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今日のわか ちあい



♪Today's Sharing♪

 June 2016

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
日を数える Happiness 幸せ 映画「復活(オリジナルタイトル: Risen)を見て  
時差ボケ 戦争と謝罪:オバマ大統領広島訪問 人数は少なくとも
お互い間に合ってよかったです 湯治@那須の湯 レースを走り続ける
June 29, 2016 ”お互い間に合ってよかったです”

「悪しき者はその道を捨て、正らぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ書55章7-9節

 この聖書の箇所は、先週末のリトリートの時と昨日も与えられ、通常続けて同じ個所が与えられるときは神様が私に語りたいことがある場合です。以前この箇所を読んで、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっている…天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」という部分だけ読み、「そうか、神様の計画と私の願いとか狙いは違うんだな」と単純に思っていました。確かに人間一人一人の心の思いを知り、全能である神の思いは自分のように小さな存在のものとは全く違うだろうなあという、漠然としたとらえ方でした。
   しかし ある牧師の解説を読んではっとさせられました。聖書といのは文脈があり、前後の話の流れを含めて各箇所をとらえないと、自分勝手な都合の良い解釈になる危険性があります。この文脈は、「神様がどんな悪いことをした人でも、悔い改めれば神はその人を赦される。」ということが前に述べられいてるのです。私たち人間は、自分の基準で、また育った環境や社会から影響されたはかりで、他者を裁きます。確かに「こんな人は赦せない!」と思うほど残虐な犯罪を犯す、もしくはイスラム国の行い、テロリストの行い、子供を人身売買の餌食にして甘い汁を平気ですう人、兵器会社の人間など、赦しがたい人がこの世にたくさんいます。私たちにとっては、そんな人たちが、赦されて天国にきてもらったら困るわけで、冗談じゃないと。
   しかし 神様の道は、また神様の思いは私たち人間の思いとはまったく異なるわけで、どんな人でも、もし神を信じて悔い改めれば天国にうけいれたいというその大きな寛容が神様の愛、恵みなのです。これは理性では受け入れがたいことですが、私は自分について言えば、こんなどうしようもない者でも赦しをうけ、ふさわしくない者でも神の子とされ、天国にいれてもらえると、その寛容に感謝しているので他者がどうであれば、関係なく「間一髪、間に合ってよかったですね。」とお互い一緒に天国で喜べるわるのでしょう。
 神様の人間に対する忍耐、赦し、愛、哀れみの程度はとても想像がつきません。しかし逆に、「自分は人さまに何も迷惑もかけず、犯罪もおかしていない。神に赦される必要もないし、悪い人間でない」と自分の善悪の基準で、自分を正しいとしている人は神の国に行けないのです。そんな、不公平な。。あれだけ良いことをしてきたのに。。。と人の尺度ではいいますが、神様の思いはイエスキリストを通しての神様を信じるか信じないかで決まってきます。神の赦しを必要としないと思う人は、自分で自分を正しいと証明しつづけなければならないでしょう。それは容易なことではないです。私はあえて、自分の限界と、神様の寛容な愛にすがり、降参して、自分の罪を認め、赦しを頂いて、更に自分の内側がキリストのような性質に生きている間もすこしづつ変えてくれるという約束を信仰で受けとめたいと思います。
June 26, 2016 "レースを走り続ける"

