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今日のわか ちあい



♪Today's Sharing♪

 Apr. 2016

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
タイミングを見極める ワークアウト 漫画を通して日本から世界へ  
熊本震災 求めても得られないもの 得られるもの 暦の違い
       
Apr. 29, 2016 暦の違い

「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ55章8〜9節

先日、ある人と初対面で話していて、どこの出身かと聞くとイスラエルというので、私は「今週(4/22-30)は過越しの祭りを祝うのですね?」とたずねると、そうだと。本当はキリスト教の復活祭(イースター)がある時期とユダヤ教の過ぎ越しの祭りとは重なるはずなのですが西洋のカレンダーとユダヤ人の月で数えるカレンダーと異なるので時差が生じてしまうそうです。ちなみにキリスト教といっても宗派がたくさんあり、西方教会と東方教会と言う系列があって、後者はユダヤ人と同じカレンダーで復祭を祝うそうです。宗派ごとに聖書の解釈や儀式、行事も異なりますが、基本的にどの宗派も同じ聖書が聖典とされ同じ神を信じています。またユダヤ教にとっては、キリスト教の聖書の前半部分だけが彼らの聖書です。なぜならユダヤ人は、イエスを彼らの神によって約束された救い主(メシア)とて認めないからです。
 聖書を毎日繰り返し読みますが、何度読んだからといって全てわかるわけではなく、歴史的背景も合わせて理解していく必要があり、私は聖書の注解書(学者が研究して解説した書)や牧師たちのメッセージを参考にします。聖書には現代の現象や状況にぴったり適用しにくいところもありますし、人による解釈の違いもでてきます。私は解釈を読んでも納得いかない時、それはそれで保留にします。保留とは、ある牧師の表現いわく「冷凍庫においておく」ようなものだと。時期が来たら聖霊が教えてくれて理解できるので、今すぐ無理に味わおうとしないで冷凍しておくのです。また、あえて聖書に記されていない、啓示されていない内容もあり、それは天国行ってからのお楽しみです。
 2千年前にイエス様の弟子達は、彼と3年半ともに生活し、教えを学び、イエス様の奇跡と神の力を目の当たりにしましたが、当時彼らはイエス様の言われたことを全部理解できませんでした。イエス様が十字架にかかられて死に、3日後に復活され、弟子達に現れたときにも「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と質問をしてます。すると「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」(使徒の働き1章6-7節)とイエス様は答えられました。弟子たちは神の国はすぐに来ると想定したのですが、そうではなくて、イエス様が次回王として戻ってくる、全てを治める時はまだ先であり、いつという時期は私達には知らされないものなのです。
 目の前の状況や、事件、災害が起こると「なぜですか?」「いつまでですか?」と神様に叫んでも、すぐに答えは得られない、なぜなのかわからない時がほとんどだと思います。信仰とは、いつ、どこで、これこれが起こると書かれている旅行計画書をたよりに進むためのものではなく、先が分からなくても、聖書に書いてある神様の私達に対する約束が「確かだから大丈夫だ」と信じて、その約束を何度も確認することです。*1 神様の約束は包括的で長期的なので、人生の個々の場面での問いに対する答えがすぐに神様から与えられないし、なぜだかわからない部分があります。ただ、はっきりしていることは、神様の思いは壮大で、私たちと異なること。しかし異なったとしても、私たちはどこへ向かって、何を望みとして人生の道のりを進んでいるかは示されています。すると神様の大きな約束を信じ全て委ねて生きること、目に見えないものを信じて一歩づつ神様の導きを求め天国というゴールに向かって歩めます。*2 すると、地上での先のこと、老後はどうするか?などを考えて思い煩わずに済み、非常に自由です。かといって日々のやるべきこと、各々任されたことを責任を持ってこつこつと行う必要があります。2千年前のクリスチャンで「どうせすぐ神の国(イエス様が戻ってくるの)が近いから、もう働かなくていいや」とダラダラしていた人々が実際にいて、使徒パウロはそういう人達に「働こうとしないものは食うべからず」*3 と戒めています。もちろんこれは健康で働ける年齢のなのに怠惰な人に向かってです。神の国が来るまで、クリスチャンは地上でどう生きるべきかの指針と教え、励ましが聖書に書かれていますから、それに添って祈りながら、聖霊の助けを得て日々歩んでいきたいと思わされます。

