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信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

Feb. 2011

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



(写真左:トルコの遺跡:エペソにいた猫)
ニュージーランド被災者とそのご家族のために
祝福 肉が食べたい! 不正出血 January 2011
良い知らせ@ 良い知らせA 日曜日に休む由来 December 2010
4年ぶりの再会 海外版NHKニュース ベニスの商人と人種差別 November 2010
なんぼ儲けたかではなくて 自由意思 古代の感染症対策 October 2010
断食後の空腹 映画:"2012年" 中国式 秀才教育 September 2010
高いホットドッグ フェローシップ:交流 先生と呼ぶ文化 August 2010
(以下今月分日付順)
2/26/11 ”ニュージーランド被災者とそのご家族”
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」ローマ人への手紙12章15節

 2月22日におきた、ニュージーランド、クライストチャーチの大地震は本当に衝撃的でした。5日たった今でも、倒壊したビルのがれきの中を行方不明者の救出作業が続いているとのこと。特に、日本からの留学生が多数被害者となり、そのご家族も現地到着しましたが、遺体の身元確認も時間がかかっており、ご家族の方々はどんな思いで焦燥を募らせているかと。。NYの9/11のテロ事件の時、ほぼ絶望的状態でも、がれきの中から奇跡的に救出された方々も何人かいましたし、なんとか一人でも多くの方が救出されてほしいと祈っています。
 先日、通勤途中にラジオを聞いていて、ある牧師が”なぜ人は災難に会うのか?”というタイトルで話していました。その牧師は約3年前にご自身の息子(当時20代)を自動車事故により突然失いました。かれはグレッグ・ローリーといってアメリカで有名な牧師・伝道師で、毎年大きな伝道集会を開催し、多くの人をイエス・キリストを信じるよう導いてきた人です。彼が当時息子さんを失った後、その悲しみを正直に表しながらも、伝道活動を続けていたのを覚えています。その彼が、「人はクリスチャンであろうが、なかろうが、良い行いをしていようが、しなかろうが、みな平等に病気や、事故や災害に遭う。なぜ人はこのような目に遭うのであろうか?みなさん、ノートを用意して、答えは。。。「I don't know」(わからないよ) わからないものはわからない。ただ一つわかることは、神は良い方だということだ。また、自分の経験からも、災難・不幸に会った時とても慰められたのは、一緒に悲しんでくれることだよ。聖書にも”喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。”とあるけど、そのとおりでさ、自分と一緒に泣いてくれたことが本当に慰められたよ」と。
 ”なんでこんなことがおこるのか!”と悲しみの渦中にある人にとって、他者からもっともらしく、”そういうことも試練だから乗り越えなくちゃ”とか、”でも、〜は不幸中の幸いだよ”等の慰めの言葉は、気持ちは有難いのですが、あまりに絶望していると心に響きません。それよりも相手の辛い悲しい気持ちに少しでも共感しようと、共に泣いたり、ハグしたり(西欧的ですが)、そして陰でその方の為に祈ることって、大事だと思います。その祈りは聞かれ、神様はその人に慰めを与え、心の傷も徐々に癒して下さいます。そして、神様は一人一人にとって良い方であることだけは、私も確信していますし、多くの方にも知って頂けたらと願います。今この時点では、この艱難の意味がわからなくても、天国に行った時に全てがわかり、そしてもはや天国では涙も悲しみもないと聖書に書かれていることを信じ、希望を持ち続けたいと思います。
  ニュージーランド地震の被害者のご遺族の方々へ慰めが、また今も救出を待っているご家族に希望が与えられますよう引き続きお祈りをしたいと思います。
2/25/11 ”不正出血”
「さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。」マルコによる福音書5章25-29節

 女性にとって、生理が周期とおりに正常に来ないというのは非常に身体的にも精神的にも問題です。女性は子供を産む体としてホルモンバランス等、色々複雑なわけです。私は多忙で精神的にプレッシャーがかかったり、大きな環境の変化があると、すぐに生理が一時的に止まってしまいます。一年止まったこともあります。薬で無理に生理を起こさせようとすると、私の場合具合が悪くなりましたし、やはり一時的効果。原因は検査しても特にわからず、しばらくしてまた体調や環境がおちつくと再開するようです。逆に、ある人は生理がたくさん来てしまう、頻繁に出血してしまう症状があり、これはもっと辛いですし貧血になります。その原因が子宮内膜症・子宮筋腫などの可能性もあるので、検査して原因が分かり次第治療が必要です。
 今日の箇所は、12年間不正出血が止まらず、また医者にかかっても治らず、医療費にお金を使い果たし、また当時のユダヤの律法では、生理中の女性は家にいて行動がある程度制限されていましたから、この女性はづっと肉体的にも精神的にも苦難の中に12年間いたのだと思われます。そして、病気を癒してくれるというイエス様の噂を聞き、でも出血している人は群衆のなかにでてきてはいけないので、そっと隠れて着物の端にさわろうと、でもきっと治るという最後の望みをかけて勇気をだしてきたのだと思います。そして、彼女の願いとおり、出血は止まったのです。彼女はシンプルにイエスなら治してくれると信じる信仰があったのです。
 「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」(34節)とイエス様は彼女に言われました。イエス様はただ病気を癒されるだけでなく、優しい方で心に響く、平安を与えてくれる言葉もかけてくれるかただなあと、彼女はどんなにうれしかったことでしょう。私も、生理がづっと来なかった時、非常に落ち込み、でもこの聖書の箇所を思い出し、きっと必要だったら治ると信じて神様にお祈りしました。今、神様は私を健康に保って下さっていることに、本当に感謝です。また何か病気になったとしても、神様に信頼できるように心が備えられたいと願います。
2/24/11 ”肉が食べたい!”
「また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、『ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。 』」民数記11章4-5節

