。ロマンチックな歌の内容で、自分の好きな相手と「思った通りに、かなえられていく」という未来予想図。しかし現実はそうではないということを、特に学生から社会人になっていくにつれ徐々に経験し、次第に「どうせだめかな」とあまり期待しなくなったのが30代前半までの人生。しかしキリストを信じてから、今迄と全く異なる、大きな未来予想図が与えられ、それからは、小さいことではアップダウンはありますが、大きな神様の計画を知り、それを信じていることで失望がなくなり、平安と希望が与えられています。なぜなら、神様の未来予想図は、自分が想定した通りにならなくてもがっかりする必要がないからです。
 今年でアメリカに引っ越して7年目になります。アメリカへの移住は大きな決断でしたので、半年以上祈って、本当に今動く時なのかと神様に答えを求め、確信が与えられたのは聖書のみ言葉を通してでした。そして、いつ日本に帰るのかも不明でした。神様は、一歩先のことまでしか導きを示されないので、その先のことは神様に任せるという信頼関係が私に常に問われます。それが信仰で一歩踏み出すことだと体験しつつ、そして踏み出したら、また次の一歩という繰り返しです。神様の導きは、あたかも真っ暗の道を走る車のヘッドライト、足元を照らす灯のようです。しかし大きな方向性と目的が与えられているので、視界が昼のようにクリアでなくても、前進出来るわけです。
 この7年目の1月に、私はある決断をしました。アメリカの両親が住むフィラデルフィアに最初は3年、そしてニューヨークに引っ越して3年となりましたが、色々な事情を通して今迄やってきたことを見直して、神様は私に一度そのドアを閉じることを示されたと受け取ったからです。それは傍から見ると、今迄やってきことを辞めるように見えます。しかし、神様の私の人生の計画における長期的視点によると、新しい方向へ、新しいドアが開かれるまでのトランジション(乗り継ぎ地点)にいるようであります。1月はこれらのことで慌ただしく過ぎたせいか、昨日の朝は頭痛がする程疲れ、起きるのが辛かったのですが、教会で子供に教える担当の日でしたので出かけていき、午後も予定していた祈り会に出かけて行きました。すると祈り会の後には、頭痛が不思議と治っていたのです。肉体は疲れていても、信仰の友とのフェローシップと祈りは本当に励まされ、また神様は肉体の支障も癒してくれるんだなあと、感謝しつつ帰宅。そして帰宅すると、新しい入居者(ルームメート)の女性が夜に引っ越してきて、その関係で家具の入れ替え等一仕事あり、よろよろです。続く感謝は、新しいルームメイトもとても良い方が与えられ、これも神様に祈っていたので一安心となりました。これからも、たとえ私の予想図と神様の計画が異なっているとしても、足元を照らす灯(みことば)の光を頼りに、一歩一歩神様の導きに沿って進んでいければなあと、励まされました。
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