*1 ヘブル人への手紙11章1節 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」 
*2 ヘブル人への手紙11章13-14節 「実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」
*3 第二テサロニケ人への手紙3章10-11節 
Apr. 22, 2016 求めても得られないもの 得られるもの

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」 ガラテヤ人への手紙 522-23


  先日、仕事でマンハッタン内の高級ホテルの視察に行きました。そこはオバマ大統領も宿泊に利用するホテルで、レセプションはそのホテルでの高い部屋の一つで開催されました。ちなみにそのレセプションが行われた部屋は一泊おいくらかと聞きますと、やはり庶民が泊まるお部屋とは桁二つくらい違うのです。旅行会社の人によると、ここよりももっと高い市内の某ホテルのお部屋は、中東のお金持ちが数ヶ月も滞在することがあるそうです。
 アメリカで90年代後半に行われた全国的統計調査(全ての年代、収入層をカバー)によると、「あなたが人生で最も求めるものは何か?」"What are you looking for most in life?" (すごい直訳ですいません)の答えの上位3つが、1位 愛、2位 喜び、3位 平和 だったそうです。その頃から20年も経っていますので、今は変わっていると思いますが、統計会社の予想とはあまりにも以外な結果だったとのことです。想定できる答えは、マイホーム、仕事の成功、豊かな暮らしなどの物質的なものや、幸せな家庭・結婚、など。海外の高級ホテルでバカンスを過ごせる人々の答えは何か興味深いものです。お金があっても、平安や喜びがなく、満たされなくて、愛を求めている人がたくさんいることは、セレブのニュースを見てもわかるでしょう。
 この上位三つが実は聖書に書いてあり、アメリカの数人の牧師がこの統計を彼らの説教やブログで引用していますが、これらは実は人間同士だけでは生み出すのが困難(というか、不可能)な事柄であります。人はないものを求めます。満足できる愛や喜びがなかなか獲得できないから、また地上に平和を求めてもなかなか家庭の中でも、世界でもないから、求める。聖書では、まずは人が神との関係で愛、喜び、平和が与えられて、ようやく横との人間とのつながりにこれらが構築されていくものだと。それも自分の持ち前の性格、才能で生み出すのではなく、聖霊(神の霊)の力で実るものだと書いてあります。つまり、神様との縦の関係がベースにないと、いつまでも求めて得られず、諦めて妥協して生きるわけです。
  聖霊はイエス・キリストを信じると、一人ひとりに目には見えませんが心に与えられます。ですからこれらの「求めても得られないもの」は、神に求めれば与えられるのです。*「求めようそうすれば与えられる。」今までは自分の意思と良心で決めていたことを、内側に住む聖霊が優しく(決して強制したり、コントロールされるわけでなく)平和的な人間関係に導いてくれ、自分もそれに自発的に同意して決定していく、従っていくということを、信じた後、徐々に体験していきます。時には聖霊の促しを無視して失敗しながらも、これらの聖霊の実を神様に求め続ければ、徐々に心の内側が変えられ、結果として周りも不思議と変わっていくものです。私はまだまだ 開発途上ですが、求めたら得られるという信仰が与えられているのが幸いです。

*「
そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。ルカによる福音書11章9-13節
Apr. 18, 2016 "熊本震災"

