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今日のわか ちあい



♪Today's Sharing♪

 March 2016

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
上からの知恵 その地を癒す 神は笑うのか?  
誠実な人 東日本大震災から5年 次世代への継承
イースター商戦@日本 NY地下鉄の広告 マザー・テレサの聖人認定 ベルギー テロ勃発
階段落ち
Mar. 31, 16  
”階段落ち

「わが魂よ何ゆえうなだれるのか。何ゆえ私の内に思いみだれるのか。
神を待ち望め。わたしはなお、わが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」詩編42編11節

 イースターの週があけて、月曜日の夜に、教会の女性達ととても良い聖書の学びの時を過ごせて順調な週のスタートを切りました。ところが、翌火曜日の朝「いってきまーす」とルームメイトにあいさつし、玄関を出たすぐの階段を下りようとしたその時、突然体のバランスが崩れ階段から体が落ち始めました。すぐ横の手すりにつかまったのですが、転がる力のほうが大きくて支えられず、4-5段ゴロゴロと転がって、最後に頭を打ち倒れてしまいました。その前を通る通行人が、「大丈夫?」と声をかけてくれて、なんとか意識はあり、「Ok、Thank You」とだけいうと、突然のことで頭が真っ白になっていました。家の人が音を聞きつけて降りてきてくれて、起き上がるのを助けてくれました。なんとか歩けたので、骨は折れてないことを確認し、そのままよろよろしながら会社に行くことができたのです。しかし次第に痛みが増し、特に右足首をひねったようで、仕事で外出があったので、それも足をひきづりながらなんとか行けましたが、同行した上司に迷惑をかけてしまいました。なぜ何でもないところで、雨で滑ったわけでもないのに転ぶのか。確かに色々考え事をしていたので、注意散漫であったということだけしか理由が考えられないのです。帰ってからも、心配した家主が色々気にかけてくれて、中国の塗り薬をくれました。そのやさしさに感謝(涙)。
 イースターの週末は、二つのグループと家庭集会にて聖書の学びを和やかにでき、とても祝福され、そして日曜はイースター礼拝で牧師さんのメッセージもとっても良くて、何人か新しく来た人が、キリストを信じると決心していた様子を見るにつけ、心が躍っていたのです。しかし、不慮の事故はこういう祝福の後にだいたい起こるということを何度も聞いたことがあります。悪魔は、信者が喜んでいると、その喜びを奪って、くじかせてやろうと事故や病気を起こすことがあるので(全てがそうだとは限りませんが)、それに負けてはいけないと、信仰を固く保ち、何があっても神の守りのなかに最終的にいることを覚えて、神に感謝し平安でいるようにと書いてありました。最初は体をいつものように動かせない不自由さに、情けなくなり、どうして考え事をやめられないのかと落ち込んでいたのですが、信仰の先輩たちの証しを思い出して少し励まされます。
 折りしも朝のメールで、有名なアメリカ人の伝道者が、自身も信仰が弱る時があると分かち合っていました。「え?あんな人でも信仰が弱まる時があるのかしら?」と思うほど、この伝道者・牧師は多くの大きな伝道集会をアメリカ各地で定期的に開き、多くの人を救いに導いている人なのですが、彼のような神に用いられる人でも、落ち込むことがあるそうです。そういう時には、車の中で自分にむかってイエス・キリストの福音の説教をするそうです。いつも人に向かってメッセージをしているように、自分に向かってする、すると霊的に引きあげられ、その状況を乗り越えられると書いてありました。彼は謙遜な方です。自分の弱さを隠すことなくわかちあってくれて、落ち込む人たちを神に目を向けるよう励まし、慰めることができるのです。
 冒頭の箇所は、ダビデという偉大な古代イスラエルの預言者、イスラエルの王、シンガーソングライターとして彼の書いた多くの詩が聖書の詩編の中に残されている、神に用いられた偉大な信仰の人の詩です。彼も様々な場面で、困難をたくさん通るときに、神様に正直に助けを叫んでいますが、今回のように自分の魂にむかって、「おい、なんで思い悩んでいるんだよ、神がいるじゃないか、神の助けを待ち望むんだ!」と自分に説教しているのです。 すると、結局、神様をほめたたえられるように、魂が引き上げられると。
 私も、良いこともあり、また心を乱すようなメイルがきたりして、それを恐れて心が乱れ、思い患いがきてしまう、そんなすきに大けがをしてしまうという失態があります。おかげで、今週火曜以降の予定がみなキャンセルされてしまいました。そんな時こそ、自分の中で、思い患ってはならない、イエス様にフォーカスし、この状況を乗り越えられると信じて、脚をひきづり、腰をひきづり(続いてぎっくり腰まで起こしてしまってダブルパンチ)ながら、身動きがあまりできない時にこそ、静かに家で神様に祈って、みことばを読む・ネットでメッセージを聞く時間をとれたらと願います。神様は予定外の、よい時を与えて下さるはずです。
Mar. 25, 16

 

"イースター商戦@日本"

「この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。」マタイによる福音書285-6

 

