Praise the Lord 本文へジャンプ
今日のわか ちあい



♪Today's Sharing♪

 May 2016

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
付き合うこと:フェローシップ 映画”ウッドローン:Woodlawn” 70年代黒人アメフト選手のストーリー ドン引きする時  
  死んだ後だと思っていこと 後方誘導
May 19, 2016
"後方誘導"

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
  主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
  主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」
詩篇23編1-3節


  羊飼いが羊の群れを誘導している情景を映像や写真で見られたことはあるでしょうか。羊飼(牧者)は自分の群れの羊を牧草のある場所、水が飲める場所へと誘導していきます。羊は古代から野生化できない動物で、人の世話を受けないと生きていけない家畜です。羊毛を定期的に人に刈ってもらわないと伸びた毛の重さで皮膚が剥がれ、死に至ります。羊は群れで行動しますが、群れからはぐれると、帰省本能がないので、羊飼いが探しにいかねばなりません。牧草がある場所も、自分で探しにいけないため、放っておくと草を食べきったところにそのまま居続けるため、羊飼いが次の牧草地へ誘導していくわけです。しかし羊の優れた点は、羊飼いの声を聞き分ける能力があるそうで*1、自分の羊飼い以外の人が呼んでもついていかないそうです。羊は羊飼いに対して、本能的信頼があるようです。
 羊飼いは先頭に立って群れを誘導する場合と、群れのサイドを歩く場合、また後方を歩いて誘導する場合もあるそうです。つまりいつも先頭とは限らないのです。それでも羊はその羊飼いが後方にいることを声などで認識するか、棒やむちで追い立てられるか(牧羊犬というのは群れの動きを助けるために使われるのでしょう)、前方へ群れと一緒に自分たちで動くわけです。
 冒頭の箇所は 羊飼いと羊を、神様と人間に例えて、どのように神様が私達をケアしてくれているかを歌った有名な詩です。またイエス様はご自身を「私はよい羊飼い。羊のために命を捨てる」*2 と言われました。ここでの「命を捨てる」とは、私達が罪から救われるために十字架で代わりに死なれることを指します。
 イエス様を救い主として信じて、日常生活の中であることの導き・方向性を祈っても、すぐに答えが与えられる、目に見えて状況が分かる場合ばかりではありません。あたかも羊飼いであるイエス様が、後方から誘導して下さるようでもあります。キリストを信じる者は、イエス様の姿が前方に見えなくても、背後にいて、その声と臨在を聖霊によって認識できるのです。いつも、イエス様が前にいるかのごとく、全て順調で守られて、安心であるときもあれば、先行きが不透明、何の見える約束がなくても、後方のイエス様の声を聞き分けて、前進しなければならないこともあるでしょう。後方誘導は、結局私達の信仰が試され、練られるためでもあり、イエス様に信頼して、目の前の状況が順風でなくても、信仰で一歩踏み出していくためなのでしょう。聖書のことばを通して、日々イエス様の声をキャッチし、正しい道に従っていきたいと励まされます。
 
*1 「自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。」ヨハネによる福音書10章4節
*2「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。ヨハネによる福音書10章14-15節
May 15, 2016 "死んだ後だと思っていたこと"