  私は食べることが好きで、何をたべようかな〜と考えるだけでも楽しみです。肉も魚も好きですが、私の家では日本のようにグリルで魚を焼けません。煙がすごくて、火災探知機がなってしまうか、魚臭くなってしまうので、肉か野菜・卵を使ってメニューを考え簡単に作ります。特にたまねぎ、にんにくは料理にはかかせません。とにかく今手に入るもので感謝してなんでも食べようと思っています。
 今日の箇所は、古代イスラエルの民がエジプトで約400年間寄留していたときに、エジプト王によって民族全体奴隷にさせられ酷使されていたところを、神様が救いだして脱出させてくれた後、シナイ半島の砂漠でテント生活をしていた時の話です。砂漠で食べ物がなくなり、文句を言いだし、しまいには奴隷状態であんなに苦しめられていたエジプトのほうがよかったと指導者モーセに文句を言いだした箇所です。
 ”喉もとと過ぎれば熱さ忘れる”といいますが、せっかく奴隷状態から自由になったのに、神様が砂漠でも新しい移住の土地へ行くまで養ってくれるという信頼が人々になかったので、不安に陥ったのです。あれだけ、たくさんの神様による奇跡を目の当たりにしてエジプトから救いだされたにも関わらず。
 キリストを信じた後は、すごく平安な気持ちになって、自由に生まれ変われたという喜びが与えられます。しかし、ある人はその後神様に任せる、信頼することを聖書のことばによって養われず、聖書に書いてあることを”やらなければいけないモード”になり、”互いに愛し合いなさい、赦しあいなさい、神に従いなさい”等が窮屈に感じたり、”クリスチャン”と呼ばれている人で?という人につまづいて、教会に失望しバックスライド(信じる前の状態に逆戻り)して離れてしまう悲しいケースがあります。神様の基準は確かに高いです。行動にでなくても心の動機からも探るから、もしそれを自分の力でやろうとか清くなろうとか、いい人になろうとしたらそりゃー苦痛です。またクリスチャンといっても皆、開発途上人ですから、完全でないし逆に信者出ない人のほうがいい性格の人がいたりします。
 傷つけられた人は相手をなかなか真に赦せません。イエス・キリストはその聖書の高い基準を自分でやれとはいわず、逆にできなくても、そのできない私のために代わりに十字架で死んでくれたんだから、もう責められないんだよと言ってくれます。人はよく自分で自分を責めます。もしくは自己防衛的に他人や環境を責めて苦い心になりがちです。もし自分の心に何か責められるものがあれば、ただキリストを通してごめんなさいと祈れば赦されるし、赦せなければ赦せるように変えて下さいと祈れば聞かれます。キリストを通しての赦しを受け取り、真の自由を享受するには、神様に任せて、信頼することを生活のなかで徐々に体験していくプロセスもあり、一晩で急に全て変わりません。
 神様が私を愛して下さって、良い方だという関係さえあれば「エジプトの奴隷生活のほうがましだった!」という心理状態にならずにすむでしょう。生活の中の小さなことでも神様が与えてくれていることに目を留め感謝し、神様は私に良くして下さる天のお父さんだという信頼関係をもっと与えられたいです。
2/22/11 ”祝福”
「『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主がみ顔をあなたを照し、あなたを恵れますように。主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」』。こうして彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。 」民数記6章24-27節 (かれら→祭司たち)

 アメリカに住んでいると、たまに(私のエリアではまれに)、通りがかりで言葉をかわしただけで、別れ際に「(May) God bless you!」(神の祝福があるように)と言ってくれる人がいますし、私のクリニックの患者さんでも時々そういう方がいて、言われるととてもうれしいです。もちろん教会内ではよく交わされることばです。
 祝福とは辞書で調べると@幸福を喜び祝うこと。A幸福を祈ること。”とあります。結婚式などのお祝いの際によく用いますね。ユダヤ教・キリスト教ではAの意味合いで、神様が与えてくれる祝福となります。
 古代イスラエル人では、今日の箇所のようにその祭司が民を祝福するのが職務の一つでしたし、今日にいたるまでユダヤ人の礼拝でも、またキリスト教の礼拝でも祝祷として使われています。祝福は、これを読む祭司や牧師に祝福の力があるわけでなく、ただ神様から来るものです。私の東京の教会では、牧師が唱えるのでなく、全員で呼んで、互いの祝福を祈りあいました。西欧の教会では、これに曲をつけて、皆で歌って祝福を互いに祈る教会も多いようです。
 2月22日にニュージーランド、クライストチャーチで地震が発生し、多くの被害者が出ているとのことです。災害の中にあっても、一人で多くの方がすみやかに救出され、彼らが守られ、恵まれ、平安が与えられますように祈りたいと思います。
2/20/11 "日曜日に休む由来"

