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信条・Statement of Faith
♪今日の一言♪

Jan. 2011

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



(写真左:ナイアガラの滝、USA側)
ムバラク大統領 5時から女だった私 ステージママ
ケーキの原材料 誰が一番偉い?! 聞くに耐えない話
デトックス(体内浄化)は有効か? 子供の救済に必死な母 it's none of your business!
種まきとよい土壌 親友 欠かせないもの
えこひいき スーダン(アフリカ)という国 小説家:三浦綾子さん December 2010
人を押しのけるく人 蒔いたものを刈り取る 奇跡的和解 November 2010
子供の願いを聞く親 心配なのは健康と仕事?! 私の憧れ October 2010
ミルク代がない!  超高齢出産 映画:レターズ トウ ゴッド(Letters To God)" September 2010
”1年、10年、永遠” A.D. 2011 最初のワイナリーと失敗 August 2010
(以下今月分日付順)
1/31/11 ”ステージママ”
「ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。 そこでイエスは彼女に言われた、『何をしてほしいのか』。彼女は言った、『わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください』 」マタイによる福音書20章20-21節

 ステージママとは?古くは美空ひばりの、最近では宮沢りえや安達祐実の母親等、自ら芸能界等に娘を売り込み、マネージメントする母親のことを言うそうです。なんと、2千年前のイエス様の弟子達の母親にもこの手の母がいたのというのが今日の箇所よりわかります。
 ヤコブとヨハネはイエス様の12弟子の2人でしたが、その母親がずかずか2人をつれて出てきて、「イエス様が王さまになったとき、一人を右大臣、一人を左大臣にしていただきというございます!」とお願いにきたのです。大の大人の母親がずうずうしくそんなことをお願いにくるなと驚きですが、イエス様は「それを決めるのは、わたしのすることではなく、わたしの父(神様)によって備えられている人々だけに許されることだ」と答え、さらに「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。」と言われました。(27節)
 イエス様は、何度もだれが偉いかと言い争う弟子達と、そしてそのステージママに対しても、さげすんだり、しかったりせず、丁寧に答えらる寛容な方だなと。また自ら模範を示して、”人に仕える”ことの大切さ、互いに愛し合うことを教えられ、3年半の間弟子達を忍耐して訓練されました。ましてや凡人で反抗的であった私は、今までどんなにか神様・イエス様に忍耐して頂いたこと、さらに聖霊(神の霊)というヘルパー(助け主)を心に下さっていることはありがたいです。そしてこれからも、私たち一人一人が互いに愛し合えるように成長することを願い、愛して下さることを思うと感謝です。。Praise the Lord!
1/30/11 ”5時から女だった私”
「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 」マタイによる福音書20章1-2節

 私が以前東京でOLをしていたころのことです。同じ従業員のなかで仕事中はおとなしい人、また仕事でそれほど活躍しない人が、仕事が終わった5時以降みんなで飲みにいくと、急に張り切るタイプの人がいて、そういう人を”5時から男(女も?!)”とTVのCMで言われたものです。恥ずかしい話ですが、その頃の私は日中仕事もこなしましたが、5時からも張り切っていました(笑)。
 今日の箇所はイエス様が天国とはどういうものかというたとえです。ぶどう園で働く日雇い労働者が一日いくらと決められて雇われるわけですが、なぜかこの雇い主は、日に何度も市場に出かけていって、そこで自分を雇ってくれる人がくるまでぶらぶらしている人々を何度かにわけてピックアップして雇いました。しかし、朝9時からの人と、12時から、3時から、そして5時から(ほとんど実働1時間くらい)働いた人、みんなに同じ一日分の給料を払ったという話です。9時から働いた人は雇い主に文句を言います。逆に、5時からしか働かなかった人は”えっ?いいんですか?自分は少ししか働いていないのに、こんなにいただいて申し訳ない。ありがたいなあ〜」と感謝したことでしょう。
 このたとえのポイントのひとつは、昨日のブログにも書きましたが、神様の思いは一人でも多くの人が救われて永遠に天国で一緒に生きてほしいということに関係します。一人でも多くを包含するためにも、”あなたは何年以上信じていたから神の国、天国へいけます”のような条件がないのです。クリスチャンである期間の長さによって、神様の側の一方的な恵みである救いには影響しないということです。
 例えば小さいころから教会に行き、キリストを信じてづっと何十年も信者でいる人と、老年になって最後の死ぬ前(Death bed)に初めて信じその後すぐ亡くなった人がいるとします。この老人は若いころから聖書も読んだことない、教会もいかない、神なんか信じないという態度ですごしてきたとしても最後の最後で信じたから、イエス様のことばのとおり、「私を信じるものは死んでも生きる。」となり、「御子(イエス・キリスト)を信じるものが滅びることがなく永遠の命を得るためである」とヨハネによる福音書に書かれている約束が成就します。イエス様と十字架刑に一緒にかけられた強盗の一人が、十字架上でイエス様を信じ、「天国にいったらわたしを思い出してください」といった一言で、イエス様は「今日あなたは私とともにパラダイスにいるだろう」とおっしゃられました。5時から女・男もOKなわけです。
 一方、キリストを信じて従うこの地上での歩みが長ければ長いほど、その人は神様からの恵み・祝福をもっともっと味うことができ、また神様の大きな計画のなかでの一部分にすぎませんが用いられ、「よくやったね、忠実に仕えてくれて」と神様がほめてくださるとも聖書に書いてあり、また天国でその地上での行いに対し報いがあるともイエス様は言われます。私は30代から信仰が与えられましたが、その後もアップダウンがあり、いつも忠実にキリストに従っていたとはいえませんので、まさに5時から女の恩恵を与えられて、本当にありがたく、その喜びが動機で残された人生のなかで少しでも神様のために何か仕えたいと思わされます。Praise the Lord!
1/29/11 ”ムバラク大統領”
「弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、『では、だれが救われることができるのだろう』イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。マタイによる福音書19章25−26節
 久しぶりに観たTVでは、今ニュースでエジプトのムバラク大統領に対するデモの映像ばかり放映されていました。今回のデモの発端等詳しくは私はしりませんが、ムバラク大統領は82歳で、30年も連続でエジプトの大統領をしているそうです(1981年以来、第4代大統領)。現在ゴージャスなパレスみたいなところに自分は住み、貧富の格差のある国民のことは全然無視という状態とのこと。しかし彼の経歴を見ると、若い時代は士官として国の為に情熱を持って働いていたのではとも想像できます。
 人は権力を持ち、裕福になると、以前のような志を持ち続けてがんばるより、自分が贅沢にして楽な生活を望みます。あのロシア革命を起こし、贅沢にふける王族貴族階級・専制主義をひっくり返して民衆の平等をといた共産主義のリーダー達も、いざ自分たちが権力を握ると結局、民衆のことより、自分たちが贅沢に暮らしていたということから、歴史的にもいつもどこかでこのような構図が繰り返されているのを観察できます。
 お金があれば何でも可能という錯覚をもつのは無理もないですが、一方、遺産相続・巨額の宝くじ当選など、多大なお金を握るとトラブルも多いというてんで、お金持ちというのはその管理が大変だと察します。今日の箇所は、当時2千年前のイスラエル人(ユダヤ人)の間では、お金のある人が天国へいけると思われていたのでしょうか、イエス様が「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」といわれると、弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて「では、だれが救われることができるのだろう」といっているからです。しかし、イエス様の答えは、「人にはできないが神にはできる」と。
  つまり救いは、一方的に神様の側の恵みにより可能であり、人の努力やお金で可能ではないということです。使徒(キリストの弟子)パウロも新約聖書のなかの手紙に書いていますが、イエス・キリストを信じる信仰だけで救われるというのが中心的なキリスト教のメッセージです。多くの人にとっては、”信じるだけ”と言われるより、お金を払う(中世の腐敗したキリスト教制度のもとで人々に売られた免罪符)、もしくは良い行い(修行・慈善)をする等、何かすることを条件という、いわゆるハウツー(HowTO)で救われるとしたほうが理解しやすいかもしれません。しかし、そのハウツーや条件をパスできない人々をも包括してくれる、誰でもシンプルに信じればというのが、神様からの恵み。神様がなんとかして一人でも多くの人を救いに導きたいと願っているので、多くの方がキリストを信じるって何だろう?と興味を持って知ってほしいと私も願いつつ。Praise the Lord!
1/28/11 ”聞くに耐えない話”
「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」マタイによる福音書18章19-20節