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」ヨハネによる福音書17章3節


小さい時、自分の祖父母や知人のお葬式に参列したことがなかった私は、「死」について意識したことがありませんでした。17歳くらいの時になって親族のお葬式に参加し、ご遺体をこの目で見た時は息を飲み、驚いたものです。私にとってテレビや映画で見る人の死とは、まったく異なる存在に直面したのです。その時初めて「死」とはこういうものなかと思わされました。クリスチャンの両親の家庭に育てられ、ミッションスクールに通っていた私は、神様の存在は自然のことでしたし、また天国というのは死んだら行くところで、そこで神様と一緒にづっとづっと生きるのかと漠然と思っていました。多くの人がそうですが、若い時になかなか自分が死んだらどうなるのかと考える機会はあまり多くはないと思うのです。
 30代になって、自分自身がはっきり信仰を持つようになり、聖書を学んでいくと、小さい時の漠然と「知っていたこと」がいかに限られたことで、また誤解していたことなどがわかってきました。特に大きな発見の一つは、冒頭の「永遠の命」についてです。私はこれは、死んだ後もらえるものかとづっと信じてきましたが、よく読むと、地上に生きている間からもらえるものなのです。つまり、単に私という存在が時間的に永遠に生きるという意味だけでなく、神様とその御子イエス・キリストを「知ること」で、すでに永遠の命が始まっていると聖書は記しています。つまり永遠の命は、今のこの体が不老不死で永遠に生きれるということではないのです。私は、今のこんな体で、またこんな不条理の世の中で永遠に生きたいとは思えませんし、しわしわの体と、いつも病院に行って治療し、健康を保つ努力を未来永劫しと、考えただけでも嫌です。私が信じる永遠の命がこの地上での長生きではないとわかると、ホットします。
 これは理解しにくいコンセプトでしたが、徐々に自分がもっともっとキリストのことを聖書を通して知り、また聖書の約束が自分の今生きている人生に応用されるという経験をしていくと知識というより、体験で神様とイエス様を知っていくことができ、すでに永遠の命が信じた時から始まっているんだと理解できるようになっていくことは、幸いです。地上で、神様の臨在を感じることができるのは、正直私はまだまだ限られています。それでも、これが天国では、目の当りに見れる、づっと共に生きれるということの、ほんのわずかな部分をこの地上でも体験できることは感謝ですし、天国でのことは非常に楽しみです。これも聖霊が理解を助けてくれています。聖霊は「助け主」*1 とも言われる神の霊で、イエス・キリストを示し、私たちが誤解しているたくさんのことを正しく理解できるよう優しく導いてくれ、また私がどう祈っていいかわからない時、代わりに神様に祈ってくれている*2 という、非常に頼りになる存在です。その聖霊が見えなくても、感じなくても、私の内側にイエス・キリストを信じた時から住んでいてくれるのは本当にありがたいなあと思わされます。聖霊が私の内に生きて働かれていることも、永遠の神の命が進行中であることの証拠ではないでしょうか。
 ちなみに蛇足ながら、天国で永遠に生きれる体は、もう年も取らず、罪も犯さず(だから争いもなく)、そして老化がない新しい体が与えられると書いてあるので、現在鏡を見るたびにしわやシミが気になる私としては、それが非常に楽しみであります。(すいません、次元が低いことで)

*1 ヨハネによる福音書14章26節 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 」

*2 ローマ人への手紙8章26節 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」
May 10, 2016 "ドン引きする時"

「その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、『なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか』。・・・イエスは言われた、『この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。』」 ヨハネによる福音書12章3-7節

 アメリカは歩けば教会に当たる程、街中あちこちにあります。そして、それぞれ宗派が異なり、礼拝の仕方も異なり、また同じ人種で集まる教会も地域によってはあります。ある教会では非常に騒々しく礼拝をおこないます。いちいち牧師が言う一言に、「アーメン!」「そうだ!そうだ!」など大声で合いの手をいれる人々。ある教会は賛美歌を歌いながら、踊ったり、飛び跳ねたり、号泣したりします。私は日本人で感情をあらわにする民族ではないし、小さい時から静かに行われる礼拝に慣れているため、当初アメリカに来て、自分と違う仕方で礼拝する人々にドン引きしてしまい、結果そちらに注意が引かれて自分が礼拝に集中できないのです。「ちょっと狂信的すぎる、聖書には秩序を持って行いなさいと書いてあるのに。。。*1」と批判的になってしまうことがありました。
 イエス様が地上におられた時、あと少しで十字架にかかる前に、ある女性が他の人々からドン引きするような仕方でイエス様への愛(礼拝)を表したことが聖書に記録されています。イエス様が皆と食事をしている最中に、いきなり高価な香油を持ってきて、イエス様の足にかけ、自分の長い髪の毛でぬぐったのです。弟子たちは「なぜ、そんな無駄なことをするんだ!その香油を売り貧しい人に施すべきだ!」と、特に12弟子の中でイエス様を裏切ろうとしていたユダがその女性を責めたのです。
 イエス様はその状況に対し、「この女のするままにさせておきなさい。」と彼女の愛の行為を受け取られたのです。彼女はイエス様が十字架にかかって死なれることをこの時点では正確に理解していなかったのですが、結果的に、彼女のしたことはイエス様を葬リのために捧げたことだとイエス様は評価されたのです。イエス様は生前、何度も弟子たちに「自分は宗教家たちに捕らわれて、殺され、3日目に甦る」と言われていたのですが、当時は誰もその言葉を理解できませんでした。
 私は今回この箇所より、イエス様に捧げる礼拝の仕方は人それぞれで、たとえちょっと度が過ぎるのではと、自分のやり方と違うからといって私が批判的になってはならないと示されました。自分自身も賛美を歌っている時、涙が出るときもあるし、手を挙げて祈りたい・賛美したい時もあり、感情が高ぶるときもあるのです。それは聖霊がそうさせているのであれば、神様はその礼拝を喜んで受け取って下さると信じます。ただし、他の人の動作や言動が気になって、あまりにも祈りや賛美に集中できないことは良くないので、幸いたくさんの教会がありますから、自分が神様への礼拝に集中できるスタイルの教会に集うのが、互いにとって良いのかもしれないとも思います。神様を礼拝する時、人のことを気にせず、また人がどう自分のことを思うかに捕らわれず、心から礼拝したいと思います。