「また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。 」マルコによる福音書2章27-28節

 日曜日が企業・官公庁・学校に休みになったのは、日本では戦後、欧化政策(文明開化)の中で導入され普及していった制度。それまで勤勉な日本人は盆暮れ以外は休むという習慣はなかったとのこと。西欧では古代ローマ帝国がキリスト教を国教化した後で、キリストが復活された日を記念して日曜日に礼拝が持たれたことに由来するそうです。
 ユダヤ教では、神様が預言者モーセを通して、ユダヤ人のカレンダーで土曜日を休みなさいと(安息日)と定められ、さらにユダヤ人の間で宗教家によって定められた細かい規則でその日に働かないだけでなく、出掛けたり(ある一定の距離だけOK)、かまどの火をおこしたり、家事もしてはいけないとか。イエス様の時代のユダヤ人は、ばりばりその教えを守ることに拘り、イエス様に、”安息日に〜をしている”、”安息日に病気をいやしている!ルール-違反だ”といちゃもんばかりつけていて、今日の箇所はそれに対して、イエス様が言われた言葉。
 ”ルール・規則は人の為に存在するのであって、人がルールのために存在するのでない”と言いかえると分かりやすいですね。規則にばかりこだわると、そもそも規則が何のためにあるのかという目的を忘れてしまいがちです。そもそも安息日は、神様がはじめに地球を6日間で創造されて、7日目に休んだことにも由来し、”安息日を覚えて、これを聖とせよ。…七日目はあなたの神、主の安息である”(出エジプト記20:8-9)と書いてあり、だから人もそのために休みなさいと神様は定められました。実際何曜日が安息日・休みであろうと実はどうでもいいことで(こだわりすぎると当時の宗教家と同じ)、キリストを信じる者にとって大事なことは、神様・イエス・キリストのための日、神様を礼拝する日として守ることです。特にみなで集まって礼拝することは意味があるからするので、初代教会の信者はいつも集まっていました。(使徒行伝2:42-47)
 日曜日に教会に行くのに、つい何かをするために(奉仕や当番)、牧師の話しを聞きにいくため、何か”してもらう”ためと、つい”自分のため”の日にしてしまいがちだということです。もちろん、信じたばかりの人、神様を求めている人、まだ興味があるだけで信じていない人にとっては、ぜひ遠慮せず自分のために来ていただき、牧師の話からキリストがどういう方かの情報を得たり、ご飯を食べる為、また交流・ネットワークを広げる為に教会に来て下さって全然OKです。ただ、私のように信者で教会に何年も行っていて、いつまでも”受ける”ことばかり求め、もしくは教会での活動を何か自分の存在意義のため無意識にもしていたとしたら、本来の”神様を礼拝する”ことの原点に戻る必要がいつもあるなあと、今日も礼拝に集中していなかった自分に気付き、もっと礼拝のために自分の心が整えられるよう祈りたいと思いました。
2/18/11 "良い知らせA"

「イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 」 マルコによる福音書2章17節

 私がデンタルクリニックで働いていると言うと、たいていの人は「あ〜歯医者だけは苦手、あの音がいや、痛いし怖いし〜」と言いますし、歯医者に行くのが好きという人を聞いた事がありません。患者さんは虫歯、歯周病等、問題があって仕方なく治さなくてはという自覚があるから来るのです。問題ない人、丈夫な人は病院にいきません。
 イエス様は今日の箇所で、この病人と医者のたとえで、良い知らせ:福音の真髄を言われました。”義人”とは、自分が正しいと思っている人、つまり人様に迷惑をかけたことはない、刑法に触れる罪もしたことない、自分は常識の範囲内で生きているし、自分が正しいと思うとおりに生きる、神はいらないという人の事を含むと思います。罪とは原語で”ハ・マルティア”といって、”的外れ”とも意味します。つまり、的外れをしてしまう人がここでの”罪人”で、自分は完全でないし、自分が判断できる善悪というのには限界がある、神の基準・的(何が善か悪か)から外れてしまって、家族や周りの人と人間関係がうまくいかない、人一人を愛することさえもできない、赦しが必要、助けが必要、それを神に求める人です。病気の自覚→医者へいくのと同様、自分が神の前に正しくないという自覚があって、イエスのところへ行く可能性がある人のことです。その人たちを招きに来ました。
 義人はイエス・キリストのもとへ行こうとはしません。別に赦してもらう必要がないから。逆に、当時の社会で前科者、売春婦やぼったくりの取税人等の方が、すでに正しくないという自覚を持っていたので、自分がイエスみたいな偉い先生に招かれるにふさわしくないと思っていて、イエス様の招きをシンプルに受け取れたのです。それじゃあ、社会的に悪人のほうが救われるのか?神学的な議論はさておいて、人にとっての最大の罪とは、神を信じないことだと思います。そういう観点ですとみな平等に罪があるのです。また神様の前では、厳しい基準ですが、実行犯も心で思っただけでも同じ罪。その基準は厳しすぎると思うかもしれませんが、単に、困った時にお願いするどこの神だかわからない存在でなく、もし真の神という方がいて、人も宇宙も創造され、特に人を愛する存在として創られたとしたら、そのメーカーである神様が人にとってベストである基準を知っているではないでしょうか。
 「良い知らせ@」でのイエス様が言われた”悔い改め”とは、人が今まで神の存在を無視し、好き勝手に自分で生きてきた者、自分が神の前に正しくない者と自覚し、その罪を赦してほしいと神様に願うことから始まります。福音を受け取るのに”悔い改め”が前提となるのは、自分の”この罪”が赦されるために、イエス・キリストが十字架で代りに罪に対する罰を負われたので、私はもう責められる必要もなく、なぜか無罪放免になるという大きな恩赦を信じるからです。キリストを信じれば魂は滅びず、永遠に神と生きれること。そして地上で生きている間は、今までの自分中心の人生をやめて新しく生きる(Born Again具体的にはこれからは神様の的・愛の基準で人との関係を生きていこう、モデルであるキリストに従っていこうと決めると、不思議と自分の内側の性質も変えられていくと言うのも福音。この福音は、フリー、ただで受け取れます。なぜなら親が子供に請求しないように、神様は私たちの天のお父さんですからただで、良くして下さるのです。Praise the Lord
2/17/11 "良い知らせ@"
「・・・イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。」 マルコによる福音書1章14-15節