 あるアメリカの立派な大きな教会にて、アフリカで働いているミッショナリーの人が現地の状況(兵士達による民間人の虐殺・レイプ・拷問・人身売買)を報告し、彼らの活動(現地の孤児の世話、そして現実を世界へ伝える啓蒙活動等)への祈りと支援をアピールしていたとき、「今後、うちの教会でその話はしないでください。みなさん、聞くに耐えない内容で具合が悪くなるとクレームがきているので。」と教会の役員から丁寧に断れたという話を本で読みました。確かに聞くに耐えないほど恐ろしい内容ですが、このクリスチャンと自称している人々が自分の具合の悪くなるという理由で、耳をふさいでしまうという現実も悲しいと思いました。
 一方、私はこういう世界の遠い国でおきていることに関して、自分が何もできない存在、無力だと本当に思い悲しくなります。自分は現在アメリカという豊かな国に住んでいて、平和で、質素ですが満ち足りた生活をしているが、同じ時間帯で、例えばアフリカのスーダンという国で行われている恐ろしい現実を知っても何もできないのです。同時に人はどうしてここまで残虐になれるのか、と悲しい思いに覆われてしまうだけです。
 北スーダンの兵士達だけを責められないのは、つい最近60年くらい前までドイツでもナチスのユダヤ人虐殺、大戦後もカンボジアでのポルポト派によるまたアフリカのルワンダでの虐殺等、戦争と称し、宗教を標榜し同様のことをしてきたからです。兵士を殺人者に洗脳し、大衆にそれを指示させるという手法は昔から政治家・宗教家・権力者がやってきたことです。よく世界史を見てみると、戦争の歴史、人には平和を作り出せたことがないのが明白です。
 そんな私に与えられた聖書の箇所、どんな願いことでも心を合わせて2人・3人で祈れば、キリストがその祈りの中にもおられて、天の神さまはかなえてくださると。イエス・キリストは「互いに愛し合いなさい」「敵を愛しなさい」と言われました。それを正しいと信じる人が増えるように。そんなの何のたしにもならないと見えるかもしれません。実は一番効果があると信じます。なぜなら私たちには力がなくても、神様には力があるから。
 物理的には離れていて何もできなくても、心を合わせて祈ることができ、祈りは時空を越えて神様が聞いてくださる。今たまたま、この情報が与えられているので、北スーダンの兵士が早く自分たちのしていることが正しくないと気づけるよう、祈りたいと思いました。
01/27/11 ”誰が一番偉い?!”
「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか』すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 』」マタイによる福音書18章1‐3

 ある人に、子どのものように素直に、シンプルに神様を信じる話しを私がした時、「私はもう大人だし、そんなこといわれても自分が納得できないことを素直に信じろと言われても難しいよ」と言われました。私は聖書に書いてあることをそのまま説明しましたが、「聖書だって人が書いたんだから本当に正しいか、解釈も異なるし、また間違っている可能性だってあるでしょ?」との意見。神様・キリストを信じる信仰がないと、聖書はただの哲学や道徳の本であり、その読む人自身の価値観で良いか悪いか、自分はこれを取るか取らないかを決めることになります。現代は特に人によって考えが異なるのをよしとする、相対主義的な考えがポピュラーです。
 イエス様の弟子たちは、幾度か「誰が一番この中で偉いのか」という議論をしたり質問して、イエス様にピシッと今日の箇所のような逆説的なことを言われ、続けて「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」と答えです。個人差はあれ人はみな私も含めて偉くなりたい、自他ともに何かの分野で認められたいという思い、そのプライドでもって自分を保つ。しかしイエス様は低くなること、逆のことを言っておられます。
 一方、ここで幼子ならだれでもというわけでなく、しつけられなければわがままであり、自己中心の塊です。ようは幼児のある性質・態度のことをイエス様はいっているわけです。自分はいくら頑張っても大人と比べて力がない、扶養していもらっている身分、それを無意識でもとにかく親に頼るしかないし、親がきっと自分によくしてくれて愛してくれる存在、だから従おうと別に誰が教えたわけでもなく、健全な親に育てられていれば子供はおのずとそうなります。この親子関係のように、人がすべて神様に信頼し、そして自分の人生の歩みをベストへ導いてくれる方だと信じ、従うという態度のことを言っているのではないでしょうか。大人である私たちは、経済的にも精神的にも自立していれば自立しているほど、困った時の神頼み程度で、神様は必要ないと思うのかもしれません。
 また、この箇所の”幼子のように心を入れかえる”とはどういう意味でしょうか?人の生まれつきの思い、つまり自分は自立している、神様はいらない、自分の価値観でで良い悪いを決めるんだという思い・態度が実は正しくないとわかる。そして神様が自分をそもそも愛するために自分を創った方なんだと、だからそのメーカーが決められた、人にとって何が良いか悪いかの基準が正しいと分かった時、今までの自己中心的・傲慢な態度を悔い改めることです。イエス様は地上で宣教を開始したとき、「悔い改めなさい、天の国は近づいた」と言われました。悔い改めとはただの懺悔や後悔とは異なります。どうやってこんなことが”わかる”のでしょうか?私はイエスさまの愛を知った時”わかった”のです。私の今までの正しくなかった態度による様々な罪のために、それを責めるのでなく、私の代りに十字架で罰を受けて処刑されたこと、そして復活されて今は天国におられることが。その大きな犠牲、そこまでとは、私のためとは、そんな愛があるなんて知らなかったのです。
 聖書は神の霊感によって書かれたものと聖書に書かれていますし、聖書は数千年にわたり、多数の著者による複数の書簡の集大成です。今の形にまとめたのは人ですが、その人の選択のプロセスにも神様が働かれていると思います。監修は神様。いまだに私は分かっていないことだらけで、一生が学びです。神様がどういう方かを学び、キリストの愛に従って生きることを、幼子のようにもっともっと神様に頼るという姿勢を学ぶために。Praise the Lord!
1/26/11  "ケーキの原材料"
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 」ローマ人への手紙8章28節

 今日も朝から大雪。。。とりあえず超低速で用心しながら職場へ車ででかけました。道路はひどい状態で、雪はばんばん降り続き、クリニックにつくやいなや患者さんたちがキャンセルしたいという電話がなり、結局苦労して行っても今日の仕事は半日で終了です。
 天候ばっかりは仕方がないのですが、もうひとつがっかりだったのは、明日木曜のお休みの日、女性のための聖書の学びを教会で開こうと、私ははりきって!?祈って準備していましたが、明日の朝まで雪が降るとの予報で、キャンセルせざるを得なくなりました。出鼻をくじかれたかんじで、プチ落ち込み。。2月も例年雪が多いため、毎回天候のせいでキャンセルになるのかなあと暗くなってしまいました。そんな小さなことでへこんでいる私に今日与えられた聖書の箇所がこれでした。予定とおりにいかない、また悪い状況があっても、神様はあとになって結果オーライにしてくれるから、大丈夫だよと。
 ケーキを作っているお母さんの横で、子供が原材料を味見した話。ケーキの原材料である小麦粉、生卵、砂糖、ベーキングパウダーは混ぜ合わせる前は、個々に味見すると、砂糖をぬかしてあまりおいしくないのです。しかし、それらをよく混ぜ合わせてオーブンで焼くと、とってもおいしいケーキに変身。このように、私たちの生活のなかでも、さまざまな出来事:個々はよくないことでも、神様がうまく混ぜ合わせ、”危機”という熱で焼かれると、いい結果を生み出すというのです。この聖書の箇所の解説("Our Daily Bread, 60 days intro. edi.", Day 26)に、このたとえが書いてありましたのでご紹介。
 ところでこの”万事益となる”という文章の主語は”神様を愛するものたち”、つまり神様を信じている人が主語です。しかし、私の人生でふりかえると、以前、神様を信じていなかった時代の多くの無駄だと思えることや苦い経験も、なぜか今神様を信じる信仰が与えられたずいぶん後になって、それらがミックスされて無駄にならずに、益になったりしているところがあるのが励ましです。神様は私が信じていないとき、迷っていたときでも、ケアしてくださっていたのです。神様の視野・計画は一人一人の現在過去未来を見据えて、他の人との関係もからめて、万事益として下さるという希望がわきます。ということで、明日は家にこもります。ケーキでも焼こうかなと。Praise the Lord!
1/25/11  "none of your business!"
「彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。 」マタイによる福音書16章12節