    毎年春が始まる頃、アメリカではイースターといってキリストが十字架で死なれて3日後によみがえられたことを祝う、復活祭の時期となります。そもそも巷でお店に並ぶウサギと卵はキリストの復活とは全く関係がなく、ちょうど春という新しい命が生まれる時期で、鶏の卵、ウサギなど多産系が春のイースターのイメージとして慣習的に普及しているようです。最近は、日本でも東京ディズニーランドの影響で、イースター(卵とウサギをモチーフにした)商品が売り出され、クリスマスやハロインのように少しづつ浸透していきていると、記事で読みました。日本は、アメリカでの流行りものは何でも取り入れるという面がなきにしもあらず。日本人がイースターの意味を正確に知らなくても、春の行事として日本で定着してくれれば、「イースターって何?」と疑問に思われた時、その由来を知る良い機会となるのではないでしょうか。ただ、クリスマスのように「サンタクロースの誕生日?」と誤って変に普及しないことを願います。ちなみにハロインはキリスト教とは全く関係ない行事です。

 今日はイースター(日曜日)の直前の金曜日で、アメリカやヨーロッパでは仕事が連休のところが多いです。グッドフライデー(Good Friday)といって、キリストが十字架にかけられた金曜日なので、教会で礼拝が行われるところが多いからです。またユダヤ教にとっては過越祭と時期が重なるため、NYはユダヤ人の人口が多いのもあり、お休みのお店も多いです。(そもそも、過越祭自体がキリストの十字架の死を表しているのですが、ユダヤ教の方はそう信じません。)私の会社も習慣に従いお休みで、おかげで今日は家庭集会を昼間に、のんびりと開くことができました。

 現在、月に一回のペースで3−4か所で聖書の学びを開催していますが、参加する方々は皆熱心に耳を傾けて下さり、また女性同士なので、学びの他にお茶やお食事をしながらお話しに花が咲き、時間があっという間に過ぎてしまいます。少人数ですが、割と小さいお子さんを持つお母さんたちとのグループで、横で子供たち同士は遊んでいますし、和気あいあいとした会が持てることを本当に感謝しています。またこの会のために場所を提供してご用意くださる方々あっての会ですので、私はこのような機会が与えられ、そして彼女たちが喜んで聞いて、心が満腹して(霊的に満たされて)下さるのを伺えると、至福の時です。

 今日は特に、グッドフライデーなのでイエス様の十字架で苦しんで死なれた日を想い、その肉体的苦しみだけでも想像を絶する処刑方法でありますが、そのこと以上に、全人類の罪を背負って代わりに罰せられた、つまりすべての人の罪に対する神の怒りを全て受けたことで、神様からイエス様は一時的に、見捨てられたことのその霊的苦しみ、神との断絶(神様は罪があると人と関係を持つことができないので)も味わられたことを説明しました。その大きな大きな犠牲の上に、私は今こうして私たちの罪がすべて赦され、神の子として天国へ向かって聖霊の力で歩めるという恵みを頂いているということを今一度、感謝したいと思います。

 そして、この恵みは、全ての人に向けて差し出されている、あとは信仰で受け取るだけであること。人種とか宗教とか、過去に何をしたとか関係なく、平等に受けることができる、それが福音(ゴスペル、Good News)です。キリスト教は西洋の宗教でもなければ、一部の人の為の信条ではなく、全ての人が、人間を大切な存在として、愛する対象として創造された神様と、罪のゆえに断絶された状態から和解できるように、イエス様が十字架で死ぬ必要があったので、人である限りすべての人に向けられています。そしてイエス様が3日後に甦られたことは、まさに歴史上の宗教的な人ではなく、神の子であった証明であり、多くの当時の証人が復活されたイエス様を目撃していることが聖書に書かれています。この復活を通して、私たちもいつか、天国で新しい永遠に生きる体が与えられるという希望につながる、この世だけの人生ではなく、永遠という視点が多くの人に与えられることを祈りつつ。日本でイースターが流行ってくれることも、本当の復活祭の意味をいつか知るチャンスという点で、期待しています。

Mar. 22, 16 ”ベルギー テロ勃発”