「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」へブル人への手紙12章1-2節


 初夏の日差しが眩しいこの週末、私の教会ではペンシルベニア州の郊外で修養会が開催されました。マンハッタンの喧騒から離れ、美しい川と緑に囲まれたリゾート地にて素晴らしい時を与えられました。
今回の修養会のテーマは「信仰のレースを走りぬく」でした。CAの教会からゲストスピーカーを迎え、とてもチャレンジングな学びをすることができて感謝です。また学びだけでなく、土曜の午後は自由時間がたっぷりあり、プールで泳いだり、近くを散歩したり、また一人で静かに静まって聖書の言葉を読みながら祈るときも与えられました。リトリートは「退却」という意味で、まさに日常生活から退却し、心身ともにリラックスし、神様との時間を持つために与えられているプログラムですので、とても貴重な時でした。
 土曜の夜に、学びが終わってからこれから遠くへ旅立つ人の為に皆で祈るときが与えられましたが、折しも7月に日本に帰国する私のためにも、皆が日本での神様の導きを祈ってくれたのは感動でした。突然の別れに、ある人々は戸惑っていましたが、事情を説明すると理解してくださり、寂しいけどいつか会えるよねと、引き続き祈ってくれると。何度もたくさんの人から「I miss you, Yoko」と言われると本当に寂しさが込み上げてきますが、私たちはたとえ地上での生活が離れていて会えなくても、いつか必ず天国で会えることを知っているので、それ程悲しみに沈むことがないのが幸いです。「またNYに戻って来ることもあるかもね!」と。そして夜のクライマックスは、星空の下、キャンプファイヤーを囲み、皆で賛美歌を夜中まで共に歌っていると、信仰のレースの友がこんなに与えられているということを心と体で感じ取ることが出来ました。
 何処へ行こうとも、キリストの愛を知り、キリストの十字架の贖いを信じ、彼の為に生きると決めた者は信仰のレースを一生走り続けるということを改めて学ばされました。私もマラソンを一度だけタイムは遅いですが完走したことがありますから、レースを走り通しゴールに到達した時の達成感は忘れられません。レースは一人で走るのですが、実際は独りでなないのです。周りに共に走る人々がいるから途中で挫折せず走り(私の場合強歩に近い)続けられる、また周りで応援してくれているギャラリーの人々がいるから励まされてあきらめずにゴールまで続けられました。
 私は多くの信仰の共と、また先輩たちに囲まれて、また私のには聖霊といううちに住んでいて導き励まし慰めててくれる強力な味方がいるので、私自身には体力もなく、根性もなく、弱い者ですが、自分の失敗や弱さに目を向けず、一つ一つ神様の前に悔い改めて、イエス・キリストに焦点を合わせて信仰のレースを最後まで走り続けられるように日々祈り求めていこうと、今回のリトリートで励まされ、感謝です。
 一方で、早く日本に帰りたいという思いは隠せません。待たせている大切な人や私の家族に会うのが待ちきれません。そして、さらに日本で神様が私にどんな計画を持っていて、私がそれをキャッチしていけるかが楽しみです。今回のリトリートで鋭気が養われ、人生のレースを後半折り返し地点から走り続けていけるように、神様に祈り求めたいと願います。
June 22, 2016
"湯治@那須の湯”