 今日はある人から興味深い話しを聞きました。その人は用事があって某氏を訪問した際、彼の家族で教会を経営?していて、身内の牧師が高級車(あえて名前はいいませんが、アメリカ大統領が代々専用車として使う車)を2台持っていると自慢げにいうので、その人は「何も2台も持たなくたって。。。」とつい言ってしまったそうです。次回訪問した際、彼は牧師からその人への返事を伝えたそうです。「お前の知ったことではない(it's none of your business!)、おれが2台持つのにどれだけふさわしいか知らないくせに!」と。
 アメリカでびっくりすることは、ある一部の教会の牧師や伝道師がものすごく裕福に暮らしていることです。ある人は癒しの能力を持ち、癒し料みたいにお金を信徒からまきあげ、教会のためでなく、自分の私利私欲に使いつつ、平気で都合のいい神様の話し、聖書の話をしている人がいることです。私は牧師・伝道師はつつましくすべきとは思っていません。ポイントは信者の献金で、けた外れの裕福のな暮らしをするということは、イエス様の教えとその教師である彼らの生活態度がかけ離れているし、人にそれを指摘されると反撃し、自分の偽善に気がつかないということです。中世ヨーロッパのキリスト教もそうでしたが、お金というのは堕落の元であるのというのは悲しい現状です。
 今日の箇所は、イエス様が当時パリサイ人・サドカイ人といって、聖書や信仰生活を人々に教える宗教家達のことを”彼らの教えに警戒せよ”とパン種にたとえて弟子達に言われました。悪い教えは、イースト菌のように膨らみ、人々に悪影響を及ぼすということです。イエス様は民衆に対して、特に社会から疎外されている人々や女性・子供に近づき、彼らの必要を満たし非常に憐れみ深い、同情心のある方でしたが、対パリサイ人やサドカイ人、律法学者には非常に厳しく、彼らの偽善性を特に非難されていました。
 もちろん、私にはそういう人たちを裁く資格はありません、私も罪人ですし、人に何かを指摘されるとむっとしてしまうという防衛反応が働きますし、偽善的になることも多々あります。でも後から、良心が聖霊によってつつかれます。それは正しいことか?と。そしてだめおしで、聖書を読んでいるとちょうどそれを指摘される箇所を読むことになり、悔い改めに導かれるのは、ありがたいことです。悔い改めも神様から与えられるプレゼントです。いつも自分自身も偽善的にならないように、反面教師で気をつけたいなあと。
1/24/11 "子供の救済に必死な母"
「そこでイエスは答えて言われた、『女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように』。その時に、娘はいやされた。」マタイによる福音書15章28節

 人からすごいじゃん!とほめられると〜といい気持ちがしますよね。”ぶたもおだてりゃ木に登る、ぶ〜”というのがTVで子供のころはやっていて、”へ〜豚も木に登れるんだ”と子供ながらに思いました(時代がばれる)聖書のなかで、イエス様に「あんたの信仰はすごい!」とほめたられた人が二人いて、以前のブログにローマ軍の百人隊長のことを書きましたが、今日の箇所がそのもう一人で、ユダヤの隣国であるカナン人の女性。
 当時ユダヤ人にとっては外国人とは関わりあいを持たない慣習があり、話もしない・無視という状態。しかし、彼女はどこかでイエス様のうわさを聞いたのでしょう、イエス様はユダヤ人として生まれましたから、彼女にとってはイエス様と弟子達へ近づくことさえ勇気がいります。しかし彼女は悪霊にとりつかれ苦しんでいる娘を癒してもらいたい一心で、イエス様にHelp! Help!としつこく叫びながらついてきたので、弟子たちも困り、またイエス様も最初は冷たい?と思われる態度を彼女に示されました。しかし、彼女はあきらめず、おこぼれでもいいから外人の私の願いを聞いてくれと、ひれ伏してイエス様に頼むと、イエス様は彼女の信仰をほめられて、その瞬間、家にいた娘は癒されました。
 当時は精神科医も病院も存在しませんから、だれも苦しんでいる少女に沈静剤を打ってくれないし、興奮状態を抑える薬も存在しません。悪霊にとりつかれるという状態は、わかりやすくいうと映画でいうエクソシストでの少女までいかないとしても、正気を失って暴れてしまい、閉鎖病棟で縛られて苦しんでいる人のイメージに近いでしょう。自分の子がそんな状態だとしたらどんなに親も苦しいことでしょう。
 この箇所から学ばされたのは、自分にはお願いする資格がないとか、まだ神をよく信じていないから祈っても聞かれないとかに関わらず、しつこく願えば神様が祈りの答えを必ず与えて下さるという励ましです。キーは”キリストなら何とかしてくれる!”というシンプルな信仰と、低くなってお願いすることです。逆に低くない態度とは”私は、これだけいろいろやっているんだから、聞いてくれったっていいでしょ?神さま!”(→私は無意識のうちのそういう高ぶった思いで祈っていたことが過去ありました。)教会へ長くいっているからとか、神学校へいったとか、世間でステイタスがあるとかでその人の信仰を神様はほめないと思います。またほめられた二人は自分のことでなく、他者のために一生懸命願っていたというのも二人の共通点。
 一方、自分のことのためのお願いで、しつこく祈らなったのに聞かれることもあります。(もちろん、その場合信仰はほめられませんけど)以前、私はキリストを信じる信仰がなく、キリストに従おうとも思っていなかったときの小さな祈り、それも一度しか祈らずその後忘れていたのに、あとになってかなえられていたということがよくあります。つまり、私の信心深さとかとまったく関係なく、聞かれる理由は神様がやさしいかた、あわれみ深い方、私を愛してくださっているから願いを聞いてくださる方だからで、すべて神様の側と関係があるのです。今は人からほめられたり評価を得たいと思いません。何かいいことがあったら”神様はすごいね!神様ありがとう!”とお互い言い合えるのがいいなあと!Praise the Lord!
1/23/11  "デトックス(体内浄化)は有効か?"
「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであってこれらのものが人を汚すのである。」マタイによる福音書15章11,17−20節

 私の家のハウスメートの一人が、21日間デトックスキットを購入しダイエットを始めました。デトックスとは体内に蓄積された毒素を排出し、体を浄化させることだそうです。私達の生活環境の中にはたくさんの有害物質(特に金属)が存在し、普通にスーパーで購入し食べいる食物や環境から、知らず知らずのうちに有害物質が身体に蓄積し、それが万病(アレルギー・代謝異常・がん等)の元になるとのこと。
 イエス様は当時、食事の前に手を洗わなかったこと(このしきたりはお清めみたいな、人間が後から作った宗教的きまり、同時に衛生的知恵でもありますね)を宗教家に指摘されて、今日の箇所を言われました。口から入るものは人を汚さないと。かえって口から出る言葉が人を汚すのだと。もちろん、化学物質の開発により2千年前と現代では環境汚染のレベルは驚異的に高く、近年の子供にアレルギーが多いのは、お母さんの代からの体内に蓄積してきた有害物質に関係あると想定され、外からのものも体を汚しているのは確かでしょう。一方、人間の体というのは想像以上に免疫力、解毒力のメカニズムを持っていることも確かです。
 このようなデトックスによって体を浄化することは、ある程度可能で健康になれるかもしれませんが、一方他人から言われた一言で傷ついた心はなかなか癒されません。言葉を発した本人は、なんともおもわず、もしくはすっきりしていたりして、しかし言われた方はにがい思い、苦しい思い、責められる思いが残り、ひどいケースだと精神的な疾患を発症させます。まさに、イエス様が言われたとおり、口からでたもので相手の心を汚してしまい、それを浄化するのは困難ではないでしょうか?
 ちょっとしたごまかし、嘘、”ばかじゃない”とか相手に放つことば、また子供どうしだと”お前なんか死ね!”なんていってしまう言葉。これらの相手に対する破壊力が莫大です。私はある時から”ばか”ということばは言わないようにいます。小さいウソも以前はついたり、ちょっとしたことはごまかしていたこともありましたが、今はウソはつかず全て正直に謝ることにしています。その方が、私の心もすっきりするし、相手をも汚しません。ハウスメートのデトックスがうまくいくことを願いつつ、私も聖書のことばを心に蓄積し、有害物質が心に溜まって吐きださないよう、神様に助けを祈りたいと思います。Praise the Lord!
1/22/11 ”欠かせないもの”
「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」 エペソ人への手紙3章19節