「主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。」 箴言6編16-19節

 ヨーロッパで再びテロが勃発。昨年パリで起こったばかりで、また多くの人々が犠牲になりました。本当に、心が痛み、憤りが沸きます。ご遺族の方々に慰めが与えられ、負傷者の方々の体とこころがいやさるよう祈っています。
 彼らは聖戦(ジハード)だと称し、彼らの宗教を大義名分にしてテロを起こし、人を殺し続けますが、要は彼らは自分たちのやりたいことを、自分たちで作り上げた神々の名のもとに行っているだけなのです。自爆テロをしろと命じる神がいたとしたら、そんなものは神ではないし、悪魔です。悪魔というのは、神に逆らう元天使で、神が人を愛することを邪魔し、人をなんとか滅ぼそうとする霊的な存在です。目に見えないのですが、ある程度超自然的力を持ち、人に悪をそそのかし、欲をはらませ、罪を犯して神を信じないように誘導しますが、必ずしも、表面的には悪いことばかりで活動をしないところもあり、わかりにくい存在です。しかし確実にこの世で、テロを行う人々の背後だけでなく、人々が人殺しのスマホ上ゲームに没頭させるように、互いに争い合うように働いているのです。
 聖書では神が忌み嫌うこと、憎まれることが7つあると冒頭の箇所にあります。テロをする人々はこれらが全て当てはまるでしょう。なぜ神はこれらのことを憎まれるのか?それはご自分が創った大切な人間が、これらのことで破壊され、傷つき、酷い状態になるのが見るに堪えないからでしょう。神は愛の神でありますが、正義の神でもありますので、いつまでもこれらが続くことを許されないのです。では、なぜ今すぐ悪を行う人々を裁かれないのか?それは彼らが悔い改めて、悪い行いをやめ、真の愛の神を信じるよう、たとえそれが少数でもおこるまで待っておられるのです。ですから、キリストを真剣に信じている人は、暴力に対して暴力でかえさず、彼らの為に祈ります。彼らが早く悔い改めて、キリストを信じるようにと、これは奇跡でもない限り起こりえないのですが、私たちは神の奇跡を祈るのです。キリスト教も歴史をみても、大義名分で宗教が使われ戦争がおこされてきましたが、これも人が都合よく作っている神であり、真の聖書の神ではないです。(名前はキリスト教とかクリスチャンとか称しますが、その人の言動をみればわかります。)
 そして、テロを起こす人だけに指をさすのではなく、他の4本の指は自分に向いていることを忘れないでいたいと思うのです。この 「高ぶる目」とか、「兄弟のうちに争いを起こす」という項目が、私の日常生活や教会生活で気を付けないとやりかねないと、引き締まる思いでこれを読みます。先日、女性の聖書の学びが教会であったとき、ちょうどこの箇所を学び、教会内での分裂というのがどんなに深刻なことかという話題がでたばかりです。ちょっとした批判的なコメントが毒をまき、苦い人が集まり、教会で分裂を起こすからです。教会の歴史で、また私が今迄見てきたいくつかの教会でも、悲しい分裂を見てきました。兄弟(信徒同士のこと)は愛し合うことはあっても、争いあってはならないのですが、それができないのが人間の弱さでもあります。ですから、そうなりそうになったら、祈って、互いに和解しあい、キリストを信じる信仰で一致するしかないでしょう。本当に言葉に気を付けないと、私はわりと批判的なことを言いがちなので、いったことを悔い改めます。本当に、言わないように、口(つまり、心ですが)を変えて下さいと、祈り求めます。そして、お互いの徳(キリストの性質)が高まるような言葉を言うように聖霊の助けを頂いて、発していきたいものです。
Mar. 19, 16 ”マザー・テレサの聖人認定”


主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」ヘブル人への手紙218

 

  3月17日。NYの街には緑をまとう人々:緑の洋服、帽子、コスチュームなどが目立ち、パレードも行われていました。セイント・パトリック・デイ(St. Patrick's Day) といって、アイルランドの聖人・パトリックを祝う日だそうです。聖人とは?ローマ・カトリック教会が、殉教した人の中から、特に最高位崇敬対象として「聖人」認定するそうで、殉教してなくても、その人を通して2回の奇跡(例えばその人が祈ったら大病が癒やされる等)があれば候補に含められるそうです。(日本ではチョコの日、バレンタインも聖人です)ヨーロッパでは中世より多くの聖人の日がお祭りとして祝われている伝統があります。残念ながら、昨今のNYではその日、緑の人々がパーティで大騒ぎ、酔っ払いがあふれています。

 「神の愛の宣教者会」を創設し、貧しい人たちの救済活動に尽くした修道女マザー・テレサは、1997年に87歳で亡くなられましたが、彼女は1979年にノーベル平和賞が付与されました。そのマザー・テレサも、聖人と認証されることになったと先日ニュースで知りました。現在、彼女の亡き後も123カ国の610箇所で神の愛の宣教者会」の4000メンバーにより活動が行われ、スピスHIV患者のための家、ハンセン病者のための施設、炊き出し施設、児童養護施設、学校などあらゆる福祉分野にわたっているそうです。

 彼女の神様に用いられた大きな働きの影に、多くの苦悩もあったはずです。彼女のドキュメンタリーを以前見た時も、その一部を垣間見れましたが、今回彼女の手紙が一部公開され、その一部には、神に叫んでも叫んでもお答えがなく、孤独、偽善と疑いへの恐れなどがあった「魂の暗闇の夜」のことが記されているそうです。*1 1946、彼女がインドで上流階級の子女の教育に携わっていた時、汽車で移動している際に突然「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という神の声が聞こえたのが、そのミニストリーの始まりだったそうです。しかし、その後彼女が亡くなる迄、神の声はもう一度しか聞こえなかったと、彼女の自叙伝に記されているそうです。

 神の沈黙。聖書では神に用いられた信仰の人々が、時に祈ってもその答えがなく、あたかも神に見捨てられているかのように思えるときがあると記されています。例えば詩篇という書簡で、古代イスラエルのダビデ王は「いつまでですか?」と叫んでいます。(詩篇13:1-2) しかし、私達が見捨てられていると感じる時にこそ、人ではなく、神にのみ最も引き寄せられている時でもあることは、同様の体験をした方にはわかると思います。その神の沈黙を受けいれるというプロセスは、各々のシーズンに与えられ、苦しいけれどもその期間を通して品性が練られ、神が次にその人へ用意されていることへの準備となることがあるでしょう。神様は耐えられない試練は与えられず、必ず脱出の道も備えると約束がありますので*2人それぞれにふさわしいレベルの試練がその人の霊的成長のために与えられるのでしょう。これは人と比べようがないことで、私と神様の間のこと、また私だけにたいするカスタムメイドの恵みでもあります。

