”マザー・テレサの聖人認定”
「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」ヘブル人への手紙2章18節
3月17日。NYの街には緑をまとう人々:緑の洋服、帽子、コスチュームなどが目立ち、パレードも行われていました。セイント・パトリック・デイ(St. Patrick's Day) といって、アイルランドの聖人・パトリックを祝う日だそうです。聖人とは?ローマ・カトリック教会が、殉教した人の中から、特に最高位崇敬対象として「聖人」認定するそうで、殉教してなくても、その人を通して2回の奇跡(例えばその人が祈ったら大病が癒やされる等)があれば候補に含められるそうです。(日本ではチョコの日、バレンタインも聖人です)ヨーロッパでは中世より多くの聖人の日がお祭りとして祝われている伝統があります。残念ながら、昨今のNYではその日、緑の人々がパーティで大騒ぎ、酔っ払いがあふれています。
「神の愛の宣教者会」を創設し、貧しい人たちの救済活動に尽くした修道女マザー・テレサは、1997年に87歳で亡くなられましたが、彼女は1979年にノーベル平和賞が付与されました。そのマザー・テレサも、聖人と認証されることになったと先日ニュースで知りました。現在、彼女の亡き後も123カ国の610箇所で「神の愛の宣教者会」の4000人メンバーにより活動が行われ、ホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設、炊き出し施設、児童養護施設、学校などあらゆる福祉分野にわたっているそうです。
彼女の神様に用いられた大きな働きの影に、多くの苦悩もあったはずです。彼女のドキュメンタリーを以前見た時も、その一部を垣間見れましたが、今回彼女の手紙が一部公開され、その一部には、神に叫んでも叫んでもお答えがなく、孤独、偽善と疑いへの恐れなどがあった「魂の暗闇の夜」のことが記されているそうです。*1 1946年、彼女がインドで上流階級の子女の教育に携わっていた時、汽車で移動している際に突然「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という神の声が聞こえたのが、そのミニストリーの始まりだったそうです。しかし、その後彼女が亡くなる迄、神の声はもう一度しか聞こえなかったと、彼女の自叙伝に記されているそうです。
神の沈黙。聖書では神に用いられた信仰の人々が、時に祈ってもその答えがなく、あたかも神に見捨てられているかのように思えるときがあると記されています。例えば詩篇という書簡で、古代イスラエルのダビデ王は「いつまでですか?」と叫んでいます。(詩篇13:1-2) しかし、私達が見捨てられていると感じる時にこそ、人ではなく、神にのみ最も引き寄せられている時でもあることは、同様の体験をした方にはわかると思います。その神の沈黙を受けいれるというプロセスは、各々のシーズンに与えられ、苦しいけれどもその期間を通して品性が練られ、神が次にその人へ用意されていることへの準備となることがあるでしょう。神様は耐えられない試練は与えられず、必ず脱出の道も備えると約束がありますので*2、人それぞれにふさわしいレベルの試練がその人の霊的成長のために与えられるのでしょう。これは人と比べようがないことで、私と神様の間のこと、また私だけにたいするカスタムメイドの恵みでもあります。
孤独との戦い。ちょうど7年前、個人的に苦しい時期がありました。誰にも、教会の人々にさえ理解してもらえない身体的・精神的・信仰上の苦しみがあった時、私は今迄の人生で一番神様に叫びました。「助けて下さい、この状況から救い出して下さい」と。そして私には神様の声は直接聞こえませんでしたが、神様は必ず祈りを聞いてくださっているという確信は心の底にあったのです。そしてその一年後には思いがけず、アメリカに住んでいる、これが祈りの答えの一環でもあったと後からわかるのです。アメリカにいても、やはり孤独との戦いは続きます。よく女性一人で対応できたなと、今思うと恐かった状況もありました。誰か一人でも傍に頼れる人がいてくれればと。でも誰もいませんでした。しかし、イエス様が目に見えなくてもいつも横にいてくれたのです。そして結局、自身を理解し、ケアしてくれるのは神様しかいないんだ、と人を頼っては失望しという痛い目にあいながら、神様だけを信頼し呼び求めようという姿勢が、いやおうなしですが、徐々に与えられられていることは本当に感謝です。私は今でも、弱いところは変わりません。
そして何よりも、イエス様ご自身が、十字架にかかられたとき、ずっと今迄一つだった、父なる神との断絶(人類の罪をご自身に負われたので、神とは一時的に断絶するしかなかった)と、「どうして」に対する神の沈黙*3
という究極の孤独を人の体をもって体験されているので、どんな人の気持ちも試練も理解して下さるのです。マザー・テレサとはレベルがあまりに違うのですが、試練にあうことに意味が在るということ、神様の沈黙はより神様に近づくチャンスだということを、改めて思わされました。
*1 Florence
Taylor著 , 15
March 2016, "Christian
Today", "Darkness is such that I really do not see
– neither with my mind nor
with my reason – the place
of God in my soul is blank –
There is no God in men –
when the pain of longing is so great –
I just long and long for God... The torture and pain
I can't explain." マザーテレサの手紙より。
*2 コリント人への第一の手紙の10章13節
*3 マタイによる福音書27章46節「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
|