 現代はインターネットが普及しているおかげで一秒で全世界に、良いニュースも悪いニュースも伝わります。福音:Gospel はよい知らせ(GoodNews)という意味です。良い知らせは、聞いた人が良いと思って、他の人に伝えるので、あっという間に広まりますね。当時2千年前、まだ今の形での聖書もないころ、みなキリストに関する良い知らせが、口伝えであっという間に、世界に広がっていきました。彼らにとって何が良い知らせだったのでしょうか?
 イエス・キリストは2千年前に人として生まれて、30歳くらいまでは普通に、大工として生活していましたが、ヨハネから洗礼を受けた後、そもそもの神様から託されたミッション活動を始められました。その宣教活動の第一声が今日の箇所です。イエス様は人々に、神の国が近づいたこと、そして悔い改めて福音を信じることを話されました。では具体的にイエス様の伝えた福音とは?
 ヨハネというイエスの12弟子の一人による福音書に、具体的内容が書いてあります。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネ3:16) つまり、@神という存在がいて(人間の頭で作った神様でなく)、その神様が個人的にこの世→この世の人、一人一人を愛していることAだれでも神の子イエス・キリストを信じれば、滅びないで、永遠の命を得られるということです。
 良い知らせがるということは、反面悪い知らせもあります。たとえばマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書のどれかを普通に飛ばさず一書簡を読むと、イエス様は人々にたとえを用いて、神の国について話され、また神を信じて受け入れる人と、受け入れない人の状態を両方話されています。良い知らせを信じるか信じないかは、一人一人の選択ですが、神様は一人でも多くの人が信じて救われてほしいほしいと願っておられるとも、聖書に書いてあります。しかし、神様は悪いニュースのほうを強調して脅したり、強制して信じろとは言わない、やさしい方なのです。
 意思で決めるといっても、結局、私の場合いろんなことが起こり、自然と信じられるように変えられたというかんじでした。多くのクリスチャンの人に聞いてみると、同様です。私の決めるという意志も介入しますが、信仰は神様からのプレゼントとして、下さいと求めたら与えられたというかんじ。それがありがたいです。自分で苦労して得るものでない、すべて先方が与えてくれました。ほしいなあ、下さいというだけで。修行はいらないのです。
そして、ここの福音を信じる重要な前提であるキーワード、”悔い改め”(耳障りの悪い言葉かもしれませんが、実はすごい!)については、次回良い知らせAに分かち合わせていただきます。Praise the Lord
2/16/11 ”ベニスの商人と人種差別”
「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。 ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。…ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた」」マタイによる福音書27章63-66節

 シェイクスピアの喜劇ベニスの商人という話しをご存知でしょうか。この話の中で、強欲なユダヤ人の金貸しシャイロットという人がでてきますが、実はこの話のバックグランドに、中世でいかにユダヤ人がキリスト教徒と称する人々から差別されていたかを示す話しという見方もあるのです。
 先日、あるユダヤ人でキリスト信者の講演の録音を聞いていて、歴史的にユダヤ人がどれほどクリスチャンから迫害されてきたかの話しを聞く機会がありました。ユダヤ人が”イエス・キリストを殺した民族だから、またキリストをメサイア(救い主)として受け入れない”ということで、特にキリスト教がローマ帝国の国教となった以後づっと。中世ヨーロッパで形骸化したキリスト教制度により、ユダヤ人差別が横行していたのです。
 今日の箇所はイエス・キリストが十字架刑にかけられて死んだ後、ユダヤ人の宗教家達が、ローマのユダヤ総督のピラトにイエス様の墓の前で番をさせるよう依頼しました。そして、実際キリストが墓からよみがえって、弟子や多くの人々に現れましたが、ユダヤ人の間では、”弟子が死体を盗んだ、復活したというのはウソだ”という噂を流したと書かれています。
 ラジオを朝聞いていると、こういう話しがされていました。アメリカのある教会で伝道のために、地域の一軒一軒家を訪問して教会のトラクトを配っていた人の話しです。ある家を訪問すると、その家の女性が開口一番に「私はユダヤ人よ!」と言われて戸を閉められたそうです。そウ言われて、ひるみ、帰ろうとした時、聖霊が彼に「もう一度いって彼女に話しかけなさい」と言われふりむくと、その人はなんとこちらをまだ戸口から覗いていたので、こう話しかけたそうです。「あなたがユダヤ人であること感謝します。私たちはユダヤ人のおかげで、つまりまずユダヤ人が神から選ばれて、救いが我々にも伝えられたんですから」と話しを切りだすと、彼女は少し心を開き、ことばを交わして教会のトラクトを受け取ったそうです。
 イエス・キリストの十字架刑にその時代直接関わったのは確かにユダヤ人達でしたが、ユダヤ人達が存在しなければ、私たちの救いもないのです。イエス・キリストがこの世に生まれるための準備の一環として、彼らの祖先アブラハムからユダヤ民族を起こしたのであって、ユダヤ人にだけ、キリストの十字架刑の責めを負わせると言うのはおかしい話しです。なぜならば、キリストは全世界の人の罪を背負って、罰せられたのですから、”私の責めのため”でもあるのです。宗教と政治・イデオロギーが結託するとろくなことがないのが人の歴史です。そして、今ではその差別を乗り越えて、多くのユダヤ人がキリストを信じる信仰に導かれているということは、非常にうれしいことだなと思わされました。Praise the Lord
2/14/11 ”海外版NHKニュース” 
「私たちは何一つこの世に持ってこなかったし、また何一つもって出ることもできません。」
第一テモテへの手紙6章7節

 私の住んでいる家は、有料ケーブルや衛生放送を申し込んでないので、フィラデルフィアの地元チャンネルだけ見られます。日曜の夜はゆっくりできるので、少ししかないチャンネルを回してみると、なんとNHKニュースが放映されているではないか!(英語版ですが)もちろん、普段ネットで日本のニュースのヘッドラインくらいは見ていましたが、久しぶりに日本の様子をTVで観れて、小さな喜び!
 今はインターネットが普及していて、PCでいくらでも日本のニュースや動画も見れますが、以前私が留学生だったころは、まだまだ一人一台PCを持っていないし、ネットも普及していなかった、また日本の食材も高かったですし、海外に住んでいて日本の情報を得るのは貴重でした。物や情報がない状態で生活していると、たまに少しの情報が得られただけで、本当にうれしいのです。しかし日本にすんでいるとあまりにも恵まれていて、便利すぎてそれが当たり前になってしまい、もっといいものを求めてしまう、私はそんなものです。
 今日の箇所は、パウロというキリストのお弟子さんが、彼の弟子テモテへ書いた手紙の一部です。この前に「満ち足りた心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(6節)とも書いてあるように、今の状態で満足できる心を与えられると、ちょっとしたことが大きな感謝につながり、うれしく、その心の満足感・感謝こそ、心への大きな益になると思わされます。逆にどんなにお金があっても、今の生活に満たされない人がたくさんいます。もっといい仕事、もっといい稼ぎ、海外旅行、ブランドのもの、もっといい家、もっともっとと。。そういう方は、大変です。きりがないですから。
 物質的なものは何一つ長く続きませんし、心の深いところに開いている穴を埋めることはできません。しかし、キリストを信じる信仰は、神様との信頼関係をもたらし、同時に信じる人同士の交流(フェローシップ)が与えられていきます。そのフェローシップのなかで、お互いに励ましあい、祈りあい、お互いの重荷を祈りあうことができるので、互いの信仰も成長し、物質的な物や利害関係のあるつきあいで満たすことのできない、貴重な関係が与えられます。信仰と希望、神様の愛はこの世を出る時に持っていけるでしょうし、そして今生活している中で満ちたりた心を与えてくれるのがありがたいです。Praise the Lord
2/13/11 ”4年ぶりの再会”