 孤独との戦い。ちょうど7年前、個人的に苦しい時期がありました。誰にも、教会の人々にさえ理解してもらえない身体的・精神的・信仰上の苦しみがあった時、私は今迄の人生で一番神様に叫びました。「助けて下さい、この状況から救い出して下さい」と。そして私には神様の声は直接聞こえませんでしたが、神様は必ず祈りを聞いてくださっているという確信は心の底にあったのです。そしてその一年後には思いがけず、アメリカに住んでいる、これが祈りの答えの一環でもあったと後からわかるのです。アメリカにいても、やはり孤独との戦いは続きます。よく女性一人で対応できたなと、今思うと恐かった状況もありました。誰か一人でも傍に頼れる人がいてくれればと。でも誰もいませんでした。しかし、イエス様が目に見えなくてもいつも横にいてくれたのです。そして結局、自身を理解し、ケアしてくれるのは神様しかいないんだ、と人を頼っては失望しという痛い目にあいながら、神様だけを信頼し呼び求めようという姿勢が、いやおうなしですが、徐々に与えられられていることは本当に感謝です。私は今でも、弱いところは変わりません。

 そして何よりも、イエス様ご自身が、十字架にかかられたとき、ずっと今迄一つだった、父なる神との断絶(人類の罪をご自身に負われたので、神とは一時的に断絶するしかなかった)と、「どうして」に対する神の沈黙*3 という究極の孤独を人の体をもって体験されているので、どんな人の気持ちも試練も理解して下さるのです。マザー・テレサとはレベルがあまりに違うのですが、試練にあうことに意味が在るということ、神様の沈黙はより神様に近づくチャンスだということを、改めて思わされました。

 

 *1 Florence Taylor , 15 March 2016, "Christian Today", "Darkness is such that I really do not see neither with my mind nor with my reason the place of God in my soul is blank There is no God in men when the pain of longing is so great I just long and long for God... The torture and pain I can't explain." マザーテレサの手紙より。

*2 コリント人への第一の手紙の1013

*3 マタイによる福音書2746節「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

Mar. 17, 16
"NY地下鉄の広告"

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」ローマ人への手紙8章1-2節

 NYの地下鉄内の広告で、最近刺激的な内容のものが掲示され始めていることに数年住んでいて気が付きます。アメリカは日本と異なり、公の場で性的な描写や不適切な表現の広告を規制する法律があり、今までは大学や弁護士事務所、病院や商業的広告と行政的告知が掲示されていました。しかし最近、胸があらわな女性の美容整形の広告(豊胸手術の宣伝)が目に留まります。美容整形も病院ですので、許可されてしまうのでしょう。そのポスターに「女性を侮辱するな!」との誰かによる落書きがありました(落書きする人も過激・・・)。
 日本のように表現の自由と称して、性的に露骨な写真、描写が雑誌の広告がまかりとおっていると、「それくらい…」と思われるかもしれませんが、日本の電車のつり革広告が異常であり、人々はそれに麻痺していると思います。これらにより女性を性的商品のごとく扱い、興奮させるという歪んだ性教育が、未成年の時から植えつけられてしまうということに誰も声をあげないのが不思議です。女性にとってこれらは不快です。例え規制があっても、ネット、TV、雑誌と公共の場所で視覚的に入ってくる情報はもはや避けられないですが、時々、刺激的な内容により思い出したくないことがふと、頭に浮かんできてしまうことがあります。クリスチャンとなる前にしたことの記憶ですが、時々フラッシュバックして頭に浮かんでくるのです。それらは既に悔い改めて赦されたことなのに「お前は以前、こんなこともしたじゃないか」といわれんばかりに、また既に相手を赦したはずなのに、突然そのことを思い出して苦い気持ちになりそうになる。
 そういう時は、たとえ私が何をしたとしても、負い目があっても、また昔の嫌な記憶がでてきたとしても、キリストが十字架にかかって苦しまれ、私のこの全ての罪のためにも罰せられ死んで下さったことを、またどんな私の心の傷であれ、キリストのうち傷で癒やされていること*1 を毎回思い出しています。イエス様が弟子たちに言われた”日々十字架を負って、私についてきなさい”*2 とは、自分が避けられない運命の苦しみ、重荷のことを表現するのではなく、信じた後も古い自分が出てきたとき、自分の十字架上で毎回それが死ぬという意味だと、今晩の学びで牧師から、タイムリーに教えられました。そしてふっと出てくる思い自体は罪ではないと。ただそれが出てきた後、思いを膨らましたり、苦い思いに浸ってしまうと、喜びが失われてしまうから、気を付けるようにと。つまり、ぱっと頭に浮かんでも、すぐ聖霊に消してもらえばいいのです。また、自分の日々十字架を追うとは、日々自分がやりたい事に死に、キリストがなさりたいことを選び取っていくことだとも以前聞きました。つまり、古い自分は一度きりでなく、日々死ぬ必要があるのでしょう。十字架の贖いによる救いは一度きりで、それを信じた者は一度で救いが完了です。その後、この肉体を来ている間は、古い自分との葛藤は残り、徐々に聖くされていいくというプロセス(聖化)はまだあるのだから、そのこと自体で自分を責めず、イエス様の十字架を見上げ、敵の声を聴かないようにと励まされました。
 レベルは異なりますが、あの大使徒パウロでさえ葛藤していたとあり*3、古い自分が残っていても、以前のようにそれに支配されず、いのちの御霊の法則で生きることができるのは幸いです。なぜなら、イエス様は十字架で死なれただけでなく、3日目に復活されたように、この復活の力が私のこの古い自分を攻略していくからです。イエス様を信じたとき、外身は同じですが、霊的に古い自分は死んで新しい自分がこの新しい法則の下に生きれます。たとえ、霊と心に時間差があっても、心の古い部分が徐々に変えられ、聖められて行く。つまり毎日古い自分に死んだら、新しい自分の部分が復活させてもらえるのです。これは忍耐して早く心の古い部分が攻略されるよう、祈り続けて、いく必要があります。また、もっと心に留めること、思い出さなければならないこと*4 を聖霊によって促してもらえればと願います。心の陣地は、アメフトみたいに陣地を攻略していくという面があり、新しいキリストのみ心にかなう思いの陣地が広がると、何に刺激されたとしても、おのずとフラッシュバックも減ってくるでしょう。
*1しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。。」イザヤ書53章5節  (彼→イエス・キリスト)
*2 ルカによる福音書9章21-25節
*3 ローマ人への手紙7章19-25節
*4 ピリピ人への手紙 4章8節 「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」