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」エレミヤ書29章11-14節

 東北大震災から5年。再び九州の熊本県を中心に起きた大地震の被害状況が刻々とニュースで放映されるたびに、胸が痛みます。ご家族を亡くしたご遺族の方々に慰めが与えられ、被災者の方々の安全と物質的必要が早急に確保されますよう、日々祈っています。同時期に日本のちょうど反対側のエクアドルでも大地震が起き、こちらの被害も深刻です。アメリカではエクアドルの被災状況のほうがTVなどで放映されていますが、それでも私の教会の幾人かの人々が日本の安否を尋ね、祈ってくれているのは感謝です。今回の地震で身内や友人を亡くされた人々の悲しみはどんなに深く、また現状を見ると「復帰できるのだろうか」と希望を失いかけ、肉体的にも精神的に辛いところを通っておられることでしょう。
 たとえどんな状況であれ、何が起きたとしても、終わりではなく、それは新しい始まりであることを知ることは、希望となります。その新しい始まり、将来と希望を与えるのが神様であり、神様は私たちと共におられ、困難な状況からも助けて下さる力ある方です。犠牲は大きく、悲しみも残りますが、残された方々には、その犠牲に勝る大きな喜びと平和、希望が、キリストにあって得られるという福音を聖書は記しています。
 ちょうど2千年前、絶望状態で家に引きこもっていた人たちがいました。彼らは、「この人こそユダヤ人の王、ローマ帝国の支配からの救世主、神の子だ!」と信じて従ってきたイエス・キリストの弟子たちですが、その師匠であるイエス様が突然逮捕され、何も罪に定められることをしていないのに、酷い十字架刑に処せられ、亡くなってしまったのです。もう終わりだ。なぜこんなことが起こるのか。弟子である自分たちの身も危ないと、絶望状態の弟子たちには3日後にイエス様が死からよみがえるとは想像もつかなかったし、実際復活されたイエス様に会ったという人の証言も、最初は信じることができなかったのです。しかし、神の子であるイエス・キリストは確かに復活し、弟子たちに現れて、イエスを通して与えられる救いの福音を全世界に伝えるようにというミッションを弟子たちに託して、天に帰られました。弟子たちは信仰、希望、愛そして喜びと平安が与えられ、聖霊の力で全世界に出て行ったのです。
 聖書でいう救いと希望とは、この世での物質的な復興や亡くなった人が戻って来ることを言っているのではなく、もっと長期的な、永遠という視点における人間の復興(神様が最初に、人を神の形に似せて創られた状態)、神との和解という喜び・平安です。なぜなら、人は生まれながらにして「失われている」状態でこの世に生まれてきて、神から離れ、自己中心に生きる罪ある存在として成長していくので、どうしても人類史上戦争は絶えず、家族の争いも絶えず、そして利益主義的開発が大地震や温暖化など地球の異変を起こしてしまう、またそのことに気づいていも、益々状況を悪化させていくのが今の世の中です。しかし、キリストを信じた時から、絶望から希望へと移されます。イエス様が人となって十字架にかかられ、復活されたのは、罪から私たちが救われ、私たちも死に打ち勝ち、永遠の命が与えられるためでした。ここに、神様がどれ程ご自分が創った人間を愛されているかが現れています。
 今は、一日も早い、被災地の方々の安全と物質的な必要が満たされ、元の生活に徐々に戻れるよう日々祈り、そして新しいスタートとは何かを探し求め、イエス・キリストに「出会って」希望を持っていただきたいと願いつつ、祈り続けます。
Apr. 14, 2016 "漫画を通して日本から世界へ"

 

「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。 」コロサイ人への手紙3章11節


 小さい頃、本より漫画を読むことに時間を費やした私は、その当時、海外の生活や歴史を知るのも、漫画のストーリーを通して知っていったと言うほどです。私の中では”漫画は子供の時読むもの”という認識があって、20歳すぎてからは読まなくなりました。当時は気が付かなかったのですが、私が読んだ作品のなかには、子供が見るべきでない性的描写も入っていましたし、最近は子供に悪影響を及ぼす漫画もあり、非常に心が痛みます。一方、近年は、日本というと、MANGA (漫画)、アニメといわれるほど、世界的に有名となりました。優秀な漫画家というのは、その技術だけでなく、小説家に匹敵する文章の表現力とストーリー性のレベルが高く、自分の表現したい世界を持っている方々だと思うのです。またパンフレット、説明書等、漫画は難しいことを簡単に表現するツールとして、最近は様々な分野で用いられています。
 近年その漫画によって、聖書のストーリーも描かれ、世界30ヶ国語に訳され出版されていることを知りました。*1 「メサイア」というクリスチャンの漫画家が書いたイエス・キリストの生涯を描く作品は、聖書のストーリーに忠実かつ、漫画ならではの端はしにウイットに富み、私はそれを読むたびに涙がでて感動します。私は「聖書は初めて」という人たちに、その漫画を差し上げたり、貸したりしてきたのですが、みな好評でした。一人だけ、「僕は漫画ではなく本で読むから結構です」と断わられた若い方がいましたが、もちろん、原本で読んでくれればもっと嬉しいものです。
 聖書は世界でベストセラーに入り、531言語に訳され読まれています(2014年現在)。しかし日本でクリスチャンの人口は低く、いまだ人口の1%どまりと、海外の宣教師にとって最も宣教困難な国の一つだそうです。そんな日本から、逆に漫画を通して聖書、つまりテーマであるイエス・キリストの福音が世界中に届けられているといことは、日本人である私としても励まされます。しかも、最近はシリア難民の人々にも避難先のクリスチャン団体を通して「メサイア」がいきわたり、強制ではなく、その漫画を通してキリストを知り、死を覚悟してイスラム教からキリスト教に改宗してしまう人々が出てきていると言うニュースを聞き、神様の不思議なみわざに驚いています。ある意味、イスラム教の人々は、信仰の対象が異なるだけで、一神教であり、この世の人生だけでなく、この体が死んだ後の天国があるというコンセプトは共通ですし、難民状態という切羽詰った状態において、神を求める心が開かれ、信じたら切り替えが早いのかもしれません。
 実は、この「メサイア」以前に、手塚治が聖書を一部アニメ化しています。キリスト教とは一部の人種や特定の人々のための宗教ではなく、全ての人の真の神を信じること、また信じて与えられる神との関係であります。発信地である日本人にこそ、読まれてほしいと祈りつつ。
*1 クリスチャントゥデイ 「漫画「メサイア」をシリア難民へ! 新生宣教団の働き」 2016年3月24日
Apr. 11, 2016 ”ワークアウト