今日は教会へ礼拝にいくと、珍しいビジターがいるなあと気がつきました。すると、そのアメリカ人は4年前に2−3度教会に来たことがある人で、4年ぶりに来たのです。私はちょうど、そのとき父がこの教会の牧師だったので、フィラデルフィアに短期間滞在したとき以来ですが、彼が父と礼拝後将棋を楽しんでいたので思い出しました。
当時15歳の少年だった子が、もう大きくなって大学生になって,日本語を独学で学び4年まえよりもかなり上手に話せるようになっていたのには驚き。彼はそのほかインド語、スペイン語も話せ語学に才能があるのでしょう。無邪気な笑顔でまた来たいといっていました。
 海外の日本人教会には日本人だけでなく、日本語が話したい、日本に興味があるというお客さんもよくみかけます。日本人教会は、駐在で数年だけ滞在する方が多く、永住や長く在住する家族のほうがすくなく、メンバーの入れ替わりが激しいのが特徴です。その限られた期間のなかで、日本的なものに触れたい、また聖書に興味あるかた、求めている方へイエスキリストの福音、その情報を提供するという短期集中がたです。
 日本では教会の存在も知らない、かかわったことがない方が、アメリカや海外に住んで、その文化がキリスト教のベースのため、初めて教会へ訪れるかたが多く、そして”宗教”という偏見の色眼鏡がとれ、気軽に来る方もいるのは、海外の日本人教会のある意味強みかもしれません。皆さんの来る動機はさまざまでウエルカム!、教会の敷居が低くなればいいなと願っています。 Praise the Lord
2/12/11 ”古代の感染症対策”
「主はまたモーセとアロンに言われた、 「人がその身の皮に腫、あるいは吹出物、あるいは光る所ができ、これがその身の皮に皮膚病の患部のようになるならば、その人を祭司アロンまたは、祭司なるアロンの子たちのひとりのもとに、連れて行かなければならない」」レビ記13章1節

 私は歯医者で働き始めて3ヶ月、徐々にまずは事務的なことから始め、器具の消毒・セットアップを覚えつつ、今日からいよいよ、サクション(唾液吸引)等、チェアー・サイドの仕事を少し始めました。先生の治療に必要なその時々の器具を早く覚えてさっと渡せるようになれるにはまだまだ、知識と修行が必要です。私の若くない頭は新しいことを覚えるのに時間がかかりますが、なんでも新しいことを学ぶのは大変ですが楽しみでもあります。
 病院もそうですが、歯科も直接、唾液・血液に触るので、スタッフは疾病・感染症対策に対する知識は必須です。以前の日本での職場が病院・施設でしたので、ある程度は知識はありましたが、事務方・相談員でしたから直接患者さんに触れることはありませんでした。患者さんのなかには自身が何かのウイルス等に感染しているか知らない場合があり、直接的にも間接的に感染しない・させないように、厳重な注意とマニュアルにそった対応と器具等の衛生管理が必要なわけです。
 今日の箇所では、主(神様)が、へブル人(今のイスラエル人)がエジプトで奴隷となってしまい、そこから神様の奇跡的な方法で脱出させ、移住先のカナンの地へ行く途中、荒野にて民を治めるための様々な戒め(法)をモーセというリーダを通して語られたところの一部です。十戒というのがもっとも有名ですが、その他細かい民法的・刑法的なこと、そしてなんと、約3300年前に感染対策的なことを神様が直接モーセに指示されているのが驚きです。(ここでは、皮膚病への対策を祭司が行い、感染性のある皮膚病がある場合は隔離するようにと)
 イエス様は2千年前、社会からも隔離され、疎外されていた皮膚病の人を癒されました。特に古代は病気は罪のせいだ、天罰だという考え方がこの時代も、また日本でもあり、病気になった人々は心身ともに辛い思いをしていたに違いないのです。罪のせいで病気になるという法則であれば、私はどれだけ病気になるのか〜、ときりがないです。そういう責められる思いからも、イエス様は人々を私をも解放されました。体の病気のいやしはある意味一時的でいずれこの体は生物学的に死にます。もう一方で、イエス様は人の肉的な死に続く”霊的な死”に対しても、希望をもたらすために来て下さったのです。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネによる福音書11章25-26節)Praise the Lord
2/11/11 "自由意思"

「時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、『彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか』。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。」マタイによる福音書26章14‐16節