 自分にとって捨てられない物・かかせないものは何かと考えたことがありますか?ちなみに私は甘いものを食べることです。これだけはなくては困るもの。お金、家、趣味、仕事、恋人とのデート、レジャー、ゲーム、インターネット。悪い習慣であれば泥酔、麻薬、盗み、暴力、かけごと。もし心にうめなければならない、満たされたいという空間があるとしたら、いずれにしても、これらのどれかでは決して心の深い部分を満足させることは出来ないと思います。私も色々スポーツ・レジャー・旅行等試しましたし、楽しみました。しかし、楽しみは一時的で、もっともっと良いものをはないかと求め続けなければならないし、きりがないので、ある時期そんな状態に虚しさを覚えたものです。
 結局、私の心を100%満たしてくれたものは、キリストの示された愛でした。この愛は自己中心的ではなく、互いに愛し合いなさいと言う、人との関係で表されます。今日の箇所「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(19節)とあるように、神様の愛で心を満たされると、生活の中で状況や環境に左右されにくい安心感:神様を信じて任せようと思えます。また、禁欲主義のような我慢するとか、強制でするのでなく、その他の物は色あせるので、以前のようにそれらで心の隙間を見たしたいと自然と思わなくなります。虚しさや寂しさ、また恐れというのが神の愛によって消されていくのは不思議です。もっと良いもの・キリストの愛の実践を求めるように変えられていきます。
 決してキリストを信じたら全てがハッピーというわけではなく、困難なことは以前としておこります。しかしその困難を通してさらに神様に助けを求め、思いもよらない解決が与えられたりするので、求めれば求めるほど喜びと神様への感謝がわいてきます。神様は決して見捨てないし、逆に愛で満たして下さる方であることを個人的に体験していくプロセスでもあります。
 自分で努力すること、勤勉に家族の為に働くこと、それらが出来る健康や環境が与えられているのはすばらしいことです。たとえそれらが現在与えられていなくても、不自由な状態であっても、心の深い部分での神様への信頼があれば、その愛で静かに満たされることのすばらしさは味わえます。それを知らない方は是非求められることをお勧めします。私も日々神の愛を心に注いでもらいたいと願いつつ。Praise the Lord!

1/20/11 “親友”

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。…わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」ヨハネによる福音書15章13-15節

 

今日は教会のメンバーの女性(80歳代)が入所しているナーシングホーム(高齢者向け施設)へお見舞いに牧師達と行きました。私は以前日本で同じような介護老人保健施設(高齢者向けの施設)の相談員として働いていたのですが、あの時は施設のたち上げで異常に忙しくて、利用者やご家族のかたにあまり親切に接する余裕がなかったことを申し訳なく思います。

彼女は軽度の認知症もありながら、お一人で犬と暮らしていましたが、先日家で脳梗塞で倒れていたところを発見され、病院へ運ばれました。幸い軽度だったようで、今日お会いした限り、言葉の普通に話せ、歩行も不安定ではありますが、近距離なら歩けていました。一緒に皆で彼女の好きな「いつくしみ深き」という讃美歌を歌い、彼女は涙を流して喜んでいて、この讃美歌の歌詞が本当に心にしみました。

1.      いつくしみ深き友なるイェスは
罪とが憂いをとり去りたもう
心の嘆きを包まず述べて
などかは下ろさぬ負える重荷を

2.      いつくしみ深き友なるイェスは
われらの弱きを知りて憐れむ
悩み悲しみに沈める時も
祈りに応えて慰めたまわん

3.      いつくしみ深き友なるイェスは
変わらぬ愛もて導きたもう
世の友われらを棄て去る時も
祈りに応えて労わりたまわん

 たとえ、彼女が認知症であっても、神様はこの讃美を聞いて下さっていて、彼女をTakeCareしてくれているはずです。この讃美歌は病気や、試練を通っている方に、ぜひ聞いてほしい歌です。イエス様は神の子だけど、私たちの友でもあるというのは、親近感がわきます。まさに、その友(→私たち)の為にキリストは自分の命を十字架で捨てて下さった。これ以上の大きな愛はあるでしょうか。Praise the Lord!

1/19/11 ”種まきとよい土壌”
「また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。マタイによる福音書13章23節

 私は植物の世話、いわゆるガーデニングは苦手です。まめに水をやって、肥料をやり、花をさかせ実をならせるため刈り込みをする、虫がつかないように殺虫剤をまく(しかし農薬をまいた野菜は食べたくないですよね、花は見るだけだからいいけど)、ようはまめでないのです。
 イエス・キリストは譬え(たとえ)でよく神の国のことを語られましたが、今日の箇所はあるひとが種をまくために出て行ったというたとえです。種は小さくても、成長すると実を結びますが、他の悪い地に蒔かれた種(道端、岩地、棘のなか)は実をむすばないまま。まるで私の心のようだなあと。種とはみことばで、蒔かれる土壌の状態が私の心。聖書のことばを読んで、喜んで聞いても、それを生活のなかで適用しないということは実を結んでいないということだと教えられました。具体的に実とは「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」で、(ガラテヤ人への手紙5章22-23節)要は神様の愛の実践、生活の適応は実を結ぶことだと。
 今日も、祈ったことが聞かれているのではという実感があり、やった!と思ったり、その後ある人と電話で話していてむっとしてしまったり。。。アップダウンがあります、正直。心の土壌を良い地に耕やかして頂きたい。また、「成長させて下さるのは神」であると、他の箇所でパウロというお弟子は書いていますから、そこに一筋の希望を持ちたいと思いました。Praise the Lord!
1/18/2011 ”小説家:三浦綾子さん”

「…『わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。 しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。』」創世記45章4-5節

私は、MIXI(SNS)の”三浦綾子さん”という彼女が好きな人のコミュニティに入っていて、みな彼女の小説(代表作:氷点、塩狩峠等)を読んで感銘を受けた方々のコミュです。彼女は小説を通してクリスチャンだけでなく、多くの人々に影響を与えています。私もその一人で、母も”氷点”という小説を読んで、その主人公の名前を私につけたほどです。韓国語にも訳されていて私の韓国人の友人にもファンがいます。
 今日読んだ、デイリーブレッドというサイトにて書かれてあったものの引用ですが、イギリス国王、ジェームス一世の牧師だったルイス・ベイリーの著書で、「文章を通して良いことをしたいと願う人は、それが非常に困難だと気づくでしょう…それゆえ、良いことを広める最強の手段とは模範を示すことです…身近な人に著作でよい影響を与えることができるのは、千人にひとりいる程度でしょうが、品性ある生き方の模範となることは誰にでもできます」と述べています。
 三浦綾子さんのような影響を与える小説家は、千人いや万人に一人だと思います。彼女の小説は心の深いところに何か語りかけるインスピレーションがあります。私は彼女が信じているイエス・キリストの力によって、神様の霊(聖霊)によって、あのような小説を書ける才能が与えら、著作をたくさん出版できたのだと信じます。しかしこの牧師が言う、”品性のある生き方の模範となることは誰にもでもできる”のでしょうか?私は自分の持ち前の性格をしっているのでとても出来ないです。もちろん、生まれつきすばらしい温和な、人徳のある、聖人みたいな人はいらっしゃるでしょう。私のような凡人にとっては、悪い影響を与えてしまうことはあっても、それこそキリストを信じて、キリストの生き方に従おうと求め、神様の力で品性が変えられない限り模範なんて不可能です。
 今日の箇所は、兄弟に奴隷としてエジプトに売られたヨセフが、神様の導きでなんと、20年数後にはエジプトのファラオにつぐ権力者となって、当時飢饉で食べ物が無くなった人々に食糧を売る采配を握る地位になっていました。そして食糧を買いにきた兄弟と再開。神様の計画は、兄弟の悪だくみを家族全員を救う良いことに変えてしまうことも可能です。いい影響を与えるような人になるチャンスは、誰にでも開かれていると思います。しかしそれは、神様の助けによって、イエス・キリストの示された愛によって可能なのではないでしょうか。Praise the Lord!
1/16/2011 ”スーダン(アフリカ)という国”

「さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。 …その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。 ・・・彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた。 」創世記39章1-6節