「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからです。」ピリピ人への手紙2章12-13節


 私は週に2-3回軽い運動を続けて、半年以上になります。本来は家でおいしいものを食べて、寝転がっていたいのですが、健康を保つために最低限はやろうと努めています。わざわざジムに行って、着換えてエクソサイズをするのは非常に面倒なことです。しかし、今迄に経験してきた不健康状態での様々なデメリットを考え、なんとか老体に鞭をうち、かつ無理なくコツコツと続けられたらと願います。
 肉体の鍛錬もある程度必要なように、霊的なワークアウトも必要です。冒頭の箇所「自分の救の達成に努めなさい。」は英語だと"Work Out(ワークアウト)for your own salvation" と表現され、誤解されがちな個所であります。なぜなら「救われるために、やはり、何かしなければならないのか!」と行いを努力をしないと、救われないかのように受け取れてしまうからです。しかし、この著者のキリストの使徒パウロの「救いは信仰による」という福音について一貫しており、救われるために努力するのではなく、ここでの意味は、すでに信じて完了している救いを持ち続ける、つまり天国での完成というゴールまで信仰を持ち続けることに努めなさいと解釈されるでしょう。
 裏を返すと、信仰を途中でやめてしまう人がこの書簡が書かれた2千年前もいたからです。神様は決して私たちを見捨てないし、一度イエス・キリストを救い主と信じて聖霊が与えられたら、救いが取り消されることはないと私は信じます。そうでないと、私の日々の不完全なパフォーマンスで救いが左右されてしまうとなると、非常に不安定です。イエス様は十字架で死んでよみがえられたので、救いはもう完成しているのです。一方、信じた後自分の方から離れてしまうことはあります。その離れ方があまりにも深く、遠くなってしまうと、戻るのが大変時間がかかりますし、神様の恵みから離れている間に起こる様々なことによる撒いた種を刈り取ることになります。私も、信仰から一時離れていた時が若い時代にあったので、その間の刈り取りは本当にきつかったです。ですから、そうならないために信仰を持ち続けることに努めることは私たちのパートであると、自身が痛感しております。
 具体的にどのように努めるのでしょうか。み言葉(聖書)にいつも触れ、それらを心に留め、生活に適用し、聖霊により神が私たちのうちに働かれるように従順な姿勢を保つことではないでしょうか。私たちを通して、神のなさりたいことがなされていく、日々、自分の思いや願いが神のみ心に添うようになることを願い求めていきたいものです。信じるとは現在進行形であります。信じたら、「はい、終わり」ではないのです。私たちは、信じると決めてから、恵みによって成長する必要があります。* そうでないと、神を信じることがいつのまにか、自分の願いをかなえてくれる存在、自分を単に守ってくれる存在として利用するためにすり替わり、キリストの為に生きるということから外れていってしまうからです。実際、聖書の新約聖書の中の手紙は、信じていない人宛てに書かれているのではなく、信じている人々に、現実での信仰生活の適用が書かれてあり、警告的なこともあって耳障りが悪いです。時には、自分をイライラさせる人を神様は横に置かれるかもしれません。そのイライラは、何か私の側にある問題を気がつかせるために、起こされることが多々あります。もちろん、相手が悪意の場合は話は別で、そのような相手には忍耐するとか、敵を愛するという別の試練の機会となります。しかし大概イライラさせる相手は他意や悪意がないものです。その場合、祈ってみ言葉からイライラする原因が自分の内に示されるものです。
 「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。」*2 とも書かれているように、信仰は独りでは持ち続けられないから”互いに励ましあい”、ときには裁くのではなく、愛を持って相手に指摘することも必要です。また言われたほうは、怒るのではなく、むかついたとしても、まず指摘された点において自分を顧み、祈って悔い改める機会を得たいと願います。