 先日、学生さんと聖書の学びをしていた時に、その人はこう質問しました「なぜ、神は人をロボットのように創らなかったんですかね、なんでも神のいいなりになるような人間に・・」。私も時々ふと思ったりします、自分がもし生まれつき、素直で従順な性格だったら、罪とか失敗とか嫌な思いをしなくて、皆で平和に住めるのにと。
 答えはわかりません。神様は最初の人アダムとイブを創造されたとき、神様はかれらに自由意思を与えていたようです。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。(創世記2章16−17節)と言われました。アダムとイブはロボットにプログラムされていなかったから、へび(悪魔)に誘惑されて、食べるなと言われる実を食べるということを選択したのです、他にたくさんの実があったのに関わらず。その瞬間から、神様と人間の愛の関係が死にました。また生物学的にも人は永遠に生きられない存在です。以来、人は神様のいうことを聞くより、自分のことは自分で決めるという“罪”が入り、責任転嫁を始め、2人の最初の子供は、兄が弟を嫉妬で殺人!、いわばおギャーと生まれた時から、自己中心的な性質がDNAに入り込んでいるかのようです。確かに神の存在がないのであれば、“自分のことは自分で決めて何が悪い!”でしょう。
今日の箇所では、イエスの弟子の一人ユダがイエス様を裏切り、後に自殺しました。彼がそんな運命として生まれてきたなんてかわいそうと、よく聞きます。イエス様にも「生まれて来なかった方がよかった」とまでいわれて、ひどいじゃんと。でもイエス様は彼に対して憐れみの心でそういったと思います。彼が裏切ったとしても後で謝るという選択肢、チャンスもあるよ。彼にも最後までどうするか決める自由意思があったはずです。別の弟子のペテロもイエスをある意味裏切って、「おれはイエスなんかしらない!」と3度も否定し、逃げ去ったのです。二人の違いは、ユダは悔いただけで、キリストのもとにいかず、ペテロは悔い改めて、そして逆に使徒として力を受けて伝道していく者に変えられました。もう一つの、やり直せる例としては、使徒パウロは元はクリスチャン狩りをしていた迫害のリーダーでしたが、悔い改めて逆に大使徒として伝道し、新約聖書の多くの著者と変えられました。
誰にでもどの段階でも、神様のほうへもどるチャンスはあり、神様はプログラムされた指令通りに動くロボットを創らず、完璧でないゆえに失敗してしまう人を創られた。いつも忍耐強く待って、戻っておいでと、また反抗している最中でも、助けの手を述べてくれる愛のある方であることは感謝です。自由意思を持つ存在というのは、フェアではないでしょうか?それともロボットとして創られたほうがよかったのでしょうか?
Praise the Lord
2/9/11 "なんぼ儲けたかではなくて"
「 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。マタイによる福音書25章21・23節

 ある主人がしもべ3人にそれぞれ、自分の財産の運用をまかせ長期間旅にでました。Aさんは3千万円、Bさんは1千万、Cさん500万円。主人が帰ってくると、AさんとBさんは商売をして稼ぎ、それぞれ元金の倍にすると、主人から”よくやった忠実なしもべだ”とほめられました。そしてAさんのほうが金額が多いのに関わらず、二人に対して”わずかなものに忠実だったから多くのものを管理させよう”とまったく同じ言葉で主人はほめたのです。ところがCさんは主人が怖くて何もしないで、土の中に5百万をうめておいた。それに対し、主人は”なぜせめて貯金をしておかないのか、利息がつくのに”としかられました。イエス様がされたたとえ話です。
 このたとえは、キリストを信じた人たちがこの地上での生活において、神様に対する態度が忠実かどうかを問われることを示していると解釈されるそうです。ですから、AさんとBさんの儲けの額を比較するのでなく、主人から任されたこと(例えば、その人の才能:タレントというのはこのタラントが語源、能力、お金)を宝の持ち腐れにせず、用いなさいといわれ、彼らはそのとおりにしたのです。一方Cさんの態度は”主人が酷な人”、”恐ろしいから土に隠しておいた”と、主人への恐怖だけで、信頼関係がなく、主人から言われたことをしようとしないでいたのです。
 他の人から見ても何もしていないように見えても、神様の目から見て、自分の置かれた立場で任されていることをしていれば、それが神様に対して忠実な態度なわけです。神様は恐ろしい方ではなく、イエス・キリストを犠牲にするほど、私たちを愛してくださる方という信頼が重要です。失敗しても責める方でなく逆に助けてくださる方だと安心して、忠実にこつこつと小さいことでも従っていくと神様は喜んで下さる、ですから他人と比較しないでいいのです。何をするにしても主(神様)に対してしようという動機、そしてその動機により表に現れる態度を見られるのです。
 私たちの生活のなかで応用すると、例えば人のために祈ること(これが一番見えない行動ですが、一番重要)、自分の家族に誠実に尽くす、職場で誠実に働く、教会で小さいことでも何か責任を持ってする、礼拝や集会にくる等、何をするにしてもその活動の種類や量ではなく、神様に向かって日常生活の地味なことをこつこつと続けるのが大事なのではと思わされました。私もよく他人と比較してしまいがちで、そうすると落ち込みます。比較をやめ、神様へ感謝を持って喜んで、誠実な心の態度を保てるよう、祈って助けられたいと思います。Praise the Lord
2/8/11 "中国式 秀才教育"
「父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。」エペソ人への手紙6章4節

 先日、雑誌で、中国人の母によるスパルタ教育の記事 直訳すると”虎ママ”(”Tiger Moms: Is Tough Parenting Really the Answer?” By Annie Murphy Paul (Time, Jan. 20, 2011)をざっと読んだ。古今東西、教育に熱心な母親達がいますが、この記事の女性のように、最近の上海などの、経済的に栄えている都市での一部の親たちによる、その子供への教育はすごいらしいです。 英才教育もここまで行くとすごいなあと。
 私は小学校の先生をしている友人がいますが、彼女は子供が大好きで、教育熱心でありますが、対父兄には苦戦しているそうです。彼らは、なんでも学校に責任をおしつけがちなのも一因でしょう。実際、文部科学省の家庭での親子のかかわりについて国際的に比較してみた調査結果によると*、「日本の保護者は子どもに生活規律・社会のルールを身に付けるようにしつけることや,ほめる・しかるなどの子どもとコミュニケーションをとることの度合いが低い。…日本の青少年は,生活規律や社会のルールについて保護者から直接しつけられることが少ない。」*という結果。つまり、日本の親の学校生活という限られた時間のなかで、自分の子のしつけを学校側に期待する%が、他国より高いということです。
 聖書では、子供のしつけについては、家庭で、親がするものと書いてあります。それも”主の”と書いてある通り、”神様の愛”でもって教え戒めるようにと。同じ家庭でするにしてもタイガーマムのようなスパルタの母は、一つの事の教育にだけ厳しく、かなり情操教育的にも偏りが生じる可能性があります。確かに一芸に秀でるかも知れませんが、子供時代にしか経験できないことや学べないことを犠牲にしてしまう恐れがあります。なかなかバランスよくというのは、子育てされている方はご苦労されていると思いますが難しいですね。聖書には、親の子に対する愛のモデルがたくさん書いてあるのを発見できますので、お勧めです。Praise the Lord  *引用サイト http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/07020115/004.htm
2/7/11” 映画:"2012年"”
「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」 マタイによる福音書24章14節