 先日、私の家のオーナーがサポートしている宣教団代の創始者(アメリカ人女性)が書いた本を借りて読みました。その団体は、孤児の人身売買が行われているアフリカ(スーダン)にて、孤児を守るために活動しており、特にスーダンは南北で長期間戦争が続き、身の毛もよだつ恐ろしい状態。その活動に関わる宣教師達は自分の命が危険にさらされてでも、神様からある時示されて活動を始めたそうです。正直、最初の5分の一を読んで、国全体のあまりの悲惨・混沌状態が事実として描かれ、これ以上読み進めるのが困難なほどヘビーでした。でもこれが現実で、この人達は特別に神様からこれらの孤児を暗闇から救うよう呼ばれたんだなあと。
 奴隷制度はどうして始まったのでしょうか。(すごくヘビーな、書き出し。。)古代から人は権力をもつと、自分のものでないものを所有しようとする傾向があります。そもそも神様が創られた人間をだれ一人所有する権利は他人にはないはずです。しかし、人の欲の追求が結局奴隷制度を作りあげ、この21世紀になってもいまだアフリカや東南アジアでの人身売買や、アメリカでも奴隷のような待遇で農家や工場で働かせられてきた違法移民の人々が存在するというのは非常に悲しく、恐ろしいことです。
  今日の箇所は、親の偏愛を受けて兄弟達から妬まれ憎まれて、奴隷として売り飛ばされた10代のヨセフが、エジプト人に買われた話しです。しかし、彼の場合、神様(主)がともにいたので、待遇が非常によい奴隷で、主人はヨセフに仕事を任せるとすべてうまくいくので、次第に家全体の管理を任せるほどまででした。しかし、ある時、主人の奥さんがヨセフにいいよってきて(ヨセフはハンサムだったとかいてあります)、それを断ったため、奥さんの策略により、ヨセフは無実の罪を着せられ、牢獄に入れられてしまいます。
 なぜ、神様はこんなことがはびこるのを黙っておられるのだろう、と理不尽な思いにかれることがあります。スーダンの子供は生まれた時からこのような環境で、かれらのせいではない。またヨセフも奴隷として売られ文句もいわず、主人にまじめにつかえていたのに、またここで無実の罪で牢やへいれられて。。私にはわからないし、聖書にかいていないことはわかりません。しかし、奴隷制度を作ったのは神様ではなく、人間です。戦争も、人身売買も、冤罪も。一つだけ私にとってはっきりしていることは、これらのことが人の欲によってはびこり、虐げられる人々が起こった時、神様はその人たちを見捨てないはずだと、なぜなら神様は誠実な方であるから。部分的にみると不公平であっても、神様の大きな視野や計画のなかで私たちの想像できないところ(それがこの世でか天国でかわかりませんが)で、神様が取り扱って下さっていると信じつつ、私にはスーダンのために何もできないけれど、孤児の為に祈ろうと思わされました。Praise the Lord!
1/15/2011 ”えこひいき”
「ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。 兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。」
創世記37章3-4節

 兄弟のなかでえこひいきをされていると思ったことがありますか?私は妹と二人姉妹ですが、妹は大人になってからこう言ったものです。「ママはね、小さいときからお姉ちゃんのことは”ちゃん”づけで呼ぶけど、私は呼び捨てなんだよね、この違いは何よ?」このことだけでなく、他にも妹は子供ながら親の扱いがお姉ちゃんのほうがひいきされていると思ったらしいです。もちろん当の私はぜんぜん気がつかなかったですが。
 親といっても、人間ですから完全ではないです。同じく子供として愛しているつもりでも、子達のなかでもやはり自分との相性はあるとよく聞きます。わけ隔てなく子供を育てようとしても、無意識にしてしまうこともあるでしょう。しかし、その偏りを味わった子供も、自分が大きくなって人の親になった時初めて、親の立場や子育ての難しさがわかり、自身の親の弱さも理解できるのではないでしょうか。
 今日の箇所はイスラエル(ヤコブの新しい名前。今のイスラエル人のもと)は年をとってから授かった子供:ヨセフを、非常に偏愛したようです。兄たちはその偏愛に嫉妬。人間の嫉妬というのは怖いもので、兄弟であってもその嫉妬による憎悪のゆえに、10人の兄たちは、ある日ヨセフをぼこぼこにして穴に投げ入れ、さらに殺すより奴隷に売ったほうがいいと、エジプトへ行く途中の商人に売り飛ばしてしました。そして”ヨセフは野で獣に殺されたんですよ”と、シャーシャーと兄たちは父イスラエルに報告。恐ろしいですね。。。でもこのあと、いろいろと面白いドラマが展開します。
 聖書には、神様からの知恵は”かたより見ない”とかいてあります。どうしても親子関係に限らず、えこひいきってしてしまいがちですから、神様から知恵を与えていただきたいと思わされます。「しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。」(ヤコブの手紙3:17) Praise the Lord!
1/14/2011 ”奇跡的和解”
「さてヤコブは目をあげ、エサウが四百人を率いて来るのを見た…みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。 するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。」
創世記33章1-4節

 人から恨まれたことがありますか?もしくはこちらは何もしていないつもりでも逆恨みやねたまれて、その人と接する時に非常ないや〜な緊張感が漂よい、会うのを避けたくなるような、恐れ。
 私はキリストを信じる前(教会には行っていただけで信仰を持っていなかった時代)、友人を裏切って傷つけたことがあります。その人は、私が若いころアメリカに留学時代の付き合いで友人だったのですが、私がしてしまったことで、その後日本でその仲間とその人も含めて集まった時、その方は絶対私の顔をみないし口も聞きません。共通の友達もそれを知っていて「つらいよ、2人とも私の友達だから。。」と言っていました。私は赦してもらえないと覚悟していましたが、神様に悔い改め祈りました。できるならその方に謝るチャンスを与えてくれますようにと。。。
 数年経って、私がその人に謝る機会があり、なんと彼女は私を赦してくれました。もうどんなに嬉しかったか!づっと心の暗い部分として残っていたものが取り除かれ本当に心に平安が与えられました。そして今では再び友人として会ってくれて、私が病気になった時も、心配してかけつけてくれました。
 今日の箇所は、ヤコブが約20年振りに故郷へ自分の家族をつれて戻る時、ヤコブに騙されて恨んで殺してやる!とまで誓っていた兄といよいよ対面しなければならない場面です。ヤコブは今まで自分の力や策略でなんとか問題を切り抜けてきましたが、こればっかりはどうしようもない。そういうところにきて、神様に祈って助けて下さいと求めました。すると、なんと兄エサウのほうが走ってきて迎え、ヤコブを抱き、共に泣いたというなんとも感動的な兄弟の和解となったのです。
 相手を赦すということは、時には難しいでしょう。私は恨まれてあたりまえの者だったのに赦されるという立場に立ってみると、自分にも誰かを赦すという場面が出てきたときに、このことを思い出そうと思います。ましてや、人にも、神様の目にとって正しくないことをしてきた私の罪を全て、イエス・キリストのゆえに赦して下さった神様の愛をいつも思い出そうと。そして、神様が私や相手の心をも和らげてくれるという奇跡を起こしてくれるという希望、つまり互いに愛し合う、隣人を愛するという目的のためには、神様は必ず助けてくださるという希望を持ちたいと。Praise the Lord!
1/12/11 "蒔いたものを刈り取る"
「朝になって、見ると、それはレアであったので、ヤコブはラバンに言った、「あなたはどうしてこんな事をわたしにされたのですか。わたしはラケルのために働いたのではありませんか。どうしてあなたはわたしを欺いたのですか」。 創世記29章25節

人にだまされたことがありますか?
今日の箇所は、前回お父さんとお兄さんを騙して、神様からの父親をとおしての祝福をゲットしたヤコブは、その後怒り狂うお兄さんから逃げて、遠い親族のもとへ行きました。そこで、恋に落ちた女性をお嫁にもらうために、その父ラバンのために7年間働くと約束。そして7年後の婚礼の夜、ラケルとやっと一緒になれた!と翌朝明るいところで顔を見たら、なんと横に寝ているのはラケルではなく、彼女の姉レアでした。ラバンにだまされたのです。ラバンはそ知らぬ顔して、もう7年私のために働けば、娘を二人とも嫁にやるよと。
 上手には上手がいるものです。ヤコブは、この時しゅうとに怒りましたが、しかたなくもう7年働きました。ヤコブは自分自身がだまされて、人からそれも、信頼している愛している家族からだまされた、裏切られたときの気持ちがわかったでしょうか?神様はヤコブを愛しているからこそ、親が子をしつけるように懲らしめとして、様々な困難も通らさせたのではないでしょうか。
 神様はイエス・キリストのおかげで、どんな罪でも神様の前にごめんなさいと言えば赦してくださるかたです。たとえ人殺しで、被害者の家族が赦さなくても赦されます。しかし、神様は愛する子に成長してもらいたいから、他人を愛せるように変わってほしいからとという動機で、悪いことをしたことに対する、蒔いたものへの刈り取りも用意されるときがあります。それは日本的にいう、ばちがあたった、因果応報とは異なる次元で,これらの考えは悲しみと罪責感しかもたらしません。
 神様からくる刈り取りはつらいときもありますが、その痛みを通して学ぶ必要があるんだと私も、過去に自分がまいたことへの刈り取りであろうというものを経験しました。でもそれは愛するからそうしてくださるという、そして、本当はもっと最悪の罰を受けるべくものなのに、キリストのゆえに無罪放免としてくださる、その神様の憐れみ・恵みとして受け取りたいとと願いつつ。Praise the Lord!
1/11/2011 ”人を押しのける人”