「彼に言いなさい、『気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」イザヤ書7章4節
 

 先月、10何年ぶりに日本で温泉に入る機会がありました。普段はシャワーだけで済ませるアメリカ生活はもちろんのこと、日本に住んでいた時でさえもなかなか温泉地へ行くということがなく、バスタブのお湯につかるということもない生活をしています。お湯につかると疲れが取れるとよく言われますが、
湯治と言われるように温泉であればなおのこと体に良いのでしょう。ちょうどお客さんは最初は私一人だけで、露天風呂では何ともいえない、私だけの空間、静けさのなか、しばしお湯につかり心身とも癒されるようでしたが、同時にこんな贅沢をしてよいのかと思ってしまう、貧乏性でしょうか。
 冒頭の箇所は、古代ユダヤ王国が周辺諸国との戦争状態にあった時代に、預言者イザヤがユダヤのアハズ王に、神様から預かった言葉を伝えているところです。ここでは王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。」*とあるように、「やばい、敵が攻めてくるが勝算がない」という状況でした。神様は動揺している王と民に、「静まって、私に頼りなさい、責めてくる国々はたいしたことないから、しっかりとしなさい」と言われているのです。この「静まる」という言葉は原語のヘブル語で「シャカトー」といい、平和に、静かに、休眠している、怠けているという意味があるそうです。
 私たちは危機的状況に直面した時、思いも寄らない事故や災害が自身や家族に起こった時、問題の大きさにのまれて、動揺します。こういう時にこそ現代に生きる私達も、神様に信頼をおいて静まるようにと、この聖書のことばを通して励まされます。あせって起こす行動はたいてい状況を余計悪くするか、徒労に終わりがちです。そこで立ち止まり、自分自身の知恵に頼らず、「神様、どうしたら良いでしょうか?」と祈り求め、すぐに答えが与えられなかったとしても、すぐに状況が好転しないとしても、神様が全てをコントロールしているという信頼にあつかましいほどどっぷりつかる、身を静めて神様の動きを待つ必要があると教えられます。
 体の疲れは、温泉で多少よくなるかもしれません。しかし心と魂には、神様の前に静まるのが一番。まず一人で祈り、聖書を読む。もし心が疲れ、やる気がうせるとき、投げ出したい気持ちになるとき、悲観的に全て思えてしまうとき、動揺したとき、そんな時こそもっと神様の守りと恵みにどっぷり浸からせていただきたいと願います。何でもスピーディに動く世の中において、自分ですぐ動こうとし、頭でカラカラ計算してしまうタイプの私は、この神様の前に静まる、神様の愛の中につかるという訓練が問われます。私が未熟であっても、私が信じている方は、安心して、委ねてよい神様です。神の子であるイエス様の命を犠牲にしてまで、私達を愛して下さる、そんな大きな愛を持つ神様は他にはいないですから。今後は日本で、たまには温泉も楽しめれば嬉しいなあと。もちろんなくても私は十分ですが。
*イザヤ書7章2節 
June 21, 2016 "人数は少なくても"

「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」マタイによる福音書18章19-20節


 今晩は私の教会の祈り会がありました。平日の夜は皆仕事で忙しい人が多く、毎回たくさんは集まらないのですが、それでもいつも祝福された良い時が与えられ、互いの必要と教会全体の必要を共に祈り、平安で帰ってこられます。今日は特に人数が少なく、副牧師と私を含めて3人だけでした。しかし、私ともう一人の女性は折しも個人的な祈りを共に祈ってもらいたいと思っていたので、ちょうど良いタイミングだったのです。そして、冒頭の聖書の箇所にあるように、二人以上、心をあわせてイエス様の名前で祈ると、見えないけれどもイエス様はその間にいて下さり、祈りを聞いて下さっているというのが実感できるほど、3人で熱心に祈れました。
  祈りの内容は必ずしも、誰にでも、たくさんの人に話せる内容でない場合もあり、デリケートなコンフィデンシャルな事柄もあります。彼女は今日の祈り会から私と帰る途中、喜びにあふれ、「ああ、本当に良い祈り会だった!」と何度も言っていた程です。私も同感でした。今日は、普段個人的に時間がとれず聞けなかった、副牧師の証し:奥さんとの出会いと、二人が救いに導かれた経緯も聞くことができました。私たちは、以前は本当に神から離れていて、暗闇状態だったのに、神様がそこから不思議な出会いや方法を通して救い出して下さったという個人の証を聞くたびに胸が躍ります。そして、あきらめずに、妥協せずに祈り続けると神様は祈りに答えてくださる方だという証しを、私も分ちあうことができて、互いに励まされました。
 私は今回、日本に胃の治療のために来月帰国しなければならないことを教会の皆さんに言うたびに、とても寂しがってくださいます。約3年の間でしたが、このハーベストという教会の方々と親しくなれたこと、共に祈り会えたことはかけがえのない神様からのプレゼントです。また、帰国するという悲しいニュースと同時に、日本での神様が私に与えて下さるであろう新しいプランに関しても分ちあうことができ、別れの悲しみを超えて、非常に喜んでくれます。日本に帰ってからのことを祈って覚えていてくれるということは、離れていても心強いです。
 NYでの生活と伝道活動は、最初の頃は孤独で辛いこと、悲しいこともありましたが、それらに勝るたくさんの喜びと、祝福が与えられたなあと思い返すことが出来ます。この恵みの体験が更に日本での新しい道にて生かされますようにと願いつつ。もちろん、日本での生活は言語の壁がないとはいえ、山あり谷ありであることは覚悟しています。一歩一歩、アメリカでもそうだったように神様に導いて頂きたいと思います。
June 19, 2016 時差ボケ

