03/31/11 |
”救急救命講習を受けて”
「イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。」ルカによる福音書5章31-32節
今日は仕事で、救急救命(CPR)講習と歯科医での医療救急対応のクラスを受けてきました。日本でCPRは2年前に職場で受けたのですが、すっかり中身を忘れていました。まず気道を確保して、そして何回、心臓をおすんだっけ?と。歯医者でも、診療中に持病をもつ患者さんが急に倒れたりすることはありうるということで、その場合救急車へつなぐまでどういう医療的な対応をするか(これはドクターがやることですが)等を学びました。また、自覚症状がなく健康だという人も、突然表にでなかった病気がでたりしますので、こればかりは完全には予測できません。だから、いつでも対応できるように準備しておくのは大切だなあと。こういうセミナーはホテルで開催されるので、合間においしい軽食とクッキーを満喫しながら、(実はそのほうが私は楽しみ)継続的に学ばないと、すぐ忘れていざというときに使えないから必要だなと思いました。
医者には、自覚症状があって始めていくものです。ある方と話していて、その人がいうには、「体のどこかが悪いときはその専門の医者に行くように、心が不安なときは精神科医へ行く必要があるんだ。だけど、僕の医者(精神科医)は先日、”あなたは奥さんを愛してますか?”って何度も聞くんだ。もう40年近く夫婦なんだ。なんでそんなこと何度も聞くんだろうと思って、余計混乱してね」と私に話すので、「それはきっと、わざと何度も聞いて、わかっているけど意識していないことをあえて自覚させて安心させるためではないでしょうか?」というと、その方派妙に納得されて落ち着かれました。(あくまで私の推測ですが、とにかく本人が落ち着けばいいと思います)
自覚するというのは意外と意識しないとできないことかもしれません。とくに、私も含めて多くの人がまず自分は罪びとだと思うことは日常生活でまれかもしれません。イエス様のいう、罪とは神様の基準から外れていること(罪とは”的外れ”という意味もある)で、私たちがそれぞれもつ相対的な基準での良い悪いでの罪ではないのです。ですから、私は毎日的外れなことばかりしでかします。
イエス様(ジーザス)は私の心のドクターです。落ち込んだとき、また自分が的から外れてしまった〜と責められる思いが来た時は、心のドクターのところへ救急でかけつけます。カウンセリングの仕方は、私から祈りという形で、イエス様からの答は聖書を読んでいて与えられたりします。すると、対処療法的なアプローチではなく、その罪が赦され責められる思いから開放されますし、心の深いところに傷があればそれを癒してくれます。また何度もいけるドクターですので、私はそんなドクター・ジーザスがいるので安心です。 |
03/29/11 |
”魚釣り”
「シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。」ルカによる福音書5章5-6節
以前、海で沖へボートを出してもらって魚釣りに行ったことがあります。しろうとですから、ガイドの人にやり方をならって糸をたらし、待っていると、あっ、何かがひっかかった!と釣り上げてみると、だいたい小さいフグみたいなのしかつれなくて、いわゆる魚というものはつれなくてがっかりしたものです。大きい魚が釣れたら、さぞエキサイトな経験だろうなあと。何回もトライしてコツをつかむ必要があるようです。
イエス様の弟子は12人、そのうち4人が元漁師でした。今日の箇所は12人のなかでもリーダー各のシモン(ペテロ)が弟子としてスカウトされたところです。プロの漁師が夜通し網を湖にはっていて全然とれなかったのに、漁師ではないイエス様に「沖へこぎだし網をおろしてみなさい」と言われ、そのとおりにしてみると、ものすごい魚がとれたという話しです。ペテロはイエス様の力に驚き、またプロとしてのプライドが崩れ、恥入りましたが、イエス様はペテロに、”あなたはこれから人間をとる漁師になる”と、弟子としてスカウトしたのでした。
イエスさまの弟子になるということは、人間をとる漁師→つまり、人に神様の福音を伝えてその人がキリストを信じて従うようになるための働きをすることのたとえです。この働きはある意味特殊です。というのは、自分の力や性格・資質で人にキリストの福音を伝えようとしても、うまくいかないのです。しかし、神様の力(聖霊の力)が上からその人に望む時、大胆にキリストのことを話せて、相手もそれを信じるという不思議なことがおこることが聖書には記録されています(→”使徒の働き”等)。そしていまの時代もそうです。どんなに弁が達者であろうが、聖書の知識に詳しくても、人の説得だけで人はイエス・キリストを信じないのです。しかし聖霊の力がその働きをする人に望んでキリストの事を伝える時、相手がキリストを信じるようになるという奇跡が起こります。もちろん、人に説明するのにキリストや聖書に関する知識は最低限必要ですし、たくさんあったほうがいいですし、そのことも神様は用いられます。ですから私も聖書を一生学んでいきたいと思います。そして、ある時にちょうど求めている人に出会ったら、キリストを証し出来るように、上からの力が望むようタイムリーに求めて、不思議なことが起こるのを見たいです。それは大きな魚が釣れるよりはるかにエキサイトな喜びの経験だろうなあと期待しつつ。 |
03/25/11 |
”超ぐちりたくなる衝動”
「イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」ヨハネによる福音書21章17節
「お姉ちゃんは阪神大震災の時も、今回の時も、日本が大地震の時いつもアメリカにいるよね。今日本は、想像がつかないくらい何もかも変っちゃたんだよ。」と昨晩妹が電話で。東京では震災直後のガソリン・トイレットペーパがなくなって長蛇の列状態はおさまったが、いまだに買占め防止で”お一人様一個限り”の商品、信号も消えてしまう節電の時間のこと、TVでの悲しいインタビューや従来のCMの代りに流される政府広告の様子を聞いて驚くとともに、海外在住だと現地の大変さが身にしみてわからないなあと。
実は日本にいる妹に電話をかけたのは、コンナ時に不謹慎ですが、昨日あることで非常にイライラ、むかつき誰かと話したかったのです。今回は妹から日本の様子を色々聞いて、自分の話はせずにすみました。私の悪い癖は何かむかつくことがあると、誰かに聞いてもらいたい、つまり自分がなぜ怒っているのか、自分は正しくて、相手に配慮がない、責めたいがために、自分の一方的な立場を話し、第三者にぐちりたくなるという、本当によくないことです。そしていつもその聞き役が妹だったりするのです。もしキリストを信じているのならば、人じゃなくて神様に話せばいいのです(つまり祈りというかたちですが)が、頭ではわかっていて、人に勧めたりして自分が一番出来ていないことがあります。そうなると、こんなシェアリングを書くべきでない、やめろ偽善者と自分を責め、嫌気がさします。
しかし、そこで終わらず、チャンスがあるのでした。悔い改めればいいのです。この場合の悔い改めとは、まず、自分の正直な相手に対する気持ちを神様にぶちまけた後、しかし、相手がどうであれ、”自分”が苦い思いをもった罪を正直に認め、神様の前にごめんなさいと謝り、相手を赦せるように、また苦い気持ちを取り除き、相手を愛することができるよう助けて下さいと祈ることです。それを思い出して神様に祈りました。すると今朝、今日の箇所が待っていたかのように(その日々の聖書の箇所はたんに順番とおり読んでいるだけですが)、神様からの答えが与えられました。いつもタイムリーな聖書のことばにより。
