9節
先日、ある人と初対面で話していて、どこの出身かと聞くとイスラエルというので、私は「今週(4/22-30)は過越しの祭りを祝うのですね?」とたずねると、そうだと。本当はキリスト教の復活祭(イースター)がある時期とユダヤ教の過ぎ越しの祭りとは重なるはずなのですが、西洋のカレンダーとユダヤ人の月で数えるカレンダーと異なるので時差が生じてしまうそうです。ちなみにキリスト教といっても宗派がたくさんあり、西方教会と東方教会と言う系列があって、後者はユダヤ人と同じカレンダーで復祭を祝うそうです。宗派ごとに聖書の解釈や儀式、行事も異なりますが、基本的にどの宗派も同じ聖書が聖典とされ同じ神を信じています。またユダヤ教にとっては、キリスト教の聖書の前半部分だけが彼らの聖書です。なぜならユダヤ人は、イエスを彼らの神によって約束された救い主(メシア)とて認めないからです。
聖書を毎日繰り返し読みますが、何度読んだからといって全てわかるわけではなく、歴史的背景も合わせて理解していく必要があり、私は聖書の注解書(学者が研究して解説した書)や牧師たちのメッセージを参考にします。聖書には現代の現象や状況にぴったり適用しにくいところもありますし、人による解釈の違いもでてきます。私は解釈を読んでも納得いかない時、それはそれで保留にします。保留とは、ある牧師の表現いわく「冷凍庫においておく」ようなものだと。時期が来たら聖霊が教えてくれて理解できるので、今すぐ無理に味わおうとしないで冷凍しておくのです。また、あえて聖書に記されていない、啓示されていない内容もあり、それは天国行ってからのお楽しみです。
2千年前にイエス様の弟子達は、彼と3年半ともに生活し、教えを学び、イエス様の奇跡と神の力を目の当たりにしましたが、当時彼らはイエス様の言われたことを全部理解できませんでした。イエス様が十字架にかかられて死に、3日後に復活され、弟子達に現れたときにも「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と質問をしてます。すると「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」(使徒の働き1章6-7節)とイエス様は答えられました。弟子たちは神の国はすぐに来ると想定したのですが、そうではなくて、イエス様が次回王として戻ってくる、全てを治める時はまだ先であり、いつという時期は私達には知らされないものなのです。
目の前の状況や、事件、災害が起こると「なぜですか?」「いつまでですか?」と神様に叫んでも、すぐに答えは得られない、なぜなのかわからない時がほとんどだと思います。信仰とは、いつ、どこで、これこれが起こると書かれている旅行計画書をたよりに進むためのものではなく、先が分からなくても、聖書に書いてある神様の私達に対する約束が「確かだから大丈夫だ」と信じて、その約束を何度も確認することです。*1 神様の約束は包括的で長期的なので、人生の個々の場面での問いに対する答えがすぐに神様から与えられないし、なぜだかわからない部分があります。ただ、はっきりしていることは、神様の思いは壮大で、私たちと異なること。しかし異なったとしても、私たちはどこへ向かって、何を望みとして人生の道のりを進んでいるかは示されています。すると神様の大きな約束を信じ全て委ねて生きること、目に見えないものを信じて一歩づつ神様の導きを求め天国というゴールに向かって歩めます。*2 すると、地上での先のこと、老後はどうするか?などを考えて思い煩わずに済み、非常に自由です。かといって日々のやるべきこと、各々任されたことを責任を持ってこつこつと行う必要があります。2千年前のクリスチャンで「どうせすぐ神の国(イエス様が戻ってくるの)が近いから、もう働かなくていいや」とダラダラしていた人々が実際にいて、使徒パウロはそういう人達に「働こうとしないものは食うべからず」*3 と戒めています。もちろんこれは健康で働ける年齢のなのに怠惰な人に向かってです。神の国が来るまで、クリスチャンは地上でどう生きるべきかの指針と教え、励ましが聖書に書かれていますから、それに添って祈りながら、聖霊の助けを得て日々歩んでいきたいと思わされます。
*1 ヘブル人への手紙11章1節 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
*2 ヘブル人への手紙11章13-14節 「実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」
*3 第二テサロニケ人への手紙3章10-11節