Mar. 16, 16
次世代への継承

「これは次の代に生れる子孫がこれを知り、みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである。」 詩篇78編6-7節

 日本の近代史上、第二次世界大戦、広島・長崎原爆、そして東日本大震災という未曽有の災害を体験した世代は、これらの困難をどう乗り越えてきたかという知恵や教訓を次世代に確実に継承していく責任が問われるでしょう。また平和憲法を持つ日本は、戦争や原爆は2度と繰り返されてはならないと、体験国として世界にも発信していく立場でもあります。

 また、日本の伝統文化・地域文化においても、次世代を担う子供達にそれらを継承し、発展させていくための助成事業が、各地方自治体で実施されているそうです。NYに在住していると、日本の伝統芸術:歌舞伎、能、和太鼓などが時々講演され、日本にいる時以上により興味が湧くという面があり、その芸術性の高さを見るに付け客観的にも感動します。これらは大切な文化遺産だと思わされるのです。

 大切なことを次の世代に伝えていくようにと、冒頭の箇所のように聖書でも記されています。特に紀元前1600年ごろでは現代のような印刷・映像技術もない時代ですので、口伝となるか、パピルス(植物の干したもの)や石に書くか、羊皮紙に写本していくか、風化のためその継承は困難です。聖書というのは、一番古い書簡でその頃書かれていますので、千年以上にまたがる複数の書簡が今の聖書と言う形に編集されているということは、驚きの事実です。これらは人が書いたものであっても、各々が神の霊感を受けて著作し*1、時代を超えても一つのテーマが貫かれ、神様のみえざる手により編集されているのだと私は信じています。

 聖書に書かれていることが継承される目的は、神様に望みをおく為だとあります。所詮人には望みをおけませんし失望します。しかし全能の創造者なる神様に、長期的な視点-この体が死んだあとのことも含めて-に希望をおけることは幸いであり、将来への不安がなくなります。次に、既に神様が私達になさって下さったことを忘れない為とあります。神様のたくさんのみわざの中で一番大事なのは、イエス・キリストによる十字架による私達の罪のあがない、魂の救いです。そして、神様の戒めを守る為だと。神の戒めは、昔は文字により板に書かれていましたが、現代は信じる者には聖霊によって心に書き付けられているとの新しい約束がありますから*2、自分の持ち前の性格や努力では不可能なことでも、聖霊の助けで神様の戒めを守れるということを次世代に励ましていけるのです。

 自身が信仰上での様々な葛藤:神の戒め*3 をとうてい守りきれない弱さに落ち込むとき、結局はいつも神の不思議な導きで助けられるという生きた証が与えられます。また、戒めを守れなくても神に責められず(全ての責めは既にキリストか2千年前に十字架で負ってくれた故)、神様は弱い私を赦し、強めてくれる方であることを、こんな私でもありえたのだから、あなたがたももっと神様が良くしてくれると次世代に神様の愛と神様にある希望を伝えていきたいと願います。


1 第2テモテへの手紙3章16節 「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 」*2 エレミヤ書31章31-34節*3 マタイによる福音書22章35-40節「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。  ヨハネによる福音書13章34節 「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしが愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛しなさい。」
Mar. 13, 16 東日本大震災から5年