弟子であったペテロ(シモン)はイエス様が十字架にかかる前に彼を知らないと3度否定し逃げました。その後イエス様が復活されて弟子達に現れた時、ペテロは3回もイエス様に「あなたは私を愛するか?」と聞かれ、”自分はあなたを愛したいけど結局出来なかった、そんな弱い人間です、あなたはわかっているでしょう。。”という気持で非常にバツが悪かったと思います。イエス様は決して責めるためでなく、彼を赦しそして「私の羊を養いなさい(飼いなさい)」と3度言われました。イエス様は彼に”赦しを受け取り、先に進みなさい、これからあなたが私を信じる民(羊)をケアするんだよ”と励まされたところです。私は弟子ペテロとは比較にもならない、超レベルの低い弱さですが、イエス様は”何度でも赦すから、助けるから、私の羊を養いなさい”と言って下さったのです。私はこれを信じ、愚痴りたい衝動もいつか変えられると信じて、聖書のことばを他の人に分かち合うことで、イエス様の羊を間接的であれ養う助けをしたいと、また初心に戻されました。本当にありがたいです。。。
*今日の聖書の箇所は、一年前私がアメリカに住み始める前に、神様が東京の教会の牧師を通して、アメリカでの生活の指針として励まし、与えてくれた箇所と同じでした。 |
03/24/11 |
”母は強し!ベイクセール(震災支援のための募金)”
「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。 ルカによる福音書18章15-17節
今日は、私のお友達のお母さんたちが今回の震災支援募金活動等のために結成した会(J-MAP:Japanese
Mother's Association in Philly)の主催で、ベイクセールが行われ、私は母ではないけど、ちょっとだけ売り子のお手伝いをさせていただき、とっても楽しかったです。皆さんの手作りのケーキ、クッキー等を地元にあるテンプル大学の構内の一部を借りて、学生さんたちに売りましたが、多くの学生さんたちが募金の意図を理解して買ってくました。そして”募金活動がんばってね!”と声をかけてくれた学生もいましたし、搬入を手伝ってくれた学生もいたそうです。私は特に三度のご飯より、甘いものが好きなので大好きなお菓子に囲まれてそれを売っているだけでも幸せ!そして、海外にて遠く離れていても日本のために何かできることをと、一生懸命企画運営しているままさんたちの姿にとっても励まされました。さすが、母は強し!ですね。
今日の箇所は、当時2千年前イエス様のところに、お母さんたちが自分の子供をイエス様より祝福してもらおうと思って連れてきた話です。人々の間では不思議な技・奇跡をなさり、またその教えには権威があり、すごいかただ!という噂の人で、皆こぞって彼の周りに集まっていたので、母親として、自分の子供をなんとか、イエス様の近くにつれて、触ってもらいたいという思いだったのだと思うのです。すると、なんと弟子たちが子供たちを追い返そうとしたので、イエス様が弟子をしかった場面です。弟子たちの態度は2千年前の特に、社会のなかで女性と子供は邪魔扱いということを物語ります。しかし、イエス様は違います。イエス様は社会で逆に疎外され見下されていた人々(前科物、ごろつき、売春婦、敵国ローマ帝国に雇われていた取税人、隔離されていた感染性皮膚病患者等)、資格がない・能力がない(例えば大人と比べると確かに子供は何もできない)、また女性(当時は現在のように男女平等でなく、かなり男尊女卑でした)に特に自分から近寄って声をかけ、ある人にはその病気を癒したり、一緒に食事したりして関わっていたことが聖書に記録されています。まさに、イエス様はそのような人たちのためにも仕えるために、地上に来たのです。
イエス様はただ弟子を叱るだけでなくこう教えられたのです。”この幼子のように神の国を受け入れなければそこに入れない”と。これは何も、大人に子供になれといっている文脈ではなく、その二つの性質を示していると思います@幼子(おおよそ未就学児くらい)というのは、一般に大人の言うことを素直に、単純に聞いて信じます。だんだん大人になって知恵や経験がついていくと、ただ聞いただけでは信じられず、何か目に見えるもの確証がないと信じられなくなりがちです。A一般に幼子は単純に親が自分を世話してくれる、愛してくれる存在として無意識に信頼して、完全に頼っています。子供ながらに大人にはかなわない、無力だと、今は頼るしかないという弱さを幼子はわかっているのです。
”キリストを信じれば救われる”という単純な福音のメッセージは、大人になればなるほど、もしかしたら受け入れがたい、信じがたいことかもしれません。しかし、大人でも子供でも、シンプルに求めていると信じられるのです。信仰さえも神様からのプレゼント(Gift)だと聖書に書いてありますので、求めれば与えられます。神様はキリストを通して、私たちを救いたいという、またキリストを信じると神様との愛の関係:子が親に頼るように信頼して疑わず、安心してどんな状況でも神様が何とかしてくださるという安心・希望がもてと、日々私たちを招いているのです。
今、まさに日本の被災地には復興するという目に見える確証もなく、何もない、どん底の状態ですが、国内外からの物質的・金銭的・人的支援も徐々に来るし、希望を持ってほしいと。また、今回のことでかなりショックを受けて、絶望的な状態の人々の心へ、単なる心理療法的ケアだけでなく、もっと心の深い魂の安らぎにもとづく希望・安心を持って立ち直ってほしいと。実際、精神医学・カンセリングはある程度までしか心の傷を取り扱えませんが、私たちを創った神様には可能であるということを、求めれば幼子のように受け入れられるという情報を知ってほしいと願いつつ。。 |
03/23/11 |
”わかっちゃいるけど、やめられない”
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」マタイによる福音書11章28-30節 (イエス・キリストの言葉)
今日職場にて、ある患者さんとの会話で、”子供は親を見て育つよね”という話になりました。その中で、自分が子供時代に親の態度・行動で”こうはなりたくない”と思ったことがあったら、そして、もし自分が大人になったとき、その性質を自分のなかに見つけたら、まずそのことをいやでも認めること、そしてそれをしないように気をつけることだよと、その患者さん(60歳代でお子さんは成人している)は言っていました。確かに認めないでいると、知らず知らずに悪の連鎖で、自分が親からされていやだったことを自分の子にもしてしまうことがあることは悲しい現実です(極端な例ですと虐待、アル中毒)。しかし、気をつけようとしてもつい、繰り返してしまうという、自分の力で克服できる人はいいですが、できないからこそ悩んでいる人も多いと思うのです。
今日の箇所は、以前私が行っていた東京の教会で、毎週日曜日に礼拝が始まる前に牧師が読んだところです。毎週来ている人にとっても、初めて教会という場所に来た人にとっても、このイエス・キリストのことばは心に響きます。人の心の中はその人以外だれもわからないので、たまたま教会の門を勇気をもってたずねた人が何か問題を抱えているかもしれません。また、誰に言えない、不安な個人的な問題を抱えているかも。。。
人生を生きていれば、楽しいこともたくさんありますが、重荷も増えていきます。家族問題、仕事の人間関係、家計の問題、病気、良くないとわかっていてなかなか止められられない習慣。。。それらに向き合わずに、ごまかして生きることは可能です。またいろんなことで紛らわせますし。ただある時、ごまかせないほどに窮地に追い込まれたとき、また認めたくない自分のいやな部分、ふたをしたくなる部分があったとしたら、イエス・キリストのもとに行けばいいのです。単純に、困ったときの神頼みです。その神頼みが、一時的ではなくその効果が永遠に続くように、イエス様は”私から学びなさい”とも行っています。イエスがどうその問題に対応したらいいか教えてくれます、聖書のことばを通して、また祈りを通して、聖霊(神の霊)の導きをとおして具体的に導いてくれます。学んでいくうちに、すこしづづ解決が与えられ、希望や平安が心に与えられるからと。私も色々、わかっちゃいるけどやめらられなかったことを、イエス様に持っていき、解決されたことがあります。そしてこれは今でも視点を過去から現在、そして未来へと向ける希望・励ましの言葉です。 |
03/22/11 |
”クリスマス劇?”
「すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。・・・聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」ルカによる福音書1章30-32節
クリスマス劇にある”イエスの処女降誕”という、今日の箇所は当時14-5歳で婚約中だったマリヤが、聖霊(神の霊)によって救い主、イエス・キリストを胎に宿ると、天使からお告げがあった箇所です。アメリカでクリスチャンと称している人の中で、この処女降誕を信じない人がいるそうです。そういう人はこの話はあくまでも”クリスマス劇”で現実ではないのです。聖書を部分的に”ここは信じる、ここは信じない、ただの物語りとしよう”と自分で決め「今は21世紀。昔書かれた聖書のこれは非科学的だし時代が違うから・・・でも神の存在は信じているし、日曜は教会にもいくよ、とにかく、現代流に解釈し、自然科学と宗教がうまく融和すべきだよ」との意見かもしれません
ある部分をOKとしてこの部分はNOとする判断が時代、個々人、宗派によって異なるんであれば、ずいぶんと相対的な宗教で、私はそんな不安定なものを信じられません。もちろん、聖書は解釈・理解が難しいところがいっぱいあるので、すべて人間が同じ解釈で統一できるとは思っていませんし、周辺的なことは多少違ってもかまわないと思いますが、中心的なことはいつの時代でも変わらない真理でなければ、どうしてそんな不確かな神を信頼できるのでしょうか。
朝ラジオを聴いていて、ある牧師がこういう話をしていました。人は皆それぞれ、自分のなかで神のイメージを持っている(神は愛だ!だから、裁きなんかないとか)、そしてその自分のイメージと違うとそこは受け入れないという姿勢の人がいると。その牧師は、はっきりとそういう人たちに向かって”それはあなたが勝手に作り上げている偶像だよ”といっていました。偶像とは何も、キリスト教以外の宗教を信じることだけではなく、自分の心を満たしているもの、心を優先して占めているものだと。ある人にとっては、お金を愛すること(お金自体は悪いと聖書はいっていませんが)、娯楽・ロマンスにばかり興じること、人からの評価・名誉ばかり求めること等。もしくは、自分の生き方は正しく、自分が価値基準を選び取る、自分ですべて善悪を決めるという強い人は、”俺が神だ”タイプだと。
私は以前、俺が神だタイプでした。自分の好きなことをできる範囲で追い求め、自分の都合のいいところだけキリスト教の神様を信じていると称し、自分勝手な神様のイメージを持っていたものです。一見自由でしたが、実際、不完全で限界のある自分に失望し、人を自分を傷つけ、自分の思うとおりにいかないことばかりで幸せでなかったです。しかしその後、イエス・キリストを通して、神様の愛を信じて受け取れるようになって、本当に自由になりました:様々な社会からの、親からの、またこうあるべきだという自我の束縛から、そして神様を信じていなかった罪からの。。。
重要なこと:神様が神の子イエス様を犠牲にてい私の罪を赦し、永遠の命を自分も含めてこの世のすべての人が受け取ってほしいと願っている、その愛にフォーカスすると、聖書に書かれている神さまのイメージ、神様の愛の性質を知り、多少腑に落ちないところやわからないところがあっても、周辺的なことはいつかわかればよいと。そして今、心の深いところで穴が開いているような状態で、それを埋めることを追い求めている人がいたら、この中心的なこと、福音を伝えたいなあと。 |
3/20/11 |
”震災地での新しい命”
「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」ルカによる福音書1章13節
震災地の医療現場で薬・水・電力・人材、物資不足により治療・処置にも限界がきていて、結果的に病院で亡くなられてしまった患者さんがいたという悲しいニュースを見た。病院ほど電気や水を使うところはないし、人の命がかかっているので本当に何とか優先的に物資や電気が備えられてほしいと祈ります。一方この時期震災地での妊婦さんと赤ちゃんのことを思うと本当にお気の毒ですが、こんな状況だからこそ、新しく誕生した命を見て周りの人は大いに励まされてほしいと。
今日の箇所は2千年前のイスラエルで、エリサベツといって不妊でづっと辛い思いをしていた女性とその夫ザカリヤの話です。彼らはすでに年をとっていたのに、天使が突然夫に現れて、”奥さんは男の子を産むよ、胎の中にいるときから聖霊(神の霊)で満たされてて、重要な役割をになうんだ”といわれたところです。実際、彼は成人し、イエス・キリストが宣教を始められる前に、メッセンジャーとしてメシヤ(救い主)到来の準備をする役目(人々に罪を悔い改め、洗礼をうけさせていた)を担いました。洗礼者ヨハネと呼ばれます。
私の友人でもづっと子供が授かるよう祈っている人がいます。彼女も信仰を持って期待して祈り続け、お互いに祈う仲間です。聖書には不妊の女性の話がよくでてきて、生物学的には無理、もう神様の奇跡しかありえないという状況で懐妊するパターン、その待望の生まれてきた子は重要な役割です。イエス様は洗礼者ヨハネのことを、”女の産んだ者の中(つまりすべての人間のなかでという意味)で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい”(ルカ7:28)と言われました。
私たち普通の人でも、神様が新しく生まれた命にみなそれぞれ重要な役割を計画されていると思います。その寿命が短くても長くても、結婚して家族を持つことや社会での働き、教会での働き等を含めた色々な役割を。なぜなら、神様はイエス・キリストをこの世に送ったほど、それほど一人一人が大切だから。神様の願いは、皆がキリストを信じて霊的に新しく生まれる(Born Again)*こと、信じた後、一人一人に神様が用意しているベストな生き方、この世での役割を求めるよう、徐々に導かれていき、何よりも一人一人がどんな状況にあっても喜んで生きていけるようにと。私も日々求め、導かれていきたいです。*ヨハネによる福音書3章に詳細 |
3/19/11 |
”水がせき止められるという奇跡”
「そして彼らに言われた「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」マルコによる福音書16章15-16節
水の力というのはものすごいもので、今回の日本におきた津波の猛威の映像で誰もが恐ろしいと感じたと思います。今朝私は聖書を読んでいて(ヨシュア記)、ふと、神様があの時、映画”十戒”にでてくる映像のように、超奇跡的なしるしをおこして津波をせき止めて助けてくれたら、みな神様を信じるかなと思ったりしました。海が真ん中からわれて、両側でせきたって乾いた地をイスラエル人が通ったように、また、その後ヨルダン川を渡るときも同様に川の水がせき止められたように。
しかし人というのは、当時エジプト人から救い出されたイスラエル人たちのように、その時だけで忘れてしまい、みなが奇跡だけで神様を信じるかというと、そうでもないようです。聖書を読んでいても、イエス様が地上にいた際人々を助けるためたくさんの奇跡をされたときも、また、3年半一緒に従っていたイエス様の弟子たちさえも、復活されたイエス様を見たという人たちの証言(最初は女性たちに出会われた)を聞いて信じなかったことからもわかります。