「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」  箴言29編25節

*1「 しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。 」第一コリントの手紙14章40節
May 8, 2016 ”映画 "ウッドローン:WOODLAWN" 70年代黒人アメフト選手のストーリー”

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」 ヨハネによる福音書1章5節  (光:イエス・キリストを指す)

 私はアメフトというのは、今迄に何度ルールを説明されても理解できず、見ていても全く面白い、興奮するということを経験したことがありませんでした。もともと、スポーツ観戦であまり感情移入ができないタイプということもあります。しかし、この映画の選手たちのプレイする様子を見ていて、初めて声をあげて応援したくなる、非常にエキサイトな感覚を観ていて味わうことができました。久しぶりに感動する映画を観て楽しかったです。特に、信仰の仲間と一緒に、ピザやピップコーンを食べながら見る映画鑑賞は最高でした。
 この"WOODLAWN"という映画は2015年10月にアメリカで公開(日本では未公開)され、時は1970年代、公民権運動の最中、アラバマ州のウッドローンという市内の高校フットボールの選手の実話を基に作られた映画です。当時、ウッドローン市は人種差別に基づく爆弾事件が全米一多発した場所だそうで、その地区の高校生同士においても常に白人と黒人の間の憎しみによる闘争が勃発、人種差別がまだ大っぴらに人々の間で行われていた時代が背景です。この高校はもともと白人が多数で、そんな中に才能を秘めた黒人のアメフト選手が送られ、彼は様々な葛藤を抱えながら、自身のアメフトの才能とキリストを信じる信仰とを成長させていというストーリーです。彼を助けたのが、高校のチャプレン(教会外の場所;大学や学校、スポーツチームでキリスト教に基づいて精神的なサポートをする聖職者)で、彼はその黒人選手を助けるだけでなく、フットボールチーム選手全体にイエス・キリストの福音を語り、互いに憎しみ合うのはやめて、キリストを信じて赦しを受け取ろうと説教すると、皆が信じてしまうのです。そしてその信仰に基づくチームワークにより、次々と試合を勝ちぬいていきます。(負けることもありますが)
 一方、公立の学校のため、特定の宗教の話をすることが禁止されている中、遂には学校全体にリバイバル(信仰復興)が起こって、ほとんどの高校生たちが人種間の憎しみや心の傷などを赦し合い、互いにキリストを信じて祈り合うという奇跡が起き、信者でない先生たちを驚愕させます。そして、その驚くべき生徒たち・選手たちの変貌の現場を目撃していくうちに、フットボールのコーチもキリストを信じるようになります。アメリカは当時、TIME(タイム)誌で「ジーザス・ムーブメント」と取り上げられる程、若い世代、特にヒッピーの人たちが次々とジーザス(イエス・キリスト)を信じて人生が変わっていくという社会現象が起こってました。
 残念ながら、現代のアメリカは、それとは逆の現象が顕著です。中世時代の教会の腐敗もひどかったですが、現代のキリスト教会の中にも、聖書の解釈・根本的な教えを世の中の人権・人道主義という名のもとに妥協し、変えてしまっている教派があります。聖書の教えを忠実に守ろうとする人々は裁判で訴えられ、分裂し、信仰の自由を公に語れない、表現の自由さえ批判され、制限されていく現象がこのアメリカでおきていることは、私自身住んでいて実感しています。イエス様は教会の中から腐敗や偽教師が起こることはすでに2千年前から預言されています。*1
  しかしながら、力ある伝道者による集会も全米各地で行われ、新たな信じる人々がたくさん起こされていることを知るにつけ、非常に励まされ、「闇は光には勝てない」という冒頭の聖書の真理を確信し、引き続き信仰の戦いのために祈ろうと思わされます。暗闇は憎しみと分裂を増長し、光は赦しと愛、一致に導きます。キリストご自身が光であり、その光が暗闇の中に輝き、その光を一人一人が心に持てるように祈りつつ。