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 」ピリピ人への手紙4章6-7節

 昨日震災より5年目でしたので、TVを持っていない私はNHKの海外放送でドキュメンタリー「Decommissioning Fukushima: The Ongoing Battle against Radiation」 (福島原発廃止措置:放射線との継続中の闘い)をネットで観ることができました。その番組では人が入れない高放射線エリアに、遠隔で操作可能のロボットを駆使して、様々な方法で福島原子力発電所の放射線除去のための作業が遅々として行われている映像が紹介されていました。これらは10年単位の廃止の計画で、気の遠くなるような作業のように思えました。防護服を着た多くの人々が危険なエリアに、分刻みで作業をしている様子を見るにつけ、原発を建設し電力をたくさん供給するという商業主義のつけが、このように回って来ていることを改めて知る機会となり、愕然としました。
 5年がたち、あの3月11日の震災と原発事故について日本人の内どれ程の人が、深刻に事態を受け止め続けているのかと思わされました。広島・長崎の原爆とこの地震による原発被害という2度にわたる原子力による被害を受けている国は、世界に日本しかありません。それでも、まだ原発を続ける政府とそれを推進する資本主義的圧力。日本という国は、このような酷い災害にあっても、外側の建物等の復興は早いのですが、一方でそれにより亡くなった人とその家族への補償や心のケア、被爆により苦しむ人々、家を追われた人々への対応は決して早くないのです。
 私のような一市民はこれに対して、何が出来るんだろうかと。市民のデモに対して何の反応もしない政府に失望し、諦めるしかないのかと思いそうになります。しかし、私はこのようなことも神様の御手にあること、私は祈り続けることができると励まされます。それも思い煩わず、感謝をもって神様に日本の必要を祈り続けられると、本日の聖書の言葉にあるからです。そうすると、暗いあきらめの気持ちではなく、人の想像を超えた神様が与える平安により、希望を持って一番必要なこと・大切なことを祈ろうと:一人でも多くの日本人が神を恐れるようにと。「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1章7節)とありますように、神様を恐れず、信じない人は、自分の好き勝手に利益優先で人や自然のことなど構わず電力を作ろうとする。科学力で何でも自分たちで出来るという奢りを持ち、地球を破壊していく。もし、真の神を知り、何のために人が創られたのか、何のために自然が存在するのかを知り、神が人をどんなに大切に思って、この堕落してしまった世の中から人々をキリストを通して救おうとしているのかを知れば、国のGNPとか、経済的発展が第一ではないことも自ずとわかるでしょう。
  かくいう私も、何も分かっていない、無知な者です。しかし、イエス・キリストを通して表される神様の愛は知っていて、頭だけ知るのではく体験的にも生活のなかで知り、希望を持って日々生きられるのは、本当に感謝です。これも聖霊の働きであり、神様のおかげで、求める者には神を信じる信仰さえも与えられるという約束が聖書にあります。* アメリカに在住していても、このことをいつも忘れずに祈り続けようと、再び身が引き締まる思いでした。またちょうど同時期の4年前に、天国へ行った父の誕生日が今日であり、天国でいつか会えることに想いをはせました。

*ルカによる福音書11章9-13節
Mar. 12, 16
誠実な人

「聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。」ローマ人への手紙10章11-13節

「どんな人が好みですか?」というのは、独身の人達に理想の結婚相手や、恋愛対象に「こんな人がいい」という条件を聞き出す時に投げかける質問であります。現代は婚活といってネット上で条件を入力し、マッチングさせ、その中から選んでお付き合いを始めるという時代ですが、アナログの私はついていけません。クリスチャン同士の婚活サイトまであるそうです。

 条件の中で「誠実な人」を希望する人はどれだけいるでしょうか。誠実とは、約束を守る、信頼できる、裏切らないなど色々あると思います。しかし、自分自身も含め、相手に対して誠実であれるかというと、人間は弱さを持つし完璧ではないので、実際そうありたいと思っても、物理的に果たせない場合もあるのではないでしょうか。人は互いに限界がありますし、自分の思ったとおりに動いてくれないと相手に失望します。しかも「自分の思ったとおり」と言うこと自体が自己中心的観念です。

 聖書では、神様は誠実な方であるとたくさんの箇所で記されています。聖書の神様は人間と契約(約束)を結ばれる方であることが読んでいくとわかります。そして、人間側がその約束を破ろうとも、神様の存在さえ罪ゆえに無視しようと、神様の側は約束を破られることはないのです。

 人とこの天と地の全てを創られた神様は、全能の方なので人間とは異なり、私のような小さい存在の状況と全ての人との状況を考慮することが出来、一度に包括的に良いことに導くことが可能です。そして、不思議なことに一人ひとりの意思も尊重され、決して強制がないのです。私はこの主である神様をイエス・キリストを通して信じる信仰が与えられていることで、生きていて唯一の希望があります。なぜなら、神様により頼んで呼び求めれば、どんな状況でも救って下さるし、失望することがないと約束が聖書に書いてあるからです。

  また自分自身には誠実でない面が多々ありますが、信じている対象であるイエス様のような性質に変えられたいと願うものです。変えられなければならない性質は他にもたくさんあり、開発途上ですが、目指すゴール・モデルがあるというのは有難いことです。そして、互いの不完全さを理解した上で、お互い寛容になり、赦し合う必要はどの人間関係においてあると思うのです。これは感情的には難しいのですが、そういう時こそ、神様に祈って助けを求めることが出来るのは幸いです。
Mar. 10, 16 神は笑うのか?