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」伝道の書3章1節、11節


   飛行機にのって海外へ行くと時差が発生しますが、人によってはうまく現地時間に適応し、時差ボケがほとんど生じない方がいますが、私は現地時間に適応するのに非常に時間がかかるタイプです。今回も6月1日に日本からNYへ戻りましたが、時差ボケが治るのに2週間かかりました。毎日夜眠れない日々が続き、昼眠くなり、気が付くと机に座った間一瞬意識が飛んでしまうほど。本当に困ります。これがアメリカから日本に戻ったときはそこまでひどくないのです。時間の流れに逆に飛行機が飛ぶからでしょうか。日本からNYへは飛行機で13-14時間搭乗しているのに、日付は発った日と同日に着くのです。私の感覚では、過去に向かって時計が戻っいてく、もしくは一日の間時間の流れが止まっているような感覚です。もちろん、すでにNYから日本へ飛行機で飛んだ時、日付が先に進んでいる為、合わせると時間は結局平等に過ぎているのですが。
 時の流れは人間の力では変えられません。SF映画の世界では現在過去未来と行き来可能ですが、現実にどんなに科学が進歩しても、これだけは不可能でしょう。私たちは時として「時が戻ればいいのに」 と起こってしまったことに対する後ろ向きな考えや、「未来に行って先がわかればいいのに」
と先のことに対する思い煩いゆえに、未来を知りたいという願望を持ちます。しかし、実際は時の流れに沿って物事を解決し、進めていくしかないのです。
 聖書にはこのあり得ない『時』が止まったことと、時間が後戻りしたことが記録されています。もちろん、これは全てを無から創造した神様だから可能なことです。一つは、イスラエルの民が敵と戦っている時、日が一日沈まずに、太陽が中空に止まっていたという驚くべきことが書かれています。*1 次は預言者イザヤが神様に祈ると、日時計が10度後にもどったという不思議なしるしです。*2 この2回以外は、神さまは数千年の間の時の流れにそって、人間にとってベストの道:神様と共に永遠に生きることに導かれようと計画されていることに、その気の長さと、全能さに驚かされます。神さまだけは時を超えて存在されている方であり、いつも変わらず最初からいて永遠に存在される、そしてこんなに多くの人間がいても、全て同時にそれぞれの「時」を把握でき、全体をオーケストラされていること。時の流れをこの2回以外は変えることなく、長い時をかけて、総合的に私たち一人一人を見てくれる、これは私の理解を全く超えます。
 一つだけ理解できることは、そんな壮大な神様でも、イエス様のおかげで私には個人的な関係が与えられていて、私の人生においてタイムリーに様々な出会いと出来事(良いことも悪いことも)を起こし、それらが私のタイミングや希望とは異なったり、想定外だったりするのですが、いつも神様が私をケアしてくださるから安心して、委ねてよいということです。そして、神様は私の自由意志も泳がせながら、様々なことや状況を通して方向性を導いて下さり、私が自発的にその導きに従っていくまで忍耐を持って見守って下さっていることは、本当にありがたいことです。
 自分の都合や思いで何でも決めようとせず、神様にいつも導きを祈り求め、日々時の流れに沿って、時にはゆっくり、時にはバタバタと歩んで行きたいと、不眠時期がようやく終わりとなり、神様への感謝を持って、改めて思わされました。

*1 ヨシュア記10章13節 「ヨシュアはイスラエルの人々の前で主の向かって言った、『日よ、ギベオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ。』民がその敵を撃ち破るまで、日はとどまり月は動かなかった。」

*2 列王記U20章11節 「預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計に降りた日時計の影を十度あとに戻された。」
June 11, 2016 "戦争と謝罪:オバマ大統領広島訪問"