*1 第2ペテロの手紙3章18節 「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」
*2 へブル人への手紙3章12-14節
Apr. 6, 2016  ”タイミングを見極める”

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」 第2コリンント人への手紙4章18節

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」へブル人への手紙11章1節

今年の2月から私の教会で、エステル記という書簡を週に一度女性のグループで集まり学んでいます。その学びを通して「待つ」、「忍耐する」、「神のタイミングを待つ」というような聖書の箇所を示されています。私は折しも、タイミングを考えていることがあって、そのまま自分のケースに適用できるのが幸いです。神の言葉は生きていてるので、私の事情、他の人の事情も含めて総合的にベストな道をご存知なので、タイムリーに私は示されていると思うのです。
 この書簡のタイトルのエステルという女性はユダヤ人で、古代のユダヤの民がペルシャ帝国時代に、彼女の民族ごと抹殺されそうになるという危機の時、ちょうどペルシャ王の王妃に抜擢されていました。彼女はそれまで、自身がユダヤ人であることを隠していたのですが、この時に死を覚悟し、ユダヤ民族を救うために王に直訴することを決断します。彼女は祈り、断食し、どのタイミングで彼女の王妃という地位を用いて、王に自身を含むユダヤ人を救い出してほしいと嘆願するタイミングを図っていました。王と謁見した際、すでに2回も「望みは何か?」と王より聞かれ、嘆願するチャンスがあったのですが、彼女はすぐには言わずタイミングをまって、先延ばしにしました。私は以前、なぜすぐに王に嘆願しなかったのだろう?と理解できなかったのですが、他の登場人物たちのことも絡めて、まさに3度目のチャンスに王に嘆願するのがベストのタイミングとなり、この恐ろしい抹殺計画を王に提案した張本人を逆に滅ぼす機会ともなり、無事に計画が阻止されたのです。
 私は何かが起きて、その決断をする時は、さっさと決めて行動に移してしまう性格です。過去も衝動的に動いたときは、悲惨な結果が待っていました。そういう痛い経験を若い時に、また信仰を持つ前にしてきたので、最近はさすがに衝動的に動くことはなくなりましたが、まだまだ忍耐に欠けています。特に状況を見て判断するのは、本当に神様の導きだったのかどうかは、聖書の言葉による示しがない限り、今となってはわからないことが多いです。一方、たとえ私がベストでないものを自分の思いで選んでしまっていたとしても、神様は後から軌道修正してくれると信じているので幸いです。なぜなら、「失敗は許されない」という強迫観念がないからです。神様は本当に忍耐深く、優しい方であり、私の愚かさによる失敗からも助けを求めれば救い出して下さる方だと経験から知っているからです。もちろん、祈っていつも的確に神様の導きをキャッチできるようになり、失敗なく決断したいものです。しかしいつもそうなれない弱さが私にはまだまだあり、成長していかなければならない分野です。
 神の声が「こうしろ、ああしろ」と聞こえるという人がたまにいますが、私は聞こえないのです。ある人は、神の声が聞こえる人の方が霊的だとか、信仰深いと思われるかもしれませんが、そうなのでしょうか?聖書を読んでいると、確かに信仰に生きた人々が神様から直接聞いて、行動しています。一方、いつも聞こえるわけでなく、エステル記のように、「神」ということばが一言も出てこない書簡においても、見えない神の摂理が背後で動いていることは読み取れます。
 現代は聖書という書物の形で神の言葉が与えられていて、多くのクリスチャンは神の言葉を通して導きを示されています。また、聖霊が心の内に住んでいるので、聞こえなくても聖霊が促しているということは感じることができます。逆に、見えない方、聞こえない声であっても、聖書に書いてあることを神の言葉として信じて、その約束に目を留めるのが信仰だと信じます。

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