「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う 「われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」と天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう。」 詩編2章1-4節


 以前、笑うことは人の心身に良い影響を与えるという記事を書いたことがあるのですが、ところで神様は笑うのでしょうか。人間のイメージでは、人のように神も笑うと想像しますが、するとどんな時に笑うのでしょうか。少なくとも、私が信じている神様は霊であり、人間のような不完全な体を持っていないので、心身に良い作用となる為に笑う必要はないでしょう。そこで、現在生きている人で誰も直接神様を見た人はいないので、聖書にどう書いてあるかを調べてみました。

 聖書を調べてみると神が笑うという箇所は3箇所で詩篇という書簡にあり*1どちらかというと嘲笑的な笑いとして描かれています。3箇所とも共通しているのは、諸国の王たちが神に逆らって立ち、自分たちで画策している姿や、また悪をたくらむ邪悪な人々が「誰も聞いてないし、すきなことをやるぞ!」と言っているような姿に対し神様はあざ笑うとされています。

 ニュースを見ると日本国内でも世界でも悲しい、恐ろしい事件に目が留まってしまいます。他に感動すること、良い事、心温まるニュースも在るはずなのですが、どうしても邪悪なニュースばかり目立ち、「神がいるなら、どうしてこんなむごいことが」「こんなひどいことをするなんて、どうして悪はのさばるのか」と思うこともがあると思います。

 神様が笑う時は、神様の正義という面に関係があると気がつきました。神様は悪を行う者、神を恐れず人の命をなんとも思わず虐待したり殺したりする人々が「われらを裁くものはないさ」「金がものをいうんだよ」と豪語している人に「そのままにしておかない、必ず裁くから」と神様は天で彼らをあざ笑わられるのです。これは悪がはびこっている様子や不条理がまかりとおることに心を痛めながら、何も変わらないように思えて苦しむ人々を慰めます。いつまで悪は続かず、いつか神様が公平に裁かれ、そして今の世が終わり、新しい神様の治める国がいつかくることを望めるからです。

 一方、神様は愛でもあります。神様はどんな凶悪犯の人でも、立ち返って悔い改めて救われることを望んでおられます。*2 またどんなに善良な人でも真の神を信じることを拒む人は、たとえ何の犯罪を犯してなくても、神の前に同じ罪びとでその信じなかったこと、その他全ての地上でしてきことが裁かれます。つまり、全ての人が、神を信じず自分中心で生きてきたことを悔い改め、イエス・キリストがその罪のために身かわりに十字架にかかり、私達が救われるようにして下さったことを信じれば、救われるとの神の約束があり、ひとりでも多くの人がこの救いを受けいれることを神様は願われています。*3 神様は人のようにゲラゲラ笑うことはなくても、”喜ぶ”ということは聖書に多く書いてありますので、人がイエス・キリストを信じるとき、また求めているときは、喜んで笑みを浮かべておられるのではと私は想像するのです。


*1 詩篇2編4節、37編13節、59編8節
*2 エゼキエル書18章32節「いや、わが子よ、私はあなたが滅びるのを見ることを望まない。私は悪人の死を望まない」、エゼキエル書33章11節「あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。」 
*3 「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」1ペテロ3章9節
Mar.6, 16 その地を癒す

「わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。今この所にささげられる祈にわたしの目を開き、耳を傾ける。 」第2列王記7章14-15節

 本日は、アメリカのテキサスで大きな伝道集会が行われています。100,000人を収容するスタジアムで、ハーベスト・クルセード主催のこの伝道集会には様々な世代の人が、グレッグ・ローリー牧師(伝道師)のメッセージを聞くために集まって、その様子をネットで見ることができます。この場所だけでなく、アメリカのあちこちでこれの生中継が放送されており、ローカルの場所でこの伝道集会を多くの人が見ているそうです。この団体は、毎年アメリカの大都市で、このような伝道集会を開催して、たくさんの人が信仰に導かれてきました。アメリカというのは、何にしても規模が違います。良いことも悪いこともやることのスケールが大規模で、クリスチャンの人口が多いですが、今回の伝道集会で更にイエス・キリストを信じる人がたくさん起こされることが期待されます。
 私がNYで通う教会(Harvest Christian Fellowship NY)はこのハーベストの姉妹教会で、グレッグ牧師は毎年私たちの教会にゲストで来てメッセージをしてくれています。NYの教会の牧師と彼は若い時から親しいそうです。今日の日曜のメッセージは、ちょうど冒頭の聖書の箇所により語られましたが、この伝道集会でも同じ個所がビデオクリップで映し出されていました。
 アメリカの建国時、キリスト教信徒たちが迫害を逃れて、新天地を目指してヨーロッパからこの大陸に移民してきたという歴史があり、当初はクリスチャンの国でした。アメリカの裁判所では、現在でも証言する人が聖書に手をおいて宣誓をするのもその名残です。ところが、最近は様々の人種、宗教の人々が住む複雑な国となり、建国当初の精神が崩れて行っています。当たり前のことですが、人は自分の国のことを考え、自分の国の将来、希望を求めます。アメリカに住んでいると、教会でも「アメリカが神に立ち返る様に!この土地が癒されますように!」と叫ぶ牧師たちがいます。そういう時、私は日本のことを思います。アメリカに住んでいても私は日本人ですから、やはり自国のことを考え、私の同胞が真の神である、キリストを通しての神を信じてほしいと願います。なぜならそれ以外の宗教は、皆人が作りだした神々で、何の力もない人が作った像(イメージ)を拝み、お願いごとをしていることほど悲しいことはありません。アメリカは今でもやはりキリスト教的文化・観念が人々の心に浸透していますが、日本はキリスト教の背景がほとんどなく、神社とお寺の違いも判らずご利益を祈っている人が多いのです。私が時々こちらでお会いする日本人の方々は、聖書も見たことない、教会があることも知らない、クリスマスがキリストの誕生日であることも知らない人達ばかりで、それも驚くに及びません。
 今日の自分の教会の朝のメッセージで、「リバイバルというのは未信者に起こることではなく、信者:すでにクリスチャンである人に起こること、つまり悔い改めて、神の前にへりくだり、祈ること、クリスチャンの覚醒から始まる」と言われて、はっとさせられました。つまり寝ている状態のクリスチャンが目を覚まして、危機感をもって真の神を知らない人々のために祈り始める、するとその”効果”として聖霊の働きで、未信者の人々が信じるように導かれると。私は自分が全く霊的に眠っているなあと、愕然としました。だからリバイバルが起こらないんだと。だから、周りの人に福音を運べないんだ、影響を及ぼせないんだと。こんな自分じゃ、ほんとだめと気が付かされたので、神様に目を覚まさせてくださいと真剣に祈ろうと思いました。私自身がもっと変えられないと。
 今夜多くの人が聖霊の働きによってキリストを信じる決心をされて、大きな祝福がある様に祈りつつ。またアメリカだけでなく、暗闇の中にいる日本の地も癒されてほしいです。神様はその祈りを聞いて、地を癒すとの約束を信じます。 
Mar. 3, 16 ”上からの知恵”