 先日”2012年”(2009年米)という映画を見た。内容は地球が2012年に地殻変動によりすべてみな海に沈んでしまうというシナリオで、生き残りのために一部の世界の高官と金持ちだけが乗り込める巨大な船が密かに建設され、主人公の家族がそれに関わるという話。はらはらどきどきする典型的ハリウッド映画。
 この映像をみて、これらのシナリオが聖書のある部分を用いているのがよくわかります。まずノアの箱舟。昔神様が世界を洪水で滅ぼされた時、ノアとその家族とひとつがいのすべての動物が巨大箱舟に乗って救われた話。そして、この世の終わり(天変地異がおこりこの世が終わる)の様子。
 今日の箇所で、イエス様はご自身が十字架で死なれる3日前に、当時のエルサレムの豪華な神殿を去られるとき弟子たちに、この神殿が破壊されること、イエス様が再び天から来られること(再臨)、世の終わりに関することを説明されました。実際、ローマ軍によりAD70年にエルサレムは神殿もろとも徹底的に破壊されました。このイエス様の預言は複雑で、ひとつの時代のことだけでなく、これから起こることも含まれていると解釈されるとのこと。とにかく聖書・神様を信じていないハリウッド映画の著者がどう想像しようとも、いつ来るかは誰もわからないのですが、ただ”キリストの福音が全世界に伝えられてから”とイエス様は言っているので、その時なのでしょう。
 キリストが復活されて天に帰られた後、弟子たちがキリストの福音を宣教して以来約2000年の月日が経っています。まだ情報が伝わっていない国や地域も現代の世界にあると察しますが、このITの普及している時代、その日はそう遠くはないのかも。すべての国の人々に伝わるまで時が待たれると思うと、神様は平等に機会を与えてくださる方だと思います。
 世界が滅びるという悪い知らせの面だけ強調され、その恐れで支配されるのでなく、良い知らせ:福音、つまり神様が私たちを創った方であり、一人一人を愛していることを信じ、神様を否定し、自己中心的に生きてきた自分が正しくなかったことを悔い改めて、キリストを信じることでその罪が赦され、滅びないでず永遠の命をえることができるという福音を一人でも多くの方が知ってほしいと願いつつ
Praise the Lord
2/6/11 "断食後の空腹"
「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 イエスは答えて言われた、”人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである”と書いてある」。マタイによる福音書4章3−4節


 今日は日曜日、礼拝の中で、大人と分かれて子供のための日曜学校というのを開催しています。今の生徒は幼児(3歳くらい)と小学校1年位の子供達なので、紙芝居にて聖書のお話をしています。幼児向けに話しをするとき、実はすごく準備が必要とされます。なぜなら大人が使う言葉が通用しないので、子供にわかりやすい言葉を選ばなければなりません。また、子供の集中力が短く、また紙芝居みたいな視聴覚的なものを用いないと、すぐ他のほうへ目がいってしまうからです。
 今日の紙芝居は、本日の聖書の箇所、イエス様が悪魔(サタン)から誘惑されるところでした。イエス様が荒野で40日間断食された後、悪魔(サタン)がやってきてイエス様を誘惑しに来た話です。断食後、お腹がすいている状態で、サタンが”パンを石にかえてみろよ”と。私の準備不足で”誘惑”ということばを子供、それも3歳児になんと置き換えていいか、結局う”意地悪しにきた”としか説明できませんでした。本当に知恵を与えられないと、子供に教えられない、その子に申し訳なかったです。彼女に、最後に感想を聞くと、”悪魔は怖い〜”というコメント。「そうね、だけどサタンが意地悪に来ても、神様が守ってくれるんだよ」 と話しを締めました。
  イエス様は神様であるのに、2千年前、その時は人として生まれて来られたため体は弱い人間と同じ仕組みのはずです(今は復活されて新しいからだで天国におられるので違いますが)。ですから、お腹がすいたら辛いですし、十字架に張りつけになったら壮絶な痛み。もちろんイエス様はサタンの誘惑にひっかかる方ではないですが、それでも、このストーリーがあえて聖書に書かれているということは、私たちへのお手本、つまりどう誘惑に対処するか:神様のことば(聖書に書いてあることば)で対応するようにと、示して下さっているのが感謝です。
 サタンは目に見えないし、誘惑といかにも分かるようにはアプローチしてこない場合が多いです。見た目には自分にとって良いと見える事が多く、しかしその背後には神様との関係を壊す結果になるよう仕組まれています。そのためにも普段”日々の糧を与えて下さい”と祈って、心の糧:聖書のことばを読み、覚えていければと思いました。Praise the Lord
2/5/11 "先生と呼ぶ文化"
「彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。 ・・・また、宴会の上座、会堂の上席を好み、…人々から先生と呼ばれることを好んでいる。 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。。 』」マタイによる福音書 23章3-8節