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」エペソ人への手紙4章32節

 先日、癌の末期の方をお見舞いに伺いました。彼女は気丈な方なので、癌の痛みを抑える薬でボーっとしながらも訪問した私たちをもてなして下さり、非常にお辛い状態にも関わらず、私たちの訪問を喜び色々お話しをしておられました。私は彼女の為に祈り、お話しを聞くことしか出来ませんが、彼女を訪問するたびに、たくさんのことを学び、また自分はなんと軟弱なんだろうと、もっとしっかり生きようと励まされます。
 彼女は広島の被爆者であり、戦後アメリカに渡って今にいたりますが、13歳の時に被爆して中高年になって体のあちこちに支障がでてきたそうです。癌も何度も罹り、眼もスイスの名医にまで通って治療、歯はある日ごそっと上下全てが抜けてしまい、アメリカ人歯医者が「こんな症例を見たことがない」と驚いたそうです。あの時、学友たちは瀬戸内海を泳いでいて(彼女と他2人は水が怖くて外に立っていた)、原爆が落とされ、海の中にいた同級生たちが死んだ魚がプカプカ浮いていくように死んでいく光景を目の当りにしたそうです。彼女は、その頃の苦しみ・痛みを想えば、今の癌の痛みは比でないと。
 彼女はアメリカに来てからキリストを信じる信仰が与えられ、被爆したことによる様々な試練について、一度もアメリカに恨み言や謝罪しろとは言いません。逆にアメリカに渡り、教会に来て暖かく迎えられ、クリスチャンと関わるうちにこんな素晴らしい人々が世の中にいるのかと感銘を受けたそうです。
 1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されて以来、71年後の5月27日、現役の米大統領として初めてオバマ氏が、被爆地となった広島を訪問しました。折しも私は日本に一時帰国中で、ニュースでこのことを肯定的に評価するメディア、また否定的、批判的なコメントも見てきました。
 人間の戦争の歴史を過去からさか上ってみても、その広島原爆の悲惨さは確かに史上最悪です。しかし、世界の各国はお互いに、戦争中にした恐ろしいことについて謝罪どころか、次々と新たな戦争を引き起こし、ますます軍備を増強しようというのが現実です。ドイツがナチスについて謝罪したことが唯一記憶にあり、希少なケースでしょう。
 人は自分の非を認めたくないし、逆に責任を転嫁するのが人の性質で、これは最初の人間が神との約束を破った時、謝るどころか「あなたのせいだ」と神に責任をなすりつけたところから*1 ずっとその子孫は同じことをしているようです。なぜ戦争を辞めようとしないのか。それは人が生まれつき争いをしないと気が済まないし、謝りたくないからです。家庭内の争いから国家間の紛争にいたるまで、話し合いで解決できるはずなのに、多くはお互いの利益が相反し、決裂となります。私は自分を含めた自己中心である、責任転嫁する人間同士では、限界があることをある時気づかされ、それを認めて、まず神様に謝り、赦しを受け取ったところから、視点が全て変えられました。
 「被爆した人の気持ちがわからないお前に何がわかる!」と言われればそれ迄です。しかし被爆された方でも、彼女のように信仰を持って苦しみの中でも神様との平和が与えられ、前向きに生き、アメリカを赦している方とお会いしているということも事実なのです。彼女は、彼女の苦しみを100%理解できて、慰めと希望を与えて下さる本当の神を信じているのです。私は平和を祈りますが、神を信じず、神を恐れない人々同士の間では、争いはなくならないと思います。人間がまず、神との平和・和解をキリストの十字架の犠牲を通して受け取り、そこで初めて人同士の和解、平和に導かれると私は信じます。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」*2 というイエス様の教えを一人一人がそうしたいと願い、もし出来なくても神様に祈って力を与えられてそうなるように願うならば、神様は祈りを聞いてく出さる方です。「そんなこと、無理だよ、人間だもの」と開き治り、神を信じようとしないのならば、争いは続き、この体が死んだ後も神と断絶しているために永遠に苦しむことになります。死んだら終わりではなく、意識は永遠に残ることが聖書に書いてあるからです。これは、今生きているうちに、問われることだと思います。相手を責め続けるのか、それとも相手とのことは脇に一度置いて、自分自身が今迄神を無視してきたことを謝罪し、キリストによる救いを受け取るか。それを神様が一番に望んでおられ、何千年もこのことを待っておられるのです。
  私はこの夏、伝道の拠点をアメリカから日本へ移行する時期となりました。同胞の痛みを可能な限り理解しようと努めつつ、キリストを信じることの平和、慰めを日本人に伝えたいと祈ります。