「イサクは言った、『あなたの弟が偽ってやってきて、あなたの祝福を奪ってしまった』。 エサウは言った、『よくもヤコブと名づけたものだ。彼は二度までもわたしをおしのけた。さきには、わたしの長子の特権を奪い、こんどはわたしの祝福を奪った』」創世記27章35-36節

 私は個人的に、押しの強い人は苦手です。つまり、自分のペースで相手にもこうしろあーしろと相手の状況を考えず指図し、またそれが対等な関係ならまだしも、そういう人が上に立たれると、従わざるを得ないので、ストレスとなり胃が痛くなる。逆に、ある人にとっては私のような人が苦手という人もいるはずです。お互い様なところもあり、自分とうまがあう人ばかりが生活環境のなかにいるとは限らない、それが現実。職場でも、学校でも、家庭でも、そして教会でさえも。(教会が一番ややこしいかもしれません)
 今日の箇所のヤコブという人は、神様から選ばれ祝福をうけたアブラハムの子、イサクの子、そして3代目です。お父さんのイサクとは打って変わって、かれは生まれつき押しが強く、頭の回転が速く、自分のために兄を出し抜き、父親であるイサクをもだまし、神様からの祝福をゲットします。(この時代、長男が家をつぎ、祝福も受けるのが慣習)。この祝福ゲット策も母親からでたもの。ヤコブもその母も、状況が神様が約束されたように事が進まないように見えたとしても、神様に任せることもできたはずです。自分達で画策しなくても、神様は約束されたことを必ずなさる方、祝福は弟に行くはずなのに、待てなかったのでしょう。そして、彼はこれから行くところ行くところで、いつも問題を起こし、戦い、自分の力で切り抜けようとするタイプです。しかし、ヤコブがそんな性格であっても、神様は直接、ヤコブにも語られ、子孫も経済的にも祝福されるよう助けを与え導かれます。そしてだんだんヤコブの性格の角がとれていくようです。
 神様は、なぜか性格がいい、温和な人、聖人みたいな人だけを用いないのが、聖書をよんでいるとわかります。逆に欠点がある人や、道徳的に?という人をも神様の計画のなかで使われることがあります。人は一人一指紋が異なるように、性格も異なりますが、神様は全ての人を創られたからには愛しています。神様の愛を知ってほしい、その愛に答えイエス・キリストによる救いを受け取ってほしいという願いを持たれています。その救いのための計画を持たれ、それを一人一人の様々な人生を織り込んで、オーケストラさせて実現に用いているのが後になってわかることがあります。神様の存在を知らしめるには、例えば天使を使って驚異的な力で人々を驚かせるという方法もあります。しかし、不完全な人間、それも偉大な人から凡人をも用いて、神様の計画に使われるのは不思議です。
 救いはその人の行いや性格のよさではなく、神様の側からの一方的な恵みなのです。人はどうしても目に見えるその人を通して、その人の信じているものを判断しがちで、あんな人が信じているなら信用できないと。もしかしたら、他の宗教の人の方がよほで温和で性格がいい人がたくさんいるかもしれません。しかし、キリストを信じる信仰は、人間に栄光を帰さない点です。その人が偉いとか良い人だからは、関係がないのです。神様が、キリストがすばらしい、神様の愛、これなら信用できる、キリストになら任せられるという点、つまりキリストはどういう方なのかに注目するのが重要です。もちろん、他の人にとって害?を加えるような人は、キリストを信じた後から、徐々に変えられていく必要はありますが、それは現在進行形で一晩にしてはなしえないようです。自分を見ていると良くわかります。そして他の人を裁くのでなく、ああ、お互い進行形だから赦しあおう、大めにみようと思えるようにと祈りつつ。
1/10/2011 ”私の憧れ”

「…このように主が彼(イサク)を祝福されたので、彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり、羊の群れ、牛の群れ及び多くのしもべを持つようになったので、ペリシテびとは彼をねたんだ。 またペリシテびとは彼の父アブラハムの時に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸をふさぎ、土で埋めた。」創世記26章12-34節 ()は追加

 世の中には、生まれつき温和であまり怒らない方がいます。私には憧れのまとです(つまり逆だからです)。今日の箇所のアブラハムとサラの超高齢カップルで生まれたミラクルベイビー、イサクという人は、まれにみる非常に温和な人だと観察されます。神様はアブラハムに約束されたとおり、その子のイサクを祝福されたので、種をまけば百倍の収穫となり、家畜はどんどこ増え、地を掘れば水がわいて井戸となったと。すると近隣の国の人々がねたんで、アブラハムの時代に掘った井戸をいくつも埋めてしまいます。そして、そこからイサクは立ち去って他で新たに井戸をほると、またやつらがやってきて「この水は自分のものだ!」と取ってしまったので、またイサクは他へ移動。普通、そんなことされたら、文句をいうか、戦うか、訴えるかするでしょう。しかし、イサクは文句ひとつもいわないので、自分の住んでいる領土を少しずつ、づらしていくのです。
 私は何か害を受けたらまず怒りますし、とられたら取り返そうと思う好戦的タイプ。でもイエス様はこういわれました。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。」(マタイによる福音書5:37-40)イサクはイエス様がこの地上に生まれる前の人ですが、悪を持って悪に返すなという神様の正しさをなぜか知っていたようです。そして、結果的に、あとからその近隣の権力者がイサクのところにやってきて(もともとイサクは何もしてないのに)”今後お互い争わないように契約を結ぼう”と先方から歩み寄ってきて、その時は互いに平和的に暮らせたようです。
 日常生活のなかで、理不尽なことを言われたりされたりは、しょっちゅうでてきます(特にアメリカでは!)それに対して、あえて黙って争わずというのは、私にできるだろうか?できないと思います。しかし、瞬間的に心の中で燃え上がる怒り、感情がでてきたら、それを口にださず、黙って、その怒りを神様の前にもって行けたらと願います。神様があとからなんとかしてくれると任せて。私のようなレベル1の人はまずはそこからスタートし、徐々に柔和・寛容モードに変えられるよう祈って求めようというのが正直なところです。憧れのイエス様のような温和さを目指して。。。
1/9/2011 "心配なのは健康と仕事?!"

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな』」マタイによる福音書6章31-34節(イエス・キリストの言葉)

 アメリカに住んでいた一番心配なのは医療。今はどこも悪くないのですが、人から個人で保険に入っておかないと、もし事故や脳梗塞で倒れて、救急車で運ばれ、治療を受けたら数100万は軽く飛ぶと脅されます。日本のように国民健康保険がないし、自由診療なので同じ処置・検査をしても病院によって請求額がピンきりというのも、恐ろしい。 2008年のアメリカ政府の統計では、 総人口の約15.4%が無保険状態だそうで、私もその一人です。あといつ仕事が首になるかも心配です。。
 おもいわずらうな、心配するなといってもそのために何か大丈夫だという確証が必要です。今日の箇所はその確証はどうやって得られるかというと、”神の国と神の義を求めなさい”がキーです。そうすれば、必要なものは与えられるという約束です。
 では神の国とは?領域的・時間的な意味からすると、天国だけの話しではなく、国というからには統治、つまり神様が支配しているテリトリー(領域)のことも含みます。つまり、この地上にいてもイエス様を信じていると、その人の心の中は神の霊(聖霊)がすむので、聖霊がその人の心に影響を与えるように徐々に変えられます。他の箇所で、「神の国はあなたがたのただ中にある」とイエス様は言っているのは、神の国は人の心の中にもありうるわけです。そして聖霊が内側に住むと、その人の良心・考え・行動に影響を与え、おのずと自分の価値基準でなく、神様の基準で神の義(正しさ)はなんだろうと求めるでしょう。
 ただし、この信じて聖霊を受けたからといって、急にロボットみたいに変わるわけでなく、私たちの意志は残されますし、この肉体を着ている限り、いくらでも、この聖霊の働きを無視できてしまうから、だから求めなさいとイエス様はいったのではないでしょうか。
 今の与えられた体に感謝して、大切にするうえで、後は、このみことばのとおりに、神の国と義を求めて神様にまかせれば、最低限は確証されると信じようと思います。信じれなくなったら、それもそのまま神様に相談します。健康のことも、生活のことも。。
1/8/2011 "子供の願いを聞く親"

「だから、あなたがたはこう祈りなさい、『天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。』」マタイによる福音書6章9-10節