「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。」ヤコブの手紙1章5-6節


 
私は交渉ごとが苦手です。物を買うときに値切るなんて面倒くさいことをするより、多少高くても支払ってしまいます。それで損をしたと思いません、売り手も利益が減ってしまうと生活ができないだろうと考えるからです。特に押しの強い相手との話し合いが一番避けたい状況です。基本的に相手は、自分の思いがあって、それにそって私が動いてくれないと、それを私が了解するまで何度も説得にかかります。私は自分が言うべきことを論理立てて話すのが苦手な上、相手のペースに乗せられて 気がつくと丸め込まれてしまうタイプです。相手に「こうしたら」と勧められると、良く考えず決断をその場でしてしまい、後から後悔します。理想は、その場で決めず、返答を一旦持ち帰り、神に祈った上で同意するか、断わるかできるのですが、それが最中になるとぶっ飛んでしまうのです。
 人が会社のような組織に属し、その中で活動をするのであれば、その方針に従わなければならないのは当たり前のことです。それについて行けなければ辞めるか、もしくは文句を言わずそこに留まるしかないでしょう。しかしそれ以外の人間関係では、お互いの同意のもとに自由があるはずです。たとえ善意であっても、片方の思いの押し付けの関係は長く続きません。さらにクリスチャン同士の関係であれば、「そこにキリストの愛があるのか」が優先的基準となるでしょう。なぜなら「互いに愛し合いなさい」*1 とイエス様は信者達に命令されていますし、教義の周辺的なことやグレーゾーン的なことに関する意見の相違については「信仰の弱い者を受けいれなさい」*2 と使徒パウロも信徒たちに書いているからです。神様は弱い人を助けてくれます。
 先日もある人との話し合いがあって、いつものごとくとなり落ち込む私に、「そうだ、知恵を神様に求めればいいのだ」とタイムリーに聖書で励まされまし。それも神様は「何でお前は知恵がないんだ!」と私の愚かさをとがめることもせず、かえって惜しみなく、全ての人(全ての人です!)に上からの知恵*3 を与えて下さると。神様はなんと寛容なのかなあと、本当に有難いです。ただ神様は悪知恵や自分の欲のための知恵は決して与えないのです。「求めてもかな与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」*4 とあるからです。
 多くの生活の中の小さい決断において、これが神の思いに添った事なのか分からないことがあります。少なくとも自分の損得で考えないように、神がどう思われるか、聖書がどういっているかを基準に、分からないなりに判断したいと願います。そして、不思議と神の思いにそっているだろうというときは、心に平安が与えられます。今回は話す前に、自分の教会の人に事情を話して、ともに祈ってもらって備えました。相手とよい話しあいとなるように、うまくコミュニケーションができるようにと祈ってきたので、私の想定通りではなかったけれど、実は祈りは聞かれているはずです。ただそれが私には見えない全体像の中で他者とのことも神が全てオーケストラしておられるでしょう。そう考えたら、心が晴れました。相手がどうであれ、私の思いが相手に伝わらなくても神に任せようと、これ以上思い煩いに捕らわれないことで心が守られます。私が知恵がなくて多くの失敗をし、言葉が巧みでなく、欠けだらけ人間であるにも関わらず、神は良くしてくださる方であると知っていることは幸いです。難しい相手との関係も神が助けてくださることを信じて、キリストにあって日々感謝して恵みを受け取らせていただこうと思います。
*1 ヨハネによる福音書13章34節
*2 ローマ人への手紙14章1節
*3 ヤコブの手紙3章17節「しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない」
*4 ヤコブの手紙4章3節

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