 *1 「あなたが 私のそばに置おかれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」創世記3章13節、 強調フォントは追加

 *2 マタイによる福音書5章44節
June 8, 2016 "映画「復活」(オリジナルタイトル:Risen)を見て"
 
もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」第一コリント人への手紙15章14節


 5月下旬、日本帰国中に母と映画を見に行きました。映画の内容は「復活」といって、イエス・キリストが十字架に架かり、死んで、復活するところを、当時のローマの軍隊長が、イエスの死体を探すよう総督から命じられたところからストーリーが始ります。キャストも有名どころの俳優さんたちが起用され(「恋に落ちたシェークスピア」でシェークスピアを演じたイギリスの俳優が軍隊長を、彼の部下役は「ハリー'ポッター」に脇役で出ている日本でも人気の俳優)、歴史スペクタクル大作ともいえる映画。このストーリーは聖書を基にしたフィクションで軍隊長も架空の人物ですが、全くキリスト教というベースがない人種の人が、聖書に書かれているイエス・キリストの復活をどう見て、どう変わっていくかという視点で描かれているため、クリスチャンでない日本人が見ても面白かったとの批評がありました。私は信仰がある者の視点で見ましたが、改めてイエス様が死んで復活したという事実はすごいなあと、感動しました。下記予告編が見れます。
 しかし、単なる興味や知識だけでは、このキリストの復活を真実だと信じることは難しいでしょう。なぜなら、その信じるというプロセスに「何のために復活したのか」ということが問われ、それが自分自身の存在:「なぜ私は生きているのか?」という深い部分に関わるからです。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。」*1 と弟子のパウロが書いているように、キリストの復活が私達の罪からの救いに関係があるからです。キリストは、人間が生まれならがの罪:真の神を信じない とそこから付随する様々な神の基準から外れる罪から救われる為に十字架で代わりにその罰を負い、神からの怒りを受け、結果私達の罪が全て赦される為に死なれました。
 しかしキリストが単に死んで終わりであれば、それを信じる私達にも希望がないのです。この復活が、イエス様だけに起こることでなく、キリストを信じた者にも同様に、この今の不完全な年をとって死ぬ罪の肉体が死んで、いつか天国で永遠に生きれる、新しい罪のない体に復活するという約束を示すからです*2。 このことがあるから、今この世で生きている上で、たとえ状況や環境が困難であっても、天国での永遠という視点をもって希望を持つことができるからですそれはもう地上の生活が嫌だからという単なる現実逃避の考えではありません。なぜなら、この地上にいる時から、霊的にはすでに新しく生まれ変わっているので永遠の命は始まっていて、神様の祝福や恵みを受け続けるという幸いに生きられます。この映画を見て、何か心に捕らえるものを見いだす人が一人でも多くいますように 祈りつつ。
June 4, 2016  
"Happiness 幸せ"

「おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。
主のもろもろのあかしを守り、心をつくして主を尋ね求め、また悪を行わず、主の道に歩む者はさいわいです。」 詩編1篇1-3節