 私はよく思うのは、神様はどうやって、一度に24時間、地球のすべての人の祈りをいっぺんに聞けるのかなあ?そして、なんと、聖書には、私が願う前から、私の願いを知っているとも書いてあります。では知っているならなぜ祈る必要があるのでしょう?
 「お祈りってどうやったらいいかわからない。」と言われたとき、確かにルールや決まりはないのですが、今日の箇所のように、イエス様は弟子たちから祈りを教えてくださいと求められると、いわゆる「主の祈り」と呼ばれる祈りを教えられました。この短い祈りは奥が深いので私もすべて解説はできませんが、二つの重要なポイント:”誰にたいして祈っているか”の呼びかけと、”誰を通して祈っているか”をご紹介したいと。呼びかけは天のお父様とか、お父さんとかもっと親しく呼んでいいそうです。イエス様ご自身が神様に向かって、アバ(お父さん、パパ)と祈ってましたから。また神様といっても日本のように八百万の神と呼ばれる信仰がありますから、”どの神様”に祈っているかというのは重要。ここでは神の子であるイエス・キリストが”天の父と呼んでいる神様”に向かって祈っているのです。
 子供が小さければ小さいほど、純粋に、自分が願うことは親は聞いてくれると思うし、話しかけるとき、いちいち「お父上、私はお話したことがございます」とかしこまらず、くだらないことでも聞いてくれると自然に話しかけるでしょう。一方、親も子供が何かお願いするとき、わかっていたとしても、それが今その子の願いに答えるタイミングでないときでも、とりあえず自分の子供だから話を聞くでしょう。つまり祈りは親子のコミュニケーションで(といっても、自分の実際の完全でない親御さんに神様のレベルをあてはめず、超模範の親以上のイメージ)、親としては子供になんでも話してほしいと思う。神様に祈る必要があるのは、私たちと神様の親子の関係がもっと親しくなるためのコミュニケーションでもあるのです。
 本当は全知全能の神に対して、気軽に祈るなんて畏れ多いのですが、イエス・キリストを信じる信仰によって、気軽にできる特権が与えられるのです。イエス様ご自身が「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」(ヨハネ14:15)といわれたので、多くの私たちの祈りが最後に「イエスキリストのみなで祈ります」で終わります。最後でなくても、祈りのなかでどこでもいいと思いますが、ポイントは、祈りは聞かれていると信じて祈ることが大切です。(疑って祈るなと、ヤコブという弟子が手紙に書いています)ぜひ、聞いてくれていると期待して、気軽に生活の中で神様とコミュニケーションをとりたいですね!「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。」(イザヤ書65:24) Praise the Lord!
1/7/2011 ”映画:レターズ トウ ゴッド(Letters To God)"

「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。…あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。」マタイによる福音書5章44、46節

 昨日、家でハウスメートと"Letters to God"というアメリカ映画を見た。(我が家にはNetflixといって、レンタル屋に行かなくてもオンラインでTVにつなげて映画が見れる) プレビュー→ http://www.tsp21.com/movie/letterstogod.html
脳のがんと闘病中の少年(8歳)タイラーはある日毎日、神様宛に手紙を書き、切手をはってポストに出し始めた。その手紙を受け取った郵便配達人は困惑するが、折りしも失意の人生にいたその配達人の人生をも変えていく。また、少年の近所の人たち、クラスメート等にも勇気と希望と力を与えていく、実話を元にした映画です。
 タイラーは、久しぶりに学校へ行くと、クラスメートの一人が彼の頭を見て、宇宙人みたいとからかわれますが、タイラーは怒らず、悲しまず、代わりにそのいじめた子に手紙を書いたり、イエス様を信じるように後で勧めたり。すごいなあと、関心していまった。自分をいじめる人=敵ともいえる、そういう人のために祈れという言葉をこの少年は文字とおり行っていた。毎日書く彼の手紙は、自分のことだけでなく例えば「Dear 神様、今日も2回も吐きました。なんだか調子がよくないから、もうすぐ天国へいくのかなあ。ママがさみしそうだから、(父親も病気で他界)誰かママにふさわしい人を与えて」と書いたり、他の人のことも神様に手紙でお願いしている。
 タイラーにとって、神様は友人であり、教師であり、また究極のペンパル、彼の祈りは手紙という形をとっていて、その手紙を読むことになった人に希望や愛、励ましを与えている。
 自分の子供ががんで闘病し、そして亡くなってしまうというのは親、家族にとってどんなに苦しいことか、もちろん本人も苦しい、その家族の苦しみ、叫びも映画にも織り込まれていて、本当にいい映画でした。お勧めです!私も神様に手紙を書こうかな。Praise the Lord!
1/6/2011 ”超高齢出産”
「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、『「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう』アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、 『わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。』」創世記17章1-5節

 私の友人で、ミラクルベイビーを授かった女性が二人います。お二人とも結婚した後、なかなか赤ちゃんが生まれず、あきらめていたのに40歳近くなってあるとき突然妊娠したそうです。そしてその子供たちは今、立派な社会人です。現代は不妊治療という医学も発達し、同時に生命倫理的に?というやり方、代理母出産、人工授精(精子バンクから精子を買って妊娠させる方法、某ハリウッドの女優もやってますね)等がありますが、なかなか自然にそれも高齢期に妊娠するというのは生物学的にも本当に厳しく、だからこそミラクルなんでしょう。
 聖書ではよく不妊の女性の話が出てきます。昔、不妊の女性は世間からの風当たりが非常に強く、ましてや自由に女性が働ける時代でもありません。本日の箇所のアブラハムと妻サラ(最初の名はサライ)は100歳近くで子供がありませんでした。しかし、神様から選ばれたアブラハムは彼が100歳のときに神様が約束したとおりに、サラから二人の子供が生まれたのです。そんな非科学的なと思うかもしれませんが、現代の先進医療からすると昔は不可能といわれたことが今は可能となる時代ですし、ましてや人間や宇宙を作った神様にとってぜんぜん不可能ではないと私は信じます。そして、彼の子孫からイエス・キリストがユダヤ人として、生まれるようにすべて計画されていたのです。
 それにしても、なぜわざわざ100歳の不妊という状況から、今のユダヤ人の祖先となるアブラハムとサラを神様は選んだのでしょうか?この神様の約束とおり、ユダヤ人はすごく世界の人口比率からも多い民族です。一方、キリストを信じる信仰によって、日本人でも何人でもアブラハムの子孫とみなされ、祝福されるともかかれています。(ガラテヤへの手紙3章6-9節)そういう意味でも、人種に関係なく、キリストを信じる信仰によってすべての国民がこの神様とアブラハムとの契約の中に適応されて祝福されるということは、驚くべきことです。キーは信仰なのです。
 人間には不可能と思える状況、人間の努力で力で操作できない、もう神様に頼むしかないという状況のなかで、”可能”を起こすことで、もっと神様を信じてほしい、頼ってほしいと、人との信頼関係を深めたいのではないかなと思わされました。Praise the Lord!
1/5/2011 ”ミルク代がない! ”
「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 」
マタイによる福音書5章7節 (イエス・キリストが言われた言葉。) 

 私はアメリカに住んでいて一番驚くことは、貧富の差の大きさと、国が保証できる社会福祉の限界。そのため、ホームレスへの炊き出し(食事の配給)はほとんど教会が行っている。また他にたくさんあるボランティア団体によっても対応しないと、役所の社会福祉サービスだけでおいつかないようです。
 それを最近身近で目の当たりにしてびっくりしていたら、ハウスメートにそんなの普通であたりまえという感じでした。。。 クリスマスの前の日、日本人教会に平日に用があって行っていた時、突然黒人の男性が教会の戸口に現われ、お金をくれといってきました。妻が子供を産んでミルク代がないんだと。そこで牧師はお金はあげられないが、ミルクなら買ってきて差し上げるというと、彼は「じゃあ今買ってきてくれ、待っているから」と、玄関の前で座り込んだのです。私は彼に「市の育児サポート部門には相談したのか?」と聞くと、「したけど、担当者とアポを取ってそれをミスったらひと月先になってしまって、だからひと月は何ももらえないんだ」、「友人とか近所の人には助けを頼んだの?」と尋ねると、「いや、その。。。」と口ごもる。なぜ私がそのように聞いたのかというと(日本での職業柄もある)、もしその人が受給できる福祉制度を知らないでいたら申請したほうが、この一過性の支援に頼むより安定しているからです。あと、その男性に、どうみても血色のよく小太りの健康そうな体で、日雇いのバイトでもなんでもして自分の子供のミルク代をかせごうとなぜいしないのか?と正直おもってしまったりする私がいます。(冷たい。。)
 しかし、現実、この件をハウスメートに話すと、この国は政府の支援だけではやりきれない構造的な問題があるし、結局教会が困った人を助ける役割が大きいと。一方で、食べるものがないとお金を教会に求めてくる人が五万といて、それらの人がすべてが困っているのでなく、お酒や麻薬のためにお金を求めにくる場合もあると。フードスタンプとという食べ物しか変えないクーポンを低所得のひとは受給されるが、それさえも売ってお酒や麻薬を買う人もいるとは、悲しい現実である。
 今日の箇所、あわれみ深い人は幸い、あわれみをうけるからと。自身が現実の生活のなかで、これを単なる命令だからしないと、という思いでするには負担が重いです。自分は人にたいして、なんと憐れみ深くないのだと、こういう場面でも非常に心が探られます。でもこれが素の自分であって、いきなり慈善的な人間をとりつくろっても、偽善者で続かないのです。この”あわれみ”というへブル語での原語(エルイイオ)は”ことばや行いによる思いやり・同情、特に神の恵みによる”という意味だそうです。神の恵みによってでないと、私のような憐れみの心のないものは、適用できないことです。神の恵みは下さいとお願いすれば、与えられます。そう信じて、求めて行きたいと思わされました。
Praise the Lord!
1/3/2011 "最初のワイナリーと失敗"

「さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。」創世記9章20-23節

 以前、ナイアガラの滝へ家族と観光しに行きましたが、ちょうどそのときタイミングよく、滝上に(瀑布に)大きな虹がかかっているのに出くわしました。こんな近くで大きな虹をみれたのは始めてて感動!すかさず写真をとり、写真にもくっきり!虹ってなんでできるのだろう?と不思議です。
 古代の時代から、雨上がりの空にかかる虹は人々を魅了したでしょう。聖書によると洪水のあと始めて虹が現れて、神様はこの虹を見るたびに、人間との約束を思い出すとノアに言われま!?した。その約束とは、”2度と洪水によって肉なる人と生き物を滅ぼさないよ”と。(9章9-17節)
 今日の箇所は大洪水の中から唯一救われたノアの家族が、一からまた、人も動物も生めよ増えよと、神様から祝福を受けた後の話し。ノアは農業を始め、初めてぶどうからワインを作ることを発明し、きっとおいしくて、またどれだけ飲んだら酔うかもわからないまま飲んで、酔ってそれも裸でぶっ倒れて寝ていたわけです。なんとも恥ずかしい話。。。しかし、彼の3人の子供のうち二人は父親を敬って、その父の醜態:裸をみないようにそっと着物をかけてあげました。そして、目が覚めたノアは裸を最初に見て告げた息子に逆切れ!?
 私が聖書を読んでいて慰められるのは、ノアのようにその時代唯一大洪水から救いだされた、偉大な信仰の人でも、恥ずかしい失敗や理不尽なこともしたことが記録されているところです。所詮、完全な人間はいないというのが正直に書かかれているところが他にもあります。ましてや私のような凡人は人様にいえない、恥ずかしいことや失敗をたくさんしてきたなあと。失敗したとき、自分のことばかりに目を留め、自己嫌悪に陥ります。そして、気がつくとまた同じ失敗をするという悪循環から逃れられない。そうなると神様は赦してくださる方という情報を知っていても、もう赦されないと思い込んで暗くなり、神様のほうへ行かない。。実は以前私もそういう時期がありました。
 しかし、あるとき分かったのです!正しくないまま、暗〜いまま、ありのままでイエス様の前にいけるんだと。こんな私が赦されるために、だからこそ十字架にイエス様はかかる必要があったんだと。これって、本当に革命的に心にヒットしたのです。神様は私たちが正しいから、品行方正だから愛してくれるわけではなく、最初から愛する対象として人を創られたから。そして、イエス様を信じて、ついていこうと、とにかくスタートを切って転んでも、前進することが大切だと思います。少しづつ(急には変わらないのが忍耐が要りますが)、内側がキリストのような愛の性質に神様の力で変えられていくという約束を信じ、七転び八起きからそのうち、向上していくのではという、希望を、ノアの失敗から励まされました。
Praise the Lord!
1/2/2011 "A.D. 2011"
「あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。その造り方は次のとおりである。すなわち箱舟の長さは三百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトとし、 箱舟に屋根を造り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。。」創世記6章14-16節

 今日は日曜で子供の日曜学校に参加していましたが、その途中で子供のDVDを見ていたとき、ノアの箱舟のDiseneyの最新版がプレビューででていました。そして、家に帰ってYouTubeで検索すると、その最新のはなかったのですが、昔のディズニーのをみつけました。見ているだけでとてもかわいい! → http://www.youtube.com/watch?v=2M6VKgyz8eI
 今日の箇所は神様がノアに箱舟を作るように言われた箇所です。興味深いことは、この箱舟のサイズは、現代の潜水艦のサイズ(比率)とほぼ同じで、ちょうど巨大な船が浮かべる比率だそうです。この比率が崩れると沈みます。巨大な潜水艦サイズの船に、ノアの家族と、ひとつがいづつのすべての動物、鳥、爬虫類等をのせて大洪水に備えたのです。あるひとにとってはこれは聖書だけのおとぎばなし、伝説ととるかもしれませんが、世界の国々のなかで、その古代の発掘や伝説から大洪水が起こったことを示すものが213個あるそうです。またある科学者は、地球はすべて熱帯気候で恐竜もいて、何かの気候変動、たとえば大洪水のようなものが起きて、地球上がぐるぐるかき回され、その後現在のような地球の気候になったのではないかと。そうすると、ロシアの寒い地域に熱帯で生きていたとされる恐竜の骨が発掘されたりしてもおかしくないと仮説だそうです。
 なぜ洪水が?最初の人間:アダムとイブは、自分が正しという思うとおりに、善悪を決めたい、神様には従わないという道を選んだため、罪が心の中に入り、それ以来、まず最初の二人の子供は、兄が弟をねたみゆえに殺してしまったりと、人間の人口が増えるにつれ、どんどん暴虐が満ちて、神様はその状態を悲しまれたと。しかしどの時代にも、このノアのように神様を信じ、人間を作ったメーカーである神様が人間にとって何がベストがをよく知っているから、そのベストを導いてくれる神様に従おうという選択もあるわけです。
 A.D.2011年という時代には、聖書があり、そういう選択ができる時代です。キリストの救いが福音として提供されてきて約2011年*、今年も一人一人のとって恵みの年となってほしいと祈りつつ。Praise the Lord!

*(A.D.とは紀元後の表記、意味はラテン語 Anno Dominoで、主(イエス・キリスト)の年として、キリストがこの地上にこられたから何年という数え方です。B.C.とは紀元前、Before Christキリストの前の時代の表記)

1/1/2011 ”一年、10年、永遠”
「はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 」創世記1章1-3節

新年あけましておめでとうございます。

  一年はあっというまに過ぎ去ります。私は自分が何歳だったかなあと、いちいち、現在の西暦から自分の生まれた年を引算しないと不明になる時もあり。(年寄りのよう。。。)10年も早かったです。聖書には永遠ということばが頻繁にでてきますが、いくら1年、10年が早く過ぎたとしても、永遠とはいったいどれくらいなのか?と思うことがあります。
 詩篇という聖書のなかの神様への讃美や祈りが歌として書かれている書簡で、「山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。」 (詩篇 90章1-2節)とあります。今日の箇所で天と地を創られる前、神の霊が水の上を動いていた(Hovering:英訳)とも別の訳では書かれていて、どんなふうだったのだろう?とここでもまた空想が広がります。そして。イエス・キリストによって世界が創られたとへブル書(1章2節)に書かれています。ここでの"神"が原書のへブル語では複数となっているのも興味深いです。(エロヒム)
 聖書にかいていないことについては、他の歴史書等・学者の研究した解説書等で情報を補完できるところもありますが、多くのわからないところは、きっと今の人間の脳のレベルでは想像しきれない、理解しきれない次元、隠されている部分なのでしょう。そしてそれらを知ったからと言って、神様が本当に知ってほしいことの決定的な把握につながるとは限りません。神様が一番人に伝えたいこと、それはイエス・キリストのことです。イエス・キリストを自分の救い主として信じると、罪が赦されて、神様との関係が回復され、永遠の命が与えられ、つまり天国で永遠に神様とともに生きるという希望のこを、神様が大切なこととして伝えたいのでしょう。
 今年も、聖書をすこしづつ読み進め、私の場合書いてあることさえもよくわからないことが多いので、もっと学ぶ機会が与えられたいし、神の霊(聖霊)に理解を助けて頂き、それらを他の方へ分かち合えたらいいなたいと年初に祈りつつ。Praise the Lord!


   
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