*1 「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」 マタイの福音書13章31〜32節  (ここでの天の御国は、地上で世の中に影響力を持って大きくなっていく教会のことで、その教会内にカラス;サタン悪魔とそれに従う人々を象徴 が巣を作っていくというたとえ話。)
May 3, 2016   ”付き合うこと:フェローシップ”

 

「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」第一ヨハネの手紙1章3節


  アンチャーチド・ピーポー(unchurched people)という言葉を先日耳にしました。つまりクリスチャンだと本人は自称するけれど、教会に属していない、教会の人との交わり(付き合い)がない人のことを言うそうです。アメリカは歴史的・文化的にキリスト教が背景にあり、統計を取るとクリスチャンの割合は高いですが、その内訳で実際教会に行っている人の割合はかなり下がるそうです。クリスチャンというのは、イエス・キリストを救い主として信じ、イエスのためにこれからは生きると決心して、公の誓いで洗礼式を受けますが、個人差があって、洗礼を受けても、そこまではっきりわかっていない、なんとなく信じている人がいたり、信じる決心はしたものの、その後教会に行かなくなってしまったという人も日本にもいると聞きます。
 私の場合、中学生の時確かに信じようと決心し、大きな修養会で大人たちの前ではっきり証しをしたのは覚えているのですが、キリストの為に生きるとか、あまり具体的理解していませんでした。当時、親の通う教会に一緒に通っていたので教会には繋がっていましたが、受験勉強で忙しいということで丸一年教会に行かなかった時期があり、それ以降、信仰から離れてしまった時期があります。そのまま社会人になって、聖書を読むこともほとんどなく、教会に行ってもメッセージも良く分からず、クリスチャンではない人々とづっと普通に付き合っていたので、本当に信仰が復興するまで非常に時間がかかり、辛い思いをしました。信じた後に、教会につながっていること、聖書の言葉で養われていることが、いかにクリスチャンとしての信仰の成長をどれ程左右するか重要なのです。そうでないと、ひとりよがりの”クリスチャン”となってしまうからです。
 キリストを信じる信仰は、宗教 (Religion)ではなく関係(Relationship) だとよく言われます。イエス・キリストとの生きた関係であって、それは宗教儀式をすることや、奉仕活動などの行いによって得られるのではなく、聖書のことばや祈り、他のクリスチャンとの交わり(フェローシップ)を通して構築されていく神様との信頼関係なのです。人はある意味、「これこれをやれば神に認められます、天国へ行けます」という方が理解しやすく分かりやすいのです。「信じるだけでいいのです」「もっとキリストを知っていくこと(経験していくこと)です」と言われると、どうしていいのかわからない、難しいと言われます。しかしこれらのことは、神の霊である聖霊という助け主、ヘルパーが信じる事、神との関係を持つこと、また神様とキリストとのつきあい(フェローシップ)をもっていくことを助けてくれるという約束が聖書にあります。非常にたよりになる強い味方です。
 目に見えない神様との関係・付き合いが順調ですと、自ずと目に見える人との関係・交わりも良好になります。なぜなら、交わりというのは何か共通点がないと続かないもので、その共通点は「天の父なる神様とイエス・キリストと個々人が関係・付き合いがある」ということだけなのです。教会は(特にアメリカでは)人種も、生活環境も、考え方も、性格も皆異なる人同士の集まりで、なかなか一致できないものですし、同じ人種で教会も固まることもあります。立派な人や、性格のいい人を期待すると失望します。なぜなら、みなキリストのような性質に変えられていく開発途上の人同士ですので、”互いに”忍耐し合う必要があるからです。(愛とは忍耐することです)* 私のNYの教会は様々な人種がいますが、年齢もばらばら、話をしようとしてもなかなか共通点がないのですが、イエス様のこと、神様を信じることについては信者であれば一致します。それを基にして教会内で共に協力して歩み寄り、違いがあってもお互いを知って、互いに祈りあえることを目指して、祈り求めたいと思います。神様との関係がしっかりすると、ある人に何か言われたり、気に障る態度をとられても、「ああ、お互い不完全な人間だからな」といちいち傷つくことなく、一つの教会にとどまり、相手に忍耐しながら他者に仕えて行こうという心が与えられ、自身の信仰も成長させられていくでしょう。私ももっともっと、成長させて頂かないとと日々思わされ、聖霊に助けを求めますし、また、教会につながっていないクリスチャンが、なんとか良い教会に導かれてほしいと願っています。

*第一コリント人への手紙13章4-7節
inserted by FC2 system