復活されたイエス様は弟子たちの前に現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をせめたとマルコは記録しています。しかし、不信仰といわれながらも、今日の箇所のように弟子たちに自分たちで行って、イエス様の福音、教えたことを伝えなさいと命令され、不完全な人を通して神様のお仕事を任せたのは興味深いです。それも、ただやれというだけでなく、他の福音書では”私はともにいるから”とイエス様は弟子を励まされ、またそのためには力が上から与えられるからとも約束されます。 水がせきとめられるような超自然的なしるしでインスタントに人が信じて終了!ではなく、地道な作業、口から口へ、そして聖書という目に見える書簡を通して、神様のことば・イエス・キリストの福音が世界中に伝えられて以来約2千年。こつこつと、まじでイエス・キリストを信じている人々がその教えにもとづき他者を助けたり・愛を示すことを通して、(例えばマザー・テレサみたいなつまり目に見える人のしていることをも通しても)キリストの性質が現されます。そのやっている人が偉いんじゃなくて、その人が信じているキリストがすごい!信じるに値する、これなら信じたいと思える。
ぜんぜん特定の神さまを信じるとは無縁の人生をあゆんできた人に、キリストを信じたきっかけを尋ねると、”不思議となぜか信じられていた!?”ということをよく聞きます。そういう”心が変わるという奇跡”からも神様は関係構築を始められるのかもしれません。忍耐をもって受け止めてくれる神様に感謝です。
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3/18/11 |
”震災プラス闘病中の人は。。。”
「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩篇103:2(主→神)
東京に住む妹からメイルで、生活物資がスーパーになく、皆列をなして買わなければならないと聞きました。震災の直後で、ガソリンも物資も不足し、また買いだめる人がいるからかもしれません。確かに、今後またどうなるかとわからないという不安から、買って保存しておかないとという気持ちはわかります。また余震がおこるたびに、恐怖がおそうと、友達からメイルがきました。特に今回の震災プラス病を抱えていて闘病されているかた、薬が今までのように手に入らない避難所の方々を思うと心配です。
私は突然、胃癌と診断されたとき、もう40歳にして、それも独身にして人生終わりか(同じ癌になった人でも結婚して夫・子がいる人がうらやましいとか)と悲しくなったことがあります。手術で胃と、その周りのリンパを摘出し、後遺症に悩まされて暗くなることが頻繁。そのときいつも励まされる聖書のことばが、今日の箇所です。この箇所に続き、この詩を書いたダビデ(古代ユダヤの王の一人)は神様を信じる人たちの上に降り注ぐ神の恵みの数々をあげています。神は、私たちのすべての咎を赦されます。病をいやし、わざわいから救い出してくださいます。恵みとあわれみの冠をかぶらせ、私たちの一生を良いもので満たしてくださると(103編3-5節)。本当に慰めと希望が与えられました。
自分におこった病気のことだけをフォーカスすると確かに否定的になります。しかし、神様が過去にしてくれたこと、また現在にも、そしてこれから未来も良くしてくれることに目を留めると希望が与えられました。すると、自分が質素でも不自由なく生活できてきたこと、お給料が低くても仕事もあり、家族も与えられ、たくさんの友人等、数えられないほどのよくしてくださったリストでした。これらは何一つ自分で獲得したものでない、すべて神様が下さった恵みだったと、病気になってやっとわかったのです。それらを感謝したとき、現在の状態に感謝し満足できるように変えられ、またいつ再発するかわからないという不安、おそれを締め出してくれたのです。
もちろん、これからも病気や災害にあうかもしれません。しかし、その時、またこの神様のことばと約束にもどろうと思うのです。現在の日本にいる困難な状況にあるかた、大切な人を失った方にも、闘病されている方々へも、同じ神様が与えられる慰めと希望が与えられますよう、祈りたいと思います。神様は決して人を罰する方ではなく、愛してくれる、良くしてくれる方であるのは、キリストを2千年前この世に送ってくださった理由からわかるのです。 |
3/16/11 |
”賛美歌を歌うわけ”
「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。ヨハネの黙示録4章11節
今晩は久しぶりに、家主の教会の牧師によるバイブル・スタディに参加。始まる前に食事を簡単にみなでしますが、やはり話題は日本の地震被害について。終わりにいつも祈りのリクエストを出して、心をひとつにして祈り、今回は特に日本のために皆で祈ってくれました。本当に感謝です。
今日の箇所はそのバイブル・スタディで学んだところで、天国での礼拝の様子が描かれています。これを書いたのはヨハネというイエス・キリストの弟子で、キリスト信者迫害のために当時地中海のパトモス島という島に流刑となり、その時神様から示されたビジョン(幻)を書いたものが黙示録です。
なぜ人は神を礼拝するのか?真の礼拝は文化とか慣習で強制されてするものでなく、本人が自発的に、スピリッツ(霊)の部分からするもの。それは神様が、目的を持って人間を創られたとき、この天国での礼拝のように、”神様をほめたたえるために存在(Being)”として、人間を創られたからだと学びました。そして神様の側からは人を”愛する存在”として創られ、その愛に自発的に応答して人は神様を”栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた”として礼拝できるのだと思います。
私たちの地上での礼拝は教会によってスタイルは異なりますが、共通していることは、賛美歌(現代風のですと、プレイズソング、ゴスペルソング)を歌う、牧師・神父の説教、祈り、聖餐式(毎週でないところもあり)です。キリストを信じる人が日曜でも他の日でも集まるのは、神様を礼拝することが目的で、メッセージ・説教のために礼拝があるのではない、メッセージ・説教は信徒たちを礼拝に整え導くためのものと。賛美歌を歌うことは、その歌詞が神様をたたえ、感謝する内容のため、礼拝なのです。私が東京で行っていた教会は最初の30分くらいは賛美歌を4−5曲歌い、その後説教という順序でしたが、ときどき、賛美歌が終わる頃に後れてくる人に、牧師からはっきりと”賛美はメッセージの前座ではない、賛美は礼拝・ワーシップだから遅れないように”と言われたものです。また、私が小さいとき行っていた母の教会は、礼拝10分前くらいから静かに座ってみな黙想して礼拝に備えていたのを子供ながらに覚えています。礼拝は平日家で一人でもできます。毎朝、日本のために祈りをささげつつ、神様をプチ礼拝したいと思わされました。 |
3/14/11 |
”なぜこんなことがおこるのか?”
「ヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。 」ヨブ記1章20-22節
昨日の日曜礼拝では、緊急に日本震災のための祈祷礼拝が米国・フィラデルフィア日本人キリスト教会でもたれました。当日、普段礼拝に来ていない日本人の方も、”一緒に日本のために祈りたい”と日本人のお友達を連れてきていました。この教会の属する長老派では”日本への災害救済献金”を設立し、アメリカ全国の教会に祈りとともに支援を呼びかけているそうです。どの宗派・グループの教会でも、昨日の礼拝では特に日本のために祈ってくれていた様子です。離れている我々としては、できることは限られていますが、同じ日本人として海外の方の暖かい支援は本当に感謝で、励まされます。また、地元のテレビ局やラジオ局が在米の日本人教会として、今回の件でインタビューを申し出てきました。
一方、こんな震災のときに、心無いことを言う人も一部います。Facebookでひどい書き込みをする人(”パールハーバーの報いだ”とか)、ある国の教会の牧師が”日本は偶像礼拝の国だから”との発言部分がとりあげられ物議をかもしたり。災害や病気がその人におこると、その人を慰め励ますどころか、過去の罪のせいだとか、前世や先祖がしたことだから、つぼを買え、お祓いが必要と大金を要求する宗教もあります。どこの国でも因果応報的な考えは無意識に浸透しており、それに付け込んで利得をむさぼったり、責めたりする恐ろしい人たちもいるのは悲しい事実です。
今日の箇所は、紀元前の中近東(ウヅ)にヨブという全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった人がいて、とても裕福で家族にも恵まれていたのですが、(詳細は今回省略)ある日、いっぺんに子供たち全員と家畜とすべて財産を災害で失い、また本人が全身皮膚病になりました。その直後のヨブの言葉です。その災害と苦悩があまりにひどく、唯一残された妻にまで、”神をのろって死になさい”といわれたり、友人たちには”何か悪いことをしたからそういうことが降りかかったんだ”と責められたり。その後紆余曲折、苦悩、神様への叫びを通して、最終的に彼は神様から答えを頂き、神を信頼しようやく平安を得、また神様が新たに子供と財産を与えて下さったというストーリです。ポイントは、ヨブは神様を信じ、正しい人だったのにものすごい災難・病気が襲ったのです。
災害や病気がなぜ起こるのか?神の存在を普段信じていない人でさえ、”神がいるならなぜこのことがおこるのか?”と問う方もいるかもしれません。答えはわかりません。善人にも悪人にも太陽が昇り雨が降るように、誰にでも悲しいことは起こります。ただ私がわかることは、どのような状況にあっても神様は良い方、信頼できる方、私たちを愛してることは変わらないということです。そのことがいろんな形で聖書を通して書かれています。目に見えない神様は他者を通して助けと希望と励ましを与えてくださったり、聖書のことばから直接心に響く答えを与えてくださる方だと経験からもわかります。今は、家族を失った方々の悲しみをともに悲しみ、また生き残った人々の物理的救済・回復が与えれられ、また何よりも、私たち人間のために命を十字架で捨ててくれるほど愛してくれたイエス・キリストにある希望と力が与えられるよう日々祈りたいと思います。 |
3/13/11 |
”家族は大丈夫?と案じてくれるアメリカ人”
「神はそのひとり子(イエス・キリスト)を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネによる福音書3章16節 ()は追記
地震の報道から一夜明け土曜日職場へ行くと、来る患者さん皆が「日本のご家族は大丈夫?」と、ニュースを見て衝撃を受けたアメリカ人が私に聞いてくれた。今回の地震と津波、そして原子力発電の問題も合わせて、アメリカ、いや全世界の人がショックを受けている。海外にいて何もできない私は、金曜日ちょうど休みだったので、家で愕然としてネットでNHKニュースを見ていた。CNNも一日中、同じ被害の映像を流していたとのこと。
前回、”2012年”という、やはり地球が地殻変動で海に沈んでしまうという映画をみたことをかいたが、あれは映画としてフィクションだから見られる映像だが、現実としてあの津波に町が飲み込まれる映像は受け取り難い。それも自分の国。あらためて、このところ続く地震、災害より、地球にも耐久年数があり、永遠には続かないんだと。それが、またこれだけ科学技術が発達していても、事前に予測することもできず、(予測できたらみな避難可能)、いつおこるさえも、誰も予測がつけない。
聖書には、人が住んでいるこの天体はいつか滅びると、またそれがいつか誰もしらない、天の神様だけが知っているとイエス・キリストを通してあらかじめ予言されています。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。」(マルコによる福音書13章30-31節)しかし神様は脅しのように、”滅びるから神を信じろ”とだけいっているのでしょうか?それだったら、わざわざイエス・キリストをこの世に人として生まれさせて、十字架刑にかけて人類の罪の罰の身代わりに死なせる必要はないと思います。恐れで人はある程度従えますが、恐れで支配される関係・国は続かないのは、恐怖政治・全体主義の国家がどうだったか見れば自明のこと。
人とこの天地を創られた神様は、天地には終わりがあっても、人には永遠に天国で神様と生きてほしいと願っています。それは親が子を愛するように、愛が動機であって、恐れで支配するためではないのです。神様の願いは何千年前から変わらず、一人でも多くの人がキリストを通して神様を信じて、永遠に滅びないでほしいと。今日のイエス様の言葉は決して滅びることなく、そのとおりになると信じつつ、今回の震災にて亡くなられた多くの方々への哀悼と、すみやかな救済と回復を引き続き祈っています。 |
3/11/11 |
”日本のための祈り”
朝おきてネットをみて、愕然!日本時間3月11日におきた巨大地震、海外にいる私は、NHKのインターネット放送にてニュースを断続的ですがみていて、こんなことが日本におこっているとは。。。信じられず、涙がでて、途方にくれてしまいました。。
東京にいる家族に電話しようとしても携帯は通じず、妹の固定電話に電話してようやく安全を確認でき、安心しました。妹の夫は昨晩夕がた4時に電話があってから連絡不通であるが、一晩をどこかで明かしているとのこと。東京は震源地から離れていて被害がまだ少ないほうですが、震源地に近く、直撃にあっている人々の苦しみを思うと胸が痛みます。
アメリカにいて何もできない私は、途方にくれいてると、ハウスメートの一人が「一緒に祈ろう!」と声をかけてくれて、日本のために祈りました。
