"後方誘導"
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」 詩篇23編1-3節
羊飼いが羊の群れを誘導している情景を映像や写真で見られたこと はあるでしょうか。羊飼(牧者)は自分の群れの羊を牧草のある場所、水が飲める場所へと誘導していきます。羊は古代から野生化できない動物で、人の世話を受けないと生きていけない家畜です。羊毛を定期的に人に刈ってもらわないと伸びた毛の重さで皮膚が剥がれ、死に至ります。羊は群れで行動しますが、群れからはぐれると、帰省本能がないので、羊飼いが探しにいかねばなりません。牧草がある場所も、自分で探しにいけないため、放っておくと草を食べきったところにそのまま居続けるため、羊飼いが次の牧草地へ誘導していくわけです。しかし羊の優れた点は、羊飼いの声を聞き分ける能力があるそうで*1、自分の羊飼い以外の人が呼んでもついていかないそうです。羊は羊飼いに対して、本能的信頼があるようです。
羊飼いは先頭に立って群れを誘導する場合と、群れのサイドを歩く場合、また後方を歩いて誘導する場合もあるそうです。つまりいつも先頭とは限らないのです。それでも羊はその羊飼いが後方にいることを声などで認識するか、棒やむちで追い立てられるか(牧羊犬というのは群れの動きを助けるために使われるのでしょう)、前方へ群れと一緒に自分たちで動くわけです。
冒頭の箇所は 羊飼いと羊を、神様と人間に例えて、どのように神様が私達をケアしてくれているかを歌った有名な詩です。またイエス様はご自身を「私はよい羊飼い。羊のために命を捨てる」*2 と言われました。ここでの「命を捨てる」とは、私達が罪から救われるために十字架で代わりに死なれることを指します。
イエス様を救い主として信じて、日常生活の中であることの導き・方向性を祈っても、すぐに答えが与えられる、目に見えて状況が分かる場合ばかりではありません。あたかも羊飼いであるイエス様が、後方から誘導して下さるようでもあります。キリストを信じる者は、イエス様の姿が前方に見えなくても、背後にいて、その声と臨在を聖霊によって認識できるのです。いつも、イエス様が前にいるかのごとく、全て順調で守られて、安心であるときもあれば、先行きが不透明、何の見える約束がなくても、後方のイエス様の声を聞き分けて、前進しなければならないこともあるでしょう。後方誘導は、結局私達の信仰が試され、練られるためでもあり、イエス様に信頼して、目の前の状況が順風でなくても、信仰で一歩踏み出していくためなのでしょう。聖書のことばを通して、日々イエス様の声をキャッチし、正しい道に従っていきたいと励まされます。
*1 「自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。」ヨハネによる福音書10章4節
*2「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。」ヨハネによる福音書10章14-15節
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