 
 どんな時、「幸いだ、幸せだなあ」と感じますか? 私はおいしいものを食べている時。一日が終わって、ベッドに横になりこれから眠りにつく時。そして自分が心を開ける人と時間を過ごしている時。そんなありふれた日常的なことですが、至福の時と感じます。そもそも、幸せと感じる感情は漠然としていますし、相対的です。
  一方「幸せになりたい!」と思い、それ自体を求めても幸せというのはなかなか得られないのではないでしょう。結局、何か別のことを得ようと求めた「結果」として、幸いを得られるのであって、幸せ自体は直接求められるべく類のものではないと思います。
 聖書では神を知ることを求め、神の自分に対する人生の計画を発見していくこと求めれば、その結果として、幸せを見出すとされます。 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」*1と イエス様は何を食べようか、飲もうか、着ようかと思い煩いがちな私たちに言われました。生きるために必要なことは、神様を第一に求めれば自ずと与えられるから心配しなくてよいと。求めなければならないこと:神の思い、計画を求める。つまり、神が人を創造されたとしたら、そのメーカーとして何が一番人にとって良いことがをご存知のはずですので、メーカーに聞いて従うのが一番だからです。
 私はまだまだ、自分の「心」(狙い、希望、願望)を求めて動いてしまいがちですが、ちょっと立ち止まり、神様はこの状況で私にどうしたらベストかを教えてくださいと求めたいと思います。それは忍耐がいることですし、すぐに結果がわからず自分の希望で先に動こうとする衝動にかられます。しかし、神様の思いと繋がって、共有できれば、状況に左右されない、人知を超えた幸い、幸せを結果として得られるのです。私は大切な人との出会いも感謝しつつ、神様の思いをもっと知って、それに自分も少しでも沿って生きれたら、そしてもっと幸せになれる。それを目指したいと思わされます。

*1 マタイによる福音書6章33節


June 3, 2016
"日を数える"

「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。」詩編90篇12節

 日を数えるとはどんな時にすることでしょうか。例えば歌に「♪もういくつ寝る とお正月♪」とあるように、何か楽しみなこと期待していること、計画していたことの決行日などが来るまで「あと何日」と数えることがあると思います。
 冒頭の聖書の箇所では、何のために日を数えるかを学ぶかというと、知恵の心を与えられる為とあります。知恵とは単なる知識と異なり知っていることを適切に賢明に個々の状況に適用することですので、物事・状況を見極めるために知恵は必須でしょう。キリストを信じる者は、知恵は求めれば神から与えられると聖書に書いてあるので*、自分の知恵に頼らず、神の知恵を祈って求めます。自分の知恵、洞察力などが完全ではなく、限界があることを知っているからです。
私たちは、聖書の言葉にある真理を正しいタイミングで、正しい方法で、そして正しい動機で適用していけるよう神様に求めます。それが神様からの導き、知恵かどうかを祈って見極めることも必要です。私は、大きな決断をする時は特に、神様に「聖書のことばを通していこの方向に進んでよいか確証を与えて下さい」と導き求める様にしています。そうでないと、自分の思い、自分の早急な決断でことを進め、今迄失敗してきたことが多く、またその良くない結果を刈り取ることになるという痛い思いをしてきたからです。
 しかし、自分の一日、一日を数えることを学ぶ、つまり今日が人生最後かもしれないと大切に、賢明に生きようとすると、あまり先のこと、数年先、老後をどうしようかと考えず、思い煩うことがなくなります。人生の最終的な目的地が天にあるという信仰を与えられているから平安なのです。
 今回短期間で日本に一時帰国してきましたが、まさに今迄祈ってきたことの答えが与えられたことは、本当に感謝でした。
  私はあることをかなりの期間祈り続け、時には祈ることも諦めてしまうことも多々ありましたが、神様の知恵は、このタイミングでおこり、この方法で導かれ、そして私の願いの内容は同じでもその動機が変えられてきた時ちょうど、この3つが揃って、私の予想以上の祈りの答えを神様が与えて下さっていて、これはまさに人間の知恵や思いではなく、神様のみわざ、神様のなさることだなあと改めて感動しています。これからしばらく大きな動きがあるので、一つ一つ祈って、前に進んで行きたいと願います。そのなかで一日、一日、神様からの知恵を頂き、それを信仰によってこれからのことにも適用していきたいと願います。

*1 「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 1:6ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 1:7そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 1:8そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」ヤコブの手紙1章5-8節
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