災害で命を亡くされた方、そのご家族、いまだに救済を待っている方、家を失ったかたの肉体的・物理的・精神的な助けと希望がすみやかに与えられるよう、祈り続けようと思います。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロの手紙5章7節)
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3/9/11 |
”新約でよかった〜”
「もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう。」申命記6章25節
聖書は前半の旧約聖書と後半の新約聖書の二つの部分から構成され、あわせて聖書ですが、昔私は古い訳と新しい訳の意味かな?くらいにしか思っていませんでした。後になって、神様と人との約束(契約)の新旧であると学び、それも両方あわせて神様の全体の計画(Whole
counsel of
God)と学びました。そして旧約の神様を怖い方、新約の神様はイエス様を含めてやさしい、愛の神という勝手なイメージがありましたが、聖書を読み、牧師から学んでいくとだんだん同じ神様であり、一貫しているというのを徐々に知り始めました。
今日の箇所は旧約の部分で、判りやすく言えば旧約は”神様の与えられた命令(おきて、律法)を守るならば、正しいとされる、祝福される”という契約です。それに対して、新約では”イエス・キリストを信じる信仰で義とされる(神様の前に正しくなくても、ただしいとみなしてもらえる)”というのが契約です。そして、旧約の戒めは決して廃棄されるわけでなく、キリストが来られるまでのいわば養育係り的役割があって*、人がいかに自分の力や意思では神様の基準の戒めを守ることができない、また罪とは何か?を示すため必要だったと説明されています。
どちらがよいでしょうか?@古い契約のもとで、自分の人生、自分の力と意思で、正しいと思うことを追求し全うするか A不完全な状態でもキリストを信じて正しいとみなされ、徐々に神様の力で内側が変えられていくことを期待するか 神様がいるかいないかは丁か半か、Yes
or
Noで中間はありません。そして人間が作り出す神々は人間の頭の中の想像範囲にすぎず”被造物”ですが、無から有を創り出せる本当の神は、人を愛する存在として創られ、親が子を教育・訓練するように完全な愛を持って今もこれからも私たちをケアしてくださり、”天のお父さんとして信頼してほしい”と招いてくださる方です。旧約のままで終わらず新訳でよかったと、ほっとします。
*「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって神の子なのである。」(ガラテヤ人への手紙3章24-27節)
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3/7/11 |
”俺の中のランボーが登場”
「人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。 」ヤコブの手紙1章19節
病院や歯医者で何時間も待たされたことがありますか?予約しても、予約の時間から1時間以上待たされると予約の意味があるのか?と特に具合が悪く早くみてもらいたい患者さんにとってはいらいらします。病院側からすると、一人一人の患者さんにかかる時間が、予想以上のかかる場合があるので、するとどんどん時間がづれていくわけです。時々職場で、待たされて怒っている患者さんから、アシスタントである私は当たられます。ドクターにはみな当たれないんです。そこで、病院へ行くときは必ず本やMP3プレイヤーを持っていくことにします。そうすると1時間くらいは時間があっという間にすぎるし、普段時間がなくて読めない本や音声を聞くことができるので、待ち時間を有効に使うことで、いらいらして怒らないように工夫をしようと思っています。こういう工夫で待たされてもいらいらしないことはある程度は可能なわけです。もちろん待たされる程度の差はありますが。。。
よく「人は耳が二つで口がひとつ、だから2倍の時間をかけて人の話を聞き、自分の口は2分の一のペースで話すように」といわれますが、日々やろうとして(特に仕事上で)なかなか難しいものです。今日の箇所は続いての「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」(20節)という文脈で、キリストの弟子ヤコブが書いてます。どんなとき怒るのかというのは、人それぞれ怒りの沸点や、何に気が障るのかも異なります。だから、怒るべきしての怒りかどうかが相対的になりがちで、神様の基準での正しい怒りを持つのは難しいと思います。ある牧師がラジオでこう話していました、「正しい怒りっていうのはある。例えば、自分の孫が虐待されているのを見たら、俺の中のランボー(シルベスター・スタローン主演映画)が登場する、怒るし穏やかじゃないよ。」と。聖書には悪には一切関わるなと。悪を司っている悪魔にも。一方で、人がした悪に対しては復讐は神様に任せなさい、相手を赦しなさいとも聖書には書いてあります。「罪を憎んで人を憎まず」:中国の孔叢子(くぞうし)刑論篇の言葉もあります。いずれにしても、やった相手には感情をぶつけるのが人間、赦せないでしょうし、だからイエス様が私には必要です。
イエス様は、普段はやさしいけれど、人々が神様に近づこうとするのを邪魔する当時の宗教家たちやシステムには怒られていたことが書いてあります。神様の基準での正しい怒りは、やはり聖書を読んで学んでいき、祈ってどう対処していくかを導いてもらう必要があり、そうでないと私の場合は感情で突っ走ってしまいあまりいい展開になりません。ですからなるべく自分の傾向性を事前に自覚し、とにかく怒るのに遅くしておけば、後で自分の中の怒り・苦い思いを神様に持っていき取り扱ってもらいたいと願います。しかし怒るべきときはランボー登場?! |
3/6/11 |
”ライオンがシマ馬をがぶっと食べる光景”
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」詩篇19章1-2節
本日の日曜礼拝は、イベントがありお子さん連れのご家族もたくさん来て下さり、いつもは4−5人の日曜学校(子供向け礼拝)が、今日はなんと13人、ほとんどが未就学児で赤ちゃんとそのお父さんたちもいてとても賑やかでした。今日は、子供向けに作られた”天地創造”:自然と人はどのように神様が創られたかという短いプレゼンをYou-Tubeを使って説明しました。最初に子供に”どのように、みんなは生まれてきたの?」と聞くと、一人の子が「お母さんから!」、「ではお母さんは?」、「おばあちゃんから!」、「そしてその先の先は〜?」と聞くと、「神様が創った!」と答えが帰ってきました。