 私は小学校の知的障害児のための学級で、一年間介護の補佐として働いていたことがあります。私は学校の教職の資格もないし、ただの介護人ですが、生徒の目からは違いがわからないので(もちろん生徒なりに誰が偉い先生か知っていましたが)、先生と呼ばれました。自分はそう呼ばれるのにすごく抵抗がありましたが、仕事上で生徒たちを混乱させないためにも、先生と呼ぶのが彼らにとってシンプルなので、それに従ったものです。
 日本人は”先生”と呼ばれるのが好きです。確かにそう呼ばれると、えらくなったような錯覚を覚えますし、いやな気がするひとはいないでしょう。弁護士、代議士、お医者さん、教師は先生と呼ばれる、そういう文化なのです。アメリカではファーストネームで呼ぶことが多いし、またタイトルを名前の前につけたりするのでまだわかりやすいです。
 イエス・キリストは今日の箇所で、人々から先生と呼ばれてはならない。先生(マスター)とよばれるのは、ただ一人、つまりキリストだけだと言われました。信者でない人の間や、教会外ではキリストを信じていないので、文化的に習慣的に先生と呼ぶのは仕方ないことだと。しかし、聖書に書いてあるのに、教会内で牧師を先生と呼んだりするのには私は正直抵抗を感じます。私が以前東京で通っていた牧師は、聖書のこの箇所のとおりに、先生と呼ばないでくださいとはっきり宣言し、みな名前で〜さんと呼んでいました。よく、教会でお互いを〜兄弟、〜姉妹とよぶのはこの箇所からもきているようです。
 一方で、教会内でも権威というか、リーダーに従うようにと、はっきり弟子のパウロは書いています。みな平等だからといって、めいめいが勝ってなことを言いたい放題では秩序はなく、その集まりは分裂します。私たちの唯一の共通点は、キリストを信じる信仰。あとはみな性格や育った環境・考え方もぜんぜん異なり、一致するのは困難。だからイエス様はそれをわかっていて”互いに愛し合いなさい”といわれたのだと思わされます。Praise the Lord
2/3/11 "フェローシッフ:交流"
「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。… よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」使徒の働き2章42、46−47節

 私は大きいパーティに参加するより、少人数で集まって食事やおしゃべりするのが大好きです。パーティだとたくさんの人に初めて会って、立食であちこち移動してとせわしなく、非常に疲れてしまいます。それよりも私はカフェやレストラン、または家に招待したりされたりして、初めての方も含めてお互いそこに集まっている人がひとつのテーブルで一つの話題ではなせるくらいの人数の集まりが個人的には好きです。とにかく集まって食べてお互いのことを分かち合って話すということが、私の楽しみの一つです。昔から井戸端会議というようにいかにも、女性らしいですね。
 キリスト教の教会と現在呼ばれている形式は宗派や国によって様々ですが、そもそも初代教会の様子が今日の箇所にかかれています。ひたすら集まり、また食事をともにしていたようです。そして、ただ集まるだけでなく、リーダー(弟子達)がイエス様の教えられたことを教え、みながそれを守り、フェローシップ(交わり→交流)をし、パンをさき(これはいわゆる聖餐式といわれ、イエスさまを覚えて一つのパンをさいてみなで食べ、ワインorぶどうジュースを飲む)、祈りをしていたのです。
 今日から、教会で女性のバイブルスタディを始めました。少ない人数ですが、お茶とお菓子を頂きながら、讃美を歌い、聖書を学び、わかちあいをし、お互い祈ってほしいことがあればそれを最後に祈りあうという会です。これからも定期的に続け、神様が新しい仲間を加えて下さった初代教会のように、この学びとフェローシップが祝福されるように願いつつ、まずはスタートできたことが感謝でした。
Praise the Lord!
2/1/11 "高いホットドッグ"
「それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。 」マタイによる福音書21章12-13節

 昨年の夏、フィリーズ対ジャイアンツの野球の試合を初めて観戦に行った時のことです。スタジアムはとてもきれいで、そこで働いている人々、特に席上案内係りの人はアメリカではまれにみる親切なサービスを提供し、野球観戦も楽しめました。しかし、ひとつ腑に落ちなかったことは、そこで売られている食べ物の高いこと!小さな小さなホットドックとポテト、ソーダを頼んだだけで10ドル強しました(千円くらいの感覚)。球場内へは飲食物持込禁止で、市場価格の3−4倍をとり(質も同じか悪い)、買いたい人々は仕方なく高いお金を払うシステムとなっています。辺鄙な山や離島での販売で運送料がかかる場合や、質のいい物に相当のお金を払うのは納得できます。単にそこの場所でしか買えないことを利用して150円位のホットドックを500円で売りつけるのでなく、利益を入れ込みたければチケット代に上乗せしてほしいと思いました。
 今日の箇所は、イエス様がエルサレムの神殿で、少々手荒いことされた場面です。神殿では人々が遠くから礼拝のためエルサレムに遠くから旅して上ってきて、神殿へささげる捧げ物(個人の所得に応じて、鳩、羊、牛等いろいろランクがある)を市場価格の数倍で、神殿の手前の庭で商人から買わなければならなかったそうです。また両替屋の手数料も高くと、ようは祈りの場所である神殿をぼったくり小屋に彼らはしていたため、イエス様は怒られたわけです。イエス様は、人々と神様の間を何かで妨げようとする人・システムに対しては怒られたことが聖書にかかれています。
 イエス様の時代の後、ローマ軍に神殿が破壊されるまで、ユダヤ教の神殿は礼拝の場所であり、また祭司によって人々の罪が赦されるための動物の犠牲をささげる儀式が毎年行われていました。しかしキリストが来られたおかげで、私たちはユダヤ人でなくても、また神殿に罪の赦しの動物の犠牲をささげ物をしなくてもよくなりました。なぜならキリストが一回きりで全人類のすべての罪の赦しのための犠牲となって十字架で死なれたからです。(ヘブル人への手紙9:25-28参照)動物の犠牲とはなんだか血生くさい話ですが、要は人の罪に対しては、それなりの罰を誰かが(以前は動物、今はイエス・キリスト)受ける必要がある程、神様の前には重大なことなのです。
 現代では教会が礼拝の場としてあります。そこにおいても、商売の場とならず、神様への祈りの場、礼拝する場であるべきで、またキリストを信じている一人一人が祈りの場(神殿)となれるようにと願いつつ。。Praise the Lord!


   
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