私は大人になって色々知識がつき、知識がつけばつくほど、宇宙が偶然の爆発でできるとか、この精巧な人の体がアメーバから進化して自然にできたというのが、逆に科学的にも、確率的にもそんな偶然がおきるのは信じがたいと思うようになりました。何か超自然的なパワーで、それも精密な計画性をもって創られない限り、無から有を作れない、つまり神様という存在を認めざるを得ないのと。一方で、今日の箇所のように大空・宇宙の☆をみて、神様はこんな銀河系を創ったんだ〜と自然をみて、すばらしい!と感動しますが、それらだけでは神様をなかなか個人的な、身近な親しい間柄には思えません。例えばライオンがガブッとシマウマを食べているのを見て残酷、逆に自然の厳しさを思いますし、その光景から”神は愛だ”とは思わないでしょう。(もちろん、食物連鎖でそれぞれが食べ物としてつながっているのはすごいと思いますが)
聖書では、神様の愛は、キリスト(神様の子)を通してわかると書かれています。つまり、神様は人を愛する為に創られましたが、人をロボットのようにすべて命令を聞く存在になぜか創らなかったから、人が自分の意思でやりたいようにするのも許されたため、神様の存在すら信じない、自分本位に生きる人間となっていきました。これを聖書では罪といいます。その罪を赦し、また最初に人を創られた時の神様との信頼関係、愛の関係に戻すため、2千年前キリストを人として生まれさせ、3年半人間のレベルに降りてきて、神様のことを言葉で伝え、弟子を訓練し、人々を愛し(病気を治したり、奇跡をたくさんされ)、そして最終的に十字架で身代わりに死なせたのです。
神様なしの生活・人生が空しく、神様を求めるようになった時、私の深い魂の部分に神様の霊(聖霊)が触れて、クリックし、この神様の愛がわかったのです。私を救う為に、死んだら終わりではなく、魂が滅びないよう、キリストが代りに死んでくれたという犠牲を通して、神様はそこまでして人を愛しているのかと。だからその愛に応答しようと、私もある時思いました。こんな自分が信じれたのは奇跡だと思いますし、二千年前も、今も多くの人にイエス様は奇跡をおこしてくれると期待しています。
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3/5/11 |
”日本人を避けようとした留学生活”
「イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。」マルコによる福音書10章29-30節
私がアメリカで学生をしていたとき、インディアナ市というペンシルバニア州の小さい町を選んだ理由は、”ここなら日本人がいないだろう、きっと英語づけになって英語がうまくなる!”と思ったからでした。しかしながら、笑えることには空港から初めてそのキャンパスについて歩いていたとたんに、声をかけられたのが日本人でクリスチャンの学生でした。その学生と友人を通して、彼らが通うアメリカ人の教会に行きだし、そしてもちろん英語はうまくなりませんでしたが、しかしもっと大切なクリスチャンの同胞と信仰を与えられ、私にとって非常に大変だった留学生活が神様の助けによって支えられたものです。
その教会で私は信仰が与えられ、今までの自分本位の生活を悔い改め、その一環で親に逆らってきたことを悪いと思い手紙を書いて謝り、また今とても神様を信じて生活が祝福されていることを知らせました。すると、父親がその手紙でびっくりして”陽子がカルトに入った!”と、外国で様子もわからず、急にまじめになった私に脅威を感じ心配したのです。その後、学校の卒業式に母親が日本から来てくれて、その教会の牧師や教会のメンバーで私のホストファミリーとなってくれた家族等を紹介したとき、クリスチャンの母は英語がわからなくてもその教会の礼拝の雰囲気や教会の人たちの暖かいもてなしを受けて、非常に安心し帰国してったものです。
キリスト信じる信仰を持つと、時に家族の反対を受けます。アフリカのある国では命を狙われるほど迫害されます。日本は文化的にも仏教・神道ベースなので、キリスト教を信じるとなると家族との関係はどうなるのだろう?と思うかたも多いでしょう。しかし、信仰は個人の問題で、その人と神様との個人的信頼関係です。家族はもちろん家族として大切ですが、一方で家族が私の魂の、心の深いところのケアや死んだ後のことの責任をおってくれませんし、助けることができないのも事実です。
今日の箇所の意味は、何もそれこそカルト集団のように、すべて捨てて家族とも断絶して教祖に従うという文脈ではありません。なぜなら、イエス様は”互いに愛し合いなさい、平和に過ごしなさい”、反対してくる人に敵対するなと教えられましたし、”父と母を敬え”は大切な聖書の教えで守るべきことだからです。この意味はどんな環境におかれていても、キリストを信じる信仰は自分のなかで譲らない信条として固く持ち続けることを言われていると思います。
家族はどうなるんだろう?他人はどう思う?という心配よりも、まずは自分自身が神を求めたいという、すがりたいという思いがあれば、求めることをお勧めします。そして自分が納得して信じた後、神様に家族のことを祈ればいいことです。残念ながら、キリストを信じて、神様に従って生活しようとすると必ず反対勢力はやってきます。私もあいかわらず”日本に帰ってキャリア・資格をつめ、それがお前にとっていいことなんだ、アメリカでそんな生活をしているのは人生無駄だ、そんな生活を続けるお前は頭がくるくるぱーだ”などとしつこく反対勢力は言ってきます(笑)。自身が人に迷惑をかけず自立して生活し、神様の前に平安であれば、人から頭がくるくるぱーといわれても、私はかまいません。反対勢力には平和的に無抵抗・無言で戦い、自身の信条は貫きたいと思うこの頃です。 |
3/4/11 |
”ひな祭りの由来”
「主はまたモーセに言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『もし人があやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをした時は次のようにしなければならない。…彼はその犯した罪のために雄の全き子牛を罪祭として主にささげなければならない。」レビ記4章2-3節
3月3日ひな祭りの日、お友達の家で子供のためのひな祭りパーティがあり、私も参加。その方の家には日本からご家族(祖父母)がアメリカに住む孫のために送られた雛人形が飾られていて、集まった子供たちはその周りで楽しく遊んび、横で大人達もおしゃべりしながら、ひな祭りのごちそう・ケーキをいただき楽しいひと時を過ごせました。
ひなまつりの由来を調べてみると、中国で昔3月3日に水辺にて身を清め、穢れ(けがれ)を祓う(はらう)習慣が日本にも伝わり(桃花節)→水辺の行事‘巳の日祓い)となり、これが平安時代の貴族の間での子供の『ひいなあそび』の習慣と一緒になり、次第に江戸時代には民間人へひな祭りとして定着。女の人のいろいろな穢れ・災いの身代わりになる大切の物として人の世のしあわせを願って雛祭りの行事となっていったそうです。
日本だけでなく、他国でも申し合わせたわけでもないのに、人は古代から自身のけがれや病気、災いを誰かに”身代わり”としてしょわせるという風習があるようです。潜在意識の中に人間はそういう自分達の中では処理できないものを人形に追わせたり、恐ろしい場合は、彼らの太陽の神へ人を犠牲にささげた文化が南米や古代パレスチナ地域(カナン人)でもありました。イエス・キリストが来られる前の古代ユダヤ人では、人の過ち・罪のために、動物の犠牲が神殿で捧げられていました。
キリストはまさに、全世界の人の背負いきれない罪に対する罰、呪い、災い、苦しみを十字架刑で身代りにしょってくれるために、2千年前に神であるのに人となって生まれてきてくれたと、聖書に書いてあります。それは、私たちがそのおかげで、素のままでは罪で穢れていて神様の前に立てないものであるのに関わらず、キリストを通して、正しくないのに正しいと見なしてくれ、清いとみなされて、神様との関係が回復される、そして天国へいけるためです。もはや動物の犠牲は必要がないのです。
現代は科学技術が進み、文明が進化して古代の人のように原始的なことをもはやしませんが、よく観察してみると、心の深い部分の自分の中で処理できないことをきれいに合法的に形を変えて無意識に何かに負わせている、つまり雛人形と同様の事をしている場合があります。何かの災難や穢れや負い目を清めるために、自分を罰したり(例えばリストカットは心理学的にもその行為の表れといわれます)、もしくは他者(それが家族だったりもする)を罰したり、人を責めたりすることで償う。そんなことをしなくても、イエス・キリストが全て負ってくれている、そこまで私たちを愛してくれいてうことをしんぷるに信じればいい、というのが福音:ゴスペルです。その良い知らせを一人でも多くの方にわかちあえればと願います。 |
3/2/11 |
”パンがない”
「弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。…弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。」マルコによる福音書8章14-16節
15-6年前、日本では米不足で価格は高騰、いつものようにお米が流通されず、タイ米が輸入されたことがありました。私は当時カリフォルニアで学生だったので、日本へ一時帰国した際アメリカ産の日本米を一袋お土産に持って帰ったとき、両親はとっても喜びました。日本人にとってはそれほどお米が主食で、欠かせないもの。しかし、昨年NHKの番組によると最近はお米が以前のように売れないと、そこでお米の粉を用いたスイーツも売り出されたり色々農家の方々も工夫をこらしている様子です。他国では主食はパンのところが多いようです。ちなみに私はパンがあれば幸せ派。
ユダヤ人の間でもパンが主食。2千年前、群集がイエス様の話しを聞きに集まったとき、コンビニがない味代でしたので、夢中になって聞いていたのはいいもの、町から遠く人々が食料の確保ができない状態でした。そこでイエス様は群集を気の毒に思い、手元にあった5つのパンと2匹の魚を奇跡で増やして、5千人に給食。また数週間後に、今度は7つのパンで4千人のパンを給食するという奇跡をおこされたと記録されています。
人は奇跡とか、何かのしるしを見ただけでは神様を信じないことが、聖書を読んでいるとわかります。現代もそうで、一時的には感動しますが、すぐ忘れてしまうのです。このとき、弟子たちはづっとイエス様と行動をともにし、数多くの奇跡(病気が癒されたり、悪霊に疲れた人が解放されたり、パンが増えたり)を目の当たりにしていても、この後みなで船に乗って出かけたとき、パンを持ってくるのを忘れ互いに責めあいました。もし私がその場にいたら「なんで、さっき12のかごにパンがあまってたのに、それをもってこないんだよ」と他者を責めていたでしょう。 奇跡によって癒される病気や日々の食事のことは、所詮一時的で、だから忘れてしまうのです。しかしイエス様はこの奇跡を通しても弟子たちに、そして現代に生きる私たちにも悟ってほしいことがあるのです。それは一言でいうと、神様との信頼関係です。その信頼関係は、イエス・キリストが私たちを罪から救い、天の神様との関係の回復をもたらす救い主であること、そしてそれが永遠の命につながる真理であることを心の深い部分(霊)で”知る”ことで与えられます。すると、パン(米)はイエス様がきっと備えてくれると安心できて、責め合う必要がないのです。他のことも心配も、先が見えなくてもなんとかなるという、キリストにおける楽観主義が与えられるのは感謝です |
3/1/11 |
”「もう、なんなのよお〜〜〜!」と切れるとき”
「わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、夜、み前に叫び求めます。わたしの祈をみ前にいたらせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。」詩篇88編1-2節
私は胃が弱く体力がないので、月に2−3回は調子が悪くなり寝込みます。12時間くらい寝るとなんとか回復しますが、皮肉なことにいつも食欲はすごくあるのです。また、夜遅くまで外出している日が続くと、おかしくなります。昨晩もパーティに行き、楽しいときを過ごせたのですが、前日の残業の疲れと食べすぎたのが悪かったのか痛い目にあい、早めに失礼してもう必死に運転して帰ってきて、吐いてベッドに転がり込みました。なんとか月曜から普通に仕事へいけたのは感謝です。
体調が悪くなるととたんに、比例して心も落ち込みます。そんな時に限って、職場で嫌な目にあったり、車のバンパーが割れて壊れていたりと、悪いことというのは対外立て続けに起こるものです。帰宅途中の走行中さらに道路の大きな穴にどか〜んとはまり、いらいらが爆発、車のなかで「もう、なんなのよお〜〜〜!」と叫んでしまいました。なんとも情けない。
今日の詩篇の箇所は、とてもつらい感じの、そしてなかなかその暗闇から抜け出せず、著者はそのまま神様への叫び、祈りを聞いてください!と求めている箇所です。映画のようにすぐにハッピーエンドで、大きな変化があればいいのですが、現実の人生・生活は、そんなにインスタントに状況が変わらないことが多いものです。私も長年祈っていることがありますが、それは11年たっても状況は変わらず、祈るのをあきらめようかと思うことも何度もあります。この詩篇を読んで、私もいらいらと情けなさ、自分の心の暗さをそのまま、神様に訴えました。こんなみじめな情けない私のために、キリストが死んでくれたんだなと思うと、申し訳ないです。
そんな時、今日、メイルで友人から、”彼女の祈りが聞かれて、状況がよくなっている”という喜びの報告を受け非常に励まされました。その件について私も彼女のためにづっと祈っていたからです。色々うまくいかず、いやなことが続くときにこそ、神様が良い方であることに目を向けるときだなと思わされ、とにかく、自分の思うとおりに祈りが聞かれなかったとしても、神様が誠実で私のことをケアしてくださる方であることを思い出し、少し気持ちが前向きになれ感謝です。
Praise the Lord! |